枝豆のゆであがりに神経を集中させていたハイジは、走が話しかけていることにしばらく気が付かなかった。
「ハイジさん?」
さあっと鮮やかな緑色が煮え立った鍋の中で激しく踊っている。今だ、と鍋を持ち上げてシンクに置いたざるの上に一気にあけた。脇に立っていた走が熱い湯気から逃げるように一歩体を引いた。
「なんだって?」
腕で額をぬぐう。コンロの前に立っていたせいで、ハイジはすっかり汗だくだ。
走はテーブルを拭いた台拭きをくねくねとしぼるように両手でもてあそび、「ハイジさん」とつぶやいた。
走の口下手を深追いはしない。ハイジは枯れて茶色っぽくなっている枝豆の切れっぱしを指先でひょいひょいとつまんで取り除いた。やけどしそうに熱い。アツイ、アツイと心の中でつぶやきながら枝豆をきれいにしていく。
熱いざるの中をつついた右手の指先がみるみるうちに真っ赤になっていった。右手と左手がすっかり色違い状態になった頃、走がようやく「ハイジさんの日です」と言った。
「うん?」
「だから、8月12日。ハ、イ、ジ、さん」
走が空中に指で数字を書く。それで、ハイジにもやっと合点がいった。
「この間、退屈しのぎにみんなで語呂合わせを考えてたんです。8月8日は葉っぱの日、8月10日はハートの日、とか。それで、12日はハイジさんの日だ、って」
ハイジは湯気の立つ枝豆を持ち上げ、ざるからどさっと大鉢に移した。走は空いたシンクに立ち、水道を勢いよく出して台拭きをすすいだ。シンクに残っていた熱の気配が、しょぼくれた綿あめのように消えていく。
「8月12日はハイジの日か。なるほど」
「そうです」
「じゃ、今日はみんなをもう1本多く走らせればよかったな」
ハイジがそう言うと、走は困った顔をしただけだった。
枝豆をひとつつまみ、さやをひゅっと押しつぶして口に豆を飛び込ませる。ほくほくとゆであがって上出来だった。嫌と言うほど運動した者たちが食べるのだからと塩を少しきつめにしたが、それがかえって枝豆の甘さをきわだたせていた。
「ほれ」
食べかけのさやを走に示すと、彼は少しかがむようにしてハイジの手元に口を持ってきた。パン食い競争の要領で枝豆を食らう。赤く茹だった指先が一瞬走の唇に触れ、なぜだか耳のあたりがぞわっとした。
「うまいです」
「そうか。ずんだにしたいか?」
「いえ。ビールがいいです」
走が歯を見せて笑った。
ああ好きだな。
ハイジの体を、酸っぱくて苦くて溶けそうに甘い思いが雷みたいに貫いて、不意にわあっと泣き出したくなった。いっそ泣き出せたらよかったのに、竹青荘の清瀬灰二は顔色一つ変えずに熱い指先をエプロンで拭うことしかできなかった。
「じゃ、冷めないうちにみんな呼んできてくれ」
「はい」
走は鍋の底をガンガンと叩いたあと、台所を出て二階へ上がっていった。このところの暑さと過酷なトレーニングのおかげで、住人は鍋の音くらいでは現世に戻ってこられなくなっているのだ。一部屋一部屋訪ねては、揺すったり声をかけたり、時には蹴っ飛ばしたりして起こすことが必要だった。
(ハイジの日、ねえ)
ハイジは冷蔵庫にやかんごと冷やした麦茶をコップにどぼどぼと注ぎ、一気に飲み干した。首筋をすうっと汗が伝うのが分かった。
(……きみは8月12日に何を思う?)
ハイジはそう考えて、感傷的な発想に苦笑した。
「何も思わないさ」
自分にだけ聞こえる声でそう言ってみると、それはいかにも真実であるように思えた。
走はきっと、来年の8月12日、何も思わない。蔵原走の8月12日は、11日と13日に挟まれた永遠に続くつながりの中の一日だ。
(だけど俺は)
来年の8月12日、自分がどんな景色を見ているかなんて知らない。しかし、清瀬灰二は必ず思い出すだろう。毎年毎年、この日が来るたびに脳裏によみがえらせるだろう。あの夏の8月12日、自分の名前をなぞって微笑んでくれた人がいたことを。
(きみは俺に消えない傷痕をいくつも残していく。そして俺は、その傷痕をたどって少しずつ上へ上へと這い上がっていくんだ。木に刻んだ傷を足掛かりにして登っていくように)
天井からどすんと大きな音がして、ばたばたと取っ組み合いをする声が洩れ聞こえてきた。
「おーい、みんな、夜飯だぞ」
ハイジは大きな声で叫んだ。ひと呼吸おいたのち、「はーい」という間抜けな返事があちこちから返ってきた。