「アクアリウム」奇面組の事代作吾と一堂零の腐向け小説大学のゼミの後輩である、一堂は俺の部屋で寝ている。蒸し暑い初夏の夜にふさわしいランニングシャツとパンツ一枚の姿だ。初夏の明け方の薄明で、目覚めた俺が真っ先に見たのが、奴の足の裏だ。なんて寝方だ、こいつは。ゼミの飲み会で散々酔っ払い、終電どうしようかな、歩いて帰ろうかなと、こちらをチラチラ見てくるものだから、こいつ一人を泊めるくらいいいかと思い、俺のアパートに泊まるかと誘ってしまった。
大学院生の俺が所属している陸奥ゼミに、一堂零は一年生だというのに、何度か遊びに来ていた。「勉強熱心だな、一年坊主」と、ゼミの中で、年長の俺が声をかけて以来の仲だ。奴はもともと、学校の勉強は好きではなかったけれど、大学で好きなことを突き詰めて学ぶのが楽しいのだという。一堂のキラキラしている瞳を見ると、俺は忘れていた情熱を思い出し、気恥ずかしくなった。四回生の頃、俺は俺で、世に出るのを少し先延ばししたいと院生の道を選んだのだ。院を出たら、教職に就くのもいい。就職活動で、したいことが見つからず、ネクタイを締めてスーツを着て、街中を駆け回る日に、うんざりしてしまったからだ。一堂には、今の俺はどう見えているんだろうな。ゼミ生に倣って、「事代さん」と俺を明るく呼ぶ姿がまぶしく思えた。
薄明の光の中でボンヤリと一堂の足裏から膝裏を見る。一堂は、人によっては好みが分かれる、三白眼の個性の強い顔立ちだけれど、皮膚はすらっと滑らかで、肢体は細身で、首筋肩周り腰つきは女が持つ曲線とはまた別物の色気がある。足裏から膝裏の、誰にも犯されていないような、赤みのない肌が艶かしく、一堂はこういう部分は、誰かに見せたことがあるのだろうかと困惑してしまった。そうか、去年までこいつは高校生だったな。プールの授業とか、ひょっとしたら誰かとデートで海にとか。まさか、な。女っ気のない子どもっぽい男だ。ゼミの飲み会の終盤で退屈まぎれにやった王様ゲームの、ゼミ生同士の悪ふざけのキスに、「ちょっと……それは」と目を反らせたくらいに、まだ子どもだ。
「まあ、何を持って大人になるか、俺にはわからんがな」
俺は寝ている一堂の、癖毛の強い頭を撫でてやった。初夏の夜明けは早い。一堂の直線で出来た顔立ちをほの暗いコントラストで照らし出す。外は心が浮き立つような青空ではなくて、今日はしとしとと雨音が鳴る。雨音が俺の住むアパートと外界を隔てているかのようだ。昨日の夜から雨は降っていた。俺のアパートに泊まりに来るかと、一堂を誘った夜、酒のつまみだの、朝飯用のパンだの、一堂の歯ブラシだのを買いにコンビニエンスストアで買い出しの帰りからだ。今の時期ならウシガエルの交尾が見れますよと奴はいい、近所の田んぼを、一堂と二人で浮かれて寄り道して見に行ったときからだ。辺り一面、ぐあーぐあーうるさいウシガエルの嬌声を聴きながら、「事代さんはしたことがありますか」と、とんでもないことを一堂が口走ったとき、雨が滝のように降り出してきた。走って帰ろうとすると、「事代さん、こういう時、田んぼの用水路って、どうなってるかみたくないですかっ」と頭の悪いことを言い出すものだから、それにも付き合い、雨の中二人でびしょ濡れになるまで、歩き回った。子供よりもタチが悪い。大人が危険だからするなということを、若さと勢いと体力に任せて試してしまう。こんな無茶苦茶な時期なんて、人生にどれほどあるのだろうか。道中のコンビニエンスストアで、シャンプーを買い、「私たち癖毛だから、よく泡立ちますね」と言って、二人で雨の中で髪を洗うことなど、これから先の人生、経験することなどもうないだろう。俺のアパートに辿りつくと、服もパンツもびしょ濡れだから、二人とも上下の服を脱ぎ出した。「お前、風呂入れ」と一堂零にランニングシャツと新品のパンツを貸しておいた。夏なのだから、寝具なんてバスタオルと座布団があればいい。後は二人とも、水底に沈むように眠るだけだ。
初夏の薄明が少しずつ強くなる。一堂は、癖っ毛を俺に撫でられたままだ。雨は、昨日の記憶と地続きに振り続ける。窓の外のざあざあとした音が、止みそうにない雨足を感じさせる。
「こりゃ、しばらくコイツは帰れそうにないな」
少しずつ、昨晩の記憶を思い出した。寝る前の一堂だ。
「大学生って、ホント凄いなあ」
人前でキスとかするんだもんと、奴はボソッと呟いた。
「酒の勢いって奴だけどな。明日になったら、みんな忘れてるよ」
忘れたふりをするのが上手いだけだ。王様ゲームでキスを指名される対象は、冗談で済ませられるネタ枠だ。俺はネタ枠の自覚はあったし、適当に場を繕うつもりだった。
「お前の方こそ、大丈夫だったか?」
俺は一堂を気遣った。ネタ枠の俺が、王様ゲームで、女の子とキスする流れになり、女の子の方が、事代さんと……などと尻込みしているところを、一堂零が「じゃ、私が」などと言って、俺の唇を奪ったからだ。
「あれ、盛り上がりましたよね」
「一年坊主が、そんな気遣いせんでいい」
たぶん、一堂にとってファーストキスだったんだろうな、あれは。一生に一度を、ウケ狙いで俺とキスしてしまうなんて、バカなやつだ。
「寝るぞ」
俺は、部屋の電灯を常夜灯に変えた。一堂のあどけなさが残る表情が、薄赤色に照らし出される。純情を大学生活で毒されてしまうのだろうか、一堂は。セックスドラッグロックンロールとまではいかないが、セックスアルコールモラトリアムの三拍子揃った、人生最後の悪ふざけの時期に、こいつもほうりだされたのだ。
「ねぇ、事代さん」
俺は、低い声で「なんだ」と返した。隣で、俺のランニングシャツとパンツを履いて、半裸で寝ているしなやかな肢体がそばにいるかと思うと、一堂は男であるはずなのに、緊張で声がうわずりそうになるのを必死で隠した。
「キスしたこと、ありますか?」
一堂の声の方は、すでに上ずっていた。
「お前には言うもんか」
素っ気なく俺は返し、そのまま、一堂に背を向けて寝た。キスしたことは無くもない。俺にだって彼女がいて、逢瀬があって、軽く触れるか触れないかくらいの口づけを交わしたことがあった。問題はそこから先だ。あまりにも思いつめすぎた相手だったので、彼女の心を傷つけるのが怖かったのだ。それ以上は進めることが出来ず、あとは就職活動の忙しさで彼女の方とも疎遠になった。自分のなかの躊躇いを捨ててまで、彼女を求められなかった。
「私、キスしたの初めてなんですよ」
「だろうな」
一堂の言葉に、少しホッとした自分がいる。
「男どうしでキスしたのなんて、カウントには入らんから安心しろ」
「センパイはどうなんです?」
先輩って言ったな、こいつ。
「今晩、私とキスしたのも数に入れないんですか?」
「正直、今までの回数多くて、お前としたのは何回目か分からんのだわ」
嘘をつけ。
「フケツ」
「さっき、風呂入ったろ」
俺がからかうと、後ろから軽くチョップを食らわせてきた。低い声で、そういうとこですよと付け加えて。
「欲求をお手軽に解消してもなあ、虚しさしか残らんぞ」
王様ゲームで過熱した悪ふざけのキス、アルコールで馬鹿騒ぎしてモヤモヤを払拭して。たいして憂鬱など感じていないのに、大人の憂さ晴らしだけ、ちゃっかり真似なぞして。汚してしまったな、一堂を。その昔の俺は、付き合っていた彼女と疎遠になり、どうしていいかわからなくなった心を埋めようとして、行きずりの関係を持ち、生涯一度の経験をあっけなく散らしてしまった。あとは、俺があいつに言ったように、虚しさしか残らなかった。何が大人だか。歳だけ無駄に食っちまった。外は雨。降りしきる雨が窓にも地面にも飛沫を作り、白い戸張が出来ている。
「帰るのか?」
泥のように眠っていた一堂は案の定、昼近くに起きるほど寝坊で、一通り昨晩買ったパンを牛乳で腹のなかに流し込むと、じゃ、帰りますと笑ったのだ。
「雨だぞ?」
「濡れて帰ります」
ざあざあと外界を遮断していた雨音も、しとしとと穏やかに響き、飛沫は建物や植物をぼやかした輪郭を作り出していた。今なら濡れてもたいしたことはない。モラトリアムを引き延ばす俺と違って、一堂は潔く、去り際をわかっているようだった。
「ボロ傘で良かったら持っていくか?」
「事代さんち、ひとつしかないじゃないですか。大丈夫です、男の子だし」
それならばと俺は、ちゃっちゃと帰り支度をする一堂に、これでも持ってけと、過去の試験の写しを渡してやった。
「いいんですか?」
「先輩なんて、こういうことくらいしか利用価値ないだろ?」
せめて、年上の男として、有用なところを見せたかっただけだ。
「助かります。何かお返ししなきゃ」
「じゃ、身体で返してもらうか?」
「えっ」
「あー」
気にするなと返せばいいのに、馬鹿か俺は。だから、現役生からネタ枠扱いされるんだ。何が身体で返すだ。
「昨日キスした時とおなじで、私としても、数にはどうせ入れないんですよね」
いや、お前。何をキスと同列に語っているんだ。
「さすがに入れるぞ、それは」
真面目に返すな、俺。
「大学入って、そういうところも毒されたか。ゼミの付き合いもほどほどにしとけ。うわべの楽しさに惑わされてたら、大事なことを見失うぞ。一年坊主なら一年どうしの付き合いも大事にしろよ」
「正直……、大学って途方もないなって、自分を見失ってました」
「ん?どーした」
「大学行くの、勉強したかったというのもあったんですがね。みんな、遊びとかお酒とか恋愛やらで、やたらと大人に見えてきちゃって。好きな分野の話を深く出来る友達が欲しいなーと思って陸奥先生と話してたら、事代さんを紹介されちゃったじゃないですか?」
「……あったな」
かなり前のように思えるが、つい最近のことだ。院生になり、研究室の現役生とはそれなりに馴染んでいるが、もう自分は異質の存在だと自覚していた。そこに、何処にも属していない、こいつが現れたのだ。
「楽しかったんですよね。高校や大学の友達ですら、適当に聞き流すはずの専門分野の話を、私が思ってること全てを、事代さんは聞いてくれたし、質問にも真面目に答えてくれた。私はそれだけでもう、あなたの仲間になれるなら、なんでもするって思いましたから」
「本気か?」
「もちろん」
あなたの仲間になれるなら、か。就職活動の時の俺だ。着慣れないスーツを着て、窮屈な革靴を履いて、ネクタイで首を締めて、御社のためにと言葉で頭の中を上書きして。そこから先は、何があったんだろうな。
「なんでもするって言ったな?」
「は……い」
一堂が返事を終わらせるのを待たずして、俺は一堂の顎を軽く俺の方に向かせると、俺は一堂の唇を吸った。
「嫌か?」
「やった後に、嫌もへったくれもないでしょうが」
一堂が顔を赤らめる。遊びで酒の席で重ねた乾いたキスとは、まるで別物で、一堂の唇は温度と湿度を持っていた。
「お前、男とするのは大丈夫なほうか?」
俺はそのまま、一堂の腰を抱きしめて、手のひらを一堂の服の中に侵入させた。朝、目覚めた時に見た、足裏の滑らかな質感は体全体に繋がっているかのようで、俺は吐息交じりに、それを味わった。若くて、清々しい。まだ何も汚されていない無垢な体だ。
「待って、事代さん!頭が追いつかないっ」
「だろうな、でもお前が悪いぞ。親切にしてやっただけの男に、なんでもするなんて言ったからだ」
なんでもするなんて言葉を軽々しく言った一堂を、脅かすつもりだった。こいつの無垢さが憎たらしい。こいつの無邪気さが危なっかしい。こいつの若さが羨ましい。呪詛のような俺の愛撫に、一堂は心底驚いたらしく、じっとりと背中に汗をかいている。外はしとしとと雨が降り続ける。貸してやる傘は無い。別の視点から見れば、ここは外の雨と俺の部屋で閉ざされた空間で、二人の汗の水槽の中だ。昨日見た蛙の交尾のように、ぎゅうぎゅうと俺は一堂の体に巻きつき、一堂の首筋に犬歯を立てている。一堂は震える声で俺に尋ねた。
「事代さんは、私に何を望んでるんですか?」
大人になって、対して自分の望みを叶えられないという絶望も知り、うまく事を運べなかった自分の不甲斐なさにぶちあたった。この身を守るために社会に馴染む術を考えている。スーツを着て、窮屈な革靴を履いて、ネクタイで首を締めて。あれか?自分の声と等価交換に人間の仲間になりたかった人魚みたいなもんか?大人でもなく子供でもなく、なにものでもなく、モラトリアムで中途半端だ、なにもかも。
「なんでもするって言っただろう?俺は人肌が恋しいんだ」
「……ごめんね、事代さん。私、こんなことしかしてあげれなくて」
今度は一堂の方から、俺の顔に手を伸ばし、俺の唇に自分の唇を合わせてきた。一堂の唇が俺の唇を揉むように、舌が唇と歯茎の境を突くようにされると、これはもう生命をぶつけるしかないと腹を決め、俺は一堂を押し倒した。
「ひどい奴だろう、俺は。親切めかして恩に着せて、こういうことをする訳だよ。しかも、お前なら嫌がらないと小狡いこと考える小悪党さ」
「人肌が恋しいって言ったもんね、事代さん」
俺が押し倒した体は、細身で魚のように滑らかで、その気になったらグイと床を跳ね返せるほどの肉がある。俺にされるがままになっているのは、こいつの優しさだ。多分、こんなことを、一堂は望んでいないんじゃないか。
「あなたが、誰でもいいからと思って、私を押し倒したのなら、気が楽だな。私、そんなに凄くもないし、多分偉くもなれないから。みんながしているキスやイチャイチャも経験できそうにないかななんて思ってたし」
「はっ。お前も、やさぐれてたわけか」
嫌がらない。けれど、これを望んでいたのかは分からない。俺を欲っしていないのなら、俺は深海に一人でいるように孤独だ。部屋の室温は高くなくても、外の雨とお互いの汗で、湿り気がこもる。休日の雨の昼下がりは気怠く、誰もが静かに身を休ませる水底だ。
「キス……」
一堂がキスをねだってきたのだと俺は歓喜し、今度はゆっくりと、一堂の口の中で交わった。一堂の手は俺の頭を撫でるように触って、時々クシャクシャと掻き乱した。昨晩の豪雨の中、私たち、癖っ毛だからシャンプーが泡立ちやすいですねと髪を洗ったことを思い出した。二人で同じ匂いをさせているんだ、今。恋人どうしでもないのに。恋人になってくれるかもわからないのに。
「事代さんにキスしてもらうと、好かれてるみたいで気持ちいいな」
「馬鹿。好きに決まってるだろっ」
言ってしまった。
「ごめん、事代さん。そういうの怖い」
「あ、すまん。少し乱暴だったか?」
「そうじゃなくて」
俺を見ていた瞳が、少し伏し目がちになった。目線を逸らされ、俺は動揺する。
「私のことを好きだと言われると、私、あなたにどうしたらいいかわからない」
さっき一堂は、俺が誰でもいいからと自分のことを押し倒したのなら、気が楽だと言っていた。
「……この辺でやめとくか?」
「え?」
どうしてといわんばかりに目を丸くする一堂の額に、俺は軽く口づけした。
「お前のことをいじめたくなっただけだ。気に入られたいからって、なんでもするなんて、言っちゃダメだろ。一番大事なのは、自分自身なんだからな」
俺は一堂から体を離し、今度は俺の方から、一堂の癖っ毛をくしゃくしゃと撫でてやった。
「事代さんっ」
一堂の熱気と、二人の体から発せられた湿気から解放された。ランニングシャツとパンツ姿の一堂の体を見れば見るほど、たるみのない曲線の筋肉と線がきっぱりとした関節で、男同士ながらも美しさを感じるうえに、俺とは真逆の毛の少ない体が、水生動物のような涼やかさを思い起こせる。俺が社会に出ようとして言葉を喪おうとした人魚なら、こいつも、大人の世界に憧れて何かを引き換えにしようとした人魚だったのか。あの物語の結末のように、俺は誰かに救われたいし、こいつも、気を抜いたら、泡となって消えてしまう青春時代を、俺になんとかして欲しかったのか。
雨の中、昨日通った田んぼ沿いを、一堂とふたりで歩く。
服も靴も結局乾かず、俺は一堂に自分のTシャツとズボンを着せてやり、裸足にゴム草履を履かせた。歩くときに見える、踵や足の裏の滑らかさと薄赤色が、艶めかしい。俺の家にある傘は、たったひとつのボロ傘で、二人で入ると身を寄せあいながら、雨に濡れないようにそろりと歩いた。幸いにして、雨と田んぼ沿いの道のせいか、人通りはない。
「相合傘だな」
「昨日は濡れて帰ったのにね」
昨晩の激しい雨の中、俺のアパートまでの道中、田んぼの用水路を見に行ったり、悪ふざけでシャンプーを泡立てたりと、二人ともぐしょ濡れになっていたのだ。
「妙なもんだ。今じゃ、濡れないようにって、帰っているからな」
「楽しい時間はあっという間ですよね」
俺のアパートに行くのも、帰ると言い。自宅へ行くのも、帰ると言い。一堂の心の基盤が、どこに向いているのだろうか。
「抱接でしたね、あれって」
「なんだ、急に」
「一緒に見たカエルの繁殖の話です。ゆうべ、カエルの交尾なんて間違って言っちゃったからなー。訂正しときますね」
「……そんなこと気にしてたのか、お前」
今の俺にとってはどうでもいい。
「メスが卵を出して、オスがその上から抱きついて精子を出して。抱接って交尾とはまた違うんですよ、これが」
「お前、道端だからな?俺の部屋とは違うんだぞっ」
雨に煙る昼間の外の世界は、昨日の夜の闇とは別の、優しく白い世界だ。雨が境界線をぼんやりとかたどる。一緒に傘の下で隣にいる一堂も白い靄のなかに紛れてしまいそうだった。
「事代さんとした行為って、どっちなんでしょうね」
ここにも境界線がぼんやりとした関係があった。キスして、少しいじめて終わりにするつもりだったが、それだけでは嫌ですと、今度は一堂が俺を押し倒してきたのだ。
「愛情表現……じゃダメか」
「………道端なのに、よくもまあ」
「うるさい。お前もスッキリした顔しやがって」
照れが入り出すと、俺は歩みを止め、昨日見た田んぼに目をやった。用水路の脇には水底のように淡い青の紫陽花が咲いている。この花は梅雨以外はどうしていたっけ。桜のように潔く散る記憶も、椿のように不穏にボトリと首を落とす記憶もない。
「紫陽花の上にカタツムリはいない……か。いたら風流だったな」
「紫陽花は毒があるんですよ。蝕まれずに生き延びて夏の暑さに枯れていくそうです」
「色々と詳しいなー、お前」
犬を見て、賢いなあと褒めるような口調で俺は一堂に言ったが、一堂は相変わらずふわっとした微笑みを返して、事代さんのそういうところが好きですと言った。こいつはなんだ。俺が相手とはいえ、一通り性行為を経験すると、余裕みたいなものを出している。
「機嫌がいいな」
「そりゃまあ、恋人といますし」
「……こ、恋人?」
急にどうしたんだ、こいつは。
「お前、俺が好きだと言った時は、どうしたらいいか分からないから怖いって言ってなかったか?」
「いやあ、ウブでしたねー。数時間前の私!」
苦悩も挫折も何も知らず、いっちょまえに大人の憂さ晴らしの真似事で身を汚していく一堂を見て居れなくて、俺は一堂を押し倒してキスをして、怖いならこれ以上はダメだと警告したつもりだった、が。
「こんな私でも、事代さんは求めてくれたんでしょう?どう振る舞えばあなたは喜んでくれるか、がっかりさせないかで頭がいっぱいだったけど、そんなことで、あなたを逃すくらいなら、なりふりなんて構いませんもん」
逆に、俺が押し倒されてしまった。あとは、何処に隠していたんだというくらいの熱量で、この男は俺に情を交わしだしたのだ。好かれているみたいで嬉しいと言っていたキスをして、頭を掴まれて、シャンプーをしている時みたいに、かき乱されて、雨に濡れたあとみたいに服を脱いで、二人で水底に潜るように、感覚や感情に溺れあって。
「恥ずかしいやつだな、お前」
「私、事代さんの体好きだなー。けむくじゃらで、哺乳類って感じがして」
「お前、俺のこと、先輩なんて思ってないな」
「胸にキスしても、口の中で事代さんの毛がもしゃもしゃもしゃもしゃするんですよっ」
「やめんかっ」
最後は二人とも、カエルの抱擁のごとく抱き合って、お互いの腕の中で魚を掴みどるみたいに、ビクビクとはねるお互いのからだを体幹で感じていた。
「これが、事代さんの望んだことなら嬉しいなあ、なんて」
求められて、望まれた。そんな時間が人生でどれほどあるかわからない。行為の最中は、ただただ夢中だったけれど、今、隣で相合傘をしている一堂の熱と呼吸と雨や汗の湿り気を感じると、自分はこれが欲しかったんだと、俺の目から、水滴が滴り落ちそうになった。あぁ、馬鹿だ、こいつ。俺を濡らすまいと気遣って、自分の方が雨に濡れている。
「で、一堂。お前の望みはなんだよ。俺は貧乏学生だからな、先輩らしいことなんて、過去問を渡すことくらいしか出来……」
言い終わるか終わらないかのタイミングで、一堂に顎をクイとあげられ、キスをさせられた。二人の上にある雨傘が、ちょうど世間からの目隠しにのように頭上を被せていた。昨日はこの辺で辺り一面、カエルが鳴いていて、途中から雨が滝のように降ってきて、二人で濡れたんだ。昨日の飲み会から含めて、これで何度目のキスだ?むかしの彼女の回数なんかとうに越えてしまっている。行きずりの恋で捨てた純潔よりも、うんと胸に迫ってくる。口の中に広がる一堂の舌に、俺は自分が年上だということも忘れ、されるがままだった。
「馬鹿か、お前。人に見られたらどうするんだ」
一通り、口の中の愛撫が終わると、俺はようやく年上ぶり出した。歳が邪魔で、性別が邪魔で、世間には取り繕うことしかできなくて。
「覚悟がなければ、あなたの部屋に一晩泊まりませんよ。鈍いんだからもう」
一堂が持っているものは、若さで、俺が失くしていた、怖いくらいのまっすぐさだ。
「なかなか気づかないもんだから。あなたの気をひくことばかり考えてたのにさ」
好かれて、どうしたらいいかわからないのは俺の方だ。何かを捧げないと、自分は必要とされないと、孤独に蝕まれたのは、俺の方だった。なんだ、歳をとるたびに弱くなる。毒づいて葉を喰まれず枯れる紫陽花のように、志半ばで泡になった人魚のように、欲を絶やすのは、嫌だ。
「帰るか」
一堂は、俺のことを恋人と言った。
「……そっちの方向、事代さんのアパートですよっ?」
俺は来た道を引き返した。つられて、一堂が歩き出す。
「だから、どうした。傘は一つしかないんだぞ。おまえを駅まで送って行ったら、俺は帰るときの傘が無くなるだろう?それなら、止むまで俺のところにいろ」
「……買いますよっ、ビニール傘くらい」
そう言いつつも、一堂は俺の傘から出ようとしない。傘の外は雨。
傘がざあざあと雨粒を弾き、俺と一堂の掛け合いを邪魔していく。
「晩飯食ってくだろ?」
「雨の音がうるさくて聞こえませんっ」
「カレーにするかな。お前作れ」
「いやですよ」
「聞こえてるじゃねえか」
アパートへ引き返す俺たちに、カエルが一匹二匹と合唱しだした。