二人でなら生きていける あれは、神の戯れに過ぎなかった――今ではそうとしか言えない。そう言うしかなかった。
あの惨劇の後、狗凱と羊田は自主製作映画チームを立ち上げた。元々狗凱には携わる小規模なチームがあったので、それを再起させたという感じだ。とは言え、レンタルスタジオや小劇場、身内の私有地を使いながら、少ない予算と人手不足に苦労し、どうにか映画を撮るという形で、出来上がったものを動画配信サイトに投稿したり、その手のコンテストに売り込んだり、細々とやっている。損益を同等に考える暇も無いが、それでも充実感を得ている。
――ヒーロー映画。二人が思い描く世界は常に変わらず、幼い頃に夢見たヒーローを自分達の手で生み出している。
短い映画を一つ、また一つと完成させるうちに、狗凱と羊田の中で共通する思いが固まっていった。自分達の始まりの場所――河川敷と向き合おう。全てが終わったとしても、気楽に赴くことは出来なかった。だが、自分達の作るヒーローはどんなに打ちのめされても立ち上がり、戦っている。そんなヒーローを描きながら、もやついていられるだろうか。……行こう。そして、ようやくその時を決めた。
河川敷を見下ろせる道端に立つ、でこぼこの人影が二つ。夕陽に射され、それは色濃く浮かんでいる。
「なぁーんも無くなっちまったなぁ」
狗凱は溜め息を吐き、頭を掻いた。その隣で羊田も「うん……そうだね」と呟き、眉をひそめた。予想していたとは言え、実際直面すると妙に喪失感が込み上げてくる。
昔、この河川敷には無邪気な子供達だけの楽園があり、草むらの中にはヒーローと怪獣が戦う街があった。その街は大人達から見捨てられたドラム缶や瓦礫、空き瓶、ビールケース、鉄骨、古雑誌などで築かれ、やがて子供達の記憶の中ですら霞んでいくものだった。
それなのに、心の片隅に残っていた。だから、不法投棄されていた大小のゴミの数々が消え、短い階段の下、除草による小奇麗な野面に木製のベンチとテーブルが置かれているという光景は、何だか物足りない。環境的に正しく整えられたのだと分かっていても、もう二度と心のパズルのピースが完璧に埋まることは無いという事実が胸を締めつける。
二人の視線の位置は高低差が目立っている。けれど、確かに同じ光景を見ていた。幼い男の子と女の子がはしゃぎ回る夢。笑い声は甲高く、ぶつけたり、転がしたり、無遠慮な物音の幻。まるで大人達に邪魔されないと信じ切っているような、純粋無垢だった頃の影。
無意識のうちに強張っていた羊田の手は、ようやく緩んでいく。あの惨劇で彼らと再会する前から、今に至るまで一人では来られなかったのだ。
「私も久しぶりに来たんだ、ここ……。知らなかった」
街へと襲来する怪獣を倒して人々を救う小さなヒーローがいた、唯一の拠り所。いつからだろう、ここに近寄らなくなったのは。少なくとも、ここで過ごせたのは小学生時代の僅かな間だけだったと羊田は思い返す。
幼い頃、神の依代として選ばれた羊田にとって、それは誇らしいものではなかった。耳を塞ごうにも、延々と神の声が聞こえる日常を過ごさせねばならなかった。その中で狗凱と出会い、ガラクタの街に耽った。しかし、そこに子供らしい楽しみを見出したのも束の間、神は二人のヒーローごっこを無用と定め、羊田の脳裏に呪詛を鳴り響かせた。……耐えられず、遠退くしかなかった。そうして二人の交流は途絶えた。彼の姿が側に無くても、必ずヒーローはどこかで存在すると思えば希望を持てたけれど。
羊田は神の声を聞きながら、神を信じたことは無い。ヒーローだけを信じていた。信じていたからこそ、自分は救われるに値しないのだと理解してしまった。気付けば人が踏み入れてはいけない領域に置かれ、手は血に濡れていたのだから。
(……私、選ぶつもりだった)
――贖罪。そして、解放されたかった。
身勝手な願いだとなじられても当然で、思い留まったのも寸前のこと。ずっと信じていたヒーローから理想を問われなければ、きっと……。
「おい、メリー」
狗凱の低い声が羊田の頭上にのしかかる。自然と肩が跳ねた。狗凱の方を見上げると、訝しむ目付きで見下ろされている。
「え……」
「大丈夫か」
羊田は俯いた。狗凱の言葉にすんなりと頷くには難しい。羊田から明るい反応が返ってくるはずがないと狗凱も分かっていたが、咄嗟に出た言葉がそれだった。しくじった。しかし器用な言葉掛けは無理だ。慌てて撤回しても無様なだけなので、そのままにしておくしかない。羊田にも狗凱の心境が伝わり、傷付くこともなく、ゆっくりとした足取りで階段を下りることにした。狗凱もそれに続く。
二人が目指す先は自然とベンチになり、そこへ腰を下ろす。夕陽に照らされる川面が眩しい。この流れる水も昔より澄んだ気がする。良いことだ。変化は恐ろしかったり、悲しかったり、寂しかったりするかもしれないが、悪いことではない。
狗凱は緩く後ろ手をつき、茜色の空に目を向ける姿勢になった。羊田のつむじは視界に入っている。
「俺が見にきたかったんだ。お前な、無理してついて来る必要は無かったんだぞ」
「ううん……。私も、ちゃんと見ておきたかった」
羊田は膝の上に両手を置き、改めて辺りを見る。やはり名残は無い。探したところで、例え見つけたところで何が変わるのか。勿論分かっている、何も変わらないということを。
狗凱は、次は自分の意思を持って躊躇無く口を開いた。
「さっき、馬鹿なこと考えてたろ」
「……」
「分かりやすいんだよ」
「ごめん」
「もう謝んな。お前は……充分戦っただろうが」
不意に、狗凱の片手が羊田の頭に乗せられた。当たり前のような仕草だった。男の子と呼ばれていた頃よりも随分と重みを増した手付きで、羊田の髪には撫でられた跡が出来る。
「俺がだらしなく生きてる間、お前らは苦しんでたんだよな。もっと早くに気付いてやれば……とか、思う。思うけどさ」
羊田の頭から手を退け、深く溜め息を吐いた。心からの言葉が吐き出される。
「でもやっぱよぉ、あの時の選択、後悔してねぇんだわ」
猫山をぶん殴っただけで気が済むとは思えなかった。過去に戻ってまで自分の人生を否定したくなかった。他の願いが浮かんでいたら、それを叶えてもらっていたら、もっと穏やかなエンディングを迎えられたかもしれない。だが、考えても無駄なことだと断言出来る。
あの時、狗凱には目の前のことしか見えなかった。ずっとヒーローを信じてくれていた、ただ一人の存在――無理矢理背負わされた罪に屈する羊田を許せなかった。羊田は大人しく、自分以外との人間関係には疎いようだったし、センスが無かった。でも、誰よりもヒーローを信じていた。誰よりも、自分よりもヒーローを信じていた。だから、死なせたくなかった。
緩々と背を丸めた狗凱の横顔に、ほんのりと憂いが帯びる。
「俺は……ジコチューなんだよ」
これも一つの罪。羊田が気に病むかもしれないと思い、ストレートに口にすることは出来なかったが、その意識はつきまとう。羊田が河川敷に来なくなってから、どんな日々を送っていたのか、鮮明に思い出せない。羊田に避けられるようになって、ヒーローごっこに飽きたのだろうと諦めたのかもしれない。無理矢理にでも話しかけて、事情を聞いて、寄り添ってやれなかった、無力で何も知らない子供の罪。
だとしても、やはり後悔の念は無い。「今」、目の前にいる救いたい人を救ったことが罪なら、怪獣を倒す為に街すら壊してしまうヒーローのような代償なら、甘んじて汚名を名誉として受け入れよう。
狗凱が口籠るので、羊田はそっと狗凱の方を見た。久しぶりに身動ぎした羊田につられて狗凱も視線を向けた。
狗凱の顔色に合わせ、羊田は切なそうに目を細める。そして、狗凱に対して肯定とも否定ともとれない声色で言った。
「剣獅君はね、私のヒーロー」
子供の頃と変わらない、真っ黒で静かな瞳だと狗凱は思った。昔はガラクタの街で笑いながらも、ふとした拍子に薄暗さを湛えていた気がする。一人で神の声を背負っていたからだろう。でも、今は安らいでいるように見えた。それが嬉しかった。ただ、何となく……羊田の瞳に自分が映っていると思うと、落ち着かなくなってくる。今更のことなのに、どうして。
狗凱は気取らないように顔を前に向けた。流れ続ける川。堰き止められるかもしれないし、溢れ返ってしまうかもしれないけれど、川は流れるものとして出来ている。あの神にとって、自分達の人生はこんな程度のものに見えるのだろう。そう思うと、狗凱の中で闘心が激しく揺れ動く。
――人を小馬鹿にして高みの見物をする神より、打ちのめされても立ち上がるヒーローの方が断然格好良いに決まっている。
昔、この河川敷には理想郷があった。それは幼稚で、曖昧で、いつか色褪せ、永久を確約されたわけでもなく、今では過ちの象徴にもなってしまった。子供の時代は終わった。ガラクタの街は築けない。捨て犬に餌付けは出来ない。星空を眺める余裕は無い。
でも、今の自分達だからこそ出来ることもある。
「今度、ここで撮るか……」
超大作にしてみせる。ぽつりと漏らしたそれは独り言のようでいて、宣言に等しかった。羊田がそれに応えるよりも先に狗凱は勢い良く立ち上がり、川の方へと近付いていく。
「お前が嫌だっつっても、これから一生二人で映画撮り続けるからな。覚悟しろよ」
羊田に背を向けたまま言い切る。ぶっきらぼうな言い方には、ガラクタで遊ぶ小さなヒーローだった頃の幼さがあり、羊田自身の理想を何度も問いかけたヒーローとしての強さも感じられる。
狗凱がどんな表情をしているのか、羊田には分からない。それでも構わなかった。彼がどれだけ不器用で、誠実で、自分だけのヒーローであるかを知っているから。
「うん。約束、だもんね」
子供の頃の淡い約束。二人でヒーロー映画を撮ること。その約束を大人になっても守り、信じ続ける。
取り戻せないものはたくさんあるけれど、ヒーローを信じてくれる人と、ずっと信じてきたヒーローがいるなら、お互いの罪と共に生きていける気がした。
完