ひらいてとじて 互いに絡み合った輪をじっと観察する。
金属でできた棒の端をくるりと丸め、その輪で二つは連なっている。棒が交差したところに隙間はあるけれど、輪同士が引っかかってしまう。ぶつけてみても、かち、かち、と小さく鳴るだけで、外してばらばらにはできそうにない。
この二つははじめは別々で、それを人間が、どうかして知恵を絞らなければ分かてないように繋げた。考えた人間には感心する。外させるためにくっつけたのか、たまたま絡まっていたのをうまく外せたから、遊びに作り変えたのか。
連なった輪を眺めていると、すぐ手元に湯呑が置かれた。ほうじ茶の芳しい香り。顔を上げると弟がいて、かれは僕のすぐ隣に腰を下ろし、自分の湯呑に口をつけた。それには緑茶が入っている。
食堂の隅には電気の湯沸かしと、いろいろな飲物の素が置かれている。お湯を注ぐだけですぐ飲めるあれだ。茶葉に比べて味は劣るものの、簡単だし、種類があって楽しい。味の好みは千差万別だし、頓着の無い刀だって大勢いる。僕がほうじ茶ばかり飲んでいることを弟が知っているとは、まるで思ってもみなかった。口に含んでみると、自分で淹れるより少しだけ濃い。
あつい。
「部屋に帰らないのか」
言いながら、弟は僕の手元を見ている。ほとんど真横から、首を傾げて覗き込むように。肩に、触れてもいないのに弟の体温が伝わってくる。
「ずっと思ってたんだけど」
傾げていた首を不自由な角度で曲げて、弟は僕を見上げた。まつ毛の生え際までよく見える。
「おまえって、座るとき近くないか」
「……そうか?」
「そう思わない?」
うん、だか、ぬ、だか言って、弟は少し横にずれた。座るのに限らず、隣に立つのだって、弟は僕が思うよりも傍に来る。
「まだ」
「んん……」
弟はもう少しずれて僕を見た。これでどうだと言わんばかり。拳二つ分しか空いていない。見つめ返すと、長椅子のいちばん端までずれていった。
「それはさすがに」
「兄者が丁度いいところまで来てくれ」
その場で立ち上がる。湯呑、椅子の座面、見上げてくる弟。言われてみると、丁度いい距離というのも難しい。熱が伝わらない位置なら良いだろうか。刀があるとして、柄がぶつからないくらい?
考えあぐねていると「ふたりとも何してんの?」と、向こうの食卓から包丁くんに声をかけられた。プリンを頬張りながら歩いてきたかと思うと、空いている僕と弟の間に膝を乗り上げた。
「プリン」と言うと、「あげないよ」と体を丸めて隠される。とっておきのやつ、だそうだ。
「包丁くん、膝においで」
かれはいそいそと僕の脚に跨った。そうしてまた一口、プリンを頬張る。漂ってくる甘い香りを囲うようにかれの前に腕を回して、さっきの輪を取り上げる。双葉みたいに跳ねた包丁くんの髪が揺れた。
「髭切、それ解けるの?」
「解けなくて困ってるんだよ。朝までにばらばらにできなかったら、大包平に朝食のおかずとられちゃうんだ」
「何だそれは」
弟が隣に戻ってきて、訝しげに言う。
「昼間ちょっと賭けをしたら、負けちゃったんだ。けど、情けだってこれを渡されて」
包丁くんが輪に触れる。小さな手に譲ると、包丁くんは持ち方をくるくる変えてみたり、金属同士を打ち合わせたりして、外そうと試みた。けれど、二つの輪は連なったままだ。
「だめだ~全然わかんない。ていうかこれ、ほんとに解けるやつ?」
「大包平はこの前解けたって」
「うっそだぁ」
鶯丸が言っていたから、多分本当。
何かとんちのような方法かも知れない。机に置いてもう一度観察していると、弟が僕を呼んだ。お茶を飲み終わって、先に部屋に帰るつもりらしい。
「おかずは俺の分をやる」
何でもないように言い残されて、眉間の辺りがもわ、とした。要するにそれは、僕が朝までに解けないと思っているということ?
何だか急にやる気になって、まだ熱いほうじ茶をひと息に飲み干した。
寝ていた弟が突然起き上がった。かと思うと僕を見てぎくりと体を強張らせた。真夜中を、少し過ぎている。
「まだやっていたのか」
寝起きの掠れた声で言いながら弟は僕の手を探った。指同士が絡まるように触れ合い、金属の輪をなぞっていく。その手をどかそうと揺すぶりながら「どうしたの」と尋ねる。
あれからずっと輪を外そうと取り組んでいる。食堂から部屋に帰ってみると弟は風呂に行っていて、戻るなりすぐに眠ってしまった。僕は休憩がてら厠に行ったり、布団を敷いたり、灯りを点けたり、布団に入ったりする以外はこの輪にかかりきりだ。それでまだ解けないんだから、多分途中うたた寝をしている。
僕が頭を悩ませている間、弟は本当に安らかに眠っていた。それなのにまるで起床時間かのように目を覚ましたから、何事かと思って顔を覗き込む。弟は僕の視線を逃れるように手で顔をこすり始めた。
「目、覚めちゃった?」
「いや……たまたまだ。首尾はどうだ」
食堂に居たときのような熱い思いはもう無くなっている。そもそもくっついているものを引き離すことにそれほど積極的ではなかったから、ほとんど惰性で弄んでいるようなものだ。それでも弟に「できない」とは言いたくなかった。
黙っていると、弟はまた僕の手に指をねじこんで輪を奪っていった。
「もう休んだほうが良い。明日は内番があるだろう」
いつの間にかしっかりしたことを言うようになった。夜更しをして、翌日つらい思いをしたことがあるのだろうか。僕の知らないうちに。
弟はさっさと灯りを吹き消してしまった。仕方なく横たわり、暗くてろくに見えない天井を眺める。弟は手探りに部屋を這い回って、水差しから水を飲み、布団の中に戻ってきた。
目を閉じても、瞼の裏に二つの輪が見える。さんざん触ったおかげでばらけて一つになった形さえ思い浮かぶのに、実際にそうはできない。
できないままで、大包平におかずを取られてもいい。けれど明日、弟の皿からおかずを譲られるのは何となく嫌だと思った。
それでも、外すのは……。
「兄者、もう寝たか」
空耳かと思うほど密やかな声だった。口を開くか迷って、結局答えないことを選ぶ。実は、弟が目を覚ました原因は悪い夢じゃないかと思って気になっていた。もしそうなら慰めてやりたいけれど、幼子でもあるまいし、お節介は良くない。何か用なら明日の朝また言うだろう。弟も二度は声をかけてこなかった。
しかし、本当に気のせいだったかと思い始めた頃になって、ざり、と畳を擦るのが聞えた。やわらかな熱と一緒にこちらに音が近付いてくる。
気配はすぐ傍で止まった。呼吸さえ密やかで、聞こえないほどだった。けれどすぐ傍にある。何をしているんだろうと思っていると、暖かくてでこぼこしたものが頬に当たる。
手だ、と思ったときには、それは顔の表を覆っていた。手のひらが、鼻の先や、瞼や、唇をやわらかく包んでいる。小さく息を呑むと、手はゆっくり離れていった。
弟を見る。かれはまたぎくりとして、固まっている。
「お、……お、」
起きていたのか、と言う声は上擦っている。弟の顔を見たかったけれど、僕は座卓の方に這っていき輪を探した。
「どこ」
「……」
「どこに置いた?」
「……ここだ」
手渡されたものを受け取って、輪の一方をくるりと返す。どうして気が付かなかったんだろう。巻いた棒の緒が向かい合うようになると、縁はぶつからなくなった。こすれる小気味好い感触があって、二つの輪はばらばらになった。
僕たちは顔を見合わせ、ばらけた金属を見つめた。両の手に一つずつ、二つの輪は向かい合っている。僕は、ゆっくりと一つに戻した。
「おかず、分けてくれなくていいよ」
弟は多分肯いた。
輪を置いて向き直ると、弟は居住まいを正した。暗くて良くは見えないけれど、萎縮しているらしいことは伝わってくる。胡座をかいた膝の上に置かれた両手が、うっすらと光を跳ね返している。あれのどちらだろうと思った。僕は、そうと決めているわけではないのに、いつも左で触れていると、その時気がついた。
「嫌な夢でも見た?」
「見ていない」
返ってきた声は萎れていた。それよりも切実に「兄者は見るのか」と、確信しているかのように聞かれるから、何だかとても穏やかな気持ちになった。
「見ないよ。悪い夢は一度も見ない」
「……良かった」
「うん。寝るけど、良いかな」
「ああ」
「おまえも早くお休み」
さっさと布団に入って目を瞑る。弟は案の定、傍に来て、しばらくそこに座っていたようだった。密やかな息づかいとやわらかな体温が枕元にあって、それは人のかたちをしている。それが、主やほかの人間ではなく自分の弟なのだと、目を瞑っていてもわかるのは愉快なことだった。
鼻に指が触れる感覚を思い出すと、唇が自然に、ふっくりと弧を描く。ああそうかと納得したけれど、眠っている間にそれが何だったのかは忘れてしまった。