A Testatrix of WisteriaA Testatrix of Wisteria
私が生まれたのは、この国のなかで長く続いた内戦のようなものが終わって、一年もたたないころだったという。なにもかもが伝聞形式なのは、周りの大人たちは誰も詳しく教えてくれなかったからだ。
歴史の授業でも言及しているのはせいぜい教科書の数行程度で、内容すらぼかしにぼかされていた。学校の小テストから大学受験まで、テストの範囲に含まれたことはなかったし、授業でも義理的に触れるだけだ。先生たちも、たぶんどう教えるべきか迷っていたんだと思う。
多感なころの同級生たちは、それについてなにかと詮索したがった。国の根幹を揺るがすレベルの戦争だったと噂が流れているのに、どうして、と。私はただ、そんな様子を教室の端から見るだけで、みんなはそんな私を、あの子はちょっと変わっているからと少しだけ壁を作っていたと思う。仲間外れとかそういったものではなく、薄く、透明な壁。
私は、いわゆる『私生児』である。
それについてはいろいろあったけれど、あまり卑屈に思ったことはない。そういうふうに生まれてしまった時点で、もうどうしようもないことだ。
家族は母だけで、親戚なんて存在すら知らない。私が大人になるまで、ずっと母と娘だけで暮らしていた。
ついでに言えば、母がなにかしらの仕事をしているところを、私はついぞ見たことがない。小学校のころ、宿題で『お父さんやお母さんの仕事』について作文を出されたときに聞いてみたところ、「ずーっと働いていたから、もう休んで大丈夫って言われてるの」とだけしか教えてくれなかったことを覚えている。
それでも、不思議と一度も生活に不自由をしたことはない。私がやりたいことがあればなんだってさせてもらえたし、大学までなにも気にせず進学できた。片親だからといろいろ詮索もされたが、ちゃんと愛されて育った自覚はある。
幼いころから、自分の母を変な人だと思ったことはない。彼女はごく普通の――どこか老成していて、ときおり、少しだけ寂しそうな顔をしてはいたけれど――女性だった。唯一不思議だったのは、半年に一度くらい、スーツを来た大人が母を訪ねてくることくらいだ。このときばかりは、私は絶対に部屋に入ることを許してもらえなかった。
しかし、ひとつだけ、母には少し変わった趣味があった。幼いころからそれにつき合わされ、私もこの国のあちこちを廻ったものだった。
その趣味とは、美術館や博物館を巡ること。しかも、決まって日本刀の展示がある場所だった。
日本刀を見て回る母娘という構図が、かなり珍しいものだと知ったのは、小学校の高学年に入ってからだった。毎年冬に訪ねる博物館の話を私から聞いたクラスメートは、ただ一言、「女の人なのに、刀なの?」と首を傾げていた。
だって、私にとっては見慣れた光景だったのだ。どこの展示に行っても、私たちのような親子連れは必ずいた。
私の母と同じように、少しもの悲しい顔で刀を見つめる女性と、私と同じように、光に透かすと不思議な色を浮かび上がらせる髪の子供たち……私は濃いミルクティーのような茶髪、ある子は真っ青な空の色に、ある子は鮮やかな桃色、ほかにも、オレンジに銀髪、深い青に金色、緑に赤、紫と、そのバリエーションは挙げていけばきりがない。普通にしていれば黒い髪は、光に透かすとその色を浮かび上がらせるのだ。
その子供たちは、年齢の差も幅広かった。自分と同じくらいから、ずっと大人の高校生くらいまで。連絡先の交換まではいかなくても、軽い世間話をすることだってあった。ただ、なぜかどこに行っても私が最年少なことだけは、今でも変わらない。
あの二人と出会ったのは、毎年恒例になっていた、冬の博物館でのことだった。
西の街の海辺に建つ、大きな博物館に来るのは、覚えている限りではもう三度目。母によると私が生まれてからは毎年欠かさずと聞いているから、正確には六度目だろうか。大きな入り口をくぐると、二階へ続く階段で立ち話をしていた女性が二人、私の母に声をかけた。彼女たちの子供らしい、私よりも年長の子供二人が、少し離れた場所で手持ちぶさたにたたずんでいたことを覚えている。そのまま私たちは、いつもの二階へと向かったのだ。
そして彼らの母親たちと私の母は、どこか懐かしそうに展示室で話し込み、退屈する私の話し相手は、初対面の年長者二人に託されたのである。
「ねえ、いまいくつ?」
外のロビーのソファで、背を屈めてそう私に聞いたのは、緩く癖の付いた黒髪の、ひょろひょろと手足の長い女の子だった。
「えっとね、ろくさい。もうすぐいちねんせい」
「わあ、わたしのほうがお姉ちゃんだ! わたしね、四年生」
「……え、小学生?」
「そうだよ? 学年で一番おっきいの! 男子たちよりもずーっと!」
「あー……そっか、なるほど」
俺と同じくらいかと思ったと、お兄さんがどこか納得したようにうなずく。ついさっき、彼の母親に対して話していたぶっきらぼうな口調とは別人のようだった。
うっすら記憶に残るその少年は、今思えば不思議なほどに私と顔が似通っていた。ライトに透ける、短く刈り上げた髪。その色は、私とそっくり同じ、あの濃いミルクティーのような色だ。大人びた目鼻立ちは、すっときれいに整っていた。思い起こしてみれば、十代の少年特有の幼い風貌も兼ね備えていたが、あのころの私には、初対面のはずなのに頼りになる兄のように見えたのだ。
彼は今、中学の三年生だという。二人とも家はこの街ではなく、今その地名を思い出してみれば私と同じくらいか、それ以上の遠方からだった。
「あそびにきたの?」
「いや、父親に会いに……そう言っていいかはわかんないけど」
「あ、わたしも。パパに会いに行こうってママがね、毎年」
ベンチに座って脚をぶらぶらと揺らしながら、私を挟んで座る二人の会話を頭上に聞く。年下扱いに抵抗があるお年頃としては置いてけぼりにされるのがなんだか嫌で、私はとっさに覚えたばかりの言葉を口にしていた。
「おとうさん、はくぶつかんのひとなの? がくげーいん、さん? たんしんふにん?」
単身赴任という言葉は、幼稚園の友達から聞いて知っていた。学芸員という仕事にもそれがあるのか、そう思って首を傾げた私を見て、二人は何かを察したように顔を見合わせた。
「……ごめん、言っちゃいけないこと言ったみたいだ。君のお母さんには、内緒だからね」
むすっとした私の頭をなだめるように撫でるお姉さんと、飴一つで買収にかかるお兄さんと。彼女が持っていたどらやきを三人で分け合うころには、私の機嫌もけろりと直っていた。
「でもそっちはさ、別にいつでもいいんじゃないの? むしろこっち住めばいいのに」
「んーん、ママがね、いつでも会えるって思うと、逆に寂しくなっちゃうんだって。だから、一月にだけ来るの。おじさんもいるし、ちょうどいいって」
それからの二人は、会話が少しぎこちないように見えた。今思えば、「どこまでなら大丈夫か」を探りながら話していたんだろう。
「俺たぶん、しばらく来れないしなー。春から寮だし」
「そうか、中三だものね。遠くの高校?」
「え、おかあさんとはなれちゃうの? どうして?」
「中学にもなるといろいろあるんだよ、いろいろ」
君たちは知らなくてもいいのと言った彼の目は、少しだけ遠くを見ていたような気がした。
それが、小学校入学前の冬のこと。おぼろげな幼いころの記憶の中で、あの日だけはしっかりと覚えている。
国で一番大きな博物館のほぼ正面に位置する噴水からは、水遊びをする子供たちの歓声が聞こえてくる。母と連れだってそぞろ歩いていたはずが、屋台に気を取られ、気が付けば私一人だけになっていた。
こういうときは、人混みを離れて分かりやすい場所にいたほうがいい。木に寄りかかって、今ごろあわてているであろう彼女の姿を探す。
これから博物館に行く予定だが、その後はどうするんだろう。もうすぐ六年生になるというのに迷子になるなんて、いつものお店であんみつはなしだろうか。風に揺れる木漏れ日が髪に反射して、馴染みの色をきらめかせた。
ふいに感じた誰かの気配と鼻を突く臭気に、私はぎょっとして逃げだそうとして――そして、失敗した。
あまりの恐怖に、悲鳴すら出てこなかった。
血走った目と酒臭い息。見知らぬ男の汚い手が、今朝母にきれいに結ってもらった髪を、力任せに掴み上げる。
「そうだ、この色だ。あの親不孝者が、親をなんだと思って……」
オカルト脳の政府、うん十年も返さずに行き遅れさせて、傷物に、化け物とガキなんか、お荷物ばっか生き残って、誰の税金で食わせてやってると。
ぎりぎりと手に力が増した男の口からは、そんな意味の分からない、ぶつぶつと断片的な言葉が聞こえてきたことを覚えている。掴まれていないはずの喉がきゅっと絞まるような心地がして、息が自然と浅くなった。
お母さん、どこにいるの。必死に首を振ると、掴まれた髪の毛がぶちぶちと抜けて痛みが走る。お気に入りの髪ゴム飾りが、男の手の中でみしりと嫌な音を立てた。
「そこまで!」
そのときだった。鋭い声とともに、痛てぇという男の叫びが聞こえる。伸ばされた手が、男の手首を捻り潰さんばかりに掴んだのだ。髪の毛が解放され、バランスを崩した私はたたらを踏んでよろめいた。
「大丈夫?」
私を抱き留めた女性は、静かな声でそう言った。白銀に光る髪の下で、獣のように細めた瞳は静かな炎を湛えている。背中を優しく撫でられて、ようやく安心した瞬間、全身の奥から震えが押し寄せてきた。
「見苦しいですよ、いい年した大人が。関係ない子供に八つ当たりなんて」
聞こえてきた静かな男性の声に、私はそっと周囲を見回した。私のそばの女性の他にそこにいたのは三人。スマホを片手に今声を発したその人は、まるで芸術作品のような美しさと冷徹さを兼ね備えた表情で男を見つめていた。
「う、るさい。化け物モドキが! こっちはだな、娘を盗られて――」
「盗られた? 見放されたの間違いだろ、どうせ」
もう一人のお兄さんが、私を守るように立ちふさがる。不良のような彼の長髪が日に透けて、鈍く金色に光った。
「なにがあったかは知らないけどね。少なくとも、あんたは縁を切られる程度の親にしかなれなかった、それだけのことでしょ」
男の腕を捻り上げ、ふん、と鼻を鳴らしたお姉さんが首を振ると、切りそろえた髪がルビーのように赤く光る。相変わらずスマホを持ったままの男性は、冷たい視線で男を見下ろし、私の頭を優しく撫でた。
「ああ、写真も録音も抜かりなくやってますから。公共の場所でオッサンが女の子に暴力沙汰とか、もうちょっと自分がどう見られてるか自覚したほうがいいですよ」
「おーっと、逃げない逃げない」
その言葉を聞いて、渾身の力でお姉さんをふりほどこうとした男の首を、長髪のお兄さんが力強く押さえ込んだ。
こっちです、という声と一緒にお巡りさんを先導するのは、薄いピンク色を風になびかせる私よりも少し年上らしい女の子だった。反対側からは、短い髪の青年が母の腕を掴んで息急ききって走ってくるのが見える。
「ごめんね、ごめん。怖かったね」
なにがあったのかは、青年から聞いていたのだろう。迷子になった娘を叱ることなく、母はただ私を抱きしめ、助けてくれた彼女たちに泣きながら頭を下げていた。
「よく見つけたね、お母さん」
「うん。迷子探してる女の人捕まえて、キンジの名前聞いてみたら一発だった」
声を上げて泣き出した私の耳に、そんな会話だけがぼんやりと飛び込んでくる。警察官に事情を聞かれる男の口から何かが飛び出る前に、母の手は私の耳をすっぽりと覆っていた。
みんな私に何かを隠している。それが具体的に何かはわからなくても、幼いころからそれだけはよく知っていた。そして、それが私を守るためであることも。
「何段あるの、これ……」
修学旅行の自由行動の日、戦国時代好きのグループメンバーたっての希望でコースに組んだ神社の入り口には、めまいがするほど急勾配な石段が待ちかまえていた。私が膝に手を付いて息を整えているのは、その終盤……の、はずだ。
グループの級友たちには気遣われたが、少し休んでから追いかけると伝えると、彼女たちは心配しつつもずんずんと先に登っていってしまった。同じ中学生でも、どうしてここまで体力の差があるんだろう。
実を言えば、この神社に来るのは初めてじゃない。むしろ母と京都に来るときは、ここを含めていくつかの神社やお寺にお参りすることが毎回暗黙の了解だ。
それでもこちら側から登るのは、ほぼ初めてだ。石段ではなく緩い分長い坂を登るのがいつものことだったが、たぶん母も、知っていてこのルートを取っていなかったんだろう。母娘そろって、体力は万年不足気味だ。
さて、そろそろ残りを上ろうか。尻込みする脚を叱咤して、一歩を踏み出そうとした、そのときだった。
「――あれのにしては、なんとも。そこは母譲りなんでしょうかね」
しとやかな響きの声は、まるで学校行事で見に行った歌舞伎の女形を思わせる。突然耳に飛び込んできたそれに驚き、周囲を見回しても、人影は一切見あたらない。狐につままれたような顔の私に、その声は少し笑ってからかうようにささやいた。
「ほら、頑張って。置いて行かれても知りませんよ」
ざあっと吹いた風には、上品なお香のような匂いがほのかに混ざっていた。かすかに見えた桃色の影は、二度見する前に視界の端から消える。続いて吹いた追い風に、私は背中を軽く押されるように残りの階段へと脚を踏み出した。
「お、その調子だ。まあ気張れや」
エコーのかかったように聞こえる低い声からは、まるで私と変わらない、少年が笑うような響きがした。
はい、点呼したらスタッフT着てね。班のチーフは、人数分をこっちに取りに来てください。ほら、ダラダラしてないで走る! そっち遅刻者着いた? 電車遅れたとか知らないよ、困るんだよね、ホントに。
単発のアルバイトでやってきたライブの案内現場は、端的に言って地獄絵図だった。バイトスタッフの取りまとめ会社の人は、炎天下で集まる大人数を相手に殺気立って怒鳴り散らしている。
友達紹介キャンペーンに釣られた大学の友人は、惨状にどこか申し訳なさそうだ。こんな現場ばかりじゃないからとも言われたが、やっぱり私は今回限りにさせてもらおう。
その名の通り、国技のために建てられた場所も、今日の観客の平均年齢はいつもよりもぐっと低い。きらきらしいアイドルのイメージカラーに身を包んだ女の子たちが、グッズ販売の列へと掃除機のように吸い込まれていく。技術が進んで大昔よりは混雑も緩和されたと聞くが、私たちのようなアナログ人海戦術もこういう場所ではどうしても必要になってくる。コンビニすらも機械化が進んでいる今となっては、学生のバイト先は今やこの手の現場が主流だ。
友人は今日のバイト代で、ここでやる別のライブに行くそうだ。なんというマッチポンプと視線を逸らすと目に入るのは、木の台の横に立って宙を見据える男性の古写真のポスターだった。
「龍馬展?」
「うん、今度行くの」
会場のすぐ隣には、見ていて少し不安になるような構造の建物がそびえ立つ。今は幕末の偉人についての展覧会が開催されていて、展示される刀を目当てに、来週母と約束をしているのだ。一緒に出かけるのは、いつぶりだっただろう。
大学に入ってから、授業や課題の合間に少しバイトをするようになった。忙しくなるにつれて、二人で出歩く機会はぐっと減っている。
それでも必ず、年始のあの博物館と、この刀の展示だけは、母は二人で行きたがる。たぶん、彼女にとっては特別な二振りなんだろう。
「しかし今日暑くない? 日差し強すぎ」
「髪、大丈夫かな……」
「大丈夫だって、登録会でも言われたっしょ。言われたら屋内入れてくれるって」
「ほらそこ、説明すっから早く! 走るくらいする!」
怒鳴り声に二人して飛び上がり、もう集まっている他のバイトたちのほうへと走る。上の社員勢は、そろいもそろって虫の居所が悪い。機嫌を損ねてはいけないという焦りが、脚をもつれさせた。転びそうになる私を見て、友人が悲鳴を上げる。
次の瞬間、私の体は一瞬、空中で静止した。まるで誰かの腕に抱き留められるかのように、吹き抜けたさわやかな風に支えられ、足を地面に下ろしてしっかりと踏みしめる。
「急がんでもえい、怪我せんよう気をつけぇ」
不思議なイントネーションの優しい声は、私の耳だけに小さく響いた。
「バランス感覚ヤバくね? 大丈夫?」
「あ、うん。ありがとう」
まあ、こんな仕事で怪我したら馬鹿みたいだし。友人と急いでいるふりをしつつ他のバイトたちの元へ向かいながら、私は背後に小さく頭を下げた。
なにかがすぐそばにいる、明確な正体はわからないけれど。幼いころから薄ぼんやりと感じていたそれを、なんとも思わなくなったのもこのころだ。あのときのように、助けられたからということもあるんだろうけれど。
それの原因について、心当たりはあるようなないような。はっきりとは言えないが、思春期を過ぎたころから見始めた夢も関係していたのだろうか。
内容もぼやけていて、記憶も断片的にしか残らない。ただ、なにか妙に幸せなものだった感覚だけはある。誰が出てくるわけでもなく、ただ一人、誰もいない日本家屋を歩き回るだけの夢。
一歩間違えればホラー映画のようだが、不思議と恐ろしさは感じなかった。そこは、ただただ温かな気配がして、心地のいい空気に満ちていた。つながりなんてあるのか分からないが、そうしたポジティブな感情の発露としての説明にはうってつけだろう。
時代はだんだんと移ろっていく。大学を卒業して、就職をしても私は独立せずに母との同居を続けていた。縁を逃したらなどというよけいな心配をされることもあったが、適当に笑ってごまかすことにした。
私が仕事に出るようになって、母と出かける機会は学生時代のころよりも減っていった。彼女が必ず私を連れて行きたがった二振りの展示すら、同行できなかったこともある。
母一人で旅に出れば、その間は私一人だ。心配する母を見返そうと仕事も家事もがんばった私に、彼女は「あなたももう大人なのね」と安心したように笑っていた。
今思えば、得意になっていた自分が馬鹿みたいだけれど。
母が倒れたのは、私が社会人になって数年がたったころ。迷わずターミナルケア病棟への入院を決めた彼女に、私が意見できるはずもなかった。
正直に言おう。私は少し、彼女が怖かった。余命宣告を何でもないことのように受け入れて、生に対する執着を一切見せない母が。やせて血の気の失せた顔を、今まではほとんど興味のなかったお化粧で必死にごまかす母が。私を気遣いつつも、ふとした瞬間、まるで『その日』を待ちわびるように窓の向こうを見つめる母が……
こんなときだから仕方ないでしょうというようなポーズで定時ダッシュを決めて、面会時間ギリギリに病院に駆け込む。母と話したり――日によってはただ寝顔を眺めたりしたら、これからずっと私一人で住むだろう家に帰って、最低限の家事をこなして眠る。友人たちには心配されたが、忙しくしているほうが気が紛れるとだけ言うと、気まずそうに誰もが黙ってしまった。昔から母についていてくれた、謎のスーツ姿の人(政府の職員だとだけ、ある程度大きくなってから聞かされていた)に、母の病院関係のことは多少任せてしまったけれど。
せめて、他の家族や親戚がいればまた違ったのかもしれない。けれど、頼る相手なんてはなからいるはずもなく。明日は休みだという金曜の夜、病院から帰った私はベッドに倒れ込んで泥のように眠り、いつもよりやけにはっきりとした夢を見た。
私は見覚えのある日本家屋にいた。ふわふわとした感覚に、これは夢だとすぐにわかる。
いつもより少しざわついた空気に、誰かの気配が混ざる。おそらく、私の姿は見えないのだろう、水色の髪の男の人が、ふわふわとした桃色の髪の男の子や、長い髪の女の子――男の子? に手を引かれて、私のすぐ隣を通り過ぎていった。
「いち兄、今日は……」
「ああ、一緒に寝よう。みんな一緒にね」
なまずおたちも、呼んでおいで。そう言って三人は廊下の角を曲がっていった。
広間の空気は、微妙に重い。おつまみ用の皿やコップがテーブルの上に雑多に置かれたままで、数人の男性たちがぼんやりとした表情で黙りこくっている。
「……片づけようか」
静寂を破るように立ち上がったのは、紫の髪をポンパドールにまとめた男の人だった。食器を重ねていくその人を、顔に傷のある無骨そうな男の人が面倒くさそうに止める。
「別にいいだろ。今片づけたってどうせ、明日は」
「ああ、わかっているさ。でも、だからこそだよ」
「……歌仙くんの言う通りだ。さ、手伝ってくれるかい?」
一緒になって食器を片づけ始めた眼帯を着けた男の人にそう言い聞かされ、仕方がないなとその人は立ち上がった。
「わーったよ。ま、あんたらの飯も最後だしな」
おら起きろよ、おてぎね。その人は隣で寝ていた大柄の男の人の背中を蹴って起こし、二人で食器を重ねて奥へと運んでいった。
片づけが始まり、部屋に残っていた人は彼らを手伝ったり、酔いつぶれた人を介抱して部屋に引き上げたりしているようだった。そんななか、隅っこで丸まっていた小さな男の子に、たおやかな雰囲気の桃色の髪の人が声をかけた。どうしてだろう、その声を、私はどこかで聞いたことがあった。
「お小夜、眠いのですか」
「…………」
その男の子は、むずかるように首を横に振った。猫のような瞳を必死に開こうとしては、落ちてくる瞼に抵抗されている。
「三人で、一緒に寝ましょうか。さあ、歌仙殿たちにご挨拶を」
水色の長髪に濃紺の作務衣を着た男の人が、おさよと呼ばれた男の子を抱き上げる。首っ玉にかじり付いたその子は、今にも泣きそうな声で、小さく兄さまとささやいた。
「はは、おねむか小夜坊。大丈夫だ、寝てる間に終わりゃしないさ」
その子の頭を撫でたのは、肌も髪も服も、全身が真っ白な男の人だった。つるさんも手伝ってよという、さっきの眼帯の男の人を適当にはぐらかして、その人は部屋を出ていった。なんとなく気になってついて行った先の縁側では、また別の男の人が、ぼんやりと空に浮かぶ月を見つめている。真っ白な男の人に、むつのかみと呼ばれたその人は、人なつこそうな笑顔を浮かべて振り向いた。
「主は?」
「長谷部と一緒じゃ。邪魔したらいかんきに」
「はっは、そりゃぁだめだな。最後の最後に馬に蹴られる趣味はないさ」
どうしてだろう。この言葉の響きも、この声も、私は確かに知っている。いや、声だけじゃない。名前だって確かに私は覚えている。陸奥守、歌仙、長谷部、鯰尾、御手杵、小夜。全部、母と一緒に行った場所で――
「昔と、あんときと、いっこも変わらん。ずっと続く思っちょったが、終わるのはいきなりじゃ」
「……懲りないよなぁ、どいつもこいつも」
縁側で座り込んだ二人は、そのまま黙って庭を眺めている。なんだか無性に泣きたくなるような心地がして、私は思わず目を閉じた。
目を開けると、私は今までと別の場所にいた。月明かりだけが照らす部屋の中は、ここからだと逆光になっていてよく見えない。けれど、二人の人影と、その部屋の空気だけは感じることはできた。
ここで何が行われているのか、それを察した瞬間、私は出口を探して逃げだそうとした。和室の布団の上、もつれるように倒れ込んだ男女がすることなんて、心当たりは一つしかない。
ようやく探し当てたふすまは、開けようとしても指がすり抜けてしまって引き手が掴めない。それならと思って体当たりをしても、今度は見えない壁のようなものに阻まれて弾かれてしまった。
ちょっと待って、他人のそういう現場を見てしまうなんて、いくら夢でも嫌すぎる。焦ってもがく私の耳に、小さく女性の悲鳴のような制止の声が届いた。
なにかを叩き落とす音と共に、小さなものが床の上を滑っていく。小さな、ビニールに包まれた薄いなにか……それが何なのか、私も分からないような年齢ではなかった。
あるじ、という戸惑ったような声に、せっぱ詰まったような女性の声が被さる。その声を聞いて、私は固まった。
「いいの。大丈夫、私は大丈夫だから。だから」
お願い、とだけささやく声が、嫌になるほど大きく聞こえる。ああ、これはなんという悪夢だろう。それは、生まれてからずっと私のそばにいた人の声をしていた。
結局、狙った時間には起きれなかった。久々に八時間以上の睡眠を取れたはずなのに、夢見がめちゃくちゃだったおかげでどうにもすっきりとしない。来る途中で買ったフルーツゼリーを片手に、私は病院の門をくぐった。
看護師さんは、母は眠っていると言っていたはず。そう思ってそっと音を立てないようにドアを開いた私の耳に飛び込んだのは、昔とほとんど変わらないように聞こえる母の声だった。
「相変わらず泣き虫なんだから」
いや、昔と変わらないはずがない、変わらないようにしているだけだ。彼女は今、わずかに残る気力という気力をかき集めている。息を殺してドアを静かに閉じ、私は個室の入口の壁に張り付くように身を潜めた。
「変わらないなぁ、長谷部は……私はこんなおばさんになっちゃったけど」
うれしそうに笑う母の声に、鼻をすする音が小さく被さった。男の人だ。
彼女に男性の来客なんて、今まで一度もなかったはずだ。むしろ、今まで母の周りには、異性の影なんてこれっぽっちも……
「言ったでしょう、いつまでも待てるって……いくらなんでも早すぎます。もう二十年でも、三十年でも、俺は待つつもりでいたというのに」
そう告げるその人の声は、涙でぐっしょりと濡れているように聞こえた。
「……ねえ、長谷部。私、幸せだよ」
その歌うような声に、私はわずかに苛立ちを覚えた。彼の言葉を、まるではぐらかすように話を変える母に。
「馬鹿なことをしたとは思ってる。苦労をかけなくてよかったはずの人にも、さんざん迷惑をかけて。繋がっていたかったはずの人も……でもね、後悔はしていないの。きっとこれでよかったんだよ、私も、あなたも」
うー、という涙にまみれたうめき声は、納得がいかないと叫んでいる。その反面で静かな母の声は、ほう、と小さくため息をついた。
「親を選べないのは、子供の辛いところだけど……知ってるでしょう、あの子、あんなに立派に育ってる。だからね、もう」
その先を、彼女は言わなかった。言っていたとしても、私は耳をふさいでいただろう。
「会っていってあげてよ」
「……今さら、どの面下げて」
「あなたのせいじゃないでしょ、私が勝手にしたことだもの……ねえ?」
いるんでしょうと母が呼んだのは、私の名前だった。
「ほら、いらっしゃい」
子供のころに叱られたときと、同じだ。そっと顔を覗かせると、紫色の服の男の人が、母のベッドのそばにひざまずくようにうずくまっていた。伏せられたその表情は、私からは確認できない。
「顔くらい見てあげてよ、もう」
無言で首を横に振るその人の向かい側、ベッドの反対側に椅子を引き寄せて、伸ばされた細い手を取る。母の瞳が私を写した瞬間、のどの奥から突き上げるような衝動を感じ、決壊した私の涙腺は狂ったように塩水を噴き出した。
「最初から最後まで、こっちの都合で振り回してばっかりで……」
ごめんなさいと繰り返す声を聞きたくなくて、私は叫ぶようにそれを遮っていた。
「もういいよ、お母さん。もういい」
本当は、言いたいことは山ほどある。
お母さん、お母さんは今日のために生きてきたの。私と過ごした日々も、いつもお母さんは今日のことだけを考えていたの。だからそうして、今が終わってしまったら、なんの後腐れもなしに行ってしまうの。私は大人になってしまったから、この世にあなたをつなぎ止める理由にはなれなかったの。ねえ、お母さん。
「大丈夫、私は大丈夫だから」
私のその言葉に、男の人の肩がびくりと跳ねる。そう、私たちは似たもの親子だ。ちっとも大丈夫なんかじゃないくせに、結局同じことを同じように取り繕うことしかできない。
ありがとう。その言葉が誰に宛てたものか、私には分からない。そう言って、母はまたとろとろとまどろんでいった。
ほっと一息ついた私の耳に、かすかな衣擦れの音が聞こえた。あわてて私が顔を上げたことに気づいたんだろう。その人は、立ち上がって後ろを向いたまま、気まずそうに固まっていた。
「お父さん」
口をついてこぼれた言葉は、私が初めて使ったものだった。思わずといったように振り返った顔を、じっと正面から見詰める。
その人は私と同じか、少し年上くらいの年頃のように見えた。濃いミルクティーのような髪の色も、顔かたちも、子供のころに出会ったあの少年と、そして私とも、鏡で見るようによく似ている。まるで、私も彼も、目の前のこの人をモデルに描かれた肖像画だったのだと思えるほどに。
涙の跡が残る美しく淡いスミレ色の瞳は、持ちうる限りの感情――喜びに愛おしさ、哀しみに怒りを全部煮詰めたような光をたたえ、私を見つめる。
そして、何かを振り切るようにぎゅっと閉じられた視界が再びこちらを写すことはなく。その人は深々と私に頭を下げてから身を翻し、光の中に消えていった。
ぽーん、という鈍い電子音に、意識がゆらゆらと浮上していく。
「お客様にお知らせいたします。当機はまもなく、着陸態勢に入ります――」
周囲から、カチャカチャという音が聞こえる。頭上のシートベルト着用サインは、もう赤く光っていた。
機体の高度が下がり、ぐっと圧がかかる。雲の下では、真冬の冷たい海を囲む建物という、何度も見た光景が広がっていた。目的地は、あいにくここからは見えない。
住宅街のど真ん中に降りていくにつれて、周りの建物がぐんぐんと近づいて見えてくる。前輪が滑走路に触れた瞬間、どん、という重い衝撃が、シートの下から伝わってきた。私の隣に座る大学生らしい青年は、首をごきごきと鳴らしている。
母は、あれから目を覚ますことはなかった。
「お母様からは、全てを成り行きに任せるように、と」
「成り行き……ですか」
いつもよりおとなしいパンツスーツに、さりげなくおしゃれなメガネをかけて。年齢を感じさせない、緩く波打つ濡羽色の髪に縁取られる整った顔には、うっすらと黄金色が透ける瞳。私よりもむしろ母のほうが年の近い政府職員とは、顔見知りではあってもきちんとした会話らしい会話はこれが初めてだった。
「はい。知りたくないのであれば、そのまま。知りたいのであれば、手を差し伸べてほしい。それが、私が言付かった全てです」
お線香の匂いが立ちこめる部屋には、骨壺と私たちの二人だけ。焼香を済ませた彼女は、私にと小さな封筒を差し出してきた。
「本当は重要機密みたいなものだから、渡すのは褒められたことではないけれど……事情が事情ですから。画像処理だけで特別に許可が下りました」
どんな仰々しい書類が出てくるのかと思った私は、封筒を開いて正直拍子抜けした。
そこに入っていたのは、粗い画質の二枚の写真だった。なんだか見覚えのある日本家屋の前で撮られた集合写真には、私が知るよりも若い母が、たくさんの人に囲まれている。そして、もう一枚は……
「あの、これは」
「……少しは感づいていることを前提に話すね。ああ、どこまで知っているかは言わなくて大丈夫。説明なんて、できないでしょう?」
やっぱりぼんやりとした画面の中、縁側で並んでいたのは、母ともう一人、あのとき病室で見た彼とよく似た服装の男の人だった。
「今までは、我々の役目はお母様のような人のサポートでしたが、もうそろそろ次世代――その子供たちに対象をシフトする頃合いです。その中でも、あなたはかなり、その、特殊なケースだから。現場の担当者の裁量に任せると、上から通達も出ています」
私の意地や、自己満足もあるけれど。そう言ったこの人が自分の味方だということを、私はもう、何も聞かされなくても理解できていた。
「知りたくないのであれば、今までの私の話も全て忘れて、日常に戻ってください。もし、知りたいのであれば……」
一月のあの街に行きなさい。よけいな説明は、他になにもされなかった。
「私から詳しく話すことはしません、にわかには信じられることではありませんから。荒唐無稽で、当時を覚えている人ですら、冷静に語れないようなことだもの」
歴史とはそういうものだ。当時を知る人も、直接伝え聞いた人も全てがいなくなり、『記憶』ではなくなって初めて、冷静に論議を尽くすことができる。今は誰がどう話しても、全容は見えては来ないだろう。
「この国は、早く忘れたがっているの。あなたのお母様のことも、私やあなたのことも、あの年月の記憶も、全部。事実、私たちの内側に流れているものは、なにもかもが時代とともに薄れていくんでしょうね……それでも、誰かには覚えていてほしいから」
あの場所に行って、それで何か答えが出たのなら、また連絡をしてください。そうして渡された名刺は、大切に手帳のなかに保存してある。最後に小さく、その人がつぶやいた言葉が、頭の中にこだました。
「そうでないと、かわいそうが過ぎるでしょう。私もあなたも、彼女たちも、彼らも。だから」
最後に母に会いに来た彼が誰だったのか。薄ぼんやりとした予想は、確信のないままに、私をこの地に導いている。小さなキャリーケースのタイヤの下で、ボーディング・ブリッジの継ぎ目がごとごとと音を立てた。
私が生まれて、初めて一人で迎える二九回目の一月が始まる。