place 三月の海は凪いでいた。
ただ穏やかな風が運んでくる潮のにおいだけが、つんと刺激をもたらして、蔵内は思わず目頭を押さえた。
「クラウチ、また泣いてるの?」
顔を覗き込んできた男の微笑みまで穏やかで、それがいっそう郷愁を誘う。
今日は、まだ、泣いていない。まだ。
「卒業式はもう終わったんだよ?」
「そうだな。……なのに、どうして制服を着てるんだろうな、俺もおまえも」
「ぼくがそうお願いしたから」
あたりまえのような顔をして答えた王子に、蔵内はため息を吐いた。
蔵内と王子は三門から見て東方角にある海へ来ていた。それぞれの高校はすでに卒業式を終えたというのに、わざわざ制服を着て。
――クラウチ、あした、新弓手町駅に集合。遠征選抜試験の前に、きみと話をしておきたいんだ。六頴の制服着てきてね。
わけのわからない条件をつけてメッセージを送ってきた王子の意図は読めない。
電車に揺られて数十分、そこから歩いて数分。ボーダーの用事だと言いながら、ここに来るまで交わした会話は他愛のない雑談だった。蔵内は「本題」が切り出されることを待ちながらも、いったいなんの話をされるのかと、すこし身構えている。
堤防を越えて、砂浜に下りる。ざあ……と、波の音がした。ふたりぶんの荷物をまとめて置く。
王子はおもむろに靴を脱ぎ、靴下も脱いでその中に詰めると、片手で持って歩き出す。
波打ち際を目指しているのは明らかだった。
春先の海はまだまだ冷たい。それを知らない王子ではないだろうに。まっすぐ海に向かって歩く背に、蔵内は制止の言葉をかける。
「おい、王子」
「大丈夫、大丈夫」
笑ってかわして、王子は止まらない。波の行き来する場所まできてやっと立ち止まると、ちょうど押し寄せた波が、ざぱんと王子の足を洗っていった。蔵内は彼とすこし離れたところ、波の来ない場所までを追っていって、足を止める。
「王子」
いまいちど名を呼ぶと、王子はくるりと振り返った。また波がやってきて、ざああ、と音をたてる。王子は薄く笑った。
世にもうつくしい顔をした男と、その向こうにあるのは、海ばかり、波ばかりだ。
「海って、ふしぎだよね」
ざざん、ざざん。
声変わりの終わった男性のものにしては高い音が、波と調和する。
白っぽく見える空と海の境目あたりを、すっと指差し、王子は言う。
「あのずっと向こうになにがあるのか――もちろん、違う大陸があるのはわかっているけど。それでも人々は、海の果てに見知らぬ世界を夢見るんだ」
まっすぐに海のほうを見て――まるで海の向こうに、はっきりとなにかが見えているように、王子の視線はひたと海を見据える。
「だれかのいる世界。しらないひと、もういなくなったひと、そういうものに逢える、――異世界だよ」
異世界。
ボーダーに属しているからには、その言葉を聞いて最初に思い浮かべるものといえば、近界民たちの住まう近界だが。海の向こうにある、と、一般的に言うならば、それを指す言葉ではないだろう。
たとえば理想郷とされる夢まぼろしの国。たとえばやがては人々の導かれる浄土。たとえば、たとえば。それは、つまり。
――死者の国。
いつ果てるともしれない我々の、還る、海。
「……海は、海だろ」
ぞわ、と冷たい感覚に背を撫でられて、蔵内は無理に己の想像をかき消した。それを感じとったのかどうか、そうだね、と王子は肯定の相槌を寄越す。にこっ、と笑って、蔵内の顔を見た。
「個人単位で選抜があるって話、聞いた?」
そして唐突に話題を変えた。
主語のない言葉に蔵内は戸惑って、すこし考えてから、頷いた。
「遠征の話か」
「そう。部隊単位での遠征候補はB級二位までだから、ぼくらが遠征に行くとすれば可能性は個人でだけだ」
「……目指すつもりなのか?」
ざく、と、蔵内は靴を履いたままの足で、砂浜を踏んだ。王子はまだ、三歩ほど先にいる。
ひかりを遮るもののない、波打ち際。この場所から感じる太陽はしろく、眩しかった。陽光は蔵内の背後から差して、まっすぐに王子を照らしている。学生服の黒と対比になって、色素の薄い男が、――まるで、ひかっている。
「アマトリチャーナは遠征参加、これはほぼ決定事項らしいよ。こっちは?」
王子は質問に答えなかった。かわりに、聞き及んでいるか、と問いを返される。
首を横に振りながら、蔵内は彼の真意をさぐる。いよいよ差し迫った遠征選抜試験の話題。これが本題だろうか、とは思うものの、まるで着地点の予想がつかない。
「結論から言うと、ぼくたちはけっこう、遠征に選ばれる可能性があるってことなんだ。……アマトリチャーナが遠征に行くのは、あのトリオン量で遠征艇そのものを支えるためなんだって」
「へえ、なるほどな」
「それを考えると、ね」
「……そうだな。王子も俺も、トリオン要員としては申し分ない」
「加えて戦闘力としても優秀だから」
当たり前のように自己を高く評価するのは、実に王子らしい。
「でね、クラウチ。きみにお願いがあるんだ」
「もしも、ぼくときみ、それぞれ違う場所で戦うことになったら。……万が一。もしも、だけど」
ざざん、ざざん、と海が鳴る。まるで、そういう哭き声のいきものみたいだった。ざんざと、高らかにだれかを呼ぶ。王子の足下で鳴る波が、彼を攫おうとして、その素足を撫ぜてゆく。
「ぼくが死んでしまっても、きみは生きてくれ」
ざあああ。
ひときわ大きい波が押し寄せて、王子の足は勿論、制服の裾をも濡らしていった。
「…………王子、」
湿った砂をぐじゃぐじゃと踏んで、蔵内は王子の手首を掴んだ。海風に晒されて、肌が冷えている。蔵内の手のひらもきっと、彼のものとそう変わらない温度だ。
なにを言っていいかわからずに、ただ波音だけが響いている。ざぷっ、跳ねた海水が靴の隙間から入ってくる。靴下が濡れ、やがて指と指の合間に水が流れ込んだ。
結局、蔵内がなにも言えないままに時間が過ぎて、王子が口を開く。
「もちろん、死ぬなんて気はないよ。ただ、万が一のとき、きみは思い詰めそうで心配だから」
言いながら、王子はかたく握られた手首をじっと見つめた。おもむろに反対の手を伸ばすと、力のこもった蔵内の手、その甲をついとなぞる。ぴく、と、蔵内がほんのすこしだけ反応したことに目ざとく気付いて、ふっと笑った。
途端、ぐいと腕が引かれた。
「うわっ……」
咄嗟のことに対応できず、蔵内はたたらを踏む。海のほうへ、一歩、二歩、ばしゃばしゃと飛沫をとばして、脛のあたりまでずぶ濡れになって、
「どこ行くんだ、……王子!」
「あははっ、――クラウチ!」
ばしゃん!
蔵内のほうを振り向き、王子は背中からダイブした。その手にあった靴が、砂浜に放り出される。腕を強く引っ張られて、彼を押し倒すように、蔵内は浅い海に倒れ込んだ。
「ぶっ、……げほっ、げほっ!」
慌てて身を起こす。しおからい海水を飲んで、喉が痛みを訴えた。口元を押さえようとして、その手が繋がれたままであることに気付く。はっとして繋がった先を見ると、――王子はいまだに海の中にいた。
「王子?」
細かな泡の浮かぶ海は、昏いいろをして、彼の姿を曖昧にする。ゆらゆら、ゆらゆら、輪郭が揺れる中で、すう、と。
まぶたが確かにひらいて、双眸がひかる。
ぞっとするほどの、うつくしい青が、こちらを見た。
「……っ、」
思わず身を引こうとした蔵内を、絡めとられた指が留める。かち合ってしまった目と目が離れてくれない。青。青。それは押しては引く波よりもつよく、蔵内を引きずり込もうとする。海水なのか汗なのか、べたついた感触がこめかみの辺りを伝う。
うつくしくて、おそろしくて、目が離せない。
慄く蔵内の視線の先で、――ごぼ、と、大きな空気の塊が、たくさんの泡になって、王子の表情を覆い隠した。蔵内の手を握っていた指が、びく、と跳ねて、水面を掻いてはぱしゃりと叩く。いかにも苦しそうにする。
ぎょっとして、蔵内は王子を助け起こす。暴れる手が蔵内の制服を引っ張る。酸素を求めてもがく身体を、かき抱くようにして声をかけた。
「王子!」
「げほっ、ぅあ、……はあっ、はあっ、っは……、」
海から引き上げられた王子は盛大に噎せ込み、肩を大きく上下させて呼吸をした。
まるごと水の中にいちど沈んで、てっぺんからすべて濡れそぼった頭髪が、ぽたぽたぽた、と雫をたらしている。海の中に座り込んでしまった下半身よりも、濡れたままで外気に晒される肩や腕が冷たかった。
「なにをやってるんだ、おまえは!」
「はー…………、うん、ごめん、ちょっと待って、」
大きな声を出した蔵内にひらひらと手を振って、王子は何度か深呼吸を繰り返した。
「鼻が、痛いな……目も、」
そう言って目を擦ろうとするので、蔵内は手首をやわく握り込んで止める。
「擦るとよくないぞ」
「ん……、」
こく、と頷いて、王子はすんと鼻を鳴らした。
大粒の水滴が長い睫毛を伝い、ひとつふたつみっつ、次々と海面に落ちてゆく。蔵内は黙ってそれを見守った。
しばらくすると落ち着いたのか、王子はもういちど洟をすすって、それからゆっくりと目を開けた。海よりも深く感じた青は、先ほどと打って変わって、穏やかな明るいいろをして蔵内を見据える。
「ああ、苦しかった」
「おまえな……」
飄々と言ってのける姿にあきれ果てて、蔵内は大きなため息を吐いた。
あまりに唐突な行いに、感傷などというものはどこかへ行ってしまった。胸中に押し寄せていた波のようなざわめきも、すっかりおとなしくなった。
それで、と声をかけて蔵内は立ち上がる。続いて立った王子は、こてんと首を傾げた。そんな仕草でさえ似合うのだから、まったく、この男は。
「なにがしたかったんだ、いったい」
ざばざばと波をかきわけ、ふたり並んで陸にもどる。王子は制服の裾をぎゅうと絞った。額に張りついてしまった髪をかき上げて、口を開く。
「うーん、きみがあんまり世界の終わりみたいな顔するから」
――あまつさえ、原因は蔵内だと言う。
とはいえ、それはきっと間違っていないだろうと、蔵内自身も思った。ずいぶん動揺してしまったという自覚が、蔵内にはあった。いまはそれがすっかり落ち着いたことを鑑みると、王子の突飛な行動は、蔵内に対してとても効果的だった。
「……そうか」
「悪い気はしなかったけど。かわいそうになっちゃった」
そう言って王子は肩を竦めた。何様だ、と蔵内が笑うと、王子様だね、なんて言ってのける。
「かわいそうでかわいいクラウチに、王子様の心臓をあげよう」
ふざけた口調で続けると、唐突に、自らの着ている学ランから第二ボタンを引きちぎった。ぶちっと音を立てて糸が切れる。
「はい」
「……は?」
左手で握ったままのボタンをすっと差し出され、落とされたそれを反射的に受け取った。
「これで、たとえばらばらの場所にいても、ぼくの心臓はきみのものだよ」
「……『第二ボタンを贈与する風習は、心臓に近いことが由来』っていうの、俗説だろ?」
王子は肩をすくめて、そうらしいね、と言う。この男に、話題のはぐらかしは通用しない。
「この世のほとんどなんて俗説でできてるよ。ロマンがあって、ぼくはけっこう好きなんだけど」
濡れて張り付く感触がいやなのか、王子はボタンのひとつ欠けた上着を脱ぐ。とはいえ当然、下に着ているワイシャツもびしょ濡れだ。全体的に、肌色が淡く透けている。それになんとなく気まずさをおぼえて、蔵内は目をそらした。
「クラウチは、欲しくない?」
「いや、」
問う声にからかいの笑みが含まれていることに気がついて、ボタンを握った手に、ぐっ、と力を込める。
「――ありがたく貰うよ。でも」
「でも?」
ふたたび見やった先に、言葉の先を期待してかがやく瞳があった。背後の海と相似した青が、海水に濡れたすがたかたちが、きらきら、きらきら、すでに傾きはじめた陽を受けて、ひかっている。
蔵内はこの青を――この色こそを。
「だったら、もしも俺が死ぬときは、おまえの心臓を連れていくからな」
ぱちくり。
海の色が、瞬きをした。
「……ふ、ふふ、――いいねクラウチ。そうでなくちゃ。やっぱりきみは面白い」
蔵内は黙って、砂の上に放られていた靴と靴下を拾い、甲斐甲斐しくも差し出した。王子はころころと笑いながらそれを受け取る。砂のついた足と見比べて、靴下をポケットにしまうと素足のままで靴を履いた。
「あーあ、じゃりじゃり」
「自業自得だ」
荷物を回収して、陸に戻る。コンクリートの道に、ぽたぽたと水が垂れて、濡れたふたつの足跡がのこる。
駅まで続くひらけた大きな道路には、誰の姿も見えず、車が通る様子もなかった。
「びしょ濡れで電車に乗ったら迷惑だよね……クラウチ、服が乾くまで、線路に沿って歩いていかない?」
「誰のせいだと思ってるんだ?」
「あはは」
喋りながら、王子の言うとおりに歩みを進める。蔵内は自分もすっかり濡れてしまった制服の上着を脱ごうとした。ブレザーのボタンを外そうとして、――気付く。
「ん?」
「どうしたの?」
唐突に立ち止まった蔵内を、数歩先から振り返って、王子は首を傾げた。はっとして、蔵内は、いや、と返事をする。
「……なんでもない」
王子はしばらくじっと蔵内を見つめていたが、
「そっか」
と言ったきり、無言でまた先を歩きだした。その背を追いながら、蔵内の鼓動は速くなる。どっ、どっ、と、鳴る心臓の音が、目の前の王子に伝わってしまうのではないかと、憂う。
指をかけようとした、ブレザーのボタン――上から数えてふたつめのそれが、なくなっていた。
家を出る前、着用したときにはあったはずだ。高校へ通った三年間、いちども取れたりはしなかった、制服のボタン。それが今さらちぎれるだなんて、そんな偶然は、まず、ないだろう。
考えてみれば簡単な話だ。不自然な服装指定。蔵内の着ている制服を引っ張った手。
「……王子」
隣に並ぶと、なに、と素っ気ない返事がかえってくる。
最初からこのつもりだったのか、と思い当たった。きみは生きろ、なんて悠然と言っておきながら――
「おまえでも、喪うのは、こわいか」
蔵内は訊ねた。
たぶん、蔵内の制服のボタンは、いま王子のポケットの中にある。
気付かれたことを悟ってか、王子は立ち止まった。じろ、と蔵内をひと睨みし、すこしの間を置いて、ゆっくりと口を開く。
「もちろん、こわいに決まってる」
海の色が、寄る辺なく揺れる。水面に蔵内を映したまま。――ああ、と、蔵内は思った。
――この海こそが、自分の還る場所だ。
吸い込まれるような、とは、よく言ったものだった。いくら見ていても飽きない青。それをもっと近くで眺めていたくなって、蔵内は王子のおとがいに手をかけた。抵抗する素振りはない。
眼前に海が広がる。しおからい味が、する。
「………………っ、は、」
しばらくその味を堪能してから離してやると、王子が息継ぎをした。
「……きみ意外と強引なところあるよね」
「いやだったか?」
「ううん、そういうところが面白いと思ってるよ」
ふたたび歩きはじめた王子は、ふと蔵内の手をとった。海中に引きずり込もうとしたときとは違う、やさしく絡んでくる指。存在を確かめるように手のかたちをなぞられて、穏やかに空中でゆすぶられる。
はー……、と長く息を吐いてから、王子は表情を綻ばせた。長い睫毛がひかりをはじく。まだ海水で濡れている髪が、水滴をぽたんと落とす。
「……帰ろうか。クラウチ」
淡い笑みを浮かべて蔵内を見る。
「そうだな、帰ろう、王子」
なんだか満足そうにしているので、よくわからないがそれでいい、と、蔵内は思った。
いまはまだ、自分の帰る場所はこちらでいい。死ぬつもりなど、ないのだから。
ざざん、と鳴った波が、ひどく遠くに感じられた。
ふたりの帰る先は、ボーダーのある、三門の街でいい。