こちらに背を向けて寝ているハイジのうなじが夜の闇に白く見えた。
嵐のような時間が過ぎ去って冷静になると、いつも不安になる。
(ハイジさんがこのまま起きてこなかったらどうしよう)
そっと体を密着させて、温かさを確かめる。
ああ大丈夫だ生きている、とほっとする一方で、いつかは死んでしまうんだ、とも思う。
真夜中の布団の中で死におびえるなんて子どもみたいだが、どうしようもなかった。
走はハイジの肩にそっと噛みついた。
ハイジさん。もしハイジさんが死んだら、あなたを食べていいですか。
俺がハイジさんを食べたら、ハイジさんは俺の体の中で永遠にそばにいてくれますか。
想像したら悲しくなって、肩をちゅうと吸った。
「何だ」
ハイジがぐるんと半回転して走のほうを向いた。
「起こしましたか」
「そうだね」
「すみません」
「いいよ」
ハイジは少し布団の底のほうにもぐりこんだ。走は腕を伸ばしてハイジの背中のほうの掛布団を引き上げて包んでやった。寒いのだろうと思ったからだ。
「パジャマを着ないと肩が寒いしきみに食われるし大変だ……」
「着ますか?」
引きはがしたパジャマは床に投げ捨ててある。身を起こそうとした走をハイジはとどめた。
「いい。中はぬくいんだ」
水分と脂で満ちた走の若い皮膚はいつだって熱を発散している。ハイジは走にぴったりくっついて、その温かさを共有した。
「……ハイジさん」
走はぎゅっと腕の中にハイジを引き寄せた。うなじに噛みつきたいのをぐっとこらえた。
(あなたを食べてしまいたい)
「何かいやなことがあったのか?」
ハイジがぽつりと問いかけた。
「そんなことは」
「心配なことは? 不安なことは?」
(読心術かよ)
しかし、ハイジの言葉で走の胸の内のこわばったものがふっととけていく思いがした。
(俺はしゃべるのがうまくないから)
「ハイジさんのことが好きです」
(この人が俺の好きな人で良かった)
「分かっているよ」
走の胸に押し付けられたハイジの顔の、鼻の頭が冷たかった。
「ハイジさんがいなくなったら俺は耐えられるかって思って怖くなりました」
「そう簡単にいなくならないぞ」
(そんなの分からない)
ハイジのうなじを優しく吸った。大丈夫。生きている。
「そばにいるのに、心配になります。なんでしょうねこれ」
「だから味見してるのか?」
(ほら。この人は)
自分が何も言わなくても、全部分かってしまうのだ。
「きみがそうしたいならそうすればいいよ。噛みつくくらいできみが安心するなら、お安い御用だ」
(噛みつくだけじゃいやなんです)
頭の中がぐるぐるして、涙が出そうだ。
「食べたいんです」
「……穏やかじゃないね」
「ハイジさんが俺だったらいいのに。俺は俺の体を管理できます。別々だから不安です。どこかでハイジさんが危ない目にあっていたらどうしよう。俺がハイジさんなら、危ないところなんか行きません。ハイジさんを食べてしまいたい。同じになりたいんです」
「セックスできなくても?」
ハイジの声に笑いが混じる。
「……できなくてもです」
(読んでください。俺の心を読んでくれ)
ハイジは走の頭をぐしゃぐしゃとなでた。
「きみは俺のことを病弱な美少女だと思っているんじゃないか?」
唇が触れそうなくらいに距離が近い。ハイジの濡れた大きな瞳がまばたきして、走の顔にまつ毛がかすった。
「そんな泣きそうな顔をして、俺のほうがよっぽど心配だ」
「俺は絶対あなたの前からいなくなったりしません」
「当たり前だ」
俺が許さない、とハイジは笑った。
「きみは知らないんだな」
「何をですか?」
「きみの言葉を借りるなら、俺はとっくにきみと同じだ。何もかもきみに明け渡している。きみの痛みは俺の痛みだ」
ハイジはそう言うと、走に唇を合わせた。
「それでもきみが不安なら、こんな体はいくらでもくれてやる。煮るなり焼くなり好きにすればいい」
「ハイジさん……」
走は言葉が見つからなくて、ただぎゅっとハイジを抱きしめた。
(やっぱり俺はあなたがいなくなる日のことを考えます。あなたが消えてしまう日を。俺は絶対に泣きます。泣いて泣いて、でもちょっとだけ安心します。あなたを置いていかなくてすんだことに。
何度も何度も自分の想像に泣いて、心の準備をしておくんです。そうしないと俺はいつか来るお別れの日に悲しすぎて死んでしまうだろうから)
「走」
「はい」
「食べていいぞ」
「……はい」
走は微笑んで、ふっくらしたハイジの耳たぶに歯を当てた。