【00】鳥の王(前編)序
それにはカタチというものがなかった。
手もなく、足もなく、顔すらなかった。
だが、それは確かに『視た』のだ。
緑の木々の隙間から広がる青い空を。
まるで己を護り覆い隠すように集まる鳥達を。
柔らかな羽毛に包まれ、それは存在しない瞼を、そっ、と閉ざした。
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コツコツ、コツコツ、と慎重に石壁を叩いているニールに背を向け、周囲を警戒しているグラハムの口から不意に、はぁ……、と小さく息が洩れた。坑道のような薄暗い通路が何本も走るこの場所に来てから、かれこれ三時間は経ったであろうか。ニールのこの動作は既に数え切れないほど繰り返されていた。
「疲れたか?」
小さなものであったがニールの耳にはしっかりと届いたようで、振り返りもせずそう口にすれば、グラハムは「いや、キミの方が大変だというのに申し訳ない」と素直に詫びの言葉を口にした。
「いいって。これが俺の役割なんだし」
話しながらも作業の手を止めないニールの背中に再度、詫びの言葉を投げ、グラハムは周囲に気を張り巡らせつつも今に至るまでの経緯を思い返し、再度、溜め息をついた。
グラハムは懐が少々どころかかなり厳しいところまできていたこともあり、また、どの紹介所にも登録していないフリーの冒険者でも可ということもあり、ロクすっぽ依頼内容も見ずに仕事に飛びついたのだが、我慢弱く落ち着きがないと自負していたがそれが浅はかであったことを嫌でも思い知らされることとなった。
雇い主は財力に物を言わせ手当たり次第に集めた冒険者、探検者を、これといった選出基準もなく、要はいい加減にその場で組分けし、入り口付近の内部地図すらも出回っていない遺跡探索に送り出したのだ。
人海戦術でどうにかしようという単純な思惑が見え見えで、集められた者の間から失笑が洩れたが、報酬額の高さからか異論を唱える者は居なかった。
行動を共にする相手の素性も実力もわからないままに、背に腹は変えられぬとグラハムも雇い主に逆らうことなく、組んだ男と共に遺跡へと足を踏み入れたのだった。罠に関してはからっきしだが、それでもなんとかなるだろうと、それなりに自分の腕と運に自信があっての行動であった。
初めは軽口を交えつつ固まって移動していた見ず知らずの一団が、分かれ道にさしかかる度に相談するでもなしに右へ左へ姿を消し、流れるようにグラハム達も自然と一団から離れていった。それから幾度か分かれ道にさしかかり、気が付けば他の者の姿はなく、遠くで足音が反響するだけとなっていた。
二人きりになったというのに、グラハムの相手は一言も口を利く気はないらしい。だが、名前すら知らないのでは些かやりにくい。
「自己紹介といこうではないか」
快活にそう口にすればグラハムより高い位置にある翡翠の瞳が、ぱちぱち、と驚いたように数度瞬いた。
「……意外だな。この場限りのお付き合いだから、そういうのはナシかと思ってたぜ」
「何を言うか。生死を共にするのだ。当然のことだろう」
「大袈裟だなぁ」
はは、と笑うもそこに不快感はなく、男は緩く髪を掻き上げてから「ニール・ディランディだ。主属性は風な」と告げた。
「私はグラハム・エーカー。属性は雷と火の混合だ。よろしく頼む」
「へぇ、複数属性持ちか。珍しいな、アンタ」
「よく言われる」
さらり、と返されるもその面に浮かぶ嫌味のない笑みに、ニールは悪人ではなさそうだとの感想を抱いた。
「そうだ、エーカー」
「グラハムでいい」
即座に繰り出された訂正にニールは軽く頷くと、突き当たった行き止まりの壁を眼だけで見上げ、次いで、ぐるり、周囲を見回した。
「お前、探査の方はどうなんだ?」
「自慢ではないがサッパリだ。私は道理を無理でこじあけるタイプなのだよ」
包み隠さず、あっさり、と言ってのけたグラハムに、ニールの眼が驚愕のためか見開かれたかと思いきや、一瞬の後に大きな笑い声にとって変わった。
「なんか、すげーなアンタ」
ひーひー、と笑いすぎたせいか眦に涙さえ浮かべているニールに気分を害した様子もなく、グラハムは平然と問い返してくる。
「そういうキミはどうなんだ?」
「おう、免許皆伝の腕だぜ」
本気か冗談かわからないことを愛嬌たっぷりのウィンクと共に言ってのけた後、ニールは早速、作業に取りかかったのだった。
そして話は冒頭に戻る。
ここまでくればニールの腕が確かであることは明白であった。「この方が早い」との理由でわざとトラップを発動させる剛胆さすら好ましいと、グラハムは彼と組んだ僥倖に感謝すらした。
今回はきちんと手順を踏んでトラップを解除したニールが振り返れば、グラハムは油断なく辺りに視線を走らせつつも、どこか困ったような表情をしていた。
「どうした」
「いや、その……」
もご、と一瞬口ごもった後、グラハムは困り眉のまま真面目な顔でニールと向き合った。
「我々はなにを探しているのだ?」
その問いかけには、さすがのニールも唖然とせざるを得なかった。暫し、グラハムの顔を凝視し、やっと出た言葉は「本気で言ってる?」であった。
「無論だ」
からかっているわけでも冗談を言っているわけでもないと、グラハムの表情と声音が告げている。
「依頼内容も知らずに依頼を受けるなんて、アンタ大丈夫か?」
「雇用費とは別口で成功報酬が出るというのでな」
「つまりは、条件しか目に入らなかったと」
詰問調ではなく淡々と問われ、グラハムは躊躇うことなく、コクリ、と首を縦に振った。
ともすれば命を落とすやも知れぬというのに、この男は冒険者として大丈夫なのか? と考える前に、ニールはグラハムと行動を共にしなければならない己の不運を少々、呪った。
「ある意味大物だな、アンタ」
ニールはトラップ解除後に現れた新たな扉を押し開き、すたすた、と歩きながらそれでもグラハムに説明してやる。
「目的は『鳥の王』だ」
「『鳥の王』とな? それは如何様なモノなのだ?」
遅れることなくニールの背に続いて扉をくぐったグラハムが問うても、相手は軽く肩を竦めるだけである。
「キミも知らないのか?」
「あぁ、知らない。だが、俺だけじゃないぜ。ここに来た誰もが、雇い主ですらそれがなにか知らない」
「なに?」
下手な謎掛けのようなニールの言葉にグラハムは眉を寄せ、説明してくれと言わんばかりに相手の顔を、じぃっ、と見つめた。横顔に突き刺さるその視線に「参ったなー」と言わんばかりに眉尻を下げるも、ニールは歩みを止めずに真っ直ぐ前を見据えたまま聞いたことをそのまま説明し始める。
「どこぞで手に入れた古い書簡に、ここのことが書いてあったらしい。だがそれも解読困難なほど傷みがひどく、場所以外でわかったのは、『鳥の王』『偉大なる』『器』『眠りし』『統べる』『天空』この単語のみということらしい」
「たったそれだけの情報で……探索?」
「そうだ」
眼をパチクリさせた後、内容が脳に染み渡ったのか呆れた笑いを浮かべるグラハムに、ニールも同様に苦笑を浮かべ応じる。
「探している物がどういったものか、誰もわかっていないからな。逆に言えばそれらしい物であれば、なにを持っていっても構わないと言うことだ」
次いで発せられたニールの言葉に、更に呆れを増すグラハム。
「なんと愚かな……」
「金持ちの道楽ってヤツだろう。それにわかっている単語が単語なだけに、夢見ちゃったんだろうねぇ」
王様なんて面倒臭そうなのにな、と洩らすニールに、グラハムは同感だと言わんばかりに頷いて見せた。
「まぁ、いいか。とにかく俺はこの仕事がこなせれば文句はない」
「それにも同意しよう」
お喋りは終わりだと足を早めたニールの肩が、ぴくり、と揺れた。何事かと問いかけようとしたグラハムも、一瞬遅れて原因がわかり、はっ、と口を噤む。
足元に感じる微かな振動と、低い響き。
「……崩れたな」
他のグループが罠の解除に失敗したのか、はたまた朽ちかけていた通路が自然に崩れたのかは定かではない。だが、この胸騒ぎはなんだと、グラハムは慎重に辺りを見回し始めた。
そして、ややあって届いたのは、最悪の事態を告げる声であった。
それは最早、言葉ではなかった。
悲鳴。
怒号。
絶叫。
声がしたと思しき方向を振り仰ぎ、即座に走り出そうとしたニールの腕を、グラハムは間一髪のところで捕らえた。
「どうするつもりだ」
「決まってんだろ!? 助けに行くんだよ!!」
「無策で飛び込むなど愚の骨頂だ」
掴まれた腕を振りほどこうと乱暴に身を捩るニールにグラハムは一歩も引かず、強い口調でその行動を諫める。ニールとて彼の言っている事が正しいと、頭ではわかっているのだ。だが、今尚途切れぬ混乱の声と恐怖の叫びに、気持ちは急くばかりである。
「なにも行くなと言っているのではない」
抵抗の止んだニールの腕を解放したグラハムは、何を思ったか先んじて早足で通路を戻り始め、ニールは彼の予想外の行動に慌ててその背を追う。
「カードはなにか持っているか?」
ニールが追いついたことを足音で判断したか、グラハムは振り返りもせず端的に問いかける。
「あ、あぁ、補助系と攻撃系は風をメインに他属性もいくつか」
魔力の封じられたカードはそれぞれ固有の発動言語を唱えれば、その力が解放される。魔術師でなくとも魔術が使え、その上カードが破損しない限り繰り返し魔力をチャージすることができるという便利な道具だが、カード一枚の価格も高価で自力で魔力チャージできない者は専門店に依頼することとなり、かなりの額が必要となる。
それ故、カード保有者は熟達した冒険者、ないしは貴族などのパトロンが居る者が大半である。
「なるほど。私は雷がメインとなっている。ちなみに補助系は一切所有していない」
迷路のような通路を遠くに聞こえる悲鳴と戦いの音を頼りに進みながら、グラハムは肩越しに、ちら、とニールの顔を伺った。
「キミは後方支援型とみた。どうかね?」
「その通りだ」
腰に剣を携えてはいるがそれはあくまで補助武器で、ニールの主武器は背負っているクロスボウだ。
「結構。ならば援護を頼みたい」
状況によっては即時撤退も有り得るがな、と恐慌をきたし逃げ惑う者と擦れ違う数が増えた時点で、グラハムは笑えないことを口にした。
そんな中でも比較的落ち着いている者を捕まえて問い質せば、どうやら当たりの部屋を引き当てたグループが居たらしい。そして当たりの部屋には居て当然の番人と、鉢合わせたということだった。
未だ絶叫と怒号が入り乱れているということは、怯まずに立ち向かっている者が居るということだ。その理由が報酬目当てであろうが、別の理由であろうがこの際どうでもいいのだ。大事なのはそこに勝算があるか無いかである。
半壊した扉の影から、そっ、と中を窺ったグラハムの眼に真っ先に映ったのは、有に二メートルを越える異形のモノであった。
倒れ伏した人であったモノを頓着せず踏み潰し、向かってくる者を容赦なく振り払う。頑健な拳が振るわれる度に、ごう、と空気が震えた。
「なんと。ゴーレムか……」
生命を持たぬ鉄の人形。
与えられた命令を忠実にこなす人形。
その活動を止めるには破壊以外、道はない。だが、その頑強さは並ではなく、容易なことではない。
目の前でまた一人、鉄の拳に葬られる。
グラハムに倣って身を隠しつつニールが室内に視線を素早く走らせれば、ゴーレムの背後で崩れ落ちた壁の下敷きになった者を、懸命に助け出そうとしている者の姿が複数確認できた。
「彼らの救出が最優先だな」
「では私が囮になろう。その間にニールは彼らの元へ行きたまえ」
そう言うが早いかグラハムは腰のホルダーからカードを一枚引き抜き、たっ、と軽やかに室内へ踏み込むや否や、ゴーレムに向かって魔力を解放した。
青白い稲妻はあやまたず直撃し、思惑通りにゴーレムはグラハムへと目標を変えた。その隙にニールは巧みに瓦礫を使って身を隠し、室内を移動しゴーレムの背後に回る。
二度、三度と眩い電光が室内に弾け、地を砕く轟音に、びりびり、と全身が震える。
鉄で出来たゴーレム――アイアン・ゴーレムは電撃に弱い。このゴーレムを倒せる可能性があるのは、属性が雷であるグラハムだ。
他の者も自分の属性以外の呪文が使えないわけではないが、属性と呪文系統が合致した際の威力は桁違いなのだ。それがわかっているからこそグラハムは囮を買って出たのだと、ニールは彼の冷静な判断に感心し、それを上回る無謀さに呆れた。
グラハムの攻撃は確かに効果を上げている。だが、未だゴーレムが機能停止する気配はない。
自力で動けぬ負傷者の応急手当を一通り終え、崩れかけた天井から、パラパラ、と砂や石片が降る中、ニールは安全なルートを先導しグラハム以外の者を無事に室外へ逃がすと即座に踵を返した。
「グラハム! こっちは片付いた!!」
「了解した!」
牽制しつつ、じり、と後ずさるグラハムの意図を察したかのように、ゴーレムの拳が回り込むように外から内へ横に薙がれる。咄嗟に前方へ飛んだグラハムは、ちっ、と短く舌打ちを洩らした。
「なんと情熱的な引き止め方だ。そう簡単には帰らせてもらえないらしい」
「冗談言ってる場合か!」
防御系のカードをグラハムに向かって発動させたニールが怒鳴るも、グラハムは「その支援に感謝する」と涼しい顔だ。
「あーくそ。ついでにこれもくれてやるよ」
出し惜しみはナシだ、とニールは『加速』のカードも使う。動きは素早くないがゴーレムはその巨体故、攻撃範囲が広い。だからといって遠距離から仕掛けては、呪文の威力は半減してしまう。常にギリギリの位置を見極め、最大限の攻撃を与えなければならないのだ。一歩でも間合いを見誤れば、あちらこちらに散らばる骸の仲間入りである。
「手詰まりになる前に決着をつけたいところだが」
カードの残り枚数にグラハムは秀麗な眉を寄せる。ゴーレムの頑健な拳に砕かれた床が不規則に大穴を開けており、足場にまで気を配るとなると集中力も長くは保たないことが容易に知れた。
立て続けに拳を繰り出し、かわされてもお構いなしに床を殴打するゴーレムに、再度グラハムの口から舌打ちが洩れたその時、こつん、と肩口に何かが当たった。
はっ、と頭上を見れば大きく走った亀裂が見る間に広がり、声を上げる間もなく轟音と共に崩れ落ちてきた。
ニールのかけてくれた加速の恩恵もあり、瓦礫を間一髪でかわしたグラハムが僅かに安堵の息を吐いた刹那、ガツン、と衝撃が彼の全身を襲った。
「…ッぐぅ……ッ」
「グラハム…ッ!」
もうもうと上がる砂塵に視界を覆われ、グラハムの様子が全くわからない。ニールはそれでも懸命に眼を細めて、大声を張り上げる。
ニールの声が届いているのかどうか。鉄の腕に横薙ぎに払われ、壁際に設えられた祭壇と思しき物に突っ込んだグラハムは、ピクリ、とも動かない。
ここで彼を失えばこの戦い、勝機はない。
彼が息絶えているのならば、これ以上の戦闘は無意味だ。
生死を確かめようにも、振り下ろされるゴーレムの腕に阻まれ近づくことすら出来ずニールは、ギリ、と奥歯を噛み締めた。
だが、ニールのかけた『シールド』の効果はまだ消えていないはずである。常ならば即死確実なダメージであったとしても、まだ望みはある。
「グラハムッ! 生きてるなら起きろ、グラハム!!」
出来る限りゴーレムを自分に引き付けるために、ニールは属性など一切構わず立て続けに攻撃系カードの魔力を解放する。
「……う…」
低い呻きと共に、うっすら、とグラハムの瞼が持ち上がる。意識を取り戻したグラハムは自分の状況が把握できず、ゆらゆらと揺れる視界と痺れてうまく動かない身体に一瞬戸惑うも、必死にグラハムの名を呼ぶニールに気づくと荒い呼吸を押し隠し「大事ない!」と腹の底から叫んだ。
途端、こみ上げてきた熱い塊に激しく噎せ込み、祭壇を覆っていた白布に、ビシャッ、と朱が散る。
「なんの、これしきのことで……」
壊れた祭壇の残骸から抜け出そうと藻掻き、再度、朱を吐き出す。
はっ、とどこか自嘲気味な笑みに唇を歪め、ニールを無事に逃がす責任が自分にはある、と荒い呼吸を繰り返しつつ、ゆっくりと上体を起こす。
「このような、死に……方は、全くもって……本意ではない、のだが……」
震える指でホルダーからカードを取り出すと、しげしげ、と眺め、薄く笑う。
珍しい物を手に入れた、と学院勤めの友人に手渡されたカード。
使うことなどないと思っていたカード。
それでも持ち続けていたのは、このような日が来ることを、心のどこかで覚悟していたからか。
己の全てと引き換えに、対峙する者を滅するそのカードの名は『混沌』。
使った者は輪廻の輪から外れると、そう噂されるほどの強力なカードである。
「これで偽物だったら、目も当てられんな……」
戯けたように口にしながら、すぅっ、と腕を伸ばす。小刻みに揺れる腕をもう片方の手で支え、ゴーレムに狙いを定める。
一度、目を閉じ、深く息を吐く。
再度、瞼を開けた時には、腕の震えは止まっていた。
ひたり、とゴーレムの背を見据え、声無き声でコマンドワードを呟いた。
刹那、闇の腕に抱き込まれたかのように、意識が、ぐい、と引き寄せられたのがわかった。
どこまでも堕ちていく反面、現実世界も見えている。どぅ、とゴーレムが倒れ込んだのを確認し、その向こうに突然のことになにが巻き起こったのか理解できていない顔のニールが見え、グラハムの口許に微かな笑みが浮かんだ。
我ながら愚かしい、と視界を閉ざそうとしたその時。
――くれぬか?
不意に触れてきた意識にグラハムは目を見張った。
――その器、手放すならくれぬか?
「器、とは……? あぁ、身体のことか……」
閃くように相手の求めているものが理解でき、グラハムはゆっくりと瞼を伏せた。
「あとは朽ちるだけの死にかけのこの身体で良ければ、好きに使うがいい」
緩慢に沈み逝く意識を敢えて保とうとはせず、存在が消える瞬間まで彼は穏やかな笑みを浮かべ続けた。
視覚も聴覚も触覚も消え失せる刹那、ぐい、と引き上げられる感覚と共に、グラハムは鳥の羽ばたきを確かに聞いたのだった。
腹部に広がる柔らかな熱を感じ、グラハムは小さく呻くと重たい瞼を無理矢理持ち上げた。
視界に入ってきたのは石造りの天井。少し視線をずらせば傍らに膝をつくニールの姿が目に入った。彼の手はグラハムの腹部に置かれたカードに添えられたまま、ぴくり、ともしない。まるでその手を離したら、効果が無くなると言わんばかりである。
「……無事で何よりだよ、ニール……」
掠れる声で名を呼べば、ニールは弾かれたように顔を上げ、一瞬、浮かんだ安堵の笑みを気取られないように、わざとしかめっ面を浮かべて見せた。
「なんだ、死ななかったのか」
「癒しのカードを使っておいてよく言う……」
ニールの手を借りて上体を起こしたグラハムは、握ったままであったカードに目線を落とし、ゆるゆる、と頭を振った。
「歩けるか?」
「あぁ、なんとか」
なに喰わぬ顔でカードをホルダーへ戻し、立ち上がろうと手をついた際、其処にあった小箱に指先が触れた。恐らく、自身の吐いた血で染まったであろうそれにグラハムは僅かに眉を寄せるも、深く考えずに拾い上げる。
長い年月を経たところに思わぬ衝撃を受けたせいか、貼られていた封紙は破れ、最早、用を成さなくなっていた。仮に封紙が無事であったとしても、彼はお構いなしに蓋を開けていたに違いない。
ぱかり、と蓋を持ち上げ、その中身に背が強張った。
収められていたのは、小さな鳥の亡骸。
その小さな身に幾重にも巻かれた封印と思しき札。
『あぁ、そうか……』
あの意識は。
あの羽ばたきは。
「グラハム? それなんだ」
小箱を手に微動だにしないグラハムを不審に思ったかニールが問いかければ、グラハムは静かに蓋を閉じ、伏せた睫を微かに震わせた。
「『鳥の王』だ」
偉大なる王も消えかけていたのだ。
この闇の中、たった独りで。
同じ境遇に陥ったグラハムを共に現世へと連れてきたのは、厭わずその身を差し出した者への彼の慈悲か。
言葉無くただ見つめているニールになにを言うでもなく、グラハムはなにかを振り払うように頭を一振りすると、足元に転がっていた銀杯を、ひょい、と拾い上げた。
「これが書簡にあった『器』だと言ったら、報酬を貰えると思うかね?」
「ダメで元々だ。持ってけ持ってけ」
ふざけたようにお互い笑い、部屋を後にする。
だが、通路を抜け外に出れば其処には人影は一切無く、いくつもの轍の跡が残されているだけであった。
「薄情だなぁ」
「そんなものだ」
あっさりと言い放ち、轍の跡に沿ってグラハムはさっさと歩き出した。こんな処に長居は無用と言わんばかりのその態度に、ニールは同感だとその背を追った。
ピチ、チチチ、と鳥たちが囀る中、黙々と轍の跡を辿るニールの横では、グラハムがやたらと辺りを、きょろきょろ、と見回しながら歩いている。
「おいおい、転ぶぞ」
ただでさえも凹凸の多い山道である。そんな道で上ばかり見ていては、いつ転んでもおかしくない。
「考えたんだけどさぁ」
「なにかね?」
忠告を受け入れたか、素直に前を向いて歩き出したグラハムにニールが、ぽつり、と話を切り出した。
「アンタ、フリーなんだろ? もしよかったら俺が登録してる紹介所に来ないか?」
突然のお誘いに、は? と間の抜けた声を上げたグラハムに、「大きなトコじゃないけど、イイヤツばっかだぜ」とニールは笑顔で告げる。
「折角だが断らせてもらおう。私にもいろいろとあるのだよ」
気を悪くしないでくれ、と詫びるグラハムにニールは残念そうな顔をしたが、直ぐ様、人の好い笑みを浮かべた。
「いや、こっちこそ勝手言って悪かったよ。でも、気が向いたら来てくれよ。歓迎するぜ」
ぽん、とグラハムの肩を一叩きし「この先の町までは一緒でいいよな?」と問うてきたニールに頷き返し、グラハムは、再び、ぐるり、と頭を巡らせた。
――王だ。
――王がお戻りになられた。
――戻られた、戻られた。
『残念ながらキミ達の王は就寝中だ』
鳥たちの歓喜の歌声にグラハムは困ったように笑うしかない。
「ここいらの鳥はやかましいな」
ぶつぶつ、とぼやくニールに「なにかいいことでもあったのだろう」と何食わぬ顔で返し、グラハムは空を仰いだ。
王は今、静かに眠っている。
彼が目覚めたときなにが起こるのか。
生かされたこの身はどうなるのか。
「あぁ、空はこんなにも遠いものであったのか……」
ぽろり、と零れ落ちた言葉は果たしてどちらの言葉であったのか、それはグラハムにもわからなかった。