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    A Testatrix of WisteriaA Testatrix of WisteriaThe Testator from WisteriaA Testatrix of Wisteria
     私が生まれたのは、この国のなかで長く続いた内戦のようなものが終わって、一年もたたないころだったという。なにもかもが伝聞形式なのは、周りの大人たちは誰も詳しく教えてくれなかったからだ。
     歴史の授業でも言及しているのはせいぜい教科書の数行程度で、内容すらぼかしにぼかされていた。学校の小テストから大学受験まで、テストの範囲に含まれたことはなかったし、授業でも義理的に触れるだけだ。先生たちも、たぶんどう教えるべきか迷っていたんだと思う。
     多感なころの同級生たちは、それについてなにかと詮索したがった。国の根幹を揺るがすレベルの戦争だったと噂が流れているのに、どうして、と。私はただ、そんな様子を教室の端から見るだけで、みんなはそんな私を、あの子はちょっと変わっているからと少しだけ壁を作っていたと思う。仲間外れとかそういったものではなく、薄く、透明な壁。
     私は、いわゆる『私生児』である。
     それについてはいろいろあったけれど、あまり卑屈に思ったことはない。そういうふうに生まれてしまった時点で、もうどうしようもないことだ。
     家族は母だけで、親戚なんて存在すら知らない。私が大人になるまで、ずっと母と娘だけで暮らしていた。
     ついでに言えば、母がなにかしらの仕事をしているところを、私はついぞ見たことがない。小学校のころ、宿題で『お父さんやお母さんの仕事』について作文を出されたときに聞いてみたところ、「ずーっと働いていたから、もう休んで大丈夫って言われてるの」とだけしか教えてくれなかったことを覚えている。
     それでも、不思議と一度も生活に不自由をしたことはない。私がやりたいことがあればなんだってさせてもらえたし、大学までなにも気にせず進学できた。片親だからといろいろ詮索もされたが、ちゃんと愛されて育った自覚はある。
     幼いころから、自分の母を変な人だと思ったことはない。彼女はごく普通の――どこか老成していて、ときおり、少しだけ寂しそうな顔をしてはいたけれど――女性だった。唯一不思議だったのは、半年に一度くらい、スーツを来た大人が母を訪ねてくることくらいだ。このときばかりは、私は絶対に部屋に入ることを許してもらえなかった。
     しかし、ひとつだけ、母には少し変わった趣味があった。幼いころからそれにつき合わされ、私もこの国のあちこちを廻ったものだった。
     その趣味とは、美術館や博物館を巡ること。しかも、決まって日本刀の展示がある場所だった。
     日本刀を見て回る母娘という構図が、かなり珍しいものだと知ったのは、小学校の高学年に入ってからだった。毎年冬に訪ねる博物館の話を私から聞いたクラスメートは、ただ一言、「女の人なのに、刀なの?」と首を傾げていた。
     だって、私にとっては見慣れた光景だったのだ。どこの展示に行っても、私たちのような親子連れは必ずいた。
     私の母と同じように、少しもの悲しい顔で刀を見つめる女性と、私と同じように、光に透かすと不思議な色を浮かび上がらせる髪の子供たち……私は濃いミルクティーのような茶髪、ある子は真っ青な空の色に、ある子は鮮やかな桃色、ほかにも、オレンジに銀髪、深い青に金色、緑に赤、紫と、そのバリエーションは挙げていけばきりがない。普通にしていれば黒い髪は、光に透かすとその色を浮かび上がらせるのだ。
     その子供たちは、年齢の差も幅広かった。自分と同じくらいから、ずっと大人の高校生くらいまで。連絡先の交換まではいかなくても、軽い世間話をすることだってあった。ただ、なぜかどこに行っても私が最年少なことだけは、今でも変わらない。
     あの二人と出会ったのは、毎年恒例になっていた、冬の博物館でのことだった。
     西の街の海辺に建つ、大きな博物館に来るのは、覚えている限りではもう三度目。母によると私が生まれてからは毎年欠かさずと聞いているから、正確には六度目だろうか。大きな入り口をくぐると、二階へ続く階段で立ち話をしていた女性が二人、私の母に声をかけた。彼女たちの子供らしい、私よりも年長の子供二人が、少し離れた場所で手持ちぶさたにたたずんでいたことを覚えている。そのまま私たちは、いつもの二階へと向かったのだ。
     そして彼らの母親たちと私の母は、どこか懐かしそうに展示室で話し込み、退屈する私の話し相手は、初対面の年長者二人に託されたのである。
    「ねえ、いまいくつ?」
     外のロビーのソファで、背を屈めてそう私に聞いたのは、緩く癖の付いた黒髪の、ひょろひょろと手足の長い女の子だった。
    「えっとね、ろくさい。もうすぐいちねんせい」
    「わあ、わたしのほうがお姉ちゃんだ! わたしね、四年生」
    「……え、小学生?」
    「そうだよ? 学年で一番おっきいの! 男子たちよりもずーっと!」
    「あー……そっか、なるほど」
     俺と同じくらいかと思ったと、お兄さんがどこか納得したようにうなずく。ついさっき、彼の母親に対して話していたぶっきらぼうな口調とは別人のようだった。
     うっすら記憶に残るその少年は、今思えば不思議なほどに私と顔が似通っていた。ライトに透ける、短く刈り上げた髪。その色は、私とそっくり同じ、あの濃いミルクティーのような色だ。大人びた目鼻立ちは、すっときれいに整っていた。思い起こしてみれば、十代の少年特有の幼い風貌も兼ね備えていたが、あのころの私には、初対面のはずなのに頼りになる兄のように見えたのだ。
     彼は今、中学の三年生だという。二人とも家はこの街ではなく、今その地名を思い出してみれば私と同じくらいか、それ以上の遠方からだった。
    「あそびにきたの?」
    「いや、父親に会いに……そう言っていいかはわかんないけど」
    「あ、わたしも。パパに会いに行こうってママがね、毎年」
     ベンチに座って脚をぶらぶらと揺らしながら、私を挟んで座る二人の会話を頭上に聞く。年下扱いに抵抗があるお年頃としては置いてけぼりにされるのがなんだか嫌で、私はとっさに覚えたばかりの言葉を口にしていた。
    「おとうさん、はくぶつかんのひとなの? がくげーいん、さん? たんしんふにん?」
     単身赴任という言葉は、幼稚園の友達から聞いて知っていた。学芸員という仕事にもそれがあるのか、そう思って首を傾げた私を見て、二人は何かを察したように顔を見合わせた。
    「……ごめん、言っちゃいけないこと言ったみたいだ。君のお母さんには、内緒だからね」
     むすっとした私の頭をなだめるように撫でるお姉さんと、飴一つで買収にかかるお兄さんと。彼女が持っていたどらやきを三人で分け合うころには、私の機嫌もけろりと直っていた。
    「でもそっちはさ、別にいつでもいいんじゃないの? むしろこっち住めばいいのに」
    「んーん、ママがね、いつでも会えるって思うと、逆に寂しくなっちゃうんだって。だから、一月にだけ来るの。おじさんもいるし、ちょうどいいって」
     それからの二人は、会話が少しぎこちないように見えた。今思えば、「どこまでなら大丈夫か」を探りながら話していたんだろう。
    「俺たぶん、しばらく来れないしなー。春から寮だし」
    「そうか、中三だものね。遠くの高校?」
    「え、おかあさんとはなれちゃうの? どうして?」
    「中学にもなるといろいろあるんだよ、いろいろ」
     君たちは知らなくてもいいのと言った彼の目は、少しだけ遠くを見ていたような気がした。
     それが、小学校入学前の冬のこと。おぼろげな幼いころの記憶の中で、あの日だけはしっかりと覚えている。

     国で一番大きな博物館のほぼ正面に位置する噴水からは、水遊びをする子供たちの歓声が聞こえてくる。母と連れだってそぞろ歩いていたはずが、屋台に気を取られ、気が付けば私一人だけになっていた。
     こういうときは、人混みを離れて分かりやすい場所にいたほうがいい。木に寄りかかって、今ごろあわてているであろう彼女の姿を探す。
     これから博物館に行く予定だが、その後はどうするんだろう。もうすぐ六年生になるというのに迷子になるなんて、いつものお店であんみつはなしだろうか。風に揺れる木漏れ日が髪に反射して、馴染みの色をきらめかせた。
     ふいに感じた誰かの気配と鼻を突く臭気に、私はぎょっとして逃げだそうとして――そして、失敗した。
     あまりの恐怖に、悲鳴すら出てこなかった。
     血走った目と酒臭い息。見知らぬ男の汚い手が、今朝母にきれいに結ってもらった髪を、力任せに掴み上げる。
    「そうだ、この色だ。あの親不孝者が、親をなんだと思って……」
     オカルト脳の政府、うん十年も返さずに行き遅れさせて、傷物に、化け物とガキなんか、お荷物ばっか生き残って、誰の税金で食わせてやってると。
     ぎりぎりと手に力が増した男の口からは、そんな意味の分からない、ぶつぶつと断片的な言葉が聞こえてきたことを覚えている。掴まれていないはずの喉がきゅっと絞まるような心地がして、息が自然と浅くなった。
     お母さん、どこにいるの。必死に首を振ると、掴まれた髪の毛がぶちぶちと抜けて痛みが走る。お気に入りの髪ゴム飾りが、男の手の中でみしりと嫌な音を立てた。
    「そこまで!」
     そのときだった。鋭い声とともに、痛てぇという男の叫びが聞こえる。伸ばされた手が、男の手首を捻り潰さんばかりに掴んだのだ。髪の毛が解放され、バランスを崩した私はたたらを踏んでよろめいた。
    「大丈夫?」
     私を抱き留めた女性は、静かな声でそう言った。白銀に光る髪の下で、獣のように細めた瞳は静かな炎を湛えている。背中を優しく撫でられて、ようやく安心した瞬間、全身の奥から震えが押し寄せてきた。
    「見苦しいですよ、いい年した大人が。関係ない子供に八つ当たりなんて」
     聞こえてきた静かな男性の声に、私はそっと周囲を見回した。私のそばの女性の他にそこにいたのは三人。スマホを片手に今声を発したその人は、まるで芸術作品のような美しさと冷徹さを兼ね備えた表情で男を見つめていた。
    「う、るさい。化け物モドキが! こっちはだな、娘を盗られて――」
    「盗られた? 見放されたの間違いだろ、どうせ」
     もう一人のお兄さんが、私を守るように立ちふさがる。不良のような彼の長髪が日に透けて、鈍く金色に光った。
    「なにがあったかは知らないけどね。少なくとも、あんたは縁を切られる程度の親にしかなれなかった、それだけのことでしょ」
     男の腕を捻り上げ、ふん、と鼻を鳴らしたお姉さんが首を振ると、切りそろえた髪がルビーのように赤く光る。相変わらずスマホを持ったままの男性は、冷たい視線で男を見下ろし、私の頭を優しく撫でた。
    「ああ、写真も録音も抜かりなくやってますから。公共の場所でオッサンが女の子に暴力沙汰とか、もうちょっと自分がどう見られてるか自覚したほうがいいですよ」
    「おーっと、逃げない逃げない」
     その言葉を聞いて、渾身の力でお姉さんをふりほどこうとした男の首を、長髪のお兄さんが力強く押さえ込んだ。
     こっちです、という声と一緒にお巡りさんを先導するのは、薄いピンク色を風になびかせる私よりも少し年上らしい女の子だった。反対側からは、短い髪の青年が母の腕を掴んで息急ききって走ってくるのが見える。
    「ごめんね、ごめん。怖かったね」
     なにがあったのかは、青年から聞いていたのだろう。迷子になった娘を叱ることなく、母はただ私を抱きしめ、助けてくれた彼女たちに泣きながら頭を下げていた。
    「よく見つけたね、お母さん」
    「うん。迷子探してる女の人捕まえて、キンジの名前聞いてみたら一発だった」
     声を上げて泣き出した私の耳に、そんな会話だけがぼんやりと飛び込んでくる。警察官に事情を聞かれる男の口から何かが飛び出る前に、母の手は私の耳をすっぽりと覆っていた。

     みんな私に何かを隠している。それが具体的に何かはわからなくても、幼いころからそれだけはよく知っていた。そして、それが私を守るためであることも。

    「何段あるの、これ……」
     修学旅行の自由行動の日、戦国時代好きのグループメンバーたっての希望でコースに組んだ神社の入り口には、めまいがするほど急勾配な石段が待ちかまえていた。私が膝に手を付いて息を整えているのは、その終盤……の、はずだ。
     グループの級友たちには気遣われたが、少し休んでから追いかけると伝えると、彼女たちは心配しつつもずんずんと先に登っていってしまった。同じ中学生でも、どうしてここまで体力の差があるんだろう。
     実を言えば、この神社に来るのは初めてじゃない。むしろ母と京都に来るときは、ここを含めていくつかの神社やお寺にお参りすることが毎回暗黙の了解だ。
     それでもこちら側から登るのは、ほぼ初めてだ。石段ではなく緩い分長い坂を登るのがいつものことだったが、たぶん母も、知っていてこのルートを取っていなかったんだろう。母娘そろって、体力は万年不足気味だ。
     さて、そろそろ残りを上ろうか。尻込みする脚を叱咤して、一歩を踏み出そうとした、そのときだった。
    「――あれのにしては、なんとも。そこは母譲りなんでしょうかね」
     しとやかな響きの声は、まるで学校行事で見に行った歌舞伎の女形を思わせる。突然耳に飛び込んできたそれに驚き、周囲を見回しても、人影は一切見あたらない。狐につままれたような顔の私に、その声は少し笑ってからかうようにささやいた。
    「ほら、頑張って。置いて行かれても知りませんよ」
     ざあっと吹いた風には、上品なお香のような匂いがほのかに混ざっていた。かすかに見えた桃色の影は、二度見する前に視界の端から消える。続いて吹いた追い風に、私は背中を軽く押されるように残りの階段へと脚を踏み出した。
    「お、その調子だ。まあ気張れや」
     エコーのかかったように聞こえる低い声からは、まるで私と変わらない、少年が笑うような響きがした。

     はい、点呼したらスタッフT着てね。班のチーフは、人数分をこっちに取りに来てください。ほら、ダラダラしてないで走る! そっち遅刻者着いた? 電車遅れたとか知らないよ、困るんだよね、ホントに。
     単発のアルバイトでやってきたライブの案内現場は、端的に言って地獄絵図だった。バイトスタッフの取りまとめ会社の人は、炎天下で集まる大人数を相手に殺気立って怒鳴り散らしている。
     友達紹介キャンペーンに釣られた大学の友人は、惨状にどこか申し訳なさそうだ。こんな現場ばかりじゃないからとも言われたが、やっぱり私は今回限りにさせてもらおう。
     その名の通り、国技のために建てられた場所も、今日の観客の平均年齢はいつもよりもぐっと低い。きらきらしいアイドルのイメージカラーに身を包んだ女の子たちが、グッズ販売の列へと掃除機のように吸い込まれていく。技術が進んで大昔よりは混雑も緩和されたと聞くが、私たちのようなアナログ人海戦術もこういう場所ではどうしても必要になってくる。コンビニすらも機械化が進んでいる今となっては、学生のバイト先は今やこの手の現場が主流だ。
     友人は今日のバイト代で、ここでやる別のライブに行くそうだ。なんというマッチポンプと視線を逸らすと目に入るのは、木の台の横に立って宙を見据える男性の古写真のポスターだった。
    「龍馬展?」
    「うん、今度行くの」
     会場のすぐ隣には、見ていて少し不安になるような構造の建物がそびえ立つ。今は幕末の偉人についての展覧会が開催されていて、展示される刀を目当てに、来週母と約束をしているのだ。一緒に出かけるのは、いつぶりだっただろう。
     大学に入ってから、授業や課題の合間に少しバイトをするようになった。忙しくなるにつれて、二人で出歩く機会はぐっと減っている。
     それでも必ず、年始のあの博物館と、この刀の展示だけは、母は二人で行きたがる。たぶん、彼女にとっては特別な二振りなんだろう。
    「しかし今日暑くない? 日差し強すぎ」
    「髪、大丈夫かな……」
    「大丈夫だって、登録会でも言われたっしょ。言われたら屋内入れてくれるって」
    「ほらそこ、説明すっから早く! 走るくらいする!」
     怒鳴り声に二人して飛び上がり、もう集まっている他のバイトたちのほうへと走る。上の社員勢は、そろいもそろって虫の居所が悪い。機嫌を損ねてはいけないという焦りが、脚をもつれさせた。転びそうになる私を見て、友人が悲鳴を上げる。
     次の瞬間、私の体は一瞬、空中で静止した。まるで誰かの腕に抱き留められるかのように、吹き抜けたさわやかな風に支えられ、足を地面に下ろしてしっかりと踏みしめる。
    「急がんでもえい、怪我せんよう気をつけぇ」
     不思議なイントネーションの優しい声は、私の耳だけに小さく響いた。
    「バランス感覚ヤバくね? 大丈夫?」
    「あ、うん。ありがとう」
     まあ、こんな仕事で怪我したら馬鹿みたいだし。友人と急いでいるふりをしつつ他のバイトたちの元へ向かいながら、私は背後に小さく頭を下げた。

     なにかがすぐそばにいる、明確な正体はわからないけれど。幼いころから薄ぼんやりと感じていたそれを、なんとも思わなくなったのもこのころだ。あのときのように、助けられたからということもあるんだろうけれど。
     それの原因について、心当たりはあるようなないような。はっきりとは言えないが、思春期を過ぎたころから見始めた夢も関係していたのだろうか。
     内容もぼやけていて、記憶も断片的にしか残らない。ただ、なにか妙に幸せなものだった感覚だけはある。誰が出てくるわけでもなく、ただ一人、誰もいない日本家屋を歩き回るだけの夢。
     一歩間違えればホラー映画のようだが、不思議と恐ろしさは感じなかった。そこは、ただただ温かな気配がして、心地のいい空気に満ちていた。つながりなんてあるのか分からないが、そうしたポジティブな感情の発露としての説明にはうってつけだろう。
     時代はだんだんと移ろっていく。大学を卒業して、就職をしても私は独立せずに母との同居を続けていた。縁を逃したらなどというよけいな心配をされることもあったが、適当に笑ってごまかすことにした。
     私が仕事に出るようになって、母と出かける機会は学生時代のころよりも減っていった。彼女が必ず私を連れて行きたがった二振りの展示すら、同行できなかったこともある。
     母一人で旅に出れば、その間は私一人だ。心配する母を見返そうと仕事も家事もがんばった私に、彼女は「あなたももう大人なのね」と安心したように笑っていた。
     今思えば、得意になっていた自分が馬鹿みたいだけれど。

     母が倒れたのは、私が社会人になって数年がたったころ。迷わずターミナルケア病棟への入院を決めた彼女に、私が意見できるはずもなかった。
     正直に言おう。私は少し、彼女が怖かった。余命宣告を何でもないことのように受け入れて、生に対する執着を一切見せない母が。やせて血の気の失せた顔を、今まではほとんど興味のなかったお化粧で必死にごまかす母が。私を気遣いつつも、ふとした瞬間、まるで『その日』を待ちわびるように窓の向こうを見つめる母が……
     こんなときだから仕方ないでしょうというようなポーズで定時ダッシュを決めて、面会時間ギリギリに病院に駆け込む。母と話したり――日によってはただ寝顔を眺めたりしたら、これからずっと私一人で住むだろう家に帰って、最低限の家事をこなして眠る。友人たちには心配されたが、忙しくしているほうが気が紛れるとだけ言うと、気まずそうに誰もが黙ってしまった。昔から母についていてくれた、謎のスーツ姿の人(政府の職員だとだけ、ある程度大きくなってから聞かされていた)に、母の病院関係のことは多少任せてしまったけれど。
     せめて、他の家族や親戚がいればまた違ったのかもしれない。けれど、頼る相手なんてはなからいるはずもなく。明日は休みだという金曜の夜、病院から帰った私はベッドに倒れ込んで泥のように眠り、いつもよりやけにはっきりとした夢を見た。

     私は見覚えのある日本家屋にいた。ふわふわとした感覚に、これは夢だとすぐにわかる。
     いつもより少しざわついた空気に、誰かの気配が混ざる。おそらく、私の姿は見えないのだろう、水色の髪の男の人が、ふわふわとした桃色の髪の男の子や、長い髪の女の子――男の子? に手を引かれて、私のすぐ隣を通り過ぎていった。
    「いち兄、今日は……」
    「ああ、一緒に寝よう。みんな一緒にね」
     なまずおたちも、呼んでおいで。そう言って三人は廊下の角を曲がっていった。
     広間の空気は、微妙に重い。おつまみ用の皿やコップがテーブルの上に雑多に置かれたままで、数人の男性たちがぼんやりとした表情で黙りこくっている。
    「……片づけようか」
     静寂を破るように立ち上がったのは、紫の髪をポンパドールにまとめた男の人だった。食器を重ねていくその人を、顔に傷のある無骨そうな男の人が面倒くさそうに止める。
    「別にいいだろ。今片づけたってどうせ、明日は」
    「ああ、わかっているさ。でも、だからこそだよ」
    「……歌仙くんの言う通りだ。さ、手伝ってくれるかい?」
     一緒になって食器を片づけ始めた眼帯を着けた男の人にそう言い聞かされ、仕方がないなとその人は立ち上がった。
    「わーったよ。ま、あんたらの飯も最後だしな」
     おら起きろよ、おてぎね。その人は隣で寝ていた大柄の男の人の背中を蹴って起こし、二人で食器を重ねて奥へと運んでいった。
     片づけが始まり、部屋に残っていた人は彼らを手伝ったり、酔いつぶれた人を介抱して部屋に引き上げたりしているようだった。そんななか、隅っこで丸まっていた小さな男の子に、たおやかな雰囲気の桃色の髪の人が声をかけた。どうしてだろう、その声を、私はどこかで聞いたことがあった。
    「お小夜、眠いのですか」
    「…………」
     その男の子は、むずかるように首を横に振った。猫のような瞳を必死に開こうとしては、落ちてくる瞼に抵抗されている。
    「三人で、一緒に寝ましょうか。さあ、歌仙殿たちにご挨拶を」
     水色の長髪に濃紺の作務衣を着た男の人が、おさよと呼ばれた男の子を抱き上げる。首っ玉にかじり付いたその子は、今にも泣きそうな声で、小さく兄さまとささやいた。
    「はは、おねむか小夜坊。大丈夫だ、寝てる間に終わりゃしないさ」
     その子の頭を撫でたのは、肌も髪も服も、全身が真っ白な男の人だった。つるさんも手伝ってよという、さっきの眼帯の男の人を適当にはぐらかして、その人は部屋を出ていった。なんとなく気になってついて行った先の縁側では、また別の男の人が、ぼんやりと空に浮かぶ月を見つめている。真っ白な男の人に、むつのかみと呼ばれたその人は、人なつこそうな笑顔を浮かべて振り向いた。
    「主は?」
    「長谷部と一緒じゃ。邪魔したらいかんきに」
    「はっは、そりゃぁだめだな。最後の最後に馬に蹴られる趣味はないさ」
     どうしてだろう。この言葉の響きも、この声も、私は確かに知っている。いや、声だけじゃない。名前だって確かに私は覚えている。陸奥守、歌仙、長谷部、鯰尾、御手杵、小夜。全部、母と一緒に行った場所で――
    「昔と、あんときと、いっこも変わらん。ずっと続く思っちょったが、終わるのはいきなりじゃ」
    「……懲りないよなぁ、どいつもこいつも」
     縁側で座り込んだ二人は、そのまま黙って庭を眺めている。なんだか無性に泣きたくなるような心地がして、私は思わず目を閉じた。
     目を開けると、私は今までと別の場所にいた。月明かりだけが照らす部屋の中は、ここからだと逆光になっていてよく見えない。けれど、二人の人影と、その部屋の空気だけは感じることはできた。
     ここで何が行われているのか、それを察した瞬間、私は出口を探して逃げだそうとした。和室の布団の上、もつれるように倒れ込んだ男女がすることなんて、心当たりは一つしかない。
     ようやく探し当てたふすまは、開けようとしても指がすり抜けてしまって引き手が掴めない。それならと思って体当たりをしても、今度は見えない壁のようなものに阻まれて弾かれてしまった。
     ちょっと待って、他人のそういう現場を見てしまうなんて、いくら夢でも嫌すぎる。焦ってもがく私の耳に、小さく女性の悲鳴のような制止の声が届いた。
     なにかを叩き落とす音と共に、小さなものが床の上を滑っていく。小さな、ビニールに包まれた薄いなにか……それが何なのか、私も分からないような年齢ではなかった。
     あるじ、という戸惑ったような声に、せっぱ詰まったような女性の声が被さる。その声を聞いて、私は固まった。
    「いいの。大丈夫、私は大丈夫だから。だから」
     お願い、とだけささやく声が、嫌になるほど大きく聞こえる。ああ、これはなんという悪夢だろう。それは、生まれてからずっと私のそばにいた人の声をしていた。

     結局、狙った時間には起きれなかった。久々に八時間以上の睡眠を取れたはずなのに、夢見がめちゃくちゃだったおかげでどうにもすっきりとしない。来る途中で買ったフルーツゼリーを片手に、私は病院の門をくぐった。
     看護師さんは、母は眠っていると言っていたはず。そう思ってそっと音を立てないようにドアを開いた私の耳に飛び込んだのは、昔とほとんど変わらないように聞こえる母の声だった。
    「相変わらず泣き虫なんだから」
     いや、昔と変わらないはずがない、変わらないようにしているだけだ。彼女は今、わずかに残る気力という気力をかき集めている。息を殺してドアを静かに閉じ、私は個室の入口の壁に張り付くように身を潜めた。
    「変わらないなぁ、長谷部は……私はこんなおばさんになっちゃったけど」
     うれしそうに笑う母の声に、鼻をすする音が小さく被さった。男の人だ。
     彼女に男性の来客なんて、今まで一度もなかったはずだ。むしろ、今まで母の周りには、異性の影なんてこれっぽっちも……
    「言ったでしょう、いつまでも待てるって……いくらなんでも早すぎます。もう二十年でも、三十年でも、俺は待つつもりでいたというのに」
     そう告げるその人の声は、涙でぐっしょりと濡れているように聞こえた。
    「……ねえ、長谷部。私、幸せだよ」
     その歌うような声に、私はわずかに苛立ちを覚えた。彼の言葉を、まるではぐらかすように話を変える母に。
    「馬鹿なことをしたとは思ってる。苦労をかけなくてよかったはずの人にも、さんざん迷惑をかけて。繋がっていたかったはずの人も……でもね、後悔はしていないの。きっとこれでよかったんだよ、私も、あなたも」
     うー、という涙にまみれたうめき声は、納得がいかないと叫んでいる。その反面で静かな母の声は、ほう、と小さくため息をついた。
    「親を選べないのは、子供の辛いところだけど……知ってるでしょう、あの子、あんなに立派に育ってる。だからね、もう」
     その先を、彼女は言わなかった。言っていたとしても、私は耳をふさいでいただろう。
    「会っていってあげてよ」
    「……今さら、どの面下げて」
    「あなたのせいじゃないでしょ、私が勝手にしたことだもの……ねえ?」
     いるんでしょうと母が呼んだのは、私の名前だった。
    「ほら、いらっしゃい」
     子供のころに叱られたときと、同じだ。そっと顔を覗かせると、紫色の服の男の人が、母のベッドのそばにひざまずくようにうずくまっていた。伏せられたその表情は、私からは確認できない。
    「顔くらい見てあげてよ、もう」
     無言で首を横に振るその人の向かい側、ベッドの反対側に椅子を引き寄せて、伸ばされた細い手を取る。母の瞳が私を写した瞬間、のどの奥から突き上げるような衝動を感じ、決壊した私の涙腺は狂ったように塩水を噴き出した。
    「最初から最後まで、こっちの都合で振り回してばっかりで……」
     ごめんなさいと繰り返す声を聞きたくなくて、私は叫ぶようにそれを遮っていた。
    「もういいよ、お母さん。もういい」
     本当は、言いたいことは山ほどある。
     お母さん、お母さんは今日のために生きてきたの。私と過ごした日々も、いつもお母さんは今日のことだけを考えていたの。だからそうして、今が終わってしまったら、なんの後腐れもなしに行ってしまうの。私は大人になってしまったから、この世にあなたをつなぎ止める理由にはなれなかったの。ねえ、お母さん。 
    「大丈夫、私は大丈夫だから」
     私のその言葉に、男の人の肩がびくりと跳ねる。そう、私たちは似たもの親子だ。ちっとも大丈夫なんかじゃないくせに、結局同じことを同じように取り繕うことしかできない。
     ありがとう。その言葉が誰に宛てたものか、私には分からない。そう言って、母はまたとろとろとまどろんでいった。
     ほっと一息ついた私の耳に、かすかな衣擦れの音が聞こえた。あわてて私が顔を上げたことに気づいたんだろう。その人は、立ち上がって後ろを向いたまま、気まずそうに固まっていた。
    「お父さん」
     口をついてこぼれた言葉は、私が初めて使ったものだった。思わずといったように振り返った顔を、じっと正面から見詰める。
     その人は私と同じか、少し年上くらいの年頃のように見えた。濃いミルクティーのような髪の色も、顔かたちも、子供のころに出会ったあの少年と、そして私とも、鏡で見るようによく似ている。まるで、私も彼も、目の前のこの人をモデルに描かれた肖像画だったのだと思えるほどに。
     涙の跡が残る美しく淡いスミレ色の瞳は、持ちうる限りの感情――喜びに愛おしさ、哀しみに怒りを全部煮詰めたような光をたたえ、私を見つめる。
     そして、何かを振り切るようにぎゅっと閉じられた視界が再びこちらを写すことはなく。その人は深々と私に頭を下げてから身を翻し、光の中に消えていった。

     ぽーん、という鈍い電子音に、意識がゆらゆらと浮上していく。
    「お客様にお知らせいたします。当機はまもなく、着陸態勢に入ります――」
     周囲から、カチャカチャという音が聞こえる。頭上のシートベルト着用サインは、もう赤く光っていた。
     機体の高度が下がり、ぐっと圧がかかる。雲の下では、真冬の冷たい海を囲む建物という、何度も見た光景が広がっていた。目的地は、あいにくここからは見えない。
     住宅街のど真ん中に降りていくにつれて、周りの建物がぐんぐんと近づいて見えてくる。前輪が滑走路に触れた瞬間、どん、という重い衝撃が、シートの下から伝わってきた。私の隣に座る大学生らしい青年は、首をごきごきと鳴らしている。
     母は、あれから目を覚ますことはなかった。
    「お母様からは、全てを成り行きに任せるように、と」
    「成り行き……ですか」
     いつもよりおとなしいパンツスーツに、さりげなくおしゃれなメガネをかけて。年齢を感じさせない、緩く波打つ濡羽色の髪に縁取られる整った顔には、うっすらと黄金色が透ける瞳。私よりもむしろ母のほうが年の近い政府職員とは、顔見知りではあってもきちんとした会話らしい会話はこれが初めてだった。
    「はい。知りたくないのであれば、そのまま。知りたいのであれば、手を差し伸べてほしい。それが、私が言付かった全てです」
     お線香の匂いが立ちこめる部屋には、骨壺と私たちの二人だけ。焼香を済ませた彼女は、私にと小さな封筒を差し出してきた。
    「本当は重要機密みたいなものだから、渡すのは褒められたことではないけれど……事情が事情ですから。画像処理だけで特別に許可が下りました」
     どんな仰々しい書類が出てくるのかと思った私は、封筒を開いて正直拍子抜けした。
     そこに入っていたのは、粗い画質の二枚の写真だった。なんだか見覚えのある日本家屋の前で撮られた集合写真には、私が知るよりも若い母が、たくさんの人に囲まれている。そして、もう一枚は……
    「あの、これは」
    「……少しは感づいていることを前提に話すね。ああ、どこまで知っているかは言わなくて大丈夫。説明なんて、できないでしょう?」
     やっぱりぼんやりとした画面の中、縁側で並んでいたのは、母ともう一人、あのとき病室で見た彼とよく似た服装の男の人だった。
    「今までは、我々の役目はお母様のような人のサポートでしたが、もうそろそろ次世代――その子供たちに対象をシフトする頃合いです。その中でも、あなたはかなり、その、特殊なケースだから。現場の担当者の裁量に任せると、上から通達も出ています」
     私の意地や、自己満足もあるけれど。そう言ったこの人が自分の味方だということを、私はもう、何も聞かされなくても理解できていた。
    「知りたくないのであれば、今までの私の話も全て忘れて、日常に戻ってください。もし、知りたいのであれば……」
     一月のあの街に行きなさい。よけいな説明は、他になにもされなかった。
    「私から詳しく話すことはしません、にわかには信じられることではありませんから。荒唐無稽で、当時を覚えている人ですら、冷静に語れないようなことだもの」
     歴史とはそういうものだ。当時を知る人も、直接伝え聞いた人も全てがいなくなり、『記憶』ではなくなって初めて、冷静に論議を尽くすことができる。今は誰がどう話しても、全容は見えては来ないだろう。
    「この国は、早く忘れたがっているの。あなたのお母様のことも、私やあなたのことも、あの年月の記憶も、全部。事実、私たちの内側に流れているものは、なにもかもが時代とともに薄れていくんでしょうね……それでも、誰かには覚えていてほしいから」
     あの場所に行って、それで何か答えが出たのなら、また連絡をしてください。そうして渡された名刺は、大切に手帳のなかに保存してある。最後に小さく、その人がつぶやいた言葉が、頭の中にこだました。
    「そうでないと、かわいそうが過ぎるでしょう。私もあなたも、彼女たちも、彼らも。だから」
     最後に母に会いに来た彼が誰だったのか。薄ぼんやりとした予想は、確信のないままに、私をこの地に導いている。小さなキャリーケースのタイヤの下で、ボーディング・ブリッジの継ぎ目がごとごとと音を立てた。
     私が生まれて、初めて一人で迎える二九回目の一月が始まる。
    The Testator from Wisteria
     孫生まれたよって言ったら泣き出しちゃって。そう言っていたのは加州清光の娘だったし、うちもそうだったと寂しそうに笑ったのは、薬研藤四郎の息子だった。これで本物の爺だなぁとか馬鹿じゃねえのクソジジイ、そう言ってビールジョッキをテーブルに叩きつけたのは三日月宗近の息子だ。
     はい、じーじですよーってだっこした娘に顔見せたらそりゃもう焦って焦ってと、ドヤ顔をしてたのは宗三左文字の娘。うちは息子が涎まみれの指を伸ばした瞬間、テンパって部屋の隅まで逃げてったと笑い転げていたのは、にっかり青江の娘だった。
     よそん家と違って度肝抜けなくてすみませんね、そんなことを考えながら、青年は顔を上げた。うっすらと煙る介護施設の喫煙室では、空気清浄機が必死に仕事をする音だけが響く。
    「大きくなったな」
     忘れもしない紫のロングコートに、ひらひらとした布と防具。八歳まで一緒に暮らした、青年の父がそこにいた。
    「……なに、もう行ってきたの?」
    「いや、まだだ。その前に顔だけな」
     隣に座ったへし切長谷部に手を出され、青年は無言でタバコを一本とライターを渡した。
    「元気そうで何よりだ」
    「……おかげさまで」
     そろそろだろうと思った。クローンのように自分と生き写しの顔は、幼いころに憧れ追いかけた姿と、そっくりそのまま変わっていない。
    「部屋にいると思ったんだが、そうか。ここにいたか」
    「すいませんね、親不孝もんで」
     高校進学と同時に家を出てから、里帰りなんてほとんどしていない。妻も仕事もあるし気を使うだろうからと、年老いた母を引き取ることもなく、こうして施設に面会に来ては罪悪感を帳消しにする日々を送っている。
     俺が息子でなくて娘だったら、こんなことにはならなかったのだろうか。青年が思い出していたのは、中学のころにあの博物館で出会った、別の審神者とへし切長谷部の娘のあどけない笑顔だった。あのとき六歳だと言っていた彼女は、今ごろどうしているのだろう。自分の身の上について、少しはもう知っていたりするのだろうか。
     あの少女の母親は、自分の母たちよりもだいぶ若く見えた。母たちも、何かを感づいたように戸惑っていたことを覚えている。
     あのときあの少女が言っていた彼女の誕生日と、年齢。その意味に自分がぼんやりと気が付いたのは、高校の保健体育の授業だった。
    「最近ちょっとボケも入ってきてさ、やってらんないよ。俺のこと見て、ちょっとハッてするんだぜ。しかも勝手にがっかりするとかさ、バレてないと思ってるんだろうけど」
     にやけてんじゃねぇよ、このクソ親父。母と距離を置いてからまた伸ばし始めた髪は、忌々しいことに今や隣の彼とそっくりそのまま同じである。なんだかんだでこれが一番しっくりくるんだと、今剣の娘はサイドにお団子を作っていた。意固地になって短くしていた髪をとうとう伸ばし始めたと、乱藤四郎の娘は諦めたようにため息をついていた。結局みんなそうなのだ、自分たちは。
    「一昨年だったか、結婚したそうだな。今日は来ていないのか? 紹介してくれたっていいだろうに」
    「ぜーったい、やだ」
     ふん、とそっぽを向くと、拗ねるなとからかうような笑い声が小さな部屋に反響する。
     自分だけだろうと、妻と二人だろうと、一緒に母の部屋になんて、絶対に行ってやらない。この日のことを意識し始めたときから、青年はそう決めていた。
     いくら顔が同じに育っても、自分は母にとっての父にはなれない。それを自覚したのは、ちょうど思春期に差し掛かるころだった。本丸で親子一緒にいたときの、なぜかほんの少しだけ感じた疎外感や寂しさは、母と息子だけでの生活が始まってよけいにひどくなっていた。両親からないがしろにされているわけでは、決してなかったはずなのに。
    「父さんさ、言ったよな、あのとき。自分を一番に優先しろって」
     本丸が解体される数日前、父子二人きりでは、あれが最後の会話になった。
    「主を頼む、と言いたいところだが……最終的には、お前の人生はお前のためのものだ。それを忘れるな」
     子供のころの自分には、父が何を言っているのか、全ては理解できなかった。それでも覚えていたその言葉に助けられたと感じたのは、中学で進路を決めたとき。
    「俺さ、父さんすげえなって思ったんだよ。ああ、こうなるってわかってたんだな、母さんがこうなるって分かってて、それで、俺にああ言ってくれたんだなって」
     母の視線に潜むものに、何かを感じるようになったのはいつのころだったろうか。成長するにつれて、生き別れた想い人とうり二つに育っていく息子。それで何も起きないほど、青年の母は強くはなかった。
     全寮制高校の推薦枠を受験すると告げたとき、母は全て悟ったように頷いた。彼女自身の弱さは、彼女自身が一番知っていたのだ、当然だろう。母の初期刀が自分に話して聞かせたことの意味を、理解できたのもそのころだった。
    「君ができる限りで、母君を大事にね。でも、辛くなったら会いにおいで。僕じゃなくても、会えるなら誰でもいい。そこにいるのが僕らじゃない僕らでも、君を拒むことは絶対にないから」
     母は審神者として、決して無能ではなかった。刀剣男士たちにも慕われていたし、自分もたくさんの兄のような存在に囲まれて、可愛がられて育ったと思う。だが、長いつきあいである歌仙は、彼女の内側の脆さと、想い人に対する苛烈さについて、十二分に知っていた。
     先日、出張のついでに訪れた、東京のど真ん中にある緑に覆われた小さな美術館。運良く会期に間に合って、自分はそのまま閉館まで「彼」と展示室で向き合っていた。
     気は晴れたが、答えは出てこないままだ。それでも、今の自分には昔よりもよく見えてくるものが多い。
    「なあ……それだけじゃなかったよな。あの意味って」
     今になれば、よく分かる。いざとなったら母から逃げろと自分に告げたあの言葉は、息子の身を案じるためのものだけではなかった。
    「実の息子を要注意人物扱いなんてするか? 普通。俺あのとき八つだぞ?」
    「これでも父親だからな、お前のことはそりゃあ可愛いさ。ただ、それとこれとは話が別だ」
     恋に対する姿勢は、二人とも似たようなものだった。愛しい男の面影を息子に探した母も、それを予想して実の息子を愛する女から遠ざけるように画策した父も。自分はああはなるまいと両親を反面教師にして生きた結果、アラフォーにして新婚という羽目になった八つ当たりのような恨みは深い。自分の選択にひとかけらの後悔もない分、なおさらだ。
    「タデ食う虫も好きずき、ってか」
    「なんだ、実の父親を雑草扱いか?」
    「どっちもタデでどっちも虫だろうが、この似たものバカップル」
     吐き捨てるような自分の言葉に、父はおかしそうに笑い、灰皿にタバコを押しつけた。
    「じゃあ、元気で」
     顔を直視することはできなかった。すっと消えていった懐かしい深い紫は、自分が吐き出した煙の中にかすんでいく。目の前は少しだけゆがみ、吐き出した息はわずかに震えていた。
     自分の母は長生きしたほうだと思う。戦時中の激務に加えて、環境の変化や親しい刀剣たちとの別れのストレスにより、早死にする元審神者は少なくないのだ。刀剣男士と審神者の子供同士での集まりに行けば、父親とのつかの間の再会話を聞く機会だって、ここ数年でぐっと増えた。
    「いやぁ、対策なんてされないでしょ。だってさっさと死んでくれたら、その分支払う年金減るわけじゃない」
     そう言ってお前らはこうなるんじゃないよと笑ったのは、自分たちに懐かしい面影を重ね、何かと面倒を見てくれていた男性審神者たちだった。
     引退した審神者たちの扱いは、歴史修正主義者との戦いが終わった後の日本では頭痛の種でしかなかった。
     一部は政府サイドの仕事へと再就職させることができたが、女性たちの多く――特に、刀剣男士との子供を産んでいた審神者たちへの支援をどうするのか。女といえど神とも妖怪ともつかない個性豊かな付喪神に慕われ、そんな得体の知れない存在と人間の合いの子を抱え、曲がりなりにも前線でこの国の危機を救った人間だ。下手に刺激して、暴走を許してしまったら。数十年に及ぶ戦いに飽き飽きしていた政府にも国民にも、勝てる術はないだろう。
     そうして困り果てた政府の選んだ手段が、『ご機嫌取り』だった。年金という形の貢ぎ物に国家財政を圧迫されながらも、この国は厄介者の死を祈るように待ちわびている。
     もちろん、手を差し伸べようと動いてくれている人もいる。政府や別の民間企業の職を得ることができた審神者たちだってそうだし、自分たちの先輩たちの中には偏見をはねのけて社会の第一線で活躍する人だって少なくない。「上の思い通りになんてさせてあげないよ」と先日飲み会で笑っていた燭台切光忠の娘は、今では政府職員のベテランだ。そういえば、近々新入りを連れてこれるかもしれないなんて言っていたっけ。もしかしたら、あのときの彼女だろうか。
     いつか子供が生まれることがあったら、そのとき俺はどうするんだろう。取り出した手荷物の中で、母の写真立てがカタリと音を立てた。
    「さて、行きますか」
     妻をこの街に連れてくるのは、今年が初めてだ。気を使っていたのか今までは一人で来させてくれた彼女が、自分も行きたいと言ってくれたことが単純に青年にはうれしかった。
     機会があったら、そのうち他のみんなのところにも挨拶に行こうか。そんなことを考えながら、到着ゲートへと進む。全国から集まる人混みには、懐かしく思える顔がちらちらと見え隠れしていた。
     昔は自分のような子供たちと、元審神者のまだ若い大人たちばかりだった展示室。その光景はいつしか、年老いた人々と、大人になった自分たちというものに変化している。
    「……年取ったなぁ、俺も」
     そうつぶやいた自分に、隣で妻がおかしそうに笑う。
     終戦三〇年。節目の一月が、この街にやってきた。
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    2022/08/13 14:55:39

    A Testatrix of Wisteria

    イベントで掲示するサンプルとして、既刊の冒頭or全文をWebに上げています。
    一部の固有名詞をちょっといじったり横組み用に編集はしていますが、オンライン用に改行増やしたりするのは諦めました、読みにくいでしょうがご容赦ください。ふりがなの設定は時間を見つけて加えていく予定です。
    読み返しましたが我ながら懐かしいですね、まだ極すら実装されていなかったころの発行だったということを前提にお読みいただければ幸いです。

    A Testatrix of Wisteria
    発行:2017年5月4日

    長谷部×女審神者。
    ・not審神者視点
    ・ねつ造設定
    ・性行為の示唆等、センシティブな描写あり
    ・他本丸の他刀さに描写あり
    ※見解は分かれそうですが、書いてる本人はへしさにのハッピーエンドだと思ってるので、これはへしさにのハッピーエンドです。

    「私は、父の顔を知らない」
     誰もが何かを隠している、それだけは知っている。
     戦争終結後の日本社会。母と二人きりで生きる『私』が暮らす、穏やかで幸せで、少しおかしな日常。その果てにやって来たものは……

    『A Testatrix of Wisteria』
    『The Testator from Wisteria』
     の短編2本を収録。

    A5 ・24ページ
    イベント頒布価格:300円
    サンプル掲載範囲:全文
    #へしさに #サンプル

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    • 食欲礼賛 総集編イベントで掲示するサンプルとして、既刊の冒頭or全文をWebに上げています。
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      食欲礼賛 総集編
      発行:2019年10月13日
      初出:2016年3月13日(『食欲礼賛』)、2017年3月20日(『続 食欲礼賛』、『食欲礼賛 終』)

      長谷部×女審神者
      ・モブが出たりする
      ・この世の森羅万象と無関係
      ・あれって思うこともあるだろうけどきっと気のせい
      ・無関係なんです、そういうことでお願いします

      審神者には月に一度、政府本部での定期面談が課せられている。近侍を伴い、ゲートまでは現世を経由し、面談の後は寄り道をして――
      ラーメン、ナポリタン、インドカレー……おでかけの度に増えていく、二人きりの時間。そして本丸のみんなにも見守られながら、主従という関係も少しずつ変わっていく。
      これは近侍の長谷部と審神者の「私」の、ささやかな毎月のお楽しみの話。
      総集編書き下ろし、『十月――銀座の花屋のあんみつ』収録。

      文庫・376ページ
      表紙・挿絵:藤村百さん
      イベント頒布価格:1500円
      サンプル掲載範囲:およそ3分の1強(『食欲礼賛』掲載分)

       通販・イベント共に、特典として無料冊子
      『いつかの本丸の夜食ラーメン』
      をお渡しします。審神者のオリジナル裏設定をやりたい放題ブチまけてますのでご注意を。

      #へしさに #サンプル
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    • 増殖する忠犬へし公の群れに地獄の補佐官様は打って出るようですイベントで掲示するサンプルとして、既刊の冒頭or全文をWebに上げています。
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      増殖する忠犬へし公の群れに地獄の補佐官様は打って出るようです
      発行:2018年10月7日

      長谷部×女審神者
      ・『鬼灯の冷徹』クロスオーバー
      ・クロスオーバー先原作程度の
        死ネタ
        グロ描写
        メタメタしい発言
      ・両原作に対する捏造設定有

      時間遡行軍との戦いが終わり、すべての本丸は解体。審神者は人間としての元の生活へ、刀剣男士たちはそれぞれの本霊へ戻っていった……はずだったが?
      「主がこちらに来るまでここで待つ」と言って突如地獄の門の前へ大集合した、あちこちの本丸のへし切長谷部!
      ふざけんなと動き出したご存じ閻魔の補佐官!
      最強の地獄のナンバーツーが、忠犬軍団に取った手段とは?

      文庫・120ページ
      表紙:藤村百さん
      イベント頒布価格:700円
      サンプル掲載範囲:最終章前段階まで
      #へしさに #サンプル #クロスオーバー
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    • いつか笑って話せるようにイベントで掲示するサンプルとして、既刊の冒頭or全文をWebに上げています。
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      いつか笑って話せるように
      発行:2020年8月30日

      長谷部×女審神者
      ・転生現パロ夫婦本。記憶なし長谷部×記憶あり主
      ・モブとの会話
      ・基本的に、長谷部が主に敬語じゃない
      ・ほんのりとした、匂わせる程度の死ネタ

      「お前が見ているのは俺なのか、それとも俺の内側にいる別の誰かなのか」
      「教えてくれ、お前は何を知っているんだ、俺とお前はいったい何だったんだ」

       本丸の記憶が戻らないまま、主と出会い、恋をし、結婚した長谷部。
       妻と自分、そして周囲の友人たちとの間に横たわる、どうしても埋まらない“何か”を追い求めながらも、日常は穏やかに過ぎていく――
       手探りで歩む二人の日々を、日々の食卓とともに描く十三章。

      「信じたいんだ。記憶がなくても、また好きになってくれた彼のこと……思い出してくれなくても、ちゃんと好きになれた私のことも」

      文庫・224ページ
      表紙:藤村百さん
      イベント頒布価格:900円
      サンプル掲載範囲:冒頭三話分
      #へしさに #サンプル #現パロ
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    • 例の部屋に閉じ込められましてイベントで掲示するサンプルとして、既刊の冒頭or全文をWebに上げています。
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      例の部屋に閉じ込められまして
      発行:2019年2月24日

      長谷部×女審神者
      とうらぶユーザー審神者(アラサー社会人)
      ・導入のみ“ちゃんねる小説”形式
      ・捏造設定多数
      ・メタ発言

      夢の中、謎の空間で、ゲームのデータでしかないはずの近侍と鉢合わせたアラサー社会人兼業審神者。
      唐突に舞い降りてきたメモには、『キスしないと出られない部屋』と書かれていて……
      「――いや、支部かよ!!!」
      脱出条件をクリアして、リアルワールドに戻りますか?
      それとも、長谷部と一緒に夢の中での邂逅を楽しみますか?
      ドリームとリアルの間で揺れる、とあるひとときの物語。

      A5コピー・24ページ
      イベント頒布価格:200円
      サンプル掲載範囲:全文
      #へしさに #サンプル
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    • 一文字御隠居の昼飯珍道中イベントで掲示するサンプルとして、既刊の冒頭or全文をWebに上げています。
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      一文字御隠居の昼飯珍道中
      発行:2022年5月3日

      長谷部×女審神者
      ・則宗視点
      ・公式にないねつ造設定多数
      ・「そりゃこんだけ本丸があれば、CPも個体差も何でもありでしょ」という作者の認識を元にしたエピソードも出てくる。

       慶応甲府の特命調査を経て、とある本丸に監査官こと一文字則宗が顕現した。
       男所帯のトップが妙齢の女性で、秘書役と熱烈恋愛中。それだけ聞けば危うく思えるものの、なかなかどうして問題なく運営できているようだ。
       案内役兼教育係として加州清光に本丸を連れ回され、懐かしい顔とも鉢合わせ、やって来たのは台所。
       メインキッチン以外に、台所は共同棟と生活棟に計二カ所。聞けば、朝と夜は全員で食事を取るが、昼は各自で済ませるらしい。
      「自分で作るのもありだけどね。しばらくは、得意なやつが多めに作ってくれるとこに断って交ぜてもらうのもいいんじゃない?」
       こうして、一文字御隠居による昼飯行脚の旅が始まった――

      文庫・296ページ
      表紙・挿絵:須羽永渡さん
      イベント頒布価格:1000円
      サンプル掲載範囲:プロローグ+冒頭三話
      #へしさに #サンプル
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    • 主を探して三千里~受験生 長谷部国重の憂鬱~イベントで掲示するサンプルとして、既刊の冒頭or全文をWebに上げています。
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      主を探して三千里~受験生 長谷部国重の憂鬱~
      発行:2018年11月24日

      長谷部×女審神者
      ・転生現パロ
      ・モブの登場
      ・何でも許せる人向け
      ・この世の全てと無関係

      長谷部国重高校三年生。定期テスト前夜に思い出したのは前世の記憶と、そして……昔通っていた小学校に主がいた!?
      成績ガタ落ちで呼び出しを食らった春の終わりから、刻々と減っていくセンターまでの残り日数と、始まった昔の仲間探し。果たして彼は無事主を探し出せるのか、そして第一志望に合格できるのか?

      文庫・132ページ
      表紙・挿絵:須羽永渡さん
      イベント頒布価格:700円
      サンプル掲載範囲:最終章手前まで
      #へしさに #サンプル #現パロ
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    • 『居酒屋 あるじ』ツイッターのタグ企画で書いたもの。
      冬の本丸で時々開催される、アラサー女子審神者の道楽のお話です。
      新人組の様子はだいたいこんな感じよ。
      #刀剣乱舞 #女審神者 #笹貫 #稲葉江
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