愛憎の町で求めた理想郷1
彼と出会ってしまった罪に、現実という罰が下される。
ある日、一人の子供が産声を上げた。父と母の血を受け継ぎ、すべすべの肌と心地良い体温を持ち、お気に入りのおしゃぶりを咥えていないとぐずり、頬をくすぐられると笑い、ミルクをよく飲み、ぬいぐるみと共に眠り、絵本を読み聞かされ、積み木を重ねて遊ぶ、どこにでもいる男の子だった。
やがて男の子は成長し、小学校に入った。そこは、分裂する人格を一つにまとめ、「普通」を作り上げる為の場所だった。堂々と手を挙げた方を正しいと見なすらしい。そう気付いたのは、自分が怯えて手を挙げない方にいたからだ。「気持ち悪い」と、「オカマ」と、「そっち系」と、「子孫を残さないから駄目」と、「ホモ」と、侮辱の言葉が飛び交うことこそが「普通」だった。
冷ややかに悟った男の子は「普通」を演じることに努めた。そうしなければ、自分は生き延びていけないから。彼への想いが、こぼれ落ちて止まらなくなるから。
世界は、あまりにもつまらない。
自分の思い描く理想郷でなら、きっと……。
今夜も豊基と猫山は河川敷にいた。星を見に行こうと誘ってきたのは豊基で、猫山はその言葉に乗る。どうせ星を眺めるのは最初の三十分くらいで、あとは持ってきたおやつを食べたり、牛乳を使った一発芸ではしゃいだり、くだらない雑談でのんびり過ごす。ただそれだけの時間なのに、猫山は嬉しかった。このつまらない世界で唯一、自分自身が本当に笑っているという実感を得られる。
不意に豊基が「おっ」と明るい声を上げる。どうしてそうも目が良いのか、橋の側にひっそりと落ちているエロ本を見つけた。薄汚くても豊基にとってはロマンらしい。意気揚々とそれを獲得して猫山の隣に戻ってくると、うへへへと笑いながら眺め始めた。
猫山は、その瞬間だけ眉間を寄せる。
「なあ、イッツG」
「あーん? どしたの?」
呼びかけられた豊基は軽い調子で応え、猫山の方を見る。夜の色に紛れる表情は不鮮明で読み取れないが、猫山の声を無視するつもりは無かった。
「お前、こういうのが『普通』だと思うか」
「こういうのって?」
「いや……その、エロ本」
男が裸体の女を組み敷き、女は悩ましい顔をしている。そこに猫山は指で示す。声は不自然かもしれないが、指先の震えは夜暗が隠してくれる。泣き出したくなる情けない表情も豊基には伝わらない。
「男と女が、こういうことするのが『普通』だと思うか」
「フツーじゃないの?」
豊基は即答した後、有頂天のままに次々とページを捲る。男と女。男と女。男と女。男と女。男と女。懐中電灯に照らされる図の全て――何かが込み上げてきそうになった所で、猫山の視線は逸らされる。
「……そうか」
「何だよ?」
「別に何でもない」
普段なら回転する頭も、こういう時の言い訳だけは無様だという自覚が猫山にはあった。その隙を見抜いたかのように、豊基はけらけらと笑う。
「んもー、猫山ったら真面目ぶっちゃってさぁ。たまにはお前も見てみろよ。ホントはちょっと興味あるんだろ? あ、レベルが違うってか? え?」
そう言いながらエロ本を見せつけようとしてくるので、猫山は手で押し退け、呆れて溜め息を吐いた。
「あーあーあー、はいはい、そうだよ」
「うわっ、敗北感! いいよもう、どーせ俺は猫山なんかに勝てないもんねー」
口を尖らせる幼い仕草をする豊基が、猫山には遠い存在に見えた。こんな子供みたいに振る舞えなくなったのは、多分つまらない世界を見限った頃からか……。
そのうち、帰宅してからじっくり堪能したいからと豊基はエロ本を鞄に仕舞い込んだ。気楽に寝転がり、鮮やかな星空を眺める。星座の名前の一つさえ覚える気も無さそうなのに、何故かここを好む豊基が不思議でならない猫山だが、それでも笑い合えるならどこでも良かった。
「なあなあ、猫山」
「どうした」
「お前とずっと遊んでられる理想郷、早く叶わないかなぁ。そしたら遅寝遅起きしても許されるし、勉強しなくていいし、おやつ食い放題だし、エロ本探し出来るし、鼻から牛乳しても怒られない! 最高!」
「……ああ」
空笑いをした猫山の呟きを、豊基が聞き取ったかは分からない。
「俺は……お前が羨ましいよ」
「普通」でいられるお前が憎らしい。
「普通」でいられるお前を好きになってしまった自分が、憎らしい。
2
日中には四十人の子供が詰め込まれる小さな教室。しかし放課後は打って変わって静まり返り、だだっ広く感じる。その教壇の上、黒板の前で羊田と猫山は密談していた。同じ朗読会に属し、同じ理想郷を目指しているはずの二人の距離は、どこか薄ら寒い。
猫山の目付きは鋭いが、羊田の暗い表情を見ていない。その貫く視線の先――羊田の胸元に垂れ下がる赤い石のネックレスは、理想郷を謳う朗読会が崇め、畏れる神が宿っている。
「神を呼ぶ」
「でも、先生は駄目って……」
「いや、俺はやる」
「神様は偉くて、凄く怖いんだよ。先生が言ってた」
「それでも、やり遂げてみせる」
猫山の顔が険しくなる。ふいとネックレスを人差し指で示す仕草には、恨むような情念が表れていた。神の依代でありながら自分では赤い石を操れないという、不完全な羊田に苛立つのだ。
「羊田だって、その赤い石から……神から解放される。平和で静かな世界なんて、叶ったところで何になるんだ?」
「……」
「俺なら、そんな願いなんかより正しく使える。俺の願いにはお前達がずっと一緒にいられることも含まれたっていい。羊田の本当の願いは、それだろ」
「わ、私は……」
その願いが叶うなら、勿論――けれど、上手く言葉を紡げない。彼も猿渡先生から何度も忠告され、知っているはずだ。神の現界は畏れ多いことであり、何よりも重要なものが必要だと。なのに、猫山は生き急ぐ。焦燥感が理性を崩させ、衝動に変えてしまう。
不安になる羊田の手はネックレスを握っていた。その感触に応えるように、赤い石は不気味な生温さでその手の平を汚す。
ふと猫山の険しかった表情は緩み、憂いを帯びた。指していた手を下ろすと、口惜しいと言わんばかりに握り締める。
「俺は作るんだ、理想郷を。あいつと笑っていられるなら、それでいい。せめて理想郷でなら俺は、あいつと……」
「好きなんだね」
「……うん」
羊田の言葉に抗わず、猫山は小さく頷いた。その瞬間だけ、年相応の、どこにでもいる男の子だった。
いつもテストは百点満点が当然で、爽やかな笑顔を絶やさない、クラスの人気者。それが猫山として見なされていた。だが、朗読会が創設されたばかりの頃に一員となっていた猫山は、ずっと冷めた表情をしていた。創設者にして担任教師の猿渡先生が語る素晴らしい世界に質問するわけでもなく、反論するわけでもなく、ただ黙々と知識を吸収していた。猫山と同時期から在籍していた羊田は、クラスの人気者とは違う姿をよく知っている。
けれど、同じクラスメイトの豊基が入会してから、その陽気な言動に呑まれたのか猫山の雰囲気は変わっていった。豊基はお調子者だった。どこの輪にでも入り込み、給食の時間に鼻から牛乳を飲んで吹き出し、クラスメイトを笑わせる男子。そんな二人は教室でもつるむようになった。
お調子者と人気者という立場だけ考えれば、繋がりが強まるのはよくあることだろうけれど、朗読会で晒す冷ややかな猫山を知っている羊田としては、不思議な特別さを感じた。豊基が側にいる時の笑顔は、クラスの人気者の笑顔とはまた別物に見えた。また、鼠谷が阿黒の名前をよく口にし、こそこそと犬の飼い方の本を読むのは何かあるらしいとも察した。
教室や朗読会では見せない顔を持つ二人に気付けたのは、自分自身が彼と出会ったからだ。学校帰り、導かれるままに足を運んだ河川敷で。絶望の現実とは違う、光り輝くヒーローの世界を語ってくれた彼と。
――ぽつりと、猫山は吐き捨てる。
「俺は気持ち悪くて、生き物として正しくない。間違ってる」
心を深く傷付ける、残酷な言葉。まるで、胸にナイフを突き刺すように。
「こんな世界、もううんざりだ。俺を嘲笑って排除する世界なんてつまらない。テレビを観ても漫画を読んでも笑い者だ。今日もクラスメイトは言っていた。男子同士のプロレスごっこの最中、押し倒して重なり合って。あれが『オカマ』で『ホモ』で『ヘンタイ』らしいよ。俺はあいつらにとって存在すらしないのに、馬鹿にまでされる。『普通』じゃないから」
「そんな……そんなことないよ」
「『普通』の羊田に俺の気持ちなんか分からない!」
その叫びに、羊田の胸はずきりと痛んだ。猫山は自分からの同情も理解も求めていない。だから下手なことしか言えず、余計に無茶な方向へと進めさせてしまう。
そして何より、羊田自身が苦しんだ。この絶望に満ち溢れた現実で、弱い人間を殺せる、彼自身が苦しむはずの簡単な言葉。彼は自分のことを「普通」として見ている――尖った視線に気圧されながらも羊田は陰鬱な気分になる。果たして自分は「普通」なのだろうか。呼吸し、会話し、突っ立つ今も、脳裏では神の声が響いている。狗凱の側にいる時だけは潜む声も、重い呪いを背負うのは自分の役目。これは……「普通」?
「……だけど、やっぱりちゃんと揃え――」
「メリー! メリー!」
そこで、閉められたドアの向こうからでも響く呼び声と激しい足音が聞こえてくる。二人は会話を止め、誰が登場してくるかは明白のクラスメイトを待つ。
乱雑にドアは開けられ、ふわりと赤いマフラーがなびく。まだ出来ていなかった宿題を居残りで終わらせ、職員室まで提出し、ヒーローごっこが騒がしいと算数の先生に注意されてから帰ってきた狗凱だ。
「よーしメリー、河川敷行くぞー!」
勢い良く教室に飛び込んで高らかに宣言したが、そこに「メリー」こと羊田以外の人影がいるとは思わず、肩を跳ねさせた。
「うおっ、びっくりした。えーと、お前は……猫……猫……」
「猫山だよ、カントク君」
「ああ猫山……キャッツか。何やってんだ?」
ヒーローなんて夢物語に耽り、ヒーローごっこの相手は羊田だけで、クラスメイトの名前があやふやなくせに、何故かあだ名で呼んでくる所が絶妙に鬱陶しい――密かに思いながらも、猫山は穏やかな顔を作る。
鬱陶しがられていることはともかく、教壇の上で羊田と猫山が寄り合う、妙な空気を感じて狗凱は小首を傾げた。が、猫山はさっさと自分の席に向かってランドセルを取りに行く。「僕のハンカチ、どこかに行っちゃったみたいで」と話し始める姿は、いつもの猫山だった。クラスの人気者の、「普通」の猫山。羊田が口を出せるはずもなかった。
「ここで落とした気がするし、羊田さんがいたから訊いてたんだけど、カントク君は見てない? 黄色いハンカチ」
「知らねー。職員室のとこの落とし物入れにあんじゃねーの」
「じゃあ見てくるよ。二人共ありがとう」
そう言ってあっさりと猫山は退場し、教室には狗凱と羊田だけが残される。閉じられたドアをしばらく見ていた狗凱だが、くるりと羊田の方を向いた。
「メリーってさ、キャッツと仲良いのか?」
「え……」
気不味くなりそうで少し身構えていた羊田は、思いも寄らない問いかけが飛んできたのでたじろいだ。狗凱は知らないに決まっているが、ただ不毛な会話をしただけだというのに。
「そんなことないと……思う」
「でも喋ってたじゃん」
「話しかけられたら喋るよ」
「ふーん。でもさ、ヒーローの話は俺としか出来ないよな?」
「うん」
羊田が素直に肯定すると、何か満足したように狗凱も大きく頷いた。「ほら、さっさと行くぞ!」と羊田の手を掴む。擦り傷やたこがある手の温度。鳴りを潜めた神の声よりも先に、羊田は狗凱の温もりを感じられることに安心した。
急いで教室を出て下駄箱で靴を履き替え、昇降口から校門へと駆け出した後、赤と黒のランドセルを背負う二人。河川敷に向かう道を急ぎ足で進み、他愛無く話し合う。
「今日は必殺技披露する日だからな。ちゃんと考えてきたか?」
「うん。でも、二つしか浮かばなかった」
「じゃあどっちがセンスあるか審査してやる」
「剣獅君はどれくらい考えたの?」
「十六個くらい」
「多い……」
「いーじゃん。メリーに見てほしくてさ、どんどん浮かんだんだよ」
猫山は――現実は、世界は、こういうことを「普通」と呼んでいる。自分は女子で、狗凱は男子。何故か今も手を引かれ、寄り添い合って歩く。「好き」と言えば照れ臭くても受け入れてくれるだろうし、レンアイやケッコンするかもしれない。逆に、女子と男子なのにレンアイやケッコンしないのは、「普通」ではないということなのだろうか。自分には父と母がおり、その間に産まれたから、やがて母と同じように子供を産まなければならないのだろうか。そうしなければ、間違いなのだろうか。
羊田自身、豊基が隣にいる時だけに見せる猫山の本当の笑顔を知るまでは、「遠いどこかにいる変な人」としか思っていなかった。でも、すぐ側にいた。好きな人と一緒にいると楽しそうで、自分が「普通」ではないことに苦しみ、自分とは別の「普通」ではない存在には気付かない、ただの男の子だった。そんな彼が望むのは、あまりにもささやかな理想郷。
神を宿す身として、羊田は予感する――こんなにも手の込んだシナリオを易々と終わらせるなんて、娯楽に耽りたい気紛れな神からしてみれば興醒めだ。彼を止められはしない。愛しているものを憎んでしまう。混ざり合う愛憎で一層苦しみ、もう何も見えなくなる。そして、いつの日か、復讐の時が訪れるだろう。
「下りるぞー」
狗凱の掛け声で我に返った羊田の目前には河川敷が広がっており、手を引かれたままずるずると土手を滑って地に立った。しかしガラクタの街が隠れる草むらに入る直前、羊田は足を止めた。急な動作に狗凱も立ち止まり、羊田の方を向いた。二人の手は、そろりと離れてしまう。
――きっと、自分達の出会いは神の遊びの一つで、策略に過ぎない。けれど、こうして彼と一緒にいたいという気持ちが紛い物とは思わない。だから……時折、羊田は彼へと確認する。
「剣獅君、約束覚えてる?」
彼のことを信じていないからではない。誰よりも信じているからこそ、確認してしまう。
「平和で静かな世界、だろ? 分かってるって。スターヒーローに任せとけ」
狗凱は自信満々な顔をして胸を叩くと、再び羊田の手を掴み、強く引っ張っていく。その直向きさに、自分の罪深さに、羊田は泣きたくなる。
「お前も約束忘れんなよな。そんな世界でさ、二人だけでヒーロー映画作るんだぜ!」
羊田は頷いた。自分の約束を叶えてもらえば、彼の約束は叶わない。独り善がりな想いが彼に伝わらないことを祈って、いつも頷く。
世界平和の為に自分一人の犠牲で済むなら、それでも構わない――そんな、いかにも美しくて清らかで高尚な志から来る感情は無かった。
猫山は「普通」ではないと言った、世界から排除されていると。だが、こうして神の依代として使われる自分もまた「普通」ではないはずだ。なのに、「普通」ではない者同士で手を取り合うことも出来ず、ただ理想が行き違うだけ。もっと言えば、まだ何も告げていないのに、豊基が猫山を拒絶すると決まったわけでもないのに、どうして最初から諦めるのか。そう言えない羊田は歯痒かった。そして、神の声が聞こえない彼を羨んだ。猿渡先生からは神に選ばれた証だと諭されるが、これは制御の効かない病気だとさえ思う。猫山は、この苦しみを分かってはくれないだろう。
結局、世界が平和で静かにならない限り、争いや溝は生まれてしまう。全ての苦しみを終わらせる方法は、この現実世界が安らかな眠りに就くこと。それは、死とも言い換えられる理想郷。
彼が死んでしまうと思うと悲しく、耐えられない。けれど、彼と同じ場所で、同じ形で眠りながら、同じ夢の中で、お互いが思い描くヒーロー映画を永遠に撮れるなら……と、淡い期待をどこかで抱いてもいる。そんな自分自身を、羊田は狂気を招く神の現界よりも恐れた。目を輝かせながら語る彼のヒーローは、こんなにもおおぞましくて欲深い真似などしない。
だから、託そうと思う。この赤い石を、自分の命を、スターヒーローに。その時が来たら怪獣を倒してくれる。ヒーローは必ず勝つから。
小さな手を繋ぎ合ったまま、男の子と女の子はガラクタの街へと消えていく。迫る夕陽が惜しいから、早く早くと。
3
愛造病院の真っ白な特別個室は、カーテンの隙間から差し込む昼過ぎの日の光に照らされ、一層清明な雰囲気を漂わせている。
ベッドの上で眠る猫山の体には様々な管が繋がれており、心電図を表すモニターの音が静かに続く。その逆側に置かれた椅子に就く豊基は、牛乳を飲みながら読書に耽っていた。星座の本。子供の頃、猫山が読んでいたものだ。犬飼刑事に頼み込んで猫山の家を開けてもらい、かっぱらってきた。自分達が理想郷を語り合って過ごした、小学四年生の間だけ読んでいたとは思えない。本の端々ががさついていたり、マーカーペンや附箋が目立っていたり、拙いものから小難しいものまで、細かく添え書きが残されている。
――ぴくりと微動した彼の瞼を、豊基は見逃さなかった。本を閉じ、サイドテーブルに置く。猫山の開口を待った。
目覚めた猫山の視線は自然と天井に向いているが、その次には椅子に座る豊基を捉えた。そして、悲憤に満ちた最初の言葉を放つ。
「お前が心底憎らしかった」
とりあえず豊基は牛乳を一口飲んだ。まるで猫山が目覚める時を分かっていたように動じず、いつも通りに平気な顔をして応えた。
「何言ってんだよ、心底愛してるの間違いじゃないのー?」
陽気で、能天気で、腹立たしいくらいに包容の台詞を告げられ、猫山は怒りとも切なさとも言えない感情のままに目を見開いた。
溜め込んでいた気持ち。本当は、ずっと言いたかった気持ち。そうだ、憎んでいた。誰よりも何よりも憎んでいた。十年以上も想い、踏ん切りがつかず、死ぬか生きるか賭けをして、懸命に憎んで――一緒に笑い合える、ただそれだけの理想郷を求めるくらいに愛していた。
「うるさい、黙れ。憎い。お前が憎い。憎くて堪らない。黙れ……」
「黙りませーん。これからも毎日見舞いに来ちゃうからな。面会時間ぎりぎりまで居座ってやる。覚悟しとけよ」
憎い憎いと繰り返す猫山など気にせず、豊基はあっけらかんと言い切る。先程から飲んでいた牛乳を空っぽにすると、気楽な感じで伸びをしながら立ち上がった。
「あのさ、猫山」
呼びかけられた猫山は顔を背け、何も言わない。それでも豊基は分かっている。あの時、自分の言葉を聞いてくれたから、今だってそうだと信じられる。
「俺、お前のこと裏切っちゃったけど。お前のこと嫌いなんて言ってないし、お前と星を見に行ったことは覚えてるし、一緒にいて楽しかったし、馬鹿な俺に本気で付き合ってくれたのはお前だけだったし……拒まれるのは、やっぱさ、辛いよ」
背けられていた顔が僅かに震えた。ほーらね、猫山って奴はさ――豊基は何だか得意げな気分になる。ここまで来てもまだ素直になれない、ひん曲がった猫山の側にいてやれるのは自分だけだ。無理にでも笑わせてやろう、ずっと。
「お前が見込んだ男はその程度じゃないでしょー? なんたってレベルが違うもんね。まあまあ、これから腹を割って話していこうよ。な、猫山!」
豊基は最後まで賑やかな調子を崩さず、手をひらひらと振って部屋を出た。賞味期限まであと二日の牛乳がお見舞いの品だとふざけ、サイドテーブルに置き去りにして。
静まり返った一人きりの部屋。寂しさが一気に募る。牛乳を床に叩きつけたくて体を起こそうとした時、ベッドから離れた所にある、ロングソファのほとんどが埋もれるほどに山積みの本が見えた。一瞬視界に入っただけでも分かる、天体観測に関わるものばかりだった。
「……馬鹿野郎……」
体から力が抜け、目頭がじわじわと痛んでいく。嬉し涙のような、悔し涙のような、温い涙が溢れ出す。もどかしくて叫びたいのに、憎いと叫びたいのに、嗚咽は止まらない。心を誤魔化すエネルギーは使い果たしてしまった。きっと次に顔を合わせたら、馬鹿みたいに縋りつく。そうすれば子供の頃よりきつくなった体臭で、しっかりと抱き締めてくれるのだろう。
縫われた痕が残るであろう胸に、涙で濡れた手を当てる。鼓動している。たくさんの命を贄にしておきながら、自分は生きている。
(阿黒は、どうして俺を助けたんだ。羊田は、これからどうするんだ。俺は……)
鼠谷の死を利用したというのに、その友である阿黒の手が一命を取り留めさせた。殺された友との思い出だけで生きていけるのか。神から解放された羊田は、罪の意識に苛まれて苦しむに違いない。狗凱とヒーロー映画を撮りながら生きていけるのか。
神に願う理想郷は潰えてしまった。
人が形作る世界は、あまりにもつまらなくて、「普通」で、絶望に満ち溢れているのに。
二度も死に損なった身として、足掻きながらも生きていかなければならない――科せられた罰は優しく、残酷だ。
完