愛のけだもの一、 嵐へと、愛など抱いて何になる。
次元は自ら思い浮かべた「愛」の一言に、吸っている煙草のフィルターを強く噛み締めた。愛、愛。愛。どこまでも浮ついた響きを持つ言葉のくせに、いささかも浮かれた響きを帯びない――むしろことばが切実な切迫さえ帯びるのは、向けている相手が、他の誰でもなく、ルパン三世という男だからだということにはとうに次元自身も気づいていた。
東ドロアの一件以来、ルパンに少しづつであっても確実に心を傾けてしまっている己を自覚しながらけれど抵抗などできない強力な引力に導かれるように、ともに時間を過ごすたびに、次元の中のルパン宛の感情は、強く大きくなっていく。そうするうちにホークの襲撃から逃れて一週間ほど経って、割れた頭の傷もじょじょに癒えはじめた次元は珍しく大人しい、ソファでなにか資料を読み込んでいる怪盗の有り様を盗み見る。
うつくしい、男だと思っている。男にその言葉がふさわしいかは次元にはわからないが。そしてうつくしい、という次元の評価が孕むのは概ね驚嘆だった。例えだとしても災害、といってしまうとかなり意味合いが違う。スリルと女、快楽を何よりも愛する嵐の化身のような男は、けれどそれゆえにうつくしい。そして、とうの嵐によって散々振り回されるうちに、次元が彼に抱く感覚は確実に変貌していく。
――嵐などを愛して何になる。それに、と次元は胸の内でつぶやく。本当に枷になれるとも思わないが、ルパンという嵐の進路の妨げになることは、ほんの少し想像しただけでも胸を刺し貫いて、刺し貫かれた胸裏をかきむしりたくなる心地を次元に与える。
感じたことなどなかった、どこか青臭い感情を持て余した次元は、短くなった煙草を灰皿に雑に押し付けると、怪盗を目に映さないために寝そべる角度を変えて、ソファーの背に体を寄せた。
「次元」
「なんだ」
「飯でも食いに行こうぜ、昼だしよ」
「…………俺は腹減ってねえんだ、一人で行きな」
さよけ、とルパンは次元の素振りに特に疑問を投げつけるわけでもなくアジトを出た。それがいいか悪いかは今は考えたくもない、そう思いながら次元は背に寄せていた体を再び投げ出すと、ソファー全体に身を預け、新しい煙草に火をつけ、大きく吸い、そして長く煙を吐き出した。
◇◇◇
今、ルパンと次元がそれなりに長く潜伏しているアジトのある国は南の方にあり、時折酷いスコールが降ることを抜かせば心地良い気温が続く、唐突さと一度降ったときの雨量にさえ目をつぶれば、なかなか快適な国だった。そんな事を考えるうちに夕日に空の支配権が移り変わり、カーテンを引いていないアジトを赤く満たすようになっても、ルパンはアジトに戻ってきてさえいない。おそらく、というか確実に出先で女を買っているのだろう、そうなれば彼が帰ってくるのは良くて明日の朝、悪くて昼頃だ。
けれど食べる気がしないと理由はいくらでもつけられるが、さすがに朝から何も食べていない肉体は空腹を訴えてきて、次元は鋭い舌打ちで空気を揺らすと、冷蔵庫のドアを開け、ルパンが次元を食事に誘った訳を知った。冷やせばより美味い酒と他の酒を飲むときの割材にしている炭酸水程度しか、冷蔵庫には入っていない。次元は少し考えてから、残されてた酒を取り出して、冷凍庫から氷を出し、洗ってあったグラスに数個氷を入れると酒を注ぎ一気に呷る。
あのルパンが太鼓判をおした酒だけあって、好みとかと問われば確実に否を返すことになるが、美味いものは美味い。芳醇な花と果物の香りが鼻に抜けて、空きっ腹のせいで酒は普段よりまわりが良く、酒のおかけでうっすらと機嫌は上昇してゆく。
次元は酒瓶とグラスを持ってソファに戻り、瓶が空になるまで一人酒を飲み続けた。酒がなくなっても確か深夜が巡る頃までは起きていたと思う。
――これじゃあ、まるで主人の帰りを待つ飼い犬だ。次元はそのような意味合いの悪態をついてグラスを洗い場に置くと、部屋に満ち満ちた夜を割くように歩き、割り当てられた部屋に戻ったのだった。
二、 この国に夏はあっても、春、秋、冬の3つの季節は存在しない。季節の変遷、それが引き起こす情緒というものを殊更ありがたがる性分はあいにく次元にはないが、ある種、変化の希薄な熱帯の国で仕事をせずにただただ安穏と生活を重ねていることに、少しばかり違和感があった。
とはいえ、ルパンが仕事のすべてを差配するのだ。次元がやれることなど計画どころか狙うものすらない現状では、何もない。その間も、女遊びに興じる怪盗は時折普段より早く帰ってくれば必ず頬に紅葉を咲かせて帰ってきていて、何故こんな男に愛か、それに近いものを抱いているのか次元はわからなくなる。
まあ、歌姫のときのように依頼を勝手に受けて、あとは仕事ができたという連絡を待つ事もできる。できるが、しばらくはいくら腹立たしいことが起こっても、この微温湯で満たされた生活に浸っていたい気もしている。
そしてそんな折、不満が降り積もって、暴発の時を待っていた次元にルパンは「酒飲みに行こうぜ」と、冷蔵庫に食料を詰め込みながら、なんてことのないように問うた。
「いいバーを見つけたんだよ、お前さんも多分気に入るさ」
「……俺の好みなんざお前にわかるかよ」
「わかるさ、次元……お前、案外わかりやすいしよ。美味いバーボンも置いてあるぜ」
「……そうかい、」
たやすく跳ねる心臓は煩わしいが、次元にしても美味い酒を拒否する所以はない。スコールの予報が出ていて実際雨が夜まで降り続いたため、その日はこんな天気に外に出ることはないとお流れとなったが、快晴に恵まれた3日後の夜、次元は機嫌よくグラスをルパンと傾けていた。
バーの雰囲気は無骨だが、非干渉の気配が心地良い。酒を求め、求められた分だけ提供し、あとは店から出ていくのを見送るだけ。店主は無口らしく、グラスをよく磨く勤勉さはあるが、酒の名前くらいしか、口にしない。
「こんな店があるとはな」
「好みだったろ?」
「…………さあなあ」
「おやあ、お気に召さねえ?」
それなりの量の酒を胃に流し込み、酔漢二人は夜のぬるい空気を、少しだけ不確かな歩みで切り裂いていく。ふと、次元はルパンの横顔を盗み見た。女が好む形に整えればかなりの見栄えがするだろうに、と思考をしてしまった己を振り切るように次元は酒のせいで熱い息を吐くと、肩に回ったルパンの腕からさり気なく離れようとした。けれど、案外しっかりと絡まった腕からさり気なくを装って離れるのはなかなかに難しい。
酔いで耳や頬の赤く染まった、東洋の血の混じったルパンのどこか不可思議な白い肌は熱を持っている。うつくしさ、幾度重い浮かべたかわからないその言葉がまた次元の胸に去来して、ああ俺はこいつに心底から狂いだしている、と言葉がストン、と胸に落ちる。
「次元、」
「あ? だ、テメッ!」
「ほっぺたにキスくらいでそんなに焦るなよ」
「男にまで手を出す趣味があるのかお前!」
「ねえよそんなもん、なんでかなあ」
「なんでかなって、お前なあ」
「んふふ、お前だから、かもな」
次元の胸に落ちた言葉は、今まで感じたことのない情熱を帯びている。頬に寄せられたルパンの唇は、言葉以上に熱く生々しい。
唐突に降り始めたスコールを言い訳に、次元は腕から逃れてアジトへと駆け出した。嵐が次元が抱く何もかもを承知でキスをした可能性から目をそらして、今はただ、胸の炎を表に出さないので、次元は精一杯だった。