黒崎少年と嶺二先生と先生たち 学生 黒崎蘭丸と魔法数学科教師の邂逅
「一人で退屈じゃない?」
植物園の中の作業台でノートをとっていたら、南の国の花のように明るい華やかな男がやってきた。
「ねぇ、寿先生どこにいるか教えてくれる?」
初めて見る顔だったのでおれは少し警戒心を持った。着ているローブは教師の物だったが、シャツの前は開きすぎていてだらしがないし、なによりその気だるい話し方は教師が学生に対してするには全くそぐわないと思った。
「誰ですか」
「そんなに警戒しないでよ。これでもちゃんとここの教師だよ」
「……ランラーン?」
その時、俺の気が立ってるのを感じ取ったらしい嶺二先生が飛び込んできた。
「あー、何かと思ったら。レン先生どったの」
「突然ごめんね、魔法科学のセンセにお使い頼まれちゃって」
「あぁ、この前言ってたやつかな。研究室来てくれる?」
「オッケー。じゃあまたね。怒った顔も瞳の色が綺麗だけど……次は笑ってくれると嬉しいな」
レン先生と呼ばれたその男はおれに何故かウィンクをし、嶺二先生の肩に手を置いて楽しげに喋りながら植物園を出ていった。
「先生! あの人何なんだよ」
「何なんだよって……先生だよ? 魔法数学科のレン先生」
かっこいいでしょう。女子生徒に人気なんだよね。嶺二先生はケラケラ笑いながら教えてくれた。
「さっきなんであんなに怒ってたの? ぼくビックリしちゃった」
「だって、変なやつが先生探しに来たと思って」
嶺二先生は目をまん丸くして、先程より盛大に笑い出した。
なんでか癪に障る。気に食わない。あんな甘ったるい声で、先生の名前を呼ぶなんて。先生も先生だ。かっこいいかどうかなんて、おれに関係ない。なんかムカつく。
「やぁ、今日も一人?」
また来た。
「嶺二先生なら今森の方に行ってます」
「また怒ってるの?」
「怒ってない」
「今日はキミと話したくて来たんだけど、ランちゃん」
ランちゃん?
誰のことだ。
……あぁ、おれか。
って、ふざけんな。なんだそれ。
「ランちゃん……って」
「寿先生がキミの事をランランって呼んでたから」
「勝手にあだ名付けないでください」
「えぇ……? でも寿先生はキミの事ランランって呼んでるじゃない。寿先生はよくて、なんでオレはダメなの?」
銀色の眼もいいけど薔薇のつぼみみたいなその色もやっぱり綺麗だね、なんてまた言ってきたので、おれはもう口をきくのを止めにした。
「ランラン、レン先生の事キライなの?」
嶺二先生が困り顔で聞いてきた。
「嫌い」
「なんで? いい人だよ?」
「先生にもおれにも、馴れ馴れしいから、なんか腹立つし。喋り方もやらしいし。服装も」
おれがぷりぷり怒っているのを見て、嶺二先生はちょっと笑った。
「やぁ」
「うわ、出た」
「人をオバケみたいに言わないでよ」
「嶺二先生なら図書館ですよ」
「そう。じゃあここで少し待たせてもらおうかな」
そう言って俺の横に勝手に座ってきた。やっぱり馴れ馴れしい。
「ねぇ、いつも一人で退屈じゃない?」
「大丈夫です、嶺二先生がいるし」
「ふぅん……ランちゃんはさ、同級生に仲良い子とか好きな子とかいないの?」
「急になんですか」
「単なるオレの好奇心だよ。このくらいの年頃の時はそういうのが楽しいんじゃない?」
「そういうの、別に。同級生っつってもどうせもう殆ど会わねぇし、元々そんなに仲良いヤツがいたわけでも……」
なるほどね、と魔法数学科の教師は何やら自分の周りに数式を書き始めた。
「あれ……? ランちゃん、もしかしてヤキモチやいてる?」
「へ?」
突然明後日の方向の質問を投げられ、理解できずに変な声が出てしまった。
ヤキモチ? 誰が? 誰に?
「あれ、違ったかな? ランちゃんは寿先生のことが好きなのかと思ったけど」
魔法数学科の教師がにっこりと笑いかけてきた。
「…………はぁ!?」
自分でも驚くくらい大きな声が出てしまった。なんてことを言い出すんだ。
「大丈夫だよ、オレは寿先生の事を横取りなんてしないから」
「ちが、おれは別にそんなんじゃ」
「ぼくが、何?」
タイミング悪く、嶺二先生が戻ってきた。一気に汗が噴き出す。余計な事言うんじゃねぇぞ。おれは魔法数学科の教師を横目で睨む。
「おかえり寿先生。ランちゃんが先生の事好きだって」
「えー? そうなのランラン。ぼくもランラン大好きだよ」
あーもう。
やっぱりおれは、この魔法数学科の教師が大嫌いだ。
学生 黒崎蘭丸と魔法数学科教師の対話
「やあ、ランちゃん」
鮮やかなオレンジの髪を揺らしながら魔法数学科の教師が来た。なぜわざわざおれが一人の時に来るんだろう。今日も相変わらず服がだらしない……と挨拶もせずに見ていたら、俺の目の前に可愛らしい箱を差し出してきた。
「今日はお土産があるよ。マカロン、好き?」
「食ったことねーから、知らね」
いけ好かないこの教師はいくらおれが言ってもこのあだ名で呼ぶのを止めようとしない。その腹いせに生徒らしく接するのを止めた。おれの態度についてこの教師は別段何も言ってこないし、嶺二先生から礼儀云々と咎められた事もない。それどころか『レン先生とそんなに仲良くなったの?』なんて言って逆に喜ばれる始末。冗談じゃねえ。
「食べてごらん。これは甘い物にうるさい先生が隠し持っていたモノだから、きっと美味しいよ」
甘い物にうるさい先生って誰だろう。女の人だろうな。隠し持ってたってことは、勝手に取ってきたのか……でもまぁバレたところでおれに罪はないし。箱に詰められた色とりどりのマカロンの中から、鮮やかな緑色の物を取り出し一口かじる。
「甘っ……」
「フフ、だろうね」
魔法数学科の教師が笑う。
「この前のお詫びにと思ってさ」
「……あれは絶対許さねぇからな」
こんな物でつられてたまるか。そのくらいムカついてんだ。
この魔法数学科の教師。先日、何やら探るような話をしてきたかと思ったら、おれがヤキモチをやいてるとのたまった挙げ句『ランちゃんは寿先生のことが好きなのかと思ったんだけど』そんな事を言い出した。しかもあろうことかおれの目の前でそれを嶺二先生に告げ口したんだ。
それが教師のすることかよ。あり得ねぇだろ。
――『ぼくもランラン大好きだよ』
「……って言ってたじゃない、寿先生も」
「うるせぇ」
「よかったね、相思相愛」
「うるせぇ」
あんまりイライラすると、おれの魔力を感知した嶺二先生が何事かとすっ飛んでくるし、この魔法数学科の教師がまた余計な事を言い出すと困る。
「甘い物は幸せな気持ちになるんだよ。ランちゃんが寿先生と一緒にいる時みたいに、穏やかになってくれるかなと思ったんだ」
なるほど。おれがいつもイライラしてるからこれを持ってきたってことか。いやいや誰のせいでイライラしてると思ってんだ……でもそこまで言うならもう少し話に付き合ってやってもいいかなと、マカロンをもう一口かじりながら考えた。
「これ、おれには甘すぎる」
「そうかい? でもランちゃんの大好きな寿先生は、もっと甘いんじゃないかなぁ?」
あ、別にオレは味見したわけじゃないよ誤解しないでね、と含み笑いと共にそう続けた。
味見の意味はよく分かんなかったけど、また突拍子も無い話が飛び出してきたなと思った。この教師はいつもそうだ。
「何だそれ」
「オレもまだ正解の数式が見つからないんだけど……例えば、これが寿先生だとしたらさ」
魔法数学科の教師はその長い指でココアブラウンのマカロンをつまみあげ、軽い音を立ててふちにキスをした。
「……おい」
「あぁ、ごめんね。ついクセで」
クセでそんなことするのか、この教師。信じらんねぇ。
「これが寿先生の唇だとしたら」
ふに、とそのマカロンが半開きのおれの唇に押し付けられた。
なめらかな表面に唇が滑る。間からはみ出したクリームに舌に触れた。
甘い。
例えばこれが、嶺二先生だったとして。
おれの口に触れたとして。
それが何だ。
そんなの、考えたこと無い。
「ちょっと想像してごらん」
魔法数学科の教師の声に合わせて、たくさんの数列が浮かんできたのが見えた。
「甘すぎる? それとも甘くて美味しい?」
――誘導されるまま、想像をしてしまった。
「……って、なんでレン先生が口つけたもん食わなきゃなんねーんだよ!」
慌ててその手からマカロンを奪う。よく見ればこのココア色も嶺二先生の髪の色に似てる、なんて思ってしまい目眩を起こしそうになった。そんなおれをよそ目に、魔法数学科の教師は浮かんでいる数式を指でかき混ぜたり離したりしている。
「うーん……ランちゃん分かりやすいから解けるかと思ったんだけど、やっぱり難しいな」
「んだよ、何また勝手に計算してんだ」
俺の目の前を漂っていた魔法数式が絡まって消えた。
「人が恋に落ちた時の方程式さ」
「いいなー。マカロンだ」
突然俺の頭上から声が降ってきた。
「レン先生、これ高いやつでしょ」
「うん。カミュ先生からちょっとね」
持ち主は女の人じゃなかったんだ。あの人怒ると怖そうだけど大丈夫なのかよ。
「ランラン? 顔真っ赤だけどどうしたの?」
「オレがマカロン食べさせてあげようとしたらランちゃん照れちゃったみたい」
……ぜってーコロス。
「そうなの? 二人共仲良しでずるいなぁ」
「違うって嶺二先生」
「ランランぼくにも食べさせてよ」
嶺二先生がおれの手の中のマカロンに食い付こうとしてくるのを慌ててかわす。頬杖をついて見ていた魔法数学科の教師がそういえば、と声を上げた。
「ランちゃん、さっき初めて『レン先生』って呼んでくれたね。嬉しいな」
「うるっせぇ!!」
学生 黒崎蘭丸と魔法数学科教師の相和
嶺二先生の研究室でレポートを書いていたらさっそく邪魔が入った。
「やぁランちゃん、その後どう?」
「どうもこうもねぇよ」
この魔法数学科の教師にはいつも振り回されっぱなしだ。楯突くだけ不利になるのが分かってきたのでおれはもう諦めた。
「レン先生はおれのことからかって何が楽しいんだよ」
「ランちゃん可愛いから、恋のキューピッドになってあげようと思ってるのに」
「そういうのやめろって、ていうかなんでおれが嶺二先生を好きなの前提で……」
「ランちゃん楽しそうだからね」
「好きな事勉強できてんだから、楽しいに決まってんだろ」
「それに寿先生もすごく幸せそうだ」
あんなに生き生きとしてる寿先生を今まで見たことないんだよ。魔法数学科の教師は目を細めて言った。
「……そうなのか?」
「うん。オレがこの学校に来るより前の事は分からないけどね」
「ふぅん……」
「何年かに一度は、馬が合う生徒が入ってくる事もあったみたいだけど。こんなのはランちゃんが初めてなんだよ」
それほど取っ付きにくい人だという印象は無かった。一年次の総合学の授業中、たまにつまらなそうにしてるなと思ったことはあったけど。
「……おれが何にも知らなかったから、珍しかったんじゃねぇかな」
「まぁそれもあるかもね」
「それしかねぇだろ」
自分で言って少し胸が苦しくなった。多分理由はそれだけなんだと思うけど、それだけじゃなければいいな、とも思うし。
「そういえばランちゃん、次の長期休暇に家には帰るのかい?」
「帰らねぇ。やる事たくさんあるし、ここにいる」
「寂しくないの? 家族と長いこと離れてて」
「……向こうもどうせ、おれのこと家族だなんて思っちゃいねぇよ」
しまった。口が滑った。
見ると魔法数学科の教師が目を丸くしている。
「……ごめん。立ち入った事を聞くつもりじゃなかったんだ」
困り顔で謝られてしまって、逆に悪い事をしたなと思った。
「別に、気にしてな……」
トッ トッ
足音が聞こえる。
奥の階段から誰かが降りてくる。嶺二先生が出掛けてから、この教師が来るまでは、ずっとおれしかいなかったはずなのに。
誰かいる。
「――根掘り葉掘り聞くのはいくらなんでも失礼でしょ。レン先生はそういう所直した方がいいよ」
声に驚いて、思わず隣りにいる魔法数学科の教師の腕を掴んでしまった。
「おや、藍先生。いつからいたの?」
「一時間四十八分前。レイジ先生と入れ違いになったけど、書斎なら勝手に使っていいって言われたから」
先生、なのか。安堵して腕を掴んでいた手の力を緩める。
「ほら、ランちゃんが驚いてるじゃないか。藍先生こそ、こっそり忍び込むのは良くないんじゃない?」
「あぁ、ごめんね。気配を断つの職業病なんだ」
この人はね、魔法情報学科の藍先生だよ。そう耳打ちされた。知ってる名前だ。よく書斎に遊びに来る人がいると嶺二先生から聞かされていて、知ってる名前だったけど、姿を見たのは初めてだ。
「はじめまして、藍先生」
「こんにちはランマルくん。ボクははじめましてじゃないけどね。何度かここには来てたから、キミの事はよく知ってるよ」
レン先生がキミをからかって遊んでるのもね、と綺麗な水色の髪を揺らしながら言った。
「何度か……?」
「うん。キミがここに住むようになってから、何度か。君は気付いてなかったけど。次からは声をかけるようにするよ」
……なんで一癖も二癖もある教師ばかりここに集まってくるんだ。
「で? レン先生は何してるの。暇なの?」
「いたいけな少年の悩み相談をね」
「頼んでねぇ。勝手なこと言うな」
「ランマルくん、相談相手はちゃんと選んだ方がいいと思うよ」
「いや、おれ頼んでなんてねぇから」
オレの計算だとこうなんだけど、と魔法数学科の教師がすらすらと数式を書き出した。また無断で何の計算をしたんだ。
「ふーん……でも不確定要素が多いのにその式成り立つの?」
「まぁ可能性の一つだよ」
おれにはこのややこしい数式を見ても意味が分からず、すっかり置いてけぼりをくらっている。クソ。
「そもそも人の恋心は計算できないってレン先生いつも言ってたじゃない」
「そうなんだけど、ランちゃんと今の寿先生は分かりやすくてね」
「あ、そ。悪いけどボクはプライベートな情報は読まないし、教えるつもりもないからね」
だから、なんの話をしてるんだ。おれが分かりやすいとか、恋心がどうとか、勝手な事ばっかり。
「それ以外ならいくらでも教えるよ。恋をした時の行動パターン、魔法を使わず相手の心を探る方法、統計的にみて効果がある愛の言葉、サンプルはいくらでも拾えるからね。なんなら昔からあるおまじないだって」
魔法情報学科の教師はテーブルに持っていた本を置き、魔法数学科の教師と反対側に座った。
右手にレン先生。
「オレに任せてよ、ランちゃん」
左手に藍先生。
「さ、ボクに何でも聞いて」
なんだか手強いのに囲まれてしまった。おれはレポート書いてただけなのに。
嶺二先生早く帰ってこねぇかな……。
学生 黒崎蘭丸と魔法数学科教師の干渉
嶺二先生の書斎で分厚い白紙の本を見つけた。書斎の奥の方の棚に詰め込まれていた、先生手書きの資料の束を引っ張り出した時に一緒に出てきたものだ。
表紙は装飾が消えかけてすっかり古びていたし、中は少しかび臭くてページの縁に歪みもあったけれど、見た目は立派で格好がよかった。こんな所に紛れ込んでいるくらいだ。きっと先生も忘れているだろう。新しいノートを買いに行こうか迷っていた所だ。なにより見た目が気に入ったので、この白紙の本をノートの代わりに使いたいと思い、こっそり拝借することにした。
課題に必要な植物を観察するため白紙の本を抱えて植物園へ入る。嶺二先生と色の違う魔力を感じ気配のする方へ足を向けると、たくさんの花を付け垂れ下がるツタの隙間から柔らかなホワイトブロンドの髪が見えた。
「……なんだ、お前か。邪魔しているぞ」
先客はこちらを見ることなくそう言い、咲いた花を選別し続けている。
「こんにちは、カミュ先生」
「先に言っておくが、寿には了解を得ているからな」
「わかってるよ」
「口の聞き方は好きにして構わんが相手を選べ、未熟者」
なぜかこの魔法化学科の教師はここに来ると態度が威圧的になる。以前野外実習をしている所に遭遇した際、他の生徒たちには笑顔を見せていたし口調も声のトーンも180度違っていて、別人かと疑ってしまったくらいだ。最近おれの姿を見かけると必ず一言声をかけてくれるようにはなったので、おれが嫌われているというよりは元々こういう人なんだろうと思う。
でもあの魔法数学科の教師と真逆で嶺二先生に意地悪なことばかり言うし、先生の事を呼び捨てにするからこの教師のことはあまり好きじゃない。
「その花、やっと咲いたんで残しておいてくださいよ。おれも課題に使うから」
ツタをくぐって魔法化学科の教師の横に立ち、先程ノート代わりに手に入れたばかりの本をめくる。
「根こそぎ持って行くつもりは毛頭ない。人を泥棒か何かと……おい、待て。その本はどうした」
筆記具を持った手を急に掴まれ振り向くと、焦りの表情を浮かべた魔法化学科の教師がこちらを凝視している。
「え、これは……さっき嶺二先生の書斎で見つけて」
「無断で持ち出したのか」
「中に何も書いてなかったから……ちょうどノート欲しくて」
「それはお前が読めていないだけだ。書いてあるぞ、びっしりと」
驚いて手元に視線を戻したがそのページはやはり白紙で、他のページをいくらめくってみてもおれの眼には何も見えなかった。筆跡すら感じられない。
「でも、どのページにも何も……」
「少々強力な魔法言語で綴られているからな。お前の力ではまだ読めなくて当然だ」
魔法言語。魔力を使い特別な文字を書きつけ、文字列その物に魔法としての効力を持たせるものだ。筆記道具全てが魔術品である場合もあるし、このようにインクだけが魔力で代用される事もある。道具が無くても構わない。通常は誰にでも読める簡易的なものを使うけれど、強力で複雑なものになると特定の人や魔法能力が高くなければ認識すらできない。今のおれがそうだ。
魔法というものがまだ普遍的でなかった頃、隠匿の為に使われ始めたと総合学の授業で習った。魔法言語の特性について知ってはいたけど、今の自分の力では何も見えない事を指摘され少しだけがっかりした。
「それにあの書斎にある物は寿の所有物であろう。いくら立ち入りを許されているとはいえ、あまり感心できんな」
口調は厳しかったが、叱られているわけではなさそうだと感じた。
「カミュ先生には何が書いてあるか読めたって、ことか?」
「あぁ、若干は」
「……これには魔法植物学のことが?」
「いや、研究について、というよりは……」
魔法化学科の教師は言いよどんで眉間にしわを寄せた。饒舌なこの教師にしては珍しいと思っていたら、おれの手の中から本を取り上げその長い指で古びた表紙を閉じた。
「……それは本人に聞け」
「なんだ。カミュ先生も本当は読めなかったんじゃねーの」
「口の聞き方すら覚えられんのか。やはり親鳥がアレではせっかくの雛もろくに育たん」
「おれら鳥じゃねぇぞ」
「例え話だ馬鹿者」
「ちょっとランマルくん、書斎の棚開けっ放しにしたね。鍵は?」
魔法化学科の教師がその本でおれの頭を叩くと同時にすぐ近くで声がした。
「うわ、藍先生」
「うわ、じゃないよ。今ボクは気配消してなかったからね。キミがぼんやりして……え、ちょっと、その本どうしたの」
ツタを手で払いながらこちらへ顔を出した魔法情報学科の教師もまた、この本を見て目を丸くし驚きの表情を浮かべた。
「あぁ丁度よい。物事の分別が微塵もつかない馬鹿者が誤って持ち出した。これを元の所へ戻してくれ」
「勘弁してよ……これ、前に触った時にすごく怒られて書斎の出入り禁止になりかけたんだから」
おれがただの古い白紙の本だと思っていた物は、本当は見て見ぬ振りをしなければならないような物だったのか。とにかく触れてはいけない物だった事は、それを手渡された魔法情報学科の教師が心底嫌そうに指先だけでつまんだのを見れば明らかだった。
「とにかく早く元に戻したほうがいい。おいで、ランマルくん」
万が一レイジ先生に見つかった時の言い訳にするからね、と物騒な事を言う魔法情報学科の教師に手を引かれ、おれは人質にでもされた気分で植物園を後にした。
「もしバレてもキミが怒られることはないと思うけど。どうせ何も見えなかったんでしょ?なんでこんな物持ち出したの」
「……真っ白だったから、ノート代わりに使いたいって思ったんだ」
「そう。書く前に気付けてよかったよ」
この書斎にあるものを全て把握している魔法情報学科の教師は、おれが見つけた時と寸分違わぬ位置にこの本を押し込め、棚に鍵をかけた。
「……藍先生は読んだことがあるのか?」
「ボクは物が持ってる記憶を少し見てしまっただけで、ここに書いてある事を読んだ訳じゃないよ。なんで?」
「嶺二先生の研究の事が書いてあんならおれも読んでみてぇなって。さっきカミュ先生に、おれじゃ無理だって言われたけど」
「うーん……レイジ先生の研究の事と言えば……そう、なるのか……?」
珍しく魔法情報学科の教師の端切れが悪くなる。軽く顎を撫でながら慎重に言葉を選んでいるようにも見えた。
「いや、キミから直接聞いたほうがいいと思う」
「……カミュ先生にもそう言われた」
「きっとキミには教えてくれる日が来るよ。レイジ先生は、キミの事をとても大切に思ってるみたいだから」
「そうかな」
「そもそもボクはこの本の事でレイジ先生を怒らせたことがあるからね、仮に知っていても教えないよ」
結局、この中身がわからない空白の本を持ち出してしまったことは嶺二先生にバレずに済んだ。けれどおれは、嶺二先生に本の中身は何なのか聞いてみることは出来ないでいた。
「やぁランちゃん。悩んでるね」
「うるせぇなぁ」
購買からの帰り道、魔法数学科の教師に遭遇した。
「何買ってきたの?」
「ただのノートだよ……てか、ついてくんなよ」
「もう今日は暇だから、寿先生の所でお茶でも飲もうと思ってたんだ。行き先が一緒なだけ」
「そうかよ」
おれと並んで歩いている魔法数学科の教師から数式が浮かんで来て、目の前にちらつく。いい加減慣れたけど邪魔で仕方ない。
「レン先生、歩いてる最中に何か計算するのやめろよ」
おれの周りにまとわり付く数字や記号を手で払う。
「あぁ、邪魔だった?ゴメンね。寿先生がいない所でのほうが話聞かせてくれるかなって思ってさ」
気が回りすぎて不躾に見えるタイプの人なのだなということが最近ようやく分かり、悪気が無いのも理解できた。そう考え方を変えてみたら、腹が立つことは幾分減った。
「……レン先生、これ、内緒にしてほしいんだけど」
「うん、何?」
「この前おれ、先生のとこで魔法言語で何か書いてある本を見つけたんだ。なんにも読めなかったけど」
「藍先生が言っていたよ。ものすごく焦ったって」
「なんだよ筒抜けじゃねぇか」
あの魔法情報学科の教師はプライバシーがどうとか口うるさく言う割に、おれと先生の事に関しては『興味深いから』というだけの理由で、この魔法数学科の教師と共に首を突っ込んでくるようになった。厄介極まりない。
「ランちゃんはその本が気になるのかな。それとも嶺二が先生のことが、かな」
「またすぐそういう事言う……」
「だってその本、わざわざ鍵付きの棚の中の物に紛れるようにして、隠してあったんでしょ。オレならちょっと勘ぐっちゃうけど」
それもそうだ。なんであんな所にわざわざしまい込んであったんだろう。もう古い資料の1つだったから?そもそも先生が書いたものなのか?隠さないといけないようなもの?特に意味は無くて、たまたまなのかもしれない。いやでもおれが読めてないだけで……
「そうだね、ランちゃんがその魔法言語を読めるようになったらまた違うかもね」
「おい。勝手に心読むんじゃねぇよ」
「違うよ、今のはオレの当てずっぽう。でも誰でも秘密の一つや二つ持ってるものだよ」
秘密、という言葉にビクリと背が固まる。
急に立ち止まったおれに合わせて魔法数学科の教師も歩く足を止めた。
「あれは、先生の秘密なのかな」
「さぁ、オレには分からないけど。だから藍先生も、自分で聞いてごらんって言ったんじゃないかな」
「でも、もしかしたら大事な研究の話で、おれがもっと勉強して頭良くなったら教えてくれるかもしれない」
「うん、その可能性だってあるよね」
不意に頭を撫でられ魔法数学科の教師の方へ視線を向けると、いつもの興味津々な目ではなく、なぜかとても真面目な顔でおれのことを見ていた。
「なんだよ……レン先生の計算で分かんねーのか」
「オレの魔法数学はね、あくまでも可能性の高さを導いてるだけなんだ。この世で起こる事象は何でも計算できるけど、可能性のある全ての中で正解に近いものを探しているだけ。たった一つのものが見つかることもあるし、そうじゃないこともある。不確定な要素が含まれるとほら、こんな風に式はもうめちゃくちゃになる」
魔法数学科の教師が指先でスラスラと計算式を紡ぎ出した。正直どこがめちゃくちゃなのかすらおれにはさっぱりだ。
「レン先生の計算式、むずかしくておれには分かんねぇもん」
「オレの計算の答えが1%と99%の2通り出たとして、ランちゃんがどっちを正解だと思うのか……ってところまでは、オレには判断が出来ないっていう話」
見ててもよく分からなかった数式は、魔法数学科の教師の指が触れると散って消えた。
「ランちゃんが知りたがっているのがその本の内容でも、その本が隠されていた理由でも、寿先生に秘密があるのかって事でも、何でもいいんだよ。ランちゃんが寿先生を知りたいって思っている事に変わりはないからね」
秘密。嶺二先生の秘密。もし嶺二先生が秘密を持っていたとしたら、なんだろう。
「でもやっぱり、おれなんかが勝手に踏み込んじゃいけない気がする」
「寿先生がどう思うかも、オレには分からないよ」
「……もうこの話、やめる」
「そう。じゃあそろそろ行こうか」
なんだか真面目な話をされてしまって、調子が狂う。おれのこと面白がってからかってるだけじゃなかったのかもしれない。相変わらず服の着方がだらしないし、喋り方も甘ったるいけど、教師らしい所もあるんだなと、少し見直した。
「そうだ、ねぇランちゃん」
期待に満ちた声色で魔法数学科の教師が呼びかけてきた。嫌な予感しかしない。
「寿先生とはもうキスした?」
「は!?してねぇよ……つか、そんな事するわけ……いやなんだよ唐突に」
「いや、ちょっとは進展したかなって」
「なんでレン先生はいつもその前提で話すんだ。いい加減にしろよ」
「でもここだけはオレの計算で合ってるはずなんだけどなぁ」
おかしいな、と首を傾げているその目はいつも通り興味と好奇心に彩られていた。さっきの真面目な話は何だったんだ。おれの幻聴だったかもしれない。前言撤回だ。
「レン先生にも真面目な所あるんじゃねぇかって思ったのによ」
「ヒドイな。オレは最初から大真面目だったよ」
「どこがだよ。おれの事からかってばかりいて」
「でもランちゃんなら大丈夫だよ。寿先生はランちゃんの事が大好きだからね」
「うっせ」
そしておれは白紙の本の存在をすっかり忘れて過ごした。もし必然なら、それはいつかまた勝手にやって来るんだろうと思う。
図書館司書の独白(幕間)
私がこの魔法学校の図書館司書を勤めて☓☓年ほどになります。
数多くの専門魔法を扱うことで知られている本校の図書館は、魔法協会管理下の書物の複製もありますが、一般書物はもちろんの事、魔法書や禁書に至る膨大な量の書物を保管しております。閉架書庫の奥深くにある閉鎖書庫内の物も含めるとその量は随一の規模になり、それ故に「大図書館」とあだ名されることもあるようです。
朝九時の開館から夜九時の閉館まで、この図書館には様々な人が訪れます。本を読みに来る者、勉強をしている生徒、居眠りをする者、資料を探す教師。私はそれを眺めながら貸出手続きを受け付け、返却処理を手早く終わらせ、検索を頼まれては書庫へ行き、新しく納める本の鑑定をする。私はこの図書館という小さな世界の中だけで生きておりました。
私には魔法使いとしての実力は無に等しく、この学び舎で日々成長する子供達のほうが魔法の能力は上だろうと思っております。ただし、本に関しては別です。その本が持っている歴史や情報、想いを読み解く事をこよなく愛しており、私の持っているなけなしの魔力はこの世に存在する書物に対してのみ、その力が発揮されました。これは魔法情報学に通じる特性だと言われたこともありましたが、この図書館の中で毎日本と対話して過ごせるのは本当に夢のようで、それだけで私は幸せだったのです。
私がここで司書として勤め始めた頃、一人の若い教師が赴任して参りました。見た目の割に持っている魔力は落ち着いていて、変わった男だと感じたのを覚えております。いえ、その教師に対して別に特別な感情を持ったわけではありません。なぜ彼に対して言及するかというと、その教師の貸出期限を破る頻度がそれはもうとんでもなく酷かったからなのです。
返却予定本の一覧に彼の名前を見つけた朝は、その日一日中最悪な気分で過ごすことになりました。確実に返却をしに来ないからに他なりません。当図書館の決まりとして、本は一人十冊まで、二週間以内の貸出となり、返却期日超過一週間で一度利用者本人へ通達をしております。予約が入っていた場合はそれよりも早く督促をすることもございますが。そこでようやくその教師は、本の返却にやって来るのです。たとえ期限が過ぎても図書館まで来ればいい方で、返却予定の本を転移魔法で送り返してくる事もありました。酷い事に一度転移先を見誤ったのか、閉架書庫から特別に貸し出した本を外の噴水の脇に落とされた事があり、それ以降は魔法での返却は禁止ときつく言ったことがございました。さすがにその教師もそれだけは守るようになってはくれましたが、しかし返却期限が守られることは無く、その度に私は注意をし、その場でのみ教師は反省の素振りをみせ、その繰り返しは長々と続いておりました。
ある年。恒例になっていた、その教師宛に返却期限が過ぎている旨の通達を送ったあとの事。一人の生徒が本を抱えて図書館を訪ねてまいりました。美しい銀色の髪と瞳がとても印象的で、一度でも見れば覚えているはずだと私は思いました。私にはこの生徒に見覚えがなかったのです。この生徒に本を貸し出した記憶がないのに、真っ直ぐ返却台へ歩いてくるのを疑問に思っておりましたところ
『嶺二先生の代理で来ました』
その生徒は本を返却台に置きながらそう言い、この生徒に見覚えがないという私の疑問はすぐに解消されました。
しかし私にはまた新たな疑問が浮かぶのです。あの教師は他の教師達のように専門の授業をしておらず、もっぱら個人的な研究の為に資料探しをしていると、軽く雑談をした際に聞いておりました。専攻科目を履修している生徒がその教師の研究に従事しているのならばともかく、総合学を受け持っているだけの教師が個人的な用事を生徒に任せるというのは考えにくい。では、この生徒がなぜ、あのずぼらな教師の雑用をしているのだろうかと。そこまで聞き出す訳にもいかず、返却期限は守るよう教師への言伝を依頼して、その生徒が図書館を後にするのを見送りました。
それからというもの、銀髪の生徒は度々この図書館へ訪れるようになりました。主に本の返却に遣わされていたようでしたが、時にはあの教師と共に本を借りに来ることもございました。どうやら自身の研究している魔法学問をあの銀髪の生徒に教えているらしい、という事を別の教師から聞くことができました。生徒に教える事が出来るほどの知識を持ちながら、今まで何十年も総合学しか担当していなかったのはなぜなのかと、私は少し不思議に思ったものでございます。
ですが今までいつも一人でいたあの教師も、あまり笑顔を見せたことがなかった銀髪の生徒もとても楽しそうで、私が見た限りにおいてこの二人は、共にいることを幸せだと思っている事だけは感じておりました。
あの銀髪の生徒が卒業するまでの間は貸出本の期限が破られることは幾らか減り、私が気分を害することも少なくなっておりましたが、あの生徒が卒業をしてからはまた元の通りに戻ったのでございます。変わった事といえばあの教師が、教師を辞めて寮監となった事くらいでしょうか。
それからまた何年か経ち、私が相変わらずこの図書館という世界で生きておりましたところ、見覚えのある美しい銀髪の男が本を抱えて訪ねてまいりました。
『嶺二先生の代理で来ました』
卒業時よりもさらにすっかり成人男子らしくなり、その瞳は色違いとなってはいましたが、あの時の生徒だと私はすぐに分かりました。教師としてこの学校に赴任が決まったと私に告げる彼は、あの頃と同じように幸せそうな笑顔を見せてくれたのです。
銀髪の教師が借りて行く本は、貸出履歴にあの教師の名前があるものばかりで、あの教師の魔法学問を継いだのだなと私は気付き、何やら晴れやかな気持ちになりました。
銀髪の教師と寮監は、稀に二人で図書館を訪ねてくることもありました。私が見る限り、銀髪の教師が生徒だった頃のように二人は楽しげで、やはりこの二人は共にいることを喜び幸せと感じているのが分かり、やはりそうかと確信をいたしました。
私が返却本を書架へ戻す作業をしていた時に、偶然目撃してしまったほんの一瞬の出来事についてのことになりますが……
この二人が研究している魔法植物学は学問としては古くからあるもので、この図書館に収められている関連書物もとても古いものが多くなっております。開架に残してあるものもあまり読まれる事が無く、手にするのはこの二人くらいなものでした。その書架の近くを通りすがった時、話し声と笑い声が聞こえてまいりました。奥まった場所とはいえここは図書館ですので、その声はとても静かなものでしたが、愛しい人への囁きのようにそれはそれは優しい声でございました。
あの二人がいると気付き、声をかけようか、かけまいかと覗いてみたところ、銀髪の教師が寮監の柔らかな栗色の髪へ、口付けを落としていたのです。
私の図書館で一体何をと一瞬は頭を過りましたが、その口付けの場所の意味を知っていた私は、二人に見つからないよう静かに踵を返しました。銀髪の教師が深い愛情を持ってあの教師を慕い続けていたことに気付いてしまい、少し罪悪感がございました。二人に見つかっていないと思っているのは私だけで、もしかすると気付かれていたかもしれません。どのみちその時の光景は私の胸の奥にしまったままにしておりますし、私が口にする事は決して無いものでございますが。
私は長く司書を務めております。さほど魔力を持ち合わせていない魔法使いですので、ここへ来たばかりの頃と比べれば徐々に高年らしく老いが来ております。ですが、あの寮監が新任教師だった頃も初めてあの銀髪の生徒を見た時の事も、鮮明に思い出すことができ、時が流れていないように感じております。長らく私の頭を悩ませてきたあのずぼらな教師が寮監となった今も、初めて見た時から何ら見た目が変わっていない事で錯覚をしているのでありましょう。
銀髪の教師は貸出期限を守って、寮監は貸出期限を守らないのも、相変わらずでございます。そろそろ寮監宛に、返却の督促を出す準備をいたしましょうか。
学生 黒崎蘭丸と魔法数学科教師の運算「ハイ、ランちゃん」
「うっす、レン先生。今日も暇でいいな」
「暇じゃないよ、用事ついでに寄っただけさ」
始めは大嫌いだった魔法数学科の教師とも気付けばこんなに打ち解けてしまった。
「レン先生いつも前開けすぎだって言ってんだろ、みっともねえ」
「セクシーだって言ってほしいな。ランちゃんも制服少し崩してみたら?」
「みっともねえって言ってんのおれは」
「そうかな。寿先生は褒めてくれるけど」
わざと意地をやかすようなことを言ってくるのは変わらない。それは分かっているのについ反射的に不機嫌な表情を作ってしまう。
「アハハ。ランちゃん相変わらず分かりやすくていいね」
「分かっててそういう事言うんじゃねぇよ」
「オレ、首が詰まってる服が苦手なんだ。きっと前世で絞首刑にでもなったんだと思うよ」
「それはご愁傷さま」
どこまで本気か分からない調子ではぐらかす、この飄々とした所はどこか嶺二先生と似てるなと少し思う。
「それにしてもランちゃん、随分背が伸びたね」
もうすぐオレと同じくらい?と魔法数学科の教師が、手を頭の上でひらひらさせる。
「あー、急にしっかり魔法使うようになったからかもって、嶺二先生が言ってた」
「成長期が遅かったんだね」
「おれ、魔力持ってたけどこの学校入るまで何もしてなかったから、そのせいだろ」
「へぇ、それもちょっと珍しい……あぁ、そうだった。ごめんね」
「え、いいよ別に。家の話なんて気にしてねぇよ」
この教師は口が立つ。話を引き出すのが上手いんだと思う。それでボロを出してばかりいたけど、もうすっかり気にならなくなった。
「前にも言ったけど、家じゃ放ったらかされてたし、ここに入れてもらえてよかったんだ。家にいるよりよっぽどいい」
「そういう話、寿先生とはしてるの?」
「……いや、したことない」
「そうなんだ」
「先生から聞かれたこともないし」
改めて気が付いた。嶺二先生に自分の身の上話を詳しくしたことがない。学校が休みの度に自宅へ帰る生徒だっているくらいなのに、ここから離れないおれのことを別に気にしていないし、かといって気を使われている訳でもなさそうで……そういえば、嶺二先生からも家族の話を聞いたことがないなと、ふと思った。
「ランちゃんは、なんで寿先生が好きなの?」
「また急に……なんでって何だよ」
「好きという気持ちは色んな意味を持っているけれど、どれも根本は同じなんだよ。例えばランちゃんは家族の事をあまり好きじゃないみたいだけど、寿先生はどこが違う?」
嶺二先生の違うところ。
「普通の家族だと……普通は多分、無条件で好きなんだよな。親のことも、子供のことも」
「無償の愛と言われたりはするね。それが普通というわけでもないよ。家族に限った話なら、オレだって父親のことが好きじゃない」
嶺二先生の違うところ。おれのことを疎ましいと思わずに受け入れてくれて、笑いかけてくれて、名前を呼んでくれて、優しく触れてくれる。与えられたことがないものを与えてくれるのが嬉しいし同じものを返したいと思う。これがどういった意味を持っているのかは比べる対象がないから分からない。
「……分からないけど、おれのことをちゃんと見てくれたのは、嬉しいと思う」
ふぅん、と魔法数学科の教師が声を響かせた。珍しく勝手に計算をし始めない。
「おれのことを気にして、知ってくれた人は初めてだったから」
「うん、そう。じゃあランちゃんも寿先生のことをよく見てあげないとね」
「……そういえば嶺二先生、最近ちょっと太った」
目の前に晒されっぱなしの胸元を見ながら思わず口にしてしまった余計な一言。完全に失言だったと、オレンジ色の髪から覗く瞳が楽しげに細められたのを見て悔やんだ。
「ダメだよランちゃん、そういう話を外でしたら」
耳打ちをするように魔法数学科の教師が声を落とす。
「そういうことはベッドの中で二人の秘密にするものだよ」
「は?ベッド……?」
「お互いをよく見てよく知るっていうのは、なにも言葉を交わすだけがその方法じゃないからさ」
「何だよそれ」
「今度は寿先生の身体のほくろの数、数えてごらん」
この教師は、計算の答え合わせと言わんばかりに自分勝手な前提で話をする悪いクセがある。なんだか今、とんでもない事を、とにかくとんでもない事を、言われているのは分かる。
「いやレン先生、今度はって、そもそも今度もなにも何もねぇから」
「えぇ?でも寿先生の身体のライン知ってたじゃない」
「違ぇよ、それは先生がでかい声で独り言を……」
「……ぼくのほくろの数は12個だよレン先生。あと、太ったっていっても別に身体の線は変わってないからね」
目を回しそうになったところに、鬼のような形相で嶺二先生が間に割って入ってきた。
「もー。ぼくのランランに変な事教えないで」
「ランちゃんがいい男になってくれたら寿先生も嬉しいかなって思って、ちょっと作法を教えてあげただけだけど。ダメだった?」
「ほくろの数数えるのが何か関係あんのかよ……」
「ランラン、これは学生には必要ないから。今すぐ忘れて」
「でも、学校の授業以外にも大切な事ってあるじゃない?」
「待ってよ、これは明らかに必要ないでしょ……レン先生は他の子にもそんな話してるの?」
「ランちゃんと寿先生にだけ、特別」
魔法数学科の教師は心底楽しそうにウインクを一つした。
……あれ、いま嶺二先生『ぼくのランラン』って言わなかったか。
学生 黒崎蘭丸と魔法数学科教師の頓着
「あぁ、いたいた。ランちゃんランちゃん、ちょっと確認しておきたいことがあるんだけど」
先生の家の前で魔法種植物の株分けをしていたら、魔法数学科の教師が小走りで近寄ってきた。
「何だよレン先生、おれ忙しいんだよ。嶺二先生のこと好きかどうかって話なら、おれは好きだぜ。はい終わり、じゃあな」
「それはオレじゃなくて寿先生に言ってあげたほうがいいと思うよ。でもごめん、今日は他の話なんだ」
ヒュウ、と口笛を鳴らしてニヤつかれた。
チッ、言わなきゃよかった。
「聞きたいのは寿先生への告白の練習じゃなくて。あのね、ランちゃんが寿先生の所にいるっていうのを他の生徒に教えても構わない?」
「うるせぇな忘れろよ……。何だよ、他の生徒って」
「ランちゃんのこと、たまに生徒達に聞かれるんだ。時々購買へ来るくらいでしかもうあっちの教室棟には行かないだろ? 誰の所の生徒なんだって噂になっててさ」
「噂って……別に何も悪さしてねぇよ」
「違う違う。オレに引けを取らないくらいかっこいい男子生徒をたまに見かけるって女子生徒が騒いでるんだ。とりあえず転入生かもね、って言っておいたけど」
かっこいい……? 誰が??
「レン先生、今サラッと自分のこと言ったな。何かの間違いじゃねぇのか。で、何でその生徒がおれって事になるんだよ」
「『背の高い爽やかで綺麗な顔をした銀髪の男子』って、みんな言ってたから」
「いや、爽やかでも綺麗でもねぇし……この位の背格好の目立つ生徒なんて、他にもいるだろ」
「今この学校の生徒で銀髪の男子生徒はランちゃんだけだよ」
「でも」
「あ、あと『両眼が珍しいピンク色』っていうのは購買の係の人が広めちゃってたみたいで、みんな知ってたし」
どうにも言い返せず、ぐ……と喉が鳴る。なんで、どうしておれが、そんな稀少種みたいな扱いをされてるんだ。
「そんな珍しい物探すような事しなくても、誰かしら……」
同学年のヤツが知ってるだろ、と言いかけて、多分ダメだと思い直して言葉を飲み込んだ。
一年次、魔法の知識なんて何も持っていなかった上にやる気もなかったおれは、特に周りと馴染もうとしなかった。しかも一年の後半は殆ど嶺二先生の所に通っていて、本来ならそこで級友というものを作るのだろうがそんなものは一切放棄した。実際今思いだそうとしても割と人数がいた同級生の顔と名前は一致しない。むしろ名前を知らない方が多い。あまり話はしなかったけど、寮で同室だったヤツの顔を覚えてる程度。二年に進級して一部の共通授業が終わってからは、全く交流が無くなった。成長期が来たのもその後だ。
だから、誰かしらおれに見覚えがあるのがいれば……と思ったのだけれど、どう考えてもあの頃のおれと、これでもかと尾ひれが付きまくったその「噂になってる生徒」が一致するとは思えない。
「学年も分からない、どの授業を専攻してるのかも分からない。しかもたまにしか見かけない……ともなればね。この年頃のレディ達にはとても刺激的な話題の一つになるだろうさ」
「ほら、面白半分なんじゃねぇか。ほっときゃ飽きるだろ、どうせ」
この奇妙な風貌は悪目立ちするばかりで子供の頃から本当に役に立たない。ああ、でも一年次の授業の時に、嶺二先生がおれを覚えてくれるのには役立ったけど。
「言わないほうが良ければ適当に誤魔化しておくけど……」
「そうしてくれる?」
突然ひょっこりと嶺二先生が現れた。
「レン先生みたいに取り巻きができちゃうと困るもん」
「寿先生過保護だね。でもさ、ここは同級生もいないんだし、他の生徒と交流を持つのって大切じゃないかな?」
「それはまぁそう思うけど……でも今のレン先生の話の内容だと、そういうのと違うかな。教師としても保護者としてもちょっとよろしくないと思ったまでだよ」
保護者。
保護者か。
露骨にがっかりとした顔をしていたらしく、魔法数学科の教師がおれを見てふきだした。
「寿先生。ランちゃんが拗ねてるよ」
「え? あー…ランラン? どしたの」
「別に……」
「やっぱりモテ期に興味が」
「ねぇよ」
「レン先生みたいに女子に囲まれてみたかったとか」
「絶対ねぇよ、死んでもゴメンだ」
一瞬チカチカと魔法数式が浮かんだのに気付く。おれらを見ている魔法数学科の教師が必死に笑いをこらえていた。
「何笑ってんだ。なんか計算したろ、今」
「いや……ゴメン。ねぇ寿先生。オレたちの話、いつから聞いてたんだい? オレがランちゃんに話した事、分かってたみたいだけど」
「え? 最初から聞いてたよ」
「……は? 先生、いつから聞いて……」
『今のレン先生の話の内容だと……』
言ってた。確かにそう言ってた。おれが噂されてるという話は全部聞いてたって事だ。
問題はその前の
「レン先生が来たときから聞こえてたけど……まずかった?」
……そんなの、まずいに決まってるじゃねぇか。