知らぬは君ばかり ほとんど味のしないような安物のホットティー。それを半分ほど飲み終えて、王子はカウンター席に頬杖をついた。
紅茶と名乗るのもおこがましい、ほんのすこし香りがついたばかりの湯は、味のみならず値段のほうもずいぶんと手軽だ。
滅多に利用しない激安のファストフード店。ではなぜその席に座しているのかといえば、――王子は人を待っている。王子の率いる部隊に属するひと。欠かせない片腕。かしこく、よくよく冷静にものを考えることのできる、そのくせとっても涙脆いひと。
――蔵内和紀は、王子にとって所謂恋人というものにあたる。
彼と待ち合わせをしているのはこの店が入っているビルの外、円形の広場に佇む大きな樹の下だ。王子の現在地はビルの三階。ちょうど待ち合わせ場所を見下ろせる席。
冬も半ばの季節。すでに陽の落ちた現在時刻、外はつめたい風が吹きすさぶ。予定よりも早く着いてしまった王子は、店内に入って暖をとっていた、というわけだ。
「……そろそろかな」
眼下の広場を見やりながら、王子は携帯端末を取り出していじる。蔵内と約束した時刻が近づいていた。ファストフード店に入っている旨の連絡をしようとメッセージアプリを立ち上げ、
「あ」
『お疲れ。今、着くところだ。そっちはどうだ?』
たったいま蔵内から送られてきたばかりのメッセージに気付く。王子は無意識に口角を上げた。時間通りに着くのならばただ待っていればいいものを、きちんと連絡を寄越す律儀な男がすきだった。
にま、と笑みながら端末をぽちぽちと触る。傍の店に入っているとメッセージを送ろうとして、――気が変わって、打ち込んだ文字を消した。
『お疲れ様。僕は5分くらい遅れそうだ。申し訳ないけど、そのまま待っててくれる?』
代わりに、嘘を吐いた。ごめんねのイラストを送信して、返事は確認せず端末をスリープにする。
窓の外を見てしばらく待つと、向かいの建物の陰から蔵内が現れた。
ごめんクラウチ、と内心でいまいちど謝って、王子は飲み物をひとくち飲む。
くだらない嘘をひとつ、そんなものを最愛の彼に与えたのはなぜかというと、――王子に言われるがまま、忠犬のように待ちぼうけをする彼が見てみたかったからだ。
意地の悪いことをしている自覚はあった。王子の頭の中、想像上のまぼろしと化した同級生たちが、非難轟々にしゃべり出す。「オージ、それはちょっとひどいよ!」「おい、蔵っちいじめんなや」「いいのかなー? 会長にそんなことして……」――ええいうるさいな、と、王子は自身の脳裏でささやく良心たちを黙らせた。五分、と送った通り、この寒い中でそんなに長い時間を待たせるつもりはない。ただすこし、その高い鼻を赤くして、形のよいくちびるからまっしろな息を吐いて、そんなふうに健気に王子を待つ蔵内の姿が見られれば、満足なのだ。
まさか王子が建物の上から見ているなどとは露知らず、蔵内は辺りを見回している。
「……もう。遅れるって、言ったのに」
王子は苦笑した。まだいないとわかっていても視界の中に王子をさがしてくれる、その仕草がいとしかった。
くす、と笑って、王子は手元の茶をぐいと飲み、残りの量を見た。あと三分の一ほど。
――これがなくなったら、クラウチのもとへ向かおう。
そう決めてカップの中身をちゃぷちゃぷと揺らす。それから窓の外に視線を戻して、――王子は瞠目した。
蔵内が、見知らぬ人間に囲まれている。
カツアゲ? すわ乱闘か、と席を立ち上がりかけて、蔵内の周りに立っている三人がみな女性であることに気が付く。広場からのびる道を指さし、手に持った端末を蔵内に見せて、なにごとかを尋ねている様子だった。蔵内も彼女らの手元を覗き込み、道の先を指してなにかを話している。
――なんだ、道案内か。
安堵して、王子はことの成り行きを見守った。蔵内の説明を受けて行き先がわかったのか、女性らは何度も頭を下げている。鞄の中に手を突っ込んで、小さな袋を取り出した。差し出されたその包みの前で、蔵内はぶんぶんと手を振る。
「…………」
――いや、大したことはしてませんから。そんな、貰えません。
――いいえ、とっても助かったので、どうか受け取ってください!
押し問答が聞こえてくるようだった。袋の中身がなにかは知らないが、蔵内のことだ、きっと固辞する筈だ――そう予想して王子が見ている先で、蔵内はしばし考え込むように動きを止めると、謝礼の品を受け取った。
「えっ」
予想外の行動に、王子はちいさく声を上げた。
礼を渡して満足したのか、はたまた先を急いでいるのか、三人の女性はそそくさと去ってゆく。貰った包みをかるく検分して、蔵内はささやかに微笑んでいる。
王子は困惑した。王子も蔵内も、女性からの贈り物は滅多に受け取らない。それはふたりが所謂「モテる」人間であるからだ。誰かからものを貰ったことに起因するトラブル、それを経験したことは一度や二度ではない。
――まあ、あれは「お礼」なわけだし、知り合いに見られているということもないだろうし。受け取っても問題はないかな。うん、トラブルにはならないだろうと思って受け取ったんだよね。クラウチは優しいもの。うんうん。
つらつらと考えながら、王子は自分の本心が別のところにあると気がついていた。
蔵内はたいそう誠実な人間で、誰に対してもそうであったが、――とりわけ王子には気を遣っている。それは王子が蔵内の恋人という座に在るからだ。
だから蔵内があれを受け取ったのは、やはり、おかしいのだ。王子と待ち合わせをしている直前で女性からものを貰うなんてことを、蔵内がする筈がない。
「……どうして……」
ぶすくれた声がどこからか洩れ出た――と思ったそれは己自身の声で、王子は驚いて口元に手をやった。
まさかそんな、恋に恋するような、駄々をこねるこどものような嫉妬心が、自分のなかにある筈がない。狼狽したことに狼狽し、動揺したことに動揺する。
そこまで案じることではない、と思う。王子だって、同じ状況で押し問答になれば受け取るかもしれない。言い合いになってしまうほうが時間と気力を使うから。そう思うのに、思考と感情が別のところにあって、制御が効かない。
――自分はこんなにも嫉妬深かったのか。
はあ、とため息を吐いて、王子は残っていたカップの中身を一気に飲み干した。
――もう行こう。いま見たことは忘れよう。
くしゃ、と紙のカップを握りつぶして、ゴミ箱に捨てる。「待ち合わせに遅れた」という設定との齟齬がないように、広場に面していない出入口から出なければ。そのために下りる階段は、と考えながらもう一度だけ振り返り、窓の外に蔵内の姿を探した。
「は!?」
今度こそ、王子は他者にも聞こえる音量で声を上げた。なにごとかと周囲の注目を集める。委細構わず、店内の階段を駆け下りた。
暖かな建物内から外の冷気のなかへ、蔵内の待っている広場へ、早歩きをして出て行く。
「――えっ、キミ、まだ高校生!?」
「ええ、ですから、あなたがたと遊びに行くのはちょっと」
「じゃあ、あたしたちが奢りますよ、ね、だからお茶でも」
女性たち――先ほどまでの三人組とは違う、派手な格好をした二人組だ――に囲まれて困っている、その背中に声をかける。
「クラウチ!」
ぱ、と蔵内を含めた三人が振り返った。ほっとしたように表情を緩める蔵内。その向こう側で、二人組がわあと声をあげた。
「えー、オトモダチもイケメンじゃん!」
「二人ずつでちょうどいいね、ねえ、キミ、私たちと一緒にさ――」
かつかつ、とヒールを鳴らし、片方が王子へと近寄ってくる。気安く腕に手を置かれた。内心むっとしながらそれを決して表情には出さず、当たり障りなくけれども確実に断れるようにと、王子は口を開いて――
「すみません」
蔵内に割り込まれた。
「俺たち、受験生なんです。この後も勉強会なので。ほんとうに、遊んでいる余裕がないんです」
王子の腕に乗っていた、色とりどりの爪をした手が、さりげなく落とされる。見上げた蔵内の顔は穏やかに笑っているようで、親しい者が見ればすぐにそうではないとわかる表情だ。王子は自分も笑顔をつくって加勢する。
「……そうなんです。残念ですけれど。もう行かなくちゃ」
簡潔に言って、蔵内の手をとって歩き出した。ひとことふたこと、うしろから追う声があったが、しばらく歩けばそれ以上は追ってこなくなった。ああいう輩は得てしてそんなものだ。
振り向いてもうあの二人が見えないことを確かめ、ぱっ、握っていた蔵内の手を離す。同じようにうしろを眺めた蔵内が、ふう、と嘆息した。
「……悪い。迷惑をかけたな」
「いいよ。元はといえば遅れたぼくが悪い」
そう、遅れた――ふりなんかをした、王子が悪い。
完全に自業自得だったが、どうにも面白くない、と王子は思った。すこし目を離した隙に蔵内はまた女性に絡まれているし、結局あの小さな袋は蔵内の鞄に入っている筈だ。もやもやとしたものが、こころを覆って晴れない。けれどもそれを蔵内に知られたくはない。眉根を寄せていないか、口角が下がっていないか、穏やかな笑みをつくることに注力して、蔵内を促した。
「待たせてごめん。行こうか」
「ああ、――そうだ。待ってくれ王子」
これ、と蔵内が鞄からなにかを取り出して王子に差し出す――それは、先ほど貰った、あの袋だった。
どうしてそれが自分の目前に示されるのかわからず、首を傾げた王子に、蔵内は袋の口を開けて中を見せる。
「さっき知らない人に道を教えて……それでお礼に貰ったんだ」
「…………へえ……、あ」
なんとも言えない気持ちで見やって、そして王子は目をまるくした。
中に入っていたのはクロワッサンだった。それは王子隊の作戦室にもよく持ち込まれている――王子の好物だ。
「好きだろう?」
「……うん」
当然のようにクロワッサンの入った包みを手渡される。
じわじわと、頬に熱がのぼった。まさか王子に渡すために受け取ったのか。悪意ある、といって差し支えないような独占欲を王子が発揮している間に、蔵内はただただ王子への献身を考えていた。
王子はうつむいた。罪悪感と気恥ずかしさに、顔が上げられない。
「王子? どうした、寒いのか? 耳が赤い」
早く行こうと声をかけながら、蔵内のゆびが王子の髪に触れた。跳ねた毛をかき上げられて、手のひらでそっと耳を覆うようにされ、――王子は耐えられなくなった。
「……クラウチ、」
「なんだ?」
「遅れて、……悪かったよ」
「ん?」
不自然に繰り返された謝罪に、蔵内はふしぎそうな顔をしている。
「なんでもない。……にしても、受験で忙しいなんて、きみも大胆な嘘を吐くよね。きみもぼくも推薦が決まってるのに」
ぱっと身をひるがえして、王子は話題を変えた。
はは、と笑って蔵内は応じる。
「受験生には違いないだろ。嘘じゃない」
「よく言うよ。勉強会だなんて」
すこしだけ眼を伏せてすぐに顔を上げ、王子はずいと蔵内との距離を詰めた。至近距離で目が合う。
鼻が触れ合うほどの近さ。めいっぱいの笑顔をつくって、王子はささやいた。
「これから、ご両親が不在のきみの家に行って、……ぼくらは、何をするの?」
う、と言葉に詰まって、そろそろとホールドアップ。降参の態度を全面に表して、蔵内は長く息を吐く。
「……参ったよ。おまえには敵わない」
眉を下げて、いかにも困ったという顔をしたから、王子は自分にこそ主導権があるのだと解釈して、溜飲を下げた。
翻弄されるよりも、するほうでありたいのだ。
だいぶんぬるくなってしまったコーヒー。それをいっぺんに飲み下してから、蔵内は携帯端末を取り出した。
『お疲れ。今、着くところだ。そっちはどうだ?』
メッセージを打ち込んで、待ち合わせ相手に送信する。――王子一彰、蔵内の恋人にあたるひとに。
コーヒーの入っていた紙のカップを片付けると、荷物をまとめた。窓から外を眺める。
蔵内がいまいるのは、待ち合わせ場所を見下ろせるビルの五階だ。最近できた時間貸しのコワーキングスペース。
この近辺で待ち合わせをするときには、向かいのビルに入っているファストフード店に滞在することが多かったのだが、ここができてからは、すっかりこちらの常連だ。一時間五百円フリードリンク付。安さに反し、提供されるコーヒーは悪くない味をしている。
王子はここを知らない。だからややこしくないように、いま到着する、などというメッセージを送ったのだが、今度彼を連れてくるのもいいかもしれない。――そう思ったところで、
「あ」
向かいのビルの窓際に、王子の姿を見つけた。フロアふたつぶん下。ファストフード店でなにか飲み物を飲んでいる。
蔵内はもう一度メッセージアプリを開いた。実は向かいの建物にいるんだ、と送ろうとして、王子が携帯端末を操作していることに気付く。蔵内へのメッセージを打っているのだろう。そう思い、まずは返事がかえってくるのを待とうと、王子の挙動を見守った。
ぽちぽちと端末をいじっていた王子は、ふと手を止めた。しばらく考え込むような素振りを見せ、それからまた指を動かしている。しばらく待つと蔵内の端末が鳴った。王子からのメッセージだ。
『お疲れ様。僕は5分くらい遅れそうだ。申し訳ないけど、そのまま待っててくれる?』
「……うん?」
蔵内は首を傾げた。五分遅れる? もう目の前にいるのに? どういうことなのかと窓の向こうに視線を向けると、王子は端末をしまって窓の外を――待ち合わせ場所を覗き込むように見ていた。口角が、にま、と上がっている。その視線がなにかを探して左右に動く。
「…………」
――なんとなく、理解してしまった。
王子は、彼を待つ蔵内の姿が見たいのだろう。しかたのない、こどものような独占欲。
王子にはそういうところがある。蔵内をためすようなまねをしてみたり。かと思えばふとしたことでやきもちを焼いたり。
表情こそいつも優雅に微笑んでいるが、こころの内はくるくると目まぐるしく変化しているのだ。それを隠すだけの理性を持ち合わせてはいるけれど。
彼の本心を見抜くのは容易ではないようでいて、王子に近しい者ならば誰もが知っている。
王子はわがままで、気まぐれで、そしてそれを覆い隠そうとしている部分があって――そういうところが、蔵内にとっては、いとしかった。
「……行くか」
ふ、と笑んで、蔵内は階段を下りた。