誰にも、あげない・6「い、いちにい…」
一期は少し固まっていたが、薬研の問いかけに苦笑する。
「誰が聞いているかわからないんだから、気をつけなさい。私だったからいいようなものの、三日月殿にご迷惑だろう」
どちらかと言えば三日月が聞いててくれた方がまだよかったんだがと薬研は内心思いながら一期を招き入れた。
「何か用だったかい?いちにい」
「あ、ああ…そうだった。かすり傷を負った子がいてね。それで塗り薬をわけてもらえないかと思って」
「血が出てるなら洗い流してからこれを塗ってやってくんな」
薬箱から塗り薬の入った容器を出してそのまま一期に渡す。
「ありがとう薬研、助かったよ。平野も遠征ご苦労様」
そう言って出て行こうとしたが、一期は立ち止まる。
「私は高貴な方の蔵の中にいた頃以前の記憶がまるでない。その失った記憶の中に三日月殿がいたとして…今更私に何ができようか…」
「いちにい…」
「いちにい、お方様のこと、本当に忘れてしまったのですか?あんなに、あんなに…!!」
「平野!姫さんとの約束忘れたか!!」
薬研がたまりかねて平野の肩を掴む。三日月との約束、と言われてさすがに平野も我を取り戻したらしく唇を噛んで俯いた。
「薬研。私がもし三日月殿のことを話してほしいとお前に頼んだら、お前は話してくれるのかい?」
「…悪いな、いちにい。俺は、姫さんと約束しちまった。話さないのは、姫さんの…三日月宗近の、優しさだ」
「そうか。わかった。…薬ありがとう。またあとで返しに来るよ」
何もなかったように兄の笑顔を貼付けて、一期は出て行った。緊張が解けたのか平野がへたりこむ。
「なんであんなこと言っちまったんだ、平野。いちにいのことも姫さんのことも苦しめることになるって思わなかったのか?…姫さんをこれ以上、傷つけるのはやめてやれ…」
「…だって…だって、いちにいとお方様は、鴛鴦の契りを結んだお二人なんですよ…。そのお二人を間近で見ていた僕は忘れるなんてできません。お方様はあんなに幸せそうに笑っていらしたのに。その日々を取り戻せるかもしれないのに…」
確かに、幸せそうだった。三日月にとってあの日々は、長い長い生の中で春というに相応しい日々だったろう。そしてその日々を、三日月は大切に大切に抱えて生きてきた。一期が再刃され、記憶がないだろうことを知っても。これは自分のものだと切なげに笑って。決して手放そうとはしなかった。
光忠は、わかっているのだろうか。三日月の過去を。
「平野。いいか、しばらくこの件は俺っちが預かる。いちにいに何か訊かれても、俺っちから口止めされてるからって言って構わねえから。とにかく、これ以上は拗れない方がいい。俺から姫さんと…燭台切の旦那に確認したいことがあるんだ」
「…わかりました。でも薬研兄さん、僕は、お方様がいちにいと戻ってくださるのが一番いいって思ってます。それは、わかってください」
「ああ。わかってる」
薬研は不満そうな平野の頭を撫でてやり、苦笑した。
弟の傷の手当をした後。医務室へと戻りながら、一期は考え込んでいた。
そういえば三日月を見かけるたび、心のどこかに何か引っかかるものがあった。初めましてと挨拶した時のほんの少し動揺した顔、あの日以来何となくぎこちない厚や平野達。
書物で自分が在った時代のことは大体把握していた。三日月宗近が大坂城にいたであろうことも。鯰尾達も一緒だったようだが、やはり共に焼けたせいで記憶はないから大坂城でのことを問うことは無理だろう。
それに聞いたところで思い出せそうにない。思い出せるものであるなら、さっき心ならずも立ち聞きした時に思い出せたはずなのだ、欠片だけでも。それにあれほどの美貌を前にして、何も思い出すことはなかったのだから、記憶が何らかのきっかけで戻るとは考えにくい。
それでも。平野の悲痛な声が耳に焼き付いて離れない。
「どうしたらいいというのか…」
ほんの少ししか聞いてはいないが、今三日月は光忠を相手と定めているようではないか。刀剣が肉体を持つことさえ驚きだというのに、心を持ち、あまつさえ誰かを恋うことがあろうとは。
困ったな、と立ち止まっているところに廊下の向こうから三日月の声が聞こえてきた。
「やはり疲れたな…」
「やっぱりまだ遠征は早かったんじゃない?布団敷いてあげるから、少し昼寝したら?三日月さん」
並んで歩いているが、少し眠そうに目を擦る三日月の手をやんわりと止めながら光忠が優しく手を引いている。
「ほら、手甲もしたままなのに肌に傷がついちゃう。綺麗な瞳が真っ赤だよ?」
「んんぅ…みつただ、ねむい…」
「ああもう三日月さんったら…」
その場で立ったまま寝てしまいそうな三日月を見かねて光忠は姫抱きに抱える。三日月は安心したのかそのまま寝入ってしまったようだ。光忠に全身を預けて、肩に頭をのせて無防備に寝息をたてている。
そのままこちらに向かってくるので、一期は光忠に道を譲った。光忠は一期に気付くと、三日月を抱え直して人差し指を口元にあてた。静かにね、の合図だろう。その瞳から蜂蜜でも溢れてきそうな甘ったるい目をして、三日月を見ている。どれほど光忠が三日月を愛おしく思っているのか如何に鈍感な者でもわかりそうなものだ。
一期は了解を示すように会釈して、三日月と光忠を見送った。思い悩んでいる相手だからといって、その安らかな眠りを妨げる権利は一期にはない。
光忠が三日月を抱いたまま三条の棟へ向かい、三日月の部屋に入っていく。この本丸は刀派で部屋が集められていることが多く、その中でも三条は初期からの功労者でもある三日月が属しているということで少し大きめの豪華な造りになっている。遠慮なく来てくれて構わないと三日月が言うので一期の弟達は躊躇いなくよく訪ねているらしいが、清浄すぎるほどの気を纏った神域に近いような場所によく気負わず行けるものだと感心する。
慣れもあるかもしれないが、一期はそこにある種の近寄り難さを感じるので三条の棟に近づくこともほとんどないが、光忠はまるで自分の部屋であるかのようにすっと入っていくではないか。やはりお互いが心を許しているのだろうなと思う。
ぽつぽつと光忠が何か言う声が聞こえて、しばらくすると光忠だけが部屋を出てきた。恐らく三日月を寝かしつけてきたのだろう。
出てきた光忠と目が合った気がして、一期は別に後ろ暗いことなどありはしないのに慌てて踵を返して医務室へと早足で向かった。
「うん…成功。カッコ良くキマった、かな」
一期が去っていく背中を見送り、光忠は呟く。廊下を曲がったところで、一期がいることに気付いていた。光忠からは見えていたのだ。三日月にそんなことは一言も伝えず、眠そうな三日月を抱えた。本当は抱きかかえる予定はなく、そのまま手を引いて部屋まで連れ帰るつもりでいたのだが一期の近くを通るならここはやっておこうと三日月に手を伸ばした。
平野は多分戻ってすぐに誰かに相談するだろうと見当をつけていたから、これは予想通りといっていいだろう。一期に直接伝えるかどうかは別にして、何かは聞きかじったに違いない。
それに…。
『何も覚えてないなんて、本当なのかなあ…?』
光忠が通り過ぎようとした時の一期の双眸には、薄暗い情念の炎が揺れていた。これを嫉妬と言わずなんと言おうか。
それでも三日月が光忠に心を寄せているということは十分証明できただろう。姫抱きされても抵抗もなく身体を預け、安心しきって眠るなど、恐らく三条の兄弟刀達にもしたことはあるまい。三日月が正しく光忠に心を預けている証左だ。
「今更、だよ?一期くん」
一期のことを考えたのはそこまで。今日の遠征をがんばったご褒美の夕餉は何にしようかと三日月のことを考えることに切り替えた。
そして夕餉の時間。鶴丸は三日月の前に並ぶ膳に溜息をついた。
「光坊…三日月を特別扱いしたい気持ちはわからんじゃないが、これはひどい…」
彩りも華やかなばらちらし、桜色の田麩も可愛らしい。小鉢の類いはみんなと同じだが、ひとつひとつの盛り方が違う。刺身に揚げ出し豆腐と三日月の大好物ばかりが並んだ。
「遠征をがんばったご褒美だよ?いいじゃないか。みんな小鉢は同じでしょ?それにみんな炊き込みご飯嬉しそうじゃない」
「俺が言いたいのはそこじゃない。炊き込みご飯は確かに美味いからそこはいい。三日月のは炊き込みご飯じゃなくてちらし寿司じゃないか?」
「うん。だって三日月さん、炊き込みご飯あんまり得意じゃないもんね?」
三日月は好き嫌いなく食べてはくれるのだが、炊き込みご飯が苦手だ。炊き込みご飯の時だけ減らしてくれと食べる前に誰かに茶碗を渡している。それも毎回。訊けばすぐにおなかがいっぱいになってしまうからあまり欲しくないのだと。量的にがっつりといきたい男士が多いので炊き込みご飯は人気なのだが、この本丸の三日月は茶菓子で保ってでもいるのか食が細い。
「うむ…嫌いではないのだが…味も薄味で作ってくれているし…光忠が作ってくれるものだから食べたいとも思うが…重たいのだ、俺には」
「ほら。だから三日月さんにはちゃんと食べてほしいから、こっち」
「だったら全員ちらし寿司でいいんじゃないか?」
それまで黙って事の成り行きを茶を飲みながら見ていた鶯丸がことりと湯のみを置いた。
「野暮を言うな、鶴丸。光忠は『三日月に』ちらし寿司を作りたかったんだ。そうだろう?光忠」
「あ、う、うん…。みんなの分もちゃんと作って、それから三日月さんの分作ってるんだ。どれだったら三日月さんがたくさん食べてくれるかなって…」
既に聞いているのが馬鹿らしくなったらしい大倶利伽羅は炊き込みご飯をかきこみはじめている。
「光忠、そんなに特別扱いせずともよいのだぞ?おかずでおなかいっぱいになったらいいのだしな?」
「だめだよ、ちゃんとお米食べなきゃ」
あ、これもうどうしようもないやつか…。
言っても無駄と仕方なく悟り、鶴丸も炊き込みご飯を貪った。
「いただきます」
「召し上がれ」
いつものように優雅に手を合わせて、三日月が食べ始める。小さな口に少しずつ。それでも寝込んでいた間のことを考えたら嘘みたいに食べてくれるようになったと思う。食べ過ぎたから太るとかいうことはないけれど、食べなければ痩せてしまう。手入れをすれば多少は元に戻るが、外傷がなければ手入れもできない。 かといってそんな弱った状態で出陣させるわけにもいかない。つまり三日月の体力を戻すには、食べさせるしかないのだ。
「美味しいぞ、光忠」
一口飲み込み、三日月は微笑む。味は気に入ってくれたようだ。光忠はホッとした様子でようやく自分も箸を取った。
ちまちまと食べては休みを繰り返すので、三日月は食べるのに時間がかかる。毎回誰かが一緒にいて話し相手をするようにはしている。誰もいなくなると三日月はそこでぴたりと食べるのをやめてしまうから。
一度本当にすまなさそうに膳を返しにきた三日月に美味しくなかったのかと訊けば、ひとりだと味気なくて食べられないと苦笑した。この程度だと絶対倒れると心配した審神者や光忠達は必ず誰かが一緒に食事をして、三日月が食べ終わるまで付き合うようにと決めた。三日月には内緒で。三日月が知ればまた気を遣うだろう。だから内緒で、と。
「三日月、茶のおかわりはどうだ?」
鶯丸が返事を待たずに湯のみにお茶を注ぎ足してくれる。口に入れていたものを飲み込んでから、三日月は微笑んだ。
「すまんな、鶯」
三日月がごちそうさまでした、と手を合わせればさっと光忠が膳を下げる。朝餉や昼餉は出陣や内番のこともあって片付けもばらけてしまうが、夕餉は三日月が食べ終わるのを合図にするように動き出す。一部がどうしても忙しいからと中座する以外では大体全員が三日月を待っている。これも何度か三日月が食べずにふらついて倒れたことが原因である。ひとりにはできないと。そしてある程度の人数でざわついているのが好きらしいので。
夕餉が終わればそれぞれが思い思いに寝るまでの時間を過ごす。次郎太刀が中心になって酒盛りをしている一角もあれば、大画面テレビで短刀達がアニメを見て盛り上がっているところもある。
「よきかな…」
そうやって皆が楽しげに過ごすのを見ているだけで三日月は何となくホッとする。寂しそうにしている刀はいないかと目を配るが今日は大丈夫なようだ。初期の頃から大抵の刀の面倒を見てきたせいもあり、世話され好きの刀ではあるが目配り、気配りに秀でている。
自分がしばらく寝込んでいたことで誰かに迷惑をかけてはいなかったかと思ったが、それもどうやら杞憂だったとわかり、三日月は大広間をあとにした。
その背を、一期一振が静かに追いかけていったことには誰も気付かなかった。
池にかかる橋の上に三日月はいた。今宵は満月。降るような月光を浴びて、そこに佇む三日月。それは絵画のように一期には見えた。
「三日月殿…」
月を見上げていた三日月がゆっくりと一期に視線を移す。何の感情も見えない瞳。だが一期はそれに怯むことなく三日月に歩み寄ろうとした。
「来るでない」
「…は?」
「そこから動くでない。話したければそこで話すがよい」
夜目のきかない太刀ではあるが月明かりが助けるせいか多少表情はわかる。それに欄干にのせた手が軽く震えているように見えた。
「…三日月殿。書物を、私に関する書物を何冊も読みました。あなたが臥せっておられる間に。私とあなたは、大坂城で共にあったのですね」
「それが?」
「私がここに顕現した日、一瞬だけ表情が変わられたように思いましたが。それは私がはじめましてと挨拶したから、ですな?」
三日月は手にしていた扇子を口にあてて、口元だけで笑った。
「だとしたら、なんだというのだ。顔見知りであったはずの刀にはじめましてと言われて動揺せぬわけもなかろう?ただそれだけだ」
そう言い捨てて、三日月は橋の向こう側へ歩き出す。一期の方へ来るつもりはないらしい。
「三日月殿、お待ちください。平野があなたのことをお方様と呼んでいました、それは…」
「三日月さん」
一期の言葉は遮られた。後ろからやってきた光忠がかぶせてきたのだ。そして彼はそのまま橋を渡り、三日月に追いつく。
「ごめんね、お待たせ。月見酒用意したから、部屋に帰ろう?」
「ん…あいわかった。ではな、一期」
光忠に手を引かれて、三日月が去って行く。光忠と繋がっているのは、右手である。
『おまえさま、そんなに急がないでおくれ。草履が脱げてしまう…』
『仕方のない…ならば繋いで差し上げましょうな。さ、お手を』
幻が見えた。瑠璃紺の狩衣を纏った髪の長い誰かが、自分によく似た男に手を引かれて幸せそうに微笑んでいる。
一体、何なのだろう、これは…。
頬の冷たさに気付いて手をやれば、涙が流れていたらしい。
「なんで私は、泣いて…」
三日月達が行った先を見ているだけで、ひどく胸が痛んだ。ぽっかりと穴が空いたような、空虚な感覚。これが何であるのかなんて、一期にはわからない。
「私は一体…大坂城に、何を置いてきたのだろうか…」
部屋に戻ってきた三日月は、光忠の腕の中で月を見上げていた。縁側には光忠が言っていた通り月見酒の用意はあるのだが、彼らの手に杯はない。
「昔から、よく月を見ていた」
「うん…」
髪を撫でていると漸く三日月が口を開いた。返事を求めているわけではないことはわかっているから、小さく相づちを打つ。
「大坂城にいた頃も…天守から並んで月を見て…」
「うん…」
「幸せだった…本当に…。太閤の刀であったゆえ、いつも傍にいられたわけではなかったが。共に過ごせる時は片時も離れずに傍にいたものよ」
冴え冴えとした月明かり。抱き寄せられた肩、一期の欲を隠そうともしない黄金の瞳。月を見て童のようにはしゃいでいたら唇が重なった。何をされたのか一瞬わからなかった。
「我ながら、おぼこかったなあ。人の子の有様は何百年と見てきていたのに、一期に何をされたのかその時はわからず、きょとんとしてしもうて…。それが口吸いと理解して、あまりの衝撃に崩れ落ちてしもうてなあ」
クスクスと笑って光忠を見上げる。
「泣いて、一期を困らせて。けれど夫婦刀と定められては離れるわけにもいくまい。懸命に機嫌を取ってきてな。ついにその手を取った時には、とうに絆されておったのよ」
幸せだったと、心から思う。一期がいて、骨喰や鯰尾がいて。ああそういえばあそこには宗三もいた。お方様と慕ってくれていた平野、兄がついに三日月を落としたことを大喜びしていた厚や薬研。短くも愛おしい日々。
「…なあ、光忠」
「うん?なあに?」
ゆっくりと三日月が身体を起こす。
「思い出に浸る俺は、哀れか?一期への想いを捨てきれぬ俺は醜いか?」
「三日月さん」
光忠は三日月を正面から見据えた。
「言ったはずだ。一期くんを想うあなたごと、僕は愛すると。そう誓ったでしょう?」
三日月の青ざめた頬をそっと両手で包んで微笑む。
「あなたがどれほど大坂城の思い出をその胸に抱えていたって、あなたが今心を預けてくれているのは僕だ。一期くんがこの先、あなたとのことを思い出すようなことがあっても。僕はあなたを、誰にも、あげない」
獲物を見定めた獣のような獰猛な瞳。一撃で仕留められたような気持ちになった。背筋を走る寒気と快感。
「ああ…その瞳に魅入られたら、生きた心地がせぬ…」
「三日月さん?」
三日月は少し伸び上がって光忠に自分から口づけた。
「…誰にもあげないと言うのなら、さあその腕に囲っておくれ。この身そなたに与えよう」
「自分が言ってること、わかってるの?」
「わかっておる。皆まで言わせる気か?伊達男」
光忠は盆を部屋に入れると、三日月を抱き上げた。
「いいや?…もう黙って、三日月」
初めて、光忠が三日月を呼び捨てた。三日月は嬉しそうに笑うと、光忠の首に腕を回して全てを預けた。