「ハイジさん……」
走はそうささやきながら、彼の部屋のドアを指先でぐっと押すようにした。深夜、皆が寝静まった中でノックをしたら二階の者まで起きてしまうだろう。猫がドアを開けてくれとねだるのとそっくりなやり方が、自然と身についていた。
そっとドアを開けると、ハイジはパジャマの上にドテラを羽織って机に向かっていた。
「どうした。眠れないのか?」
「いえ……トイレに起きたら、まだ電気がついていたので、気になって」
「中に入るかドアを閉めるかどちらかにしてくれないか。寒い」
「あ、すみません」
走は部屋の中に滑り込み、後ろ手にドアを静かに閉めた。
「夜更かしは体に毒ですよ」
ハイジは開いていた本とノートを互い違いにするように重ね、開いていたところが分かるようにして閉じた。
「きみが俺の体調管理に口を出すようになるなんて」
「すみません。でも、最近いつも遅くないですか。昨日だって、俺が寝るときまだハイジさんの部屋の電気がついてました」
「まぶしかったか。すまない」
「そういうことじゃなくて……! 俺はただハイジさんの睡眠時間が」
走は思わず声を荒げかけて、唇を噛んだ。すぐかっとなる癖が抜けない。
「走、俺は文学部の4年生なんだ」
「はい」
「卒業論文というものがあるんだよ、大学には」
「あ……」
ハイジはうーんと伸びをすると、机の上のスタンドライトを消した。
(みんなのコーチをして、寮のこともして、いろんな事務作業もして、自分の練習もこなしてるのに、論文まで書いてるのか)
「大変……」
机の横には、図書館から借りてきたらしき分厚い本も何冊か積まれていた。
「大変だけど、論文を出さないと卒業できないからな。箱根に集中できるように、さっさと書きあげて指導教授に提出してしまおうと思っている。早く出しておけば、もし卒業できない出来だったとしても、書き直すためのアドバイスがもらえるだろう。結局お得ってわけだ」
「はあ」
先を読んでいるというか、読みすぎているというか。走なら、それが分かっていても締め切りぎりぎりになってしまうだろう。
「早く終わらせられそうなんですか?」
「内容は3年のときにやったゼミ発表の使いまわしだ。新しいテーマを探すほど時間の余裕がないから仕方ない」
それってズルじゃないのか、と一瞬思ったけれど、ハイジにきっぱりと言いきられると、そうだそうだ仕方ないんだ、という気持ちになった。
「あまり無理しないでください」
走にはそれしか言えなかった。
「ありがとう。今日はもう寝るよ。どうやら俺の睡眠ログを取っている後輩がいるようなんでね」
宣言通りハイジは立ち上がり、布団を敷くと同時にその中に滑るように入り込んだ。走はこんなにスムーズに就寝体勢に入る人間をはじめて見た。今さっきまで机の前に座っていたハイジが、もう布団にまっすぐ寝ている。嘘みたいだ。
(早業すぎないか?)
走は驚きでやや腰を浮かせ、机と布団を交互に見た。
「あー寒い寒い」
布団を肩まで掛けたハイジは、横になったままもぞもぞと体を動かし、脱いだドテラを布団から引き抜いて枕元に置いた。また少しもぞもぞして、今度は脱いだ靴下をきちんと折りたたんで布団の外に出した。
器用というか不精というか、一連の不思議な儀式に走は笑いをこらえて言った。
「ハイジさんてそういうふうに寝るんですね」
「なにがおかしい?」
「いえ……いや、あの、ふふふふ」
指摘されてしまうとこらえきれなくなった。声を立てないように口を押さえてひとしきり笑い、目尻の涙をぬぐう。
「変なやつだな」
(どっちが)
心の中で思わず突っ込む。
「走、電気を消してくれないか」
「あ、はい」
立ち上がって電気の紐を引っ張った。部屋が真っ暗になった。走は少し迷って、ハイジのほうに向きなおった。
「ハイジさんは、やっぱり変わってます」
ハイジはなにも答えない。
「変わった人だっていうのは、初めて会ったときから知ってたけど。知れば知るほど、なんかちょっと、変な人です」
上級生にこんなことを言うなんて、高校時代の自分に信じてもらえるだろうか。
「初心者で箱根を目指すのもどうかしてるし、そもそもメンバーの集め方が変だし、なのにトレーニングしてなんだかんだ走力をつけさせてるのも考えられない。なんか全部がちょっとおかしいんです。今だって、布団を敷きながら中に入っちゃうのとか、寝たままドテラ脱ぐとか、変です」
「早く部屋に戻らないと、薄着で風邪をひくぞ」
「箱根を走りたいなら、強豪校に入る。寛政でやるならせめてちゃんと募集をかけるとか、経験者を集めるとかするでしょう。布団を敷いてパジャマを着て電気を消して、布団に入って寝るんですよ、普通は」
「俺だってなにもひねくれているからこうしているわけじゃないさ。王道のやり方があるのは知っている。そのほうが近道の可能性が高いということも。いいかい、別に好き好んで王道を外れたわけじゃない。かといって、王道じゃ勝てないから奇をてらっているというわけでもないんだ。いくつもの分かれ道を選んできた結果、たどり着いたのがここなんだよ」
(いくつもの分かれ道……)
自分が選んだ道。選ばなかった道。かつての同輩が、走が選ばなかった道を歩んだらどうなるかを身を持って示してくれている。
「走も分かるだろう? それぞれの道には、違いはあっても優劣はないんだ。俺が変わってると言うなら……そうだな、知らないことというのは、総じて変に見えるものだと思わないか。このボロ家だって、最初は変わってると思ったけど、今はもう慣れただろう」
走はこくこくとうなずいた。
「……はい。急におかしなこと言って、すみませんでした」
「構わないさ。俺は走が自分の意見を言うようになってうれしいよ。なんでも話してくれる走は好きだ」
なんと答えたらいいか分からなかった。走は暗闇の中、ハイジのほうに向かってただぺこりと頭を下げた。
「ところで……俺の寝方はそんなにおかしいか?」
ハイジの声がいぶかしそうだ。
「変です。すごく」
走が自信を持ってそう言うと、「そうか……昔からこうだぞ、俺は……」とぼそぼそ返ってきた。
「うちではみんなこうだ。島根ではみんなこうやって寝るんだ」
「ハイジさんの家では、でしょう」
山陰では、いや西日本では、とハイジが抗議を続ける。走は、両手両膝をついてハイジの枕元まで探るようににじり寄った。気配を感じたのだろう、ハイジは口をつぐんだ。
「ハイジさん……あ」
やっと手が布団にたどり着いたと思ったら、すぐ走の手はハイジに握られてしまった。
「やっぱり冷たくなってるじゃないか。あたたかくして、早く寝ろ」
握った手がじりじりと熱い。その熱さが体中に広がっていく。
(この人を信じます)
体一つでやる競技だから、究極的には自分しか信じていない。それでも、本番の前などは祈りめいたものを胸に宿すときがあった。走はそうするときのように、心の中で静かに宣言した。
(俺はこの人を信じます)
「ハイジさん……」
「おやすみ、走」
「おやすみなさい」
走の目は、もうすっかり暗さに慣れていた。