夜明け前の空気はきんと冷えている。走は、白み始めた東の空をじっと眺めた。
「行くか」
軽くストレッチをし、腕時計をセットするとゆっくり走り出した。次第に体があたたまり、速度が上がっていく。血液が体中をめぐっていく感覚が心地よかった。
この道を走るようになったのは最近のことだ。走には、どうしてもこのコースを走らなければならない理由があった。
竹青荘から、ハイジのいる病院へ。
(待っててください)
走は走る。日の出と競争するように。
昇る太陽より先に、ハイジに顔を見せたい。
病院の門の前を通り過ぎ、そのまま道なりに走って病棟の裏手へと回り込む。走は速度を落とし、ゆっくりと周辺を往復して呼吸を整えた。
(ハイジさん、起きてるかな)
胸が高鳴る。すると、うきうきと取り出した携帯が急に震えて、走を飛び上がらせた。
『おはよう』
「ハイジさんっ!?」
メッセージを読んだ走は思わず病棟を見上げた。走が立っているのは病院の敷地の外の道路で、ハイジの病室に面した場所だった。走が探し回ってやっと見つけたベストスポットだ。とはいえ、距離が遠すぎて走からハイジの姿は確認できなかった。
『どうしてわかったんですか』
『そろそろきみが来る頃だと思った』
ジョッグのせいではない汗が噴き出てくる。外壁に並ぶ窓ガラスのうち、あのあたりだろう、と見当をつけた場所に向けて頭を下げる。こちらからは見えなくても、病室のハイジから道路にぽつんと立っている走の姿はよく見えるのだ。
『タイムは?』
走は腕時計を確認してタイムを報告した。
『よしよし』
ハイジの返信に走は微笑んだ。やはりこの人に褒められると自分はうれしいのだ。走は病室に向け、両手を大きく振ってみせた。
『みっともないからやめなさい』
ふふ、と笑いを噛み殺す。さすがに表情までは分からないだろう。ちょっとくらいにやにやしたっていい。
『ハイジさん、そろそろお願いします』
走はそう送信すると、息を止めて病室のほうへ目をこらした。一瞬たりとも、見逃したくない。
その瞬間、ひとつの窓がキラキラと光った。
「ハイジさんだ!」
ハイジさんだ。ハイジさんだ。うれしい。走は思わずその場で軽く飛び跳ねた。
「ハイジさあん!」
聞こえないとは分かっていても、自然と声が出た。
ハイジが携帯のライト機能を使って合図を送ってくれているのだ。ちかちかと光る窓に向けて、走は何度も何度も手を振った。
『やたら口がパクパクしているようだが、まさかとは思うが俺の名前を宣伝しているのではあるまいな』
光の点滅が終わって再び薄闇に沈んだ病院から送られてきたメッセージに、走は「ひぇっ」と声をあげた。
(なんで見えるんだよ。まさか双眼鏡使ってたりして)
ハイジならやりかねない。走は深呼吸して返信の文面を作った。
『おはようございますって言いました』
『まあいい。そろそろ戻れ』
(ハイジさん……)
帰らなければいけない。しかし、この場を離れがたかった。
映画の主人公なら、ここで投げキッスでもするのだろう。走は自分の想像に照れて、両頬をぺちぺちと叩いた。
(無理無理。俺はハリウッドスターじゃなくて寛政大の蔵原だからな)
走は少し考えると、右手の甲をさりげなく唇に押し付けた。
「じゃ、行きます、ハイジさん」
そうつぶやいて高く右手を掲げ、すぐ走り出した。
「やっべ」
昇ってくる太陽がまぶしい。ちょっと振り返ると、もうすっかりハイジの病室は見えない。
「やっべ! 恥っず!」
自分の声が後ろに飛んでいく。
ハイジさん。ハイジさん。会いたいです。声が聞きたいです。
走の姿はあっという間に見えなくなった。ハイジはベッドの隅に腰かけていた体を少しずつ動かして、元通り横になった。起床時間前に起きているのがばれないように体を縮めて窓をのぞいていたせいで、体がきしむように痛んだ。
(熱心なやつだ)
声を立てないようにくつくつと笑う。
走が初めて見舞いに来た日、病院の周りをひたすらぐるぐる歩き回って見つけたというのがあの場所だ。それから毎朝、飽きもせず夜明け前の人目のない時間にやって来る。どうせ昼間にまた見舞いに来るというのに。
健気な様子がかわいそうになって、携帯のライトを光らせるという原始的な交信方法を提案したときの走のうれしそうな顔といったらなかった。しっぽをちぎれそうなほどブンブン振っているのがはっきり見えた。
(さっき、絶対「ハイジさん」って言ってたよなあ)
やり取りしたメッセージを読み返しながら思う。走の短いメッセージのひとつひとつを指でなぞった。
(ハイジさん、ハイジさんって、本当にきみってやつは……)
「わっ」
突如走の名前が表示され、ハイジはあやうく顔の上に携帯を落とすところだった。病室のドアが閉まっていることを横目で確認し、布団を頭からかぶってそっと通話を押した。
「どうした」
「あ、ハイジさん」
「何があった。緊急事態か」
「いえ、あの」
「病室は通話禁止なんだよ。何もないなら切るぞ」
「待ってください!」
「だからなんの用なんだ」
「えっと……おはようございます」
「切る」
「切らないで! えっと、道、まだ半分くらいあるんですけど」
(知ってる)
走が病院まで走ってくるようになって、無理がないか心配ですぐコースをストリートビューで確認した。だから、時計を見れば走が今どのあたりにいるかの見当くらいはつく。
「俺、走りますんで、聞いててもらえませんか。眠くなったらもっかい寝ちゃっていいですから、イヤホンで聞いててください」
(一体何を言ってるんだ?)
とりあえず言われた通りにイヤホンを携帯につなぐ。ガサガサと音が聞こえて、走が携帯をしまっている気配がした。
「じゃあ走ります」
少し遠いところから声が聞こえる。衣擦れと地面を蹴る足音、そして規則的な息遣いが聞こえる。
(ああ)
走っている。走が走っている。目を閉じれば、彼が駆けていく姿をありありと思い浮かべることができた。
(きみは、こんなふうに走っているんだな)
走の走りは次第に加速していく。ハイジにはそれが分かった。風を切る音の鋭さが苦しいくらいだ。
ハイジの瞳からひとすじの涙がこぼれた。
(走。きみは、俺と一緒に走ってくれるんだね)
ベッドに横たわったまま、確かにハイジは冬の朝の匂いを感じていた。閉じた瞳の奥で、深く吸い込むとむせてしまうほどの冷たい空気の中、体を流れる血液の熱さだけを感じながら、ただひたすらに走っていた。走が、自分を導いてくれている。
(きみはまだ、俺を連れて行ってくれるのか)
──彼は走り続ける。おまえはどうする?
答えを探してもがく自分に、走はこう言っているのだ。俺たち、一緒に走りましょう、と。
自分にとって走るとはどういうことか。清瀬灰二よ、おまえにとって走るとは、果たして「走る」ことそのものだけをさすのか?
「走」
ハイジの声はかすれていた。
「俺はきみと走る」
朝の光の中、ハイジは少し泣いた。