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    魔法植物学科教師 黒崎蘭丸と新入生寮寮監 寿嶺二の話魔法学校生 黒崎蘭丸の思い出話魔法学校教師 寿嶺二の思い出話黒崎先生、13年越しの恋黒崎先生と寮監嶺二の事故寮監嶺二 過失の後始末黒崎先生が知りたい事、寮監嶺二が隠したい事黒崎先生は反省している寮監の旅の終わり(longing)寮監の旅の終わり(forgive me)魔法学校生 黒崎蘭丸の思い出話 この魔法学校の門をくぐって、四度目の春が来た。私物をあらかた片付けてしまいすっかり殺風景になった部屋を眺め、おれはここに来たばかりの頃をなんとなく思い出していた。
     
     
     数多ある魔法学校の中でも、本校で学べる専門魔法の種類の多さは群を抜いている。魔法使いとして必要な知識や、技術だけを学ぶのではなく、ここは君達一人一人が夢を探し叶えるための場所になるのです――
     入学式で学校長は、そんなことを長々と語っていた。おれは夢だの憧れだのそんなものは全く持たず、魔法適性のみでこの学校に入ったクチだ。ここで学びたいと強く願っても入学が叶わなかった奴らには申し訳なくなるくらい薄っぺらで、この式典が終わるまでとても居心地が悪かった。
     
     なぜか家族の中でおれだけが強い魔力を持って生まれてしまった。高祖父の先代の先代の兄弟の誰か辺りまで遡ればかろうじて魔法使いだったご先祖はいたらしく、両親は『お前の魔力は単なる隔世遺伝だ』と口癖のように言っていた。魔力を持っているからといってお前に才能があるわけではないと散々言い聞かされ、魔法に関しては何の教育も受けずに育てられた。
     多分、疎まれていたんだと思ってる。魔法使いの家系であればまた違ったのかもしれない。親も親族達もおれの事をおかしいと思ってたんだろうな。そうでもなければこの年まで魔法の魔の字にも触れてこなかったのに、ここにきて全寮制の学校へぶち込むなんてことはしないだろう。
     卒業したら魔法協会に入って便利屋でもやるのが手っ取り早い。生きていく為の飯の種になれば何でもいいんだ。
     
     魔法については素人以下のおれにとって、この時はまだ魔法使いなんてもんはその程度でしかなかった。
     
     
     入学してから一年間、授業では総合学として魔法の基礎を学ばされた。どうやらこれらは本来、子供の頃から少しずつ学んできているものだったり、魔法使いになる事を見据えてある程度学んでおくべき事だったりと、総合学の担当教師も含め、知っていて当然という雰囲気だった。でもおれにとっては全てが未知で、聞く事、見る物、全部が新鮮だった。
     そんなおれの反応が珍しかったのだと思う。この教師は日に日におれの事を気にかけてくれるようになり、ある実習で起きたちょっとした事件をきっかけに、おれはすっかり気に入られてしまった。
     
    『マンドレイク』
     マンドラゴラの名の方が知れているだろうか。人間の足のように二股に分かれた根で動き回り、地面から引き抜く際にはすさまじい悲鳴を上げるとされている。まともにこの声を聞くと精神に異常をきたす、発狂して死に至る……など、空恐ろしい伝説を持ったあまりにも有名な植物。
     自然に群生している中にはこの伝説通りの特性を持ったままの個体が多い。今日は一番安全な古典的方法で個体採取の実習をする、と言ったまではよかったが、なぜかこの教師はマンドラゴラの採取が絶望的に下手だった。
     教師が縛りつけたロープをすり抜け、まるでこの世の終わりが来たかのようなひどい悲鳴を上げて走り去ろうとするマンドラゴラを、おれは見様見真似で足に魔力を込め力いっぱい踏みつけて押さえ込んだ。小ぶりの個体だったのが幸いしたのか、死人が出るほどではなかったにしろ、殆どの生徒は目眩を起こし近くにいた何人かは倒れこんでしまっている。
     騒ぎの元凶であるその教師が生徒たちに一言二言声をかけている様子を見ていたら、満面の笑みを浮かべて俺の元へと駆け寄ってきて
    「きみ、この声聞いて平気なの?」
     目を輝かせながら平然とそうのたまった。
    「え、いや。平気、じゃないですけど。耳痛ぇし」
    「いやいや何言ってるの。普通は耳痛いじゃ済まないんだよこれ」
    「そっすよね、他のみんな倒れてますもんね……でも先生も平気じゃないですか」
    「すごいな、きみは元々強いのか……最初の頃は魔法の知識もからっきしだったのに、ちゃんと魔法式も組めてるね。ねぇ、よければぼくの研究の手伝いしてもらえないかなぁ。こういう植物扱ってるから耐性ある人探してたんだよね。もちろん成績に加味するし。どうかな?」
     教師はそう捲し立て、「あ、あと、これ捕まえてくれてありがと。足はもういいよ」と、おれが咄嗟にかけた足元の雑な魔法式を解いて、すっかり大人しくなったマンドラゴラを奪っていった。
     
     この日の事は本当にちょっとした出来事だと思ってた。けれど、多分褒めてもらえたのだと思ったら素直に嬉しかったし、全く何も知らない場違いなおれに魔法の基礎を丁寧に教えてくれた人だというのもあって、おれはこの教師に少しだけ興味を持った。
     
     総合学の担当教師は、専門科目の授業を持ってはいないが個人的に魔法植物学を研究していると言った。野外実習で使った場所もこの教師の所有地だという。学校の敷地の外れに研究の為の森と植物園を持ち、研究室と称した一軒家があった。
     一年生として過ごせる期間の残り半年ほど、おれは授業が終るとこの教師の植物園へ通うようになっていた。与えられる簡単な雑用をこなすと、いつも必ず課外授業と称して魔法に関するたくさんの話を聞かせてくれた。おれはそれがとても楽しくて、それこそおれを産んでくれた両親と、おれに魔力をくれた遠いご先祖に初めて感謝したくらいだった。
     
     二年目からは専攻科目に合わせて別の寮に移る決まりになっている。その為同級生達と毎日顔を突き合わせて生活していたのは、入学から一度目の春が来て、おれがなんとか進級試験に合格をした頃までだった。
     
    「半年間ありがとね。この分ちゃんと成績に入るから進路が決まったら教えて。専攻の先生に話通すからさ」
     進級試験が近くなってきた頃。教師が溜め込んでいる返却日が過ぎた図書館の貸出本の仕分けをしていたら突然こんな話をされたので、まだどの専門に進むかを決めあぐねている事を伝えた。
    「こんな時期なのにまだ悩んでるの? もうすぐ試験でしょう」
     まだ難しいことは分からなかったけど、この教師がやっている事を自分もやってみたい……かもしれないと、考えてはいた。けれど、魔法植物学自体は二年生からの専攻科目に入ってなかったし、この教師は自分の専門の授業をしていなかったので、半ば諦めていた。諦めていたから、こちらから頼んでみようとも思っていなかった。
    「じゃあこのままぼくんとこおいでよ。ぼく、専門の授業は持ってないけど必要な事はちゃんと教えるし、卒業もできるようにするからさ、ね!?」
    「そうします」
    「……えっ即答? ……本当に??」
     
     専攻が同じであれば、そのまま卒業まで生活を共にする連中もいたと思う。ただ、おれの決めた進路がご覧の通り多少特殊だったせいで、二年目以降に入るはずの寮棟には移らず担当教師が入り浸っている研究室の空き部屋を間借りする形になった。
     進級と共に寮監からそう指示され、おれは二つ返事で了承した。しかし担当教師は「せっかくの学生生活なんだから、もっと友達と過ごしたほうがいい」と寮監にかけあってくれたようで、他教科の寮棟の空き部屋を勧めてくれたがそれは丁寧に辞退した。
    「まぁ共通科目で本棟に行く事はあるし売店なんかも向こうだし、門限までなら寮も行き来自由だし、全く学友と関わらなくなるわけじゃないだろうけど……本当にいいの? ぼくと植物しかいない、こんな殺風景なとこで」
    「一年生のうちは時間がある時に伺っていたので別に気になりませんでしたが、寮棟から遠すぎるんですよ。先生の部屋も、研究室も、植物園も、全部。先生は専攻科目の授業を持ってないですし、毎日ここに通うのは無理です。さすがのおれでも面倒です。あと以前も言いましたが、おれは魔力を持ってるだけの理由でこの学校に入ったんで魔法使いになる為にこの学校に入った連中より土台が無い。先生のおかげでなんとか進級はできましたけど、魔法の基礎は一年で学びきれてない所がまだあります。可愛い生徒の時間が勿体ないと思いませんか? それに先生は……」
    「あーもう! 分かった、分かったから」
     これからおれが教えを賜る事になる、この世でおれが最も尊敬するこの教師は、降参と言わんばかりに両手を上げておれの言葉を遮る。その仕草におれはつい笑みがこぼれてしまうのを堪えられなかった。
     
    「……魔法植物学専攻二年生の黒崎蘭丸です。嶺二先生、卒業までお世話になります」
    「魔法植物学担当教師の寿嶺二です。これからよろしくね、黒崎蘭丸くん」
     
     
     
     入学時に持ち込んだ物はそれほど多くなかったが、それでもこの四年間で驚くほど物が増えていた。授業で使った本。集めた資料や論文。自身で見つけた魔法薬の調合をまとめた魔法言語ノート。先生から譲り受けた魔法道具。何度もボロボロにして何度も新調した制服も。
     今日、身に付けているのは正式な魔法使いとして最初に支給される魔術ローブ。これがこの魔法学校の、最後の式典の正装になる。
     
     四度目の春が来て、おれは卒業を迎えた。
     
     
    「ランラーン」
     この四年間で変わった事。いつの間にか嶺二先生は、おれのことを蘭丸くんではなくランランと呼ぶようになった。初めて言われた時は驚いたけれど、ものすごく親しくなれたような気がして胸が高鳴ったのを今でも覚えている。
    「この部屋もずいぶんさっぱりしちゃったなぁ」
    「取り急ぎまとめただけだから、細かい所はまた後で」
    「あー、これ懐かしいね。まだ持ってたの? もうボロボロじゃん……使えないでしょ」
    「先生から貰ったもんだから捨てられねぇよ。おれにとっちゃ一生もんだ」
    「やだ、嬉しい事言ってくれちゃって」
     この四年間で変わった事がもう一つ。先生はおれに、普段の口調で接することを許してくれた。
     
    『蘭丸くんさぁ、別に敬語使わなくていいよ。肩こるでしょ? この先卒業までぼくと二人なんだし』
     二年生になってしばらくした頃、先生にそう言われて甘えていいものか悩んだ。でも、ものすごく親しくなれたような気がして胸が踊ったのをまだ覚えている。
    『きみの学ぼうとする姿勢が素晴らしい事をぼくは分かってるからね。言葉使いがどうこうなんて関係ないでしょ? ……ただ、朝はもう少し優しく起こしてくれると嬉しいけど』
     朝に弱い先生を叩き起すのはいつも苦労した。
    『ランラン、あの見たことない植物あったでしょ。あれが突然弾けてさぁ。中身かぶったらローブ溶けたから縫ってくれる?』
    『溶けた……? 先生のローブ、魔法かかってるんじゃ……』
    『うん、防護魔法ぶち抜いてきた』
     その植物を焼き払おうとしたらすごく怒られた。その後二人がかりで封印する事に成功したけど、結局あの植物の使い道は見つからないままだったな。
    『ランラン、このスープに何入れたの』
    『え、先生の台所にあった赤紫っぽい色の実……』
    『ストップ! それ以上食べちゃダメ!! さすがにこれはランランでも死ぬ!!』
    『は? なんでそんな物騒なモン置いとくんだよ!!』
     先生の授業でも危ない目にはたくさんあってきたけど、あの時は本当にもうダメかと思った。
     
     先生と過ごしてきた日常が浮かんで消える。
     
     四年間、おれはここでたくさんのことを学んだ。魔法使いとしてのおれは、知識も技術もまだまだ足りないと思う。まだ知りたい事がたくさんある。探究心を常に持つこと、その気持ちが大切だといつも先生はおれに言っていた。
     今まで嶺二先生から教わった事は全部、おれの頭の中と部屋に積み上げた箱の中に詰め込まれているけど、本当に知りたい事がまだ足りていない。
     
    「先生、おれ、先生のところで学べて本当に幸せだった」
    「ぼくも、ランランが教え子で本当によかった。すごく楽しかった。教師としてこんなに充実した日々が過ごせるなんて夢みたいだったよ」
     
     
     時計塔の鐘が聞こえる。
     
    「ほら、もうすぐ式典がはじまるよ。ぼくらも行かないと」
    「先生」
    「そんな顔しないで。ぼくもらい泣きしちゃいそうだよ」
     先生がおれを抱きしめた。心臓が跳ねる。毒草をかじった時みたいに心拍数が上がっていく。顔が熱くて、時計塔の鐘の音が遠くなっていく感覚。先生が魔法をかけたのだろうか。でもそれならおれだって多少は感知できる。なんだろう、なんだ、この感じ
     
    「ぼくは決して立派な先生じゃなかったかもしれないけど、きみの持ってる強みを最大限活かせるように教えてきたつもりだ。きみはとても素晴らしいものを神様に与えられ、この世に生まれてきてくれた。ぼくには勿体ないくらい、才能ある魔法使いの卵だったよ」
    「れぇじせんせい」
     先生の手がおれの背を撫でるのに合わせて、情けない事に涙がボロボロと零れてしまう。
     
    「頑張ったねランラン。卒業おめでとう」
     
     おれは、嶺二先生が好きな魔法植物学が本当に好きだった。一緒に植物を育てたり、実験をしたり、新しい魔法調合を試したり、成功して泣いたり笑ったり、失敗して悔やんだり怒ったり。もっと見ていたかったし、もっと知りたかった。
     おれは、先生に教わる魔法と学問のことが好きで
     先生の植物達のことも好きになっていて
     
     嶺二先生のことが、大好きになっていた。
     
     先生と呼べるのがこれで最後にならないよう、おれはこれからもこの道をちゃんと進もうと決めた。先生が自慢できる教え子でいられるように、先生の元に一人前の魔法使いとして帰ってこられるようにしようと強く思った。
     
     卒業したら便利屋でもやるのが手っ取り早いなんて四年前には思っていたけれど、入学式の時に学校長が話していた通り、ここでおれは叶えたい夢を見つけることができた。
     
     時計塔の鐘の音が鳴り終わる。
     
    「さ、そろそろ行こうランラン」
    「……はい、先生」
    魔法学校教師 寿嶺二の思い出話
     ぼくがこの学校に来てもう何度目の春だろう。たくさんの魔法使いの卵たちがこの門をくぐり、そして巣立っていくのをいつも遠くから見ていた。
     
     
     長らくぼくは一年次の必修科目となる総合学の授業を受け持ってきた。魔法使いを目指して入学してきた子達にとって、この必修授業の内容は拷問に近いほどしごく退屈なものだと思う。遥か昔に習ったであろう魔法の基礎中の基礎、初心者の入門書にも書かれているようなありふれた内容を、ただ延々と読み聞かされているに過ぎないからだ。だからここでのぼくの役目は、魔法使いらしい事や目新しい事を教えるのではなく、この子達が学ぶ事を楽しめるように、道を見つける手助けをほんの少ししてやる事だと思うようにしてきた。
     
     ぼくには魔法協会から名前を抹消されている過去がある。
     その関係で専門的な事を表立って生業に出来ないということもあり、ぼくは専門分野の授業を持たないことにしていた。その事情を知ってもなお、その気があればいつでも教鞭をとってほしいという学校長からの厚意で、この学校で個人的な研究は続けさせてもらっている。
     学校の敷地の外れにある鬱蒼とした森の近くに植物園と住居兼研究室を構え、授業以外の時間の殆どをそこで過ごした。
     ぼくが専門にしている魔法植物学は割と古いもので、今では魔法科学の方が技術的には上だと思う。専門魔法を多く取り扱うこの学校ですら魔法植物学を扱う教師はぼくしかいない。とはいえぼくはこの学問を教えているわけではないので、実質魔法植物学を扱う教師はこの学校にはいない、ということになる。
     それでもぼくは、何百年も絶やさず、長い時間携わってきたこの研究から手を引こうと思った事は一度も無かった。
     
     
     そしてまた今年も春が来て、新入生達を迎えた。退屈そうな生徒達の顔を見ることなく教科書の文を読む。魔法の歴史、魔法の分類について、魔力の原理、古代魔法の仕組み、魔法技術の発展……もうそらでも言えるくらい繰り返してきた話をする。
    「ここまでは概要だから質問はないね。じゃあ次……」
    「先生」
     ぼくは驚いて顔を上げ、扇状に広がる席の中から声の主を探した。
    「あの、もう一度聞かせてもらってもいいですか」
     教壇の左手側、前列二番目の席に座り真っ直ぐぼくの方を見ている銀髪の少年と目があった。
    「……いいよ。どこ?」
    「古代魔法の、話のところを」
     珍しい髪色をした子だなと思いながら教科書を少し遡り、声をかけてきた生徒の顔を見ながらゆっくり話をした。
     実習授業が始まれば多少は面白くなってくるのかあれこれ聞いてくる生徒は出てくるし、今後の専攻に関する内容に差し掛かる頃ともなればさすがにどの生徒も真剣味が増すが、この時期の座学で声を上げた生徒は初めてだった。
     
     どうやらこの少年にとって、ぼくのこの授業内容はどれもこれも初めて聴く話だったようで、その髪と同じ色の眼を忙しく動かしながら教科書と板書を見比べ、ぼくの話にじっと耳を傾け、何度も何度も質問をしてきた。その都度ぼくはこの少年が納得いくまで繰り返し答えてあげた。
    「……そういえばきみ、ぼくの板書読めてる?」
    「なんとか、読めます」
     板書といっても誰でも見える程度に紡いだ魔法言語をそこら辺に浮かべているだけのもの。そんな横着をしても困る者はいなかったので今まで気にしたことがなかったが、魔力の使い方もあやふやなこの少年は目で追うのが精一杯らしいと気付いた。こんなほぼまっさらな状態で入学してくるなんて、選ぶ学校を間違えたのではないかと心配になるくらいだった。
     ただ不思議だったのは、この少年の持っている魔力量や強さは今年の新入生の中でもずば抜けていた。授業中まれに感じることもあったが、適性試験合格者の結果を盗み見た時ぼくは驚愕した。
     クロサキ、ランマル、一四歳。年の割に幼く見えるあの少年の名は上位一桁の欄に書かれている。
    「……これだけ見れば特待生レベルじゃないか」
     ここまで素質を持った子供が生まれるならば代々魔術に関わってきた一族であるはず。だが、クロサキの名前を持つ血筋にはまったく聞き覚えがない。恐らくこの一族に一番近いと思われる系図を脳内で展開する。かろうじて魔法使いが一人該当するが直系ではない。そもそもそれも、もう四〇〇年ほど前の話になる上に、その筋もそこで途絶えていて――
    「突然変異に近いけど、これも隔世遺伝の内に入るのかな……」
     可能性は低くても有り得ない話ではない。あの髪の色も、眼の色も、通常では生まれないはずの子供の証だ。恐らくこの学校を選んだというよりは、この学校に入れられた、が正しい気がした。
     なるほどそれならば、宝の持ち腐れになっているのも納得できる。
     素質はあるが知識がない。
     探求心はあるが機会がない。
     好奇心はあるが経験がない。
     与えてもらえなかったのだから当然だ。
     この少年は耕したばかりの土のように柔らかい。新しく植物を育てる時と同じように、種を蒔けばその土が包み込み、水を与えれば全て吸収していく。長くこの学校に勤めてきて、こんなに心が踊ったのは初めてだった。
     
     実習授業が始まり、ある日ちょっとした事件が起きた。マンドレイクの扱いについての授業を行った日だ。ぼくの森にはまだ自然に群生している奴らがいる。植物園の方ではある程度精神に影響しないよう改良したものを育てているけれど、そんな物はこの先いくらでも触れる機会がある。どうせなら今しか出来ない事をやらせた方がいいし、最悪の中で最善を選択する為の引き出しは多いに越したことはない。ぼくはあらかじめ目を付けておいた、声が小さそうな小ぶりの個体にロープを巻く。
    「今日は一番古典的な方法で採取するよ。使う機会は無いだろうけど、一応覚えておくといいと思う」
     耳の奥へ魔力を溜めるイメージで意識を集中させておくよう、生徒達に向かって話しながら手にしたロープを少しずつ引く。
    「本当はもう少し遠くから、犬を使ってやるんだけどね」
     ロープの手応えが変わり、地面から引き抜かれたマンドレイクにかけていたロープが外れた。静寂の森にこの世の終わりが来たかのような凄まじい悲鳴が反響する。この程度ならまだ未熟な子達でも一時意識を飛ばすくらいで済むだろう。悲鳴を上げ続ける植物が動き出し、さて捕まえようかとぼくが振り返るより早く、あの銀髪の少年が駆け出した。ぼくの脇をすり抜けながら植物の悲鳴にかき消されるほど小さな声だったけれど「先生、どいて」確かにそう言っていた。いつも通り体が動かせている。言葉も出せている。こんな子供が、なんてことだ。暴れるマンドレイクをたどたどしい魔法式を描いた足で踏みつけ、力尽くで押さえ込んでいる姿を見てぼくはとても高揚した。
    「きみ、この声聞いて平気なの?」
    「え、いや。平気じゃないですけど。耳痛ぇし」
    「いやいや何言ってるの。普通は耳痛いじゃ済まないんだよ」
    「っすよね、他のみんな倒れてますもんね……でも先生も平気じゃないですか」
    「すごいな、きみは元々強いのか……」
     この少年は素質があるどころの話ではない。マンドレイクの悲鳴は本来、人の命を奪うとも言われている。いわゆる植物毒に相当するようなものだ。魔法植物が持つ毒というのは人体だけでなくその精神をも侵す。こればかりはいくら鍛えても魔力だけで防げない事も多いというのに。
    「最初の頃は魔法の知識もからっきしだったのに、ちゃんと魔法式も組めてるね」
     基本的な魔力の使い方も、つい最近まで何度も質問をしてきていたのに咄嗟の場面でちゃんと出来ている。
     この少年に知識と経験をもっと与えれば、与えた分以上に成長すると確信した。今までも優秀な生徒はたくさんいたけれど、この少年は遥かに凌ぐ素晴らしい魔法使いなれる。
     ただ時間が足りない。何も知らない状態から数ヶ月でここまで成長したとはいえ、この少年は他の生徒達よりも予備知識が圧倒的に不足している分不利だ。このハンデを背負わせたままにしておくのは惜しい。ぼくが関われる進級試験前までの間に、この少年の好奇心と探求心を、もっと満たしてあげるには何ができるだろう。
    「……そうだ。ねぇ、よければぼくの研究の手伝いしてもらえないかなぁ。こういう植物扱ってるから耐性ある人探してたんだよね。もちろん成績に加味するし。どうかな?」
     
     ぼくの研究室は生徒達の寮棟からはかなり遠いので、無理を言って悪いことをしたかなと思った。それでも少年は足繁く僕の所へ通ってくれるようになった。研究の手伝いをしてほしいとは言ったものの、まだまだ危なっかしくてこの少年に扱わせることができるものは殆どなく、ちょっとした雑用をこなしてもらった後は授業で教えきれていない魔法に関する話をたくさん聞かせた。
     
     これがぼくと少年の新しい日課になっていった。
     
     進級試験が近くなった頃、知っておいてほしかった内容はほぼ教えきった。魔力のコントロールもかなり上達して申し分ない。ある程度入学時点で教育を受けられていれば、きっと特待生として入学できただろうに。これは本当にもったいない事だったと思っている。
     
     
    「……専攻、まだ決めてないです」
     この子はとても優秀な子だから卒業まで埋もれることなく育ててあげてほしい、そう進級後の担当教師に申し送りをしたいと考えていたので、進路についてそれとなく尋ねてみると気まずそうな声でこんな答えが返ってきた。
    「え!? こんな時期なのに? もうすぐ試験でしょ」
    「そうなんですけど……専攻科目の魔法のこと色々調べてみても、いまいちやりたい事と合わないっていうか。分からなくて」
     少年の瞳に影が落ちる。分からない、のではなさそうだ。やりたい事が無いわけでも。今まで付き合ってきて、この少年は口数が多い方ではない事を知った。興味のある事に対してはとても饒舌になるが、いざ自分の事を話そうとすると途端に言葉選びが下手になる事も知っている。これは魔法情報学の先生にあまりいい顔をされないやり方だけど、少しだけこの少年の考えている事を見せてもらうことにした。ぼくが溜め込んだ図書館の貸出本を山程抱えている少年の、小さな背中に向けて緩く魔力の糸を編んで投げる。すくい上げたものがぼくの目に浮かんで消える。ほんの一瞬覗き見た少年の心に、ぼくは息を飲んだ。
     
     ――先生がやってることを やってみたい
     
     この少年が進路に迷っていた理由は簡単なことだった。この学問が専攻科目に無く、ぼくは専門での授業をしていない。
     そもそも少年には選択肢が無かったのだ。
     
     少し迷ったけれど、以前から学校長も教鞭をとって構わないと言ってくれている。こんな子に出会える日は恐らくもう二度と来ないだろう。それならばこの先ぼくが、この少年を導いても構わないだろうか。
     
    「……じゃあ、このままぼくんとこおいでよ。ぼく専門の授業は持ってないけど必要な事はちゃんと教えるし、卒業もできるようにするから」
    「そうします」
     少しの迷いを引きずったままの提案に対して、少年は迷うことなく即答してくれた。先程まで陰っていた銀色の瞳に色が宿りキラキラと輝き出す。
     完全に事後承諾になってしまうけれど、明日はまず学校長へ了承をもらいに行かなければ。カリキュラムの確認と翌春からの授業の調整もしないといけない。
    「先生、おれ進級試験頑張ります」
    「うん。楽しみに待ってるね」
     
     
     
     進級試験が終わり、無事に専攻科へ進んだ生徒達はそれぞれの寮棟へ引っ越しをするため、この時期はとても慌ただしくなる。
     二年次以降の寮棟は専攻毎に分けられているため、そもそも選択肢にないものを選んだぼくの初めての教え子は、寮に入らずぼくの研究室の空き部屋に引っ越して来ることになった。荷物の運び込みの手伝いを申し出たが、先生にそんな事頼めませんとキッパリ断られたので、ぼくはいつも通り植物を眺めながら待っている。
     
    「最近アレをよく見かけるが、弟子でもとったのか」
     透き通るようなホワイトブロンドを後ろで一括りにした男が、両手いっぱいに花を抱えて植物園から出てきた。彼が「アレ」と称したのは、荷物を引っ張りながらこちらへ向かって歩いてくる少年の事だろう。
    「いや、あの子はぼくの教え子になる」
    「協会に所属もしておらぬ貴様が教え子とは。冗談がすぎるな」
    「生徒の学びたい気持ちとそれは関係ないでしょ……その花は何に使うの?」
    「この花は面白い結晶を作るのだ。できれば多く精製したいが、ここまで大輪に咲かせることができるのは貴様くらいだからな」
     この男は魔法科学の教師で、ぼくが魔法協会から追放されているのを知っている。その事をあまりよく思っていない割にぼくの育てている植物達の事は便利に使っているようで、たまにやって来てはこのように少しの褒め言葉を添えて何かしら持って帰っていく。これからあの少年と顔を合わせる事もあるだろうから、予め伝えておいて損はないと思い、少し話をした。
    「成程。それは興味深い」
    「ぼくなんかでいいのかと、思っちゃいるんだけど」
    「……生まれたばかりの雛鳥は、最初に見たものを親鳥と思うものだ」
     
    「先生!」
     少年の声が聞こえてきて、魔法科学の教師は花を抱え直す。
    「優秀な雛鳥を殺さぬようせいぜい精進することだな」
    「ありがとう。また珍しいものができたら知らせるよ」
     男がローブを翻しながら姿を消したのと入れ違いに少年がぼくの元へやって来た。
    「先生、今の人は?」
    「魔法科学科のカミュ先生。たまにぼくの植物園に来るから、もし会うことがあったら話をしてごらん」
     先程まで魔法科学の教師が立っていた場所を見ている少年のその瞳に薔薇のような色が宿る。
     
     この少年が特殊である事は、こういった身体的特徴にも顕著に現れている。美しい銀色の髪と瞳を初めて見た時はただ珍しいと思っただけだったが、これは遺伝だけで生まれる色ではない。魔力の薄い血筋であれば尚更だ。そして面白い事に、普段は髪と同じ色のその瞳が少年の感情や魔力の揺らぎに合わせて薔薇色に変化する。もう少し大人になれば安定するのだろうけれど、多感で不安定な年頃の子供の心を察するのにとても役に立っていた。
    「……あれ? 荷物、それだけ?」
    「はい。元々入学してきた時もこの位しか」
     進級試験の結果が出て、寮の話がまとまった頃から少しずつ荷物をぼくの研究室に持ち込んでいたとはいえ、思っていたよりも身軽で驚いてしまった。長期の休みに親戚の家へ遊びに来た子供のようにも見えて、ぼくは微笑ましい気持ちになる。こんな殺風景なところにぼくと二人で本当にいいのかと話を蒸し返したら、少年は瞳の薔薇色を一層濃くして長々くどくどと反論をしてきた。その形相があまりにも可愛らしかったけれど、とめどない愚痴は終わりそうもなかったのでぼくは早々に白旗を揚げる。
     
    「……魔法植物学専攻二年の黒崎蘭丸です。先生、卒業までお世話になります」
    「魔法植物学担当の寿嶺二です。よろしくね、黒崎蘭丸くん」
     この少年が初めてぼくの授業で声を上げた時、きっとこんな気持ちだったのだろう。あの日の彼と同じくらい初めての事ばかりで、ぼくも楽しくてしかたがなかった。
     
     
     二年次はまだ共通科目もいくつかあるので同級生と顔を合わせる時間もあるだろうけど、ぼくと二人きりで過ごす時間が長くなる事を考えて一つ提案した。
    「蘭丸くんさぁ、別に敬語使わなくていいよ。肩こるでしょ? この先卒業までぼくと二人なんだし」
     ぼくが教えることをしっかり身に付けてくれるし、学びたいという姿勢はきちんとしている。それをぼくは分かっているから言葉使い程度で彼を評価するつもりは毛頭無いし、そんなものに気を回すより他のことにリソースは割くべきだ。それに気晴らしの雑談をする相手もぼくしかいない環境は一五歳の男の子にとって多少酷だろうと思ったのだ。初めは戸惑っていた彼も少しずつ口調が緩んでいき、教師と生徒という関係性が崩れることはないけれど、平気でぼくに軽口を叩くくらいには打ち解けてくれた。
     
     
    「先生はマンドラゴラ扱うの苦手なのかと思ってた」
     この植物の毒抜きをしていた時に彼が懐かしい話を持ち出した。一年の時の実習授業でマンドレイクを取り逃がしかけた、あの時の事だ。
    「いや苦手じゃないよ。ただ、ぼくはあれを聞いても平気だからあまり気にしたことがなくてね」
    「先生、あん時わざとやったんだな」
    「わざとっていうか……うん、どんなものか体験させようっていうつもりではいたよ」
    「今までよく死人出なかったな」
    「そこはほら。長年の経験とカンさ」
     あれは使えそうな個体が見つかった年の授業で行うぼくの気まぐれだ。たまたま彼が入学してきた年に、たまたま丁度よく育ちきっていない毒の弱い個体を見つけたというだけの、偶然が重なった出来事だった。
    「ただ、まさかきみのあんな才能を見つける事ができるなんて思ってなかったから」
    「おれも知らなかった」
    「それはそうでしょう」
    「おれ、先生と同じって事だろ?」
    「いやそれは違うからね。無茶したらダメだよ」
     今思えば、単なる偶然で片付けてしまうにはあまりにも奇跡のような出来事だった。あの時の事が無ければぼくはこの少年を手元に置こうと思わなかったかもしれないし、この子もぼくを師と仰ぐことは無かったかもしれない。この子がいなければ、教師として誰かにぼくの知識を与えることも無いままでいたと思う。長く長く生きてきて、この先も長く続く時間の中のほんの四年間ではあるけれど、こんなぼくにも神様はご褒美をくれるのだなと柄にもなく思ってしまった。
     
     
     
     新しい土地で伸び伸びと植物が芽吹いていくように少年は育ってくれた。
     持ち前の魔力の強さもあり、魔法使いとして十分なほど基本的な魔法はこなせるようになったし、今では随分応用も効く。魔法植物学は自然物を相手にするもので、古くを遡れば際限はなく、新しいものは湧き水のように現れる。それらも余すことなく欲する少年と共に過ごす日々はとても刺激的で、それはそれは充実したものだった。
     
    「ランランいくつになるんだっけ」
    「今、一六」
    「なんでぼくより背が高くなっちゃったかな」
    「なんでって……先生がいつも『はしご代わりになって便利』とか言ってるからじゃねぇかな」
     生徒として特に心配な点は無かったが、それ以外に気になっていたことがある。人間の子供としてみた場合の話だ。本来なら寮監が面倒を見てくれるものだけれど、ぼくは子供の扱い方などさっぱり分からない。このあだ名で初めて呼んだ時は、顔を真っ赤にして逃げ出してしまい、半日部屋から出てこなかった。しばらくは気難しいところもあったけれど、ぼくが教え子を持ったことを面白がってか、他教科の先生達が稀に顔を出しては彼にあれこれ世話をやいてくれていたので、これは精神面の教育によかったと感謝している。
     
     もう一点。魔法使いという輩は個人差があるものの、能力に応じて身体的な成長の速度が変わる事がある。膨大な知識を蓄える必要があり、魔力も少なからず身体に影響を与えるため、力の衰えを防ごうとする本能的なものといったところだ。通常は青年後期から壮年期を迎えると老いていく速度が緩やかになるケースが多いのだが、場合によっては見た目が子供のまま止まってしまうこともあるし、逆に早まる事もある。
     彼は入学時、年齢よりもかなり幼い印象があった。元々持っていた魔力を整えることなくここへ来たので、さてどうなるかと見守っていたところ、年相応よりはかなり大人びた風貌に成長した。少年らしかった声も大人のそれになり、髪の色は相変わらず美しい銀色に輝いていたけれど、いつの間にかその両眼は淡い薔薇色になっていた。
     
     
     卒業試験の時期もほど近い四度目の秋が終わる頃。この頃になると、卒業に必要な履修分としてぼくから教えることは無くなった。授業というよりは遊びの延長……と、いうつもりではなかったけれど、お互い思いつくままありとあらゆる事をした。研究室に籠もったり、植物園で過ごしたり、森をどこまでも進んでみたり、何もしない日もあれば、寝るのを忘れた日もある。危うく死にかけたこともあった。
    「勘弁してくれよ先生……卒業前にシャレになんねぇだろ」
    「メンゴメンゴ。でもこれでこの毒が何で消せるか分かったでしょ。この実は外の森でも生えてるから、いざとなったら思い出すんだぞ」
    「分かったけど……思い出さないで済むようにしてぇな……」
     ぼくたちの教師と生徒という関係性が崩れることはなかったが、この時間もあと数ヶ月なのかと思うと少し胸が痛んだ。
     
    「はーい、ランラン合格!」
    「……え、本当に?」
    「嘘ついてどうすんの。完璧すぎて非の打ち所がないよ。あぁもう本当にすごいや……結構難しくしたつもりだし、厳しめに見たつもりだったんだけど」
     五日間かけた魔法植物学の卒業試験。ひいき目抜きでぼくは彼の成績を称賛した。ぼくの教えをここまで自分のものにしてくれたのが、とにかく誇らしかった。ぼくが今まで一人で守ってきたものを彼が求めてくれたこと、彼に与えてあげられたことを心から嬉しく思い、ぼくは教師としての喜びを初めて味わうことができた。
    「これで専攻科目として、ぼくの授業は全て修了だよ。よくできました」
    「……ありがとう、ございました」
     彼は色々な感情がない混ぜになったような不思議な表情でぼくを見ながら言った。薔薇色の瞳が少しだけ揺らいでいたが、もう以前ほどその瞳から心を読むことはできなくなっていた。
    「卒業まではまだ時間があるし、もうしばらくは手伝いよろしくね」
    「もちろんです」
     
     
     ある晩、卒業後の事でと彼が話をし始めた。
    「嶺二先生。あの、魔法植物学を専門にしてる事、おれも名乗っていいですか?」
     欲を言えば、たった四年で手放すのは惜しかった。彼の才能を、なのか、それとも彼自身をなのかは正直よく分からなかったが、ぼくの助手としてでもいいからここに置いておきたい気持ちはあった。
     けれどこの学校に来たのは彼の意志ではなく、この四年間の道もぼくが決めてしまったようなものだから、卒業後の事は彼が決めるべきと思い口を出さずにいたので、完全に不意打ちを食らった。「……い、いよ」変な顔をしているぼくが彼の薔薇色の瞳に映っていて、とても気まずい。
    「いいよ、そりゃもちろんいいけど、でもランランなら卒業後これを専門にしなくても……例えばここから魔法科学や、情報学の方にいくことだって、きみの実力なら十分」
    「違う、先生。これは先生から教えてもらった事だから、この先も続けたいっておれ思ったんだ。嶺二先生だったから、おれ一人前になりたいって思って……」
     もうその薔薇色の瞳から心を読むことはできないけれど、相変わらず言葉選びが上手くない彼が頬を紅潮させながらぼくに訴える姿を見て、思っている事はなんとなく分かってしまう。
     あぁ、なんで神様はこんなぼくに両手で持ちきれないほどの贈り物ををくれたのだろう。これじゃ多すぎて全部こぼれてしまう。
    「……じゃあ、卒業試験は終わったけど、もう少し追加の授業をしようか。もし一人でやってみようというなら、ちょっとコツがいるからね」
     
     
     彼と迎える四度目の春が来てしまった。
     今日は、僕の大切な教え子が卒業をする日だ。

    「ランラン」
    「先生」
     一言声をかけて彼が三年間住んでいた部屋を覗く。ほぼ荷物はまとめられており、ずいぶん小ざっぱりとしてしまっていた。
    「ランラン、また背が伸びたね」
    「あー……少し」
    「式典用のローブ、少し大きめにしておいて正解だったよ」
     学生用の物とは仕立ての違う正式な魔術ローブをまとった彼は、新米魔法使いとは思えないほどそれはそれは立派だった。
     
     時計塔の鐘が鳴り、卒業式が始まる時刻を告げる。
     
    「先生、おれ、先生のところで学べて本当に幸せだった」
    「ぼくも、ランランが教え子で本当によかった。すごく楽しかった。教師としてこんなに充実した日々が過ごせるなんて夢みたいだったよ」
     ――ずっと。
     ずっと夢に見ていた光景だ。
     自分の立場の後ろめたさがあった。でも一度くらいは教師らしい事をしてみたいと思っていた。一度だけでいい、ぼくが持っているものを受け継いだ子が巣立ってゆく姿を見届けてみたいと、ずっとずっと思っていた。
     ぼくは決して立派な教師ではなかったと思う。でも彼の持ってる強みを活かせるように、ぼくは全てを注いで教えてきたつもりでいる。
     
     もらい泣きをしそうだと言ったのは半分嘘だ。この期に及んでぼくは欲が出そうになっていた。それはどうしても悟られたくなくてぼくは、頭半分ほど背の高い彼を抱きしめた。
    「れぇじせんせい」
     幼い子供のように情けない声を出してボロボロと泣きだす彼の背を撫でる。
     

    「頑張ったねランラン。卒業おめでとう」
     ぼくはこの手から、彼を外に放つ為の呪文を唱えた。
     

     時計塔の鐘が鳴り終わり、愛しい教え子の手をとって部屋を後にする。
     ぼくは夢が叶ってしまった。

     
     きみはぼくの、最初で最後の生徒になる。
    黒崎先生、13年越しの恋 
     一人で迎える春も一〇回目を数えた年。
     おれは教師として母校へ戻ることができた。
     
     魔法学校を卒業後。
     在校中に一度も帰省しなかった自宅に、一度だけ立ち寄った。
     おれの眼が両目とも薔薇色になっているのを見て両親は眉をひそめていたし、家を出た時にまだ小さかった一番下の弟は多分おれが誰なのか分かっていなかったと思う。どんな形であれ、あの学校へ入れてくれた事は本当に感謝してることだけは両親に伝え、二度とその家には帰らなかった。
     
     
     魔法学校を卒業すれば、実績は無くても魔法協会に所属する権利を得られる。そのため協会公認で魔法植物学の研究を続けることができた。
     そこで初めて『一人でやっていくにはコツがいる』という、嶺二先生の言葉をおれは実感することになる。
     
     魔法が使えるとはいえ、魔法使いは決して万能なわけではない。先生はおれに魔法と学問の事以外に、過酷な環境で生き延びる為の術を叩き込んでくれた。
     今思えば、学生時代によく訪れた先生の庭である鬱蒼としたあの森も、自然のまま生きているように見えてある程度は整備されていた。危険な魔法植物はあちこちに生えてるし、知らない草花が突然生えてくることもあったし、どこまでが学校の敷地なのかぼくにもよく分からないと先生が言うくらい広大で豊潤な森なのに、魔法植物をエサにしている魔獣が出るなんてことはただの一度も無かった。そりゃそうだ。いくらなんでも校内に紛れ込んだら物騒すぎる。散々連れ回されたあの森だって所詮は安全な校内の一部という話で、多少の危険はあったにしろ教師という保護者付きで行われた授業の一環でしかない。おれは十分守られていたわけだ。
     でも今は違う。ここはもうは安全だった学校の中ではなく、保護者の教師もいない外の世界。
     まだ小柄だった十代初めの頃なら難なく出来たはずのことも、無駄に体躯がよく育った今のおれでは難しいという場合もあったし、逆に頑丈に育ってきたことを感謝した日もあった。嶺二先生が見つけてくれた、おれが毒物に強いという生まれながらの特性も存分に役に立ち、便利な身体でよかったと何度改めて思ったか分からない。
     
     現存する魔法植物の採取をしに行くだけでも一苦労だったのに、一人で新しいものを探しに行く時にはそれこそ冗談抜きで命がけなものになった。
     魔力を持たない人間では足を踏み入れることができない山奥や、誰が何の用事で訪れるのかさっぱり分からない洞窟、魔法使いであっても近づかない未開の森。おれは自身の興味の赴くままに、とにかく自分の足で何処へでも何にでも踏み込んだ。乱暴な言い方をすれば、どれだけ危ない目にあったって死ななければいい。そういう事だ。
     食べられる物、食べられない物。毒がある物、毒を消す物。魔力を通すと変わる物、魔力が無くても変えられる物。先生は大丈夫でもおれだと死ぬ物、おれが大丈夫でも本当は危ない物。
     今まで嫌というほど教えられ、身を以て体験した事を頭の中から引っ張り出し、新しいものを加えてまた詰め直す。そんな作業をひたすら繰り返した。
     魔法の歴史は途方もなく長い。それでもまだ知らない事はこの世にはいくらでもあった。それは全ての事象が水の流れのように変化するからに他ならない。新しく何かを見つけてもまたいずれ消えてしまう。追えば逃げるし、逃げても追われる。まるで追いかけっこのような毎日は、それでも決して苦ではなく、魔法学校に入学して初めての授業の時のように胸が踊った。それは先生が追い続けていたもので、おれが先生と二人で追いかけてきたもの。
     少しでも追いつきたくて、とにかくおれは必死に走った。
     
     他の魔法使いや魔法研究者と比べるまでもなく、おれのやり方は目茶苦茶なものだったと思う。たった一人でやりたいように好き勝手をして、研究者としてまったくスマートではなかったのは重々承知している。一度森の中でうっかり魔獣と鉢合わせをしてしまい、素手でぶん殴って逃げた事があるのを嶺二先生に知られたらきっと説教されると思う。
     それでも何かしらの結果が出せて成果をあげられればいいんだと思い、おれなりのやり方で先生から受け継いだ魔法植物学を突き詰めていった。専門的な目新しい発見は協会側へ上げながら、魔法無しで簡単に扱えるようにしたものを一般向けに下ろしてみたり。先生がやりたがってたことを思い出しながらできる限り貢献をし続けた。
     
     これが功を奏した、かもしれない。
     協会公認でこれだけ荒っぽい事をやっていれば否でも誰かの耳に入り目にとまる。結果、魔法使いとしてまだ日の浅いおれの名も、専門魔法の一研究者としてそこそこ知れ渡るようになっていった。
     魔法植物学を専門に研究する者が珍しかった、というのも多少はあったと思う。おれの変わった見た目が目立っていたのも、恐らくは。
     バイアイの魔法植物学者。若き銀髪の魔法使い。
     研究者界隈ではよくそう呼ばれた。揶揄されていたんだと思うけれど、先生から教わったものが広まって、認めてもらえるなら多少の事は気にならなかった。
     
     
     そしてある日おれの元に、懐かしい母校の校章で封蝋が押された手紙が届く。それはおれのいつかの願いを叶えてくれる、大切な大切な手紙だった。
     
     おれの母校は魔法学校の中でも学べる専門魔法の数が多く、他で学べない魔法学も多数ある。そのため、ここに教師として籍を置くにはその専門魔法学唯一の研究者であったり、魔法使いとしてよほど実力がある者でなければ難しいと聞いていた。おれはまだ一人前には程遠いし実力も足りない。それでもいつかはと、志願を続けてきた。
     
    『魔法植物学専門の教員としてご教導いただきたい』
     
     そんな内容が書かれている手紙を、指で文字をなぞりながら何度も読みかえした。何度も何度も繰り返し読んだ。
    「……やった」
     手紙を持つ手はまだ震えが止まらず、つぶやく声も自分の声じゃないみたいだった。まだあの背中に追いつけてはいないけど、この手紙はおれが魔法植物学を専門にする魔法使いとして認めてもらえたという、一つの証になった。
     
     
     まだ春の香りがするよりも前に、諸々の手続きのために懐かしい門をくぐる。
     相変わらずこの学校の建物は広く複雑で、生徒だった頃あまり本棟に近寄らなかった事もあり、目的地がどこにあるのかよく分からない。廊下に響く生徒達の声を聞きつつ案内板を探してうろついていたら
    「おや? 貴方……」
     魔法の杖程の大きな筆を抱えた、変わった出で立ちの一人の教師に出くわした。モノクルの位置を直しながらおれを凝視してくる。このモノクルには見覚えがある。名前は何だったか……確か。
    「……トキヤ先生?」
    「……あぁ! やはりそうですね! 貴方、寿先生の所の……!」
     突然大きな声を上げた彼は、おれがまだ学生だった時に赴任をしてきた魔法芸術科の教師だった。彼もよく嶺二先生の植物園に顔を出していた一人で、よければ庶務課へ案内すると申し出てくれた。
    「そうですか、黒崎さんはこの春からこちらに。おめでとございます」
    「ありがとうございます。あの、トキヤ先生。嶺二先生はまだ総合学を……?」
     魔法芸術科の教師の顔が一瞬曇る。
     
    「寿先生は、もう教鞭を置かれましたよ。もうだいぶ前に……そうだ、ちょうど貴方が卒業された後です」
     眉間を押さえながら、とても残念そうに彼は言った。
     
    「え、待ってください。それって、先生はもう辞めたって事ですか?」
    「教師として“教えること”はお止めになられてます……私は引き止めたのですが。もう自分の役目は十分果たしたからと、それはそれは頑なで」
    「そう、ですか……全然知らなかった」
    「卒業後、寿先生と連絡は?」
    「いえ、全く……ちゃんと独り立ち出来たらと思っていて」
    「そうでしたか。でも貴方の噂はよく耳に入ってきましたよ。ちょっと変わったことをしてる、銀髪のバイアイの若い魔法使いがいると。バイアイの事は少し引っかかりましたが寿先生も貴方の事をよく話して……どうしました?」
     平静を装っていたつもりだったが、あからさまに落胆の色が出ていたのだろう。彼は「色が濁ってますよ貴方」とよく分からないことを言い出した。
    「あの、じゃあ先生はもうこの学校には……」
    「……あぁ。あぁ成程、色が濁ったのはそういう事ですか。黒崎さん、私は寿先生がこの学校を辞めたとは申していませんが」
    「……は?」
     
    「ですから。私は、寿先生がこの学校を去った、とは一言も申していませんよ?」
     
     
     当時、進級後の選択科目に無かった魔法植物学を、専門科目の授業を持っていなかった先生から直接学ぶことができたのは嶺二先生だから無理が通せた、という特例中の特例だったらしく、おれはそれだけ特別な事をしてもらえていたのだ。
     おれが卒業してから後に、嶺二先生が魔法植物学の教師として教え続けるということはなく、元々受け持っていた総合学の教師として教壇に立つことも終えたいと申し出たらしい。その事を知ったこの魔法芸術科の教師は何度も考え直すよう本人を説得し、ある時は学校長に直談判もしたそうだ。
    「それでも寿先生は首を横に振るばかり……自分がこうと決めたら、とても頑固な人だったでしょう?」
    「分かります、それ」
    「寿先生は、道に迷った生徒を見つけると、元の道に戻る事を無理強いせず新しい地図を与えてくれる。そんな手の差し伸べ方をしてくれる方でしたから。この学校が珍しい専門魔法を扱う教師が多いのも、そのためだとか」
     私もその一人なんですがね、と魔法芸術科の教師は笑った。
    「その頃にちょうど、寮監と教務を兼任していた先生が、両立が難しくなってきたという話が出たもので。教師として教えることをお止めになるならばせめて、という事に」
    「じゃあ今、嶺二先生は」
    「ええ。今は、新入生寮の寮監をなさってます。貴方が大好きだった植物園も先生の研究室もそのままで……おっと失礼、話に夢中になりました。庶務課はそこです」
     
     必要な書類を受け取り、手続きを急いで済ませる
    「最近新しい寮監が一人増えているので、寿先生は植物園にいる方が多いと思いますよ」
     おれが尋ねる前に魔法芸術科の教師が教えてくれた。
    「念の為言っておきますが心を読んだのではありません。寿先生に早く会いたいと、貴方の顔に書いてあるのでお教えしたまで」
    「……あー、いえ、おれは今日は赴任手続きに来ただけで……別に」
     そんなに顔に出ていたかと思ったが、ここまでの会話の流れとおれの態度をみれば一目瞭然だったと気付いて、急に気恥ずかしくなった。
     
    「……そういえば貴方、その眼はどうしたんですか?」
     
     
     
     学校の外れへ続く見知った道を歩いて行くと、懐かしい風景が見えてきた。あの鬱蒼とした森は相変わらず辛気臭く、少し形も変わっているような気がした。研究室を兼ねた先生の家は積み上げられた本で窓が塞がっていて中の様子はまったく伺えない。確かおれが来たばかりの頃もあの家は同じような状態だった事を思い出し、また返却期限が過ぎた図書館の本が山になっているのではないか、少し心配になる。
     植物園を覗くと、奥からかすかに歌が聴こえてきた。足元の植物を蹴倒さないよう中に入ると、背の高い木を見上げ鼻歌を歌っている人――嶺二先生の後ろ姿が見えた。
     あの頃と違う寮監用のローブを着ているけれど、おれがずっと見てきた、ずっと追いかけてきた、おれの一番大好きな人の背中が、歌に合わせて揺れている。
     
    「……嶺二先生」
     鼻歌が止まり、先生が振り返る。大きな目をさらに大きくして、途端に笑顔が弾けた。
    「ランラン……? 本当にランランなの!? わぁ……立派になって……!!」
     おれが駆け寄ると大きく手を広げ抱きとめてくれた。おれの名を呼ぶ優しい声。大好きな笑顔。薬草の匂いが混じった髪が鼻先をくすぐる。
     嶺二先生は本当に何も変わっていなくて。おれが先生の元で学んでいた頃から、それこそ時が止まっているんじゃないかと錯覚するくらいだった。
     
    「嶺二先生。おれ、春からここで魔法植物学を教えることになった」
     そう告げると嶺二先生は、信じられないと小さく呟きおれの髪をやたらに撫で回した。
    「あぁ、もう夢みたいだ。ランランが先生になって戻ってきてくれるなんて……本当に、すごく嬉しい」
     
     卒業式の日の朝の事を思い出す。
     あの時のように先生に抱きしめられて、自分の気持ちが十年前と変わってないと気付かされた。まだガキくさかった頃は、自分の感情にこの名前を付けてしまっていいものか分からないでいたし、二八歳にもなって今更どうかとも思うけど。
     
     先生はおれの初恋の人なんだ。
     もうずっとずっと恋をしていた。
     今もこの気持ちは、やっぱり変わっていない。
     
     初恋は叶わない、なんて話がある。確かに十年前は、最後まで教師と生徒という関係は崩れることがなかったし崩せなかった。
     この人にとって、おれが教え子である事は変わらないのだろうと、分かってる。
     それでも構わない。
     先生の隣に立っていられるようになった。今はそれだけで十分幸せだ。
     
     
    「嶺二先生、ただいま」
    「……おかえりなさい」
     おれは先生を力いっぱい抱き返した。
     
     1/2
     2/2

    「ランラン、今までの話もたくさん聞かせてほしいんだけど、その……」
     おれの腕の中で、嶺二先生がためらいがちに声を上げた。
    「何?」
    「どうしたの、その眼」
    「ああ、これ……」
     
     
    『……そういえば貴方、その眼はどうしたんですか?』
     先に魔法芸術の教師にも聞かれた、おれの眼の話。
     バイアイ。左右色違いの眼、とからかうような二つ名を付けられていたこと。
     魔法植物学者の魔法使いの噂は耳に入ってきたが、特徴が一つだけ一致しなかったのが自分も寿先生も気になっていたと魔法芸術の教師に言われた。
     学生だった時、元々銀色だった俺の瞳は魔力の揺らぎに応じてその色を変えた。力の使い方を覚えてきた頃に両眼は薄い薔薇色になり、すっかり安定してからは元の銀色には戻らなかった。
     一人で研究を続けていく中で、一度厄介な失敗をしてしまったことがある。あまり近場で育たない、人が持つ魔力を媒介にする毒を持った植物を見つけた時だった。今まで先生の植物園で栽培されているものしか見たことがなかったので、珍しい物を見つけたと、つい手を出してしまった。

     ――どんな植物も決して素手では触らない事

     これは先生から飽きるほど聞かされてきた事なのに、たった一回だけそれを忘れた。自分が人より身体が強い事、魔力や毒物に強い事を過信していたんだと思う。
     掴んだ手のひらから熱が走り、視界が狭まった。反射的に目を擦ってしまい目が潰れたかと思うほどの痛みに襲われる。
     視神経に回った。そう直感し、魔力の通り道を遮断した。
     この毒は強力だが魔力そのものの流れさえ調節できれば十分対処できる。言ってしまえば通常の人間には無毒に近い。毒が抜けるまでは魔法を使わず過ごしたところ、運良く視力を失わずに回復する事はできた。
     運が悪かったのは、後遺症が残ってしまった事。おれの左眼には魔力が通らなくなってしまっていた。
     
     
    「――で、左眼だけ元の色に戻っちまった」
    「あぁ、それできみはバイアイの魔法使いだなんて呼ばれるようになってたのか」
    「……先生に言ったらもっと怒られるかと思ってたんだけど」
    「さすが優秀なぼくの教え子……よく分かったね」
     あまり聞いたことのない嶺二先生の声色に、恐る恐る抱いていた腕の力を緩める。
     先生の目が、笑っていない。
     
     この後おれは、日が暮れるまでみっちりと説教をされた。魔法芸術の教師も『噂は耳に入っていた』と話していたが、どうやらおれがしでかしてきた荒っぽい事は全部筒抜けだったようで、それらもまとめて小言の対象になってしまった。
    「やっぱりランランは、まだぼくのそばに置いておかないとダメだね……卒試落として留年させ続ければよかったかな」
     先生がため息を一つついて言う。
    「本当は一人前になって先生のとこに来たかったんだけど」
    「ぼくの目の黒いうちは認められません」
     すっかり浮かれているおれの頭が勘違いしたのかもしれないけれど、言葉に反して嶺二先生の顔はどこか嬉しそうに見えた。
     
    「まだおれ半人前だから、もう手放さないでくれよ。先生」
     
     そうだよ先生。おれはそのためにここに帰ってきたんだからな。
    黒崎先生と寮監嶺二の事故 
     壁を背にした嶺二先生が、おれの腕の中にいる。決して何かしようとしたわけじゃないのに。なんでこんな事になってんだ。
     
     
     おれが魔法植物学科の教師として十年振りにこの学校へ戻った時、嶺二先生は教師を辞め寮監として勤めてた。以前から先生が使っていた研究室や植物園はそのまま残されていたけれど、先生はそこに引っ込んでいるわけではなく、自室のある研究室と担当寮を行き来しているという。これ幸いと、おれは研究室と植物園、おっかないあの森も授業に使わせてもらう事にした。
    「授業の内容はぼくの真似したらだめだよ。きみが特別だからできたんだからね」
     特別、という言葉におれは少し優越感を感じてしまう。
    「分かってるって。無茶させなきゃいいんだろ?」
    「ランランが一人でやってきたやり方を水で三倍に薄めたくらいが丁度いいよ」
    「はぁ? そんなんじゃこの学問教えらんねぇわ」
    「全然分かってないじゃん」
     
     ものはついでだ。授業の事もあるけれど個人的な研究もある、ここにいた方が都合がいい。そんな建前をつけて、教員寮ではなく学生の頃使っていた部屋に戻りたいと申し出てみた。嶺二先生は、急にそんな事言われても困ると慌てていたけど、半人前の面倒見てくれんじゃねぇのかと言ったら黙ってしまった。これは肯定と捉えることにする。
     
    「とりあえずこの研究室何とかしてぇけど」
     見渡す限り、本やら紙の束やら良く分からないものがあちこちで山を作っていて、ここで作業できるのは本当に器用だと感心至極だ。
    「先生って相変わらず整理整頓出来ねぇのな」
    「いやこればかりはどうにも……ごめん」
    「おれのいた部屋どうなってんだ」
    「それはノーコメント」
     目に見えるところから山を崩す。その中から図書館所蔵の印がついたものを除ける。この作業も学生の頃によくやらされていたなぁなんて、十年後に同じことをしながら思い出に浸るなんて思ってもみなかった。
    「図書館まで行くのが面倒なら魔法で本だけ送り返しゃいいのに。嶺二先生、転移魔法で楽するの得意だったろ」
    「それで失敗して閉架から持ち出した物を池に落とした事があって、二度とやるなって司書から言われてるんだよねぇ」
    「本溜め込むのとそれ関係ねぇじゃん」
    「違う違う違う、反省してるから」
     
     おれが卒業してからもかなり所有物が増えているようで、仕分けをしたところで行き場がない新しい本の山が増えただけだった。全部必要な物だから絶対捨てないでよって、そんなこと言われても。
    「先生、書斎使えねぇの?」
    「うーん……整理すれば多分。でもぼく寮の閉門当番の日だから、時間かかりそうなら今日は諦めてね」
     
     二階の奥には書斎と呼んでいるやけに辛気臭い部屋がある。
     入り込んだら出られない迷路のような気持ち悪さがあって、学生の頃は用を申し付けられない限りあまり近付かないようにしていた。中を把握できてるのは嶺二先生本人と、ここへ書物を漁りに来ていた魔法情報学の教師くらいなもので……いや、嶺二先生はちょっと怪しいな。
     
     魔法情報学の教師はかなり几帳面な人だったと記憶している。おれが本の山を切り崩していた最中に「乱雑に見えてあの蒐集家なりのパターンがあるんだ。ここはもうこのままにしておいてくれた方がボク的には助かる」確かそんな事を言われて、片付けを中断させられた事があった。この几帳面な教師が自分の好きな様に整理しておいてくれればいいのにと何度か思ったけど、自分で並べ直すよりもどこに何があるか覚えてしまった方が早かったんだろう。
     
     書斎のドアを開けると、古い紙の匂いと、ホコリっぽい空気が流れ出てくる。
    「この部屋本当に気持ち悪いんだよな。窓が無ぇから悪いんだよ」
    「窓、多分どっかにあるよ。でも確かに気持ちのいい部屋ではないかもね。変な本も沢山あるから」
     ぼくは割と居心地いいんだけど、と先生が灯りを点けて回る。部屋に詰め込まれた本の量で見ればここは小さな図書館だ。嶺二先生はただの書斎だと言うけれど、魔法情報学の教師は博物館だと言っていたし、おれはここを森だと思っている。背の高いハシゴ付きの棚、背の低い棚、扉がいくつも付いた棚、ずっと前からある棚、新しく増えてる棚。薄暗くてよく見えない奥の方までみっしりと本が詰まってて、生きてる森にそっくりだ。
     
    「ここ入れ替えればまだ入りそうだ」
     雑に本が積まれた壁際の棚に運良く隙間を見つけた。
    「なんでこの棚、全部横積みになってんだよ」
    「何でかなんて覚えてないよ……多分本が倒れて面倒くさかったんだと思う」
     ぎゅうぎゅうに詰め込まれている本が上手く抜けないらしく、先生が棚を叩いている。
    「なぁ嶺二先生。多分これもう重みで歪んでんじゃねぇかな。なんかガタガタしてるし」
    「あぁそうかも。元々この本棚古いんだよね……ランラン、ここ押さえておくからその本引っぱって。そう、そのつっかえてるやつ」
     言われた通り力任せに分厚い本を引く。
     抜けない。
     全然抜ける気配がない。
    「クソ、動かねぇな」
    「ちょっと待ってランラン、そんなに揺らしたらダメだって」
     
     おれが棚ごと力任せに揺さぶったせいで、元々歪んで足元がガタついていた本棚がぐらりと傾き、バサバサと続けざまに本が落ちる音がした。
    「あ」
     おれよりだいぶ背の高い所からもたくさんの本が降ってきて、本棚も一緒に降ってきた。
     
    「だからダメって言ったのに!」
     
    **********

    「ってぇ……」
     振り払ったけど一冊だけ直撃を食らってしまった。なんでこんな重たい本を上の方にしまうんだよ、バランス悪くなるの当たり前じゃねぇか。
    「大丈夫? 頭打った?」
     先生の声が耳の近くで聞こえる。
     今どうなってんだ。壁と本棚に挟まれてるけど背中は重みを感じていない。てことは、棚はどこかに引っかかってるんだな。周りは雪崩れ落ちてきた本の山、目の前には壁。あと、視界の端に嶺二先生の髪が見える。
     そうだ、さっき咄嗟に片手で嶺二先生をかばって、落ちてくる本を振り払って頭打って、そんで。
     
    「ランラン、大丈夫?」
     おれに抱きかかえられるようにして、嶺二先生がいた。

     ……状況は把握できた。けど、どうしたらいいんだ。
     おれのなのか、それとも嶺二先生のなのか分からないけど、心臓の音がすごく早い。慌てて体を離そうと試みたけれど、壁と本棚との間はどうにも狭すぎる。壁に手をつき上体を起こして、ようやく見えた嶺二先生の顔が紅潮している。ちょっと待て、なんで先生がそんなに顔赤くしてんだ?
    「ランラン……顔、近いんだけど……」
     文字通り目と鼻の先で、耳まで真っ赤にした嶺二先生が目をそらす。
    「えーと……先生、大丈夫?」
    「大丈夫だから、あの。もう少し離れて」
     先生に胸元を押し返される。けど、頭の中が『?』でいっぱいなおれは、もうそれどころじゃない。なんで先生がそんなに照れてんだよ。なんで、なんて考えても、辿り着く先が一つしかない。もしこの疑問を口にしたら俺が欲しい答えをくれるだろうか。
    「……多分本棚はこれ以上倒れてこねぇから、そこのでかい本どかせば出られんじゃねぇか」
     そこ、とおれが足で指した方に嶺二先生が顔を向ける。別に初めて見たわけじゃないのに、いつも髪で隠れてる首筋がやけに綺麗に見えてしまって、思わずつばを飲み込んだ。
     
    「でも、ランランがどいてくれなきゃぼく、動けないんだけど……」
    「あ……だよな、悪ぃ」
     
     そうは言ったものの動けない。
     というか、動きたくない。
     この手をどけるだけ、それができない。
     この状況は完全に事故だけど、十年越しのチャンスだなんて思ってて。
     ダセェなおれ。
     お願いだから嶺二先生、こっち見ないでくれ。頼むから。
     
     その願いは届かず、先生の横顔が動く。
     絡んだ視線にくらくらする。さっき頭に降ってきた本のせいで、脳しんとうでも起こしてるんだきっと。自然と身体が動いてしまうのも、目眩のせい。
    「なんて顔してるの、ランラン」
    「……先生こそ」
     引き寄せられるように鼻先が触れた。息を感じるくらい近付いても、嶺二先生の手はもう押し返してこない。
    「なんで逃げねぇの」
     そうだ、おかしい。別にこの手をどけても、どけなくても、関係ないはず。いくらでも逃げられるのに。
    「動けないんだよ」
    「嘘つけ。物動かす魔法使えんだろ先生」
    「だから、そうじゃなくて」
     もう唇はかすかに触れてしまっている。近すぎて嶺二先生の表情が分からない。
     
    「……動けないんだよ、ぼくも」
     
     
     薄く開いた唇が重なった。
     たったそれだけで、心臓が破裂しそうになる。
     
    「……嶺二先生。今おれ、自分に都合のいいことしか考えられねぇんだけど」
    「悪い子。ぼくの都合はどこ行っちゃったのかな」
     
     1/2
     
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     一度離れた唇がまた近付いた時
     
     ――コン、コン
     部屋の扉からよりも近くで、ノック音がした。
     
    「……失礼。探し物がそこにあるんだけど、二人共いつまでやってるの」
     声がする方を見やると魔法情報学の教師が立っていて、音は彼が本棚の縁を叩いたものだった。無表情にこちらを見ているペールアクアの瞳と目が合って、我に返る。
     
     待て待ていつからいたんだこの人。
     
    「……あぁ、そういう事。盛り上がってるところ邪魔して悪いんだけど。ボクが探してる本、キミが踏んでるからこっちに寄越してくれる?」
    「あ。こら。藍先生、今何か見たでしょ」
    「見てないよ。愛しの教え子からの、十年越しの愛の告白を邪魔して悪いねって言ってるだけ。いいからその本早く寄越して」
    「愛の告白って、いや、これ違くて」
     魔法情報学の教師は「もういい」と吐き捨て、壁に寄りかかっている本棚を起こし、床の書物を踏みつけながらこちらへ入って来た。
    「あと、小さい寮監がレイジ先生の事探してたけど、今日当直じゃなかったの? 早く行ったら?」
     おれの足元の本を取り上げて魔法情報学の教師が言うと、嶺二先生は大慌てでローブを翻して、姿を消した。
    「……やっぱり魔法使えんじゃん……」
    「何がやっぱりなの。前にも言ったと思うけど、本の場所が変わるとボクが困るからこれちゃんと元通りにしておいてよ。昔からキミの仕事でしょ? あと無闇にいちゃつくの止めてよね」
    「い……いちゃついてねぇし、そもそも何で藍先生はいつも気配消して入ってくるんだよ……一応ここ、嶺二先生の家だろ」
    「じゃあそういうのは自室でやって」
     取り付く島もなく淡々と返されてしまい、逆に恥ずかしさが込み上げてきた。本当にいつから見られてたんだ。
     
    「遅くなったけど、おめでとうランマル。いや、ランマル先生、だね。キミが教師になるって聞いて驚いたよ」
     無表情だった魔法情報学の教師が、ようやく笑顔を見せた。


    寮監嶺二 過失の後始末 
    『小さな寮監が探していたよ』という魔法情報学の教師の言葉に促されるように、書斎の惨事はそのままにぼくは外へ抜け出す。
    「あれ……寮の裏門だ」
     思っていた以上に自分は慌てていたのだなと、目的地からまったく見当違いの風景が目の前に広がっているのを見て思った。
     
     ぼくの家の書斎の中、倒してしまった本棚の陰の、崩れてきた本の山の上で、ぼくは元教え子の彼の唇に触れてしまった。間近で見た彼の右眼の薔薇色は熱に揺れていて、お互いの唇の少し乾いた感触もまだ残っている気がしてしまって。なんてことをしてしまったんだろうと、背中に重く後悔の念がのしかかっている。
     あの子がぼくに対して好意を寄せていてくれたのは薄々知っていた。教師に対する敬意から思慕へと変わっていくのはあの薔薇色の両眼から感じとれていたし、卒業前には確信に変わった。まだ少年らしさが残っていた頃から魔法数学科の教師が面白がって何やら焚きつけていたのも、もちろん全部知ってる。ぼくもそれが満更ではなかったことは認めよう。
     けれどそもそもぼくは教師で、彼はぼくの生徒だった。それ以前に彼はまだ子供で、あのくらいの年頃の子にはよくある気の迷いだろうし放っておこうと思っていた節もある。
     結局卒業まで、ぼくも彼も教師と生徒という関係を崩さずに終えた。卒業という大義名分で彼を手放し、見届けたことで満足だと、そのつもりでいた。それで終わりのはずだったのに、いつか対等な立場でまたぼくのところに戻って来てくれたらと、どこかで願ってしまっていたのかもしれない。
     それが今はどうだ。めでたいことに、今ぼくの前に立つ彼は一人の魔法使いとなっていて、もう学生でもぼくの生徒でもない。教え子だった事に変わりはなくても教師となった以上はぼくの同僚に当たる立場だ。もう子供と呼べるような歳でもなくなった。それなら構わない、という簡単な話ならこんなにごちゃごちゃ悩んでいない。
     なにがめでたいものか。
     めでたいのはぼくの頭だ。
     
     ぼくが教えてきた魔法植物学を自分の物にしてくれた事も、その道で認められ教師としてこの学校に戻ってきてくれた事も、教えた側としては最高の名誉だ。それはもちろん素直に嬉しい。でもそれ以上に、教師を辞め本当ならこの学校にいなかったはずのぼくの元へ戻ってきてくれた、その事実が嬉しくて、とんでもなく舞い上がっていた。
     つい油断した。うっかり流された。済んでしまったことには何とでも言える。大人げないにも程がある。
     
    「あぁもうどうしよう……」
     いい歳してほだされるとは情けない。
     いや、ほだされたわけではなかったな。書斎を逃げ出す前に彼と交わした会話を思い出して、言い訳のしようがないと思い知る。どのみち言い訳などいくらしても取り返しはつかないのだし、どう取り繕ったらいいのか、本当に頭が痛い。
     
    「……こんな所で何やってんですか嶺二先輩。大丈夫すか?」
     その場でへたり込んで頭を抱えていたら、魔法情報学の教師が『小さな寮監』と呼んでいた、もう一人の寮監が駆けてきた。
     
    「あ……翔たんゴメンね、遅くなって。引き継ぎ、中で聞くよ」
    「どうしたんですか、顔色が……具合悪いんですか」
    「いや、大丈夫。慌てて来たからちょっとね」
    「嶺二先輩いつもズルして寮監室まで直接来るのに、今日なかなか来ないから変だと思ってた」
    「ちょっとちょっと、ズルって言わないで。今度やり方教えるから」
     
     ぼくが寮監になってから入学してきた中に、この後輩寮監となる来栖翔がいた。教師として関わった子ではないので、後輩という呼び名は割としっくりくる。勝気なところがあるが人付き合いも人の扱いも上手い子で、寮生達を上手にまとめてくれたその一年はとても楽だったのを覚えている。
     
    「俺、生まれつき身体が弱くって。サボりたくてここにいるわけじゃないんですけど」
     授業を休んでいたのを中庭で見つけた時、声をかけたぼくにぽつりぽつりと話をし始めた。親元から離れることをなかなか認めてもらえず、この学校も強引に押し切って来たので何かあれば連れ戻されると、そんな事を聞かされた。
    「嶺二さん……多分俺さ、ちゃんとした魔法使いにはなれないんだと思うんだ」
     進路の悩み、というよりは自分の身体的な部分を見越してそう考えていたのだと思う。
    「魔法使うと、授業でも結構しんどくて」
     学業以外の悩みを抱える子は少なくないが、こうして言葉にするのは割と勇気がいったのではないかと思う。確かに魔法を使う事や、持っている魔力自体がゆくゆく身体に負担をかけるのは避けられない。話を聞く限り、この子は動的魔法を使う場合に身体への負担がより強くなるようだった。魔法が、というよりも、強い運動をすること自体も負担になっていたのだろうと思う。けれど身体能力を補うちょっとしたコツはある。魔法医術ほど複雑なことをする必要はないし、授業の範囲外ではあったけれどぼくでも教えられる程度のものだ。それに若いうちに試してみて損はない。すると次に顔を合わせた時には「飛行訓練の授業やっても息苦しくなかった」と大喜びで笑顔を見せてくれた。
     それはなによりだったと思っていたら、その後ぼくに懐いてくれたようで、進級してからも暇さえあれば新入生寮に顔を出し、元来の面倒見のよさを発揮してぼくの代わりにあれこれ寮生の世話を焼いていた。あまりに楽しそうだったので、学生の間は寮棟の敷地以外で使わない事を条件に、寮の門番用に勝手に使っていた魔法をいくつか教えたりもした。
     そうこうしているうちにぼくの事を「先輩」と呼びはじめ、卒業後はそのまま寮監として残る事を希望していると聞かされた。新入生の生活面や、専門的な魔法学問以外の教育をする立場の者として彼の性質はうってつけだと感じていたので、元教師としても寮監としてもぼくはもちろん彼を推薦した。今は寮監として十分な仕事をしてくれている。勿体ないのでいずれ総合学の教員資格を取ったらいいと思ってはいるのだが、なかなか本人がその気になってくれない。
     
    「……さすがにこの時期になると、門限破りしようって生徒もいなくなって退屈ですね」
    「もうすぐこの寮から出るからね。まぁ、またすぐにやんちゃな新入生達がやって来るよ」
     寮棟の正門と裏門を繋ぐ壁沿いを魔力を紡ぎながら線を引くように歩く。この壁や門を越えようとする者が触れると、それが術者に分かるように組んである。ぼくがここの寮監になった時、深夜の見回りが億劫だなと思い勝手にやり始めた新入生寮名物のトラップだ。
    「おれ、今夜は手伝いますよ。嶺二先輩、なんか体調悪そうだし」
    「え、体調悪くないし大丈夫だよ」
    「たまには頼ってくださいよ先輩! 俺だってもう何年も寮監やってきてるんですからね」
    「いや、あのね」
     えっへん、という文字が見えそうなほどふんぞり返っている後輩寮監には、もうぼくの話は届いていないようだった。
     
     
     寮棟の一階、入り口の近くに寮監室はある。後輩寮監が来るまではほぼこの部屋にいたけれど、もうここ数年は彼のほうがこの部屋の主になっている。
     そしてその部屋の主は『見回りは代わりに俺がやってきますね』と張り切って出ていってしまった。寮監の夜間の仕事なんて消灯後の見回りと閉門開門くらいしかないのに、やる事を取られてしまったなと思いながらぼくは備え付けのソファに腰を沈めた。
     
     しかし自分の欲深さには辟易する。
     窓の方へ視線をやりながらぼんやり考えた。
     今、ぼくの中には生きて行く上でもう必要ないと切り捨てたはずの感情がある。
     黒崎蘭丸。彼のことはただ珍しい子がいるなと思っただけ。珍しかったから、彼の才能を自分の手で伸ばしてみたいという欲が出ただけ。子供だった彼から自分と同じような孤立と孤独の匂いを感じて、ほんの数年で情が移ったのかと問われればそれもそうかもしれない。彼の身の上についてあまり詳しく聞いていないので、本当のところはよく知らない。恐らくそのような家庭環境だったのだろうという推測でぼくは概ね納得している。
     ぼくの生きる時間の中において彼と学び舎で過ごした四年間はほんの瞬き程度のものでしかない。それでもかけがえのない時間だったことは確かだ。正直なところ、このまま続けばいいと思わなかったわけじゃない。
     寂しかったのだろうか。
     だとしてもそんなこと今更、馬鹿げた話だ。
     短い時間でも、彼のそばにいられた事が嬉しかったのかもしれない。彼がそばにいてくれた事、慕ってくれた事を幸せだと勘違いしたのかもしれない。
     誰かと長らく共に生きることが決して喜びなどではない事は知っている。今まで何度も繰り返して、その度にぼくだけが置いていかれた。何度も後悔をし、こんなのはもう二度とごめんだと、何度も思ってきた。それなのにまた身勝手にそんなものを手に入れようとして、ぼくはどうしたかったんだろう。
     あぁ、結局思春期の子供のように気の迷いを起こしていたのはぼくの方だったんだな。
     
     
     ――そういえば、ぼくの書斎の惨事はどうなったろう。本は別にどうにでもなるけれど、彼と魔法情報学の教師を放ったらかしで来てしまったのが少し気になった。寮棟の敷地は少し高台になっているので、この部屋の窓からあの森の頭がかすかに見える。
     彼はまだぼくの家にいるだろうか。もし教員寮に戻ったならこの建物の反対側だ。もしかしたら自宅へ帰っているかもしれない。明日会ったら何と言おう。それよりぼくらの事に首を突っ込みたがるあの魔法数学者に話が漏れないようにしておかないと、またややこしくなってしまう。
     
     
    「……おや?」
     その時、誰かが外の門に触れているのに気が付いた。
    「珍しいな、正門か。門限過ぎてるのに」
     こっそり入り込もうとはしていない。ということは生徒が隠れて帰ってきたわけではなさそうだ。こんな時間に用があって訪ねてくるような人もいないだろうし、野良猫でも迷い込んだか。後輩寮監が戻ってきていないけれど、ぼくは一度様子を窺いに行くことにした。
     猫だったら中に連れて帰ってミルクでもあげようか、などと考えながら寮の外へ出ると、金属の柵を叩く音と男の怒鳴り声が聞こえてきた。
     
    「……だからこんな時間に部外者は入れらんねぇってんだよ! そもそも誰だよお前」
    「関係者だって何度も言ってんだろ。ったく、てめぇじゃ話にならねぇな」
     ……残念なことに、猫ではなかった。
     
     言い争っている聞き覚えのある声はどんどんヒートアップしていく。校内で、しかもこんな時間に、一体何を考えているんだ。喧嘩なんて後が面倒じゃないか。
    「何やってるの静かにしなさい!!」
     門を挟んでつかみ合いをしている姿が見えたので、とりあえず止めなければとぼくは大股で歩きながら大声を出した。門灯に照らされ月のように輝く金色の髪を揺らし、門の外から差し込まれた手に胸ぐらをつかまれている後輩寮監が振り返る。
    「嶺二先輩! こいつ生徒でも先生でもないのに中に入ろうとしてきて、ダメだって言ってんのに先輩呼べって」
     見れば門の向こう側には、星のような光をたたえる銀色の髪を逆立て吠えている見知った男の姿があった。
    「いいからもう一人の寮監連れてこいって言っ、あ」
    「なにしてんの、ランラン」
    「……嶺二先生」
     
    「え、先輩、知り合いすか」
     
     なんなんだ、この状況は。
     
     ぼくはまず、お互い掴み合ってる手を離すよう促し門を開けた。ぼくの顔を見てすっかり大人しくなってしまった彼の額をパシンと平手で一発叩く。
    「痛っ……なんだよ嶺二先生、叩かなくてもいいだろ」
    「あのね、ここは学生寮だよ。もう消灯時間も門限も過ぎてるのくらい見れば分かるでしょ」
    「……すんません」
    「謝る相手はこっち」
     ぼくはぽかんとしている後輩寮監を指差す。彼はぼくを見てからぼくの指差す方を見て、不満げな顔で頭を下げた。
    「……あの、嶺二先輩」
    「ごめんね翔たん。この人一応関係者だから……新任予定の先生で、ここの卒業生の黒崎蘭丸」
    「先輩、先生だったんですね」
    「え、そこ? うん、だいぶ昔の話だけど。ちょっとぼくの教育が足りなかったみたいだ」
    「えー……俺知らなかったから、なんか先輩なんて呼んじゃってて」
    「なんでさっきからそこ気にしてんの。別にいいからそんなの」
    「そうだよ。てめぇ先生のことちゃんと敬え」
    「ランランは黙って。この時間に門開けると後で書類出さなきゃいけないんだからね。あぁもう、それが面倒でわざわざ感知の為の魔法張ったり、強制転移の魔法作ったりしてたのに……」
     
     明日彼に会ったらなんと何と言おう、どんな顔したらいい、なんて言い訳を考えていた事はこの際一旦置いておこう。ぼくは彼を中に招き入れ、静かに門を閉めた。
    「翔たん、今の騒ぎで起き出してきた生徒がいないか、中見てきてくれるかな」
    「あ、ハイ、分かりましたけど……その人どうするんですか?」
    「ぼくの権限でおしおき部屋行き」
    「は? 何だよそれ。おれがいた頃は無かったぞ、そんな部屋」
     
    「いいからランランは黙ってて」
     
     
     
     ぼくが寮監となってから、この寮の一番奥にある小部屋を「おしおき部屋」という名の指導室にしている。
     新入生達もある程生活にもなれてくると、余裕が出て寮則を破る者が増えてくる。これがまた厄介なのだ。魔法も少し使えるようになっていて、色々試したり遊びたくて仕方がないといったところだろう。門限を過ぎてからいかに見つからず抜け出し帰ってこられるか、という度胸試しの意味も半分あったようだが。気持ちが分からないでもないのでぼくはその遊びに付き合ってあげることにした。見回りが面倒だったのも勿論あるけれど、とにかく門限破りをする寮生を見逃さなければいい。
     まだ未熟な新入生では判別できないように魔法を張り巡らせる。これは見えない糸を張るのと同じなので簡単なもの。それに掛かったら中に連れ戻す。上手くかいくぐってしまう器用な子もたまにいたけれど、そういう手強い生徒は強制送還の魔法でこの部屋へ直行させて朝まで説教をした。これは物を転移させる魔法の仕組みの応用で、ぼくが勝手に魔法式を組み替えたもの。懲りて止める生徒もいれば、寮監が二人共いる日の難易度は高いと面白がって新入生寮を出るまで挑み続ける生徒も必ずいたので、こちらの仕事量は特に変わらなかった。ただ単にきつい規律で縛って生活させるよりはいいだろうと思っているし、寮生から文句も出ないので概ね問題なく続けている。
     
     こんな深夜に怒鳴り込んできた彼を引っ張り、本来は寮則を破った生徒を入れる為の部屋へ向かう。彼は後輩寮監との事がよほど気に食わなかったのか、いつまでもぶつぶつ文句を言っていた。
    「なんだよあいつ。寮監があんな乱暴でいいのかよ」
    「ランランもあんなに食って掛かることないでしょ。なに、またヤキモチ?」
    「ちげーし。またってなんだよ」
    「昔レン先生にしょっちゅうからかわれてたじゃない」
     まだ彼が学生だった頃、ランちゃんはすぐにヤキモチをやくね、と魔法数学科の教師から散々言われてはよく口喧嘩をしていた。図体は大きくなったけれどムスっとしている顔はあの頃とまったく変わっていないように見えて、大きな子供もまぁ可愛いものだなと少し思った。
     
    「どうぞ、入って」
     おしおき部屋、と物騒な呼び名を付けているが別にたいしたものではない。説教というほど偉ぶったことをしてるつもりもないし、ここで生徒に多少の小言は言うけれど、だいたいは生徒の話を聞いたり雑談をしている時間の方が長い。そんな場所なので、中は小さいテーブルとランプ、割と座り心地の良い長椅子が置かれているだけのなんてことない部屋だ。
    「なんかもっとおっかねえ部屋かと思ってた」
    「ぼくの事なんだと思ってんの。ひどいな」
     彼が長椅子の端に座るのを見て、ぼくはドアを閉めてから彼の隣に少し離れて腰掛ける。ここまで引っ張ってきたのはいいけれど、今夜はとりあえずこの部屋か寮監室に泊まらせて、話をするのは明日にしようか。さっきまではとにかく面倒事にしたくなくて寮監の立場から物を言えていたのに、上手く口が動かない。
     そうだそれに、まだあの本棚の陰の言い訳をぼくは考えていないんだ。
     
    「ランラン、なんであんなに騒いでたの」
    「あのチビ助が中入れてくれねぇから……だから嶺二先生呼んでくれって言ったのに取り合ってくんなくて」
    「門限過ぎると基本出入り禁止なのは昔から変わってないよ……って言っても、ランランが寮にいたの一年だけだったし、記憶無いか。ぼくが見回りに出てればよかった」
    「いや、おれも態度悪かったし……あの寮監にもちゃんと謝る」
     しかしわざわざこんな時間にここまで来るくらいだから、よっぽど急ぎの用だったのだろうか。この寮棟に彼がいるのは、変な感じがして落ち着かない。元から狭い部屋に成人男性が二人押し込められていれば息苦しさがあっても当然かと思うが、今に限ってはそれだけが理由じゃない。
    「……あの、ぼくの本棚どうなった?」
    「あぁ……あの後とりあえず本は戻して、後は藍先生のチェック待ち……」
    「藍先生? なんで?」
    「あの人昔っから、先生の書斎の本の位置動かすとめちゃくちゃ怒んだよ……あと、本棚は早く新調しろって」
    「あ……そうなの……」
     会話が止まる。
     困ったな。あれだけぶつぶつ文句を言い続けていた彼も途端に口をつぐんでしまい、しん、とした空間はさらに居心地を悪くした。
     
    「あのさぁ、嶺二先生」
     やや暫くして、彼が口を開いた。よく響く声で名前を呼ばれ視線を向けると、彼はぼくの方は見ずに軽く組んだ自分の指先をじっと見ていた。
    「おれ……ちょっと調子乗った。ごめん」
     謝りたくて来たんだ、と消え入るような声が続く。
    「あの時、先生のこと放したくなくて」
    「あれは、うん……ぼくも悪かった」
    「先生の都合とか何も考えられなくて。おれは先生の事、何も知らねぇのにな」
    「……そうだね。ランランはぼくのこと、何も知らないね」
     事実ぼくは自分のことを誰かに話そうとしたことはほとんどない。今までどうやって生きてきたのか、自分が何をしてきたのか、何を心の奥に隠しているか、聞かれたところで答えるつもりは更々ないし、彼がぼくにそれを問うことも今まで一度だってなかった。彼が知っているのはその眼が見てきたぼくの姿だけだ。
    「ぼくが何を考えているのかも、ランランは分からないでしょ」
     言ってはみたが彼の前では自信がない。本心を隠すのだって本当はもっと上手く出来ていたはずなのに。
    「……ぼくもランランのこと知らないけどね」
     組んだ指を動かしながら、うつむいたままでぼくの言葉を聞いていた彼の唇が、言葉を探すようにかすかに動いた。
    「……また先生と一緒にいられるようになりてえなって、ずっとそう思ってて、そんでこの一〇年一人で頑張ってたんだ」
    「うん」
    「おれ、先生のこと、ずっと考えてて」
     それは知ってたよ
    「先生のこと、ずっと好きで」
     それも知ってる
    「ずっとそばにいたいって、思ってんだ」
     その声が少しだけ震えた。今、顔を覗き込んだら怒るだろうか。長い睫毛が影を落としている頬をそっと撫でると、彼はようやく顔を上げその美しい色違いの瞳でぼくを捉える。
    「先生も同じこと考えててくれたらいいなって思ってたから……本棚倒しちまった時、先生逃げればよかったのに」
    「あの時は、ぼくも動けなかったって言ったよ……意味が分からなかったなら、別にいいけど」
     その言葉でなにかを思い出したのか、彼の耳が赤くなっていく。別に嫌だったわけではないと、この場合はもっとはっきり言ったほうがいいのか。頬を撫でてやりながら考えていたら、彼はしばらく黙りこくった後
     
    「おれ、先生が何者でもいいんだ。おれの好きな嶺二先生に変わりはねぇから」
     
     そんな事を口にした。
     やけに引っかかる言い方をされ、ぼくは体がこわばり手が止まってしまう。
    「やだな、なに? 何者って」
    「……魔法協会に、先生の名前無いだろ」
     なんで。なんでそんな事を。
     一体どこまで知った?
     首の後ろがザワザワする。
    「おれの先祖に魔法使いがいたって聞かされてたから、その事を調べてた時にたまたま気付いちまって」
    「……調べたの? ぼくのことも」
    「そんなやらしいことしねぇよ……ただ、なんでだろうって思っただけだ。先生はわざと協会に入ってねぇのかなって。そういう人もいるらしいし。それとも、もしかして本当は名前違うのかな、とか。先生から聞いたことなかったから」
    「……名前は本当だよ」
    「ならよかった……おれ、嶺二先生のこと本当になにも知らなぇなって思って」
    「聞かれた事、無かったからね」
    「だから、先生のこと知りてぇんだよ」
     迷いのない眼差しを向けられても、ぼくは即答ができないでいた。

     
     この先
     もしもの話だ
     
     彼とこのまま、いつか死が分かつ日まで共に歩んでいくとしよう。そうなればいずれ、ぼくのことを彼に知ってもらわなければならなくなる。取り残される苦しみも、置き去りにする悲しみも、理解してもらえるのか。受け入れてくれるだろうか。
     
     ぼくの命は果てることが無く
     終わりのない時間の中にいることを
     
     
     
     何百年か前の事。子供に読み聞かせる絵本のように昔々の話になる。あの頃ぼくには、初めて愛した人がいた。とても美しい人だった。しかし、ぼくがその想いを告げるよりも早く、ぼくの愛しい人は流行り病に倒れてしまう。何の力もない三流の魔法使いだったぼくには、滾々と眠り続ける愛しい人をただ黙って見守る事しかできなかった。
     生を受けた以上いずれ来る死を受け入れなければならないものという人として当然の事すら、ぼくには到底受け入れられなくなっていた。限りある命の中において、それを繋ぎ止めたいという願望を持たない者がいるだろうか、と。
     ――せめてもう一度その声でぼくの名前を呼んでほしい。
     ぼくは愛しい人の命を、この世に繋ぎ止めようと決めた。
     医術に関する知識なぞ持ち合わせていなかったが、当時の技術など知れたものだ。ぼくは魔法協会の伝手を使って、ありとあらゆる文献を調べ尽くした。人の手による医術薬学で追いつかないのならそれ以外の力で解決できる。たいした知識もないくせにぼくはそう信じていた。そうして先人達の知識に頼り、薬になるもの、毒になるもの、たくさんのものを作り出した。
     そんな最中に、見つけてしまったものがある。不老不死の魔法薬。その調合に関する情報だ。
     これはこの世に存在してはならない魔法薬として、内容に関わるものはすべて協会側が厳重に封じている。一介のしがない魔法使いがおいそれと見聞きしていいものではないし、人の命を操ることや生死に関わる魔術を行うこと自体が一切認められていない。
     
     それを分かっていて、ぼくはその禁忌に触れた。
     
     それなのに。ぼくは愛しい人を眠りから覚ますことができなかった。二度とその声でぼくの名前を呼んでくれることはなかった。力も時間も足りなかった。あと少し早ければ、間に合ったのに。
     深い悲しみの中に取り残されたぼくは人の命の弱さを憎んだ。魔法使いが人よりわずかばかり長く生き存えるとしても、この悲しみからは逃れられないことを憎んでしまったのだ。
     
     愛しい人、どうかぼくと共に生きてほしい。
     ぼくは、ぼくの記憶の中で生き続ける愛しの人に永遠の命を与えたい一心で
     その薬に口をつけた。
     
     悪事をはたらけばそれはそのまま返ってくるのが世の常だという。魔法協会の所蔵物や個人所有の物問わず、文献、資料、論文、書物、記録、古い物から新しい物まで、とにかく手当り次第読み漁っていたぼくは早々に目を付けられていた。禁忌を犯した事は隠し通せず、協会からぼくの名は永久に抹消され、魔法使いとしてのぼくの名前がこの世界に残されることはなくなった。
     
     以来、ぼくの肉体的な時の流れは止まる。容姿が全く変わらないことを訝しむ者がいればその地を離れ、隠れるように生きてきた。それも何百年か経ってしまえばぼくの事を知る者はほとんどいなくなった。そして長い時間を過ごす間にも、たくさんの生死に出会ってきた。その中には親密だった人も何人かはいた。何度も同じ悲しみを重ねるにつれ、ぼくの記憶の中から初めて愛したあの人が少しずつ消えてゆくのを感じるようになり、永遠というものはこの世に存在しないのだと初めて思った。それならば、ぼくは一体何なのだろう。自分だけがこの世界の輪から外れている。終わらない命を得て、ぼくは何者に成り下がってしまったのか。自分の事が分からない恐怖から逃れたくて、ぼくはもう人を愛すべきではなく、人から愛されてもいけないと思うようになった。
     
     彼に対しても、そうでなければいけなかったんだ。ぼくの素性を知らないとはいえ、彼がこの先得られるはずの喜びや幸福を、奪ってしまうであろうこのぼくが。彼の愛情を受けていいはずがない。そんなことが許されては。
     
    「……嶺二先生?」
     どこからそんな声を出しているのだろうと思ってしまうくらい、甘く名前を呼ばれた。気が付くと彼の頬にあてがっていたぼくの手は、彼に柔らかく握り返されている。
    「おれ、先生から魔法の事はたくさん教わってきたけど、本当に知りたい事がまだ残ってんだ」
     この手を振り払うだけでいい。今までだったらそうしていた。頭では分かっているつもりでも、期待と願いを孕んでしまった心が拒む。誰かを愛しむ事、それがまだぼくにはできてしまう。これもぼくの贖罪か。
    「……おれのこと嫌だったら逃げてくれて構わねぇし、言いたくない事あんなら無理に聞かねぇから」
     
     しがない三流魔法使いの頃から何一つ成長しないまま、長い時間を無駄に生きただけのぼくなのに、彼はこんなにも愛しさを込めた眼で見てくれる。
    「きみの大好きな嶺二先生は、本当に出来が悪いんだよ」
    「知らねぇよ……それはおれが決める事だろ」
     ぼくの手をその両手で包み込み、祈るような姿で彼が言う。
    「だから、嶺二先生のこともっと、おれに教えて」
     
     その言葉がどこまでの意味なのか。きみのその声で聞かせて欲しい思ったけれど、それはさすがに意地悪がすぎるか。
    黒崎先生が知りたい事、寮監嶺二が隠したい事
     
     一日目、深夜
    「この時間帯に出入りがあると全部記録つけて書類出さなきゃいけないんだよ。面倒だから朝までここにいて」
     新入生寮の前で揉めて嶺二先生に叱られた深夜の事。『翌朝の仕事が増えるだけだから、もう門を開けたくない』という理由で引き止められた。
    「今日は帰れって言われるかと思ってた」
    「帰りたいの?」
    「帰りたくねぇな」
     問われてつられるように返事をする。それだけで他意はなかったのに、なぜか嶺二先生がぎょっとした。
    「え、なに先生」
    「ちょっとランラン……どこでそういうの覚えてきたの」
    「は?」
    「……何でもない。仮眠用のブランケット持ってくるから待ってて」
    「いいよ、どうせあと何時間も無いだろ。おれ寝ねぇから」
    「ぼくは寝るよ」
    「先生が寝るのかよ……え? ここで??」
    「嫌なら寮監室戻るけど」
    「嫌じゃねぇけど、いや、嫌なわけねぇじゃん」
     先生は口をへの字にしてしばらくおれの顔を見た後、するりと部屋から出ていった。
    「は……?」
     別にここは先生の家でも、先生の部屋でもないし、寝るならこんな部屋でなくてもって思っただけだ。そもそもおれ、学生の頃は先生の家に住んでたわけで、今更寝てる先生がそこら変にいたからって別に……いや、別にどうって事ない。大丈夫。多分。なのになんだあの顔。からかわれて拗ねてるみたいな、あの顔。あ、昔レン先生にちょっかい出されてたおれもあんな顔してたのかも。考えるとなんだか首の辺りがムズムズしてしまう。それに帰るって言っても、まだ荷物全部こっちに持ってきてねぇし。
     ……そういえば先生の家のおれが使ってた部屋、無事かな。物で埋まってんじゃねぇかな。部屋使いたいって言った時、即答してくんなかったもんな。また片付けからか。別にいいけど。などと考えていたら、扉を小突く音がした。
    「ねぇランラン、ドア開けて」
     開けるとブランケットとクッションを抱え、カップを二つ持って先生が立っている。
    「おかえり」
    「ただいま……いや、ここ別にぼくの部屋じゃないけどね。これ、せめてものおもてなし」
     温かい飲み物が入ったカップをテーブルに置き、嶺二先生は長椅子の居心地を整え始める。
    「この部屋使わないで大丈夫みたいだから」
    「誰が?」
    「他に悪さしてる生徒はいなかったって」
    「あぁ、そういうこと」
    「そういうこと。悪さした生徒はランランだけだね」
     クッションを背もたれにブランケットを広げながら嶺二先生は笑ってそう言った。
    「おれもう生徒じゃねぇぞ」
    「色々悪さはしたでしょ」
     このくらいなら罰は当たらないだろうと少し距離を詰めて嶺二先生の隣に座る。
    「……ここでは変な事しないでよ」
    「……変な事ってなんだよ」
     また先生が口をへの字にした。なんださっきから。おれ、何かまずいこと言ったのか。
     
     
     二日目、昼
     嶺二先生の家で魔法情報学科の教師が来るのを待っている最中、うやむやにされていたままでいるあの部屋のことを聞いてみた。
    「部屋はあるよ」
     何を言ってもこんな不真面目な答えしか帰ってこない。間違って部屋を吹き飛ばしたという訳ではなさそうだったが、余程ひどいことになっているのだろうと覚悟した。とりあえず中を見せてほしいとだけ言っているにも関わらず、嶺二先生は頑なにそれを拒む。
    「どうせ物置にでもなってんだろ? 十年も経ってりゃ当たり前だし、別に物が多いのはいつもの事じゃねぇか」
    「いや、そういう訳じゃないんだけど、今じゃなくてもいいじゃんって言ってるだけ」
     二階に上がってすぐの部屋。学生時代に住んでいた小さい部屋の扉を背にして頑として動かない嶺二先生との押し問答は終わりが見えない。
    「じゃあ何だよ。もう元々住んでたとこ引き払うから荷物運びてぇんだけど」
    「まだここ住んでいいって言ってないよ。教員寮だってあるんだから、先生の言う事聞きなさい」
    「片付けんのどうせおれがやるんだからいいだろ、諦め悪ぃぞ先生」
     らちが明かない。嶺二先生を抱え力ずくで引き剥がす強硬手段に出て、扉に手をかけた。
    「いいって言ってない……あ、ちょっとランラン何すんの! 勝手しないで……」
     カチャリと軽い音を立てて扉が開くと、目の前には想像と真逆の風景が広がった。嶺二先生のことだ、きっとガラクタで部屋が埋まっているのだろうと思っていたのに、拍子抜けするほど部屋の中はがらんとしていた。おれが部屋を出る時に置いて行ったベッドと棚の上に恐ろしい量のホコリが積もってる以外は、何も無かった。
    「なんだよ空っぽじゃん」
    「……そうだよ。悪い?」
    「いや、悪くねぇんだけど」
     最後に見た風景がかぶる。卒業式の日、この部屋を出た時に見たそのままだと思った。
    「嶺二先生、もしかして」
     嶺二先生を見るとまた口を曲げて気まずそうな顔をしている。
    「おれが卒業した時から使ってねぇのか」
    「……見ればわかるでしょう」
    「なんでだよ」
    「なんでって、別に、使う必要無かっただけ」
     嘘だ。物置にうってつけの空き部屋だろ。だったら他の部屋がごちゃごちゃ荒れてるのも幾分マシだったはず。邪魔な物は所構わず何でもかんでも突っ込むくせに。
    「じゃあどうしてすぐに見せねぇんだ」
    「掃除してなかったから」
     それも嘘だ。掃除嫌いだったくせによく言う。おれが学生の時だって、まずこの部屋の中を片付けて、掃除もおれがやったの覚えてんぞ。
    「下手な嘘つくのやめろよ」
    「嘘じゃないですけど」
    「なんでこの部屋、そのままにしてんだ」
     嶺二先生の顔を覗きこむ。先生は目を合わそうとしない。先生の目元を隠している前髪を指ですくいながらおれは想像する。もし、この下手な嘘の裏にある理由がおれだったらどうだろう。
     
    「……本当は、もうこの学校をやめるつもりだったから」
     渋々、といった様子で先生がようやく話をし始めてくれた。
    「おれが卒業した後だろ。トキヤ先生から聞いた」
    「なんだ、知ってたの」
     学校を辞めるつもりだったのは、必要な魔法植物学の知識は全部おれに教えたからだと先生は言った。
    「ぼくたち魔法使いがやってる事は、木を育てるようなものだから。後はランランが好きなように育ててくれればそれでいいと思ってる」
     魔法の基礎を樹木の幹だとすれば、学び研究を深めていく事でその幹から新しく枝葉が伸びてゆく。新芽の数が多ければその木は大きく育つし、そこからこぼれて全く別の木が育つこともある。もちろん枯れてしまうことだって長い魔法の歴史の中では幾度もあった。
    「古い人間が一人で長く続けていても限界があるし。知っての通りぼくは魔法協会に名前を残していないから、いくら研究を続けた所でどうせ世に出ることはなかったからね」
    「じゃあ、ここでもっと教えててもよかったろ……先生辞めるなんてもったいねぇ」
    「買いかぶり過ぎだよ。それにランランのおかげで、ぼくのしてきた事は無駄にならなかった。ぼくがいなくても、きみだけが知っていてくれればそれで十分」
     ぼくがいなくても、と言われて胸の奥が締め付けられるような感じがした。魔法植物学を引き継ぐ相手にはおれを選んでくれたのに、どうしてそれを一緒にとは言ってくれないんだろう。
    「なんで黙って学校辞めようとしたんだよ」
    「さっきから、なんで、ばかり言うねランランは」
    「分からないことだらけなんだから仕方ねぇだろ」
     おれの独りよがりならそれでも構わないけど、なんだか苦しくて先生の柔らかな髪を撫でる。先生はおれの手の動きに合わせるように、ゆっくりまばたきをした。
    「いや、そりゃあね、この学校に残らせてもらえたのはありがたい話なんだけど……ただ」
     叱られた子供がしょげてるみたいにおとなしくされるがままで、逆に調子が狂ってしまう。
    「この家にいても、もうきみから先生って呼ばれる事がない……っていうのは、思いの外こたえてね」
     一人でいる事には随分慣れていたはずなんだけど、と力無く笑う嶺二先生の伏せた睫毛に水滴が光るのが見えた。
    「この学校を離れるタイミングも逃してしまったし。またここで一人の時間を重ねる事になるなら、このままとっておきたかったんだ。ランランと一緒にいた時間はそのままにしときたかったんだよ」
     水滴がぱたぱたと落ちていく嶺二先生の目元を、おれは慌てて指で拭った。
    「……っ、なんだよ嶺二先生、急に」
    「この部屋を空けておいたらいつか帰ってきてくれるかもなんて、都合のいい事を思ってた訳じゃないんだけど。でもランランがここにいてくれた痕跡を消してしまうのは、なんかもったいなくて、どうしてもできなくて 」
    「……ちょっと待ってくれ先生」
     そんなの、おれがいなくなるのが嫌だったって言ってるようなものじゃないか。
     おれが教師になれたことを喜んでくれて、この学校に戻ってきた事も、先生の元に帰ってきたことも全部喜んでくれたけど。それよりも前に、おれがいないのを寂しく思ってたって? そんな素振り、一度も見せてくれなかった。おれだけなんだと思ってたのに。
     じゃあ、それなら、もしかして。卒業式の朝、おれのことを撫でてくれたあの手はおれを送り出す為のものではなかったんじゃないか。もしかしたら、おれが離れるのを惜しがっていた手だったんじゃないだろうか。そう思ったらたまらなくなって、先生の頬を両手で挟んで無理やり上を向かせる。先生の丸い眼に映ったおれが水面の水紋のようにゆらゆら揺れた。
    「や……なにすんのランラン」
    「なに気にしてたんだか知らねぇけど、じゃあまた戻って来いって言えばよかったじゃねぇか。あの日に、卒業の日に、寂しいって一言、言ってくれればよかった」
     違う、おれが言えなかったんだ。最後まで嶺二先生はおれの先生で、おれはまだ先生の生徒だったから、そんなことおれは言えなかった。言ってはいけないんだと思ってた。
    「……あのね、そんな簡単に……生徒に対して無責任なこと言えるわけないでしょ」
    「嶺二先生バカじゃねぇの。泣くほどとか、何なんだよバカじゃねぇの」
    「は? 泣いてません!」
    「泣いてんじゃねぇか」
    「勝手に見ないでくれる!?」
     めちゃくちゃな反論をしながら、嶺二先生は自分の顔をすっかり手で覆ってしまっていた。
    「あぁもうやだ……だからこの部屋見せたくなかったのに」
    「うるせぇ。そんなの、遅かれ早かれだからな」
     嶺二先生の下手な嘘の裏にあった理由はおれだった。おれだったんだ。嬉しくて愛おしくてどうしたらいいか分からなくなってしまって、怒られるの覚悟で先生の頭を肩口に押し付けて、栗色の髪へ顔をうずめる。
    「……ぼくがもうここにいなかったら、どうするつもりだった?」
    「それでもおれは、一生をかけてでも、絶対嶺二先生のところへ帰った」
     嶺二先生から返事は返ってこなかったけれど、代わりに小さく鼻をすする音が聞こえる。
    「この部屋また使ってもいいんだよな先生」
    「ダメって言っても、いうこと聞かないんでしょ。勝手にすればいいよもう」
    「だってダメな理由無くなっただろ。可愛くねぇな」
     なんて口の聞き方だとか可愛くないのはそっちだとか、嶺二先生はブツブツ文句を言っていたけど、おれが抱く手を退けようとはしてこなかった。
     
     
     
    「ボクが来る事分かってて何なの二人共」
     いいことがあれば、悪いことがある。声のする方を見れば、待ち人であった魔法情報学科の教師が不機嫌そうな顔を半分だけ階段から覗かせていた。
    「勝手に上がりこんで何度も邪魔するのは悪いと思ったから待っててあげたんだけど」
    「いや、それも人が悪いよ藍先生」
    「ボクなりに気を使ったんだ。レイジ先生はむしろ感謝すべきだよね。ランマルくん借りてくよ」
     魔法情報学科の教師はドカドカと上がってきて、そのままの奥の書斎へ向かう。嶺二先生は『あとは頼んだ』と小声で言っておれの背中を押した。最悪だ。
    「いちゃつくなら見えないところでやってって言ったでしょ」
    「いや、いちゃついてねぇし……いつから見てたんだよ」
    「言っていいの?」
    「いい、聞きたくない」
    「これであの本棚の中身がちゃんと元通りじゃなかったら怒るからね」
     もう怒ってるじゃないかと思ったけれどそれは口に出せなかった。
     
    「全然ダメじゃない。なんで本の位置覚えてないの」
    「逆になんで藍先生はこんなの覚えてられんだよ」
     中身を綺麗サッパリひっくり返した本棚はとりあえず見てくれを整えておいてはみたものの、やはり魔法情報学科の教師は気に食わなかったようで半分ばかりやり直しをさせられた。
    「そもそもバランス悪いだろこの入れ方」
    「いいんだよ。これでもレイジ先生なりに分類はされてるんだから、むやみに変えないで」
     部屋の奥から年代順。著者名でまとまってるか、そうでなければ内容毎。植物学に無関係のものはだいたい上の方。自分で書いたものは扉付きの棚に。
    「あっちの本棚の天井のあたりはほとんど趣味の悪い小説だよ。異形の話とか、夢の世界の自分と入れ替わる男の話とか。そこの裏は音読できないような詩集が隠れてるし」
    「へぇ……嶺二先生そんなの読んでんの」
    「さぁ? 好きで読んだものか、暇つぶしの慰みか……本当に読んだかどうかも分からないよ。ただ集めてるだけかもしれない。ここには古くて珍しいものがあって、ボクはそれが面白いだけだから」
    「そういうところ、見た事なかったな」
    「……まぁ、キミが知らないだけだろうね」
     そんな些細な事も自分は知らないのかと落ち込みかけて渋い顔をしていたら、魔法情報学科の教師は手の中の鍵束を目の前でじゃらつかせてきた。
    「そんな変な顔してるならついでにもう一つ手伝って。宝探しだよ」
     
     書斎の奥にいくつか並ぶ鍵付きの棚には嶺二先生の自筆の物が大量に押し込まれている。きちんと形になっているものだけではなくただのメモ書きや落書きのようなものまで一緒くたにされていて、保管場所なのかゴミ箱なのか分からない悪魔の箱だ。
    「この中に物と記憶に関するレイジ先生の論文があるはずなんだ。ボクの授業にちょっと借りたいんだけど」
    「あるはずって?」
    「この中はレイジ先生がたまにかき回すから、あるかどうかボクも自信がない」
    「藍先生なら魔法で情報拾って探せんじゃねぇの」
    「それが出来ればやってるよ。ここは情報が多すぎて、見ちゃいけないものを除外しきれないから無理なんだ」
     悪魔の箱に手を突っ込む作業をしながら、昔そんな話を聞かされたことがあったのを思い出した。勝手に情報を読んでしまって嶺二先生を怒らせた事があった、という話だったような記憶がある。確か何かの本の事だ。そんなことを考えながら紙の束を引っ張り出した拍子に、ごとり、と音を立てて足元に一冊の本が落ちてきた。表紙の装飾は消えかけていて、かなり古びているがとても見栄えの良い本。
     とても見覚えがある。学生の頃、おれには何も読めなかった、あの白紙の本だ。
     拾いあげると本の縁に魔力が滲んでいるのが見えて、今度こそこの本が白紙じゃない事が分かった。あの頃は何も感じなかったけど、今なら多分――
    「あぁ、それまだそこに入ってたんだ」
     魔法情報学科の教師と目があった。
    「懐かしいね。キミが昔持ち出した事があったの覚えてる?」
    「藍先生が触るの嫌がってた本だよな」
    「そう。でもそれは先生から許可を取ってない物だからダメだよ。ボクのいる前で開くのはやめて」
    『ボクの』をやけに強調する言い方で、表紙にかけていた手は魔法情報学科の教師にやんわりと押さえられた。
     
     二日目、夕方
    「あぁ、あった。よかった捨てられてなくて」
     目的の物を見つけた魔法情報学科の教師は早々に帰り支度を始める。
    「この棚の中はどうせレイジ先生が荒らすから適当に片付けておいて。鍵かけるの忘れないでね」
    「結局中身ほとんど出しちまったじゃねぇか。これ全部おれがしまうのかよ」
    「誰かさん達のせいでボクは無駄な時間を使ったんだよ。それにレイジ先生の魔法植物学の事はキミの管轄になるんでしょ。じゃあよろしくね、ランマル“先生”」
    「なんだよこんな時ばっかりおれのこと先生呼ばわりして……」
     でもこれから先、この書斎にある物に世話になるのは確かだ。必要な文献はほぼ揃っているし、先生が研究してきた分野は多岐に渡り、その歳に見合わないくらい量が多い。この家でたいていのことは用が済む。ただ、もう誰かが形にしてる事だから、といくつかの資料や研究論文を読ませてもらった以外は目にしたことがない。既出かどうかよりも、嶺二先生がその手で導き出したものだという事の方がおれには重要だったのに「感情論とは切り分けてね」といつも一蹴された。
     よく分からない絵が書いてある紙切れや、魔法植物学に関係ない事が書きなぐってあるノート。手を動かしながら面白そうなものが目に入ってしまう。そんなよそ見をしながらも一度外に出された物はほぼ棚の中に納まって、おれの手の中にはあの白紙だった本が残った。
     どうしよう。
     誤ってこの本を持ち出した時、自分だけ何も見えなかったのが子供心ながらに悔しかったというのも少しあった。藍先生は触るのも嫌がっていたけど、この本から感じる魔力は嶺二先生のものだけだ。何も危ない本ではない。開いた途端に悪魔が召喚される、なんて事も考えられない。
     魔が差す、というのはこの事なんだと思う。少しだけ、ほんの数ページだけ。
     開けると魔法言語がうっすらと浮かび上がる。あの時は真っ白な紙にしか見えなかったページに文字が浮かぶ。自分の成長をこんな形で実感したことに高揚し、はやる気持ちを抑えきれずページをめくった。
     
    「何だこれ」
     それは一人の男の日記だった。一日一日の様子が淡々と書かれているだけの、ただの日記だった。数ページ読み進めるが彼の毎日は平凡で、覚え書きと言ってもよさそうな内容が続く。一ページに数日分が収まるくらいの文量で、その日の食事や、新しい草花を見つけた場所、受けた仕事の内容、稼いだ金の話やらが書かれていた。たまに新しい魔法に挑戦したことなどが書かれていて、この男が魔法使いだったことが伺える。
    「……嶺二先生の日記? いや、それにしちゃ」
     
     
    「ランラン」
     
     
     名前を呼ぶ声が近づいてきた。本を棚に押し込んで、静かに扉を閉める。
    「藍先生に片付け押し付けられたんでしょ? 大丈夫?」
    「もう終わったから、大丈夫」
     声が震えないよう慎重に返事をした。
     
     
     三日目、昼
    「ダメだ荷物入り切らねぇ。結局おれが物置にしちまうなこれじゃ」
    「元から住む為に作ってあったわけじゃないもん……学生の時はランランがほとんど私物持って来なかったからこの部屋使えたんだよ」
    「にしてもこんなに狭かったか? 嶺二先生、何かしたろ」
    「してないよ。きみが勝手に大きくなったんだ」
     嶺二先生の家に押しかけるのに成功したまではよかったけれど、家出少年の様な身軽さで転がり込んだ学生の時分とはわけが違う。小さな部屋はあっという間に俺の荷物で埋まった。
    「この部屋このままにして、先生と寝室一緒でも構わねぇよ」
    「ちょっと、ふざけてないで。そんな事より要らないものは捨ててよ。ランラン物持ち過ぎ」
    「それ先生に言われたくねぇんだけど」
     考えるのに飽きてしまったので嶺二先生の後ろから首に手を回し抱きついてみる。寮監服は襟が硬くて邪魔くせぇなと思ってたら、腕を叩かれた。
    「……あまり使わないものだったらぼくの書斎に置いておく?」
    「え、いいのかよ」
    「いいよ。それにランラン、これからあそこに出入りすること増えるだろうし、一台棚あげるから使って。あとは下の部屋空ければいいか……」
     おれの腕をつねりながら嶺二先生は広げた手のひらを一振りする。無造作に積み上げていた箱がいくつか姿を消した。
    「あ、勝手にどこ飛ばしたんだよ」
    「書斎だよ。運ぶの面倒じゃん」
    「先生のその変な転移魔法、未だに仕組みが分かんねぇな」
    「ぼくが勝手にやってるものだから別に分からなくていいよ。こんなの」
     嶺二先生が使う転移の魔法はちょっと変わっていて普通に使われているものと仕組みが違う。何度か教わったけど結局理解できないままだ。
    「なんで物に魔力通さないで飛ばせんの?」
    「飛ばしてないから」
    「意味分かんねぇ」
    「入れ替えてるって昔説明したことなかったっけ? あったよね」
    「もう忘れた」
    「だから、こういう事だよ、ほら」
     嶺二先生が身体の周りを囲むようにぐるりと手を回すと、掌から紡がれた魔力にふわりとくるまれる。数度瞬きをした次の瞬間、おれの部屋から嶺二先生の書斎の中に景色が変わっていた。
    「いや、分かんねぇよ」
     
     一番初歩的なものが魔法円間で行き来をさせる転送魔法。これは魔法円さえ書ければ誰でもできる。その魔法円を省略したものが所謂転移魔法と呼ばれる部類になる。ただ、転移する物と転移先には魔法円の代わりに一度魔力で杭を打つ必要がある。点と点を繋いで移動させる原理だ。呪文の詠唱を省略したところでそこは変わらないのに、嶺二先生はその手順を踏まない。
    「移動する先の座標と入れ替えるっていうか。AからBに移動させるんじゃなくて、AとBを引っくり返す感じ」
    「空間魔法?」
    「それに近いのかな。よく分からないけどこの方がぼくは楽だから」
    「……魔法植物扱ってる教師がやる範囲じゃねぇな」
    「昔、暇つぶしになんとなく思い付いたものだからね。寮監になってからは門限破りの生徒捕まえるのに便利にしてるよ」
     暇つぶし。藍先生も言ってたな、そんなようなこと。
    「嶺二先生さぁ、この書斎の本って全部読んでんの?」
    「とりあえず一回位は読んでるよ。なんで?」
    「藍先生が魔法植物学に関係ない本もたくさんあるの知ってて、そういうの読んでる所見た事なかったし」
    「なんだろう。古い本の事かなぁ」
    「鍵閉めてる棚に、魔法植物学と別の魔法の事でも先生が調べた物たくさんあるだろ? だから、そんな暇なんかあったのかって思ったから……」
    「うーん、ぼくだって息抜きするのに物語くらい読んだりもするよ」
     書斎の中を見渡しながら嶺二先生は少し面倒くさそうに答えて突然歩き出した。慌てて後をついていく。
    「先生の歳であれだけの事するの大変だったんじゃねぇか。おれ、卒業してから一人でやってて、たった十年でもすげぇ大変だった」
    「時間なんてやりくり次第でどうにでもなるよ。それにぼくはそんなに若くないからね」
    「その見た目で若くねぇとか……先生いくつなんだよ」
    「ランランよりは歳上。そんなことどうでもいいから、こっち。この棚あげるから使って」
     扉付きの棚がいくつか並んでいる中、あの日記がしまわれている隣の棚を開けて嶺二先生が言う。
    「少し中身入ってるけど、そこら辺にどかしておいてくれればいいから」
    「……じゃあついでに先生が書いた物も読みたいんだけど」
    「調べ物なら他の文献探した方が早いと思うよ」
    「昔からそう言って、あんま見せてくれなかっただろ」
    「あまり参考にならないと思うけどな……別に構わないけど、余計なものは見ないでね」
     日記の事については触れずに、おれは口実を手に入れた。
     
     
     
     四日目、午前
     一階のソファで寝泊まりするのも流石に疲れると甘えてみたけれど、残念ながら先生のベッドを貸してもらえる見込みはない。先に自分の部屋を整えてからにしろと逆に怒られた。
    「ぼくちょっと出るけど来客はないと思うから。今のうちに上、片付けてよ」
    「手伝ってくんねぇのか」
    「あのねぇ。きみはまだ授業が始まってないけど、ぼくは寮監の仕事があるんだよ」
    「んだよ。ケチ」
    「ケチじゃないです、力仕事はランランの方が得意じゃん。いいベッドで寝たいなら、まず自分の事くらい自分でやってから交渉してよ」
    「え、いいベッドってどれのこと……」
    「引っ越しは手伝いませんからね」
     そう言い捨てて、さっさと出ていってしまった。
     
    「無理だ。減らせねぇわ」
     要らないものは捨てろと文句を言われたけれど、捨てられないから持ってきたのであって。一人ではほとんど体当たりでやっていたから、紙面上の事なんてほとんど見ちゃいなかったし、嶺二先生が持っていたから手元に置きたかっただけの書物も結構ある。それでも魔法植物学を学んできた道の上に、要らない物があるなんて考えられない。
    「先生の方が要らない物ぜってー多いだろ……」
     借りた棚への移し替えもほぼ終わり、元々しまわれていた先生の書いた何かに目を落とす。きちんとした研究論文でもデータでもないものばかりだったので、何かという言い方しかできない。
    「……レン先生の数式みたいなのだな。ていうかレン先生が書いたやつじゃねぇのかこれ。こっちはなんだ……編み図? なんでだよ。書いたの誰だこれ」
     見ていて面白いけれど、確かに参考になるものではない。とはいえ勝手に捨てるわけにはいかないので隣の棚に詰めこんでおこうかと、扉を開ける。
    「……いや、これを、しまうだけだから」と、誰に向けてでもなく言い訳じみた独り言が口をつく。こんなことをして、嶺二先生から怒られてもつまらない。余計なものは見るなと言われてる。でも、これが余計なものと決まったわけでも、中身が嶺二先生の事だと決まったわけでもない。
     葛藤に体のいい口実を付けて、おれは結局、あの日記をまた手にしていた。
     
     平凡な男の毎日の記録がしばらく続く。そしてある時、どうやら彼は恋をしたらしい。毎日の記録の中に愛の言葉が増えてゆく。さぞ幸せだったのだろうと思っていたら、突然彼の恋は終わりを告げた。当時の流行病が彼の想い人を連れ去ったらしい。この頃の医療技術ではとても助かる見込みなんてなかったのだと思う。
    『☓☓☓年☓☓月☓日
     間に合わなかった。ぼくの愛しい人は……、……った。神…… …… ……だと…… …… ……い。…… ……』
     その日付の内容は、文字が震えていてうまく読めなかった。
     彼がその病を治そうと奮闘していた記録は何十ページにも渡り事細かに書かれている。魔法を試す、植物の調合を探す、精製方法を変える。もはや日記ではなく何かの走り書きであったり、実験結果を書き留めたページもあった。それらはおれでも当然にできるようなもので、魔法植物学を学び始めた頃に教わったものに似ていた。そのくらい初歩的な事を、全く何もないところから全て調べ上げて書き留めている。そんなような内容だった。
     ただ一つだけ、材料以外は分量も精製方法も書き残されていなかったものがあった。一言二言添えられていたけれど、何を作るためのものかは分からなかった。
     改めて疑問に思う。これは誰が、誰のことを書いているんだろう。嶺二先生のものだとしたらやはり日付がおかしい。これは、本当に日記なのだろうか。日記調の小説の類いか。そうだとしても、わざわざ魔法言語を使ってまでこんなに細かく書く必要がない。
    『☓☓年☓☓月☓☓日
     きみに永遠を与えるはずだったこの魔法薬は、ぼくが代わりに口にした。愛しい人、どうかぼくの心の中で共に生きてほしい。』
     ……これが架空の物語であれば、この告白がどういう事か想像できる。恐らく先に出てきたあの材料から作られた物のことだろう。読み物としてなら面白いのだと思う。でもこれが、実在する誰かの事だというのなら、俄に信じがたい。永遠の命なんてあり得ない。この世にあってはいけないと教えられてきたものだ。
     ふと、手が止まる。おれが誤ってこの本を持ち出したあの時、魔法化学科の教師も魔法情報学科の教師も揃ってこの本については言葉を濁していた事を、思い出した。本人に聞けと言われた事も、魔法数学科の教師が真面目な調子でおれに話をしてくれた事も。
     
    『☓☓☓年☓☓月☓☓日
     魔法協会から除名された。ぼくはそれだけの事をしたので当然だと思う。もう噂も広まってしまった。この領地を出なければならなくなったけれど、ぼくの見つけた魔法と植物に関』
     
     心臓が跳ね上がり、思わず勢いよく本を閉じた。昔々の物語、とでも出だしに書かれていればよかった。これが嶺二先生の書いたものでなければ、とある魔法使いの手記ということで丸く収まった。先生の字で書かれているその意味を、うまく考えられない。好奇心に罪悪感がチクチクと刺さり続けている。
     これは誰の日記なんだ。おれは、誰の秘密を見ているんだろう。
     
    『ぼくの見つけた魔法と植物に関するたくさんの事はいつか役に立てたい。魔法協会を通さなくても広める方法はあるだろうか。』
     この日を境に日記の日付は飛び飛びになっていく。書き残されているのは新しく移り住んだ土地の名前だけの繰り返しが続く。
    『☓☓☓☓年☓月☓☓日
     きみの顔をよく思い出せなくなっていた。永遠などこの世には存在しないとようやく気付いた。それならぼくは一体何なのだろうね。』
     時間が足早に過ぎてゆくように感じた。転々とした生活は、長く同じ地にいる事で訝しがる人が出てくる事も理由だったようだ。見知らぬ土地の名前の羅列の中で、まれに彼は人の死に立ち会う事に過剰な悲しみを綴っていた。特に関係が深い人が自分を残して逝く事に対して後悔の言葉を多く残している。自分だけが周りに取り残される恐ろしさはどのようなものか。想像のしようがなかった。
     息苦しさを感じて、手早くページを捲る。日付は相変わらず古いものではあったけれどようやく見知った地名が出てきた。
     この魔法学校がある街の名前だ。
     
     思わずため息をつき、額に手をあてる。触れた前髪は汗で湿り気を帯びていた。
    「嘘だろ」
     嘘みたいな話だ。でも、今まで少しだけ気になっていた事には合点がいく。外見年齢が若過ぎることも見た目がまったく変わっていないのも、魔法使いの特性が強く出ているのかと思っていた。特殊な体質のおれでも命が危ないような物に全く影響されないのは、おれと一緒だった訳じゃなかったんだ。この学校をはなれようとしたのも、きっとおれを育て終わったからという理由だけじゃない。『無責任』だと言っていたのは、傷付くのも傷付けるのも怖いからだ。ここに書かれていることは分かったけれど、それをすんなり受け入れるにはおれの頭は混乱しすぎている。嶺二先生に聞くべきだった。直接その言葉で聞くべきだった事だ。おれはどうしたらいい。
     
     
     
    「……ランラン、何見てるの?」
     
     急に耳元で声がして、血の気が引いた。背後から嶺二先生が覗き込んでいる。
    「余計なものは見ないでってぼく言ったよね」
    「あ……」
     嶺二先生からこんな冷ややかな声は聞いたことが無い。おれの手から日記がそっと取り上げられる。
    「……知りたい事があるなら教えるとは言ったけど、勝手に見ていいとは言ってないよ」
    「ごめん、先生」
     そうだ、あの藍先生ですら怒られたと言っていた。恐る恐る見ると、とても悲しそうな苦しそうな顔をしていた。
    「隠していたのは悪かったと思うけど、こんな形でランランに知られるのは、ちょっと不本意だったな」
    「嶺二先生」
    「……それを読んで、どう思ったかな? ぼくのこと。逃げ隠れして生きてきて、愚かだと思った? 哀れだと思った? それとも、決まりを破ってまであんな魔法薬を探して、軽蔑されたかな」
     そうまくし立て、嶺二先生は自嘲気味に笑った。
    「思ってねぇよ、先生のことそんな風に思うわけねぇだろ」
     伸ばしたおれの手から逃げるように後ずさる、嶺二先生を囲んで魔力が張り巡らされていく。転移魔法を使う気だと直感した。
    「待てよ、どこ行くんだ」
     追いかけなければ。頭をフル回転させて嶺二先生の魔力を探知する。転移先さえ探せれば追いかけられる、はずなのに、それが見つからない。先生の魔力を追えない。なんで。なんで。
     ……そうだ。先生のこの魔法は、転移先に目印を打たない。移動させるのではなく入れ替える、というのはそういうことか。楽だからと言っていたけれど、そうじゃない。この人はいつも『足跡を残さない』やり方をしているんだ。
     もう考えるだけ無駄だと思った。咄嗟に駆け寄って手を出す。魔力が壁になり、ぐ、と押し返されるような感覚。直接的な魔力の攻防なんて戦闘魔法の訓練でもしていなければ勝手が分からないけど、力比べに勝てばいいんだ。片腕を捩じ込み先生の手首を掴む。
    「ちょっと、離して」
    「……っ、逃げんじゃねぇよ」
    「逃げたきゃ逃げろって言ったのランランでしょ」
    「おれのことが嫌なら逃げろって言ったんだ。そうじゃねぇなら逃げんな」
     嶺二先生が身動いだ。魔力の圧力が強くなり、ふわりと着ているローブが浮く。
    「嶺二先生が逃げようとしてるのは、おれからじゃねぇだろ。自分から逃げてんだ」
     顔を歪めて掴んだ手を振り払おうとする。壁をこじ開けるよう身体を入れて踏み込んだ。
    「……嶺二!!」
     手をのばす。捕まえた、と思った瞬間、足元が揺らいだ。がくんと身体が落ち、指先が先生の服を掠めた。
    「……来ないで、入っちゃだめ!」
    「……え」
     足元を見る、暗い。床がない。暗闇だ。何だこれ。自分の足元から暗闇に飲まれていく。何も見えない。感覚が消えていく。
    「ランラン! 下見ないで」
     このまま落ちると思った瞬間に強く引き寄せられ、包まれていた嶺二先生の魔力が薄くなった。魔法を中断したんだろう。それでもおれの目の前で足元の暗闇はずるずると広がってくる。消えない。全部真っ暗で感覚が戻らない。怖い。おれの身体どこいった「ランラン、ランランこっち見て」先生の声がした。
    「あしが」
    「ランラン、だめ。こっち見て。ぼくのことを見て」
     声のする方を見上げた。嶺二先生がいる。
    「大丈夫だよ。ぼくのこと分かるね?」
    「れいじせんせい」
    「きみは誰? 名前を教えて」
    「くろさきらんまる」
    「ぼくのこと触って。分かる?」
    「わからない」
    「ぼくが触ってるのは分かる?」
    「分かる」
    「これはランランの手だよ。もっと触って」
     手、おれの手。感覚が戻ってくる。嶺二先生がおれの手を胸に押し付けているのが分かった。その腕に縋り付く。
    「おれ、どうなってんだ」
    「大丈夫。他は見ちゃだめ、ぼくのことだけ見てて。自分が存在している事だけ考えて。ぼくもランランもここにいるよ」
     ランラン、となぜかたくさん名前を呼ばれた。おれも名前を呼んだ。あちこち触られて、おれもその手に触れる。大丈夫、とキスをくれた。そうしている内に、投げ出している足に重みを感じて、見るとあの暗闇は消えていた。身体をそっと動かしてみる。
    「大丈夫? よかった……あんな無茶苦茶なことする人初めて見たよ」
     おれを抱きかかえたまま、嶺二先生はいつもの優しい声で言った。
    「もうやんねぇよ……何だったんだよ今の……」
     嶺二先生の胸に頭を擦り寄せる。
    「ぼくの魔法、どうしても境目に歪みができちゃうんだよ。その隙間に落っこちそうになってたの」
     魔力で点同士を繋ぐ転移の魔法であれば、割り込んだところで一緒に移動して終わる。嶺二先生の場合は空間を切り離す一瞬、隙間が出来る。運が悪い事におれはそこを踏んだらしい。
    「さっきランランは怖いって思っちゃったでしょ。それできみの存在が揺らいでしまって、ああなったんだよ。あの隙間は完全に無の空間だから」
    「じゃあ、あの暗闇に落ちたら、おれ消えてたってことか」
    「脅かすわけじゃないけど、自分を認知できていないと形を保てないからそうなるね」
     身体の感覚が無くなって、沈んでいくようなあの感じを思い出して鳥肌がたった。だからやたら名前を呼ばれたり触られたりしていたのか。
    「そんな危ねぇ魔法、ホイホイ使うなよ……」
    「ごめんねランラン。怖い思いをさせちゃった」
    「いや、でも約束破ったのおれだし……あの本見るくらいなら嶺二先生に自分から聞けって、言われてたのに」
    「誰に?」
    「カミュ先生と藍先生」
    「あぁ……でもぼくも、ランランには読めないと思ってほっぽっといたからね。昔一回手にとった事あったでしょ? きみの魔力がべったりだったからバレてるよ」
    「……ごめん、先生」
    「いいよ。ランランにはその内、話した方がいいのかなと思ってはいたんだ」
     嶺二先生は泣き笑いのような顔をしていた。そんな顔をしないでほしくて、先生の頬を撫でる。
    「……ぼくにきみの時間をくれる? だいぶ長い話になると思うけど」
    「一晩中でも一日中でも。おれの時間なんていくらでもやる」
     
     
     
     
    「……そういうのは、レン先生の悪い影響かな」
    「何が?」
    「口説き文句」
    黒崎先生は反省している
    床にへたり込んだぼくの膝の上に銀色の髪が広がる。ぼくを枕に寝転んでいる彼の頭を撫でながら、しばらく話をした。
    「体の感覚ある?大丈夫?」
    「大丈夫。ちょっとだりぃけど」
    「もうあの魔法はあまり使わないようにするね」
    「何でだよ。使っていいんだよ。おれが無理に止めようとしたのが悪かったんだから」
    ぼくは使い慣れた魔法で、まさかの大事故を起こすところだったのだ。この十年で彼は、ぼくとは違う意味ですっかり規格外な魔法使いに育ったようだと思っていたけれど、まさかぼくに対してもあんな力業に出てくるとは。教え方が悪かったのだろうか。
    「……あれは結界の役目もあるし、外から人が入ってくる事なんてなかったから。焦っちゃった」
    「おれもあんな事になるなんて思ってなかったから、焦った」
    銀色の髪を手で梳いて感触を楽しんでいたら、彼はふいにごろりと身体をひねってぼくの腰に腕を回してきた。
    「あ、こら、ランラン」
    「その教員ローブって肩こらねぇか。すげぇ動きにくそう」
    ローブの後ろ襟がツンと引っ張られる。
    「前の服の方がいいのに」
    「寮監はこれって決まってるんだよ。ランランがこれから着るものじゃないんだから」
    「あのチビ助は違ぇじゃねぇか」
    「翔たん?あぁ、ぼくのは寮監長の服だから。そのうちあの子もこれを着るようになるよ」
    「へぇ。あいつが。それ着るのかよ。似合わねぇ」
    「なぁに?何が気に食わないの」
    「別に」
    「ランランも一緒に寮監やる?」
    「やなこった」
    彼がぐりぐりとぼくのお腹にやたら顔を擦り付けてきて、大きな猫にマーキングをされているみたいだ。近頃は使い魔を持つ風習はすっかり無くなったけど、若い頃に使役していた猫の事を思い出した。
    「何してるのさっきから」
    「嶺二先生の腹、なんか気持ちいい」
    「気持ちいいって……別に太ってないからね。もう、やめてよ」
    軽く頭を叩くとピタリと動くのを止め、おとなしくなってしまった。よく分からない話をしてくるのは、多分他に何か言いたい事があるんだろうと思ったので、声はかけずに彼の言葉を待つ。

    「……あのさ」
    「うん?」
    「さっきおれ、嶺二先生にひどいこと言った」
    「どれのこと?」
    「先生は、自分から逃げてんだろって」
    ごめん、とぼくのお腹の辺りから小さな声が響いた。
    「でもそれは……その通りだと思うから、別に」
    「……生意気言うなとか、言わねぇの」
    「言わないよ。だってぼくは、ランランから逃げたかったわけじゃない」
    ぼくの腰を抱いたまま彼は少し顔を上げ、横目でぼくを見ている。
    「日記勝手に見たこと、怒ってねぇの」
    「もう怒らないよ。本当の事を話すのは怖くて……聞かれてもうまく答えられたか、ちょっと自信がない」
    「そうか」
    拗ねてるような口ぶりで言うものだから、なんできみが不貞腐れてるの?と目尻を指でつつくと、くすぐったそうに目を閉じた。
    「魔法協会って、今は単なる組合みたいなものだけど昔はもっと厳しくてさ。追い出されたらもう魔法使いとしては生きていけないような時代だったんだよね」
    「それで、あちこち転々としてたんだな」
    「懲りずにやる事やってたし。そんなの見つかったら、それこそ犯罪者扱いだ。生きてられただけ儲けもんっていうか」
    まぁ死なないんだけどね……と思ったけれど、それを言ったら多分彼はいい気持ちがしないだろうから、言うのはやめた。
    「じゃあ、あの転移魔法はそん時のクセみたいなもんか」
    「うん、まぁそんなところかな。見つからないようにっていう悪知恵ばかり働かせてたね」
    「ふぅん」
    「協会にどの程度ぼくの記録が残ってるか分からないけど、戻りたいとも思わないし」
    彼は視線をこちらへ向けたり、顔をうずめたり、もぞもぞ動きながらまた何か言いたげにしている。
    「あのさ」
    「うん」
    「嶺二先生の……その、昔のこと、知ってる人って他にいんのか?」
    「いや、多分もう殆ど……この学校内でなら、カミュ先生が魔法協会にぼくの名前が無いことは知ってる。藍先生はもしかしたら少し……あとは学校長くらい」
    「だからカミュ先生はあんなに当たりが強ぇのか」
    「ふふ、そうだね。そうだと思う。ランランはそれで昔、カミュ先生の事嫌いだったよね」
    「だった、じゃねぇよ。今でも嫌いだよ」
    「でも彼の言うことも間違っていないよ。ぼくが魔法協会に所属もできないような三流魔法使い、っていうのは」
    「そういう事を勝手に言うから本当に嫌いなんだよ……」
    ぼくの腰を抱く腕に力が入った。どうもこの類いの話でへそを曲げるのは、学生の頃から変わっていないようだ。
    「カミュ先生の事嫌いでいいから機嫌直しなよ」
    「あぁもうその名前聞きたくねぇ。あの人まだ先生やってんのか」
    「元気にやってるよ。相変わらずぼくの植物園使ってるし」
    「最悪だ」
    「……ランラン、さてはぼくのこと好きだね?」
    「……は?なんだよ今更。好きだって言ってるだろ」
    信じてねぇのか、と彼はぼくの脇腹をまさぐりだした。
    「ちょ、やめてくすぐったい」
    二人で笑いながらもつれあって、バランスを崩した。あっという間にぼくの視界はひっくり返り、ほの暗い天井が広がる。目の前に彼の銀色の髪が揺れて、綺麗なバイアイがぼくを見下ろしていた。
    「嶺二先生」
    真っ直ぐにぼくを見て急に声を落とすものだから、不覚にも視線を外せなくなってしまう。薔薇色の瞳は彼の魔力の色。もしかして何かしら魔眼の能力も持っているんじゃないだろうか。ぼくは彼に呪いをかけられてしまったから、背中に当たる床の硬さも不快じゃない。

    「……まだ話す事はたくさんあるよ」
    「それはまた、後で聞く」
    ゆっくり近付かれて、口付けをされた。
    「やだな……ランラン、生意気」
    「さっき先生もおれにキスしたろ。お返し」
    「あれは……ランランに自分で感覚戻してもらわないと危なかったから、触覚与えるのに足りないと思って、考えてる時間も無かったし、それでつい咄嗟にっていうか」
    早口になってしまったぼくを見て、なにやら勝ち誇ったようにニヤニヤ笑いだした。
    「生意気。ランランだってぼくのこと、呼び捨てしたくせに。あれは何?」
    「え?あ……あれは、ちげぇよ。つい、咄嗟に出ちまっただけで、別に、その……」
    途端に顔を赤くして、口を尖らせ声がしぼんでいく。

    「ごめん、反省してる」
    寮監の旅の終わり(longing)

    「埃っぽい床にぼくを転がしたままにしておくのはどうかと思うな……それともここで続きする?」
    「続きって、何の」
    「話の」
     ぼくにだって面目というものがあるのだ。振り回されっぱなしも癪に障るし少し意地悪を言ってみた。彼はきょとんとして何度か瞬きをし、急に何か思い出したのか「あ」と短い音を出したあと、飛びかかってくるような勢いで言葉を発してきた。
    「先生先生、嶺二先生、あのさ」
    「ちょっとぼくの話聞いてたの?」
    「引越しの片付け終わったから、先生のベッド使わせてくれんだよな」
    「え? なんの話」
    「は? いいベッドで寝たきゃ自分のこと自分でやってから交渉しろって言ったの、嶺二先生じゃねぇか」
     そんな事言ったかな……言ったな。適当にあしらったつもりの一言をしっかり覚えられていた。昔から物覚えのいい子だったし、教えていた頃は素晴らしいギフトを貰った子だと思っていたけれど、ぼくの適当までそんなに事細かに覚えておく必要はないんじゃないかな。才能の無駄遣いも甚だしい。
    「いや片付け終わったなら自分のあるでしょ」
    「まだあの部屋のベッド使えないから寝られねぇもん」
    「じゃあ引越しの片付け終わってないじゃん」
    「こっちの片付けは終えたじゃねぇか」
    「まったくもう屁理屈ばっかり達者になって……」
     服に付いていた埃を摘んでいたら、その手を絡め取られ、ねだるように囁かれる。
    「なぁ、いいだろ嶺二先生。寝室、入れて」
    「あのねぇ、どこまで分かっててそれ言ってるの」
    「昔レン先生が、秘密の話はベッドでしろって言ってたから」
    「……あの人は一度説教しないとだめかな」
     
     
     一階のソファで寝るのが限界だという本音も吐いたので、一晩だけの約束で彼を自室へ招いた。ちなみにぼくの部屋はご想像の通り整理整頓は行き届いていない。学生の頃から見慣れている彼にとっては別にどうでもいい事のようだったが。
    「先生、折角でかいベッド使ってるのに相変わらず物で埋まってんだな」
    「自分が寝るのには困ってないからいいんだよ」
    「そんなのと添い寝するよりおれの方がいいと思うけど。話し相手になるし、あったけぇよ」
    「大人をからかわないでくれる?」
    「おれも大人だけどな」
     ベッドの上の物を根こそぎ床に払い落としてスペースを作ると、彼はさっさとベッドに飛び込み伸びをした。
    「あー……身体伸ばせる……昔から嶺二先生のベットでかくて羨ましかったんだよなー」
    「もっとそっち寄ってよ。ランランがいるとこのベット狭く見えるんですけど」
    「そうか?」
    「この学校に入学したばっかりの頃は、あんなに小さくて可愛かったのに」
    「何言ってんだよ、今でも可愛いだろ?」
     ベットの上でのびのびしている彼の横に腰を下ろすと、ご機嫌な様子でぼくの腰元のあたりにすり寄ってくる。
    「きみがぼくの子供だったら大変だったろうな」
    「先生が親でも、親孝行するいい子だったと思うぜ」
    「親子じゃなくてよかったよ」
    「……先生さ、家族いんの?」
    「そりゃ昔はいたさ。ぼくが木の股から生まれてきたとでも思っ……なにその顔」
    「え、いや」
     まずいことを聞いたとでも言いたげな顔をしていて、こちらが面食らってしまった。家族がいた、と過去形にしたのがいけなかっただろうか。
    「あの頃は両親と姉がいたね、会えないままもうこんなに時間もたってるから、どうなったかは……血が繋がってる人がまだいるのかも、よく分からなくなっちゃった。ぼく自身は今まで結婚したこともないしね。ランランは? 兄弟いるの?」
    「え……おれ、は……両親と、弟が三人……」
    「きみは学生の頃、まったく家に帰ろうとしなかったね。あまり話もしなかった」
    「おれ、あの家から体よく追い出されただけだからな。卒業して一度だけ帰った時も、両親はひでぇ顔してたぜ。一番下の弟なんておれのこと見ても誰だか分かんなかったみたいだし」
    「寂しくなかった?」
    「嶺二先生がいてくれればそれでよかったから全然」
    「きみはすぐそういうことを言う」
     猫をあやすように耳元をくすぐると、喉を鳴らす音でも聞こえてきそうな顔で身動いだ。
     
     少し気になっていたことがあった。彼がぼくの名を呼ぶ時の発音だ。ぼくの名前は特別変わったものではない。仰々しいわけでもなく、何か特別な意味を込めたものでもなく、ごく普通の昔からよくあるようなもの。彼がぼくの名前を呼ぶ時、少しだけ読み方が違う。名前の意味が変わってしまうほどの音の変化ではないけれど、その読み方でこの名を呼ぶ人はちょっと珍しくて、ぼくにとっては懐かしいものだ。
     ぼくの名をそう呼ぶ人を、ぼくは一人だけ知っている。
     
    「……ランランは何でぼくの名前をその読み方で呼ぶの?」
    「読み方? 嶺二先生は嶺二先生だろ。あってるじゃねぇか」
    「あってないから聞いたんだ。ぼくの名前の綴りは、こうね」
     床から紙切れと転がっていたペンを拾い、自分の名前の綴りを書きつける。寝転がっていた彼が半身を起こしてぼくの手元を覗き込んできた。
    「知ってるよ、それくらい」
    「普通に書いても魔法文字で書いても、別に特別な読み方や意味があるようなもんじゃ無いし、そのままれいじでいいんだけど。ランランは、この音言ってないよ」
     書いた名前の真ん中を、トン、とペンでなぞる。
    「え? ……知らねぇや。気にした事なかった」
    「うん、そうだろうと思ってたけど。珍しいんだよ、ぼくの名前をそう読む人。だからランランの出身ってそういう訛りとか、あるんだっけって思って」
    「方言あるっちゃあるけど……でもこんなの普通に読む音なんだけどな」
     れ、い、じ先生、れいじせんせい、れぃじ先生、れぇじせんせい。ぼくの名前を繰り返し呟いて首を傾げている。最後の方はちょっと怪しい。
    「れーじ先生」
    「戻ってるよ」
    「え、これ、違うのか」
     なるほど、これは無意識にそうなっているらしい。長く生きていれば不思議な事の一つや二つ起こるものだ。
    「……その読み方をする人が、昔一人だけいたんだけど」
     彼の猫のような眼がきろりとぼくを見上げた。
    「急に思い出しちゃって。なんか懐かしいなって」
    「ふぅん」
     これは話さなくても良かったかもしれない。多分、余計な話だった。
    「誰、それ」
    「昔の知り合い」
     手の中の紙切れを床へ投げようと屈んだ瞬間、腕を強く引かれた。
    「おっと……なに」
    「それ誰だよ」
    「いや、だから昔の知り合いだって言ったじゃん。もうとっくに死んでるよ。そんなに気になることじゃないでしょ」
    「あの人じゃねぇのか」
    「あの人って」
    「日記に書いてあった、あの人のことじゃねぇのか」
     真っ直ぐにぼくを見る彼から目が離せなかった。
     
     ぼくの名前を少し舌足らずにも聞こえる発音で読む。愛しいあの人はいつもぼくの名前をきちんと呼ばなかった。呼ばなかったのか、呼べなかったのか、理由は分からなかったけど、ぼくはその音でその声で、ぼくの名前が呼ばれる事がとても
     ――好きだった事を、そんな遥か昔のことを、思い出してた。彼がぼくの事を嶺二先生ではなく、名前で初めて呼んだものだから、もうずっとずっと忘れていたのにふと思い出せてしまった。
     
    「そうだよ、正解」
    「知り合いじゃねぇじゃん。それ……その、恋人だったんだろ」
    「違うよ。あれはぼくが一方的に好意を持っていただけで、何もなかったんだよ」
     また彼の顔がしくじったと言わんばかりに歪んだ。自分から吹っ掛けておいてそれは無いだろうと思ったけれど、いちいち反応するのが何だか面白くなってしまう。
     実際、ぼくが抱いていた好意が伝わることはなかったし、ぼくの名前がその口で呼ばれる意味は、友人以上のものでもそれ以下でもなかったんだ。
    「ねぇランラン、ぼくの昔話なんてそんなに気にしなくていいよ」
    「でも、なんかごめん、おれ」
     途端にほんのり目元が赤くなった。赤くなったり青くなったり忙しい子だ。
    「嶺二先生、その人のこと好きだったんだろ」
    「そうだね、好きだったよ」
    「……愛してたんだ」
    「多分ね」
    「今は……?」
     視線を落とし、か細い声で恐る恐ると聞いてくる。
    「そういう人がいた、っていう過去があるだけだよ。……実はもう顔も思い出せない」
     いくらぼくの身体が朽ちないとしても、記憶は積み重なり心の奥底の地層で劣化していく。誇張されるでも美化されるわけでもなく、過ぎた時間の中の出来事の一つになってしまっていたのは事実だった。
    「ただ、ぼくの名前の呼ぶ時の記憶だけ、どこかに少し残ってたのかも。」
    「あんなに想ってたのに?」
    「うーん……日記を読まれてると思うと恥ずかしいな……あの時はランランより若かったからな……。でもね、人の記憶なんてのは、そんなもんだよ」
     腕を掴んでいた手が離れ、彼が起き上がる。
    「……おれと、似てるか、その人」
    「え?」
    「女だか男だか知らねぇけど、他におれと似てるところあんのかって」
    「え……無いよ、無いと思う……けど」
     顔が思い出せないのは本当だし、どんな声だったかも、もう。
    「……おれ、家系的には魔法が使えるような身体で生まれるはずがなかったんだ」
    「そうだよね。ぼくも過去にクロサキの系図に魔法使いがいるなんていうのは聞いたことがなかった」
    「急にこんなのが生まれてきて、親も持て余したんだろうけど。おれは多分あの家で生きる為に生まれたんじゃねぇと思う」
    「……何の話してるの?」
    「もしかしたら過去のどこかで、おれは嶺二先生と会ってたんじゃないかって考えてみたんだけど」
    「ちょっと……ランラン、そんな物語みたいな話」
    「あるわけねぇよ。そんな夢みたいな話あるわけねぇけどさ。もしあったとしたら」
     彼はこんな絵空事を言うような子だっただろうか。
    「先生が大切に思ってたその人は、おれだったのかもしれない」
     言葉に詰まる。なにを突拍子もない事を、言い出してくれたんだ。
    「……生まれ変わりの話? あの人が生まれ変わって、ってこと?」
    「そう」
    「ランランが、あの人だっていうの?」
     そんな話、現象としては否定も肯定もできない。けれど。
     
    「ねぇ、ちょっと勘違いしないで」
     けれどぼくは、彼の一言に違和感を覚えた。
    「何かが似てるから、ランランの事が大切なわけじゃないよ」
     声が震えそうになる。
     ぼくは、あの日の事をもし悔やんでいたとしても、もう何も望んでなんていない。
    「なんでそんな事言うの」
    「もしもそんなことがあったらって話だろ」
    「ぼくのこと、ぼくの本当が何だっていいって、言ってくれたじゃない」
    「言ったよ。言ったし、それは変わんねぇよ」
    「ぼくだって、ランランだからこんなに愛しいと思ってるのに、あの人の代わりにしようだなんて考えたこと一度だって無いのに」
    「嶺二先生、そうじゃねぇんだって」
    「ランランが、あの人の生まれ変わりだなんて。なんでそんなこというの」
     感情が言うことを聞かない。まるで、日記に書き残したあの日のぼくのようだと思った。
     
    「……嶺二」
     ふわりと、すくい上げるように抱きすくめられる。
    「おれは、嶺二先生にのために生まれてきたんだ。先生に呼ばれて、やっと先生の側にいられる形で、ここに生まれてこれたんだって思ってる」
     彼の大きな手が背中をすべっていく。
     
    「さっきのは例え話のつもりだったんだ。名前の呼び方が、おれと似てるなんて言うから」
    「……こんな話、しなければよかったかな」
    「別に前世の記憶があるわけじゃねぇけどさ……嶺二先生が生きてきた間ずっと、おれは先生の事を探してたんじゃねえかな」
    「……ぼくのこと、探してた?」
    「そうだよ。何度も生まれ変わって、今やっと先生に会えた」
     息苦しいほど強く背中に回された腕に力が込められる。
    「だから、先生が思ってるのと逆で……あの人の生まれ変わりがおれ、なんじゃなくて。あの人が、おれの生まれ変わりだったんじゃねぇかって。そう思ったらどうかなって」
    「……それじゃあ、ランランもずいぶんと、長旅になってしまったね」
    「でも、おれのこと嶺二先生はずっと待っててくれたんだろ」
    「ふふ、そうだったのかもしれない」
     突然語られた夢みたいな物語に思わず笑みが溢れた。体が離され口惜しさを感じていたら、額をくっつけるようにしてぼくの顔を覗き込んでくる。
    「だったのかも、じゃねぇよ。そうなんだよ」
    「……じゃあぼくは、待ちくたびれちゃうところだったな」
     そう言って笑ったら、彼の唇が頬に触れた。
    「嶺二」
    「またぼくの事、呼び捨てにして」
    「あぁ? もういいじゃねぇか。謝らねぇぞ」
    「え? 開き直るの?」
    「先生のことをれえじって呼ぶのはおれだけなんだから、いいだろ別に」
    「よくないよ」
    「おれは先生の為のたった一人になれたんだから、いいんだよ」
     生意気、と言葉が出る前に唇は塞がれて、ぼくらはベッドに倒れ込んだ。
    寮監の旅の終わり(forgive me)寮監の旅の終わり(forgive me)
    事情があり別置きです。
    ylangylang_6902 Link Message Mute
    2020/06/06 0:49:27

    魔法植物学科教師 黒崎蘭丸と新入生寮寮監 寿嶺二の話

    シャニライ撮影「 輝き紡ぐ魔法の学び舎」の外枠だけをお借りした個人的設定の、捏造てんこ盛りパロ。
    黒崎先生と寮監嶺二くんのお話。話の流れは順番になっていますが、黒崎少年の方の4番目の話(干渉)とこちらの6番目の話(知りたい事)だけリンクしています

    ついったにぼちぼち流してるもののベタ打ちまとめです。
    #蘭嶺 #ツイッターログ

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    • 夏の熱金魚売りのお話のオマージュその4。
      金魚と春を売る金魚売り嶺二くんと貸座敷の雇い人黒崎さんの恋のお話。
      平たく言えば男娼パロ。
      時代設定や用語はふんわり。
      モブ嶺要素ほんのり。

      ちょっとえちなのと、かなりかけ離れた設定なので、ワンクッションでパスかけました→yes/no

      2頁目は文章ベタ打ち。
      #蘭嶺
      ylangylang_6902
    • 魔法の学び舎パロのことシャニライ撮影「 輝き紡ぐ魔法の学び舎」の外枠だけをお借りした捏造てんこ盛りパロ。

      魔法植物学科教師黒崎先生と新入生寮寮監嶺二くんと他の先生たちのお話。

      私の頭の中にある設定と前提をざくっとまとめたのがこちら。

      以下リンク、それぞれツイッターに投げた話をまとめてます。

      #蘭嶺 #ツイッターログ
      ylangylang_6902
    • のりきれ!デスマーチBLサイコロ:のりきれ!デスマーチ のお題
      『「お仕事お疲れ様」とホットミルクを作ったら泣かれた』で書きました。
      黒崎さん側、嶺二くん側、その後 の3つ。
      3つ目がお口でややエロなのでパスかけます。y/n

      #蘭嶺 #ツイッターログ
      ylangylang_6902
    • 4首締めてる話首絞めセ…してるだけの激短い文
      甘くないのでそういうの大丈夫な人
      y/n

      #蘭嶺
      ylangylang_6902
    • 金魚売りの男大好きで大好きでずっと頭の中にある、遥か昔に読んだ金魚売りのお話しのオマージュ。蘭嶺でもそもそ書きました。
      金魚と春を売る金魚売り嶺二くんと貸座敷の雇い人黒崎さんの恋のお話。
      平たく言えば男娼パロ。
      時代設定や用語はふんわり。
      モブ嶺要素あり。

      ちょっとえちなのと、かなりかけ離れた設定なので、ワンクッションでパスかけました→yes/no
      2頁目はベタ打ちです。

      #蘭嶺 ##金魚売りと雇い人
      ylangylang_6902
    • 金魚売りと出目金金魚売りのお話のオマージュその2。金魚と春を売る金魚売り嶺二くんと貸座敷の雇い人黒崎さんの恋のお話。
      平たく言えば男娼パロ。
      時代設定や用語はふんわり。
      モブ嶺要素はほんのり。

      かなりかけ離れた設定なので、ワンクッションでパスかけました→yes/no
      2頁目はベタ打ちです。

      #蘭嶺 ##金魚売りと雇い人
      ylangylang_6902
    • 雇い人と出目金金魚売りのお話のオマージュその3。
      金魚と春を売る金魚売り嶺二くんと貸座敷の雇い人黒崎さんの恋のお話。
      平たく言えば男娼パロ。
      時代設定や用語はふんわり。
      モブ嶺要素ほんのり。

      かなりかけ離れた設定なので、ワンクッションでパスかけました→yes/no
      2頁目はベタ打ちです。

      #蘭嶺 ##金魚売りと雇い人
      ylangylang_6902
    • 七月二十一日の金魚売りと雇い人の話金魚売りのお話のオマージュ番外編。
      7/21、0721の日ということで、そういうネタのお二人。ギャグです。

      金魚と春を売る金魚売り嶺二くんと貸座敷の雇い人黒崎さんの恋のお話。
      平たく言えば男娼パロ。
      時代設定や用語はふんわり。
      モブ嶺要素ほんのり。

      ちょっとえちなのと、かなりアレな設定なので、ワンクッションでパスかけました。→y/n

      #蘭嶺
      ylangylang_6902
    • 黒崎少年と嶺二先生と先生たちシャニライ撮影「 輝き紡ぐ魔法の学び舎」の外枠だけをお借りした個人的設定の、捏造てんこ盛りパロ。
      黒崎先生がまだ学生で寮監がまだ嶺二先生と呼ばれていた頃の、黒崎少年とその他の先生たちの話。

      ついったにぼちぼち流してるもののベタ打ちまとめです。ちょっと直してるのもあります。

      #蘭嶺 #ツイッターログ
      ylangylang_6902
    • バナナを食べるだけの話買い込んだバナナを一週間かけて消費する蘭嶺の話です。
      何か食べてるだけの蘭嶺シリーズ(?)なんですがやや匂わせなのでパス。y/n

      #蘭嶺 #ツイッターログ
      ylangylang_6902
    • 9共依存根暗なAWパロ。弁当屋とバンドマンに、辛辣だなと思いつつ、こういう解釈してました。
      https://galleria.emotionflow.com/s/87336/541743.htmlと繋がってるぽい話。

      根暗で無糖でセッしてます。
      甘くないの大丈夫な方
      y/n

      #蘭嶺
      ylangylang_6902
    • 寮監の旅の終わり(forgive me)シャニライ魔法の学び舎パロのシリーズにある、寮監の旅の終わり(longing)とセットのお話。黒崎先生の初めてのゴニョゴニョなので、パスかけるために別置きにせざるを得ませんでした。
      詳しい話はこちらから
      https://galleria.emotionflow.com/s/87336/540536.html

      魔法学校シリーズの蘭嶺なので普通の蘭嶺じゃないけど大丈夫な方 y/n

      #蘭嶺 #ツイッターログ
      ylangylang_6902
    • 5月のログTwitterでもそもそやってた蘭嶺のログ。

      5月分をまとめました。
      ※が付いてるのはえちです。ご注意下さい。

      #蘭嶺 #ツイッターログ
      ylangylang_6902
    • 4月のログTwitterでもそもそやってた蘭嶺のログ。

      4月分をまとめました。
      ※ が付いてるのはえちちです。ご注意下さい。

      #蘭嶺 #ツイッターログ
      ylangylang_6902
    • 3月のログ今年の3月頃からTwitterでもそもそやってた蘭嶺のログ。

      3月の分をまとめました。短いのばっかです。
      ※ が付いてるのはちょっとえちなのでご注意下さい。

      #蘭嶺 #ツイッターログ
      ylangylang_6902
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