浮かぶうさぎの、めのいろは マグカップをふたつ抱えて寝室へと戻ると、先ほどまでは真っ暗だった室内に、常夜灯が点いていた。
きっと、キッチンから戻ってくる王子を慮って点けておいてくれたのだろう。ふ、と笑みながら、王子はふたたび明かりを消して、開け放たれている窓の傍へと寄った。
「クラウチ」
呼びながら、その頬にそっとマグカップをあてる。ぴく、とほんのすこしだけ肩を跳ねさせて、彼がこちらを見る。
「……おかえり」
「うん、ただいま」
表情を綻ばせた蔵内は、羽織っていた掛け布団を大きくひろげた。王子はすばやくその中に入り、くるんでもらう。
やわらかな羽毛布団はあたたかくて、気持ちがいい。隣り合って、腕と腕が触れた。
「熱いから気を付けてね」
「ああ」
大きなカップをひとつ、蔵内に渡す。なみなみと注がれているのは紅茶だ。
王子は普段ならけっして、紅茶をマグカップに入れるようなことはしない。きちんとソーサーのついた、お気に入りのティーカップを使うようにしていた。――それをしなかったのは、窓際を長く離れられなかったからだった。
「……どう? クラウチ」
室内から空を覗くように身をかがめ、尋ねる。蔵内は、ああ、と相槌を打って、それから紅茶をひとくち飲んだ。
「まだ皆既食だよ」
ほら、と、爪のきれいに切り揃えられたゆびが一点を指す。
その先には、にぶく赤銅のいろに染まった月がある。
「わあ……」
ちいさく声をあげ、王子は自分もすこし茶を飲んで、それからほうと息を吐いた。
今日は月食――それも皆既月食の見られる夜だった。
蔵内と王子は月が黒く欠けはじめたところからをふたりで見守っていた。完全に月が影に隠れ、赤く見えるようになったところで、王子は紅茶を淹れるためにその場を離れたのだった。
「面白いね。……すごくふしぎだ」
「ああ……」
心ここにあらずといった様子の蔵内は、空を見上げたまま、マグカップの中身をちびちびと飲んでいる。
王子はそれなりの時間を蔵内とともに過ごしている間柄だが、天文学にもこれほど興味があるとは知らなかった。じいと横顔を見つめても気付かない――そんな様子はなかなか見られない。
なんだか愉快になって、蔵内の頬をつつく。なんのつもりだ、と呆れたような声が返ってくるが、その唇はゆるく弧を描いている。
視線は変わらず天上に向けられたままだ。にぶく赤にひかる瞳は、それこそ影に隠れた月のようで、王子はしばらくそちらに見とれていた。――と、その眼がわずかに見開かれ、それから細められる。王子もその視線の先を追った。
月は皆既食を抜けて、ひだりの端からかがやきを取り戻していた。まるでめくれたカーテンの隙間から洩れるように、細くまばゆいひかりが、――目を灼く。
「…………、?」
うつくしい光景にことばをうしなった矢先、唐突に腕を掴まれて、王子はきょとんとそちらを見た。――そして、すこしだけぎょっとする。
月食に見入る蔵内は、かたちのよい眉をわずかに寄せて、ほろほろと涙を落としていた。王子の腕を握った手は無意識下にあるらしい。よく見れば、反対の手に握られたカップがふるえている。
クラウチ、と声をかけようとして、王子は寸前でそれを飲み込んだ。かわりに、彼との間にあるわずかな距離を、細心の注意をはらってそうっと詰める。蔵内のりんかくをなぞって連なり落ちる水滴が、ぱたぱたと王子の肩を濡らす。
「……悪い、あんまりにも綺麗で」
しばらくそうしてから、握られた力がふっとゆるんだ。マグカップが置かれ、手で顔を拭いながら、蔵内は視線を月からはずし、王子を見る。
うるんだ瞳はよくものの像を反射した。その端に、月が映り込んでいるのを王子は発見した。いまだ欠けた部分はよく見えずに、まるで三日月のようになっている。
――それを見たら、なんだか、堪らなくなった。王子はその月に向かって手を伸ばした。手のひらで頬を包んで、荒れた目元を親指でそうっとこする。
うつくしいものを慈しむこころで、胸がいっぱいになって、あふれる。涙の跡をなぞるように口づけるとしょっぱかった。お返しのように、もういちど、と、今度は蔵内から与えられたそれは、王子の淹れた紅茶の味がする。マグカップに淹れた茶は普段よりすこし渋みがある――気のせいだろうか。
いちど隠れて、ふたたび姿を現した月のひかりは、なんだか常よりもまばゆく思えた。さえざえとしたきんいろ。そのかがやきが蔵内の端整なかんばせを横から照らしている。
高い鼻梁が影をつくる。彼の、すこし重めのまぶたの下、いまだに濡れたままの眼がきらきらとひかっている。それが、なんだか、あまりにも――非現実的なまでに、きれいで。
「……クラウチ、月食が終わっちゃうよ」
王子はふいと顔を逸らして、だんだんと太りはじめた月を指した。徐々に満月へと近付いてゆくそれに、じっと目を凝らせば、影の移動する様子が見えるような気さえする。クレーターがはっきりと見えて、月のうさぎが身を躍らせる。
「そうだな、」
「……クラウチ?」
ごそ、と、ふたり並んで入っている掛け布団がうごめく。もぞもぞと背後に移動されて、王子はすこし顔を傾けた。
なにをしているのかと問おうとすれば、耳のうしろに口づけられた。リップ音が首筋をおりてゆくと同時、伸びてきた腕にやさしく抱きすくめられる。
「ど……うしたの、クラウチ」
至近距離でかかる吐息がくすぐったい。ずる、と落ちそうになる布団を引き上げながら、二人羽織みたいだな、と王子は思った。
「さみしくなっちゃった?」
「…………そういうわけじゃないんだ、ただ、綺麗で……」
返ってきた声はささやかで、すぐさま夜空に沁みて消えてしまう。
王子は後ろ手にそっと蔵内の頭を抱いて、猫がするように自分の側頭部をこすりつけた。
「わかるよ。……ぼくもね、たぶん、いま、同じ気持ちなんだ」
できるだけちいさく囁いた。声が外に漏れないように。あの大きなまばゆい月に、この会話を聞き咎められてしまわないように。
ふ、と、蔵内の吐いたため息が頬をかすめる。呼吸はそのまま、しのび笑いになった。くすくすくす。どちらからともつかぬ音が、ふたりで籠った布団のうちに満ちる。
――おもむろに伸びた蔵内の腕が、全開になっていた窓を閉める。置かれたままになっていたマグカップを手に取って、蔵内はその中の紅茶をぐいと呷る。
王子は蔵内の腕の中でおとなしくしていた。細い隙間を残して、カーテンが引かれる。
隙間から見えたきんいろは、もう、おそろしくなかった。差し込んだ光に照らされて、ようやく落ち着いた赤が王子を見る。
「悪い、どうかしてたな」
「ううん。……月が綺麗だね、クラウチ?」
「ああ、怖いぐらいだ。――月食も、もう終わりだな」
苦笑した声が離れてゆく。それをすこしだけ名残惜しく思いながら、王子は自分のマグカップをとって立ち上がった。ベッドの縁に腰掛けると、掛け布団を元の場所に戻した蔵内がその隣に座る。
「もう寝るか?」
「うん、これ飲み終わったらね。クラウチ、」
「なんだ?」
紅茶を飲めば、カップのなかの水面に、黄金がかがやく。
「ぼくはきみの、そういう……情緒が豊かなところ、かなり気に入ってるよ」
ほつ、と落ちた声があまりにやわらかで、王子は自身に苦笑する。ごまかすようにして、そっと紅茶を飲み干した。
ふと顔を上げると、すぐそこに蔵内がいる。鼻先が触れ合い、くちびるどうしがほんのわずかに触れて、それから離れていった。
「それならよかった。……よいしょ」
間の抜けたかけ声を耳にすると同時、マグカップを取りあげられて、王子の視界が仰向いた。ばふ、とベッドが音をたてる。背に軽い衝撃があって、王子は眼を細めた。
ひっくり返った世界のなかで、王子は自らを見つめる赤い瞳を見た。
「…………そういうところは、どうなんだろうね?」
「一般論ならいらないさ。『王子にとっては』どうなんだ」
至って大真面目な表情で屁理屈のようなことを言って、答えも聞かぬまま、蔵内は王子に触れる。――聞かずとも、わかっているのだろう。
無意識に、ふ、と漏れた声は、半分がため息で、もう半分が笑い声だった。
為されるがままに身体をゆだねて、王子は天を仰ぐ。カーテンの隙間から満月が覗く。
うさぎの視線が、こちらを見ている。