誰にも、あげない・1 その日、忘れもしない春の宵。燭台切光忠は運命の出逢いを経験した。
桜を舞わせ、ふわりと鍛刀部屋に降り立ったそのひとは、それはそれは麗しく微笑みながら言ったのだ。
『三日月宗近。打ち除けが多い故、三日月と呼ばれる。よろしくたのむ』
滅多なことでは鍛刀できない、俗にいう難民が多いと言われるその刀。天下五剣にして最も美しいといわれる三日月宗近が、この本丸に降り立った。腰を抜かすほど驚いている審神者をほったらかして、光忠は三日月に手を差し伸べた。
『僕は燭台切光忠。よろしくね、三日月さん』
『みつただ…光忠だな、覚えたぞ。じじい故、労ってくれ?』
とてもそうは見えない容姿でからからと笑ったその人に、光忠は恋をした。
三日月は誰からも好かれる刀であった。おっとりと笑う仕草は平安生まれであることを教えるし、優雅な所作は育ちの良さを思わせた。子供の形をしている粟田口の短刀達だけでなく、先に顕現していた様々な時代を生きた刀達ともいい関係を築いていた。
戦場に出れば鬼神の如き戦い方をするのだが、本丸に戻ればふわふわと笑っている。その落差に最初こそ驚くものの、そこがいいのだと懸想する刀まで出る始末。
けれど三日月はそうやって向けられる好意に微笑みこそすれ、決して誰の手も取らなかった。
その理由を、光忠は知っている。聞いたからだ、三日月本人から。
600年になろうか…大坂でな、随分と傲慢な刀であったが…俺と契った刀がおって。付喪神が何をと思うか?だがな、その頃は本気で想い合っておったのよ。まさか城が、天下の城が、焼け落ちるなどとは思わなんだが…。
けれどなあ、光忠。あれほどに心を寄せた相手は忘れられぬものでな…。いつかまた会えたらと、思うておるのよ…。
大坂城で焼け落ちた太刀。秀吉の佩刀だという。恐らくは粟田口の子供達が待ち望んでいる『いち兄』こと、一期一振。よその本丸でも顕現は確認されているから、この本丸にもいずれ来るのだろう。ようやく進んだ新しい戦場に、彼の気配があるという情報も入っている。三日月もその話を知っているのだろうが、決してそのことを口に出しはしない。
「怖い…のだろうな…」
縁側に並んで月を見ながら酒を酌み交わしている時に三日月がぽつりと漏らした。
「怖い?三日月さんが?」
「ああ」
「どうして?」
望月の目を三日月に向ければ、瞳に名と同じ三日月を揺らめかせて三日月は苦笑した。
「それほどまでに想い合った相手に…忘れられているのだと思うと…。顔を見るのが怖い。粟田口の中には、それを悟って俺の前で一期の名を出さずにいてくれる者もいるが、大好きな兄を思わぬわけにはいかぬのだろう。寂しそうにしているのを見れば顕現してやってほしいとも思う。けれど…もし、忘れられているのだとすれば…俺は骨喰と同じようには声をかけてやれぬだろうな…」
足利で一緒にいた骨喰藤四郎は、やはり同じように焼けて記憶がない。再会を喜んだ三日月を前にしてひどくすまなそうに覚えていないと宣ったのだという。その時三日月は確かに哀しいけれど、それでもこれからまた新たに思い出を作ればよいと宥めたと聞いている。
「それだけ、大切だってことか…」
光忠の呟きに、三日月は苦笑する。
「それにな…忘れられているとはいえ、距離を置かれるというのもまた切ないだろう?一期が悪いわけではない。そんなことはわかっておるのよ。それでも、俺のことだけでもうっすらとでもいい、覚えていてほしいと思うのは…傲慢だろうか…」
「そんなことないよ!」
思わず声が大きくなる。三日月はきょとんとしたが、次の瞬間やわらかく笑う。
「光忠は優しいなあ…」
「そんなこと、ないって…」
優しくせずにはいられない。だって光忠は三日月のことが大好きなのだから。下心を三日月に悟られないようにするだけで今は精一杯。
こうやって毎日、三日月が鬱陶しく思わない程度に世話を焼き、話を聞いて、距離を詰めて。自分がいないと寂しいと思わせる。今はその最中だ。
「こうしてじじいの相手を毎晩のようにしてくれる。お前のおかげで、ここでの生活も楽しいぞ?」
「僕だけじゃないでしょ?みんな、三日月さんのこと大好きでお世話だって…」
「うん、そうだな…。こうしてみんなが世話をしてくれる、相手をしてくれる。楽しいな。戦場で使われたことのなかった俺が、刀をふるい、誉を得て、ここに戻れば皆が相手をしてくれる。長い長いこの刃生の中で、今程刀として楽しく充実した日々はあるまいとも思う。…一期のことを、除けば、な…」
瞳の三日月が揺れる。それだけ想い続ける刀が、自分のことをすっかり忘れてしまっていたら…。それは、光忠には想像もつかない恐怖だろうと思う。
けれど、こうも思うのだ。
一期が忘れてくれていたなら、その時こそ三日月を、その美しい身も心もそっくりそのまま自分のものにできるのではないか、と。
「なあ、光忠…」
三日月が光忠の杯に酒を注ぐ。
「ままならぬなあ…」
それが、何を指しているのか。光忠にはうっすらとしかわからない。
「三日月さん、いい方向にいくといいよね。戦いも、三日月さんのことも、さ」
光忠が作った肴を口に入れていた三日月は、ふんわりと笑った。
夜の闇に、桜がひらひら舞っていた。
このまま一期が顕現しなければ、三日月の心は平穏を保てるのかもしれない。けれど顕現しなければ、三日月は先へ進めない。何より三条の末っ子を案じる今剣達もそれについては頭を悩ませていた。
「いまだえんれんで一期にあわぬのはぎょうこうかもしれませんね。三日月がこころをみだされるたねはへりますから」
「しかしね、今の兄上。一期の件が片付かなければ、あの子はいつまでたっても先には進めないということだよ?」
「わかっていますよ石切丸。ですがすでによそのほんまるの一期にはもれなくきおくがないとほうこくされているとききます。それならこのほんまるにくる一期にきおくがあるとはとてもおもえぬのです」
長兄の今剣は、決してその心のうちを明かそうとしない三日月を誰より案じていた。時折ぽつりと漏らす本音を聞き逃すまいとしているからこそわかったことだ。三日月が自分達を心配させないために心に蓋をしていることもわかっている。そこまで健気なことをされて、心配するなと言う方がおかしい。
「…三日月は、一期とまた夫婦になりたいと思うておるのでしょうか?」
小狐丸の言葉に、座が静まり返る。
「…さすがにそこまではわかりませんね。でもたぶん、そうなれたらとはおもっているのでは?600ねんもおもうておるせのきみです」
「あやつは長く人の世にあったゆえ、心乱されることばかりであったなあ。かわいそうに…」
顕現した一期が三日月を覚えている可能性は恐らく皆無であろうと三条の面々は思っている。一期の顕現は審神者の悲願でもあるし、それを使われる側である刀剣が阻止するわけにもいかない。
鷹揚な顔をしていて、その実内側はあまりにも壊れやすい繊細な三日月。よくこれまで生き長らえてこられたものよと思えるほど、彼は脆い。
「三日月はわれらのめぐしごにしてさんじょうのほこり。みなであのこをまもりましょう」
今は、そうとしか祈れない、願えない。ただ、三日月が健やかに日々を過ごしてくれればいいと、そう…。
三日月がこの本丸に降り立ってから、また季節がいくつか巡って。桜が散って青々とした若葉が日差しにさらされる頃、審神者や粟田口の短刀達が待ちに待った刀が降りてきた。
『私は一期一振。粟田口吉光の唯一の太刀。藤四郎は、私の弟達ですな』
言い終わるか終わらぬかのタイミングで、鍛刀場に飛び込んできた藤四郎達にもみくちゃにされる。
「いちにい!」
「いちにい!!」
誰が誰であるのか、一期には大体わかっている。ここで名乗って、自分が何者であるのか、何を目的として呼び出されたのかを理解するのだが、飛びついてきた弟達にはそれぞれに見覚えがあり、また意識に呼びかけるものがあった。
「また会えると思っていました!いちにい!」
尊い方の蔵の中にいた頃、最後に一緒にいた平野藤四郎が控えめに抱きついてきて、ようやくほっと息をつく。
「ああ、平野。お前が先に来ていたのだね。皆元気なようでよかった。私が一番最後だったのかな」
「まだここにはおらぬ兄弟もおりますが…おおむね、揃っております」
「そうか。みんなとまた会えて嬉しいよ」
それぞれの頭を撫でて、再会を喜んだ一期の視界の端で、瑠璃紺の袖が揺れた。騒ぎを聞きつけてそれに誘われた三日月である。一期が顕現したなら心の準備をさせてからなどと今剣達が心を砕いていたというのに、今日に限って三条は三日月を除いて全員が遠征に行っていた。
「あ!三日月さま!」
いつも三日月に甘えている五虎退がそっと覗き込んできた三日月に気付く。前田や乱も気付いて一期の背を押した。
「ねえ!三日月さま!いちにいがやっと来てくれたんだよ!!」
その周りに花を咲かせるように笑って乱が一期を三日月に近づける。一期はわたわたと押されていたが、やがて三日月の正面に立つと丁寧に挨拶をしてのけた。
「お初にお目にかかります。一期一振、粟田口吉光の唯一の太刀でございます」
三日月の瞳が一瞬だけ揺れる。その言葉に厚と薬研が声をあげかけるが、三日月の咎めるような視線を受けて口を閉じる。
「…三日月宗近。銘は三条だ。よろしく頼む」
「こちらこそ、いつも弟達がよくしていただいていると聞いていたところでございます。私が来るまでの間、随分構っていただいたとか」
「いや…粟田口の子等は皆よい子で、俺の方が世話になっている。お前達、よかったな」
声は、震えていないだろうか。笑顔は、引きつっていないだろうか。大丈夫、大丈夫…。もう少しだけ、我慢して…。
「三日月さん、ちょっといいかい?洗濯した単衣を持ってきたんだけど」
「あ、光忠…」
そう言いながら光忠が三日月の手を引いてその場から連れ去った。とても自然な流れで行われたそれに、誰も不自然さは感じなかった。厚と、薬研以外は…。
「三日月さん、もう大丈夫だよ」
光忠が障子を閉めた途端、三日月が力なく崩れ落ちた。それまで必死で保っていたものが、音をたてて壊れていく。
片袖をくわえて、左手で畳に爪を立て、三日月は声を殺して泣いていた。
ああ、あの刀のために、そんなに心を痛めて…。それほど大事な人に忘れられていたなんてね…。
「三日月さん、ほら、手を怪我してしまうよ?僕にしがみついて構わないから、今は泣きたいだけ泣きなよ」
目の前に腰をおろして三日月の腕を取れば、三日月が泣き濡れた瞳を光忠に向けた。瞳の月が涙で曇ってゆらめいている。
「…光忠…どうして…」
「そんなことは今はいいから、ね、おいで?三日月さん」
この日のために、ずっと三日月の世話を焼いてきた。話も聞いてきた。甘えさせて、出来る限り傍にいた。
「み、つ、ただ…」
「うん。僕だよ」
にっこり笑ってみせると、三日月は抵抗なく光忠の腕にその身を任せてきた。抱きしめてやれば喉をひきつらせて泣き始める。宥めるように背中を撫でれば、躊躇いがちに回された手がジャージを握りしめた。
「やは、り…やはり覚えておらなんだ…っ…」
「うん…」
「焼けた、のは…言うても、詮無いこと、と…頭では…わか、って…おるの、に…」
「うん、うん」
「覚悟、して、いたの、に…でも、それでも…」
「わかってる、わかってるよ、三日月さん」
三日月が涙と共に零す言葉を、光忠は全部拾って応えてやった。どんなに小さな声で、涙でくぐもっていようと、全部に応えた。
「…泣き疲れちゃったね、三日月さん…」
しばらくしゃくり上げていたが、その声もだんだんと小さくなっていき、腕の中の三日月がずしりと重くなった。
「さて…どうしようか…」
赤く腫れ上がった目許が痛々しい。まるで紅を挿したようだ。青白い顔色なのにそこだけほんのりと赤くて、人形のように整った顔の三日月が生きているのだとわからせてくれる。
障子の向こうに気配を感じて、光忠は三日月を隠すように抱え直して小声で声をかける。
「…厚くんかい?」
「お、おう…。三日月は…」
「今はそっとしておいてあげてくれるかな。どれだけ三日月さんが辛いか、事情を知ってる君ならわかるよね?」
豊臣の頃の一期と三日月を知っている厚は、お初にお目にかかりますと兄が言った時、思わず声をあげかけた。だが三日月に視線で諌められて何とか口を閉じたのである。きっと落ち込んでいるだろうと三日月の部屋まで追いかけてきたのだが、連れ去った光忠がそのままついていたのだと知る。
「…わかった。また後で、様子見にくるから…」
気配が去って、光忠はほっと息をついた。
「みつただ…」
小さな、声。光忠が見下ろせば、三日月がうっすらと目を開けたところだった。
「起こしちゃったかい?ごめんね、うるさくしたかな」
「いや…すまんな、こんな無様なところを見せてしもうて…」
起き上がろうとしたところを、光忠に強く抱きすくめられて動きを止められた。
「何が無様なんだい。三日月さん、格好良かったよ?」
「…無様ではないか…。覚悟をしていたというのに、こんな…」
光忠は腕を緩めようとしない。
「格好良かったよ。ちゃんと、笑えてたよ。いつもの三日月さんみたいだった」
「まことか?…笑えて、おったか…?」
「うん。笑えてたよ。大丈夫。決めていたんでしょ?そうしようって」
光忠の腕が逃してくれないと悟った三日月は離れようとはせずに腕の中でおさまりのいいところを見つけて息をつく。
「決めておった…そうだな、決めておった。だが、結局泣きそうになって…」
肩に、甘い重さがかかる。夜色の髪が光忠の肩に散った。
「うん、そうだね。僕、きっと三日月さんは笑って挨拶するだろうと思った。一期くんがどんな挨拶をしてきても。けど、三日月さん、今にも泣きそうだったから、僕がここまで連れてきちゃった」
「光忠には、お見通しであったか」
苦笑する三日月の髪を撫でながら、光忠はまるで夕飯の献立の話をするように続ける。
「当たり前でしょ?どれだけ三日月さんの傍にいると思ってるの?」
「光忠…」
「僕は、あの日、三日月さんが僕の目の前に顕われてくれたあの日から、ずっと見てきたよ。三日月さんだけを」
「…あの日、から…?」
随分と長いこと、光忠はじっと三日月の傍にいてくれたのだと思った。大坂で一期と共にあった季節には及ばぬまでも、ただ三日月のために光忠はいてくれたのである。呼び出された刀剣としての責務はもちろん果たしながら、本丸の皆ともきちんと付き合いながら、彼は三日月を最優先してきたのだ。
「こんな状態の三日月さんにこの気持ちを伝えるのは、とってもずるいし、格好悪いとも思ってる。でも、僕はもう三日月さんが泣いているところを見たくないんだ。ねえ、三日月さん。僕にしなよ。僕なら絶対あなたの傍からいなくなったりしないし、あなたを泣かせたりもしない。ずっとずっと一緒にいる。だから、僕のお嫁さんになってよ」
三日月はあまりにも突然の話だったのか、泣き濡れた顔もそのままにしばらく小さく口を開けたまま驚いていた。その顔があまりに幼くて愛おしくて、光忠は優しく微笑んで涙をそっと拭った。
「答えは、すぐじゃなくていい。けど僕の気持ちは知っておいて?そしてその上で、僕はこれから三日月さんを格好良く口説くよ」
抱きしめて耳元でそう伝えれば、三日月がくすぐったさに身じろぎする。
「俺は…今はまだそのような…」
「わかってる。けれど、今のままじゃ、三日月さんはずっと、600年前のことを引きずったまま先に進めない。骨喰くんにはまた新たに付き合って行こうとは言えても、一期くんには言えないんだよね?だったら、もうそれは仕方ない。一期くんのことを忘れてとも言わない。あの刀のことを想うあなたごと、僕はあなたを愛するから。ずっとずっと、伝えたかった。僕がここにいるんだって、こと。僕があなたを一番愛してるんだってことを」
心がかき乱される。一期のことで辛くて辛くてたまらないのに、光忠にまで予想外のことを伝えられて頭が追いつかない。心はどこかに置き去りだ。どうしたらいいのか、三日月にはわからない。けれど光忠の腕を振りほどくこともできず、かといって光忠の気持ちに諾とも言えず…。
「光忠…」
「なあに、三日月さん」
「時間がほしい…。一期のことを思い切る時間と、そなたと向き合う時間が…」
「うん。長期戦は覚悟してる。僕は待ってるよ。でも口説きもするから、そのつもりでいてね?」
決して深刻にならないようにと心を配ってくれているのは痛いほどわかった。長い長い恋の終わりを覚悟せねばならぬのかと、三日月は瞳を閉じた。