SS詰め合わせ11【いおりく】「これは、ただの人工呼吸ですよ」
他人の唇に初めて触れた感想は、思っていたよりもあたたかくて柔らかいというものだった。いや、むしろ感心すらしてしまい、思わず緩んだ口角を、悟られぬよう手の甲で覆い隠した。
薄く開いて漏れる浅い呼吸を聞きながら、こちらの呼気を吹き込む行為はロマンチックのようで、しかし作業的でもあった。
必死に抑えているつもりなのだろうが、七瀬さんは鼻にかかった音を出す。唇を塞がれているため「ん」という声だが、艶やかなその音に不思議な高揚感を覚えてしまう。
「……どうですか?」
「はっ……うん、楽になった」
まるで雪が溶けて春が訪れるように、青ざめていた七瀬さんの顔は安堵と羞恥から淡く色づいた。
つい先ほどまでは苦しそうに喉を押えていたのだ。緊張を解くように息をつくと、七瀬さんはそれをため息だと思ったのだろう。眉を下げ、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「ごめんな」
「謝るくらいなら、ありがとうと言ってください」
「キスしてくれて、ありがとう」
「キスではないでしょう。不要な文章をつけないでください」
わざとらしく眉根を寄せれば、七瀬さんはホッとしたように笑う。見慣れた彼の表情に、私も心の中で安堵の息を漏らした。
反呼吸症候群あるいはキスミー症候群。
前触れもなく七瀬さんが罹患した病名だ。
本来生き物は、酸素を取り込み二酸化炭素を吐き出している。しかし反呼吸症候群はその逆で、二酸化炭素を取り込み酸素を吐き出すこととなる。
しかも厄介なことに常に反呼吸ではなく、突如スイッチが切り替わるように必要な酸素から必要な二酸化炭素へと変わる。予兆はなく、呼吸困難に陥るまで気が付かない。
また、吸入する二酸化炭素濃度が低すぎるのも致命的だ。空気中のわずか〇・〇四パーセントという濃度では、彼にとっては真空も同然なのだ。
治療法は今の時点で無いに等しい。手っ取り早いのは他者とキスをして、相手の吐き出した呼気を吸うというものだ。だからこそ皮肉にもキスミー症候群とも呼ばれているのだろう。
七瀬さんが罹患した後、病名をすぐにスマホで調べたが認知されていないのか、検索結果にはヒットしなかった。症例が少なすぎることもあるのだろう。検索ワードを変え、またラビッターでも調べたが、欲しい情報にはたどり着かなかった。
対処方法が人とのキスという、大っぴらにしたくない内容だからだろう。
結局医者から聞いた内容をマネージャーに説明し、七瀬さんの同意を得た後にメンバーにも共有した。
今後どうするか、皆で話し合った。話し合いの最中には人工呼吸というワードが何度も飛び交った。七瀬さんからは人工呼吸をする人をマネージャーとして雇う案も出た。勿論この病気のことを秘匿するという誓約を交わしたうえで、高い金額を支払う。お人よしに分類される七瀬さんが提案しそうにない案であったためか、この場にいる誰もが息を呑んだ。
だが、いくら高い金額を積んだところで人気アイドルグループのセンターの秘密を知った人が、秘密を守りつづけられるのだろうか。
SNSの普及により、衆人環視の目が厳しくなった現代において、一般企業やテレビ局等の情報漏洩はそう珍しい問題ではない。
何よりIDOLiSH7のセンターの七瀬陸と、人命救助とは言えキスをすることはとても価値のある行為ではないだろうか。
恋人や夫婦といった親密な相手しか触れられない箇所に触れる。
例えそれが仕事であっても、一度ならず二度三度、触れる回数ごとに特別な情が芽生える危険性すら孕んでいる。
それこそIDOLiSH7にとって、致命的なスキャンダルになりかねない。
懸念事項を挙げると、提案した七瀬さんは黙った。苛立ったように膝に置いた手をぐっと握りしめて、やがて顔を歪めて、掠れた声で言った。
『じゃあ、一体どうしたらいい? どうすれば、オレはみんなに迷惑をかけずに、今まで通りアイドルができる?』
一番簡単で、かつ合理的な方法をこの場に居る誰もが口にしていなかった。
だからこそ、苦しげな七瀬さんの目を真っ直ぐに見つめながら言った。
『私が七瀬さんに人工呼吸すればいい。私が、あなたの呼吸器も務めれば済む話です』
初めて彼の唇に触れた時、予想した通り嫌悪感を抱くことはなかった。私にとって、それがファーストキスでもあったが、七瀬さんは違う。
彼は『Next Re:vale』の企画で、兄さんから人工呼吸をされたことがあった。だからすでに七瀬さんは他人の唇の感触や温度を知っているのだと、どこか冷静な自分がいて、重ね合わせたところからゆっくりと彼の中に呼気を送り込んだ。
たった四パーセントの、二酸化炭素を必要としている彼のために。
一度目は少々気恥ずかしい気持ちが残っていたが、回数が増えるたびにそれは慣習のようなものへと変化した。
キスミー症候群という名前でありながらも、私たちの行為はただの人工呼吸だ。私たちの間には甘い空気は流れない。
これはすべて相手を生かすための医療行為。
私だけが許された行為だ。
「……人工呼吸が嫌になったら、すぐに言って」
赤らんだ頬で、七瀬さんは切ない顔をする。
そういう表情はあまりよろしくない。ただでさえ、良い者も悪い物も惹き付けてしまう訴求力の塊だ。
私でなければ勘違いしてしまうだろう。それほどに鮮やかな双眸には強い感情が浮かんでいる。
「毎回よくも飽きずに言いますね」
「っ、だって──」
怒りを抑えて首を横に振る。一房だけ長い横髪が犬の尾のように揺れてすぐに止まった。
彼の気持ちも理解できる。
だからこそ、私は感情を消して口を開いた。
「これは、ただの人工呼吸ですよ」
あなたを生かすための呼吸器だ。
せかいでいちばんおひめさま
「ね、一織? オレを見て、何か思うことは?」
「え? かわ……いえ、普段とは違った衣装ですよね」
「そういうことじゃなくて!」
指でバツを作り、七瀬さんは拗ねたように目を細めた。頬まで膨らませ、訴求力全開の甘えた顔で見つめられると思考がまとまらなくなる。
「一織なら気づいてくれると思ったのにー」
「時間をください。熟考します」
「あと十七秒です。十七、十六……」
「人の話聞いていました!?」
カウントダウンがゆっくりと引き延ばされていく。まるで、お風呂に浸かって十秒数える子どものように。
その間に七瀬さんの姿を観察する。
童話をモチーフにしたメルヘンドリーム、通称メルドリの衣装を纏っている。七瀬さんは白雪姫をイメージしたもので、対になるように私が王子様だ。正直なところ、自分に対してその呼称を使用することは強い抵抗があるのだが。
すでにメイクを終えた七瀬さんの唇は、ほんのりと赤い。さまざまな花を編みこんだ花かんむりは、彼の頭には少しだけ大きいのか、傾いてしまっている。一言断りを入れ、ずれを直した。
「ありがとう一織!」
「どういたしまして」
全員がメルドリ衣装を着用しているので、さながらハロウィンパーティーのような雰囲気が漂っている。
二階堂さんはシンデレラの魔法使い、兄さんはシンデレラのお姫様で、とても似合っていた。四葉さんは赤ずきんの狼で(普段のように王様プリンを食べている)赤ずきんの逢坂さんが、これまたいつも通りに四葉さんを嗜めていた。
シンデレラの王子様に扮装した六弥さんが、ゆっくりと近づいてくる。金髪青眼の彼は優美な雰囲気も相まって、本物の王子のようだ。
「イオリもリクも、似合っていますね」
「六弥さんが一番違和感ありませんよ」
「オレもそう思う! ナギ、本当の王子様みたいで格好良いよ……!」
いつの間にかカウントダウンは止まっていた。少し、いやだいぶメロメロと骨抜きにされた声で、六弥さんを褒めているのが気になる。
七瀬さんの前に跪き、六弥さんは伺いを立てるようにそっと手を差し出した。
「素敵なお姫様、ワタシと踊っていただけますか?」
「っ、はい……」
「こちらのヒロインを攫わないでください。七瀬さんもあっさり誘惑されないで」
衣装が乱れないように、腰を抱き引き寄せる。
「い、一織!?」
「本番で、相手を間違えられては困るので」
「間違えないよ!?」
衣装の効果なのか、それとも七瀬さんは無意識に何かを欲しているのか。まだ彼の瞳には甘えの色がある。愛して、と訴えているようで、彼の感情に引きずられる。
甘やかしてほしい。──甘やかしたい。
「大丈夫だよ。オレの王子様は一織だけ」
歌うような、鮮やかな声だった。まるで、ちいさな幸福を見つけた時のような、日常のなかに溶け込んだ何気ないやさしさに触れたような。私へと微笑む七瀬さんの眼差しには、甘えとそれ以上に大きな信頼が込められていた。
「さて、ここで問題です! いつもと違うところは?」
覗き込まれて、甘く馨しい花の香りが鼻先を掠めた。私の視界は悪戯めいた七瀬さんの表情で埋まってしまう。
「と、とてもかわいい……ということですか」
「一織からの褒め言葉は嬉しいけど全然違うよ。正解は、いつもと違う髪型でした!」
「あの名曲ですね」とはしゃいだような六弥さんの声が聞こえたが、遠ざかっていく。私の唇に柔らかな人差し指が触れる。言葉を制するように、七瀬さんはいたずらっぽくはにかんだ。
頭の中で、ある曲が彼の歌声で再生される。世界は私のもの。自信に溢れ、それでいて無邪気なほど傲慢に七瀬さんは可愛らしい我儘を口にした。
「そのに、ちゃんと靴まで見ること。いい?」
はい。わかりました。仰せの通りに。
先んじて、三つの言葉で返事をする。目を丸くした彼の右手を取り、指先に口づけてから微笑み返した。じわじわと頬が色づいていく。林檎よりも熟れた赤ら顔で、七瀬さんは唇を軽く尖らせる。
その口から零れたものは、あまやかな響きを含んでいた。
「……ずるい王子様」
「随分とわがままなお姫様ですね」
「あそこだけ空気違うんだが?」
「やるなあ、一織」
「そーちゃん!? 何? 何で目隠しされてんの!!」
「環くんには少し早いかな」
「OH! ファンタスティック! やりますね、イオリ」
ルクアイ──戯れ
※PV公開時に書いているため、キャラ口調不明段階SS
※本編終了一年後、ルクレインの専属騎士になったアイリオの話
※大規模幻覚です。現時点で公開されているのはPVのみ。
よくやった、と言ってくれるのだと思っていた。
マーニ国再建を祝うパーティのさなかの出来事だった。王子ルクレインを狙った暴漢の攻撃をいち早く察したアイリオは、彼を庇うと同時に刃をいなした。すぐさま待機していた衛兵が捕らえ、何事もなく事は済んだとアイリオは胸を撫で下した。強張った表情のルクレインに耳打ちしようとしたが、それよりも先に、当のルクレインは完璧な笑顔を浮かべてみせた。
来客に心配をかけたことへの詫びと、一度この場を離れる旨を丁寧に述べて、アイリオとともに退場した。
アイリオの怪我と言えば、騎士装束が裂け、皮膚がほんのすこしだけ切れた程度で、軽傷と呼ぶのすらためらわれるほどだ。医者に診せるほどではない。
だが、何故かルクレインはアイリオの手を引き(普通は逆だと思う)寝室へと連れ込んだ。
「殿下?」
「脱げ」
あまりにも率直な命令だった。意図が読めず茫然としているうちにもルクレインの長い指が首元へと伸びてくる。それはあまりにもあざやかな手つきであり、気がつけばすでに上衣を脱がされていた。
「傷が多いな」
「そりゃあ、騎士なので……っ、あ」
すでに血が止まりつつある(自身のエコーで簡単な治癒が可能だ)傷口周りを、そっと白魚のような美しい指が這う。痛々しく残った傷痕を確かめるように触れ、ルクレインは形の良い眉を顰める。
「これはいつのだ?」
「え、ええと五年前の戦争で」
「この火傷痕は」
「三年前の……うあ」
時間が経ちすぎたからか、当時の治療が適切であったからか、痛みを感じることはない。だが、ルクレインの指が肌を滑るたびに、そこから焼けるようなあまい感覚が駆け抜けていく。
「見苦しいのでしたら、トーラン先生に相談して……っ」
「私以外の者に肌を晒すのか? おまえは私の騎士だろう」
「いや、だって、お医者さんっ、ひゃあっ! ……で、で、でででで殿下!?」
今日ついた傷にやわらかくてあたたかな何かが触れた。顔を上げたルクレインの唇は、赤い。さあっと血の気が引く。
慌てて懐からハンカチを取り出そうとし、アイリオは自分が半裸であることを思い出した。
「で、で、で、殿下の玉体を傷つけてしまった!?」
「落ち着け、おまえの血だ。まったく……城に上がってからのあなたは頭の固いジジイらに悪い影響を受けていますね」
「殿下の方こそ、ルクが出てるけど……」
今では笑い話だが、出会った当初アイリオはルクレインを亡国の王子だと知らず、気安く接していたのだ。なんなら彼の背をばしばし叩いたこともある。今の自分がそのやり取りを見たら、不敬すぎる、とドン引きするだろう。
眉根を寄せたルクレインは口の端を上げた。
「私を守ることが、あなたの責務だとはわかっています。場合によっては、私の盾になって死ぬことが、あなたの名誉になることも」
帝国に滅ぼされたマーニを再建した若き王子。世界を救った英雄。新たな時代の担い手。
アイリオとそう年の変わらぬ青年の肩に乗っているものは、どれもが重いものばかりだ。かつて強大な敵を打ち倒し、世界を救ったひとりでありながらも、これから先も味方か敵かさえ、はっきりとしないものと戦っていかなければならない。
「ルクレイン」
名前を呼んだ。王子でも英雄でもない。
アイリオの友として、一番近くにいる最愛として。
自分は彼の刃であり、盾でもあるが、ともに歩むひとりでもあるのだ。
「オレは死なないよ。もちろんおまえを守るのもやめない。一番に守るのは変わらないけど、オレ自身もルクレインと一緒に新しい世界を見るって決めてるから」
「プロポーズですか?」
「プ、プロポーズ!? あっ、えっ……」
くくっと笑う声にますます顔を赤らめ、アイリオは呟いた。
「そうかも」と。小さく消え入りそうなその言葉を追うように、唇が触れ合って、ほんのすこしだけ鉄の味を感じた。
魔王と破滅
「青の誘惑」のプロト版
嫌われるのも、恨まれるのも覚悟のうえで、七瀬陸のコントロールを申し出た。それは契約書に判を押すこともない、ただの口約束。いや、お互いに約束するという言葉は一度も出てこなかった。
──私にあなたをコントロールさせてください。
IDOLiSH7を沈めないために、そして陸と交わした「スーパースターにする」という約束を果たすべく、一織はさらなる手に出た。
「あなたのことが好きです……友情ではなく、恋愛の意味で」
まるで習慣づいた寝る前のはちみつ入りのホットミルク。あるいは、四葉環における王様プリンというキーアイテム。そんな不可欠な存在として、自分を七瀬陸の心に刷り込む。
友達よりも恋人という関係の方が、結びつきが強いことを理解していた。
陸から向けられていた純粋な好意を、一織は恋情へと上塗りした。
「オレ、男だよ……?」
困惑する陸の手を取った。迷子防止の繋ぎ方よりも、もっと親密な関係を思わせるように、指を絡める。あどけなさを残した彼の手のひらは、ひんやりとしていた。
「知っていますよ」
聞こえる程度の声量で、しかし恋焦がれたような掠れた声で囁いた。絡めた指は、未だほどけていない。
「一織は、男の人が好きなの?」
「いいえ。恋愛対象は異性でした。あなただって、そうでしょう?」
鮮やかな双眸を覗き込む。
陸は一瞬目を見開くも、すぐに首を縦に振った。早く答えを知りたい、というように好奇心旺盛な瞳に、一織は心の中でほくそ笑む。
ここまでは予定通りだった。事は筋書き通りに進んでいる。だが、陸は予想もつかないことをする。大ブーイングの中のサウンドシップのように。だから、気を緩めることはできなかった。
「じゃあ、どうして……」
期待しているような眼差しに、心臓が大きく跳ね上がった。陸の訴求力のせいなのか、それともここ一番の見せ場を完璧に終わらせることへの不安からだろうか。
「初めは、圧倒的歌唱力に惹かれました。今まで耳にした数々の名曲が霞むほどに、七瀬さんの歌声は素晴らしかった」
美辞麗句を並べ立てることも、一織は得意だった。
「それってつまり歌だけ?」
少し焦らせば、簡単に食いつく。頬を膨らませ、無意識なのか計算なのか、拗ねた表情で繋いだ手に力を込めてきた。
単純で、けれどそこがかわいいところだと、一織は知っている。
愛おしさとはニュアンスが異なるが、一織は陸に好感を持っていた。自分とは正反対の、無垢で愛らしい、年上らしくない彼を気に入っていたのは、紛れもない事実だ。
「初めは、と言ったでしょう。一緒に過ごしているうちに、あなたのひたむきな姿をかわいいと思った。笑顔を見ると、あなたの幸福を願いました。付き合ってもいないのに、可笑しいでしょう」
嘘を交えはしたが、残り半分は真実だった。だからこそ説得力はあったはずだ。
陸が直接感情を揺さぶるのならば、一織は言葉で訴えかける。記者会見を開き、無事やり遂げたナギには敵わないが、人を動かす言葉や話術を理解している。
人を疑うことを知らないお人よしの陸を転がすなど、造作もない。
演技は一織がアイドルになってから身につけた、新しい技術だ。
目を伏せる。陸の反応が芳しくなければ、次の言葉を重ねるつもりだった。しかし、そっと上げた視線の先で、彼は一切の疑いを持たない真っ直ぐな目を向けていた。
「全然可笑しくないよ……! オレも、一織に褒められると嬉しいし……一織が笑ったら、どきっとするんだよ」
頬を赤らめて恥ずかしそうに笑い、言葉を続ける。
──オレも、一織のことが好き。友達じゃなくて、多分そういう意味で。
内緒話をするかのようなトーンで、けれど幸せそうにはにかむ陸。その熱が移ったかのように、じわじわと頬が熱くなった。
「あれ、照れてる」
「照れてません! ほんの少しだけ……」
陸との恋人関係は、芝居の延長線上のようなものだった。誰かと恋愛をしたことはない。アイドルになる前は、別段親しい友人もいなかったものだから、交際がどういうものか知らなかった。
だからこそ、ネットを駆使して調べ上げた。おすすめのデートスポットや相手の心を揺さぶる言葉、そしてキスの適切なタイミングからその後に至るまでのプロセス。すべて調べて、実行した。
一織のファーストキスは間違いなく陸だった。秒にも満たない、ただ唇を触れ合わせるだけの口づけだったが、ものすごく緊張した。発熱を疑われるほど真っ赤になった陸は愛らしかった。しかし、その唇から一度として、「初めて」という単語が出てこなかった。もしかしたら実兄である九条天と、遊びで口づけを交わしていたのかもしれない。わずかに苛立った。陸に気取られないように、一織は即座にアンガーマネジメントを実行した。
彼が嬉しそうに口にする「好き」の言葉を、一織は浴びるように聞き続けていた。あまりにも真っ直ぐな愛の言葉に、演技ではなく素で照れたこともあった。困ったら唇を塞ぎ、「ずるい」と上目遣いする陸をたまらなくかわいいと思った。
恋人という関係性は、すべてを一織の思う通りに運んでくれた。陸はいつでも一織を信頼した。偽りと気づかずに、幸せそうに笑っていた。
ブラックオアホワイトという名の大舞台でも歌いきった。IDOLiSH7は、王冠を手にした。トップアイドルの頂点に君臨した。
そうして、陸はスーパースターとなった。
日本中が七瀬陸の名前を知った。テレビをつければ、必ずどこかの局で陸の姿が映っていた。
望み通りにIDOLiSH7が売れて、一織は陸をスーパースターにした。圧倒的な歌唱で、流れ星を降らせる歌声に酔いしれていたせいか、日常に蔓延る破滅の音を聞き取ることができなかった。
「……え? もう一度言ってもらえますか?」
「もう一回言うのも辛いんだけど……別れよう、って言ったんだよ」
新しい寮への引っ越し。その荷解きが終わった矢先のことだった。以前の部屋で使っていたロフトベッドはもう処分してしまった。陸とふたりで眠れるサイズのベッドへ変え、彼が選んだ枕カバーを被せてから、まだ数日しか経っていないというのに。
「何故、ですか」
習慣づいた寝る前のホットミルクはない。陸が首を横に振ったため、作らなかった。
乾いた自分の声は、ひどく聞き慣れない音だった。
「本当はさ、気づいてたよ」
──一織がオレのこと、そういう意味で好きじゃないって。
判決を下す際に部屋中に響く、あの木槌の音が聞こえた。それは穏やかでやさしい死刑宣告だった。
「ごめんね、一織。わかっていたのに……それでもオレは、一織との夢を見たかったんだ」
喉がひどく渇いていた。
声が、出せない。
「オレをコントロールするためだって、気づいていた。キスも、ぎゅっとするのも……身体を重ねたことも……ぜんぶ幸せな時間だった」
違う、と言いたかった。確かに始まりは欺瞞だった。
だけど、今は違う。私もそういう意味であなたを好きだ。
唇は動いていた。しかし、それは決して音にはならなかった。
「ありがとう、一織」
──これからは、メンバーとしてよろしくお願いします。
怒るのでも、泣くのでもなく、陸はただぎこちなく笑った。先ほど彼が口にした『幸せ』とは裏腹の、どこか寂しさを感じさせる、そういう微笑みだった。
必死に手を伸ばしても、もう彼の体温に触れることはない。人ひとり分と少し空いた距離感に、今の今まで気がつかなかった。陸は立ち上がり、この部屋から去っていく。
おやすみ、とかけられた言葉はどこまでもやさしくて、今の一織にとって残酷な別れの挨拶だった。
タバコ
水色のパッケージのそれは多少デザインや名称が変わってはいるものの、子どもの頃からあった煙草だ。両親は非喫煙者で、また喫煙する友人もいなかったため、一織はそれに触れたことすらなかった。道すがらにある自動販売機を見ては、ジュースの販売機よりも値段がたびたび変化していることに気が付いていた。
フィルムを剝いで銀紙を捲る。パックを片手で持ちながら素早く一回だけ上下に振ると、煙草が一本顔を出した。
指で掴もうとして、ふと役柄の性格を思い出す。
演じる役ならばすでに口に咥えているはずだ。思い直して咥えた。胸ポケットに残った煙草の箱を入れ、ポケットからライターを取り出す。煙草を吸うためだけに一緒に購入した百円ライターだ。親指にぐっと力を込めて押し込むことで赤い火がつく。今時のライターは子どもが触れないように、かなり硬めになっているのだと、煙草の吸い方を教えてくれた喫煙者が苦笑しながら話していたのを思い出した。
軽く吸い込みながら、先端に火を当てる。口の中に溜まった煙を吐き出して、咥えていた煙草を外した。
ぽつぽつと点灯し始めた街明かりに照らされた紫煙は揺らぎ、やがて風で流されて一織の目の前から消える。
「……好きにはならないな」
健康に悪いこと、単に不味いという理由でふかしたが、肺に入れる吸い方を監督に要求される可能性もある。
そもそも役の性格的に考えれば、彼は肺喫煙だろうなと一織自身がそう感じている。
咥えて吸う。離して肺へと送り込む。すると酩酊感のようなくらっと頭が揺れるような眩暈を感じた。
これを心地良いと思う人もいるのだろうが、自分には合わないなと思う。まだアルコールによる酩酊の方がマシだ。
ふっと口から吐き出して、線上となった薄い煙は遠い黄昏にのまれるように消えていく。高揚感はあった。ドーパミンが出て、快楽へと直結している。どれだけ吸っても何も残らない煙なのに、と思うと不思議と可笑しかった。
二、三回吸って吐き出してを繰り返した。身体が理解し始めたところで終わらせようか、と携帯灰皿を取り出そうと胸ポケットに触れる。コツン、と窓ガラスを叩く音が後方から聞こえた。
「七瀬さん」
彼の声は聞こえない。しかし唇の動きから予想するに「そっちへ行ってもいいか?」だろうか。
紫煙をくゆらせる煙草を軽く振る。燃え尽きた灰がベランダの床へと落ちた。
ダメに決まっている。
仕草で分かったのだろう。頬を膨らませた陸が指で唇をつついた。ゆっくりと形を伝えるように動く。
キ、ス、は?
「……だめ、ですよ」
一織はこれを、口寂しいという理由で吸っているわけではないのだ。
一枚のガラス窓で隔てられた会話がもどかしくなったらしい。陸はスマートフォンを取り出して何やら打ち出だしている。顔を上げて、端末の画面を軽く叩いた。
間の抜けた通知音は彼からのメッセージが届いたことを一織に知らせる。
『格好いい、今すぐキスしたい』
『苦いのでだめです』
煙草を咥え、画面に指を滑らせた。
『やだ。その味も知りたい』
『あなたは一生知らなくていい』
『ケチ』
陸が頬を膨らませた。口元が緩んだせいで咥えた煙草を落としそうになる。慌てて引き締めた。
『苦いものは嫌いでしょう?』
『一織からなら嫌いじゃない』
心臓が騒ぐ。おそらくこの高揚は、今手にしている嗜好品から与えられていない。
『苦いの、大丈夫だよ?』
嘘ばっかり。
未だに彼は一織が淹れるブラックコーヒーすら飲めない。コーヒーを飲んだ直後のキスにも苦い顔を浮かべる。
『私が嫌なんです。一度たりともあなたに、嫌だって思われたくないんですから』
私とのキスを。
苦かった、と。嫌だった、となどと思われたくない。
苦い記憶なんてものを、この人に与えたくない。
『わかって。我儘言わないで、自分の部屋で寝てください』
咥えていた煙草を離し、ふっと吹きかける。透明な壁一枚で隔てられているおかげで彼の身体に危険な有害物質は届かない。
この煙草の苦さも、無理やり引き出された高揚も、熱ですら、彼のもとには渡らない。
紫煙の向こう側、明るい虹彩は翳る。
恋焦がれるような切ない表情に少し胸が痛んだ。いや、少しどころではない。思わず胸を押さえてしまうくらいには、一織の心臓はじくじくと痛みつづけている。
この感情が彼の訴求力から来ているとわかっていても、一織からは目を逸らせない。
手の中のスマートフォンが着信を告げる。迷って、結局は応答するしかなかった。
『ねえ、いつまで』
本物の声によく似せた合成音は低く沈み、訴求力の源でもある双眸は遮蔽物をものともせず一織を射貫く。
「撮影が終わるまで」
だから一織はうっそりと答えた。
『その間、オレにひとり寝しろって言うの』
「我儘言わないで。きいてしまいそうになるから」
髪や服についたにおいは洗えば落ちるだろう。だが口の中はどうなのか。一度肺に取り込んだこの煙は、いつまで持続するのだろうか。
『わかってて、なんで受けたの』
その役を。
普段ならば絶対口にしないであろう彼の疑問は、我儘だった。
答えはわかっているのだろう。だから目の前にいる彼は悔しそうな表情で一織を睨んでいた。
「置いていかない、と、七瀬陸と約束したから」
『っ……』
十年も経てばグループの仕事よりも個々の仕事が増えた。IDOLiSH7のセンターである七瀬陸は、とびぬけた歌唱力も相まってソロの仕事が増え、ここ数か月のスケジュールは常に分刻みだ。
プロデューサーとして一織も同行していたが、傍で彼の仕事を見たことで気が付いてしまった。
七瀬陸が売れれば売れるほど、距離が空いてしまうことに。
七瀬陸のファンの目には、IDOLiSH7というグループがいっさい映らない。グループを通さず、彼個人の活躍を応援するファンの姿を見たことで一織は覚悟を決めた。
「あなたを、IDOLiSH7のセンター七瀬陸で居させるためには、私ももっと頑張らないといけないと思ったんです」
陸もわかっているのだろう。
七瀬陸の名前だけがひとり歩いて、IDOLiSH7というグループ名は結び付かない。
「二階堂さんには敵いませんが、私の演技も高く評価していただいていますので」
『ずるいよ、一織』
そんなこと言われたら、反対できない。
今にも泣き出しそうな表情で、陸は窓ガラスに触れていた指をきゅっと丸めた。
『こんなに近くにいるのに』
「……ええ、本当に」
触れられない。
藍色のベールを被っていた空は溶けて、闇となる。まだ時刻は午後六時を回ったばかりだった。しかし陸は就寝すべき時間だ。ようやくまとまった睡眠時間を作れたのだから、存分に休息を取ってほしい。
「七瀬さん、そろそろ……」
『うん。我儘言って、ごめんな』
窓ガラス越しに触れるべきか迷ったが、やめた。これ以上陸を揺さぶりたくなかったし、一織も揺らぎたくなかった。
おやすみ、と一織は告げ、スマートフォンを耳から遠ざける。
目の前の彼はスマートフォンを耳に当てたまま、舌を出した。怒っていますよ、のアピールだと一織は知っていて、甘んじて彼の怒りを受け止める。
おやすみ。
唇の動きは、そう告げていた。
溜飲は下がったのか、名残惜しそうな顔で陸は窓ガラスから手を離した。うっすらとついた手形はあっという間に消失する。
指に挟んでいた煙草の火はいつの間にか消え、今度こそ携帯灰皿に押し付けた。
魔法のひと【13月の花嫁】
※13月の花嫁より。(先天性にょたりく)
フロントガラスから見える空は雲一つなく、どこまでも青が続いている。走り出したときは見慣れない景色を楽しんでいたが、首都高から見える景色というと天へと伸びる建物ばかりだ。時折隣を走る車を眺めていたものの、知らない男性から手を振られ、一織から「前を向いていてください」と指示が飛んできた。空よりも濃い青の標識は、すぐに通りすぎてしまい、なんと読むんだろうと考える。結局飽きてしまい、陸は伴侶の横顔を見つめることにした。
法定速度を守りながら、真剣な顔でハンドルを握る一織。彼が免許を取得したのはちょうど一年前。どれだけ頼み込んでも車に乗せてもらえず、今日初めて同乗を許された。
運転が上手いのか下手なのかは、乗り慣れていない陸にはわからない。だけど、陸を気遣って安全運転に努めていることは伝わってきた。
「ねえ、一織」
「何ですか」
「しりとりするのは、だめ? 二文字縛りとかなら多分、そんなに疲れないと思う」
「陸さんの方が有利でしょう。それに会話で疲れ果てたら、せっかくのデートが楽しめませんよ」
「むう……」
身体の弱い陸の体力を考慮しているのだろうが、会話の制限はいささか過保護なんじゃないかなと陸は思う。ドライブデートの条件が「異変を感じたらすぐに伝えること」「最初からはしゃぎすぎないこと」というようなものだったが、陸はデートの提案が嬉しすぎて、条件ごと二つ返事で了承してしまった。
「一織との会話だったら、いくらでもできちゃうのに……」
「気持ちはそうでも身体がついていかないでしょう。……まあ、そう言っていただけるのは嬉しいですが」
「あっ、一織照れてる」
「違います。暑いからです」
「冷房ちゃんと利いてるよ?」
お口チャックで、と言われてしまったので陸はしぶしぶ口を閉じた。が、一分も経たずに再び口を開いた。
「じゃあ、音楽とかかけていい?」
「音楽は……しまった……。すみません、用意してないです」
「一織って本当に現代っ子? 三月はゼロの曲いっぱい聞いているのに」
「むしろ聞きすぎて、聞かなくなったんですよ」
眉根を寄せた一織は「一日中、ゼロの歌が聞こえてくるんですよ。闇でしょう」と呟いた。
「運転中退屈じゃないの?」
「いつも陸さんと喋っているので。退屈だと感じませんし、あなたの声が私には一番心地良いんですよ」
不意打ちの本音に陸は思わず両手で頬を包み込む。手のひらもまたじわじわと熱くなっていく。
「そ、そうなんだ……っ、えへへ、にやけちゃうなあ」
「いきなりかわいいことを言わないで」
あはは、と笑いながら陸はもう一度一織の顔を見つめた。白い頬が赤く染まっている。もう誤魔化す言葉は出てこなかった。
「……ラジオなら聞けますが……」
「聞きたい聞きたい! あっ、ちゃんとお口チャックするからね」
ちゃんと約束を守るという意思を見せるため、陸は膝の上に手を置いた。ちょうど赤信号に差し掛かったようで、車は一旦停車する。一織の指が画面を操作すると、音声が流れ始めた。その手をハンドルへと戻す瞬間、手の甲で陸の頬を軽く撫で、「ふふっ、熱いですね」と笑ったせいで、心臓が大きく跳ねた。そういうところが本当にずるい。
実はラジオを聴いた経験はほとんどない。かろうじて「AM」と「FM」の二種類があることは知っているが、それがどのように違うのかは知らず、今も流れているのがどちらなのかわからない。
聞き取りやすい男性の声が、何かを読み上げている。
『えー……元彼さんを思い出すということは、恋するうさぎさんにとって、それはとても素敵な恋だったんだろうなと思います。後から振り返って気づくものもあって、だけどそのときの自分は日々を必死に過ごしているから、取りこぼしたことを知らないんですよね……さて、そんな恋するうさぎさんのリクエスト曲────』
曲名を聞いたときはピンとこなかったが、おもちゃ箱から零れてきたようなピアノの音色にハッとした。すぐに可愛らしい女性の歌声が聞こえてくる。
ああ、そうだ。歌声が陸の記憶の箱を開いていった。
一織との約束を無邪気に喜んでいた時期を越えて、いつ終わるかわからない自分を押し付けているのだと気がついた頃。
夢を見ることができた。恋ができた。陸の世界に色をつけたのは、「私がその願いを叶えます」と言い切った一織だった。
大人になれないはずの陸を、大人にさせてくれたのはひとつの約束。一織の手を離す方法を考えながら、毎日この歌を聴いていた。
「ねえ、一織」
「どうしました?」
「第十七回打ち明け話してもいい?」
「いいですけど……十六回分どこに消えました? 私の記憶にはありませんが」
それらはすべて自分の胸の裡にある。一織への感謝や好きという気持ち。それから不安や嫉妬、増える薬の数に怯えて、そういう苦しい感情を小さな箱に仕舞って鍵をかけていた。いつか話せるときが──未来が来るのなら、話そうと思っていた。
「それはおいおい話すとして……」
「絶対に話してくださいね。あとでスケジュールアプリにも書き込みます」
陸のことなら何でも知りたいと、思ってくれていることが嬉しかった。すうはあ、と敢えてわかりやすく深呼吸をして、陸は口を開いた。
「一織の言葉はね、わたしにとって……ぜんぶ魔法の言葉だったんだよ。約束もプロポーズもわたしのことを『好き』と囁いたことも」
一織は陸にとって、太陽でもあった。光がなければ、何も育たない。約束を断言する一織は眩しくて、暗闇だと思っていた世界が一瞬でひらけたのだ。
だから、陸は大人になれた。手を繋いで、ともに隣を歩くことを教えてくれる、そんな魔法の言葉だった。
「一織の言葉が、わたしを導いてくれたんだよ……でも、幸せが怖いときもあってね……」
幸せであると思うほど、終わりが怖くなった。一織を置いていく未来を想像して、涙が止まらない日もあった。
「一織がわたしを見つけてくれたとき、本当はもう死んでもいいって思ったんだ」
「陸さん!」
陸の言葉を咎めるような、だけど小さな怒りが伝わってくる鋭い呼びかけだった。
「……だって、本当に幸せだったんだよ」
──好き。大好き。本当は死ぬまで一緒にいたい。
自分から一織を解放するために、陸は初めてひとりで外に出た。一生懸命可愛い格好をして、一織から貰ったシュシュを身に着けて、本当にデートだったら良かったのに、と思いながら、ひとりで電車に乗って歩いたのだ。
生まれて初めて、他の人が当たり前にできることを陸も成し遂げられた。あとは大人らしく、一織と綺麗に別れるだけだった。
だけどあのとき、一織が駆けつけてくれたから。
陸は今もここにいるのだ。
「……あなたを失うんじゃないかと思いました。わかりますか? 陸さんがいなくなる怖さが……。最初に置いていかないと約束したじゃないですか」
灰色の双眸は揺れている。そこに深い悲しみを感じ取って、陸は首を横に振った。
一織が編んでくれた三つ編みが小さく揺れた。
「わかってるよ。怒らないで……一織。今は違うよ。こんな風にどこかに出掛けたりしたい。一織といたいよ……死ぬまで一緒にいたい……だって、欲張りになっちゃったんだもん」
「好き」も「大好き」も「愛してる」も「ありがとう」も。ぜんぶ一織に伝えたい。命が尽きるまで。一織がかけてくれた魔法の言葉にはほど遠いけれど、陸も一織を幸せにしたい。
曲は終わりに近づいていた。優しいメロディに耳を傾けながら、陸は想いを口にする。
「わたしね、一織と一緒ならどこにだっていけるよ。でこぼこの道でも暗い夜道でも、歩いていくのも、もう怖くない」
歌詞のニュアンスとはきっと違う。だけど、自分の言葉で伝えたかった。
「ねえ、一織」
「……何ですか」
「これから先ずっと笑っていて。わたしの隣で。そうしたら私も笑うから、また笑ってくれる?」
車は緩やかに停車する。赤信号だろうか、と視線を前に戻そうとした瞬間、ゆっくりと手が重なった。左手同士。ふたつの銀色の輪が太陽の陽射しを浴びて輝く。
「当たり前です。あなたを幸せにすることが、私の幸せで……。だから、ずっと笑っていてください」
私の隣で。
小さく、けれどしっかりと陸の元へと届いた一織の言葉は、確かに愛の言葉で、魔法の言葉だった。
新たに増える関係性と名前と、【愛恋シリーズ】愛ときどき恋より。(幼馴染パロ)
担当作家への定期連絡を終え、仕事用のノートパソコンを閉じる。ちょうどそのとき、書斎の扉の開閉音が聞こえてきた。キッチンへと向かう足音を聞きながらパソコンをソファの隅に置き、立ち上がる。
「陸さん、少しよろしいでしょうか?」
「えっ……」
呼びかけると、返ってきたのは戸惑いの声だった。
「もしかして勝手に一織のアイス食べたの、気がついた……?」
眉を下げて困った顔で自白する恋人──いや婚約者でもある七瀬陸に和泉一織は目を眇めた。
「……期間限定品だったんですけどね」
「え!? ご、ごめんっ、明日買い直す!!」
「近くのコンビニに置いてあった残り最後のアイスだったんですよ」
「え? ええっ!? ど、どうしよう……」
──ねえ、一織……。
縋るような眼差しを向けてくる陸の姿に笑いそうになるのを堪え、一織はわざと眉根を寄せた。
(面白いひとだな……。別にアイスなんてどうでもいいが、せっかくだから、利用させてもらおう)
「謝罪は結構です。陸さんが謝ったところで、お腹のなかに入ったアイスは返ってきません」
「それは、そうだけど……あっ、一織肩とか凝ってない?」
両手を挙げて、揉むような手つきをして見せる。気を抜くと、笑ってしまいそうになる。
(物凄くわかりやすいご機嫌を取り始めたな……)
「これは……とても凝っていますね」
「まだ触ってすらいないじゃないですか。いつからあなたは超能力者になったんですか」
「一織の顔がそう言っている」
「言ってません」
交渉が下手すぎて見ていられない。思わず許してあげますよ、と言いたくなるのを堪えて、一織は真面目な顔を維持した。
「楽しみにしていたアイスを食べた陸さんには、今からあることをしてもらいます」
「っ! やります!! 何でも言って!」
沈んでいた顔にわかりやすい喜びの表情が浮かび上がり、一織はようやく口の端を上げて笑った。
「先に言っておきますが、私以外の人にはそんなことを口にしてはいけませんよ。甘い言葉をかける相手について行かない」
「ねえ、似たようなことをオレが小学生の頃にも言ってたよね?」
「一生覚えておいてください。大事なことですよ」
「う、うん……わかったけど、オレのこと七歳だと思ってない?」
今度は別の意味で眉を下げた陸の手を握り、リビングへと連れていく。ソファに腰掛けると陸も一織に倣った。ローテーブルの上に重ねていた一番上にある書類を一枚だけ取り、陸に手渡した。
「陸さんの判子とサインをいただきたいんです」
「いいけど……って、これ養子縁組の書類!? オレが和泉じゃなくて、七瀬一織になるの!?」
予想済みのリアクションを取る陸に、一織は穏やかに微笑みながら頷いた。
陸への好きを認めた時点で、養子縁組による家族という新しい関係を結ぶことも視野に入れていたのだ。年長の方が親となるため、ひとつ年下である一織は彼の姓を名乗る。
「もしかして、オレが一織に出会ったその瞬間にプロポーズしたから……?」
「そこはあまり関係ありませんよ」
一織と家族になることではなく、自分の姓を名乗らせることに戸惑っているようだ。周りから愛され大事にされ、控えめでやさしい性格の陸は、おそらく和泉の両親に申し訳ないと考えているのだろう。
(陸さん、名前にこだわるところもあるしな……)
付き合う前、陸がひそかに書いていた夢小説──一織と付き合っているという設定の小説だ──をきっかけに、彼は小説家という道へと進んだ。大学進学中に執筆した作品が公募の大賞に選ばれ、加筆したものが出版された。
とある著名人の目に留まり、SNSで話題になったことも彼を小説家という職業へと後押しした。独自な世界観を生み出す作家としての矜持からか、名前へのこだわりが強い。誕生日にねだったぬいぐるみの名前にも一週間時間をかけたことがある。
「法律上でも家族になれるのは嬉しいよ……でも、一織から和泉姓を奪うのは……。養子縁組じゃなくても、今はパートナーシップ制度もあるし……。もしかしたら、いつか同性婚が認められるかもしれないよ……?」
「もちろんパートナーシップ制度も含めて、きちんと考えました」
法律上では認められないが、自治体や民間企業から『家族』として公認される制度だ。法律婚のような法的効力はないが、公営住宅の入居、病院での面会、手術同意などが可能となる。実施している自治体は今も少しずつ増え、今の居住地はまだ導入されていないが、引っ越しすればその制度を使うことはできた。
先々、同性婚は認められるかもしれない。だが、現状のままかもしれない。
多様性が叫ばれる今においても、そう単純な話ではないと一織は思っている。
「少し前に、陸さん倒れたでしょう?」
「え? ……ああ、うん……」
ばつが悪そうな顔をして、やがてゆっくりと頷いた。
先に引き受けていたノベライズの依頼と、陸の作品が映像化されることが決まり、重版に合わせて各書店で付属される書き下ろしSSの執筆。手掛けていた新作の話がすべて重なり、ただでさえオーバーワーク気味だった陸は無理を重ね、そして発作を引き起こした。一織が他の作家と連絡を取っている間、彼はこのマンションの書斎で苦しんでいた。
救急車を呼び、一織も同乗した。だが、処置中の陸の様子を医師から聞くことはできなかった。
「あのときは、心配かけてごめん……」
「謝ってほしいのではありません。私は……あなたのそばにいる権利が欲しい」
しんと静まり返った病院の廊下で、陸の家族の到着を待つことしかできないのは二度とごめんだと思った。
「パートナーシップ制度と養子縁組。選択肢は二つありましたが、私はより強固な方がいい。法律上は、あなたとも親子関係になってしまいますが、私はあなたの姓を名乗りたいんですよ。伴侶として」
和泉姓は、一織の兄である三月が繋いでくれている。五年前に結婚した彼のところには、男の子と女の子が生まれ、和泉は繋いでいく先があった。
七瀬姓は、陸の兄である天がすでに養子に行っていた。現状残っているのは、陸だけだ。
「和泉が、七瀬の隣に家を建てた。そして私たちは出逢って、私はあなたにプロポーズされた」
始まりはお隣さんだった。見知らぬ土地、新しい人。不安で少し泣きそうになりながらも挨拶へと伺った先、太陽にも似た眩しい笑顔の少年──陸が大きな目を輝かせて、真っ赤な顔で口を開いた。
──キミのことがだいすきです。りくとけっこんしてください!
照れくさそうに笑ったひとつ年上の少年に、一織は恋をしたのだ。
「随分と遅くなってしまいましたが、あなたの姓を名乗ってもよろしいでしょうか?」
左手の薬指に嵌った結婚の証は、今も変わらず美しくそこにある。照明の光を浴びて、きらりと白く光ったところへぽつりと雨が降りそそぐ。
「っ……ん、うん……」
幼馴染の陸はよく笑っていたが、泣き虫でもあった。そんな彼と一緒にいると、一織の世界は鮮やかに色づいた。それは雨上がりの空のように。雨粒を受け止めたみずみずしい緑葉のように。ぎらぎらと燃える夏の太陽も、美しいと思えた。
「笑って、陸さん」
けれども、一番心揺さぶられるものは陸の笑顔だ。
ひくっとしゃくりあげた陸は、笑ってくれた。
雨が通り過ぎた晴れ模様の空の姿を彷彿とさせる。
「……名乗って一織。それで、死ぬまで一緒にいようね」
「ええ。もちろんです。絶対に置いていきませんし、あなたも私を置いていかないで」
それはいつかの約束で、今もずっと続いている。
また新しく名前がついて、だけど結んできたものはなにひとつ変わらない。
和泉一織から七瀬一織へと。これから先も、彼の隣で生きていく。
変わらない日常の、大きな変化の物語。【愛恋シリーズ】愛ときどき恋より。(幼馴染パロ)
それはちいさな違和感だった。
商業施設の一階フロアにあるからくり時計は、待ち合わせや施設内を歩き疲れた人のための休憩スペースである。昼直前、そこを通りかかったときに居た少年は今もじっと静かに座っている。
年齢ははっきりとわからない。しかし就学前だろうとは思う。賑やかな人の声が流れるなかで、その子どもは座ってどこかをじっと見つめていた。泰然とした冬の山のように。
「あのさ、一織……」
幼馴染であり、伴侶でもある一織の袖をそっと掴む。言わずとも陸の視線を辿った一織は、ほんのわずかに眉根を寄せた。
「二時間は経っていますよね」
「うん……。この後行く予定だったお店、次の機会に回しても大丈夫?」
「スケジュールを合わせるのは私の仕事ですよ。気にしないで。今は人命救助が先です」
「だいぶ、というかかなり責任重大だなあ……。でも、ありがとう」
オレのことを本当によくわかっている、と心のなかでまた惚れ直し、陸はゆっくりと足を進めた。一織が少し離れたところに立っているのは、少年の行動を警戒しているからで、言葉にせずとも通じ合うことを嬉しく思う。
「こんにちは」
目線を合わせるようにその場で屈み込む。大きな黒目がぴくりと揺れた。言葉は、おそらく届いている。
「オレの名前は、陸って言うんだよ。ええと旦那さん……うーん、わかりやすくと言うと大好きなひとかな……あっ、えっと家族の人とここに来ているんだけど、君は今日おうちの人と遊びにきたの?」
後ろから「かわいい人だな……」という呟きが聞こえたが、陸は必死に堪えてできるだけやさしく微笑んだ。少年は迷うように瞳を揺らした。やがて、諦めたような寂しさをのせて、口を開いた。
「おかあさんと……」
少し舌足らずではあるが、聞き取れる発音だった。
「そっか、お母さんと来たんだね! ここ、ものすっごく広いからはぐれちゃったのかな?」
迷子という言葉はきっと彼の矜持を傷つけてしまうだろう。わかりやすく、しかし無難な言葉に言い換えると、少年は首を横に振った。
「ここで、まってて。いまからかくれんぼをするから、もういいよ、っていうまではぜったいにうごかないでねって……」
「っ、そっかあ……」
「たぶんね、すごくつかれているから、もうよべないんだよ」
少年の言葉に陸は息を呑んだ。
おそらく、いや確実に彼は理解しているのだ。自分が置いて行かれたことを。老成した静けさをまとったその横顔に、胸が痛くなる。しかしその痛みは決して表に出してはいけない。
少年の傷口を広げないように、けれどどんな表情をすればいいのかわからない。
同情心や憐憫だけは絶対に悟られてはいけない。
「これ、あけてもいいよ」
迷う陸の前に差し出されたのは、淡い紫色ともピンク色にも見えるうさぎだった。両手で受け取った瞬間、それがタオルハンカチで作られていることに気がついた。
赤色のヘアゴムが使われており、顔の膨らみに何か入っているようだ。
「ちょっと待ってね……一織! 来て!」
顔だけで振り向き、一織を呼ぶ。すぐに駆け寄り、一織もまた陸に倣ってその場に屈み込んだ。
「えっとね、この人はオレの家族で、すごく頭が良くて……あっ! 格好良くもあって」
「陸さんちょっと、今はそういう話をしている場合ではないでしょう……あとでたくさん聞きます」
「今からこのうさぎさんをほどくんだけど、治し方、一織、覚えて」
「わかりました。すみません、あとで必ずうさぎさんを戻します」
少年は無言で頷く。無感情だった。その澄んだ黒目だけが、ひどく老成していた。
そっとヘアゴムに指をかける。丁寧に、やさしく扱いながらその姿をほどいていく。このなかには、おそらく少年に必要な何かが入っているのだろう。
さながらパンドラの箱のようだ。だが、今の状況を打破できる何か、希望は残っていると信じながら、最後の結び目をほどいた。
入っていたのは紫色の折り紙だった。いくつも折り目がついたその紙は、簡単に四つ折りされている。
「見ていい?」
「うん」
元々は違う形であっただろう、その紙を破かないようにそっと広げる。裏地の白い紙には『飛雨』『9月7日』『アレルギー無し』とだけ書かれていた。住所や電話番号の個人を特定する情報はどこにもない。
「飛雨……風に飛ばされながら降る激しい雨のことだね。力強さを感じる」
思い浮かぶのは、横殴りに降る雨だ。傘が役に立たないほど、斜めに降る雨は視点を変えてみれば、恵みでもある。思考が口に出ていたのか、ぽんと肩を叩かれた。
しまった。またやってしまった。時折陸は空想の世界へ意識を飛ばしてしまう。そんな陸を引き戻すのは、ずっと一緒にいてくれる一織だった。
「ごめんね……えっと、ひうくん……?」
目の前にいる少年の表情が揺らぐ。ぽつり、と零れるのは小さくも力強い声だった。
「……ぼくのなまえは、ひう」
折り紙に書かれている文字を指して、そして自分を指した。
「飛雨くん」
そっと呼びかける。黒目はまた揺れ、少年──飛雨は目を閉じた。つうっと一滴、二滴と雫は零れ、濡れた睫毛が開いたときには、覚悟を決めていた。
「ぼくをほごしていただけますか?」
「保護というのは、その、迷子センターってところへ連れて行って、ってこと?」
飛雨は頷いた。
「こどもは、おとなにほごされるものなので、だからぼくはほごされにいきます」
「……オレ、飛雨くんくらいのとき、そんな言葉知らなかったよ。なあ、一織」
「……その頃の陸さんは毎日、私にプロポーズしていましたね」
「嘘だろ!?」
記憶になさすぎて驚きの声を上げる陸を見て、飛雨は笑った。年相応の、子どもらしい顔だった。
「あの……いくあいだだけでいいので、てをつないでもいいですか?」
「っ! もちろん! 行くまでじゃなくて、飛雨くんが望むだけいっぱい手を繋ぐよ!」
「まいごぼうし、です」
「えっ、オレの方が迷子になると思われている……?」
「飛雨さんよりも、陸さんの方が確実に迷子になりそうですね」
「い、一織もそういうこと言うの!?」
子ども体温の手を握る。飛雨を挟むように一織もまた手を繋ぐ。
何処かへ、消えてしまわぬように。ここにいるよ、と伝えるように。
日常の中に紛れ込んだ小さな出会い。達観した少年、飛雨との縁から生まれる物語が、彼を含め全世界の子どもたちに読まれることを陸はまだ知らない。
飛雨のはなし。 かつて飛雨という少年の世界は、母親と、歩いてすぐのところにある図書館で構成されていた。
物心ついたときにはすでに父親はいなかった。
三匹のこぶたに出てくるような、突風で簡単に壊れてしまうような古いアパートに住んでいた。部屋の広さは畳五枚分。時折知らない大人の、男の人が来ると飛雨は借りてきた絵本とともに押し入れへと避難した。
懐中電灯で照らして、ただただひたすらに文字を追った。声には出さず、口の中で言葉を転がした。
飛雨にとって物語は安らぎだった。夢だった。この世界の真実だった。経典だった。自分を保つための、支えでもあった。
そんなちいさな積み重ねが、飛雨という少年を作り上げた。
母親には機嫌のいいときと悪いときがあった。機嫌が悪いときは、飛雨のやわらかい頬を手のひらで打った。皮膚と皮膚がぶつかって、鋭い音が部屋中に響くと、鬼の形相から戻ったひとのように泣き出した。
母には縋れるものがないのだ。飛雨にとっての物語のようなものを、彼女は持っていない。
仕方がないのだ。世界というのは等しく公平に作られていない。
弱い母は飛雨を視界に入れると、憎いような目つきで睨むこともあった。おそらく飛雨の姿が、誰かを思い出させるのだろう。自分の存在が母を苦しめること。やわらかい心を持った飛雨が抱いている、罪だった。
何もわからない無邪気な子どもであったのなら──愛してくれたのだろうか。
今、振り返っても答えは出ない。
「ただいま! 飛雨くん? 飛雨くんー!」
「そんな大声を出さなくても聞こえますよ……。ただいま戻りました。もしかして飛雨さんの邪魔をしてしまいましたか?」
「いいえ。陸さんの大きな声が良かったです」
「褒められてる?」
「褒めたつもりはないですね」
複雑な表情を浮かべた陸を見て、飛雨は笑ってしまった。この明るさに救われているのだ。同じことを考えていたらしい一織と目が合った。涼しげな顔立ちはわずかに赤らむ。どうやら「かわいい人だな」と思っていたに違いない。
「飛雨さん、こちらお土産です」
「ありがとうございます……わあっ、風谷先生の新刊だ!」
「面白いよね、風谷先生のお話!」
ずっと読みたかった作家の本を胸に抱きしめる。嬉しそうに笑う一織と、同じように、しかし少しの嫉妬心を抱いている陸に飛雨は笑顔で返す。
「一織さん。また風谷先生へファンレターを渡してもらってもいいですか?」
「もちろんです。むしろ、腰の重い作家への尻叩きになるので、とてもありがたいです」
「ううっ……ごめんなさい」
「七瀬先生、身に覚えがあるんですか?」
敏腕編集者の顔の一織に詰められ、陸は身を縮めている。そのやり取りが可笑しくて、愛おしかった。
一織と陸。彼らは書類上親子の関係となっている。戸籍がなかった飛雨も陸の養子になった。
知らない他人からすれば、陸とは親子、一織とは兄弟という関係性だが、実際は違う。上手く当てはめられないけれど、これも飛雨の家族だ。
あのとき、手を繋いでくれた大人ふたりは、新しく飛雨の家族になった。飛雨は七瀬の姓に入ったが、成人した後は好きにしていいと言われている。
それは、飛雨が母親を探したいと思っていることを知っているからだ。
「七瀬先生頑張ってください。あの物語の続きを待ってるよ」
「ほら、読者が待ってますよ」
「飛雨くんが言うなら、仕方ないなあ」
「編集者の言葉でもやる気を出してください」
天気予報が外れるように、突然にわか雨が降るように、これから先の未来がどう進むのかはわからない。けれど、今は飛雨の手を引く大人がいる。いつかその手は離れてしまうかもしれないが、まだ保護されるべき年齢であり、飛雨が大人になっても彼らとも家族でいたい。
飛雨の世界は広がりつづけ、帰るべき家はきっとここにある。
うるわしきつき 2026/07/15
レインボーシティ公式グッズであるオリジナルブロマイド『Photo Collection-潤-』。「潤って艶めく」をテーマに、その名の通り水に滴るアイドルたちの姿をおさめたブロマイドだ。
清廉な白シャツを濡らし、透ける肌。その姿を美しいという人もいれば、艶めかしいと息をつく人もいるだろう。もしくは儚いと、夏の陽射しに溶かされる氷のような印象を持つ人もいた。
もちろん賛否両論はあった。未成年の子たちもいるのだから、その表現は不適切ではないかと眉根を寄せる人もいた。
しかし水も滴るいい男という言葉の通り、普段お目にかかれないアイドルたちの姿に、魅了される人も多くいたことは、SNSの投稿が物語っていた。
ブロマイドの公表は、公式の発表を通じて世間に知らされる。同じグループのメンバーであっても、事前に知らされることはない。また一織自身、自分から見せびらかすような性格でもないため、陸もファンと同じタイミングで、そのブロマイド写真を目にした。
恋人でもある一織の、その姿に陸は思わず呟いてしまった。
「なんか……えっちすぎない?」
「……勝手にムラつかないでくれますか?」
たまたまオフが被り、ならば一緒に過ごしたいと陸が一織の部屋に押しかけて三時間が経過していた。ぴこん、と可愛らしい音を立てて届いたのは、潤シリーズの情報だった。
見るなら自室に戻ってください、と照れているような一織に「オレはトップバッターで一織は普通に見たのに、自分の番になって恥ずかしがるなんてずるい」と無理矢理こじつけたのは、今しがたのこと。
「ムラっ!? 違うよ! そういういやらしい目では見てないけど!」
「どこがですか。スマートフォンと私を交互に見て、にやにやしているじゃないですか」
「にや!? してないけど!! それに一織だってオレを見たとき、エロいなとか思わなかったわけ!?」
今回の企画は珍しく陸がトップバッターを務めた。一番最初であるため、他のアイドルを参考にすることもできず、苦労した記憶はある。けれど撮影を無事に終えて、自分でも結構いい表情ではないか、と自画自賛した。
「そうですね……早く七瀬さんを乾かさないと、と」
「えっ!? そういう感想だったわけ!! 大人っぽいとか綺麗とかエロいとかはなかったの!?」
「あなたの体調を心配しますよ。あんなに濡れていて、風邪でも引いたらどうするつもりなんですか」
「企画自体否定した!?」
褒め言葉を期待していたのに、予想外のお小言が飛んできたことで陸は頬を膨らませた。その顔は「潤って艶めく」から程遠いものだったが、何故か恋人の一織には効いたようだ。
みるみるうちに白い頬を赤らめた一織は、息を吐き出した。
「……そんなに感想聞きたいですか?」
「聞きたい! あ、甘い褒め言葉ならなお嬉しい」
「我儘なひとですね……。いいでしょう」
「わーい! って、あれ?」
とんっと胸を押されて、陸の身体はあっけなくベッドへと倒れ込んだ。先ほど見たばかりの艶やかで美しい表情を浮かべていた男は、口の端を上げて微笑んでいた。
何だか、思っていたのと違う。
「自覚ないとは思いますが、気持ちよくなっている七瀬さんの表情に似ていましたよ」
──恋人としての意見で恐縮ですが、あのブロマイド、全部回収して燃やしたいですね。
過激な発言よりも、陸の体温を上げたのは、獰猛な色を浮かべた灰の瞳だ。美しいだけの男の姿など、どこにも見当たらない。普段の理知的な灰色は、今は冴え渡る銀のように見えた。凄艶で、苛烈でもあった。
「……するの?」
期待を込めて問いかけた。くすりと笑った一織は、それでも美しい。
「感想を聞きたいのでしょう?」
小さな唇に塞がれて、陸は瞼をおろす。ファンの子たちも、メンバーも知らない一織の顔を知っている。
「うん……教えて、一織」
唇を合わせたまま、そう呟いた陸の声もまた、艶やかであったことを知るのは一織だけだ。
告白成立記念日 2026/07/03
「もし動物になったら?」
あにまりっしゅせぶん──それはアイドルの特徴を取り入れて、メンバー同士で考案した新しいキャラクターだ。
IDOLiSH7の四葉環の誕生日である四月一日にアプリ本編内にて登場し、ラビッターで『あにまりっしゅせぶん』がトレンド入りするほどの反響を呼んだ。また、つい先日の大型イベントにてショート動画も公開された。グッズ展開やラビッター専用のスタンプ配信が決定し、SNS上は大きな盛り上がりを見せている。
『好き』
『好き』
『好き』
『好き』
本日あにまりっしゅせぶんのスタンプが配信されたことで、一織のトークルームには大量のスタンプが送られていた。こんなトンチキなことをするのは、同メンバーであり、一織の恋人でもある七瀬陸だ。
自身を動物化したもの──りくはむの『好き』というスタンプが、現在進行形で届いている。
『スタンプ連発やめてください』
まずは落ち着くよう促すと、しばらくしたのち『ぴえん』と眉を下げたりくはむのスタンプが送られてきた。
『ぴえん』
『ぴえん』
『ぴえん』
『ぴえん』
「かわ……いや、多いな!?」
まさかしゅんとした陸の顔を好んでいることに、気づいているのだろうか。一瞬、背中に冷たいものが走ったが、再び『好き』のスタンプに戻ったため、一織は安堵の息をついた。
『七瀬さん、かわいいの渋滞事故が発生しています』
『わざとだもん。一織が正しいスタンプを送るまで、オレからの好き攻撃が続きます』
「なんだこのかわいい人は」
驚いて口に出してしまった。隣の部屋の陸に聞こえることはないだろうが、思わず出た独り言はいささか気恥ずかしい。口を引き結び、一織はスタンプを送った。分かりやすく怒っているきなこのスタンプを。
『ぴえん』
ということは、不正解なのだろう。また『好き』のスタンプが届いた。
「好き……つまりそれは、九条さん……か?」
しかし単に九条天といっても、種類は多数ある。直近のコラボ先のスタンプを送ると、疑問符を浮かべたたまれさのスタンプで返ってきた。
これもかわいい。
『鈍すぎ! 好きって、オレが言ったらなんて返すの?』
とうとうメッセージによるクレームが届いた。その言葉に、続くのは『好き』とハートを飛ばすりくはむのスタンプ。
「……まさか」と呟き、自分の——いおうさの『OK』という使い勝手の良いスタンプを送信した。
パッと既読がつき、送られてきたのは──『告白成立』のメッセージと、いおうさとりくはむ二匹が並んでの『わーい』という喜びのスタンプ。きっと隣にいたのならば、すぐさま一織に抱きついただろう。
「……かわいい人だな」
いおうさのスタンプは二種類のみ。同じ言葉が返せないことを、少しばかり残念に思いながら、一織は照れている青いうさぎのスタンプをタップした。