その身を生かすもの
「水の音がする」
相棒がそう言うので馬の歩を止めて耳を澄ますと、確かにかすかな水の流れが聞こえてきた。
「俺にも聞こえるな……ついに幻聴か?」
「違う。あっちだ」
数日前の山越えで方角を見失って抜けるのに手こずり、手持ちの水が完全に尽きてから丸一日が経とうとしていた。馬達は二、三日何も飲まなくても大丈夫だろうが、人の身ではこれ以上持ちそうにない。こんな時に限って空は一滴の水も望めないほどに晴れ渡り、容赦なくじりじりと照りつける日射しに汗が滲み出てくる。
「幻聴の方がしっくりくるな。こんな土地に水があるってことすら狂った考えに思える」
「獣がいるんだからどこかに水はある」
「そりゃそうだけどさ」
地を這うしかないもの達を嘲笑うかのように、高みには鳶が何羽も旋回していた。暑さで獣が弱ったところを狙っているのだろう。しかし奴等とて水が無ければ生きていけない筈だ。
熱された地面からは陽炎が立ち登り、目前の景色が揺らいで見える。乾いた地面からも自分達からも、すべての水分が天に奪われていくようだった。見ているだけで干からびそうな光景をまざまざと突き付けられている。思わず「太陽に殺されるな」と悪態を吐く。
この炎天下に馬達を歩かせたくはなかったが、じっとしていたところでいずれ限界は来るだろう。こんな場所で干からびて死ぬのはごめんだ。せめて走らせないようにと宥めながら音のする方へ向かうと、果たしてそこに水はあった。願いすぎて幻覚のように思える。
足下は切り立った断崖で、二十メートルほど下に細い沢があるようだ。
「結構高いな。いけるか?」
「いける」
ビリーが手頃な岩にロープを括りつけて崖下に垂らす。ただの作業の一環なのだが、こういう時の彼の手付きは本当に素速く、流れるような動きで感心してしまう。そういえば俺は出会い頭にも彼の身のこなしに見惚れていた。無礼な人間を次々薙ぎ倒していく様があまりに鮮やかで、まるで踊っているようだった。あの酒場からここまで長く一緒にいる事になろうとは。何だか急に遠くまで来たように感じる。
「腹が減った」
「ほんとか?元気だな、俺は何より水が飲みたいよ」
「すぐに飲める。飲んだら何か獲りに行こう」
「分かったよ。すぐ腹が減るんだな」
モン・ベベ、と呼び掛けたらじろりと睨まれた。
「それこの間覚えたぞ。赤ん坊って意味だろ」
「ハハ、知ってたか。可愛いって事だよ」
嬉しくない、と言いながらビリーが自分の身体にもロープを巻きつけ、足場が崩れないか確認しながら慎重に二、三歩降りていく。ロープを支える俺の腕にぐっと体重が掛かった。ビリーが一瞬こちらを見上げて、問題ないと告げるように軽く頷く。そこから勢いをつけて足場を蹴り、一気にするすると降りていく。
あっという間に降りていく彼とは裏腹に、俺の中には一瞬だけ見合わせた目がいつまでも残っていた。
ビリーの眼差しにはまるで迷いが無く、その真っ直ぐな鋭い視線に思いがけずはっとする。無防備でいたところを突然射抜かれたような、胸を打たれたような。ああ、彼はいまや自分に身を預けるのだ、と思った。ビリーに迷いが無いのはいつもの事だったが、それは彼がいつでも臨戦態勢であり、何が起きても切り抜けられる腕と自信があるからだと思っていた。しかし今は、彼の命を守るものは俺に委ねられたこの縄一本だけだ。
――幾人もの命を奪ったこの手におまえはすべてを預けるというのか。
何人も殺しているという意味ではビリーだって同じだろうが、その殆どは正当な決闘によるものだ。俺と出会う前はどうだったか知らないが。
ビリーが降りて行くにつれてロープは重さを増していく。人ひとり分の重みを支えているのだが、それはビリーが投げ打った覚悟そのものでもあって、彼の重さを全身に感じるほどにかえって己が無力なように思えた。いつの間に俺はこんなに重いものを抱えていたのか。なにか敬虔の念にでも打たれたような、自分でもよく分からない感傷が込み上げてくる。ギリギリと腕の筋肉が悲鳴を上げ出した頃、突然ふっと全ての負荷がなくなりビリーが無事に降りられたのだと分かった。
大丈夫かと崖下を覗き込んだ拍子に、ふいに涙がぽたりと一粒零れる。それこそ全く思いがけず、自分自身で驚いているのにそれは止まらず、瞬きをする度にぱたぱたと崖下へ落ちて行く。
自分が何に泣いているのか分からない。ただ、泣いた拍子にビリーを失いたくないという思いが強烈に湧き上がった。
なぜいま急にこんな事を考えるのか。多分ビリーからの信頼が目に見えた事が嬉しかったのだろう。我ながら単純な事だ。それでも、誰かとこんな風に信頼を分かち合うのは己に許してはいけないと思っていた願いで、それが叶うというのは言葉にならないほど暖かいものをもたらした。
「グッディ!」
崖下からビリーに呼び掛けられる。
「グッディ、きれいな水だ。すぐに持って行く」
声を張ってそう告げる彼に腕を振って応える。「足をとられるなよ」と返すのがやっとだった。俺の声は震えていなかっただろうか。この高さの断崖に隔てられていては相棒に情けない姿を見せる事もないだろう。
ビリーが沢に降り、水筒に水を汲んでいるのが見える。一ガロンの水を抱えて彼はまた難なく登ってくるだろう。踊るように軽々と、美しい身のこなしで。そして、ふたたびこのロープと自分の腕に、彼の命のすべてを預けて。