To be with you. 1
その金属の棚は、男子トイレの突き当たりの壁から生えている。
棚の下は空間があるから、ウォールシェルフと呼ぶのかもしれない。かつては扉があったと思われる蝶番の跡があり、二段構えの棚板には何も置かれていない。すぐ隣の壁に窓があるけど、棚が邪魔をして奥の方が開けられなくなっている。
今日みたいに晴れた日に鏡越しに棚を見ると、上段の天井というか、天面の裏がほのかに明るくなっているのが見える。もやのように輪郭の定まらない陽だまりは、窓の外のどこかを反射しているらしく、すぐ外に植わっている緑の色もうっすら見てとれる。
ところが実物を見てみると、棚のどこにもそんな反射は起きていない。緑の映り込みもない。トイレの、埃を被った照明にうすぼんやり照らされているだけだ。棚板に手を泳がせてみても反射は遮れず、ほのかに明るいまま変わらない。
この不思議な鏡像を見ると、鏡の向こうの世界というものを考えさせられる。不思議な、少し良いことが起きる世界。鏡に映るこの俺も、現実を過ごす俺より幸せに過ごしているのかもしれない。
「膝丸」
「……すまん、今行く」
水気を振り落としハンカチで拭う。振り返った位置では鏡像もあの光も見えない。無人のトイレがあるだけだった。
外に待たせていた大倶利伽羅広光は、スマートフォンでだれかと話していた。無口な彼が電話を嫌わないのはいつ見ても意外だ。謝るように手を合わせると、ちらと目を向けられる。床に置いていたリュックサックを拾い上げ、スマホで時刻を確認する。と、貞からの着信履歴があった。画面を見せ、次いで相手の耳元を指差すと、大倶利伽羅は頷いた。
「それで。……聞いてない。……ああ、……うん……」
部活動停止期間を終え、張り切った様子の運動部の声が遠くで聞こえる。大倶利伽羅のぽそぽそとした返事は、それと同じくらい小さい。俺は壁に背中をつけて、光の射したところが窓の形に白く切り取られている床板を、見るともなしに見る。
「貞が、鎌倉駅に来いと言っている」
「貞? なんで」
「光忠のお使い。あとは意味が分からん」
差し出されたスマートフォンを耳に当てると、電車の走行音と鎌倉行きのアナウンスが聞こえてくる。どうやらもう電車に乗っているらしい。「もしもし、貞?」
『あっ膝丸? 加羅に聞いた?』
「いや、あまり。どうしたんだ」
『それがさ、膝丸、絶対驚くよ。地味だけどマジですげーの』
浮ついた声で前置きたっぷりに言われて、一体何事かと気になってくる。エンターテイナーの素質を感じさせる貞こと太鼓鐘貞宗は大倶利伽羅の従弟だ。俺たちより二つ年下の中学二年生。ご両親は海外で働いていて、大倶利伽羅の家で暮らしている。
「何がすごいんだ」
『見ちゃったんだ、ドッペルゲンガー。膝丸の』
「はあ?」
『そいつ紀ノ国屋でバイトしてるんだよ。一緒に見に行こうぜ!』
大倶利伽羅を見る。が、ただ肩を竦められる。
光忠さんのお使いがあるから、大倶利伽羅たちはどちらにしろ行くと言う。初めての中間テストや担任との二者面談を終えたばかりで、開放的な気分だった。たまにはこんなのも面白そうだ。
学校をから最寄り駅まで歩いていく。江ノ電は鎌倉駅から藤沢駅を往復する。運行間隔は約十二分に一本。高校の最寄りから鎌倉駅までは大体二十分かかる。いつも観光客で混雑しているのであまり乗りたくないが、バスはこちら側を走っていないから仕方ない。
細長いホームの一番奥で電車を待つ。同じく電車待ちの人たちがずらりと並んで、緑と卵色の古い車両にカメラやスマホを向けるのも見慣れた光景た。
「夕飯、大丈夫なのか」
車内に入ってから、思い出したように大倶利伽羅が尋ねてくる。リュックを前に抱え直しながら「ちょっと見て帰るだけなら」と答えると、大倶利伽羅は小さく頷いた。
揃って内向的な俺たちは小学二年生のときから友達をやっている。俺たちを結びつけるのは、おばさん——彼の母だ。おばさんは、祖父と二人で暮らしの俺を何かと気にかけてくれる。おかずを届けてくれたり、おじいさんの代わりに学校行事に出てくれたり。少々強引なところもあるが、そのおかげで俺たちは、毎日の登下校を中学高校と欠かさず共にするほどの間柄になった。
食事はおじいさんと毎日交代でつくっている。当番の日は朝から米を炊いて、朝食と、二人分の弁当を作る。夜の仕込みをしてから行くか、帰ってから作るかは献立によるが、俺は作り置きする方が好きで、土日にまとめて下ごしらえしておいたものを使うことが多い。
日毎の当番制になったのは高校に入ってからで、剣道部だった中学までは朝昼は俺が用意し、夜はおじいさんの担当だった。
「いなかったら無駄足だな」
「おじいさんに漬物でも買って帰るさ」
カーブに差し掛かり、車体がギイギイと音を立てる。その音に紛れるよう、抑えた声で尋ねる。
「ドッペルゲンガーなんて、本当にいると思うか?」
「さあ。だが貞は見たんだろう」
「光忠さんも見たのか」
「知らん。あいつは調味料でも見てたんじゃないか」
そう言ってスマートフォンの画面を見せてくれる。馴染みのないスパイスの名前と、お祈り絵文字付きの「買ってきてください」というメッセージ。
光忠さんは、これまた大倶利伽羅と貞の遠い親戚であり、大倶利伽羅のバイト先の上司でもある。彼が江の島に地中海バルを開いたのは俺たちが中学に上がる直前だった。
光忠さんはずっと料理が好きで、大学時代にはもう自分の店を開くことを志していたそうだ。卒業後は海外で二年ほど修行し、帰国後、大学時代の友人と共同で店を立ち上げた。
きちんとした計画を立て、目標を達成する姿は立派だ。大倶利伽羅と貞は昔から光忠さんを尊敬している。俺も話を聞くたびにすごいと思っていたが、今は、ただ感心するばかりではいられない。
「ところで、ドッペルゲンガーが何か知っているのか」
大倶利伽羅の質問に意識が引き戻される。そういえば、何となくのイメージはあるが詳しくは知らない。そういう曖昧な知識はいったいいつ入ってくるのだろうか。
「もう一人の自分……みたいな……?」
「見たら死ぬらしいぞ」
何気なく発されたその言葉が、頭の中に重く響く。死。だれにでも、いつかは訪れるものだ。
もやのように忍び寄る暗い気分を誤魔化そうと、大げさに顔をしかめた。
「まさか。……ちなみにどっちが死ぬんだ」
「本物の方、とこれには書いてある」
「もう一人の自分なら、向こうも自分が本物だと思っているんじゃないのか?」
「なら両方死ぬんだろう」
「殺すな」
大倶利伽羅は口元にかすかに笑みを浮かべ、スマホの画面をスクロールしている。貞は大げさなところがあるから、それほど似ていないだろうし、ドッペルゲンガーを信じているわけではない。だけど、もし本当に居て、目撃すると死んでしまうとしたら。
もう、何も恐れなくても良くなるのか。
安堵の気持ちが宙に浮く。
貞はホームのベンチで動画を見ながら待っていた。学生服姿はあまり見なくて新鮮だ。似合っていると褒めると、おどけてポーズをとってくれる。連れ立って改札を抜ける。
江ノ電の駅舎は、JR鎌倉駅の西口側にある。鶴岡八幡宮がある東口と比べると、こちらはあまり観光地的な作りではない。
正面に伸びる市役所通りの先にスクランブル交差点があり、紀ノ国屋はその中央に建っている。
周囲より数メートル高くした敷地に、車や自転車を停めるスペースを広く取ってある。夕方近いためか、自転車置き場はいっぱいだった。
買い物客に混じって店内入口までのスロープを上がっていく。すぐ隣の植木売り場で店員がせっせと鉢を入れ替えていた。
「俺ちょっと見てくる。加羅、みっちゃんのスパイスよろしく」
店内に入るなり貞は颯爽と行ってしまった。呆れて溜め息する大倶利伽羅の隣で、俺は店内の様子に感動していた。
洗練された陳列に、計算された明るい照明。入ってすぐその日オススメの惣菜が置かれているところが、仕事帰りの大人にはうれしいポイントだろうか。ブランドロゴの入ったオリジナルのエコバッグまでさり気なく売られていて、近所のスーパーとは大違いだ。
「……ちょっと、野菜見ていいか」
「好きにしろ」
許可を得たので遠慮なく野菜売り場へ向かう。葉の状態やかたちがきれいで、野菜そのものも何となく洒落た雰囲気だ。
全国的に有名な鎌倉野菜は、見慣れた人参から海外原産の珍しい野菜まで栽培されているが、朝市や即売所で大体売れてしまって、夕方のスーパーではまず見られない。ここにあるのも輸入物や日本各地から仕入れた品だった。質は良いが値段もそれとなく都会的なので、この点は近所のスーパーに軍配が上がりそうだ。
野菜コーナーが終わってすぐ、漬物の並んだ冷蔵ケースがあった。初めて見るメーカーのものばかりだが、どれも美味しそうだ。大きな水なすの袋を取って、大倶利伽羅とスパイスコーナーへ向かう。
貞はもう偵察を終えて俺たちを待っていた。スパイスの瓶を俺に手渡すと「四番のレジにいる」と囁く。大倶利伽羅と顔を見合わせていると、子どもに言い聞かせるような口調で、見れば分かるよと言い足した。
「俺たちはあっちで見てるから」
「押すな」
「これ、レシート貰えばいいか?」
「うん」
二人が商品棚に隠れるのを見送ってから、四番のレジに並ぶ。他が空けばそちらに呼ばれてしまうので、そう都合よくいくものかと思ったが、レジの進みは順当だった。
前の客が進み出て、買い物かごをレジ台に載せる。レジスターのディスプレイの間から、店員の姿がわずかに見える。年は近いようだが、うつむき加減の横顔で、似ているかどうかは判断がつかない。
ドッペルゲンガーでなくとも、自分とそっくりな人は世の中に三人くらいいるという。おそらくそんなものだろうと思っていると「お待ちのお客様、どうぞ」と、やわらかい声に呼ばれた。
停止位置から進み出て、店員と正面から向き合う。すると、向こうが小さく息を呑む音が聞こえた。俺は息をするのを、忘れていた。
前髪を分けて三角巾に留めているため、顔の全てのパーツが見えている。それは正に今朝も、帰りのトイレでも見てきた自分の顔そのものだった。目頭から鼻筋に至る起伏も、上くちびるがなだらかなところも同じ。一瞬現実を忘れ、鏡の向こうの世界のことを思い出す。
「あ、」
手元に触れるものがあって、見ると、レジ台の上で店員が両手のひらを差し出していた。指先が水なすの袋に触れている。半ば押し付けるように手渡した。
向こうの方が回復が早い。てきぱきと動く彼の胸元に目をやる。丸みのある書体で、田辺という名字が書かれている。源ではないことに安心したような、残念なような、おかしな気分を感じながら、彼が働くのを見守る。
「お会計、八百六十二円です」
「あっ」
「はい」
「ごめんなさい、分けてください……」
「……ああ」
「すみません……」
「じゃあ……ええと……お漬物、お先に」
袋は不要だと伝えたが、財布から小銭を出している間に「田辺」は水なすを水物袋に入れてくれた。レジ台の上で袋がふにゃりと倒れていくのが、妙に目に留まる。そこにわずかに添えられた「田辺」の手も。
今度は滞りなく支払いを終える。もう少し、何か無いかと、品物を受け取りながら礼を伝えてみるが、彼はただ頭を下げるだけだった。目が合わないどころか、少しそっぽを向くようにして顔を上げる。
「ありがとうございます、またお越しくださいませ」
マニュアル通りの返答。そして機械的に流暢な抑揚で、次の客を呼んだ。
入ってきた時より、混雑してきたようだ。「田辺」は買い物かごの品物を次々と精算かごへ移していく。その様子を見ながら、水なすをリュックにしまった。スパイスとレシートは片手に持ったままで出口へ向かう。途中で合流してきた二人と揃って店の外へ出る。
「どうよ!」
入口脇で立ち止まり、貞は振りかぶるように尋ねてきた。大倶利伽羅に瓶とレシートを渡し、代金を受け取りながら顔を向ける。
「なんだよその顔。驚きすぎて言葉もないって感じ?」
「……まあ……」
「すっっっっっっげ〜似てたろ? 最初見た時ほんとに膝丸かと思ったもん」
「彼に会計してもらったのか?」
「んや、こないだは見ただけ。なあ、あいつも驚いてた?」
驚いていた、と思う。息を呑む音を聞いたし、彼もすぐには動けなかった。けれど、本当に現実に見聞きしたものなのか、なんだか自信がなくなってきた。彼は本当に存在したのだろうか。存在はしているとして、本当に俺と似ていたのだろうか。
「膝丸?」
「あ、すまん。向こうも……驚いていたが、初めのうちだけだったぞ」
「えーっ。おかしくねえ? こんなに似てる人が突然現れたら、ふつーもっと盛り上がるだろ」
「バイト中だし……」
「おいおい、仕事中って脳みそ死んじゃうわけ?」
貞は大げさに肩を落とし、交差点の方へとぼとぼ向かっていく。大倶利伽羅をつついて、脳みそ死ぬのかと尋ねてみると、彼はしばらく考え込んだ。
「同じ顔のやつが来たとして、ただ食事して帰るなら、ただ接客する」
「……俺もそうすると思う」
前を歩く貞を見やると、丸めていた背中はピンと伸びて、歩みもしっかりしていた。俺たちとは性格が違うんだろう。彼のドッペルゲンガーもきっと陽気だから、二人が出会ったら、たいへんな騒ぎになるに違いない。
今度は三人で江ノ電に乗り込む。ドッペルゲンガーへの興味はもう薄れたようで、貞はずっと、昨夜のテレビの話や中間テストがやばかった話をしていた。
三人で居るとたいてい貞が話し役だ。俺たちは相槌役を勤め、時々大倶利伽羅がつっこみや訂正をする。
二人はずっと一緒だからか、本当の兄弟のように仲が良くて息が合っている。俺にとっても貞は弟のような存在だが、やっぱり二人の間には入れない。少しだけ、羨ましいと思う。
「田辺」に兄弟はいるだろうか。彼が鏡の向こうの存在だとしたら、(そんなもの無いに決まっているけど、もしもの話だ。)きっと彼は俺の望むものをいろいろと手にしているだろう。兄弟や両親。不安のない未来。彼がどんなふうに今日まで過ごしてきたのかを知りたい。
現実的に考えれば、あんなに似ている人間が同じ市内にいたら噂になるはずだ。けれどこれまで聞いたことが無いし、他校と合同開催される行事でも彼を見ていない。どこか他所から引っ越して来たのだろうか。俺は鎌倉の暮らししか知らないから、他の町のことも聞いてみたいと思った。
「膝丸、腰越で降りるよな?」
話しかけられ、慌てて頷く。もう鎌校前を過ぎたところだった。
「加羅はバイトだから、このまま乗ってくって」
「そうか。がんばれよ」
がんばるほどのことはないと言うように、大倶利伽羅は目を伏せた。
貞と一緒に腰越で降りる。海に誘われたが、食事当番だからと断って別れた。
大倶利伽羅家は駅から少し離れているが、うちはすぐだ。裏手に抜け、坂を上がって左に折れる。コンクリートの石垣越しに梅の木が見えたら、そこが我が家だ。
壊れているせいで開きっぱなしの、小さな門扉を抜ける。梅の木以外にも直植えの低木が何種類かあって、多年草の鉢も置いてある。子どもの頃はそこら中に花が芽吹いて花畑のようだったが、おばあさんが亡くなって規模を縮小した。玄関近くに植わっている梅の木だけはあの頃と変わらずに花を咲かせ、実をつけ続けている。
おじいさんはちょうど、樹の手入れをしているところだった。
「ただいま」
声をかけると手招きされ、鋏をくれと言いつけられる。ガラス戸を開けたままの縁側に、梅の実がいっぱいの籠と、黒い枝切り鋏が置かれている。
鋏を渡してから、籠の隣に腰を下ろす。手にとって鼻に近づけても、まだほとんど香らない。サイズや傷の有無で選り分ける。毎年梅酒や梅干しをつくってご近所に配るのだが、梅が植わっている家は他にもあるし、この樹は配っても余るほどの実をつける。今年も相変わらず豊作だ。
「まだごまんとある」
俺の心を読んだようにおじいさんは声を上げた。伐った枝を手に梯子を降りて傍まで来ると、ぐっと伸びをした。呆れたように樹を見ているが、植えたのはおじいさんだと聞いている。おばあさんとの結婚祝いとか何とか。
「梅仕事が終わらんな」
「大変なら、そろそろやめてしまってもいいんじゃないか」
「そういうわけにはいかん。ばあさんの樹だから」
おばあさんが亡くなってから、おじいさんはこの家の管理と俺の世話を一人で引き受けている。
「今年も漬けるの手伝ってくれるな」
「うん、もちろん」
おじいさんはにっこりして、俺の肩を叩いた。
家に上がり、漬物を冷蔵庫に入れてから風呂場を確認する。おじいさんが昼のうちに掃除してくれているが、念のためにシャワーで流してから湯を沸かす。山から離れていても、古い家に虫は簡単に入り込む。湯面に浮いた小虫を見つけると、何とも言えない気分になるものだ。
制服から着替え、台所の床下収納を覗いてみると、案の定古い梅干しの瓶がごろごろ出てきた。何年ものか分からない、ものすごく深い色をしたものもあって、見ているだけで唾が沸いてくる。
実るともったいなくて漬けてしまうが、消費する努力が必要なようだ。今夜は魚のつもりだったが、豚の梅肉和えに変更する。他のレシピも後で調べてみようと思いながら、まずは弁当箱を洗った。
おじいさんが庭仕事を終え風呂に浸かっている間に、食事の準備はあらかた整った。短い廊下を行き来して居間の食卓へおかずを運び、箸を用意する。水茄子は一口サイズに切ってから、袋の水ごと保存容器に移した。食べる分はそれぞれガラス皿に盛り付ける。弁当のことを考えるともう一品欲しいところだが、今から用意するとおじいさんの食べるタイミングには間に合わない。
夕飯の用意をするようになって二ヶ月だが、こういう見通しを立てて料理するのが本当に難しい。学校でも、午後にはもう夕飯作りのことを考えている日もある。毎日こなしていたおじいさんへ尊敬の念を送りながら、茶碗に米をよそった。
仏壇にご飯を上げている間に、おじいさんが居間へ入って来る。注いでくれた緑茶のコップを受け取って、二人で手を合わせた。梅肉和えを箸でつまんで、おじいさんはフッと笑って見せる。
うちでは、食事中に会話はほとんどしない。テレビも見ない。そういうルールがあるわけではないが、昔からそうだった。美味しいとか、今日は何があったとかいう話をすることもあるが、食事中にするという決まりもない。
「この水茄子うまいな」
「ああ、鎌倉のスーパーで買った」
「わざわざ行ったのか」
「光忠さんのお使いで、大倶利伽羅に着いていったんだ」
おじいさんは頷き、もう一切れ口に運んだ。まだ冷蔵庫にあると伝えたが「田辺」のことは言い出せなかった。だって、本当に現実だったのか実感がない。
「そういえば、面談があるとか言ってなかったか」
その話題もあまり好ましくない。味噌汁椀を傾けながら「二者面談だ。今日終わった」と短く答える。
「何の話をしたんだ」
「テストの結果とか……学校に馴染めたかとか」
「どうなんだ」
「どちらもまあまあだ……多分」
おじいさんは笑いながら頷き、白米のお代わりをしに席を立った。俺は少しホッとして、梅肉和えを頬張る。
二者面談の話題はもう一つあった。「進路について」だ。進学と答えたものの、口にした途端、まるで嘘を言ったような気分になった。自分が大学生になっている想像が全くできなかったからだ。
学びたいことややりたいことはまだ見つけられていない。だけどそれより、未来そのものが俺の想像を妨げている。未来にはいくつもの可能性がある。考えてもみなかった事態に陥ることだってあるだろう。
もしもおじいさんの身に何か起きたら、大学なんて行っていられない。なにせ俺は、他に頼れる親族が居ないのだ。