もどりてゆきし光旅のはじまりはどんなだった?そう聞かれるたび、冒険者は思い出す。はじまりどころではない、ここで「おしまい」なのだと思ったその日のことを。
死ぬまでそこで生きていくものと信じていた土地は、両足を交互に動かせば案外あっさりと遠のいていったけれど、そこから都市にたどり着くまでには、長い長い道のりが待っていた。
なけなしの路銀も尽きて、気力も体力も使い果たしてようやっと辿り着いた冒険者ギルドの登録窓口で、羊皮紙とペンを差し出され、人の良さそうなその人は名前を書いてくれと言う。名前さえ書いてくれれば、仕事の斡旋も、住まいの案内もできるからと。
冒険者は、汚れた手を垢じみた服のいちばんきれいそうなところで何度も拭いて、つるりとしたペン軸を恐る恐る握る。親指と残りの指4本で、野うさぎの耳でもまとめるように力強く握りしめられたペンを、紙にいつまでも降りてゆかないペン先を、どんどん土気色に青ざめていく顔を、インクが一滴したたる分静かに見つめて、ギルドの顔役は白く握りこぶしをつくった手をポンポンと叩き、崖に追い詰められた鹿のような目をした若者に、小さな声で説いてやる。
心配しなくてもいいのだということ。これまで名前や文字を書いたことのない冒険者も、ここにはたくさんやってくるということ。仕事をしながら、少しずつ覚えてゆけばよいということ。そして顔役は、これまで幾度もそうしてきたように、若者の名前を聞き、イニシャルを教えてやることから始める。遠い土地から来た名前は、見知らぬ風のにおいをまとっている。知見の広い顔役にもわからぬ意味を秘めている。そして、その意味を遠く置いてきた、この若者がいる。
そう、獣の角のようにとがった線を書いてみな、まちがったっていい、上手く書けなくていいんだ、そう。もう一度。うまいじゃないか。
人々が交差する、都市の暮らしは、文字を読めない人間に優しくはない。契約書は誤魔化され、報酬は抜かれ、軽んじられるだろう。武技や魔術の習得は遅れ、手を組んだ冒険者たちとの意思疎通はこじれ、傷つき、裏切られ、命を落とすこともあるだろう。それらは冒険者がそのひと握りの自由と引き換えに身を晒す、険しい道の一端だ。それらを全て前もって防いでやることなどできない。それらの道へ今まさに歩み出そうとしている者に、顔役がしてやれることは、本当に少ない。
だから、これはとてもささやかな——いわば、願掛けのようなものだった。ペンを握りしめて動けない、青ざめた冒険者志望を前にするたびに行ってきた、小さな願掛け。
この若者が、しくじりを苦く噛み締める深夜に、くじけてなお迎える塩の朝に、自分の名前のささやかな書き記し方を、自分が捨ててきたものと、自分がここで得ようとしているものを思い出せるように。あるいは、この者が道半ばで倒れたとしても、身の回りのものに小さく刻んだ縁が、弔いの道まで導いてくれるように。顔役は教える。まっすぐな線の引き方を、インクのびんのふちでペン先をしごく力加減を、線と線を組み合わせ、道をつくることを。
ある夕方、冒険者ギルドに、いまやすっかり世界に名を馳せた英雄が静かにやってきて、カウンター席に腰掛ける。かつて、粗末な革の防具を細い体に巻き付けて、ペンを逆手に握っていたときから、その目の案外と素朴な印象は変わらない。冒険者は、ぱんぱんに物の入った足元の背嚢から器用に使い込んだ革表紙のノートと筆記具を取り出し、手慣れた様子でインクを吸い上げると、なにやら熱心に書き留めはじめる。
何か食べていけ、そう声をかけると、冒険者は少し恥ずかしそうに笑って、サンドイッチを頼み、北洋の国で見た、美しい図書館の話をする。
しばらくのち、冒険者ギルドのメニューの横に、誰にも読みよいはっきりと大きな字と、ペンを持った手の絵がついた、木製の看板が並ぶようになる。
「よみ・かき おしえます はじめてでも だいじょうぶです しょしんしゃのやかたまで」
末尾には、駆け出しの冒険者の符号である緑の双葉と、グランドカンパニーの紋章が彫られており、それが都市国家の公的施設であることがわかる。
その看板はそれからもずっとそこにある。冒険者たちの靴音を吸って、酒場の人いきれに燻むたび、磨きなおされて、時折外つ国の言葉も付け加えられながら。
その看板のはじまりに、ひとりの冒険者がいたことを、代々の顔役たちは大切に胸にしまい、時折したたかに酔っては、誇らしげに歌うものだから、今や都に知らぬもののない、優しい内緒の、話である。