我が手 朝の廊下に西京焼きの香りが漂っている。口元を綻ばせつつ、髭切は食事処に割り振られている広間へと向かっていた。
夜の厨当番は翌朝の献立を自由に決められる。髭切は夕べ遅くまで、とにかくたくさん魚を切って、ていねいに骨を除いた。今朝の当番がうまく焼いてくれたのだろう、香ばしいにおいは廊下中に漂って空腹を刺激する。前日からの期待も相まって、知らずに足の進みが早くなる。
うきうきして襖を開くと、中に居た十二振のほとんどが髭切を見た。思いがけず注目を浴びて驚いていると、奥の席から弟の膝丸が声をかけてくれる。かれだけは普段と変わらない様子で、おはようと言った。
「おはよう。魚、美味しそうに焼けてるね」
「昨晩は兄者が当番だったな」
「うん。魚をねえ、五十は切ったかな……」
膝丸がよそってくれた山盛りご飯の茶碗を受け取って、髭切は膝丸の隣に腰を下ろした。他の刀はまだちらちらとこちらを見ているが、食事に戻りつつある。
「時に兄者」
「ん?」
「髪を切ったか」
「髪? 切ってないけど」
ひゃー。悲鳴のような笑い声を立てたのは太閤左文字だった。箸を握ったままひっくり返りそうに身体を反らして笑っている。
つられたのか周りの刀たちも次々に声を上げ、途端に賑やかになった広間に髭切はきょとんとした。
「何なの?」
膝丸は答えずに目を伏せた。その瞳が涙に潤んで見え、思わず肩を掴むと、観念したように言う。
「今日あたり切ってくるかと思って、みなに言った」
「……よほど自信があったんだね。爪なら切ったんだけど」
髭切が言うと、隣の山姥切長義がフッと吹き出した。
元気づけるつもりで伝えたが逆効果だったらしい。膝丸はむっつりしたまま髭切の手を取り、深爪をしていないか確かめると、食事を再開したのだった。
数日して、髭切はふいに、前に髪を切ったときのことを思い出した。
肩につきそうなほど伸びていたのを、膝丸が遠征任務に出ている間に整えた。時々櫛を入れるのは膝丸くらいで、自分ではほとんど手をかけていない。邪魔なばかりなので元の長さに切ってもらったのだった。
戻った膝丸は、髭切を見るやいなやその場にへたり込んだ。よほど辛い任務だったかと労おうとした髭切に、髪が短い、いつの間に、どうしてと訴える。あまりの悲壮さに髭切も元の長さだとか、たかが髪だとかは言えなかった。
「ごめんよ、悪かったよ。先に言えば良かったかい?」
「いや……みっともないところを見せた。大丈夫だ」
そうは言ったものの、明らかに塞ぎ込んでしまった。髭切が優しく手を取って宥めてやると、ややあって、もっと早くに見たかったと心底残念そうに呟いた。早くも何も、たかだか一日二日の違いだ——髭切は閉口した。
もう半年近くも前のことだ。
眉間に鋏の峰を当てると、思いの外快い。顔の骨が細かく震える感覚が面白く、鼻梁のはじまりをこんこんと小突いてみる。
先日の弟の奇行から思い立ち、髭切は前髪を切ろうとしていた。
切りたてを見たがったり、切る時期を予想したり、兄の髪を気にかけるわけは髭切にはさっぱり分からない。しかし、涙を浮かべた弟を放ってはおけないのだ。
しばらく手入れを受ける事態に陥っていないので髪は伸びてきている。自分だけで元の髪型にするのは難しいが、前髪くらいならなんとかなるだろう。
床に置いた鏡を覗き込み、記憶を頼りに刃を入れる位置を確かめる。ひと目見て判るよう、元よりも短い方が良いだろうか。まあ、弟のことだし、大丈夫だろう。
しゃくしゃく しゃん
しゃくしゃく しゃん
刃と刃のこすれる感触に目を細め、髭切は前髪に指を通した。切り落とした髪を屑入れに捨て、こんなものかと整えてみる。
「……おお……?」
鏡を取り上げてまじまじ眺めた。下を向いていたせいで、思っていたよりも多く切ってしまったらしい。
広い視界に多少の異和感はあるが、これなら弟もすぐ気づくに違いない。内番用に支給されている帽子を被り、弟を探しに部屋を出た。
しかし、こういう時に限って弟は見つからないのだった。
忙しくしているようで、目撃情報のある場所に行ってみても、既に姿はなかった。近くにいる刀に行き先を尋ねること三度。厨にほど近い広間で、明日の朝食の仕込みを手伝っているところをようやく捕まえる。
「外に出ていたのか?」
指にこびりついた小麦粉を気にしながら廊下まで出てきた膝丸は、帽子を見て首を傾げた。
「何つくってるの」
「パン」
「そうかあ、すぐお腹空いちゃうな」
「きっと大丈夫だ、肉を詰めるそうだから」
そういえば、厨からは甘辛い肉の匂いがしていた。
広間を覗き込むと、大和守安定や獅子王や数振の脇差が、それぞれ生地を叩いたり伸ばしたりしていた。膝丸と同様、腕まで粉まみれになって一生懸命にこねている。
「それで、どうしたんだ」
弟がいちばんに気が付いたことになるように、かれらの傍で見せるのが良いだろう。髭切は帽子を脱いだ。
すると膝丸は、小さく「あっ」と声を上げた。自分の指に目を落とし、慌てて帽子を掴むと髭切の頭に載せる。
おやと思ううちに、髭切は廊下の隅の壁際まで連れて行かれた。掴まれた腕に生乾きの生地がついてべたべたしている。
膝丸は自身の体で髭切を隠すようにして立ちはだかった。向かい合い、静かに帽子を浮かせると、髭切をしかと見た。
見つめられている眉間の辺りがむず痒いような気がしてくる。髭切は毛先を指で押さえた。膝丸も触れたそうに手を上げたが、空中に浮かせたままで留まった。
「……短いな」
何とも判断のつけがたい声音だ。喜んでいるようにも、咎められているようにも聞こえる。
「あ……」
今度は髭切が声を上げる番だった。膝丸は手の代わりに唇を使い、むきだしの眉頭に触れた。一度離れ、顔を眺めてはまた唇を押し当てる。
「短いのも似合っている。……かわいい」
生地がついていないらしい、中指の背で、口付けた箇所を撫でられる。どうやら「喜んでいる」が正解だったようだ。膝丸の目は満足げに緩んでいる。
「いつ切ったんだ」
「ついさっき。全部短くするのは難しそうだから、前だけ……」
「自分で切ったのか!?」
膝丸はため息のように薄く息を吐き出した。今度こそ「咎められている」かと思ったのもつかの間、唇と指の背が、交互に額を撫ぜる。髭切は安心してまぶたを下ろした。
「もう泣かないね。良かった」
「何の話だ? 泣いてないぞ」
「うん。だから、良いんだよ」
髭切は帽子を取り去って、膝丸の頬骨に唇を当てる。かれが涙を流す時、ここを辿って顎に落ちたのを覚えている。今はただすべすべとして、照れくさそうに筋肉が緩むだけだった。