冬のおしまい そろそろかな。
次の瞬間、ドアの外から遠慮がちな声がした。
「失礼します……」
「いいぞ、入れよ」
ひと呼吸置いてから、ドラキュラが棺の扉を開けるようにのっそりとドアが開く。
「もっと堂々と入ってこい」
笑いながらそう声をかける。走は両手に持った湯飲みの中身をこぼさぬように器用に肩と腰でドアを閉め、改めてハイジのほうを見てきまり悪そうに微笑んだ。
「お茶です」
「ありがとう」
「あの、こたつ入らせてもらえますか」
そのために部屋に来たのはお互い承知の上なのに、律儀に了解をとるのが体育会系だ。骨の髄まで上下関係が染みついている走に、胸の奥が苦くなる。
「どうぞ」
ハイジの向かいにもぐりこんだ走は「はぁ」と腹の底からしぼりだすようなため息をついた。
「おじさんみたいだぞ」
「いいです、おじさんで」
今日の食器洗い担当は走だったから、台所で冷たい水を使って体がすっかり冷え切ってしまったのだろう。
「宿題はないのか?」
こたつで授業の予習やら課題をするのが走の常だった。
「ないことないですけど……今日は大丈夫です」
「語学は?」
「明日は授業ないんで」
走はこたつの天板にあごをのせ、「先生が怖えんですよね」と言った。
「怖いくらいが眠くならなくていいじゃないか」
「当ててくるんですよ」
「語学なんか、当てないと授業にならないだろう」
「もう……ハイジさんには分からないですよ」
ハイジはお茶をひとくち飲んだ。走もこたつの中に入れていた手を出してひとくち飲む。同じ行動を取るのは心を許しているしるし、と昔一般教養の授業で習ったのをふと思い出した。講師の顔ももう忘れてしまった。
「走はよくやっているよ」
走が勉強しているのを見るのが好きだった。嫌そうに教科書を開いて、辞書を引いてなにやら書き込んでいるのを見るのが好きだった。暗記することをぶつぶつつぶやいている、とがった唇を見るのが好きだった。
「今日は寒いな」
「ですね。先週はあんなに暖かかったのに」
こたつの暖かさが全身に伝わったのか、走の声にも生気が戻ってきた。
暖かい日があり、寒い日があり、また暖かい日がある。それを繰り返すたびに空気が少しずつぬるみ、気づいた時には季節がすっかり変わっている。冬の間ありがたがられていたこたつは、暑苦しい遺物に成り下がる。
冬が終われば、きみがこたつに入りに来ることもなくなるんだろうね。
そんな言葉を胸の中で押しつぶした。
「手、あったまりました」
走はこたつに突っ込んでいた両手を引っこ抜いてハイジに見せた。
「どれ」
走の手は筋張っていて浅黒くて、余計な肉がついていないせいかごつごつと大きく見える。一度も注意したことはないのにいつも清潔に切り揃えられている爪はつやつやしていた。静かな部屋の中、ハイジは少し黙った。
ぎゅ、と両手を包むハイジを見つめ返す走の顔に少し戸惑いが見えた。気まずくなる前に「すべすべだな」と明るい声をかけた。
「俺なんかかさかさして、ハンドクリームを塗ってる」
「女子みたいですね」
「老化かもしれない。おじさんを通り越しておばさんだ」
「そんな」
走はちょっと笑ってから真剣な表情でハイジの両手をつかみ、確かめるように触り始めた。
「おい、走」
「…………」
「くすぐったいよ」
「しっとりしてます」
ハイジの指の腹を走の親指がなでる。触られているのは指先なのに、うなじのあたりがぞわっとした。
「きれいです」
伏し目になってそう言うと、ハイジの手を握ったままその上に顔を横向きに乗せた。ハイジの腕に走のつやつやした黒髪がさらりと流れた。手を引き抜こうとしたが、頬の肉で圧をかけて押しとどめられた。
「人の手を枕にするんじゃない」
「だってハイジさんが老化とか言うから」
ボロボロの部屋で男二人が手を握り合って何を言っているんだろうか。
「離しません」
やれやれ。ハイジも背を丸めてこたつの天板にあごをのせた。こちらに向いているつむじにふっと息を吹きかけると、彼はぎろりと睨んでまた目を閉じた。お気に入りのおもちゃを抱きかかえて眠るニラみたいだ。
「……こたつで寝るなよ」
この冬、何度言っただろうか。ときには蹴飛ばすようにして、まぶたの重くなった走を追い出したものだ。楽園から追放された走は、いつもうらめしそうな顔で自分の冷たい布団へ帰っていった。しかし朝になればすました顔で凍える空気の中へ飛び出し、庭先で側転なんかをしてから足取り軽く駆け出して行くのだ。つい数時間前には天板に頭をぶつけるほど舟を漕ぎ、肩を強く揺すってもらっていたくせに。
きみと過ごすひそやかな夜はもうおしまいだ。
「なあ、寝るなよ」
小さな声で呼びかけた。走の呼吸がゆっくりと規則的になっていく。
「走」
夜がしんしんと更けていった。