誰にも、あげない・3 翌朝。光忠はいつもと同じように三日月の部屋に行った。よその本丸はどうか知らないが、この本丸の三日月は早起きなのだが二度寝の常習犯である。夜明け頃に起きてあたりを散歩した後、また寝床に戻って光忠が起こしに来るまでの間、二度寝を貪る。しゃきっとしろ天下五剣、と時折長谷部に言われているが、光忠が寝ぼけた三日月さん、可愛くていいじゃない、と爆弾を落としてからはあまり言われなくなったらしい。
「おはよう、三日月さん」
まずは障子を開ける前に一声かける。三日月から返事はない。光忠はいつものことだとそっと障子を開ける。そして音もなく滑り込むと、障子をぴた、と閉める。
「さ、三日月さん起きて。今日は非番だけど、朝餉は食べなきゃ…三日月さん??」
荒い息、真っ青な顔色。光忠は慌ててその額に手をあてる。
「燃えるように熱いじゃないか!ちょっと三日月さん、大丈夫…?」
ここで声を荒げても仕方がないと思い至った光忠はまず額の汗を拭ってやり、それからまた声をかける。
「三日月さん、しっかり。僕だよ」
「み…つた…だ…?」
「うん。僕がわかるんだね、三日月さん。いつから具合悪かったの?もしかして昨夜から?」
しっとりと汗ばんでいる髪を拭いてやりながら、優しく尋ねる。三日月は苦しそうに息をしながらも首を傾げた。
「さて…覚えがない…」
恐らくは一期が顕現したことによる心への負担なのだろうが、それは口には出せない。
「主と薬研くんに伝えてくるから、待っててね。すぐに戻るよ、ね」
看病するための用意も必要だ。光忠は不安そうな視線を寄越す三日月を宥めるように撫でて部屋を出て行った。
審神者と薬研の見立ては、やはりストレスだろうということだった。このところ大包平獲得のために出陣も続いていたし、過労も手伝ってのことなのでは、と。 審神者は一期と三日月の過去のことは薬研から聞いて知っていたとのことで、三日月に対して一期の名前を出すことはなかった。
「薬研くん、あとは僕が三日月さんについてるから」
「え、燭台切の旦那、今日は遠征じゃ…」
「んーん、鶴さんに代わってもらった。薬とかは後で僕もらいに行くね。とりあえず三日月さんについてないと。あのひと、寂しがり屋さんだからね」
そう言ってにっこり笑う光忠に、薬研は昨日までは感じなかった何かを感じる。
「旦那…?」
「ん?何かな、薬研くん」
小さな湯桶に氷水を張って、タオルを数枚用意する。他にも水差しやら何やらを厨で用意しながら光忠は薬研を笑顔で黙らせる。
「三日月さんのこと一番お世話してるのは僕でしょ?僕が一番勝手がわかってるからね」
「あ、ああ…そう、だな。確かに旦那が一番、ひめ…三日月の旦那についてたっけな」
思わず限られた者の中でしか使っていない呼び名が出そうになる。
「うん。まあそういうことだから、薬できたら教えてね。あ、雑炊とかなら食べさせても大丈夫かな」
「ああ、それは構わねえぜ。むしろそうした方がいい。何か口にした方が、回復も早いから」
「わかった。じゃあそうするね。診てくれてありがとう」
「いや、これは俺っちの仕事でもあるから…」
なんであんたが礼を言うんだ?と心の中で首を傾げるが、確たるものもなく薬研は三日月の薬を処方するために部屋へと戻って行った。
『ひめ…とか言いかけてたな。確か薬研くん、三日月さんのこと、姫さんって呼んでたんだっけ』
以前薬研や厚と三日月が話しているところに通りがかった時に微かに聞こえていた呼び名だった。三日月はこの場ではやめよと窘めていたようだったが。
『一期くん達の前で呼び出したらちょっと嫌かな…。僕のお嫁さんになるひとなんだし、それに三日月さんも大坂のこと思い出すじゃないか。辛い思いはもうさせないって決めたんだから、何か機会があったら薬研くんにはやめてって言ってみるか…』
三日月の部屋の前まで来て、光忠は少し深呼吸する。余計なことを考えて三日月を不安にさせるわけにはいかない。格好良く口説くよ、と宣言した手前、三日月の前では堂々としていたい。
「三日月さん、僕だよ。入るね?」
返事はない。眠っているのだろうか。光忠はそっと障子をずらす。
「寝てるのかな…」
布団はこんもりとしているから、恐らく潜り込んでいるのだろう。寒いと思っているならもっと熱が上がるかもしれない。光忠は急いで枕元に行った。
「三日月さん、どこか辛い?」
布団を覗き込んでみれば、また泣いていたのか長い睫毛に涙が残っている。光忠はその涙をそっと拭ってやり、まだ熱っぽい額に濡れたタオルをのせた。
「…ん…」
突然ひんやりとしたためか、三日月が身じろぐ。髪を撫でてやればゆっくりと夜空の瞳がのぞく。
「…おまえさま…?」
「…え…?」
熱に浮かされて三日月が呼んだのは、一体誰だ。おまえさま…?
「三日月さん…?」
そう呼びかけられて、三日月はハッと目を見開く。
「み、光忠か…すまぬ、寝惚けておった…」
「うん…。それは大丈夫だけど、三日月さん、水、どう?汗かいてるし、喉乾いたでしょ?」
起き上がろうとするのを助けてやると、三日月は俯いたままぼそぼそと呟いた。
「…聞こえた、のだろ…?」
「え…?」
水差しから湯のみに水を注いでいた光忠は手を止めて振り返る。
「俺が…さっき言った言葉を…」
震えながらも三日月が心のうちを話してくれそうで、光忠はそっと羽織を着せかけながら言葉を待った。
「うん、聞こえた。おまえさま…って…」
「…一期の、ことだ…。大坂におった頃、一期をそう呼んで…」
三日月はそこまで言うと両手で顔を覆った。背中を撫でて、次の言葉を待つ。
「昔から、俺は朝が弱くて。共寝をした翌朝は、いつも一期が起こしてくれた。遠い過去になっていたのに、思い出してしもうたな…」
恐らくは心に封をしていたのだろう。だから今まで光忠が起こしに来ても口走ったりはしなかったのだ。それが一期の顕現で緩んだということになる。
「あの城が焼けてから、寝坊する俺を起こしてくれる者はおらなんだ。仕方なしに早起きするようになってな。それが習慣づいたというか…当たり前になって。だからこの本丸に来てからも早起きは続いた。光忠が甘やかしてくれるゆえ、二度寝をするようになってしまったが…」
早朝の散歩を済ませた後、前夜の遠征の疲れが取れていなかったのか縁側でうとうとしていたことがあった。その時に朝餉の支度に向かう光忠に見つかり、風邪をひくからとまた布団に押し込められたのである。朝餉が出来たら起こしてあげるから、ゆっくり休んでね、と布団を着せかけられて二度寝のささやかな幸せを知ってしまった。以来、光忠が起こしにくるのを二度寝をして待っているのだ。
「三日月さん、あんまり無防備にうとうとしてるから、襲っちゃいそうだったんだよ?」
「っな!!…」
ほんの少し揶揄うように髪を撫でれば三日月は耳まで真っ赤にして顔を上げた。
「冗談だよ。でも早起きすぎて眠そうなのはよくないと思ったのは本当。だから三日月さんに二度寝してもらうことにしたの。長谷部くんにはすっごい嫌み言われたけどね?」
左目でウインクされて、この話をそれ以上深刻にしないようにしてくれているのだとわかる。
「あーでもおまえさまかー。なんか可愛らしいお嫁さんって感じがしていいなあ。あ、でも僕のお嫁さんになったら、違う呼び名でお願いね」
その呼び名で、一期の記憶を叩き起こされても困るではないか。
「どう呼べばよいのだ?」
「んー…それは考えておくよ。だから、おまえさまは、なしね?」
「あいわかった」
過去の話はなるだけしない。これからの話をたくさんしよう…。
あれ?
光忠はふと動きを止める。
『どう呼べば…って、僕の気持ち受け容れてくれるってこと?無意識かもしれないけど、これは嬉しい…よね…?』
「…さ、三日月さん。飲もうね?」
湯のみを渡して背中を支えてやる。まだ熱は下がりそうにない。疲れがたまっているのもあるだろう。大包平はぎりぎりで迎えることが出来たが、そのために三日月は第一部隊を率いて朝から晩まで出陣していたのだ。
「…もうよい…」
三日月は湯のみを光忠に渡して大きく息をついた。
「もう少し寝ようか、三日月さん。僕薬研くんに薬もらってこなきゃ」
寝かせようと身体をずらすと、三日月がいやいや、と首を横に振る。光忠のジャージを力なく握り、離れたくないと胸に顔を埋める。
「三日月さんが眠るまで、僕ここにいるから。ね?大丈夫だよ」
熱があるせいで気弱になってもいるのだろう。子供のような仕草を見せるのが愛おしい。
「いなくなったりしないか?」
「うん。寝るまでここにいる。で、三日月さんが寝たら、薬もらって、雑炊作ってくるから。三日月さんの大好きなたまごの雑炊だよ?」
「…ん…」
宥められて落ち着いたのか、三日月は光忠に促されるまま横たわった。
「おやすみ、三日月さん」
「うん…」
熱に体力を削られているのだろう、三日月はすぐに眠りに落ちた。なるべく早く眠れるようにと肩のあたりをとんとんとあやしていたが、それも止めて寝顔を見つめる。
たった一晩でここまでやつれるものなのか。怪我をすれば手入れで治るのだろうが、精神的なものは手入れでは治らないから、と審神者が言っていた。ここまで人としての感情に引っ張られるものなんだな、とも。
どう引っ張られてもいいが、三日月がここまで衰弱するのは勘弁してやってほしいと思う。これじゃあ一期のことを吹っ切れるまで、三日月の体調は戻らないかもしれないではないか。もちろん自分が看病するつもりではいるが、三日月自身が、自分を責めて刀解されたいなどと言い出したら…。
ジャージを握りしめる三日月の手からゆっくりと力が抜けて行く。やっと深く眠れたのだろう。光忠は三日月の手を布団の中に入れてやり、布団を肩まで引き上げた。
「おやすみ、僕の三日月さん」
そっとそっと…額にキスを落とす。三日月が目覚める気配はない。光忠はホッとしたように緊張を解いて、部屋を出て行った。
薬研に薬をもらい、三日月のために雑炊を作っていると、厨を覗き込む気配がした。特に殺気を感じるわけでもないので、光忠はのんびりと振り返る。
「あれ、どうしたの?今剣くん」
光忠と同じ頃に顕現したせいもあり、三条の長兄とはいえ光忠は気安くそう呼ぶ。今剣本人が気にしていないせいもあるが。
「光忠。三日月は、どうしていますか?」
「うん…今は熱を出してね、眠っているよ」
土鍋の火を止めて、今剣に視線を合わせるように膝を折る。きっと自分達が遠征に行っている間に一期が顕現したことで、三日月のことが心配なのだろう。恐らく鶴丸か審神者にでも聞いたに違いない。
「そうですか…おみまいにいってもいいですか?」
「うーん…どうかな、三日月さん起きてるといいけど。今からご飯にしようと思っててね。一緒に来るかい?」
「いきます!」
光忠はにっこり笑って今剣に茶碗やれんげをのせたお盆を渡す。持って来てね?という意味だ。
「そっとね?まだ寝てるかもしれないから。…三日月さん、僕だよ。開けるね?」
障子をそっと開けると、三日月が起き上がろうとしているところだった。光忠は急いで土鍋を文机に置いて三日月を支える。
「どうしたの?まだ寝ててよかったのに。今剣くん、お盆は土鍋の横に置いてくれるかい?」
「はーい!」
障子を閉めた今剣はぱたぱたとお盆を置き、少し離れたところに座った。
「あにさま…」
それに気付いた三日月が、光忠から羽織をかけられながら手招きする。今剣は遠慮がちに歩み寄り、そして三日月の手を握った。
「まだねつがありますね、三日月。しゅつじんばかりで、つかれたのですね」
「うん…そのようだ。心配をかけて、あいすまぬ」
決して寝込んだ理由をはっきりとは言わない三日月を、今剣は責めたりしない。
「いいんです!かわいいおとうとがねこんでいるのですから、しんぱいをするのはあたりまえなんですよ。そんなことはきにしなくていいから、はやくげんきになってください」
「あにさま…」
普段他の短刀達と跳ね回っている子供とはとても思えない雰囲気を纏い、今剣は三日月のやつれた頬を撫でる。
「しばらくはやすみなさい、三日月。あるじさまには三条からつたえておきます。もうすこしよくなったら、小狐丸や岩融もつれてきます。あとで石切丸におはらいにこさせますからね」
「あにさま、お祓いとは…」
「おまえはなにもしんぱいしなくてよいのです。光忠にたくさんあまやかしてもらってくださいねっ」
そう言ってにっこり笑うと、今剣は風のように去って行った。さすが天狗か、と光忠が感心していると、三日月は困り顔で光忠を振り返る。
「どうしたの?三日月さん」
「あにさまは…何を考えておいでなのやら…石のあにさまに何を祓わせると言われるのだろうか…」
「何だろうね?」
光忠はそれよりも今剣が光忠の気持ちを見透かしたように甘やかしてもらってくださいと言っていたことの方に気を取られていた。鶴丸が三条は気付いているだ ろうと言っていたが、どうやら本当のようだ。しかも咎められなかったということは、賛成はしてくれている、ということだろうか。
どちらにせよ、こうして三日月に光忠がついていることを三条は良しとしてくれているようなのでこのままついていようと思う。今夜にでも手が空いたら三条の棟を訪ねなければ。
「…あ、ほら三日月さん。たまごの雑炊だよ。あったまると思うから、食べれるだけ、どうぞ」
光忠ははたと思い出して文机の上の土鍋を傍らに置いた。三日月がいつも使っている茶碗に軽くよそい、食べやすいようにとれんげを持たせる。
「熱いから気をつけてね」
「ん…ありがとう、光忠」
ふうふうと冷ましながら小さな口に雑炊をゆっくりと入れていく。もぐもぐと咀嚼して、こくりと飲み込む。
「ん…美味しいぞ、光忠」
力なく微笑む三日月。無理に笑おうなんてしなくていいのに。そうは思うが、だが口には出せなかった。切なげに細められた切れ長の瞳がうっすらと潤んでいることに気付いたから。
「よかった。三日月さんはたまごの雑炊が一番好きだよね。鶏肉がちょっと入ってて、あとはたまごとねぎ」
「うん、うん。さすが光忠はよう知っている」
また三日月は雑炊を食べる。口に物が入っている時は絶対に口を開けたりしないあたり、本当に育ちがいいのだなと思う。同じ平安刀だというのに落ち着きのない鶴丸とはえらい違いだ。
「…すまぬ、光忠。もう食べられそうにない…」
茶碗の半分も減っていない。それでもがんばって食べてくれたのが嬉しかった。光忠は決して落胆した風も見せず、笑って三日月から茶碗を受け取る。
「気にしなくていいよ、三日月さん。ちょっとでも食べれたならよかった。熱があると食欲はどうしても落ちるからね。…はい、薬飲んでね?」
湯のみに水を注ぎ、薬を飲ませる。三日月は言われるがままに薬を飲み下す。やはり熱が続いて辛いのだろう。顔色は朝程悪くはないにしろ、やはり青白いままだ。
「さ、飲んだなら横になってね。夕餉はうどんにしようか」
「ん…」
小さく頷けば、珍しく手袋を外した大きな手が額に触れた。
「まだちょっと…熱っぽいかな。氷枕ははずすけど、手ぬぐいはのせておくね?ずっと戦い続けてたから、疲れがたまってるのも本当だと思うよ。三日月さんは怪我あんまりしないから、手入れだってほとんどないしさ」
「みつただ…」
「なあに?」
「なんでもない…呼んでみただけだ…」
何か言いたいのだろうが、多分言葉にならないのだろう。顔を見ていれば何となくわかる。光忠は決して三日月を責めることもせず、布団の上から肩を優しく叩いた。
「おやすみ、三日月さん」
寝息はすぐに聞こえて来た。食べ物を胃におさめて身体がほっとしたのかもしれない。さっきまでの辛そうな表情はやわらいでいるように見える。
「またあとで覗きに来るからね」
そう言って光忠は土鍋を片付けるべく部屋を出て行った。寝息をたてた三日月が、ただ寝入ったふりをしているだけとも気付かずに。
「………」
ゆるりと起き上がった三日月は、廊下とは逆にある、裏庭に出られる縁側に座った。陽当たりがよくて、誰にも邪魔されない場所。審神者が三日月のためにと用意してくれた大切な場所だ。
誉を取ってもあまり欲しいものを(茶菓子は別だが)口にしない三日月に、審神者はこれまでの功績に報いたいと頭を下げてきた。ならばひとりになれる場が欲しい、と三日月は言った。そして贈られたのがこの裏庭の一部と縁側だ。ここは光忠も許されたことはない。
「どうしたら、よいのだ…。光忠の気持ちは嬉しいが…俺はもう、誰かを愛することが…辛い、怖い…」
また失ったら、と思うと…。大坂城が燃えた日、三日月の心も一期の焼失とともに燃え尽きてしまったのかもしれない。失う辛さをまた味わうくらいなら、もう誰とも深く関わらずにいたい。この戦いが終わればまた離ればなれにもなるのだ。きっともう一期は思い出すことはないだろうし、それをただ見ているだけなのだろう。自分も、薬研達も…。
「怖い…こわい…つらい…。どうしてあのとき…俺も大坂城で一期と共に燃えなんだ…。何故俺を置いて逝ったのだ、おまえさま…」
ぽろり、ぽろりと涙が零れ落ちる。
『どうして泣いているのですか?私の月よ。さあ、笑顔を見せて』
泣いていると一期が涙を拭って笑いかけてくれた。どうして泣いていたのか忘れるほどの笑顔に、思わず笑みが溢れたことを覚えている。
『やっと笑ってくださった、美しい私の月。瞳の三日月が涙で曇ってはいけませんな』
抱き寄せられた腕の中、ただ幸せを感じていた。なかなか逢えない夫であったが、傍にいる時は片時も離れなかった気がする。
だが、覚えているのは、自分ばかり…。
「いっそ…俺の記憶も燃えてくれやしないだろうか…。なあ、おまえさまよ…」
頬を滑る涙は、なかなか止まってくれなかった。