清冽なる青は白百合とともに「こんな時間に何の用だ。」
青き聖地の教会に足を踏み入れるなり、ドン・サウザンドは
気怠げに尋ねた。その視線の先、静まり返った教会の最奥で小さめの机に両肘を載せて指を組み、深刻な表情をして天板の中央を見つめた状態で着席していたエリファスは
徐に顔を上げ答える。
「すまない、どうしても相談したいことがあってな。」
「何も人目を盗んでまで呼び出さずともよかろうに。やはりまだ他人に物を尋ねるのには抵抗があるか?」
エリファスは長らくたった一人でアストラル世界の全てを背負い、他人に助言を求めたことはなかった。カオスを受け入れ民衆の声に耳を傾ける決意をしたといっても、長年にわたり一人で戦い続けてきた彼には誰かに助けを求めることはまだ難しいのかもしれない――というドン・サウザンドの心配を知ってか知らずか、エリファスは顔を綻ばせた。
「いや、単にアストラル世界の未来とは関係のない個人的な話題なのでな。臣下たちの手を煩わせるまでもないと判断したんだ。」
そう言ってエリファスは向かいの席を指してドン・サウザンドに着席を促した。拍子抜けしたドン・サウザンドは眉ひとつ動かさず静かに歩を進め着席すると、淡い金色に輝くしなやかな長い髪を掻き上げ、視線を教会の隅に向けて零した。
「ほう、我のことはその個人的な話題とやらに巻き込んでも構わないと?」
「そう怒らないでくれ、私はそれだけ君を信頼しているんだ。」
「左様か。」
ドン・サウザンドは腕組みをして暫し考え込んだ。何故自分がエリファスの私的な相談に乗らねばならないのかと。
かつてのような暴君ではなくなったとはいえ、頭脳明晰で常に理性的な統治者であるエリファスは良くも悪くも畏怖の対象だ。遥か昔からアストラル世界の最高権力者であった彼においそれと話しかけられる者はそういない。身近な臣下たちでさえ私的な用で彼と関わろうなどとはしない。皆が彼に時間を割かせることに負い目を感じ、あるいは自らの愚鈍さを恥じて積極的な関わりを避けてしまう。ゆえに彼は孤独であった。そんなエリファスと対等に話し、時に
諌める役目を負ったドン・サウザンドには、宰相としての手腕だけでなくエリファスの友としての役割も期待されているようだった。今更ながらそういった事情を理解したドン・サウザンドは煩わしげに右手で額を押さえ天を仰いだ。
「はあ……それで、相談したいことというのは一体何なのだ。」
ドン・サウザンドの半ば投げやりな問いかけに、エリファスは柄にもなく恥じらうように手の指を忙しなく組み換え、視線を斜め下に逸らしてためらいがちに口を開いた。
「……アストラル世界とバリアン世界とが統合されてからというもの、エナのことが気になって仕方がないんだ。彼女が私以外の誰かと親しげに接しているのを見ただけでも胸の奥にわだかまりが生じるほどに。」
「ほう?」
先程まで心底面倒くさそうにしていたドン・サウザンドだったが、エリファスの口から発せられた想定外の話題に思わず姿勢を正して目を見開く。
エナというのはアストラル世界ではかなり有名な女性であり、ドン・サウザンドとも面識はあった。彼女はアストラル世界が抱えていた問題を正確に把握し、九十九遊馬が来訪した際にはエリファスと対立するのを承知で民衆を救うため九十九遊馬を支援し、それを咎めに来たエリファスに毅然と立ち向かった。また、ドン・サウザンドが九十九遊馬との戦いを利用してアストラル世界を攻撃した際には避難所に集まった民衆を宥め励ました。そんな聡明で慈悲深い彼女は民衆からの信頼が厚く、改心したエリファスも彼女を大層気に入っていた。視野が広く民衆の思いを汲むのが得意で、誰に対しても物怖じせずに意見できる彼女が彼の側近となるのにそう時間はかからなかった。また、彼女は時折仕事の合間に本を薦め合ったり詰め決闘を出題し合ったりと彼のことを気にかけているようだった。そんな彼女が彼にとって特別な存在であったのは想像に難くない。彼女はエリファスの数少ない理解者で、その上仕事以外の場面でも親しくしてくれる唯一の存在となれば彼が彼女に何かしら特別な感情を抱くのも無理はなかった。
エリファスの様子を見るに、彼がエナに抱いている感情が恋であるのは明白だった。しかし
精進ばかりを追い求めてきた
穢れなき身には恋という概念さえ存在せず、彼は自らの内に芽生えた感情を上手く認識できていないらしい。エリファスは戸惑いながらも慎重に自身の内面を吐露していく。
「彼女と目が合うだけで訳もなく気分が高揚して、彼女に名を呼ばれる度に動悸がする。その上、気を抜くとつい彼女を目で追ってしまう。私の思考が彼女の存在に占拠されかかっている。時にアストラル世界の再建という使命さえも霞んでしまうほどにな。」
それはそれでアストラル世界の未来を危険に晒してはいないか、と喉元まで出かかったがドン・サウザンドは言葉を飲み込んだ。この〈個人的な〉悩みを放置すればアストラル世界が傾きかねないことはエリファスも重々承知で、かといって臣下たちにもエナにも相談し難い内容だからこそこの場でドン・サウザンドに打ち明けているのだ。しかし自他に高潔でいることを強いていたあの堅物によもや恋心などという浮ついた欲求が芽生える日が来ようとは――と内心愉快がっているドン・サウザンドをエリファスは仏頂面で睨み付けた。思考に釣られてうっかり緩んだ表情を誤魔化すように咳払いしてドン・サウザンドは答えた。
「このところキサマが上の空になりがちだったのはそういうことか。要するにキサマはあの小娘に
懸想しておるのだ。」
「『けそう』?」
「キサマがあの小娘に関心を向けるのと同程度の関心をあの小娘から向けられることを求め、そして自然と互いを尊び互いの心音に耳を澄ませ合うのが苦にならぬ関係となることを欲しているということだ。いわゆる『恋愛感情』というものをキサマはあの小娘に対して抱いているわけだな。」
ドン・サウザンドの解説によって掴みどころのなかった未知の欲求の輪郭がエリファスの内にはっきりと浮かび上がったと同時に、エリファスは自身がそのような甘ったるい願望を抱いている事実に酷く面食らったようだった。しかしドン・サウザンドはお構いなしに続けた。
「ならばうじうじ悩んでいないでさっさと求愛すればよい。成就すれば少しは落ち着くであろうし、ダメならダメで諦めがついて煩悩に振り回されることもなくなるはずだ。」
「そうか。それで……『きゅうあい』とは、具体的に何をすれば良いのだろうか?」
そう言って首をかしげてみせたエリファスの無知さに嫌気が差し、ドン・サウザンドは語気を強める。
「素直にキサマ自身の気持ちを小娘に伝えればよいのだ。『君に心惹かれて仕方がない、どうか私の腕の中で
囀ってほしい』とでも言ってみたらどうだ。」
ドン・サウザンドがわざとらしくエリファスの物真似をしてみせると、エリファスは暫し固まった。どうもエリファスは誰かを抱き締めたい、あるいはそれほどの至近距離で声を聞かせてほしいと意思表示することにさえ後ろめたさを感じているようだった。
「な、何をふざけたことを……。」
「ふざけるのが嫌ならもっと直球に『君を愛している。君を抱き締めたい、ずっと私の側にいてほしい』とでも言ってみるのは――」
「破廉恥な!」
食い気味に拒絶反応を示したエリファスを前に、ドン・サウザンドは呆れた様子でため息をついた。
「求愛というのは恥を忍んでするものだぞ。そもそも恋が成就した暁にはもっと恥ずかしいことも――」
ドン・サウザンドは発言途中で唐突に一時停止した。恋愛感情だとか求愛だとかの初歩的なことすら知らなかったエリファスのことだ、〈もっと恥ずかしいこと〉と言われても現時点ではまだピンとは来ないだろう。が、先ほどと同様にそれが何なのか
訊いてこられては困るのだ。ようやく芽生えたばかりの初歩的な煩悩さえ受け入れるのに難儀しているこの潔癖男にその傍から見れば浅ましく下劣な煩悩のことまで話せばたちまち自らの煩悩を嫌悪し、それらの煩悩を抱く自分自身をも憎み出すのは目に見えている。そうなったらアストラル世界の統治に悪影響を及ぼしかねないのも看過しえない点だが、何よりドン・サウザンドからすればせっかく手元に転がってきた大きな娯楽をむざむざ叩き潰してしまうのと同義なのだ。目の前の潔癖男が煩悩にじわじわと浸食されていくさまをじっくりと眺めて楽しみたいドン・サウザンドとしてはそれだけは避けたいところであるので、さりげなく脱線しかけた話題を軌道修正することにした。
「……まあ、それは一旦置いておくとして。一時の恥のために他の全てを不意にするのはキサマの本意ではなかろう。解決策は既に教えてやったのだ、さっさと覚悟を決めるがよい。」
赤と青のオッドアイから放たれる圧力に屈し、エリファスは黙り込む。言うだけ言ってドン・サウザンドは立ち去ったが、その後もエリファスはその場で少しの間考え込んでいた。
翌日、エリファスは何とかエナに海辺で二人きりで待ち合わせる約束を取り付けた。少しでも早く求愛絡みのストレスから解放されたいがために、当日に言い出すのも無礼とは自覚しつつも、彼がこの日の夜に会いたいと提案したところ意外にもすんなり了承された。急過ぎる約束を取り付けたこと自体よりも普段とは違い言動がやけにぎこちなくなっていた点でエナには大層心配されたが、エリファスは彼女の気遣いに感謝を述べつつも追い返すような形で別の仕事を与えた。彼はこれまでアストラル世界を統治する上でいくつもの決断を下してきたが、自らの欲のためだけの決断を下すのは生まれて初めてであり、期待と不安が混ざり合って彼の胸郭の内で暴れていた。
求愛が成功すれば晴れてエナと相思相愛となり、今抱えているこの苦しみは和らぐはずだ。問題は求愛が失敗した場合だ。これまでの彼女の態度から察するに彼女は少なくとも私を嫌ってはいないだろうから、私の求愛を断るにしても手酷くはせず明日以降も友好関係自体は持続すると思われる。しかし、だからといって彼女が私以外の者に恋愛感情を抱いていた場合に私はそれを看過できるだろうか?
不意に自らが無益な未来予想に呑まれかけたことを自覚し、エリファスは
頭を振る。
……いや、結果も出ていない内からそのような心配をするのは時間と労力の無駄だ。
そう自分に言い聞かせ、エリファスは自己の胸中に渦巻く不可視の濁流を鎮めようと深呼吸した。
それから数時間後、町に程近い複数の大きな岩に囲まれた浜辺に一つの人影があった。普段は静かなこの紺碧の海には珍しく
漣が立っている。一足早く砂浜に到着したエナは、潮風に吹かれながらエリファスに呼び出された理由を推量していた。
エリファスの場合、業務上の連絡や助言ならばその場で告げるはずだ。であれば、空き時間に景色の美しい場所で他愛もない話ができる程度には彼との間に友情が育まれたということだろうか。自分の望む形とは若干異なるが、彼と順調に親しくなれていることは素直に嬉しい――などと考えている彼女の背後で突如砂利を踏む音が聞こえた。
「エナ。」
聞き慣れた声にエナが振り向くと、待ち人は固い表情で彼女の元へ歩み寄った。すると彼女が待ち合わせの理由を問うより早く、彼は部下である彼女に膝を折った。謝罪されるような心当たりが無くうろたえる彼女に右手を差し出し、青き聖地の守護神は真っ直ぐに彼女の目を見据えて言った。
「……君を愛している。わが生涯の、伴侶となってほしい。」
エリファスの唐突な申し出に、エナは目を丸くする。それはけっして不快感や嫌悪から来るものではなく、彼女にとってはむしろ思いがけぬ幸運を前に夢でも見ているのではないかと戸惑うゆえのものであった。
常にこの世界の行く末を憂い、民のためを思い最善を尽くそうと努力してきたエリファスのことをエナはかねてより好ましく思っていた。だからこそ彼の判断が誤っていたことが判明した際には、懲罰をも恐れずに、彼女は異世界からやって来た部外者と協力してまでその誤りを正したのだ。そして新しい考えを受け入れ性格も穏やかになった現在のエリファスはより一層彼女を惹きつけている。とはいえ誕生以来
欲とは無縁であった彼へ淡い想いが通じるとは到底考えられず、せめて彼から最も信頼される臣下になりたいという一種の諦めさえ抱いた矢先に彼の方から愛を告げられた。彼女にとってはまさしく青天の霹靂であった。
ようやく事態を飲み込んだエナは改めて目の前の男に注目する。緑色の右目に淡褐色の左目と左右で異なった色の虹彩が印象的なエリファスの精悍な顔には緊張と不安の色が見てとれた。きっと勝算も無いままに勇気を振り絞って求婚してくれたのだろう。いくら驚いたからといって、そんな彼をいつまでも待たせては気の毒だ――とエナは意を決してエリファスの手をとり口を開く。
「はい、喜んで。」
エナが微笑むとエリファスは目に見えて安堵し、彼女の手の甲に軽く口付けをして立ち上がった。そして二人が幸せに満ちた顔で穏やかに見つめ合っていると、突如岩陰から数十人が姿を現し一斉に拍手し始めた。驚いて周囲を見渡すエリファスとエナの視界によく見知った人物が飛び込む。混沌を統べる神にして現在はエリファスの右腕となっている男、ドン・サウザンドだ。この群衆を率いているのが彼であるのは明白であった。二人と目が合い、ドン・サウザンドはニヤニヤと笑みを浮かべながら一歩前に出た。
「いやはや、よもや
一足飛びに結婚までするとは思わなかったが、想いが報われたようで何より。」
「な……⁉ 何のためにわざわざエナを人目に付かない場所へ誘ったと思っている! そもそもどうやって嗅ぎつけた⁉」
求愛の場面を覗かれたゆえの羞恥心と怒りからエリファスがドン・サウザンドを詰問するも、エナはそれを制止した。
「まあまあ。これだけ証人がいれば〈私があなたの
妻でありあなたが私の
夫である〉ことは間違いなく確定しますから、お互いに誰にも奪われる心配が無くなって良いではありませんか。」
そう言って微笑むエナの
強かさにエリファスは思わず苦笑いした。するとエナは忘れていた、とでも言わんばかりに付け足した。
「そうだ、どうせならもっと強力な証拠を皆様に披露いたしましょう!」
その発言の真意を測りかねてきょとんとするエリファスにエナが縋りつき、そのまま背伸びをして彼と唇を重ねた。黄色い歓声が湧き上がる中、エリファスの頬は熱を帯び、アストラル世界の住人特有の青い血色が透けて仄青く染まる。エナは唇を離すとすぐさまエリファスに体重を預けて耳元で囁いた。
「末永くよろしくお願いしますね、私の愛しい旦那様。」
終わり