太陽と月とスターヒーロー 当時の愛造小学校で人気だった学校行事の一つに、お泊まり会というものがあった。夏休みの中旬、中学年に入ってから始められる行事で、今日は四年生の全クラスが小学校に集められた。
夕方に集まった四年生達はそれぞれのクラスに荷物を置くと、夕飯として振る舞われる大鍋のカレーが煮え込むまでの自由時間を過ごした。
勿論狗凱と羊田はヒーローごっこに夢中だった。グラウンドのフェンス近く、ひっそりと設置された飛びタイヤに乗ったり下りたり、思いつくままに必殺技を繰り出したりした。額や首筋から流れ出る汗で羊田の襟元に広い染みが出来た頃、ようやく二人は木陰で水筒のお茶を飲んだ。狗凱はいつも身に着けている赤いマフラーで汗を拭い、羊田はお泊り会の持ち物として必須のフェイスタオルを使った。
やがて夕飯の時間となり、生徒達にはカレーが振る舞われた。子供の味覚を考慮してのものだろう、甘口だった。ぺろりと食べた羊田に対し、甘口では物足りないという狗凱の不満は夕飯の進みを遅くさせた。
夕飯を済ませた後、近所のスーパーで購入されたらしい袋詰めの花火で遊ぶことを許された。当然ヒーローの武器だと言って手持ち花火を振り回す狗凱は叱られるし、二人で線香花火の持久戦をすれば、じっとしていられない狗凱が開始十秒くらいで火球を落とすので、羊田の勝利ばかりだった。背後で急に鳴り響いた打ち上げ花火に、狗凱の肩がびくついたりもしたので、羊田は笑った。
ただ平凡で、ささやかな子供達のお泊り会の時間が過ぎていく。
時計の短針が十一を差した。静まり返った体育館では、遊び疲れてくたくたになった子供達が眠っている。寝相が独特な子もいれば、いびきをかく子もいるし、謎の寝言を呟く子もいる。そんな体育館の片隅に、狗凱と羊田は隣同士に並んだ薄っぺらな布団の上で寝入っていた。
が、もぞもぞと動き出したのは狗凱だった。タオルケットを剥がし、怠い体を起こすと、大きく伸びをした。それからだらんと腕を下ろせば、すぐに羊田の寝姿が視界に入る。ガラクタの街で遊び疲れ、ブルーシートの上で眠っている時と同じだ。
狗凱は羊田の寝顔を見ると、少しだけ不安になる。人形みたいに動かず、こんな言い方は凄く嫌だが、生きていないみたいだからだ。悪い夢も、良い夢すら見ていない、何も意識を持っていないみたいからだ。だから狗凱はいつも羊田より先に目を覚まし、自分が揺り起こしてやらねばと思う。
段々と暗闇に目が慣れ、僅かに上下する胸を確認出来たので、狗凱は安堵して羊田の肩へと手を伸ばした。肩を揺すれば伝わる体温。これは、当たり前のこと。
「なあなあ、メリー」
「……剣獅君……?」
耳元で囁かれ、くすぐったさで羊田の瞼は開いた。ふわあと欠伸をしてから目を擦り、不思議そうに狗凱を見上げる。
狗凱が軽く顔を前後左右に振り、何か納得してから視線を羊田の方へと戻す。口元は明らかに悪戯っ子の形になった。
「ちょっと抜け出そうぜ」
「え?」
「探検だ、探検。夜の学校なんて普通見て回れねーぞ」
「でも、見つかったら先生に怒られちゃうよ」
「センニューソーサの特訓してきただろ、俺達」
こそこそとするこの会話の内容は、何だかヒーローの作戦会議というよりも、悪の幹部の
悪巧みのようだ――実は二人共気付いているが、好奇心が勝った。躊躇いながらも体を起こした羊田が出した答えは「うん」で、一致した意見によって密やかに体育館を後にした。
もしもの時の為にと、辺りの照明は点けられたままだった。お互いの動きも表情も見える小さな二人の子供は、コンクリート造りの廊下を並んでぺたぺたと歩く。
しばらくして狗凱は神妙な顔付きになり、立ち止まった。
「……あのさ」
「どうしたの?」
狗凱の視線が僅かに横を向いた。つられて羊田もそちらを見る。二人は男子トイレの前にいた。
狗凱は気不味いように頭を搔くと、もごもごと口を開いた。
「その……おしっこ、してくるからさ」
「うん」
「そこで待ってろよ」
「うん」
「どこにも行くなよ。近くにいろよ。呼んだら返事しろよ」
「うん」
念押しした後、羊田の言葉を信じ切った狗凱は駆け足で男子トイレに入り、がさごそと何やら忙しない音を立てる。言われた通り、羊田は開けっ放しの男子トイレのドアの横に立つと、開放的な渡り廊下から薄暗い景色を眺める。今は聴覚よりも視覚を使う方が正しい気がする。
「メリー、ちゃんといるか?」
「いるよ」
入ってすぐに存在の確認をされ、信用が無いのかと一瞬思った羊田だが、狗凱の声色にどこか焦りを感じたので大体察した。……本来、夜にトイレに行きたくなったら先生を起こして付き添ってもらうようにと、言われているのだけれど。
時間がかかるまでどれほどだろう、なんて考える暇も無く、ばしゃばしゃと騒がしい水の音が聞こえ、途端に男子トイレから飛び出してきた。ドアの側で突っ立つままの羊田を見つけ、息を吐く。
羊田は何気無く問いかける。
「剣獅君、一人でトイレ行くのが怖くて私を起こしたの?」
問われた当人の目が泳いだ。物凄く分かりやすいと思う。
「……そんなことねーし」
「……」
「あーあーあー、ちょっとだけ怖かった! カッコ悪いよな!」
「別にカッコ悪くないと思う」
唇を尖らせる狗凱があまりにも素直だから、羊田は苦笑した。でも、怖いものは怖いものだ。そのことをよく知っている。世界は怖いものだらけであることを、きっと誰よりも知っている。
隣にいる羊田を横目に、狗凱はむすっとした表情を崩さない。
「つーか、何でお前はしれっとしてんだ。怖くねーの? お化けとか出そうじゃん……」
「剣獅君が側にいるから大丈夫。一人の時は、朝も昼も寝る時も、いつだって怖いよ」
狗凱からは羊田の様子が余裕そうに見えていたので、急に弱い言葉を口にした羊田が意外だった。格好つけようとしたことが馬鹿らしくなり、「大袈裟だなー」と笑う。自分の中の恐怖が彼に伝わらないように、羊田は微笑み返した。
辛うじてズボンのポケットに入っていた皺だらけのハンカチを取り出し、手の水気を拭くと、早速羊田の手を掴む。進み出そうとする足は、体育館とは違う方向へ。
「よーし、行くぞ」
「体育館に戻らないの?」
「マジでトイレの為だけにお前を連れ出したわけねーだろ! 探検するんだ!」
そう断言すると、まだ返答していない羊田を引っ張り、当たり前のように歩き出す。ほとんど連行される形の羊田だったが、体育館を出る前に言ていった「センニューソーサ」は本気なのだと改めて理解し、それならやはり好奇心が上回る。
「グラウンドに出てみようぜ」
上靴を履いていることなど最早どうでもいいと言わんばかりに、狗凱の足は渡り廊下から出る。そして、羊田の上履きも砂で汚れていくのだ。
二人分のざりざりと砂を踏む音が続く。狗凱の足取りは迷い無く進み、後ろをついていく羊田は、誰かに見つからないだろうかと視線があちらこちらへと向く。
「やっぱ外の方が涼しいなー。今鳴いてんのってセミ? キリギリス? スズムシ?」
呑気と言うべきか余裕と言うべきか、夏の虫が聞こえるグラウンドを歩きながら自然を堪能する。ドアや窓を開け放っていても、広い体育館はこもる熱気で暑かったので、室内外の涼しさを感じられる。
不意に「あそこ座ろうぜ」と示す先は花壇の縁だった。昼間は手入れされて鮮やかに咲く草花も、夜の中では眠っている。二人は花壇の縁に腰掛け、半分くらいに欠けた月に見下ろされる時を過ごしていたが、しばらくして羊田の口が開いた。
「学校で夜空を見るって不思議」
「月が綺麗だ」
「うん」
「メリーってさ、月っぽいよな」
「月?」
「静かだし、ぼんやりしてるだろ。でも夜ってさ、クールなヒーローとかスパイが潜んでてさ、冷静に任務をこなすんだよな。月の絵が、こう、背負ってるみたいに後ろでバーンって。カッコイイじゃん。だからメリーって感じ」
腕と足を大きく広げる仕草は、どうやら現在空にある月の形ではない満月を表しているらしい。
狗凱と会話するうちに、羊田の周囲に対する警戒心は解かれていった。きょとんとして「そんなの初めて言われた」と呟くと、すぐさま狗凱も「俺も初めて言った」と返す。
お互いに不思議になって顔を見合わせた後、羊田は小さく笑い、ぽつりと言った。
「じゃあ……剣獅君は、太陽」
「おお」
「いつも明るくて、眩しくて、目立ってる。それに、温かいから」
「温かい? 今は夏だし暑いだろ」
「暑いけど……でも、熱血って感じがするから私は好き。ヒーローに似合うよね、熱血って」
「おう、センスあるじゃねーか!」
センスの有無を自分勝手な基準で審査する狗凱に、出会って最初のうちは羊田も困惑した。けれど、いつの間にかそれが面白いと感じるようになった。同じセンスの持ち主でいられたら、同じ気持ちでいれたら嬉しくなった。
それに、狗凱を温かいと思う気持ちも本物だった。彼の側でなら、どこでだって眠れる。ずっと、ずっと、ずっと、眠れる。神の声も聞こえず、何の夢も見ず、安心して眠れる。
「ねえ、剣獅君」
「あぁ?」
「あんな風に月が光ってるのは、太陽のおかげなんだよね。太陽の光が反射して、それで月も光って見えるって。理科で習った」
「えー、あー、うん」
曖昧な相槌を打つ狗凱の頭の片隅で、理科の教科書のどこかのページが開かれた。確か、そんなことが書かれてあった。軌道とか、月食とか、日食とか、そういうアレだ。
「自分で輝けるくらいのパワーを持ってるなんて、剣獅君みたい」
「まあな!」
理科のことはともかく、褒め言葉は全力で素直に応える。そうだ、ヒーローは光り輝くものだ。熱くて強くて勇敢で怪獣をやっつける、ヒーローはいつだってカッコイイ。
うんうんと納得する狗凱に気が引けるのか、「だけど」と、羊田は重そうに口を開く。心の中がきゅっと切なくなった。
「月は太陽がいないと輝けない。真っ暗な中で独りぼっち」
狗凱は目を見開いた。月影に照らされる羊田の横顔は、すぐ隣にいるはずなのに、遠い遠いどこかにいる気がしたから。
――それが怖くて堪らなかった。お互いに約束を破るわけがないのに。手を伸ばさないと、掴んでいないと、離れ離れになってしまいそうで不安になる。
幼いながらに、精一杯の台詞を思いついて紡いだ。
「反射ってさぁ、太陽の光を跳ね返してるってことだよな」
「うん」
「じゃあ、やっぱ月だってヤバいじゃん。そんくらいのパワー持ってんだし、本気出したら自分で輝けるだろ」
「そうなのかな」
「ああ。ヒーローは第二形態があって当たり前だ」
「そっか」
狗凱が真剣な声色で言うので、羊田もそれを受け入れた――彼の言葉は、いつだって世界を救う。
花壇の縁からひょいと腰を上げた狗凱は、胸を叩いて誇る様を羊田に見せつける。
「それに俺はスターヒーローなんだぜ! スター! 星! 月と似合っててカッコイイだろ!」
「うん。カッコイイ」
「だよな!」
羊田が肯定する度、狗凱は嬉しくて堪らないと笑う。その笑顔は――羊田にとって、やはり太陽だった。その光り方は星とも月とも違う。直視出来ないくらいに眩しくて、自分だけで光り輝く太陽。その力を分け与え、月をも照らしてくれる太陽。誰も何も敵わない、灼熱の太陽。
その後、広いグラウンドを貸し切りだと言わんばかりのヒーローごっこに夢中で、時が経つことを忘れていた二人は、交代制で見回りをしている算数の先生に見つかり、大目玉を食らった。算数の先生の視線が羊田に対して一瞬不気味そうに向けられたが、狗凱は気付かず、羊田は気付かないふりをした。そして、今すぐ体育館に戻れと追いやられる。
自分達の寝床に入ってからも、二人は小さな声で話し合った。先程のヒーローごっこは途中までに過ぎず、大人に邪魔をされてしまって物足りない。だから続きを考えよう。炎の剣の使い手で敵を斬り倒す熱血なヒーローと、頭脳明晰で敵の弱点を見破る冷静なヒーロー。そんなヒーロー達が一緒に戦う物語。足りない部分はお互いにお互いで補えば良い。最初は意見が衝突するけれど、何だかんだ手を取り合い、ようやく一人前のヒーローになれる。それから――
……いつの間にか睡魔にやられ、気付けば体育館内に朝のチャイムが鳴り響いて二人は目を覚ます。夢を見ていたような心地だった。きっとたくさん語り合っていたのに、ほんの少ししか頭に残っていないのが勿体無い。「メモしときゃ良かった」と狗凱は悔しがり、お泊り会の片付けをした。
体育館での帰り支度を済ませた生徒達が一斉にグラウンドへと出る。真夏の日差しが照りつけ、ミンミンゼミとツクツクボウシの合唱が響き渡る。それでも、お泊り会の感想や、次に遊ぶ予定について言い合う子供達の無邪気な声の方が大きい。
狗凱と羊田は校門へと向かいながら、夢みたいだった夜のヒーローごっこを振り返る。二人だけで遊んだ夜とは空気が丸きり違うので、余計にあの時間が惜しい。大人はいつも子供の邪魔をするものだ。
「夜のグラウンド、面白かったなー」
「うん」
「誰もいなくてさー、俺とメリーだけでさー、暗闇の中で怪獣とヒーローが戦ってさー」
晴れ晴れとした空の下で爽快に戦うヒーローもカッコイイ。けれど、闇に包まれた世界でがむしゃらに戦って光を取り戻す、そんなストーリーだって最高だ――狗凱はニッと笑い、鞄を振り回しながら語って聞かせる。
「映画撮るなら、こんくらい広いとこでセット作らねーとな。いっぱいガラクタ持ってきて、上手いこと組み合わせて、すげー大変だけどさ、二人でやるなら楽しいよな、絶対!」
羊田は静かに頷く。彼と交わした約束の先は、思い描く未来は、楽しいに決まっている。だから――期待してしまう自分が、裏切られてしまう彼が、哀れだった。
夏の太陽は、並んで歩く小さな男の子と女の子の影を色濃く作っている。
いつか別れの日が来るまで一緒にいられるなら、それで良かった。叶わない約束を希望に生きていけるなら、それで良かった。何でも良かった。何でも良かったと、信じていられたら良かった。ただ、太陽がいなければ、息衝けない月だと自覚した時から、変わってしまったのだ。
太陽と月は同じ空にいる。離れていても、見えなくなる時があっても、やがて重なり合い、すぐに離れ離れになってしまう。それは宇宙にとって一瞬の出来事で、ちっぽけなことかもしれない。やがて太陽は燃え尽き、そうなると月も共に消え失せる。それは、あまりにも輝かしい運命共同体。
星は不滅とも言える。太陽と同じように、人と同じように寿命があり、尽きれば崩れ去るものだけれど、星々は宇宙の全てに広がっているのだから。たった一度きりで星という存在は終わらない。それはまさしく、何度打ちのめされても立ち上がるヒーローのように。
太陽みたいな彼に、温かく光る星として、月の側にいてほしい――虚しくて強欲な願いを、今日も彼女は抱き続ける。
「『スターヒーロー』だったよな、俺。じゃあさ、やっぱ月の側にいる方がしっくりくるだろ?」
彼は見えない彼女に問いかけた。きっと、彼女は頷いてくれる。
完
当時の愛造小学校で人気だった学校行事の一つに、お泊まり会というものがあった。夏休みの中旬、中学年に入ってから始められる行事で、今日は四年生の全クラスが小学校に集められた。
夕方に集まった四年生達はそれぞれのクラスに荷物を置くと、夕飯として振る舞われる大鍋のカレーが煮え込むまでの自由時間を過ごした。
勿論狗凱と羊田はヒーローごっこに夢中だった。グラウンドのフェンス近く、ひっそりと設置された飛びタイヤに乗ったり下りたり、思いつくままに必殺技を繰り出したりした。額や首筋から流れ出る汗で羊田の襟元に広い染みが出来た頃、ようやく二人は木陰で水筒のお茶を飲んだ。狗凱はいつも身に着けている赤いマフラーで汗を拭い、羊田はお泊り会の持ち物として必須のフェイスタオルを使った。
やがて夕飯の時間となり、生徒達にはカレーが振る舞われた。子供の味覚を考慮してのものだろう、甘口だった。ぺろりと食べた羊田に対し、甘口では物足りないという狗凱の不満は夕飯の進みを遅くさせた。
夕飯を済ませた後、近所のスーパーで購入されたらしい袋詰めの花火で遊ぶことを許された。当然ヒーローの武器だと言って手持ち花火を振り回す狗凱は叱られるし、二人で線香花火の持久戦をすれば、じっとしていられない狗凱が開始十秒くらいで火球を落とすので、羊田の勝利ばかりだった。背後で急に鳴り響いた打ち上げ花火に、狗凱の肩がびくついたりもしたので、羊田は笑った。
ただ平凡で、ささやかな子供達のお泊り会の時間が過ぎていく。
時計の短針が十一を差した。静まり返った体育館では、遊び疲れてくたくたになった子供達が眠っている。寝相が独特な子もいれば、いびきをかく子もいるし、謎の寝言を呟く子もいる。そんな体育館の片隅に、狗凱と羊田は隣同士に並んだ薄っぺらな布団の上で寝入っていた。
が、もぞもぞと動き出したのは狗凱だった。タオルケットを剥がし、怠い体を起こすと、大きく伸びをした。それからだらんと腕を下ろせば、すぐに羊田の寝姿が視界に入る。ガラクタの街で遊び疲れ、ブルーシートの上で眠っている時と同じだ。
狗凱は羊田の寝顔を見ると、少しだけ不安になる。人形みたいに動かず、こんな言い方は凄く嫌だが、生きていないみたいだからだ。悪い夢も、良い夢すら見ていない、何も意識を持っていないみたいからだ。だから狗凱はいつも羊田より先に目を覚まし、自分が揺り起こしてやらねばと思う。
段々と暗闇に目が慣れ、僅かに上下する胸を確認出来たので、狗凱は安堵して羊田の肩へと手を伸ばした。肩を揺すれば伝わる体温。これは、当たり前のこと。
「なあなあ、メリー」
「……剣獅君……?」
耳元で囁かれ、くすぐったさで羊田の瞼は開いた。ふわあと欠伸をしてから目を擦り、不思議そうに狗凱を見上げる。
狗凱が軽く顔を前後左右に振り、何か納得してから視線を羊田の方へと戻す。口元は明らかに悪戯っ子の形になった。
「ちょっと抜け出そうぜ」
「え?」
「探検だ、探検。夜の学校なんて普通見て回れねーぞ」
「でも、見つかったら先生に怒られちゃうよ」
「センニューソーサの特訓してきただろ、俺達」
こそこそとするこの会話の内容は、何だかヒーローの作戦会議というよりも、悪の幹部の
悪巧みのようだ――実は二人共気付いているが、好奇心が勝った。躊躇いながらも体を起こした羊田が出した答えは「うん」で、一致した意見によって密やかに体育館を後にした。
もしもの時の為にと、辺りの照明は点けられたままだった。お互いの動きも表情も見える小さな二人の子供は、コンクリート造りの廊下を並んでぺたぺたと歩く。
しばらくして狗凱は神妙な顔付きになり、立ち止まった。
「……あのさ」
「どうしたの?」
狗凱の視線が僅かに横を向いた。つられて羊田もそちらを見る。二人は男子トイレの前にいた。
狗凱は気不味いように頭を搔くと、もごもごと口を開いた。
「その……おしっこ、してくるからさ」
「うん」
「そこで待ってろよ」
「うん」
「どこにも行くなよ。近くにいろよ。呼んだら返事しろよ」
「うん」
念押しした後、羊田の言葉を信じ切った狗凱は駆け足で男子トイレに入り、がさごそと何やら忙しない音を立てる。言われた通り、羊田は開けっ放しの男子トイレのドアの横に立つと、開放的な渡り廊下から薄暗い景色を眺める。今は聴覚よりも視覚を使う方が正しい気がする。
「メリー、ちゃんといるか?」
「いるよ」
入ってすぐに存在の確認をされ、信用が無いのかと一瞬思った羊田だが、狗凱の声色にどこか焦りを感じたので大体察した。……本来、夜にトイレに行きたくなったら先生を起こして付き添ってもらうようにと、言われているのだけれど。
時間がかかるまでどれほどだろう、なんて考える暇も無く、ばしゃばしゃと騒がしい水の音が聞こえ、途端に男子トイレから飛び出してきた。ドアの側で突っ立つままの羊田を見つけ、息を吐く。
羊田は何気無く問いかける。
「剣獅君、一人でトイレ行くのが怖くて私を起こしたの?」
問われた当人の目が泳いだ。物凄く分かりやすいと思う。
「……そんなことねーし」
「……」
「あーあーあー、ちょっとだけ怖かった! カッコ悪いよな!」
「別にカッコ悪くないと思う」
唇を尖らせる狗凱があまりにも素直だから、羊田は苦笑した。でも、怖いものは怖いものだ。そのことをよく知っている。世界は怖いものだらけであることを、きっと誰よりも知っている。
隣にいる羊田を横目に、狗凱はむすっとした表情を崩さない。
「つーか、何でお前はしれっとしてんだ。怖くねーの? お化けとか出そうじゃん……」
「剣獅君が側にいるから大丈夫。一人の時は、朝も昼も寝る時も、いつだって怖いよ」
狗凱からは羊田の様子が余裕そうに見えていたので、急に弱い言葉を口にした羊田が意外だった。格好つけようとしたことが馬鹿らしくなり、「大袈裟だなー」と笑う。自分の中の恐怖が彼に伝わらないように、羊田は微笑み返した。
辛うじてズボンのポケットに入っていた皺だらけのハンカチを取り出し、手の水気を拭くと、早速羊田の手を掴む。進み出そうとする足は、体育館とは違う方向へ。
「よーし、行くぞ」
「体育館に戻らないの?」
「マジでトイレの為だけにお前を連れ出したわけねーだろ! 探検するんだ!」
そう断言すると、まだ返答していない羊田を引っ張り、当たり前のように歩き出す。ほとんど連行される形の羊田だったが、体育館を出る前に言ていった「センニューソーサ」は本気なのだと改めて理解し、それならやはり好奇心が上回る。
「グラウンドに出てみようぜ」
上靴を履いていることなど最早どうでもいいと言わんばかりに、狗凱の足は渡り廊下から出る。そして、羊田の上履きも砂で汚れていくのだ。
二人分のざりざりと砂を踏む音が続く。狗凱の足取りは迷い無く進み、後ろをついていく羊田は、誰かに見つからないだろうかと視線があちらこちらへと向く。
「やっぱ外の方が涼しいなー。今鳴いてんのってセミ? キリギリス? スズムシ?」
呑気と言うべきか余裕と言うべきか、夏の虫が聞こえるグラウンドを歩きながら自然を堪能する。ドアや窓を開け放っていても、広い体育館はこもる熱気で暑かったので、室内外の涼しさを感じられる。
不意に「あそこ座ろうぜ」と示す先は花壇の縁だった。昼間は手入れされて鮮やかに咲く草花も、夜の中では眠っている。二人は花壇の縁に腰掛け、半分くらいに欠けた月に見下ろされる時を過ごしていたが、しばらくして羊田の口が開いた。
「学校で夜空を見るって不思議」
「月が綺麗だ」
「うん」
「メリーってさ、月っぽいよな」
「月?」
「静かだし、ぼんやりしてるだろ。でも夜ってさ、クールなヒーローとかスパイが潜んでてさ、冷静に任務をこなすんだよな。月の絵が、こう、背負ってるみたいに後ろでバーンって。カッコイイじゃん。だからメリーって感じ」
腕と足を大きく広げる仕草は、どうやら現在空にある月の形ではない満月を表しているらしい。
狗凱と会話するうちに、羊田の周囲に対する警戒心は解かれていった。きょとんとして「そんなの初めて言われた」と呟くと、すぐさま狗凱も「俺も初めて言った」と返す。
お互いに不思議になって顔を見合わせた後、羊田は小さく笑い、ぽつりと言った。
「じゃあ……剣獅君は、太陽」
「おお」
「いつも明るくて、眩しくて、目立ってる。それに、温かいから」
「温かい? 今は夏だし暑いだろ」
「暑いけど……でも、熱血って感じがするから私は好き。ヒーローに似合うよね、熱血って」
「おう、センスあるじゃねーか!」
センスの有無を自分勝手な基準で審査する狗凱に、出会って最初のうちは羊田も困惑した。けれど、いつの間にかそれが面白いと感じるようになった。同じセンスの持ち主でいられたら、同じ気持ちでいれたら嬉しくなった。
それに、狗凱を温かいと思う気持ちも本物だった。彼の側でなら、どこでだって眠れる。ずっと、ずっと、ずっと、眠れる。神の声も聞こえず、何の夢も見ず、安心して眠れる。
「ねえ、剣獅君」
「あぁ?」
「あんな風に月が光ってるのは、太陽のおかげなんだよね。太陽の光が反射して、それで月も光って見えるって。理科で習った」
「えー、あー、うん」
曖昧な相槌を打つ狗凱の頭の片隅で、理科の教科書のどこかのページが開かれた。確か、そんなことが書かれてあった。軌道とか、月食とか、日食とか、そういうアレだ。
「自分で輝けるくらいのパワーを持ってるなんて、剣獅君みたい」
「まあな!」
理科のことはともかく、褒め言葉は全力で素直に応える。そうだ、ヒーローは光り輝くものだ。熱くて強くて勇敢で怪獣をやっつける、ヒーローはいつだってカッコイイ。
うんうんと納得する狗凱に気が引けるのか、「だけど」と、羊田は重そうに口を開く。心の中がきゅっと切なくなった。
「月は太陽がいないと輝けない。真っ暗な中で独りぼっち」
狗凱は目を見開いた。月影に照らされる羊田の横顔は、すぐ隣にいるはずなのに、遠い遠いどこかにいる気がしたから。
――それが怖くて堪らなかった。お互いに約束を破るわけがないのに。手を伸ばさないと、掴んでいないと、離れ離れになってしまいそうで不安になる。
幼いながらに、精一杯の台詞を思いついて紡いだ。
「反射ってさぁ、太陽の光を跳ね返してるってことだよな」
「うん」
「じゃあ、やっぱ月だってヤバいじゃん。そんくらいのパワー持ってんだし、本気出したら自分で輝けるだろ」
「そうなのかな」
「ああ。ヒーローは第二形態があって当たり前だ」
「そっか」
狗凱が真剣な声色で言うので、羊田もそれを受け入れた――彼の言葉は、いつだって世界を救う。
花壇の縁からひょいと腰を上げた狗凱は、胸を叩いて誇る様を羊田に見せつける。
「それに俺はスターヒーローなんだぜ! スター! 星! 月と似合っててカッコイイだろ!」
「うん。カッコイイ」
「だよな!」
羊田が肯定する度、狗凱は嬉しくて堪らないと笑う。その笑顔は――羊田にとって、やはり太陽だった。その光り方は星とも月とも違う。直視出来ないくらいに眩しくて、自分だけで光り輝く太陽。その力を分け与え、月をも照らしてくれる太陽。誰も何も敵わない、灼熱の太陽。
その後、広いグラウンドを貸し切りだと言わんばかりのヒーローごっこに夢中で、時が経つことを忘れていた二人は、交代制で見回りをしている算数の先生に見つかり、大目玉を食らった。算数の先生の視線が羊田に対して一瞬不気味そうに向けられたが、狗凱は気付かず、羊田は気付かないふりをした。そして、今すぐ体育館に戻れと追いやられる。
自分達の寝床に入ってからも、二人は小さな声で話し合った。先程のヒーローごっこは途中までに過ぎず、大人に邪魔をされてしまって物足りない。だから続きを考えよう。炎の剣の使い手で敵を斬り倒す熱血なヒーローと、頭脳明晰で敵の弱点を見破る冷静なヒーロー。そんなヒーロー達が一緒に戦う物語。足りない部分はお互いにお互いで補えば良い。最初は意見が衝突するけれど、何だかんだ手を取り合い、ようやく一人前のヒーローになれる。それから――
……いつの間にか睡魔にやられ、気付けば体育館内に朝のチャイムが鳴り響いて二人は目を覚ます。夢を見ていたような心地だった。きっとたくさん語り合っていたのに、ほんの少ししか頭に残っていないのが勿体無い。「メモしときゃ良かった」と狗凱は悔しがり、お泊り会の片付けをした。
体育館での帰り支度を済ませた生徒達が一斉にグラウンドへと出る。真夏の日差しが照りつけ、ミンミンゼミとツクツクボウシの合唱が響き渡る。それでも、お泊り会の感想や、次に遊ぶ予定について言い合う子供達の無邪気な声の方が大きい。
狗凱と羊田は校門へと向かいながら、夢みたいだった夜のヒーローごっこを振り返る。二人だけで遊んだ夜とは空気が丸きり違うので、余計にあの時間が惜しい。大人はいつも子供の邪魔をするものだ。
「夜のグラウンド、面白かったなー」
「うん」
「誰もいなくてさー、俺とメリーだけでさー、暗闇の中で怪獣とヒーローが戦ってさー」
晴れ晴れとした空の下で爽快に戦うヒーローもカッコイイ。けれど、闇に包まれた世界でがむしゃらに戦って光を取り戻す、そんなストーリーだって最高だ――狗凱はニッと笑い、鞄を振り回しながら語って聞かせる。
「映画撮るなら、こんくらい広いとこでセット作らねーとな。いっぱいガラクタ持ってきて、上手いこと組み合わせて、すげー大変だけどさ、二人でやるなら楽しいよな、絶対!」
羊田は静かに頷く。彼と交わした約束の先は、思い描く未来は、楽しいに決まっている。だから――期待してしまう自分が、裏切られてしまう彼が、哀れだった。
夏の太陽は、並んで歩く小さな男の子と女の子の影を色濃く作っている。
いつか別れの日が来るまで一緒にいられるなら、それで良かった。叶わない約束を希望に生きていけるなら、それで良かった。何でも良かった。何でも良かったと、信じていられたら良かった。ただ、太陽がいなければ、息衝けない月だと自覚した時から、変わってしまったのだ。
太陽と月は同じ空にいる。離れていても、見えなくなる時があっても、やがて重なり合い、すぐに離れ離れになってしまう。それは宇宙にとって一瞬の出来事で、ちっぽけなことかもしれない。やがて太陽は燃え尽き、そうなると月も共に消え失せる。それは、あまりにも輝かしい運命共同体。
星は不滅とも言える。太陽と同じように、人と同じように寿命があり、尽きれば崩れ去るものだけれど、星々は宇宙の全てに広がっているのだから。たった一度きりで星という存在は終わらない。それはまさしく、何度打ちのめされても立ち上がるヒーローのように。
太陽みたいな彼に、温かく光る星として、月の側にいてほしい――虚しくて強欲な願いを、今日も彼女は抱き続ける。
「『スターヒーロー』だったよな、俺。じゃあさ、やっぱ月の側にいる方がしっくりくるだろ?」
彼は見えない彼女に問いかけた。きっと、彼女は頷いてくれる。
完
当時の愛造小学校で人気だった学校行事の一つに、お泊まり会というものがあった。夏休みの中旬、中学年に入ってから始められる行事で、今日は四年生の全クラスが小学校に集められた。
夕方に集まった四年生達はそれぞれのクラスに荷物を置くと、夕飯として振る舞われる大鍋のカレーが煮え込むまでの自由時間を過ごした。
勿論狗凱と羊田はヒーローごっこに夢中だった。グラウンドのフェンス近く、ひっそりと設置された飛びタイヤに乗ったり下りたり、思いつくままに必殺技を繰り出したりした。額や首筋から流れ出る汗で羊田の襟元に広い染みが出来た頃、ようやく二人は木陰で水筒のお茶を飲んだ。狗凱はいつも身に着けている赤いマフラーで汗を拭い、羊田はお泊り会の持ち物として必須のフェイスタオルを使った。
やがて夕飯の時間となり、生徒達にはカレーが振る舞われた。子供の味覚を考慮してのものだろう、甘口だった。ぺろりと食べた羊田に対し、甘口では物足りないという狗凱の不満は夕飯の進みを遅くさせた。
夕飯を済ませた後、近所のスーパーで購入されたらしい袋詰めの花火で遊ぶことを許された。当然ヒーローの武器だと言って手持ち花火を振り回す狗凱は叱られるし、二人で線香花火の持久戦をすれば、じっとしていられない狗凱が開始十秒くらいで火球を落とすので、羊田の勝利ばかりだった。背後で急に鳴り響いた打ち上げ花火に、狗凱の肩がびくついたりもしたので、羊田は笑った。
ただ平凡で、ささやかな子供達のお泊り会の時間が過ぎていく。
時計の短針が十一を差した。静まり返った体育館では、遊び疲れてくたくたになった子供達が眠っている。寝相が独特な子もいれば、いびきをかく子もいるし、謎の寝言を呟く子もいる。そんな体育館の片隅に、狗凱と羊田は隣同士に並んだ薄っぺらな布団の上で寝入っていた。
が、もぞもぞと動き出したのは狗凱だった。タオルケットを剥がし、怠い体を起こすと、大きく伸びをした。それからだらんと腕を下ろせば、すぐに羊田の寝姿が視界に入る。ガラクタの街で遊び疲れ、ブルーシートの上で眠っている時と同じだ。
狗凱は羊田の寝顔を見ると、少しだけ不安になる。人形みたいに動かず、こんな言い方は凄く嫌だが、生きていないみたいだからだ。悪い夢も、良い夢すら見ていない、何も意識を持っていないみたいからだ。だから狗凱はいつも羊田より先に目を覚まし、自分が揺り起こしてやらねばと思う。
段々と暗闇に目が慣れ、僅かに上下する胸を確認出来たので、狗凱は安堵して羊田の肩へと手を伸ばした。肩を揺すれば伝わる体温。これは、当たり前のこと。
「なあなあ、メリー」
「……剣獅君……?」
耳元で囁かれ、くすぐったさで羊田の瞼は開いた。ふわあと欠伸をしてから目を擦り、不思議そうに狗凱を見上げる。
狗凱が軽く顔を前後左右に振り、何か納得してから視線を羊田の方へと戻す。口元は明らかに悪戯っ子の形になった。
「ちょっと抜け出そうぜ」
「え?」
「探検だ、探検。夜の学校なんて普通見て回れねーぞ」
「でも、見つかったら先生に怒られちゃうよ」
「センニューソーサの特訓してきただろ、俺達」
こそこそとするこの会話の内容は、何だかヒーローの作戦会議というよりも、悪の幹部の
悪巧みのようだ――実は二人共気付いているが、好奇心が勝った。躊躇いながらも体を起こした羊田が出した答えは「うん」で、一致した意見によって密やかに体育館を後にした。
もしもの時の為にと、辺りの照明は点けられたままだった。お互いの動きも表情も見える小さな二人の子供は、コンクリート造りの廊下を並んでぺたぺたと歩く。
しばらくして狗凱は神妙な顔付きになり、立ち止まった。
「……あのさ」
「どうしたの?」
狗凱の視線が僅かに横を向いた。つられて羊田もそちらを見る。二人は男子トイレの前にいた。
狗凱は気不味いように頭を搔くと、もごもごと口を開いた。
「その……おしっこ、してくるからさ」
「うん」
「そこで待ってろよ」
「うん」
「どこにも行くなよ。近くにいろよ。呼んだら返事しろよ」
「うん」
念押しした後、羊田の言葉を信じ切った狗凱は駆け足で男子トイレに入り、がさごそと何やら忙しない音を立てる。言われた通り、羊田は開けっ放しの男子トイレのドアの横に立つと、開放的な渡り廊下から薄暗い景色を眺める。今は聴覚よりも視覚を使う方が正しい気がする。
「メリー、ちゃんといるか?」
「いるよ」
入ってすぐに存在の確認をされ、信用が無いのかと一瞬思った羊田だが、狗凱の声色にどこか焦りを感じたので大体察した。……本来、夜にトイレに行きたくなったら先生を起こして付き添ってもらうようにと、言われているのだけれど。
時間がかかるまでどれほどだろう、なんて考える暇も無く、ばしゃばしゃと騒がしい水の音が聞こえ、途端に男子トイレから飛び出してきた。ドアの側で突っ立つままの羊田を見つけ、息を吐く。
羊田は何気無く問いかける。
「剣獅君、一人でトイレ行くのが怖くて私を起こしたの?」
問われた当人の目が泳いだ。物凄く分かりやすいと思う。
「……そんなことねーし」
「……」
「あーあーあー、ちょっとだけ怖かった! カッコ悪いよな!」
「別にカッコ悪くないと思う」
唇を尖らせる狗凱があまりにも素直だから、羊田は苦笑した。でも、怖いものは怖いものだ。そのことをよく知っている。世界は怖いものだらけであることを、きっと誰よりも知っている。
隣にいる羊田を横目に、狗凱はむすっとした表情を崩さない。
「つーか、何でお前はしれっとしてんだ。怖くねーの? お化けとか出そうじゃん……」
「剣獅君が側にいるから大丈夫。一人の時は、朝も昼も寝る時も、いつだって怖いよ」
狗凱からは羊田の様子が余裕そうに見えていたので、急に弱い言葉を口にした羊田が意外だった。格好つけようとしたことが馬鹿らしくなり、「大袈裟だなー」と笑う。自分の中の恐怖が彼に伝わらないように、羊田は微笑み返した。
辛うじてズボンのポケットに入っていた皺だらけのハンカチを取り出し、手の水気を拭くと、早速羊田の手を掴む。進み出そうとする足は、体育館とは違う方向へ。
「よーし、行くぞ」
「体育館に戻らないの?」
「マジでトイレの為だけにお前を連れ出したわけねーだろ! 探検するんだ!」
そう断言すると、まだ返答していない羊田を引っ張り、当たり前のように歩き出す。ほとんど連行される形の羊田だったが、体育館を出る前に言ていった「センニューソーサ」は本気なのだと改めて理解し、それならやはり好奇心が上回る。
「グラウンドに出てみようぜ」
上靴を履いていることなど最早どうでもいいと言わんばかりに、狗凱の足は渡り廊下から出る。そして、羊田の上履きも砂で汚れていくのだ。
二人分のざりざりと砂を踏む音が続く。狗凱の足取りは迷い無く進み、後ろをついていく羊田は、誰かに見つからないだろうかと視線があちらこちらへと向く。
「やっぱ外の方が涼しいなー。今鳴いてんのってセミ? キリギリス? スズムシ?」
呑気と言うべきか余裕と言うべきか、夏の虫が聞こえるグラウンドを歩きながら自然を堪能する。ドアや窓を開け放っていても、広い体育館はこもる熱気で暑かったので、室内外の涼しさを感じられる。
不意に「あそこ座ろうぜ」と示す先は花壇の縁だった。昼間は手入れされて鮮やかに咲く草花も、夜の中では眠っている。二人は花壇の縁に腰掛け、半分くらいに欠けた月に見下ろされる時を過ごしていたが、しばらくして羊田の口が開いた。
「学校で夜空を見るって不思議」
「月が綺麗だ」
「うん」
「メリーってさ、月っぽいよな」
「月?」
「静かだし、ぼんやりしてるだろ。でも夜ってさ、クールなヒーローとかスパイが潜んでてさ、冷静に任務をこなすんだよな。月の絵が、こう、背負ってるみたいに後ろでバーンって。カッコイイじゃん。だからメリーって感じ」
腕と足を大きく広げる仕草は、どうやら現在空にある月の形ではない満月を表しているらしい。
狗凱と会話するうちに、羊田の周囲に対する警戒心は解かれていった。きょとんとして「そんなの初めて言われた」と呟くと、すぐさま狗凱も「俺も初めて言った」と返す。
お互いに不思議になって顔を見合わせた後、羊田は小さく笑い、ぽつりと言った。
「じゃあ……剣獅君は、太陽」
「おお」
「いつも明るくて、眩しくて、目立ってる。それに、温かいから」
「温かい? 今は夏だし暑いだろ」
「暑いけど……でも、熱血って感じがするから私は好き。ヒーローに似合うよね、熱血って」
「おう、センスあるじゃねーか!」
センスの有無を自分勝手な基準で審査する狗凱に、出会って最初のうちは羊田も困惑した。けれど、いつの間にかそれが面白いと感じるようになった。同じセンスの持ち主でいられたら、同じ気持ちでいれたら嬉しくなった。
それに、狗凱を温かいと思う気持ちも本物だった。彼の側でなら、どこでだって眠れる。ずっと、ずっと、ずっと、眠れる。神の声も聞こえず、何の夢も見ず、安心して眠れる。
「ねえ、剣獅君」
「あぁ?」
「あんな風に月が光ってるのは、太陽のおかげなんだよね。太陽の光が反射して、それで月も光って見えるって。理科で習った」
「えー、あー、うん」
曖昧な相槌を打つ狗凱の頭の片隅で、理科の教科書のどこかのページが開かれた。確か、そんなことが書かれてあった。軌道とか、月食とか、日食とか、そういうアレだ。
「自分で輝けるくらいのパワーを持ってるなんて、剣獅君みたい」
「まあな!」
理科のことはともかく、褒め言葉は全力で素直に応える。そうだ、ヒーローは光り輝くものだ。熱くて強くて勇敢で怪獣をやっつける、ヒーローはいつだってカッコイイ。
うんうんと納得する狗凱に気が引けるのか、「だけど」と、羊田は重そうに口を開く。心の中がきゅっと切なくなった。
「月は太陽がいないと輝けない。真っ暗な中で独りぼっち」
狗凱は目を見開いた。月影に照らされる羊田の横顔は、すぐ隣にいるはずなのに、遠い遠いどこかにいる気がしたから。
――それが怖くて堪らなかった。お互いに約束を破るわけがないのに。手を伸ばさないと、掴んでいないと、離れ離れになってしまいそうで不安になる。
幼いながらに、精一杯の台詞を思いついて紡いだ。
「反射ってさぁ、太陽の光を跳ね返してるってことだよな」
「うん」
「じゃあ、やっぱ月だってヤバいじゃん。そんくらいのパワー持ってんだし、本気出したら自分で輝けるだろ」
「そうなのかな」
「ああ。ヒーローは第二形態があって当たり前だ」
「そっか」
狗凱が真剣な声色で言うので、羊田もそれを受け入れた――彼の言葉は、いつだって世界を救う。
花壇の縁からひょいと腰を上げた狗凱は、胸を叩いて誇る様を羊田に見せつける。
「それに俺はスターヒーローなんだぜ! スター! 星! 月と似合っててカッコイイだろ!」
「うん。カッコイイ」
「だよな!」
羊田が肯定する度、狗凱は嬉しくて堪らないと笑う。その笑顔は――羊田にとって、やはり太陽だった。その光り方は星とも月とも違う。直視出来ないくらいに眩しくて、自分だけで光り輝く太陽。その力を分け与え、月をも照らしてくれる太陽。誰も何も敵わない、灼熱の太陽。
その後、広いグラウンドを貸し切りだと言わんばかりのヒーローごっこに夢中で、時が経つことを忘れていた二人は、交代制で見回りをしている算数の先生に見つかり、大目玉を食らった。算数の先生の視線が羊田に対して一瞬不気味そうに向けられたが、狗凱は気付かず、羊田は気付かないふりをした。そして、今すぐ体育館に戻れと追いやられる。
自分達の寝床に入ってからも、二人は小さな声で話し合った。先程のヒーローごっこは途中までに過ぎず、大人に邪魔をされてしまって物足りない。だから続きを考えよう。炎の剣の使い手で敵を斬り倒す熱血なヒーローと、頭脳明晰で敵の弱点を見破る冷静なヒーロー。そんなヒーロー達が一緒に戦う物語。足りない部分はお互いにお互いで補えば良い。最初は意見が衝突するけれど、何だかんだ手を取り合い、ようやく一人前のヒーローになれる。それから――
……いつの間にか睡魔にやられ、気付けば体育館内に朝のチャイムが鳴り響いて二人は目を覚ます。夢を見ていたような心地だった。きっとたくさん語り合っていたのに、ほんの少ししか頭に残っていないのが勿体無い。「メモしときゃ良かった」と狗凱は悔しがり、お泊り会の片付けをした。
体育館での帰り支度を済ませた生徒達が一斉にグラウンドへと出る。真夏の日差しが照りつけ、ミンミンゼミとツクツクボウシの合唱が響き渡る。それでも、お泊り会の感想や、次に遊ぶ予定について言い合う子供達の無邪気な声の方が大きい。
狗凱と羊田は校門へと向かいながら、夢みたいだった夜のヒーローごっこを振り返る。二人だけで遊んだ夜とは空気が丸きり違うので、余計にあの時間が惜しい。大人はいつも子供の邪魔をするものだ。
「夜のグラウンド、面白かったなー」
「うん」
「誰もいなくてさー、俺とメリーだけでさー、暗闇の中で怪獣とヒーローが戦ってさー」
晴れ晴れとした空の下で爽快に戦うヒーローもカッコイイ。けれど、闇に包まれた世界でがむしゃらに戦って光を取り戻す、そんなストーリーだって最高だ――狗凱はニッと笑い、鞄を振り回しながら語って聞かせる。
「映画撮るなら、こんくらい広いとこでセット作らねーとな。いっぱいガラクタ持ってきて、上手いこと組み合わせて、すげー大変だけどさ、二人でやるなら楽しいよな、絶対!」
羊田は静かに頷く。彼と交わした約束の先は、思い描く未来は、楽しいに決まっている。だから――期待してしまう自分が、裏切られてしまう彼が、哀れだった。
夏の太陽は、並んで歩く小さな男の子と女の子の影を色濃く作っている。
いつか別れの日が来るまで一緒にいられるなら、それで良かった。叶わない約束を希望に生きていけるなら、それで良かった。何でも良かった。何でも良かったと、信じていられたら良かった。ただ、太陽がいなければ、息衝けない月だと自覚した時から、変わってしまったのだ。
太陽と月は同じ空にいる。離れていても、見えなくなる時があっても、やがて重なり合い、すぐに離れ離れになってしまう。それは宇宙にとって一瞬の出来事で、ちっぽけなことかもしれない。やがて太陽は燃え尽き、そうなると月も共に消え失せる。それは、あまりにも輝かしい運命共同体。
星は不滅とも言える。太陽と同じように、人と同じように寿命があり、尽きれば崩れ去るものだけれど、星々は宇宙の全てに広がっているのだから。たった一度きりで星という存在は終わらない。それはまさしく、何度打ちのめされても立ち上がるヒーローのように。
太陽みたいな彼に、温かく光る星として、月の側にいてほしい――虚しくて強欲な願いを、今日も彼女は抱き続ける。
「『スターヒーロー』だったよな、俺。じゃあさ、やっぱ月の側にいる方がしっくりくるだろ?」
彼は見えない彼女に問いかけた。きっと、彼女は頷いてくれる。
完
当時の愛造小学校で人気だった学校行事の一つに、お泊まり会というものがあった。夏休みの中旬、中学年に入ってから始められる行事で、今日は四年生の全クラスが小学校に集められた。
夕方に集まった四年生達はそれぞれのクラスに荷物を置くと、夕飯として振る舞われる大鍋のカレーが煮え込むまでの自由時間を過ごした。
勿論狗凱と羊田はヒーローごっこに夢中だった。グラウンドのフェンス近く、ひっそりと設置された飛びタイヤに乗ったり下りたり、思いつくままに必殺技を繰り出したりした。額や首筋から流れ出る汗で羊田の襟元に広い染みが出来た頃、ようやく二人は木陰で水筒のお茶を飲んだ。狗凱はいつも身に着けている赤いマフラーで汗を拭い、羊田はお泊り会の持ち物として必須のフェイスタオルを使った。
やがて夕飯の時間となり、生徒達にはカレーが振る舞われた。子供の味覚を考慮してのものだろう、甘口だった。ぺろりと食べた羊田に対し、甘口では物足りないという狗凱の不満は夕飯の進みを遅くさせた。
夕飯を済ませた後、近所のスーパーで購入されたらしい袋詰めの花火で遊ぶことを許された。当然ヒーローの武器だと言って手持ち花火を振り回す狗凱は叱られるし、二人で線香花火の持久戦をすれば、じっとしていられない狗凱が開始十秒くらいで火球を落とすので、羊田の勝利ばかりだった。背後で急に鳴り響いた打ち上げ花火に、狗凱の肩がびくついたりもしたので、羊田は笑った。
ただ平凡で、ささやかな子供達のお泊り会の時間が過ぎていく。
時計の短針が十一を差した。静まり返った体育館では、遊び疲れてくたくたになった子供達が眠っている。寝相が独特な子もいれば、いびきをかく子もいるし、謎の寝言を呟く子もいる。そんな体育館の片隅に、狗凱と羊田は隣同士に並んだ薄っぺらな布団の上で寝入っていた。
が、もぞもぞと動き出したのは狗凱だった。タオルケットを剥がし、怠い体を起こすと、大きく伸びをした。それからだらんと腕を下ろせば、すぐに羊田の寝姿が視界に入る。ガラクタの街で遊び疲れ、ブルーシートの上で眠っている時と同じだ。
狗凱は羊田の寝顔を見ると、少しだけ不安になる。人形みたいに動かず、こんな言い方は凄く嫌だが、生きていないみたいだからだ。悪い夢も、良い夢すら見ていない、何も意識を持っていないみたいからだ。だから狗凱はいつも羊田より先に目を覚まし、自分が揺り起こしてやらねばと思う。
段々と暗闇に目が慣れ、僅かに上下する胸を確認出来たので、狗凱は安堵して羊田の肩へと手を伸ばした。肩を揺すれば伝わる体温。これは、当たり前のこと。
「なあなあ、メリー」
「……剣獅君……?」
耳元で囁かれ、くすぐったさで羊田の瞼は開いた。ふわあと欠伸をしてから目を擦り、不思議そうに狗凱を見上げる。
狗凱が軽く顔を前後左右に振り、何か納得してから視線を羊田の方へと戻す。口元は明らかに悪戯っ子の形になった。
「ちょっと抜け出そうぜ」
「え?」
「探検だ、探検。夜の学校なんて普通見て回れねーぞ」
「でも、見つかったら先生に怒られちゃうよ」
「センニューソーサの特訓してきただろ、俺達」
こそこそとするこの会話の内容は、何だかヒーローの作戦会議というよりも、悪の幹部の
悪巧みのようだ――実は二人共気付いているが、好奇心が勝った。躊躇いながらも体を起こした羊田が出した答えは「うん」で、一致した意見によって密やかに体育館を後にした。
もしもの時の為にと、辺りの照明は点けられたままだった。お互いの動きも表情も見える小さな二人の子供は、コンクリート造りの廊下を並んでぺたぺたと歩く。
しばらくして狗凱は神妙な顔付きになり、立ち止まった。
「……あのさ」
「どうしたの?」
狗凱の視線が僅かに横を向いた。つられて羊田もそちらを見る。二人は男子トイレの前にいた。
狗凱は気不味いように頭を搔くと、もごもごと口を開いた。
「その……おしっこ、してくるからさ」
「うん」
「そこで待ってろよ」
「うん」
「どこにも行くなよ。近くにいろよ。呼んだら返事しろよ」
「うん」
念押しした後、羊田の言葉を信じ切った狗凱は駆け足で男子トイレに入り、がさごそと何やら忙しない音を立てる。言われた通り、羊田は開けっ放しの男子トイレのドアの横に立つと、開放的な渡り廊下から薄暗い景色を眺める。今は聴覚よりも視覚を使う方が正しい気がする。
「メリー、ちゃんといるか?」
「いるよ」
入ってすぐに存在の確認をされ、信用が無いのかと一瞬思った羊田だが、狗凱の声色にどこか焦りを感じたので大体察した。……本来、夜にトイレに行きたくなったら先生を起こして付き添ってもらうようにと、言われているのだけれど。
時間がかかるまでどれほどだろう、なんて考える暇も無く、ばしゃばしゃと騒がしい水の音が聞こえ、途端に男子トイレから飛び出してきた。ドアの側で突っ立つままの羊田を見つけ、息を吐く。
羊田は何気無く問いかける。
「剣獅君、一人でトイレ行くのが怖くて私を起こしたの?」
問われた当人の目が泳いだ。物凄く分かりやすいと思う。
「……そんなことねーし」
「……」
「あーあーあー、ちょっとだけ怖かった! カッコ悪いよな!」
「別にカッコ悪くないと思う」
唇を尖らせる狗凱があまりにも素直だから、羊田は苦笑した。でも、怖いものは怖いものだ。そのことをよく知っている。世界は怖いものだらけであることを、きっと誰よりも知っている。
隣にいる羊田を横目に、狗凱はむすっとした表情を崩さない。
「つーか、何でお前はしれっとしてんだ。怖くねーの? お化けとか出そうじゃん……」
「剣獅君が側にいるから大丈夫。一人の時は、朝も昼も寝る時も、いつだって怖いよ」
狗凱からは羊田の様子が余裕そうに見えていたので、急に弱い言葉を口にした羊田が意外だった。格好つけようとしたことが馬鹿らしくなり、「大袈裟だなー」と笑う。自分の中の恐怖が彼に伝わらないように、羊田は微笑み返した。
辛うじてズボンのポケットに入っていた皺だらけのハンカチを取り出し、手の水気を拭くと、早速羊田の手を掴む。進み出そうとする足は、体育館とは違う方向へ。
「よーし、行くぞ」
「体育館に戻らないの?」
「マジでトイレの為だけにお前を連れ出したわけねーだろ! 探検するんだ!」
そう断言すると、まだ返答していない羊田を引っ張り、当たり前のように歩き出す。ほとんど連行される形の羊田だったが、体育館を出る前に言ていった「センニューソーサ」は本気なのだと改めて理解し、それならやはり好奇心が上回る。
「グラウンドに出てみようぜ」
上靴を履いていることなど最早どうでもいいと言わんばかりに、狗凱の足は渡り廊下から出る。そして、羊田の上履きも砂で汚れていくのだ。
二人分のざりざりと砂を踏む音が続く。狗凱の足取りは迷い無く進み、後ろをついていく羊田は、誰かに見つからないだろうかと視線があちらこちらへと向く。
「やっぱ外の方が涼しいなー。今鳴いてんのってセミ? キリギリス? スズムシ?」
呑気と言うべきか余裕と言うべきか、夏の虫が聞こえるグラウンドを歩きながら自然を堪能する。ドアや窓を開け放っていても、広い体育館はこもる熱気で暑かったので、室内外の涼しさを感じられる。
不意に「あそこ座ろうぜ」と示す先は花壇の縁だった。昼間は手入れされて鮮やかに咲く草花も、夜の中では眠っている。二人は花壇の縁に腰掛け、半分くらいに欠けた月に見下ろされる時を過ごしていたが、しばらくして羊田の口が開いた。
「学校で夜空を見るって不思議」
「月が綺麗だ」
「うん」
「メリーってさ、月っぽいよな」
「月?」
「静かだし、ぼんやりしてるだろ。でも夜ってさ、クールなヒーローとかスパイが潜んでてさ、冷静に任務をこなすんだよな。月の絵が、こう、背負ってるみたいに後ろでバーンって。カッコイイじゃん。だからメリーって感じ」
腕と足を大きく広げる仕草は、どうやら現在空にある月の形ではない満月を表しているらしい。
狗凱と会話するうちに、羊田の周囲に対する警戒心は解かれていった。きょとんとして「そんなの初めて言われた」と呟くと、すぐさま狗凱も「俺も初めて言った」と返す。
お互いに不思議になって顔を見合わせた後、羊田は小さく笑い、ぽつりと言った。
「じゃあ……剣獅君は、太陽」
「おお」
「いつも明るくて、眩しくて、目立ってる。それに、温かいから」
「温かい? 今は夏だし暑いだろ」
「暑いけど……でも、熱血って感じがするから私は好き。ヒーローに似合うよね、熱血って」
「おう、センスあるじゃねーか!」
センスの有無を自分勝手な基準で審査する狗凱に、出会って最初のうちは羊田も困惑した。けれど、いつの間にかそれが面白いと感じるようになった。同じセンスの持ち主でいられたら、同じ気持ちでいれたら嬉しくなった。
それに、狗凱を温かいと思う気持ちも本物だった。彼の側でなら、どこでだって眠れる。ずっと、ずっと、ずっと、眠れる。神の声も聞こえず、何の夢も見ず、安心して眠れる。
「ねえ、剣獅君」
「あぁ?」
「あんな風に月が光ってるのは、太陽のおかげなんだよね。太陽の光が反射して、それで月も光って見えるって。理科で習った」
「えー、あー、うん」
曖昧な相槌を打つ狗凱の頭の片隅で、理科の教科書のどこかのページが開かれた。確か、そんなことが書かれてあった。軌道とか、月食とか、日食とか、そういうアレだ。
「自分で輝けるくらいのパワーを持ってるなんて、剣獅君みたい」
「まあな!」
理科のことはともかく、褒め言葉は全力で素直に応える。そうだ、ヒーローは光り輝くものだ。熱くて強くて勇敢で怪獣をやっつける、ヒーローはいつだってカッコイイ。
うんうんと納得する狗凱に気が引けるのか、「だけど」と、羊田は重そうに口を開く。心の中がきゅっと切なくなった。
「月は太陽がいないと輝けない。真っ暗な中で独りぼっち」
狗凱は目を見開いた。月影に照らされる羊田の横顔は、すぐ隣にいるはずなのに、遠い遠いどこかにいる気がしたから。
――それが怖くて堪らなかった。お互いに約束を破るわけがないのに。手を伸ばさないと、掴んでいないと、離れ離れになってしまいそうで不安になる。
幼いながらに、精一杯の台詞を思いついて紡いだ。
「反射ってさぁ、太陽の光を跳ね返してるってことだよな」
「うん」
「じゃあ、やっぱ月だってヤバいじゃん。そんくらいのパワー持ってんだし、本気出したら自分で輝けるだろ」
「そうなのかな」
「ああ。ヒーローは第二形態があって当たり前だ」
「そっか」
狗凱が真剣な声色で言うので、羊田もそれを受け入れた――彼の言葉は、いつだって世界を救う。
花壇の縁からひょいと腰を上げた狗凱は、胸を叩いて誇る様を羊田に見せつける。
「それに俺はスターヒーローなんだぜ! スター! 星! 月と似合っててカッコイイだろ!」
「うん。カッコイイ」
「だよな!」
羊田が肯定する度、狗凱は嬉しくて堪らないと笑う。その笑顔は――羊田にとって、やはり太陽だった。その光り方は星とも月とも違う。直視出来ないくらいに眩しくて、自分だけで光り輝く太陽。その力を分け与え、月をも照らしてくれる太陽。誰も何も敵わない、灼熱の太陽。
その後、広いグラウンドを貸し切りだと言わんばかりのヒーローごっこに夢中で、時が経つことを忘れていた二人は、交代制で見回りをしている算数の先生に見つかり、大目玉を食らった。算数の先生の視線が羊田に対して一瞬不気味そうに向けられたが、狗凱は気付かず、羊田は気付かないふりをした。そして、今すぐ体育館に戻れと追いやられる。
自分達の寝床に入ってからも、二人は小さな声で話し合った。先程のヒーローごっこは途中までに過ぎず、大人に邪魔をされてしまって物足りない。だから続きを考えよう。炎の剣の使い手で敵を斬り倒す熱血なヒーローと、頭脳明晰で敵の弱点を見破る冷静なヒーロー。そんなヒーロー達が一緒に戦う物語。足りない部分はお互いにお互いで補えば良い。最初は意見が衝突するけれど、何だかんだ手を取り合い、ようやく一人前のヒーローになれる。それから――
……いつの間にか睡魔にやられ、気付けば体育館内に朝のチャイムが鳴り響いて二人は目を覚ます。夢を見ていたような心地だった。きっとたくさん語り合っていたのに、ほんの少ししか頭に残っていないのが勿体無い。「メモしときゃ良かった」と狗凱は悔しがり、お泊り会の片付けをした。
体育館での帰り支度を済ませた生徒達が一斉にグラウンドへと出る。真夏の日差しが照りつけ、ミンミンゼミとツクツクボウシの合唱が響き渡る。それでも、お泊り会の感想や、次に遊ぶ予定について言い合う子供達の無邪気な声の方が大きい。
狗凱と羊田は校門へと向かいながら、夢みたいだった夜のヒーローごっこを振り返る。二人だけで遊んだ夜とは空気が丸きり違うので、余計にあの時間が惜しい。大人はいつも子供の邪魔をするものだ。
「夜のグラウンド、面白かったなー」
「うん」
「誰もいなくてさー、俺とメリーだけでさー、暗闇の中で怪獣とヒーローが戦ってさー」
晴れ晴れとした空の下で爽快に戦うヒーローもカッコイイ。けれど、闇に包まれた世界でがむしゃらに戦って光を取り戻す、そんなストーリーだって最高だ――狗凱はニッと笑い、鞄を振り回しながら語って聞かせる。
「映画撮るなら、こんくらい広いとこでセット作らねーとな。いっぱいガラクタ持ってきて、上手いこと組み合わせて、すげー大変だけどさ、二人でやるなら楽しいよな、絶対!」
羊田は静かに頷く。彼と交わした約束の先は、思い描く未来は、楽しいに決まっている。だから――期待してしまう自分が、裏切られてしまう彼が、哀れだった。
夏の太陽は、並んで歩く小さな男の子と女の子の影を色濃く作っている。
いつか別れの日が来るまで一緒にいられるなら、それで良かった。叶わない約束を希望に生きていけるなら、それで良かった。何でも良かった。何でも良かったと、信じていられたら良かった。ただ、太陽がいなければ、息衝けない月だと自覚した時から、変わってしまったのだ。
太陽と月は同じ空にいる。離れていても、見えなくなる時があっても、やがて重なり合い、すぐに離れ離れになってしまう。それは宇宙にとって一瞬の出来事で、ちっぽけなことかもしれない。やがて太陽は燃え尽き、そうなると月も共に消え失せる。それは、あまりにも輝かしい運命共同体。
星は不滅とも言える。太陽と同じように、人と同じように寿命があり、尽きれば崩れ去るものだけれど、星々は宇宙の全てに広がっているのだから。たった一度きりで星という存在は終わらない。それはまさしく、何度打ちのめされても立ち上がるヒーローのように。
太陽みたいな彼に、温かく光る星として、月の側にいてほしい――虚しくて強欲な願いを、今日も彼女は抱き続ける。
「『スターヒーロー』だっただろ、俺。じゃあさ、やっぱ月の側にいる方がしっくりくるよな?」
彼は見えない彼女に問いかけた。きっと、彼女は頷いてくれる。
完