#02 ひとりとひとり もう二度と、他人と関わることなどないと思っていた。
関わらないと。ただひとりで罪を償うべく生き続けていくのだと。そう、誓ったはずだった。
──矛盾が過ぎるな。
戻った自宅のキッチンに立ち、なけなしの茶葉を戸棚から取り出し、ポットに湯をそそぎ入れた。乾燥した茶葉が湯を含み開いてゆくのを見るともなしに眸に宿しては、ひとつ深々とした嘆息を吐く。
助けたい、と。そう思った。
放っておけないと、思ってしまった。
決して破りはしないと契ったモノは、いざその時に直面すれば容易く破られ、罪悪感ばかりが胸に湧く。
何故、彼を助けたのか。家に、連れ戻ったのか。
答えはきっと考えるまでもない。
至極単純なエゴによるものだ。
ただ、あの男を自分と――アイツに重ねてしまったから。重ねて見えたから。
どうしたって見捨てることはできなかった。放っておくだなんて、できなかった。
あの場でこの男を見捨ててしまえば、自分はまた何か手放してはならないものを亡くすように思えた。
だから、知らぬフリを押し通せるはずもない。なんともまぁ、薄っぺらい誓いだろうか。
喉元に押し留めた息を今度は飲み込む。ふわりと香りはじめたティーポットの中身を先に用意していた二杯分のカップに注ぎ入れ、残りは茶葉を除いてそのまま調理台の上に置いてキッチンを出た。
足を向けた自室の戸を肘で押し開き、先刻まで自分が背を預けていたベッドの上を見遣る。
二杯分の紅茶を用意するにはしたが、あの顔色だ。昏々と眠り続けるだろうと立てた予測に反して、男はベッドから半身を起こし、傍らにある窓の向こうに目を向けていた。
こちらに気づいた様子はない。背で抑えながら閉ざした扉がわずかな空気を押し出す。まだ白いかんばせからふと手元へ視線を落とせば、掛け布団を握り締めた手は、微かに震えて見えた。
寒さか。怯えか。
「……窓の外になにかあるのか」
部屋の隅にあるテーブルへ運んだカップを置き、いまだこちらに気づいた素振りも見せぬ男へ問う。返る言葉はなかった。それどころか肩のひとつも跳ねぬ様子を訝しみ、窓から視線をそらさずに居る男のすぐ傍まで歩み寄る。
「おい」
聞いているのか。窓の外になにがあるんだ。そう重ねて問おうとした言葉は、だども部屋に響く乾いた音に半端に途切れた。
詰めた呼気の気配がすぐ傍で揺れている。
ようやく交わった双眸は、やっぱり彼の持つ色によく似ていて。されど、彼が一度として見せたことのない困惑と怯えに大きく揺らいでいた。
振り払われた手を戻し、ベッドの傍らに膝を折る。彼の目線よりも少しばかり下からその眼を窺いながらそっと震えるその手を握っても、今度は振り払われやしなかった。
そう体温の高くない自分よりもさらに低い温度のそこにぬくもりを分け与え、努めて平坦に語り掛ける。
「おちつけ。安心しろ。俺はお前に危害を加えるつもりはない」
「──ぁ、」
安心しろ。危害は加えない。なんて、どちらかと言えば加害する側の言葉だ。
それでも、落ち着き払って紡いだ声は彼にしかと届いたのだろう。
重ねた手にわずかばかり力を伝えいえば、小さく見開かれた眼がおもむろに瞬く。ハッと短く息を解いたくちびるを引き結ばれ、それからゆっくりと綻び長い呼気を吐き出した。
おれ、と少し掠れた声を発そうとして咳き込む男を首を振って黙らせ、いくらか落ち着きを取り戻した手を放して立ち上がる。踵を返しテーブルの上から少し冷めた紅茶を攫い差し出せば、男はひと呼吸ばかり逡巡を見せたが、やがておそるおそるといった様子で差し出したカップを両手のひらで包むようにして受け取った。
手元に残ったティーカップに口をつけ一口喉に流し込む。同じようにしてベッドに腰かけた男が喉を潤すのを横目で見遣り、琥珀色の水面に視線を落とした。
波紋の揺らぐそこに、浮かぶ己の顔に浮かぶ表情は無きに等しい。
ここにいるのがアイツであれば、きっともっとうまく彼を落ち着かせ、人好きのする笑みを見せたことだろう。
なにかから逃げてきたのか。
なにに怯えているのか。
窓の外になにをみたのか。
そう山ほど湧いて出る問いだって、急かすことなく適切な言葉を選んで心を解しただろう。
――そんな芸当、俺にはできやしない。
鼻先で短く息吐き、変わらぬ表情が浮かぶ水面へ新たな波紋を生む。
どう切り出すべきか。それとも話し出すのを待つべきか。
おそらくお互い出方を伺い広がった静寂を破ったのは、以外にも先まで取り乱していた彼の方だった。
「あの……えっと、すみません、でした。その……取り乱してしまって」
半分ほど中身の減ったカップを変わらず両手で包み、伸ばした足の上に置いて視線はそちらへ落としたまま紡がれた言葉は、殊の外落ち着いているものの、その尾にはまだ少し隠しきれぬ戸惑いがあった。
どうしてこんなことになっているのか。
なぜ、こんな場所にいるのか。
あちらも問いたいことはあちらも山ほどあるはずだ。
言葉を探すように迷う眸と共に、閉じたくちびるが薄く開いてはまたすぐに閉じて波打つのを繰り返す。
「銀狼だ。霧の中でぶつかったあとにお前が倒れたから家に連れ帰った。ざっと見た感じ外傷はないようだったが、痛むところはないか」
「だ、大丈夫です。痛みは、ありません。あ、オレは銀華、です。えっと、銀狼さん」
助けてくださって、ありがとうございます。手元から持ち上がった瞳がこちらを向く。柔らかく弧を描く眼差しはやっぱりまだ少しぎこちなく。たどたどしい言葉遣いに首を振って応えた。
「礼を言われるほどのことはしていない。気にするな。それと、銀狼でいい。敬語も不要だ」
だから普段通り。お前が話しやすいように振舞えばいい。そんな意味をこめて言えば、途端にぱぁっと表情が華やぐ。
さきまでのしおらしさはどこへ行ったのやら。
バッと銀華はベッドから立ち上がったかと思うと、ティーカップを持つのとは反対の手でしかと銀狼の手を握り締めた。
突然のことにわずかばかり目を見開いた銀狼の些細な変化に銀華が気づくはずもなく。握りつないだ手をそのまま上下にぶんぶんと機嫌よく揺らしては、ありがとう、ありがとうと声を弾ませた。
「わ、わかった。わかったから手を離せ」
紅茶が零れるだろう。ほんの少し上擦った訴えに、ぶんぶんと振られていた手がひたと止まる。たゆんだ腕が反動で数度弾んで、じんわりと熱を持った。ご、ごめんっとこれまた勢いよく下げられた頭に、嘆息を落とす。
まったく。こっちの慌ただしさが本性か。そう辟易とする反面、胸に覚えた懐かしさから目を逸らす。
ああ、やっぱり拾うべきではなかったろうか。そんな遅い後悔が湧くのにくちびるの端を噛み締めたところで、不意にぐぅっと間抜けな音が相対した男の腹から響いた。
溜息をひとつ。
照れたように指で掻かれた頬は先刻よりもいくらか血色が好い。
お腹すいちゃったみたい。なんて、へらりと笑う顔はいっそ憎らしいほどアイツと重なって、背を向けた。
扉へ歩み出せば、足音が素直についてくる。ほんの少し焦った声音で呼ばれた名に、家に何もないんだと返しながら、扉のすぐ傍に掛けていたコートを二着手に取って、片方を背後に投げ渡した。
わっわっ。と、慌てた声を背で聞きながらコートに袖を通してドアノブに手をかける。
そうして軽い扉を開き、前を踏み出してから振り返り、ほら行くぞと言葉をかけてやれば、半端にコートを羽織った銀華の顔がまたみるみるうちに瞳を輝かせ、大きく頷いて応えた。
***
うっそうと世界を覆っていた霧は晴れ、すっかり太陽の高くなった空の下。石畳に影を伸ばしたふたりの腕には膨らんだ買い物袋が抱えられている。中身は今日の詔勅兼昼食。それからしばらくは持つだろう食料に、切れかけていたアールグレイの茶葉だ。
保存食を中心に買い込んだそれらは、生鮮食品よりも嵩はないが、ずっしりとした重量がある。
迷いなく足を進めながら少し後ろを歩く銀華の様子を見遣れば、青白さの薄れた肌はほんのりと朱がさし、薄っすらと汗が滲んでいた。
そう長くはない家までの道中。帰路を外れてついでにパン屋にも寄ろうかと考えていたけれど、どうやら後回しにした方がよさそうだ。
仕方がない。
さっきまで青白い顔をして寝込んでいたのだ。
本来であれば、家で寝かせてやるべきだったのだろう。
──まだ、そこまで気を許しちゃいない。
放っておけなくて助けはしたけれど、それまでだ。
あいつと似ていたから、見捨てることができなかっただけで、そう易々と心を許すほど馬鹿じゃない。
深くも知らぬ相手をどうして家に一人おいておけようか。
そも、裏がないとは言い切れないのだ。偶然にしてはあまりに出来過ぎている。
彼に似た男と街に出た日に出会うだなんて、三文小説でもあるまい。はかりごとがあるのだ、と。そう考える方がきっと妥当だ。
それでなくとも、何に怯えているのか。誰に追われていたのか。彼のことを、自分は何も知らぬままなのだから。
「そうだ、銀狼」
呼ばれて、ひとつ瞬いた。交わった視線の先でこちらに倣うように瞬きを落とした薄青色の眼差しが柔らかく笑みを刻む。とっとといささかはやめられた歩調に歩く速度を落としてやると、銀華すぐに肩を並べてわずかに弾んだ息を深呼吸で整えた。
胸に抱いた買い物袋を抱え直し、たっぷりと詰められた中身に視線が落とされる。
右へ。左へ。おそらく忙しなく動いているだろう視線を訝しげに眺めていれば、やがて意を決した風に銀華は一度だけ深く頷いた。弾んだ毛先が視界の隅に躍る。まっすぐとこちらへ戻った眼差しは、まだ少し迷いが見えるものの、空を写した双眸に揺らぎは見られない。
またひとつ。呼吸が肺を膨らませる。ゆったりと目蓋が落とされ、間もなく開かれた。きゅっと引き結ばれたくちびるが綻び白い吐息が吹く風に攫われていく。
「ひとつ、頼みたいことがあるんだ」
下がる眉に薄く眉根を寄せる。なんだ。そう続きを促せば、また少しだけ視線が逸れて、喉が冷たい息を呑み込む。
そうして、舌先で湿らせたくちびるを開こうとしたところで――
「おや、もう代わりを見つけたのかい?」
声がした。
柔らかな声音は優しく。親しげな口ぶりは、されど銀狼にとってはどこまでも底冷えた恐怖を植え付ける。
どうして。
振り向き前を見れば、いつの間にか往来する影は消え。雑踏の拭われた道の真ん中に、ひとりの青年が立っている。
ささやかに風に揺れる朱色の髪を、忘れるはずがない。忘れられるはずがないのだ。
この男を。忘れることだけは、己が己を赦さない。
「ああ、いや。責めているわけじゃないんだよ」
微笑みを顔に張り付けた青年は興味深そうにふたりの姿をその眼に映しては、弧を描く口元を隠すように顎を撫でた。
銀狼。どうしたの。そう問う銀華の声も届かずに、彼を背に庇い買い前へ出る。
演技だろうか。こいつが、この男を連れてきたんだろうか。そんな考えが一瞬頭を過り、首を振る。抱えた買い物袋をその胸にもうひとつ押し付ければ、向けられる揺れた眼差しには素知らぬフリを決め込んだ。
騙されたのか。謀られたのか。
そんなこと、いまはどうだっていい。
今、目の前にあの男がいる。あの日から、死ぬ物狂いで探し回っても見つからなかった男がいま、ここに。すぐ手の届く場所に居る。それが、いまの銀狼にとって何よりも優先すべきことだ。
──こい、氷雨。
耳に着けたイヤリングに手を添え、胸の内で囁く。
途端、水晶を模して造られたそれが光を放ち、みるみるうちに形を変えてゆく。
光の狭間に見た青年に、焦りは見られなかった。
あの日と変わらず悠々とその場に立った男は、人好きのする笑みをそのおもてに貼り付けたまま、光の消える先をみつめている。
やがて、光がすべて着せ去った頃。手のひらに握った感触に銀狼は懐かしさを覚えた。
やっと呼び出してくれた、と。頭の中で喜色を帯びた声がする。ずっとずっと待っていたのだ、と。知っているようで知らぬ声が囁く。
「悪かったな」
ずっと、呼び出してやれなくて。触れて、やれなくて。
いつだって、お前は傍に居てくれたっていうのに。
誰に言うでもなくひとりごち、目の前にいる青年に切っ先を向けて構えた、けれど。
「まったく、君は相変わらずだね。私には及ばないのだと、あの日思い知ったと思ったのだけれど」
違ったのかい。問う声は、どこまでも優しく。まるで、教師が生徒に教えを説くようだ。
想像よりも近く響いたその声に銀狼がわずかばかり目を見張れば、その冬色の眼に青年の持つ金色が揺れていた。
手に構えた長刀の背を撫でた指先が、微かに振れる手に重なり、耳元で囁かれる声はどこまでも楽しげに耳朶を震う。
「──っ、!!」
すぐさま離れようと腰を捻ろうとしたところで、どうしてか身体が強張ってピクリとも動いてくれやしない。
後ろで銀華が叫ぶ声がする。ついで駆け寄る足音に来るなとガラにもなく叫び声をあげれば、視線を交えた双眸が笑みを深くした。
「そんなに怖がらなくてもいいだろう。だいじょうぶ、まだ手を出したりはしないよ」
まだ、ね。繰り返される言葉はどうにも白々しい。
動けぬ手首を押され、切っ先が足元に落ちる。そうして腕を辿った手のひらが首筋をなであげた。
ぞわりと背に掛ける嫌な感覚に、全身が粟立つ。そんな銀狼の様子に青年はおかしくてたまらないとでも言いたげに笑い声をあげ、ピッと長く伸びたその爪で銀狼の首筋に一閃の赤い筋を生み出した。
「どうか楽しみにしていると良い」
それじゃあ、またね。銀狼先生。言うが早いか。パチンと指先を鳴らしたかと思えば、男の姿はまるで風景に溶け込むように消えてゆく。
耳にこびりついた声と脳裏に刻まれた笑みに、銀狼は薄くちびるを噛み締めた。
なにもできなかった。
ずっと、ずっと探していたというのに。
あの日の罪を償うために。償わされるために。
そのためだけに、生きていたというのに。
手も、足も出せなかった。
捨てたはずの感情が。消えてしまったはずの感情が。心のすべてを揺さぶった。恐怖心が憎しみを覆い隠した。
「っ」
「銀狼!!」
ぐらりと世界が大きく揺らいだ。
足元から力なく崩れ落ちた銀狼の耳に、焦り上擦った銀華の声は正しく届いてはいたけれど。答える余裕があるはずもない。
ただ縋るような想いが、もうこの世には居ないただひとりの名を口にして。銀狼は張り詰めた糸をプツンと切って落とした。