太陽 クレイン・オールドマンは悪魔の討伐を重要視している神父である。通常の神父としての業務も行ってはいるが、暇を見付けては鍛練に明け暮れ、各地を飛び回っては悪魔や悪魔信仰者を討伐していた。
その神父が現在訪れている村は比較的状況が落ち着いており、村人を管理し通常通りの生活をさせることすら可能な村だった。
……この村に悪魔が潜伏しているという情報を神父が入手したのは数週間前である。準備を整え現地へ向かった彼は瞬く間に現地の聖職者たちの信頼を勝ち取り、空き家を丸々ひとつ拠点として手に入れた。そして、手に入れた二日後にはその家と周辺は要塞となった――見た目は何も変わっていないが対悪魔を想定した結界と罠が何重にも仕掛けられた――。
そして現在、神父はその家の寝室で眠っていた。月はとっくに中天を通りすぎ、夜の空気は静まり返っている。……その空気にふわりと異質な匂いが香った。花のような、腐った果実のような匂いだ。
闇が凝り固まるようにして、部屋の中に人影が出現する。その人影はゆっくりと神父へ近付き、触れようと手を伸ばす。
指先が触れるか触れないか。突然床から飛び出したもの――強いて言うなら鎖状の光――が人影に絡み付きその体を拘束した。
「……ッ!?」
と同時に、寝室が溶けるように消え、周囲の景色は家の庭のそれとなる。目眩ましの術式が組まれていただけで、彼らがいるこの場所は本当の寝室とはずれた位置にあったのだ。
神父がそうまでして罠の設置場所――そのまま悪魔と対峙する場所になる――を寝室から離したのには、悪魔を退治した後に休養することになる場所を汚したくないという理由以外にも私的な感情――夜魔の類いと寝室で対峙したくない――が大きく影響していたが、蛇足である。
そうして神父はおもむろに起き上がり、人影の方を見た。
幼い少年の姿である。角や翼こそ無いが、かすかに漂う匂いと悪い毒のような空気が少年の正体を主張していた。神父は怯む様子もなく、片手に鎚を握って寝所から降りる。
「僕が何をしたっていうんだよ! 死なない程度に人間の精気を頂いてただけだ、お前らだって食べなきゃ生きていけないだろう!?」
本能的に危険を察知したのか、悪魔は怯えるように捲し立てる。それを見やる神父の表情は変わらない、無感動で凪いだ眼差し。
「知るか、死ね。お前たちは存在そのものが罪だ」
神父は鎚を構え、……無造作に振り下ろした。振るわれたそれはあやまたず悪魔の頭を割り、首を折る。光の鎖は弾けるように消え――二日かけて組んだ術式でもこの持続時間である、人間は悪魔に対してこんなにも無力だ――、ぐらりと傾き地面へ転がった悪魔の体を無表情に見下ろした神父は懐から長く細い銀色の鎖を取り出した。
そして、悪魔の体にその鎖を結わえつけ始める。腕に取り付けた鎖は勝手にきりきりと締め上げ、足に渡した鎖は自ら地面へと食い込んだ。華奢な少年の体が無慈悲に縛り上げられる様をあわれに思うような人間はこの場にはおらず、そのまま拘束を完了して立ち上がった神父の表情は朝食でも食べるときのよう。
「……、……さて」
腰に下げていた水袋を外し、蓋を開ける。そして神父は水袋の中身を――清められた葡萄酒だ――地面へ垂らしながらぐるぐると悪魔の周囲を歩き始めた。その軌跡はどうやら魔法陣を描いているようだった。
途中で中身が切れたため二つ目の水袋に手を伸ばしたその時、神父は肌が粟立つのを感じ鎚の柄を握った。
視界の端で何かが動いたと思った瞬間、神父の体は何かに弾き飛ばされていた。
なんとか受け身はとったものの地面に叩き付けられ、咳き込みながら体を起こした神父は目をみはった。
悪魔の体が膨れ上がり、鎖が一本一本千切れとんでゆく。いびつな肉塊に萎びた人間の腕と頭が付属しているような形の醜悪な姿。触腕が数本、のたうつように地面を這っており、先程神父を弾き飛ばしたのはどうやらこれのようだった。
「おぞましい、化け物め……!」
神父は心底不快げに表情を歪めて鎚を握りなおす。
――恐らくはこちらこそがこの悪魔の本性なのだろう。人間のような人格や感情を保とうとする場合、器も人の形をしていた方が適しているというのが通説だ。人をたぶらかして情を交わすことによって魂を啜るならなおさら、その姿は取り繕われてしかるべきだろう。
鈍重そうな見た目とは裏腹に、悪魔は思いの外素早く攻撃体勢に入った。無造作に振り回された触腕が土煙をまきあげながら神父へと向かう。そのひとつひとつをいなす神父の表情は落ち着いているが、一撃一撃の重さに体力の消耗が激しいだろうこと――守りに入れば押し負けるだろうこと――は想像に難くなく、攻勢に回ろうとしているがなかなか上手くはいかない。
撤退するにしてもこの状況で背を向ければそのまま襲い掛かられて終わるだろう。何らかの方法で行動不能、あるいはせめて動きを鈍らせる必要がある。まだいくつか罠は残っている、そこへ誘導出来れば……と思案する神父はなんとか触腕を掻い潜り、ようやく己の間合いへ持ち込めたその勢いのままに鎚を振るう。いびつな肉塊のどこに骨や筋があるのかはわかりづらく、どの程度ダメージを与えられているのかも不明だが、何度目かの攻撃で肉が裂けたのを見るにまったくの無駄ではないようだった。
が。その裂けた傷口から肉色の細い触手が大量に溢れ出て、神父へと襲い掛かった。一瞬で全身に絡み付きぎりぎりと締め付けてくるそれに、神父は苦々しげに顔を歪めた。
……神父はけして未熟というわけではない。むしろ熟練に片足を突っ込んでいる。それでもこの有り様であるから、悪魔と人との戦いに希望などありはしない。絶望に溺れそうになっているのが現在の王国の実状であり、聖職者たちは穴の空いた船から匙で水をかき出しているのだ。
閑話休題。
ぬるつく触手の感触に背筋を粟立てながら神父はもがき、拘束から逃れようとするが叶わない。みしみしと肉の軋む音が聞こえる。生理的な涙で視界が滲み、……その視界の端、空の彼方でなにかがきらりと光る。
次の瞬間天から悪魔へ向かって真っ直ぐ光線が降り、直後一帯が閃光に焼かれ、反射的に目を閉じた神父が次に目を開けた時そこにはなかば炭化した悪魔の姿があった。
神父は唖然としたが、すぐに我に返り触腕の拘束から脱出する。まだ動く肉塊の醜悪さに眉を寄せながら、今の攻撃――攻撃と呼んでよいものか――が何処から与えられたものか確認するべく周囲を見回す。
――うつくしい生き物がそこにいた。
人間と同じ直立二足歩行のシルエットだというのに、その立ち居振舞いの優雅さときたら比べ物にならない。大きく一度羽ばたいた純白の翼、頭上に輝く光輪が眩しい。華やかな金髪と燃えるような目、主が作りたもうた奇跡の顕現、「天使」。
息を飲み見惚れかけた神父へ、その天使が視線を寄越す。緋色の目は燃えているのに、人間になど興味は無いのだと冷めてもいた。
「人の子よ、助力が必要ですか」
「! ご助力賜りたく!」
返答に天使はわずかに目を細めると、腰の剣を抜き放つ。光の気配を察知したのか、悪魔の体がぶるりと震えた。
……戦闘というよりもただ圧倒的な蹂躙であり、天誅である。天使の剣は振るわれる度悪魔の体を焼き、灰へと還してゆく。人の身では叶わない、悪魔を完全に「殺す」という行為を当然のように行っている。
一方の神父は天使の補助に徹していた――下手なことをすれば邪魔になるだろうと判断した――。天使を薙ぎ払おうとする触腕を叩き落とし、悪魔の意識を少しでもこちらへ向けさせようとする。気を散らせるというだけの行為も立派な支援になりうるのだと神父は知っていた。
その様子をちらと確認した天使は、短く聖句を唱えてから神父へ向けて十字を切った。……手足が軽くなり、鈍痛が遠ざかったことに気付いた神父は僅かに目を見開いたが、兎に角今は援護に集中するべきと表情を引き締めた。
交戦はほんの僅かな時間で終結した。周囲には硫黄の臭気と灰が舞っている。神父は短く祈りの言葉を呟くと、改めて天使の姿を確認した。
……戦闘を経てなお、その輝きには一片の曇りも無い。
「ご助力に感謝致します、天使様」
跪いて頭を垂れた神父へ、天使は鷹揚に頷いた。
「これからも主の為に励みなさい」
そして立派な翼を広げ、空へと舞い上がる。ぐんぐん小さくなる姿のうち、金色の甲冑の煌めきだけが最後まで見えた。
暗い緑の目は、どこか濡れたような色でそれを見送っていた。