寡黙の関係 膝丸たちが覗いたとき、休息所は冷凍庫の話題で大いに盛り上がっていた。
母屋から湯殿に向かう途中に大広間が一つある。いつの頃か長机と座布団が持ち込まれ、風呂上がりの刀が立ち寄ってひと息ついていくようになって、そのうち休息所と呼ばれるようになった。だれかが酒を隠してそこで飲んだのが始まりだというが、大きな宴会に発展したことはない。火照った身体を手持ちの扇で冷ましたり、髪に油を馴染ませたりしながら、居合わせたものと語らって、刀剣たちは安らぎを得ている。
遠征から帰った膝丸は部隊の面々と湯を浴びて休息所まで戻ってきた。夜も深まり、屋敷内で明るい場所は数えるほどしかない。虫の声の賑々しさに慣れた耳にだれかの野次が飛び込んできて、膝丸たちは互いに顔を見合わせた。
見ると、行きに見かけた刀の半分ほどが残っていて、一つの長机に集まっている。その中には髭切の姿もあって、膝丸は思わず兄者と呟いたが、かれが振り返ることはなかった。
「ねえねえ、何の話なの?」
連れ立って歩いていた浦島虎徹が加州清光に声をかける。加州は一振り廊下側の床一畳を陣取って爪の手入れをしていたが、浦島が近寄ると顔を上げ、涼しげな目元を綻ばせた。
「お帰り。それがさ、宗三が風呂上がりにアイス食べたいってぼやいて」
「あーっ! 確かに食べたい!」
「そしたら髭切が、冷凍庫置いたら?って提案して」
「兄者が?」
「長谷部が電気代かかるって言うから、いまアイス食べたいやつらに説得されてる」
俺も加勢してくるっ。浦島の威勢のいい介入に場は一段と盛り上がる。
髭切が、顔を向けた拍子に弟に気が付いて片手を挙げていた。それに応えつつ、膝丸はその場に腰を下ろす。
「きみは加わらないんだな」
「んー。どっちかって言うと冷蔵庫がいいな。長谷部もそうだと思う」
「では、冷凍室のある冷蔵庫なら即決か」
「どーかな、アイス入りきらなそうじゃん」
紅を落とした加州の爪は淡い桃色をしていた。普段の様子と比べると随分愛らしく、小さな貝殻がのっているかのようだ。
加州は板状の器具を爪の表面に当てて幾度か擦った。そうして磨きあげると慎ましい光の粒がしっとりと浮かんでくる。蚊帳に群がる虫の羽音に時々気をとられながら、膝丸は二十の爪先がなまめいていくのを見ていた。
「帰り遅かったけど、何かあったの?」
仕上げに油を塗り込みながら加州が尋ねる。膝丸はため息交じりに笑った。
「猿に刀装を盗られて、探し回っていた」
「何それ! 大事件じゃん」
膝丸は事のいきさつをかいつまんで話した。
帰りに荷物の整理をしていたところ、好奇心旺盛な野生の猿が傍までやってきて、置いてあった刀装を持ち去ってしまった。猿を追いかけ森を彷徨い手のひら大の玉を探し出すのはたいへんな苦労で、膝丸含め部隊員は生きた心地がしなかったが、帰って話してみるととんだ笑い話だ。面白がって相槌を打つ加州の態度にも救われ、話し終える頃には膝丸の気もずいぶん楽になっていた。
「そういうわけで無駄に疲れて帰ってきた」
「ほんとお疲れさま。明日休みだっけ、ゆっくりしてよ」
「ああ。確か兄者も……」
言いながら、膝丸は兄へと目を向ける。
髭切は机に肘をつき、収束に向かいつつある冷凍庫論争の行く末を見守っている。柔らかそうな髪が普段よりもふっくらして、窄めた肩に触れている。
「兄者はいつから居るのだ。髪は乾かしたのか?」
「俺より先にお風呂出たけど、ずっと居るね」
「全く……。兄者、俺はそろそろ戻るぞ」
よく通る声に他の刀剣が顔を上げても膝丸が気にする様子は無く、兄だけをまっすぐに見つめている。髭切はいつもの微笑み顔で頷き「うん、後で」と言うのみだった。
「俺もそろそろ戻ろっかな。……おーい、膝丸? 戻んないの?」
「兄者は戻らないのだろうか」
「……呼んでも来ないってことはそうなんじゃない?」
「おかしくないか?」
蚊帳をくぐった膝丸は眉を寄せている。言い方といい尖った唇といい、どこかいたいけな態度に加州は笑って聞き返した。「何が?」
「俺は、帰りが遅かったのだろう? 遠征に出てからどれくらいだ」
「三日近く経ってるかな」
「久しぶりに会ってあれか? 部屋に戻ると言っているのに。そもそも兄者は俺を待って長時間あそこに居たわけではないのか」
「なになに。怒ってんの?」
「怒ってはいない。不可解だ」
加州にしてみれば膝丸の考えもよく分からない。兄と過ごしたいなら、浦島と一緒にあの議論の中に向かって行って隣に座るとか、まだ残るとか、やりようはいくらでもある。疲れているから部屋に帰りたいのだとしても、髭切を呼べば済む話だ。
「一緒に戻ろうって、言えばいいんじゃないの?」
「何故わざわざ」
「ええ? だって久しぶり……かは分かんないけど、一緒にゆっくり過ごしたいんでしょ?」
言葉の意図を探るようにじっと視線を投げかけられ、加州はわけが分からずただ見つめ返した。
数百年も先に生み出された刀とは思えない濁りの無い瞳だ。透き通った琥珀色からは妙な圧力が発せられている。幼いなんてとんでもない、平安刀によくある謎理論とマイペースに、加州はあーねと内心呟く。
膝丸は合点がいったというふうに突然頷いた。
「そういうことか。俺と過ごしたいと思っているのは兄者も同じだぞ。だからつまり……あの冷凍庫の話がよほど面白いのかと、俺は今妬いている。それだけだ」
「……そうなの? てか尚更言えばいいじゃん」
「俺が言わなくとも兄者は分かっている。仲の良いきょうだいだから」
「その理屈は……どうかなあ〜」
言えば一発だからと促され、膝丸は渋々休息所に戻った。論争はとうとう片がついたらしく、密集していた刀剣たちは各々解散していくところだった。髭切も立ち上がり、手拭いを肩に引っ掛けてこちらに向かってきている。
「おや」
二振りの視線はがっちりと絡み合った。