誰にも、あげない・5 三日月の体調がようやく回復し、本丸にも穏やかな日々が戻って来た。その存在ひとつで本丸を支えている三日月が元気でいてくれるだけで、ここにいる刀剣男士達の纏う空気が変わる。
「三日月様、おはようございます」
前田と連れ立っていた平野が数週間ぶりに大広間で朝餉をとろうとこちらに向かって来る三日月に駆け寄る。
「ああ、平野。おはよう。前田もおはよう。二人ともいつもながらしゃんとしていて好ましいな」
「「ありがとうございます!」」
嬉しそうに声を揃える二人に三日月は微笑む。少しやつれてはいたがいつもの狩衣姿で立っており、『お方様』のことを心配していた平野としては内心安堵していた。なかなか部屋から出て来ず、平野や薬研の見舞いもほとんど断ってきていたから。
「三日月様、こちらでご一緒に…」
平野が粟田口が集まっているところで一緒に食べようと誘おうとしたところに、鶴丸が入ってきた。
「よう、三日月。やっと出てきたな?久しぶりに一緒に朝餉といこうじゃないか」
「おお、つる。よいぞ、よいぞ。すまぬな、平野。また誘っておくれ」
狩衣の袖を軽く引かれ、三日月は鶴丸や鶯丸と一緒に朝餉をとることになった。いつもどおり不機嫌そうな大倶利伽羅もいる。
「…もう、いいのか」
「心配してくれていたのか?大倶利伽羅。本当はとうによくなっておったのだが、光忠がなかなかよいと言うてくれなくてな。今朝やっと狩衣を着せてくれた」
三日月が微笑めば、大倶利伽羅はふい、と横を向く。けれどそれは嫌っているとかではないとわかっているので、三日月は別に気を悪くはしない。
「伽羅坊はいい加減に三日月の微笑みに何か一言でも返すべきだと俺は思うんだがな」
「知るか。俺の勝手だ」
そこへ光忠が膳を持って現れる。
「はーいはい、そこまで。せっかく三日月さんが床上げしたところなんだから、変な言い争いはやめてね。はい、三日月さん。甘い卵焼き、特別だよ?」
ぱあ、と三日月の表情が明るくなる。何の躊躇いもない、心からの笑顔を久しぶりに見た気がする。それを引き出したのが卵焼きなのは少々納得はいかなかったが、まあ作った甲斐があったというものだ。
「なんだ光坊。俺達にはないのかい?」
「あるわけないでしょ、鶴さん。これは三日月さんだけ。がんばって元気になってくれたからね。そろそろ雑炊も飽きただろうし」
「飽きることはないぞ?光忠の雑炊は美味だ」
「ふふ、ありがとう。三日月さんのご飯は手まり寿司にしてあるんだ。少しずつでいいからゆっくり食べてね」
三日月の前に置かれた膳には可愛らしい手まり寿司が並んでおり、横に卵焼きと吸い物がのっていた。明らかに三日月だけ特別扱いである。
「光坊、これはずるいぞ、あからさまだ!厳重抗議!」
「聞こえません。三日月さんはそれでなくても食が細いんだから、少しでも食べてもらわないとね。あ、歌仙くんがね、あとでお茶でもって言ってたよ」
「左様か。楽しみにしておると伝えておくれ。歌仙のお茶は趣があってよい」
「お茶菓子、いいの用意してるって」
「是非に寄らせてもらうと伝えておくれ」
光忠は笑いながら三日月の頭をぽんぽん、と撫でた。それを目撃した数振りの刀剣達が軽くざわつく。鶴丸はその様子に目を細めた。この数日で随分と進展したじゃないかと内心思いながら。
「さ、みんな食べよう?」
「うむ。いただきます」
三日月が手を合わせて言えば、光忠達も手を合わせてそれに倣った。
不安げに三日月に視線を送る粟田口、穏やかに笑う三日月に安堵の表情を見せる三条。様々な刀達の視線に気付かないではなかったが、三日月は何も言わなかった。言えばきっと心が揺れる。粟田口達の中には、一期一振もいるのだから。
こく…と飲み干し、ほう、と一息。そっと畳に茶碗を置く所作までどれも洗練されていて、この姿を見るために自分は審神者に茶室を強請ったのではないかと歌仙兼定は思う。そのくらい、三日月の姿は雅だ。
「…やはり歌仙の茶は美味だな」
「お褒めにあずかり光栄だよ、三日月さん。…それにしても元気になってくれてよかった。光忠から今日は三日月さんも大広間で朝餉だって聞いたから急いで用意したんだ」
「そうなのか?やあ嬉しいなあ。俺もな、光忠から歌仙が用意してくれていると聞いてついいそいそと来たのだが」
「ちょうどよくいいお茶菓子も入ってね。これは是非に三日月さんにと思っていたところだったんだ。よかった」
おかわりをどうぞ、と差し出された器の横には歌仙が用意していた上生菓子。初期刀として絶大な信頼を得ている歌仙に、審神者が時折こっそりと差し入れしてくれるものだ。
「主がそなたにとくれたものではないのか?」
「ひとりで楽しむのもありとは思うけどね。僕としては風流をわかってくれる刀と楽しみたくて」
「そうか。俺は歌仙のお眼鏡にかなっているということなのだな。よきかな」
髪留めをしゃらりと揺らして三日月が笑う。袖で口元を隠して、クスクスと。このおっとりとした刀がその身を焦がすような恋をしていたなど歌仙は知らなかったのだが、三日月が臥せっていた間に近侍となった際、審神者からさわりだけ聞いた。
「少しは笑えるようになったんだね、よかった」
「…主から、聞いたか」
「決して詳しくではないけれど。骨喰藤四郎の件があったから、焼かれて記憶がなくなるってことは知ってたし、ね。僕は誰かを応援するとか、そういった肩入れをするつもりはないんだ、でもね…」
出していた道具を片付けながら、歌仙は微笑む。
「あなたが幸せになれたらいいと、思ってるよ」
「歌仙…」
「主から口止めもされたし、他の刀達に触れ回るつもりはもちろんない。これは当人の問題だから。ただ、僕はあなたが幸せになれたらいいと、それだけ祈ってる」
三日月は少しだけ唇を噛み締めてこみ上げる涙を我慢した。ここで泣くのはだめだ。これ以上周りに心配も迷惑もかけたくない。
「あ、そうそう。今朝の手まり寿司、どうだった?」
そんな三日月の葛藤を見透かすように、歌仙が突然話題を変えた。
「…ん?」
「あれは僕の案だったんだけど。あなたは食が細いし、少しでも食べる気になってくれたらと思って見た目にもこだわってみたんだよ」
「おお、あれは歌仙の案であったか。まことに美味であった。全部食べるまで皆が待ってくれてな。久しぶりに楽しく朝餉をいただいた」
「それならよかった。まったく光忠は本当にあなたには甘いから。三日月さんにどうにかご飯を楽しく食べてほしいんだけどどうしたらいいと思う?って相談されてね。それで急遽考えたんだよ」
はい、どうぞ。と蕩けるような眼差しで膳を差し出してきた光忠のことを思い出す。前よりもずっと甘く見つめられているような気がする。きっと今まではその気持ちを隠して見つめてきていたのだろうな、と心がくすぐったい。
「そうであったか。可愛らしい手まり寿司で、食べるのが惜しいほどであったぞ」
「そこまで言われると嬉しいね。やっぱり膳も雅でないと。季節も感じられる風流なものでないとね。あなたが喜んでくれたなら、光忠もがんばって作った甲斐があっただろうな」
厨で三日月のための朝餉を作っている光忠の姿を思い出す。いつもだってもちろん真剣にみんなの食事を作っているのだが、三日月の朝餉を作っている時の光忠はいっそう真剣で、そしてとても楽しそうだった。『このところ雑炊ばかりだったから、目新しくて食べやすいものがいいんだよね』などと言いながら。その口から零れ落ちる三日月への言葉がどれもこれも甘ったるかったのだが、歌仙は気付かぬふりをしてやった。この数日、光忠が三日月への想いを隠しもしなくなったせいもあるのだろうが、それにしたって幸せそうで、見ているこっちまで胸があたたかくなった。
話を聞いてはにかんでいる三日月を見るに、おそらく光忠の気持ちは伝わっているだろう。そして三日月の心もちゃんとそれを受け取っているようだ。口には出さないし、誰かに言うつもりもないけれど、歌仙は優しく見守ることにした。
「遠征?」
風呂上がりの三日月の髪を乾かしてやりながら、その日にあったことを聞くのが光忠の日課である。
「ああ。夕餉の後で主に呼ばれてな。病み上がりの状態もそろそろ落ち着いただろうし、近い距離の遠征はどうかと」
「えー…まだ早いよ。三日月さん、やっとご飯食べれるようになったところなのに…」
「…光忠が、一緒だと言っても、だめか?」
櫛を通していた手が止まる。
「え、僕も一緒なの?」
「誰か一緒に行きたい者はいるかと問われてな。今回は俺の好きにしてよいと言われて…ならば、光忠と共に行きたいと言うたのだ」
「三日月さんが僕と一緒がいいって言ってくれたんだ。嬉しいな」
背中から抱きしめれば、三日月がくすぐったそうに笑う。
「…歌仙から、聞いた。光忠が俺のために今朝の朝餉を作るためにたくさん思案してくれたと。ふふ…何やら面映いな。想われるというのは」
「あー…歌仙くんも余計なことを…格好悪いじゃないか…」
「そんなことはないぞ?光忠。俺はとても嬉しかった」
振り返って、三日月がそっと抱きついてくる。少しずつではあるが、三日月が光忠との距離を縮めてきているのがよくわかる。心の中が温かくなって、光忠は嬉しそうに抱きしめる腕を強めた。
「三日月さんと僕の他には、誰が行くの?」
「俺と光忠と、つる、狐のあにさまと、石のあにさま、平野藤四郎の6人だ。光忠、弁当を持って行きたいのだが、作ってくれまいか?」
光忠は面子を考える。鶴丸、小狐丸、石切丸、平野藤四郎、それに自分達ふたり。光忠と三日月のことを知っている者と知らない者が混ざるということになる。三日月は大丈夫なのだろうか。
「弁当はもちろん作るよ。三日月さんのリクエストだもん、腕によりをかけるね?」
「よろしく頼む」
膝にのせて、優しく揺らせば三日月はクスクスと笑って光忠に寄りかかった。
「光忠はあたたかいな…」
「三日月さんは冷えやすいからね…僕が一緒の時はこうしてあっためてあげられるけど…」
「ならばいつも一緒にいてくれたらよい」
そうはいかないことくらい、三日月にもわかってはいるけれど。どうしても、甘えたかった。心を預けると決めた光忠に、少し甘えたい。
「むしろ僕以外にあっためられないでね?僕、すっごいやきもちやきだから、三日月さんが他の人にあっためられてたら、三日月さんにも優しく出来ないくらいになっちゃうと思う」
「ばっ…そなた…」
あまりの熱烈さに頬を染めて顔を上げれば、光忠は甘い笑顔を浮かべていた。
「みつ…た、だ…んんぅ…」
もう我慢できないと言わんばかりに光忠が三日月の唇を塞いだ。三日月が光忠を受け容れると決めてから、初めての口づけだった。
何度も重ねられて、息が出来なくなりそうになったところで光忠の胸を叩けば、ようやく唇が離れていった。
「…嫌だったかい?」
熱っぽい瞳に覗き込まれ、いよいよ三日月は心臓が破裂しそうになる。求められることは嫌ではない。光忠に心が傾きかけている今、そんなことは愚問だと思う。
「そんなわけ…ないだろう…」
「ごめんね、本当は三日月さんにちゃんと返事をもらってからって、思ってたんだよ…。格好悪いな…」
むしろ今のキスで自分の気持ちを自覚してしまった三日月としては、謝ってほしくはなかったのだが…。
「何故謝る…。好いた相手を前にして、口吸いはしたくなるものなのだろ…?なら俺は、謝ってほしくない…」
「そりゃあそうだけど!…って…え…三日月さん…」
ぽすりと光忠の胸に顔を埋めた三日月の耳は真っ赤だった。だが口にしなければ伝わらないと思ったのか、必死に言葉を紡ぐ。
「一期を思い切ると決めたあの日には、既に心は傾いておった。思えばそなたに想いを告げられた日には決して嫌とは思わなかったのだから、とうに心を傾けていたのやもしれぬ。一期をずっと想うてきたのに、そなたの想いに絆されてはならぬとどこかで枷をしていたのだろうな、なかなか己がわからなんだ…」
顔を上げ、光忠を見上げる。夜空の瞳に浮かぶ三日月が美しく揺れていた。
「歌仙のところで朝餉の話を聞き、嬉しくて、面映くて…。そして主に遠征の話を持ちかけられた時に口をついて出たのが光忠の名前であったことでうっすらと自覚して…。そして今、そなたに口吸いされて、驚きよりも嬉しさが勝った…これは、そういうこと、なのだろ…?」
つ、と一筋涙が零れ落ちる。光忠はその涙を大きな手のひらで拭って、強く強く抱きしめた。
「そういうことだよ、三日月さん。僕の一番大切なひと。僕の気持ちを受け容れてくれてありがとう」
「俺こそ…待たせてすまなんだ…」
「いいんだ、そんなこと。僕もっと時間かかると思ってたから。でも、もっともっと三日月さんに好きになってほしいから、誰にも隠さずに三日月さんを口説くよ?」
「そのような…もうそのようなことせずとも…」
光忠には、わかっていた。光忠の心を受け容れたからといって、一期への想いを捨てたわけではないことに。もちろん、想っていた日々を忘れてほしいとも、一期を嫌いになってほしいとも思わない。一期を想う三日月ごと愛すると告げた言葉に嘘はない。
「三日月さんの心を、もっと僕で埋めたいだけなんだ。だから覚悟して?たっくさん愛されてね。…ねえ、三日月さん。あなたはもう、幸せになっていいんだよ。僕の腕の中で、幸せになって?」
愛し愛される幸せを、知らない三日月ではない。600年前に一期と過ごした日々は確かにそんな喜びを纏った日々だった。
「一期のことを心に残したままの俺が…これ以上幸せになって、よいのだろうか…それに俺はもう、十分幸せだぞ?光忠…」
「まだ。もっと幸せになろう?僕と一緒にさ」
「ん…」
こくりと頷く仕草さえ、愛おしい。毎日愛しいと想う気持ちを育ててきたが、この想いが通じた今、それがもっと大きくなったことを知った。
「もう今はさ、僕、三日月さんのことを甘やかしたくて甘やかしたくてたまらないんだよ。さしあたって、明日の弁当の卵焼きは甘いやつにするね?」
「そなたは、もう…」
三日月が物思いに沈んでしまわぬようにと気遣う素振りが嬉しい。
「甘いの好きでしょ?」
「もちろんだ。さすが光忠」
「当然だよ。三日月さんがこの本丸に来てから、誰より僕が一緒にいたんだから」
垣間見せてくる独占欲と、自己主張。それさえも嬉しく感じるのだから、まったく心というのは手に負えない。
「…あ、ねえ、そうだ。明日の遠征の隊員で、平野くんだけが僕が三日月さんを口説いてること知らないと思うんだけど、平野くんの前でも三日月さんを甘やかしていい?」
「平野か…そうであった…」
一期のことはもう思い切ると言いおいて、あの日以来見舞いもほとんど受けず、今朝も朝餉の誘いを断ってしまった。
「平野は…大坂城の頃、共に過ごした時期があってな。一期の妻であった俺のことをお方様と呼んで、慕ってくれた。この本丸で再会してからも、一期とのことを随分と案じてくれたのだ。なれど一期が俺のことを覚えておらぬとはっきりとわかったあの日、もう呼ぶなと…一期にも思い出させてはならぬと言うて…。一期には過去に囚われてほしくないゆえ、平野や薬研達の前で一期のことは思い切るとは言うてあるのだが…さて…」
「今までも三日月さんをみんなの前で甘やかしてはきたけど、僕明日からもっと張り切るからさ…きっと平野くんは気付くよね、聡いから」
「…よい。俺も腹を括ろう。見苦しくべたべたするつもりはないし、弁えて行動すればよい話だ。平野に勘付かれたとて、もう、心は光忠に預けたのでな」
これには流石に光忠も驚いた顔をする。そしてまるでお手上げとでもいうように困ったように笑った。
「さすが三日月さん。男前だなあ。惚れ直したよ」
「ふふ。そうだろう、そうだろう。もっと惚れてよいぞ?…溺れる程、愛しておくれ、光忠…」
小さく呟いたその言葉は、縋り付くような悲壮な声音で。光忠は応えるようにその唇を塞いだ。
「絶好の遠征日和ってやつだな!」
翌朝、遠征部隊は朝餉を済ませて早々にゲート前に集合していた。機嫌良く腰に手を当てて叫ぶ鶴丸の隣には、光忠にきっちりと戦装束を着付けてもらった三日月がいる。光忠に頼まれた鶴丸が連れてきたのである。
「本当に遠征に出てよいのか?三日月。ぬしさまも随分と気の早い…」
心配そうに頬を撫でてくる小狐丸に三日月は微笑む。
「よいのだ、あにさま。本当はとうに元気になっていたのに、光忠がなかなか床上げさせてくれなかっただけなのだから」
「そうかい?それならよかった。毎日祈祷をしていた甲斐があったというものだね。心配したよ?三日月」
「石のあにさままで…あいすまぬ…」
日だまりのような笑顔を浮かべる三日月に全員が安堵する。
「三日月様、無理だけはなさらないでくださいね?今日の行き先は練度も余裕のあるところ。少しでもお辛ければ後ろに下がっていていただければ」
控えめに狩衣の袖を引いて、平野が見上げて来る。三日月は少し屈んで視線を合わせ、微笑んだ。
「やあ、平野は優しいなあ。そこまで心配せずとも大丈夫だ。俺の練度はわかっておろう?そうやわにはできておらぬよ」
「はい!…でも、お辛い時は必ず仰ってくださいね?」
「あいわかった」
三日月の返事に平野はやっと笑顔を見せる。三日月が寝込んでいた原因が長兄にあったとわかっている平野としてはここしばらく本当に気が気でなかった。しかも見舞いさえ断られては心配をするなという方がおかしい。それに、三日月がいなかった間の粟田口の話も聞いてほしいのだ。
「あの、三日月様…」
言いかけたところで光忠が合流してきた。
「ごめんね!お待たせ。みんなの分の弁当作ってたら遅くなっちゃったよ。はい、小狐丸さん、石切丸さん、鶴さん、平野くん…」
それぞれに渡していき、にこにこと待っている三日月の手には渡さない。
「光忠?俺の分は?」
「三日月さんの分は、僕が一緒に持っていくよ。落としたら困るし。ちゃんと甘い卵焼きも入ってるから、いいこでついてきてね?」
「な…こら、童ではないわ!」
「ほら、行こう?三日月さん」
手を引いてゲートに向かう。まだぶつぶつといじけている三日月の背中を鶴丸がぽん、と叩いた。
「光坊は三日月が大事で仕方ないんだ、察してやってくれ」
「…うぅ…」
頭の飾り紐に隠れた耳は、ほんのり紅く染まっていた。気付いたのは、平野だけ…。
遠征は滞りなく終了し、全員が無傷での帰還となった。久しぶりに三日月が本体を握って戦う姿を見た面々は、やつれているとはいえやはり冴え冴えとした攻撃を繰り出す三日月に安心した。
「では主に報告してくる。皆休むとよいぞ」
隊長を務めた三日月はそのまま審神者のいる執務室へと向かおうとする。
「三日月さん、僕も行こうか?」
「いや、よい。光忠は弁当箱の片付けもあるではないか。あとで部屋へ来ておくれ」
「あ、ちょっと、さらっと弁当箱押し付けたね?」
もちろん三日月の分は自分が洗うつもりでいたけれど。悪戯っ子のように笑う三日月の姿が嬉しくて光忠もそれに乗る。
「やられたな、光坊。弁当箱は俺が片付けておくから、三日月についていったらどうだ?心配だろう?」
「え、いいの?鶴さん。壊さないでよ?」
「君は俺のことを何だと思ってるんだ。いいから、追いかけてこい」
「ありがとう!」
光忠は鶴丸に自分と三日月の弁当箱を預けて駆け出していった。微笑ましく見送っていれば、平野が少し寂しげに見ている。
「平野?どうしたんだ?」
「あ、いえ…。三日月様、今日はいつもより燭台切さんの傍においでだったなと、思いまして。臥せっていらっしゃる間も、燭台切さんがずっと付き添っておられたからでしょうか」
「そうかもしれないな。まあでも、俺としては三日月がこうして元気になってくれただけでよかったと思ってるぜ?」
そう言って鶴丸に頭を撫でられ、それ以上は詮索できない雰囲気になったため平野はぺこりと頭を下げて粟田口の部屋へ戻っていった。
「燭台切の旦那と姫さんが?」
粟田口の部屋へ戻ったが報告したいと思った兄がいなかったため、平野は薬研が非番の時にはいつもいる医務室に向かった。案の定薬研はそこにいて、何やら不機嫌そうな平野に気付いて手招きしてくれた。
「旦那はずっと姫さんの傍についてたし、最近は甘やかし方も派手になったなとは思ってたんだが…姫さんもか?」
「それがその…薬研兄さん…」
そう言って平野は遠征の間のことを話し始めた。
光忠は目的地に着くまでずっと三日月の手を引いたままだった。いつも遠征の時はのんびりとみんなと話しながら動く三日月なのだが、今日は先頭に鶴丸がまるで三日月を守るように先導し、その次に光忠が三日月の手を引いて続き、三日月の右側には平野、後ろには石切丸、殿は小狐丸だった。通常の出陣の時のような行程で、それだけでもいつもとは違うと思ったのに、驚いたのはそこではなかった。
「はい、三日月さん。食べやすいようにしてあるからね。あとお茶」
「おお、すごいな光忠。卵焼きがたくさん入っておる」
三日月の小さな口でも無理なく入るように計算された大きさのおにぎりや唐揚げ。三日月の弁当はいつもそういった配慮がされていることはわかっているのだが、いつも以上にそこに漂う空気が甘かった。
三日月の周りはひだまりだと平野は思っている。大坂城にいた頃から、三日月がやわらかく微笑むだけでそこはひだまりになった。あたかかくて、優しくて、そこにいるだけで心が和らいだ。
けれど今日の遠征はそのひだまりに甘い空気が混じっていたのである。
「まるで…大坂にいた頃の…いちにいとお方様、みたいで…」
「…なるほどなあ…」
三日月が倒れた日に感じた光忠への違和感は、これだったのかとすとんと落ちてきた。薬をもらいに来るのはいつも光忠で、三日月の部屋に様子を見に行っても 大抵いつも傍らに光忠がいた。本当は数日前にはそろそろ起き上がってもいいと伝えてはいたのだが、『こんなにやつれてる三日月さんが倒れたら困るよね?』と床上げを延期させたのは光忠だった。もちろん大事を取ることには賛成だったが、とにかく三日月のことが心配でたまらないというのを隠さない。
ある程度初期から一緒にいて、結束が固いということだけが理由とは考えられない。初期からというなら、薬研だってそう変わらない時期から一緒にいるのだ。
そうなれば、導かれる答えは決まっている。そして薬研も気付く。
「おい…姫さんが、旦那にずっと手を引かれてたと、言ったな?」
「はい」
「姫さんが引かれてたのは、右手か?左手か?」
「確か燭台切さんが左手で引っ張っていたから…」
「右手…か…」
右側は光忠にとって死角になるのでそちら側に三日月を立たせるわけにはいかないという配慮もあったろう。
だが。
「姫さんが、右手を…」
「兄さん、お方様の右手は…」
「…武器を持つ利き手は…誰にも預けねえって…。右手は、一期のものだからって…」
そうか。三日月は光忠に右手を預ける程には心を傾けたということなのか。一期を思い切るということは、二度と誰かを慕わないということではないのだ。考えてみれば、三日月にそれを強いる権利など、誰にもないのである。
「そうか…俺っちも気付かなかったな…。まあ、燭台切の旦那がやけに姫さんの傍で甲斐甲斐しくやってるなとは思っちゃいたが…」
「僕…寂しいです…。お方様には、やっぱり…いちにいの隣で、笑っててほしい…」
「そりゃあそうなってくれりゃいいと俺っちだって思ってたさ。けどな、平野。いちにいが思い出してくれるとは限らねえんだぜ?」
「思い出せずとも、いちにいならきっとお方様のこと、好きになると思うんです。あんなに想い合っておられたのに、何も思わないなんてこと、ないはずです。今は三日月様と一緒に出陣はないでしょうけど、これまでどおり粟田口と付き合ってくださるというのなら、いちにいとお話しする機会だって…!…兄さん?」
薬研が平野が話すのを止める。障子の向こうに気配を感じたのだ。
「誰かいるんだろう?何か用かい?」
問いかけても応えがない。すらりと障子を開ければ、立っていたのは一期一振であった。