この意はなんたるや 紆余曲折を経て、なんとか収まるところに収まってからいくつかの日が流れた。特に誰に報告するつもりもなかったのだが、一部始終を見ていたらしい例の神から赤飯が送られてきたのを皮切りにどこから情報が漏れたのか宇鷺や四葉からも赤飯が送られ、あろうことか組長にまで『ようやく春が来たか!!』と背中を叩かれた宗家は箝口令を敷くのに大忙しだった。勿論軽率に口外するような人々でないのは十分承知だったが、目をかけている舎弟三人にコンドームとローションを贈られた時は流石にキツめの仕置きをせざるを得なかった。
だが、あの日からなにか変わったかと言われればそうでもなく。なんなら不穏な動きを見せる連中がいるだのなんだので忙しくあれから顔も合わせていない。頬にできた傷をなぞりながら3日ぶりに帰宅した部屋は相変わらず殺風景で、宗家はどかりと未だ硬さの抜けないベッドに腰を下ろして溜息を吐いた。
あの時流れでかなりこっ恥ずかしいことを言いもしたし行動にもした。己の我欲と弱さでまたもや巻き込んだことにかなり気は落ち込んだものの、それでも得られた言葉と関係性に喜んだ自分が腹立たしい。……こんなことを言えばまた相馬は己を窘めてくるのだろうが。
ともかく、言葉にならなかった関係性は『恋人』というなんとも似合わない装飾がついて落ち着いた。暫く前の会うたび噛みついていた頃の自分が知れば、どう思うか。考えても仕方ない事だが、未だにこの事実に動揺を隠しきれずらしくもないことを考え続けてしまっている。次にどんな顔で会えばいいのかわからない、なんて声をかければいいのかわからない。いや普段となにも変える必要はないはずだ……本当にか?
「わかんねぇ……」
なんせこういった経験は0だ。あいつは、多分そう言った経験もしたことがあるんだろう。昔から人を引寄せる性質なんじゃないかと、そう考えて。昔誰かと仲睦まじく歩いていた過去を想像しかけて何かがぐらりと煮えかけた。やめろ、多分これ以上考えない方がいい。
傷のついた腕時計は八時十二分を指している。あいつのことばかりを考えているせいか無性に会いたくなった。あの声を聴きたくなった。そんな欲が出てきてしまってはもう見ない振りをするのは無理な話で。いやだからなんて顔で会えばいいのかわかんねぇんだよ、そもそも今から押し掛けんのか?用事もなく?……今更すぎるなそれは。今までの己の所業を振り返ってしまっては観念せざるを得なかった。
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服を着替え、コンビニでビールの缶とつまみを何品か購入して相馬の家に向かう。確か街の外へ公演に行く話は聞いていないし、普通であればこの時間には帰っているはずだ。
「……」
扉の前まで来て一呼吸。ヤクザの若頭であろう奴がなんでこんなに緊張しているんだか、臆病な己に思わず乾いた笑いが漏れ出る。少し話をして、一缶開けて帰るだけだ。多分アイツならそれくらいは許してくれるだろう。意を決してインターホンを押す。はい、と聞こえてきた少し低めの声。僅かに間が開いた後ガチャリと扉が開かれると、そこにはほんの少し驚いたような表情を浮かべた相馬が立っていた。まぁ、こいつの家だから当たり前なんだが。
「どうした」
「や、別に何があったって訳じゃねぇけど」
……理由なく来るのも変な話か。というか普通連絡するもんだろうな。己の余裕のなさに内心頭を抱えていると、何も言わなくなった俺を暫く観察していた相馬はふっ、と笑って「まぁ、入れ」と俺の手を引いた。
「なんか買ってきたんか?」
「酒とツマミ」
「ええな」
家まで送り届けた事は何度かあるが部屋に上がり込んだことはない。物は少ないが俺の部屋よりはずっと生活感のある部屋だ。夕食は取り終えたのかテレビをつけてゆっくりしていたようで、まぁ座れと促された先の机には空になったビールの缶があった。相馬はそれをひょいと取って台所の方に行くと、帰ってきてすぐに顔を曇らせる。
「頬の傷はどうした」
「あ?」
指を頬に滑らせて、ああそういえばそのままだったと気づいた。どうやら近しい人間が傷つくことを恐れているらしいこいつは、怪訝な表情浮かべている。ああ、こんなことなら言われた通りもうちっと後ろに下がってりゃよかったか。だが俺が立ち回るのが一番被害が少ねぇんだから仕方ない。
「昼間にちっとな」
「消毒したんか?」
「や、してねぇ」
「全く……」
はぁ、と呆れた溜息をついた相馬が近くの棚の引き出しを開けると、その手には救急箱がとられていた。準備がいいな、と呟けば一人暮らしなんだからこんなもんだろうと返される。やっぱ買っとくべきか。
「顔かしてみ」
「ん」
消毒液がしみ込んだガーゼが頬に当てられる。殆ど乾燥して瘡蓋になっていたがそれでも僅かに染みて少し顔が歪む。優しくぽんぽんと消毒がされた後は乾いたガーゼが宛がわれ、軽くテープで留められた。
「ここまでしなくてもいいんじゃねぇか?」
「しとけ。化膿したらどうする」
「……」
昔だったらナメんじゃねェと噛みついていただろう。ただ、今はこの大げさな処置すら嬉しく思ってしまうのだからどうしようもない。何も言えないでいると、道具を片付けた相馬が何を思ったのか手を伸ばしてきて、わしゃわしゃと己の頭を撫でてくる。今度は別の意味で固まっていれば、相馬はどうにもむず痒くなる程に優しそうな顔を浮かべていた。いつもは妖しさを覚える赤い瞳すら今は柔らかだ。
「おつかれさん」
「……おう」
身体の内が熱い。とくりと何かが跳ねるし鼓動が早い。ああクソ、なんでこんなことで喜んじまってるんだろうか。
「まぁせっかく買ってきてくれたんだ。飲むか」
「口にあうかわかんねぇけど」
「そこまでこだわりはねぇよ」
コンビニの袋から缶を取り出し、つまみとして買ってきた缶詰を渡すとあっためてくると相馬が台所に向かっていく。ふと、横を見れば姿見があった。そこにうつる己の、赤くなった耳を見てしまっては重々しくため息が出るのも仕方ねぇに決まってんだろう。