春の陽気と君の教え 視界の隅を横切る薄紅に、ハッと遠ざかっていた意識を引き戻した。
手元を見遣れば、ポットからたちのぼる湯気は白く、熱を帯びている。
どうやら、ほんの少しばかり他所に意識を遣ってしまっていたらしい。
あぁ、まったく。この季節はどうもいけない、と嘆息をひとつ吐き、軽く指先で頬を叩いては緩く首を振った。
──春は、どうにも苦手だ。
指を掛けていた細口のケトルから手を離し、調理台の縁に手をついては窓の外に目を向けた。暖かな日差しの射し込む外はひらひらと薄紅の花弁が舞い落ち、淡い緑の若草が風に揺れては心地よさげにその身を揺らしている。
絵に描いたような春の陽気だ。
だれもかれも、きっと太陽のもとにくり出て、冬に凝り固まった身体を解し、ぐぅっと広がる青空を仰いで手を伸ばしたくなるほどの快晴。けれど、そんな鬱蒼とした気分も晴れ晴れとしそうな小春日和が、昔から自分はどうにも苦手だった。
否、苦手になってしまったと言う方が正しいか。
春は、彼女が――なによりも愛しい存在が、どの季節よりも好きだと語り、そうしてそんな彼女を失った季節でもあるから。
深々と長い息を吐き捨て、まったくもって情けないもんだ、と。誰に言うでもなく肩を竦める。
春の陽気から逃げ出すように無意識に目蓋を閉ざせば、ぼんやりとまなうらに浮かぶ影にくちびるを噛み締めて、結局すぐに絡めた睫毛を解いた。
「ヴィー……」
ぽつねんと零した名に応える声はない。
ただ、窓の向こう側。陽光の照らす庭先に、在るはずもない愛しい白が浮かんだ気がした。
バカバカしい。
単なる幻影だ。そうわかっていても、体はどうにも理性をかなぐり捨ててしまったようで。あともさきもなくたまらず駆け寄るようにして窓際へその身を寄せた。
だども、所詮は春の見せた幻影。ひとつ瞬けば幻は幻らしく霧散し、影すら残さずに消え失せる。
言い知れぬ感情が胸を締め付け、息苦しさに胸元のシャツを握り締めた。
わかっている。幻影だ。ただの幻なのだ。アレは。
実体などあるはずもない。触れられもしなければ、永遠にそこに在ることもなく。ただ消えゆくだけのもの。
彼女はもう二度と笑いかけることなどないし、姿を見せることも、言葉をかわすことも叶わない。
知っている。ちゃんと、理解している。
もう、十数年にもなるのだ。現実はきちんと受け止めているし、己の罪だって正しく自覚している。自覚しているからこその『今』だ。
彼女のいない世界で、彼女のいない時を生きる。それを贖罪としたのは、他でもない。自分自身なのだ。
「──ちゃんとわかってるよ」
窓の外。広がる景色に背を向け、ケトルを火にかける。そうしている間にすっかり湯気の消えたポットから湯を捨て、壁に備え付けた小棚からアールグレイの茶葉が入った缶を選び取った。
温めたポットにざっざっと茶葉を目分量で振り入れ、ほのかに香りだす匂いに口元を緩める。
揃えのティーカップをみっつ。トレーに乗せてその横に同じ小棚から取り出したジャム瓶を添えれば、しゅんしゅんと沸き立ちはじめたケトルの火を落とした。
数秒おいて高い位置からポットへ湯を注ぎ入れ、蓋をする。茶葉が開くのを待たずにトレーに乗せてキッチンからリビングへと向かおうとしたところで、不意に足元からぷすこと控えめな『声』が聞こえてきたのに足を止めた。
瞬きをひとつ。おもむろに声のした方へ目を向ければ、そこにはいつの頃からか見慣れた青が佇んでいる。
常よりもいくらか控えめなその声は繰り返し同じ音を出しては何かをこちらに訴えているようで。さりとて彼らの『言葉』を理解できない自分ではその意図を汲み取ることは叶わない。はて、どうしたものか、と助けを求めてリビングの方へと目を向けてその意図に合点がいった。
──あぁ、なるほど。そういうことか。
これなら、彼らの言葉をわからぬ自分でも、その想いを汲み取ることはできる。
リビングの隅。この家のどこよりも日当たりの良い場所に置いたソファーの上に、仲良く肩を寄せ合うふたりの姿が見える。うつら、うつらと船を漕ぐ頭はまるで互いが互いを支えるように触れ合っていて、どうにもまた読書中に夢の世界へ誘われてしまったようだ。
ああ、いや。違うな。きっと、先に眠ったのは息子の方で。彼女はそんな息子の寝息と春の陽気につられてしまった。そんなところだ。
まったく、もう。これで何度目だ。なんて、吐いた溜め息はどことなく優しい色を含む。
休憩がてらのティータイムは、残念ながらお預けのようだ。
どうせ茶葉のストックはまだまだ残されている。目が覚めてから入れ直したとて、なんの手間でもない。
「さて、じゃああの子たちに変わって、君たちに付き合ってもらおうかな」
ひとりきりのティータイムは寂しいだろう、なんて。いつだったか、彼女の言ったセリフをなぞり言う。
あの頃は、そんなことない。お茶の味なんてどれも同じだ。成分も何も変わらないのだし、所詮飲み物はただ喉を潤すだけものも。他の意味なんて不随しようもない。そんな風に可愛げのない言葉を返しては、忙しなく動かした手を止めようともせず。最終的には友人と揃って彼女に鉄槌を食らわされていたのだ。
それが真実だと思い知ったのは、研究の合間に紅茶を淹れてくれる存在も。隣で共に頭を悩ませては唸り声をあげた存在も。なにもかも、すべて失い独りになってからのこと。
自業自得だ。
知ろうとも、知りたいとも思わなかった。
ただ、これから先も。いつまでも。なにがあったとしても、揺るがないものだと。失われることのないものなのだ、と。勝手に信じては、思い込んでいた。なんとも愚かしい話。
確かなものなど、どこにもなかった。
永遠に続く時間など、在りはしないのだと。他の誰でもない。自分は身を持って知っているというのに。
「……本当に、愚かしい」
これだから、春はどうにもダメなのだ。
胸の奥底。巣くう嫌悪感に辟易する。
忘れるな。彼女が居たことを。彼女の言葉を。
覚えていろ。友の犯した罪を。己のためにと為した過ちを。
細く息吐き、呼気の尾を嘲笑で締めたところで、不意にぷすこぷすことやっぱり控えめな声が耳元から聞こえて、ハッと我に返る。
傍らに目を遣れば、いつの間にかふわりと浮いて肩に座った青のおぼろげな輪郭をとらえる。ぷす、ぷすこと尚もなにかを訴える声と頬に触れる短い手は、まるで自分を慰めてくれているようだ。
はたとひとつ瞬き、そうして頬を緩めては目を細めてみせる。
あーごめんごめん。ほら、行こう。ふたりには秘密な。そう悪戯に言い置いて。その頭を軽く撫でてキッチンへ足を進めれば、自分もだといわんばかりにまた一匹、また一匹と手のひらにすり寄ってくるのに、たまらず吹き出しては零すから席についてからと言い聞かせていくらか軽くなった呼吸を胸へ送った。