とある森の劇場にて 祖父が遺したという劇場は、外から見るとなんとも言い難い有り様だった。
街の外れ。森にほど近い場所にひっそりと建つそれは、壁をツタに絡め取られ。まるで後ろに背負った森が飲み込もうとでもするようだ。
なにが、遺産相続だ。
なにが、お爺様があなたに遺したいと思ったんでしょう、だ。
──どう考えてもていよく厄介な物件を押し付けられただけだろう、これは。
なんのいやがらせだ。まったく。
深々と吐いた嘆息が曇天の空へ広がっていく。
右を見て、左を見てみたところで行き交う影はなく。静寂にときおり吹く風の音ばかりが鼓膜を震わせていた。
こうなると、かつては劇場へ通うものたちで賑わっていたという話ですら、にわかに信じ難い。
なにせ、こんな街の外れである。
いくら娯楽の少ない街であろうと、鬱蒼とした森のそばまで好んで近づこうとする者など早々いないだろう。
騙されたか。はたまた、いいように使われているのか。
数日前、にこやかに己を送り出した母の言葉を思い出す。
それは祖父が亡くなり、しばらくしてからのことだった。
『森の外れにね、昔お爺様が管理していた劇場があるのよ。お爺様が病気になられてからは活動していた劇団も他所に移ってしまって、誰の手も入っていないの。そうこうしているうちにお爺様が亡くなってしまったでしょう。たいていのものは遺言に従って私たち兄弟に遺産は振り分けられたのだけれど、ひとつだけあなたに譲りたいと書いていたものがあったのよ』
それが、その劇場。あなた、今ちょうど暇しているでしょう。だから様子でもみていらっしゃい。なんて、大方予想していた通りの言葉が続けられたとて、不承不承に頷くしか道はなかった。
なにせ、職なし実家暮らしの我が身。親の脛を齧って生活している以上、我が家の頂点に君臨している母の命に背けるはずもない。あれよあれよと埋められてゆく外堀と共に、ここまでの旅路が確かな形を持った瞬間だった。
その時から、イヤな予感はしていたのだ。
祖父が病に倒れたのはもう十数年も前のこと。その頃から誰も手を付けていないというのであれば、劇場は随分酷い有様だろう。もしかしたら、野盗なんかのねぐらになっている可能性もある。
「だいたい、遺書かいてる暇があんなら、もっと早くうっぱらうだなんだしてりゃよかったんだ」
恨みがましく吐き捨てたところで、聞き届ける者などおらず。返答のようにそよりと吹いた生ぬるい風が頬を撫で、葉を揺らてゆく。睨みつけた空はのっぺりとした曇天。とにもかくにも、今日のところは宿で一晩身体を休めてからあとのことを考えよう。そう決めて踵を返そうとして、きぃっと歪にあがる蝶番の断末魔に動きを止めた。
らしくもなく引き攣る喉にくちびるを引き結び、半分ほど返した肩を屋敷に戻す。
うっそりと生い茂った細い道の先。ツタの絡んだ屋敷の中央。先までは確かに壁面同様ツタに絡み取られていたはずのそこが、まるでこちらを誘うかのようにぽっかりと扉を開き、時折吹く風に任せて戸を揺らしている。
ガラにもなく悲鳴を上げてしまいそうだった。
イヤな汗が背を伝い落ちる。
ああもう。ほらみたもんか。十数年ほったらかしているから、やっぱり野盗なんぞのねぐらにされてしまったんだ。
こちとら、顔は強面。子供に泣かれる凶悪なツラに反して、喧嘩の腕はからっきし。どちらかと言えば、インドア派に寄りたい性分なのだ。野盗なんぞに見つかり襲われては、ひとたまりもない。
はやく、はやく身を隠すか逃げなければ――とは、思うのにまるで足が地面に根でも張ったようにピクリとも動いてくれなかった。どうしてか身体の自由がきかない。
ただ焦りだけが募り、肌を舐める生ぬるい風が不吉さを助長する。相も変わらずキィキィと揺れる戸は、まるで手を招いているようにも見えて、いっそ気でも飛ばせたほうが幸せだった。
されども、悲しきかな。破天荒な母に幼少の頃から鍛えられた心臓は竦むことなく。それどころか、扉の向こうに広がる暗闇へ好奇心を向けている節すらある。
相反する感情を腹に抱えて息を押し出せば、もう足を向ける先は決めたようなものだった。
いまだ背に流れる嫌な汗が、生ぬるい風に吹かれて冷える。
ふるりと震わせた身を揶揄するものなど、ここには誰もいやしない。
右を見て。左を見て。擦れる葉の声に、乾いた喉へとなけなしの唾を流す。
一歩、前へ踏み出せば、あとは勢いに任せるだけだ。
先まで張っていた根はどこへいったのやら。まるで糸に手繰り寄せられているかのように、足は自然と前へ前へと進んだ。
進むにつれ軽くなる足取りに合わせて、心までまるで楽観的に変わる。
ここまで来たのだ。もし野盗がいたとて、この強面の顔をみて勝手にビビって脱兎のごとく逃げ出す可能性だって少なくない。いつもそうなのだ。まったくもって褒められた特技ではないが、こういう時くらい有用に働いてくれたって良いだろう。
ややして辿り着いた扉の前で固唾を呑む。
誰かいるのか。そう闇に向かって問うてみたものの、応えはたいして期待していなかった。
静寂ばかりを返す空間に、頬を滑る汗を拭ってから踏み込む。
途端、鳴りやむ風の音に身を固くして、されど踵を返すことはないまま、もう一歩。また一歩と、明かりの一筋すら届かぬ闇に身を潜らせた。
***
持ち込んだランプに明かりを灯し、足音を忍ばせながらがらんどうとした屋敷の中を歩く。
劇場の中は拍子抜けするほど綺麗なものだった。
さすがに埃っぽくはあるものの、野盗に踏み荒らされた様子もなく。ぼんやりとした明かりに灯された空間は、十数年前からまるで時でも止めたかのようだ。
広々としたエントランスを埃の絨毯に足跡を残しながら通り抜け、劇場の心臓部へと続く扉を開く。
重く軋んだ音の向こう側。広々とした客席の先に在る壇上へと視線を遣って、広がる光景に目を見張った。
ヒュッと鳴る喉を抑え、一歩後ずさる。
そこに見えたのは、闇に伸びたひとつの影だった。
閑散とした劇場。そのメインといって良いステージに、ぽつねんと佇む人影がある。
やっぱり誰かが根倉にしていたのか。
どうか、恐ろしいモノではありませんように。
情けなくも震える足を叱咤し、後ずさった分だけ踏み出す。
軋む床板に、その影が反応を見せる素振りはなかった。
中腰のままできるかぎり足音を殺し、抜き足差し足で距離を縮めていく。からからに乾いた喉がくちびるを張り付かせて、自然と吐き出す息が密やかに細く変わった。
一歩、一歩。恐る恐るながらも確かな歩みは、ステージへと身を寄せ、雑然とした影が輪郭を持つ。
瞬間。見計らったように一筋の光がステージに差し込んだ。
反射的に光の根源を見遣れば、なんてことはない。
くたびれたカーテンの隙間から、雲間に覗いた陽の光が降り注いでいだけだった。
ほっと安堵をひとつ吐き、視線を戻す。
光を受け止めた埃を含んだ空気がきらめく世界の中。真白い肌を晒した影が、長い睫毛に縁どられた双眸を閉ざして、音なくそこに居た。
淡い菫色の髪は柔らかく。裾を飾ったエプロンドレスに身を包んだ姿は、肌の色と相まって酷く作り物めいている。
ああ、いや。作り物めいているのではない。これは。
――人形、か……?
果たして、それは精巧なドールであった。
一見して本物のヒトのように見えるそれは、されど生気がまるでなく。ぴくりとも動かずにステージ中央に置かれた椅子の上に腰を下ろし佇んでいる。
祖父の置き土産だろうか。
はたまた、劇団員が遺したものか。
それとも、他の誰かが捨てていったのか。
真実を知る術などあるはずもなく。知ろうとすることすら、なんだかどうでもように思えた。
屈めた姿勢を正し、自然と足が壇上へ昇る。
間近でみても、それはよくできたドールだった。
よもや、死体じゃないなかろうな。
ふと湧いた不安に、手を伸ばし、その白い頬へ触れる。
指先に伝う熱はない。硬い感触は爪先に触れ、軽やかな音を静寂へと広げる。
ああ、よかった。ちゃんと、無機物だ。
ほろりとも朽ち落ちることのなかった肌に安堵を吐く。
皮膚に伝う肌の感触は生身のソレではなく。まろい表面は滑らかだか、どうしたって無機質であった。
それは正しく、人を模しただけのモノだ。それ以上でも、それ以下でもない。否、一見してヒトに見えるくらいには、精巧にできたものだった。
幼さの見える頬を撫で、眼を伏せたかんばせを見遣る。
何故か、その顔に、どうにも覚えがあった。
おぼろげな記憶の欠片に首を傾ぐ。
いつ、見たのだろう。いわゆるお嬢様と呼ばれる位置に身を置く母に、ドールを集めるような趣味はなかった。そもそも、祖父とは数えるほどしか顔をあわせたことはなかったはずだ。まして、彼が劇団を経営していただなんて、それこそあの時母に語られてはじめて知ったことだった。
当然、この劇場に足を運んだ覚えもなく。ここにひっそりと取り残された人形となど顔をあわせた試しもない。そのはずだ。
だのに、どうしてだろう。
どうにも、この酷く精巧なドールを見たことがあるような気がしてならなかった。
自分が、忘れているだけだろうか。
祖父とのことを。この劇場のことを。
そう一瞬考えてすぐに首を振る。
いいや、そんなはずがない。母もあなたは知らないでしょうけど、と前置いて話していた。
私もすっかり忘れていたのよ、と。孫である自分に祖父がその劇場を遺すことを不思議に思っている風でもあった。
息を吸い、埃っぽい空気で肺を満たす。
心音は既に落ち着きを取り戻していた。
ただ妙なざわつきが底を微かにかき乱すのに眉を寄せながら、取り込んだ息を吹く。
ドールの額にかかる細い毛が吐息に合わせて揺れ、一目みるその姿はやっぱりどこまでもヒトに近しい。
ふぅっと吐息を吹きかければ、いまにもその美しい睫毛に縁どられた目蓋をもたげ、可憐に軽やかに靴音を鳴らしては楽しげに動き出しそうだ。
いったい誰の作品なのだろうか。これほどの腕を持つ職人だ。きっと、名のある職人なのだろう、と少女のドールから目を切る。そうしてステージ上を見渡したところで、ふと光が陰った。
戻る暗闇に、ランプを握る手に知らず力が籠る。カタカタと打ち付ける風に窓ガラスが思い出したように声をあげはじめて、そこにトンッと、一音。軽くステージを打つ音が重なった。
「あら、随分と遅かったわね」
ついで、鈴を転がしたような少女の声が耳朶を打つ。
空耳か。幻聴か。
現実逃避にたてた予測は、待ちくたびれたわよと酷く大人びた調子で紡がれる幼い声にあっさりと打ち砕かれた。
目を見開き、ぎこちなく視線を手元に戻す。
そこには変わらず、生気のまるでないドールが静かに佇むだけの空間である。そのはずだった。
しかし、事実は小説よりも奇なり。
精巧なドールの姿はもうそこにはあらず。代わりに真白い肌にうすく朱が引いた幼子が、差し込む光をスポットライトにステージの上で佇んでいた。
少女の動きに合わせふわりと宙に躍るエプロンドレスは、その裾にふんだんにあしらわれたレースを弾ませる。トンっとまた鳴る靴の音に合わせ、たっぷりとした睫毛を解き、交わる双眸は、夕暮れを溶かし込んだ金色。果てまで透き通る水晶のようなその眼差しは、揺れるこちらの姿を映しては、満足げに弧を描いて。つつましげに開かれた桃色のくちびるから、確かに声が響いた。
「──久しぶりね。逢いたかったわ」