「断片」少女の世界のその前の -10- 夜明け前にアディは帰宅した。
水浴びをして自らに着いた血を流す。身を清め終えたら、次は汚れた服を洗う。血を隠すためのロングコートを軽く拭いて、不気味な赤い目を隠すためのサングラスに血がついてないか確かめてからかけ直して。血の跡がどこにも無いことを入念に確認してから、アディはリビングに戻った。大きなソファをベッドにしているリトの様子を確認する。リトはまだすやすやと眠っていた。
アディはほっと息をついた。椅子に座り、室内履きを脱ぎ両足を座面に乗せて、膝を抱える。背を丸め、膝に頭を乗せた。
食欲は無い。人を殺した翌朝はいつもそうだ。
眠くもない。無理に眠っても悪夢を見るだけだ。布団に入る気にもなれない。
先週、そしてそれ以前にもそうしていたように、アディは椅子の上で大きな体を縮め、じっと朝を待っていた。
やがて明るくなり、リトが起きた。
その頃にはアディは何とか動いて、リトの分の朝ご飯を作っていた。自分一人であればこのまま昼頃までじっとしているのだが、自分の行動が自分以外の人に影響すると思うと不思議と動けるものだ。
軽く挨拶をして、言葉少なに食卓につく。先週同様紅茶だけで済まそうとしていたアディに対し、リトは無理やりスープの汁部分だけを器に入れて押し付けた。アディも諦めてちびちびと飲み始める。
「…………その、昨晩のことなんだけど……」
食べ始めてしばらくして、アディが話し出す。ごはん後のほうがいいかと聞くと、リトは口の中のパンを飲み込んで今でいいと言った。
「詳しく、話したくない」
昨晩、アディはリトにどう説明するか延々と考えていた。その結果、話さなくていいなら話したくない、と言い張ることにした。
「だから、その……」
「わかった」
「でも……えっ、いいの?」
あっさりと受け入れられ、リトと出会って何度目かわからない脱力感を覚える。
「うんまぁ。というか、前からなんとなく感づいたうえでほっといてたし」
服の汚れがパリパリしてなんか赤黒かったし、凶器っぽいものも見ちゃったし、とリトがアディの仕事に気づいたきっかけを挙げていく。アディは頭を抱えた。人を家に入れることが極端に少ないアディは、リトを家に入れるにあたってバレないようにと最大限気を付けていたつもりだが、明らかに抜けがあったらしい。
リトはスープをかき混ぜつつ言った。
「ただ、どうしても訊きたいこととかあるから、それだけ訊いてもいい?話したくなかったら言ってくれたら別にいいし」
「……わかった」
アディは緊張した面持ちで頷いた。
リトは頷いて一つ目の質問を投げかけた。
「昨晩の血みどろはアディの怪我とかは含まれてないよね?」
「……ないよ。僕が殺した人の血だけ」
なるほど、僕が怪我してできた血だと考えたのだろうか。そう思ってアディが否定すると、リトは頷いた。
「ならいいや。もし怪我してたならちゃんと手当てしなきゃ膿んじゃうと思っただけ」
「………………」
「どしたの」
リトが来てから何度か脱力感とともに驚かされたアディだが、流石に今回は驚きが大きすぎて反応ができなかった。
あんな場面に遭遇しておきながら、加害者の心配をするだなんて!
「…………いや……」
かろうじて声を出す。リトはそう、と特に気にした風もなく、パンをもそもそ食べる。本当に底知れない子だと思った。
じゃあ次なんですけど、とリトはつづける。
「被害者にあたる人はお知合い?」
「……ううん、直接は知らない。頼まれて……あと、軽く調べただけ」
「ふうん。今までの人も基本的に他人?」
アディは首肯する。
まだアディも幼く衝動の管理がうまくなかった頃、知人を殺したことがある。その後周囲を巻き込む大乱闘に陥りアディはその地を追われることになった。それ以来トラブルを避けるために、頼まれてもあまり自分と身近な人には手をかけないようにしていた。
アディがそう言うと、リトは納得したように頷いた。
「そっか」
「……うん…………」
今回の質問は、話したくない話を隠しつつ答えるのに苦労した。次もこういった質問が来るのだろうか。そう思ってアディは身構える。
しかし、しばらく経ってもリトは三つ目の質問をしなかった。
「…………リト?」
「んん?」
リトはスプーンを銜えながら答えた。
「……他に、質問ないの……?」
「まぁ、訊きたいことは訊けたから」
本当に?アディが怪我したかどうかと、殺人対象が他人かどうかが、リトにとってどうしても訊きたいこと?
アディが納得していない様子を見て、リトが言った。
「じゃあついでに聞くけど……私もアディが言う『殺さないようにしている知人』の中に入ってる?」
「えっ……?そりゃ、入ってるけど……」
異世界から来たリトの場合、殺してもおそらくトラブルとは関係ないだろう。しかしアディは、トラブルとは関係なくリトを殺したくなかった。一週間も一緒に暮らした人に対して、アディの情が移らないはずがなかった。
それを聞き、リトは満足げにうなずいた。
「つまり私とか私が会った人には影響ないんでしょ。なら、それで充分だよ」
今まで一緒に過ごした人が殺人鬼であったとしても、その刃が自分に向かなければ関係ない、という。
「だってこの一週間でアディが優しいことはわかったし。殺したくて殺してないことくらい見ればわかるよ」
そういい放ちスープを呷るリトを、信じられないものを見るような目でアディがリトを見下ろす。
この少女のことが全く理解できない。いや、そもそも最初から一度も理解できたためしがない!