ずるいひと「着ないのか」
落ち着いたクラシックサウンドが耳を撫でる。
それを追いかけるように危機馴染みの良い声がタンっと短く耳朶を打って。はたと眸をひとつ瞬いた。
よく知る喫茶店の一角でのことだ。
落ち着いた雰囲気と素朴な手作り菓子。それからおいしい手料理が売りの通い慣れた店の、定位置になりつつある窓際の二人掛けの一席。ほのかに橙色に変わった日差しが柔らかく手元を照らし、薄く浮いていた汗はもうすっかりと姿を消して、乾いた肌が空調に触れた。
注文したアイスコーヒーが代わりと言わんばかりに結露を滴らせ、コースターに染みていく。
右から左へと通り過ぎかけた言葉の尾を掴み、咀嚼すれば、乾いた唇から押し出された呼吸が芳しい香りに満ちた空気を揺らした。
「なにを」
掠れた声に咳ばらいを一度。誤魔化しついでにストローに口をつける。
甘みの少ないコクのある苦みが喉に心地よい。
やっぱり、ここのブレンドは好みの味だな。ふと、そんな言葉が現実逃避よろしく過って。けれどすぐに店内に響くヴァイオリンの音色によって、無慈悲にも現実へと引き戻された。
もう、幾度となく耳にしてきた旋律だ。
紡ぎ出すメロディーは変ろうとも。奏でられる音色は、つい先刻、舞台上で堂々と胸を張っていた幼馴染の姿を、自然と思い起こす。
前に目を遣れば、涼やかな眸と視線が交わった。
薄く口紅のついたストローを指で拭う。芳しい香りの空気が、不格好に喉を通った。
これから形作られるだろう言葉の予想は、なんとなくついている。どうか、それが杞憂で棲みますように。ただの、予想のままで終わりますように。あわよくば、口に出されませんように。なんて、願ったところで悲しきかな。想いは、神に届かぬまま。無慈悲にも放たれた言の葉が、かろ、と崩れる氷の断末魔に混じった。
「ドレス」
ああ、ほら。やっぱり。頭を抱えたくなる衝動をこらえ、唾を喉に流す。
いきなりどうしたのか、と。取り繕って尋ねれば、今度は相手が眼を一度瞬かせる番で。軽く傾げられた小首が、頬に美しいプラチナブロンドを滑らせた。
「そういう話を、していただろう」
伸びた指が、テーブルの上からカップをさらう。
まだ薄く湯気のたつそれを口元に傾けて、ひとくち。こちらの手元にあるのと同じ色をした液体が、細やかに喉を鳴らした。
ルーの、言う通りだ。確かに、していた。
アロマちゃんは着ないの。ドレス。そんな風に無邪気な瞳で見上げられ、尋ねられるのは、なにも昨日、今日にはじまった話じゃない。それこそ、幼馴染のひとりであるラヴァの演奏会の日には、いつだって話題にあがるモノだった。
いまさら。そう、いまさらだ。
いまさら、どうしたというんだろう。
いまのいままで、ルーのくちからそんな話題を耳にしたことなんてなかったと言うのに。
何度尋ねられたって。誰に尋ねられたって。答えは同じ。
それが、たとい、ラヴァであろうと。ルーであろうと。ティーであろうと。変わることはない。
「着ないよ。ガラじゃない」
テーブルの下。組んだ足を入れ替える。
濡れたグラスの側面を指先で撫で滑り、拭った雫を手のひらに閉じ込めた。
当然だ。ガラじゃない。ラヴァやティーが纏うような愛らしいトレス姿より、パンツスーツの方がよっぽど性に合っている。
――憧れが、ないこともないけれど。
ひらひらと愛らしいドレスは、ラヴァやティーにこそふさわしいものだ。
自分になにが似合うかくらい、とうに理解した。
自分の中で、当たり前になったことだ。もう、いまさらどうにかしようとも思わないし、どうしようと思うこともない。
「それに、ふたりをエスコートするならこっちの方がいいだろ」
手を払い、肩を竦める。
広げて見せた手のひらに、交わる双眸がわずかばかり見開かれて。うすく開いたくちびるが噤まれた。
なにを、考えているんだろう。
紡がれようとした言葉の代わりに、吐き出された嘆息が手にしたカップのこげ茶けた湖面を揺らす。くゆる湯気が芳しい香りを鼻腔へ運んで。カラン、コロン。と、鳴り響く鈴の音が、穏やかな店主の声に重なった。
またひとくち。口元に運ばれたカップが、ほんの少し中身を減らして、テーブルへと戻される。
「似合うと思うけどな」
ぽつねんと、独りごちる声量に似た言の葉が、確かに鼓膜を震わせる。外した視線を再度戻せば、きっと幼馴染である自分たち以外が目にしたってわからないくらいに小さく微笑むルーの姿が見えて。らしくもなくテーブルに額を打ち付けた。
「あーもー、そういうとこ」
ずるい。嘘じゃないって、わかるから。本音でしか言わないと。お世辞なんてものじゃないと、わかるから。
――そういうヤツじゃないってことを、知ってしまっているから。
かぁっと、らしくもなく頭のてっぺんまで昇った熱が、頬を夕暮れ色に寄せていく。それを、目の前にいるルーに見られるのは、なんだか負けてしまった気がして。可愛げもない唸り声を喉の奥に響かせながら、濡れたグラスの側面に、熱い額を押し付けた。