羅針盤 とうとう手札が尽きた。周到に策を巡らせて勝利を確実なものとし、その上で我自身が敗れようとも
最強の手駒さえ生き残れば万物を紅き世界の支配下に置ける手筈を整えていた。それでも瓦解するときは呆気なくその時を迎えるものだ。ついには手駒共々我の命は紅く染まった空へと散った、はずだった。
あれからどれほどの時が過ぎたのか。真っ暗闇の中で、我が身を取り囲む質量を感じる。生暖かく仄かにピリピリと肌を刺激する液体――忘れようもない、懐かしき
我が流刑地の海の中だ。浮力は我の体を持ち上げて、潮流はいずこかへと我を運んでいく。死に際の走馬灯にしてはえらく変わっているとばかり思っていたが、予想に反して我は陸へと打ち上げられた。戸惑いながらも目を開くと、紺色の空と共に一人の男が視界に飛び込んだ。忌々しい〈青〉とその守護者だ。奴は膝をついて我の傍らに屈み込み、心配そうに顔を覗き込んでいたかと思いきや安堵したように表情を変えた。そして奴は白々しくも言った。
「無事に
還って来られたようでよかった。」
「……?」
「あの戦いの後、ヌメロンコードは遊馬とアストラルの手に渡った。そして彼らが未来を書き換えたおかげで私たちは生き返ったのだが、君だけはその恩恵に
与ることは無かったと聞いた。そこで私は彼らに君も甦らせるよう頼んだのだが、正直なところ君が目を開けるまでは不安だった。」
思いもよらぬ言葉が、混沌の神の鼓膜を震わせた――エリファスの願いによって今さっきドン・サウザンドが生き返った、などという信じがたい言説が。混沌の神は理解が追いつかずに暫く固まっていたが、彼を流刑に処した挙句数千年来の復讐を妨害しておきながら今更親切心を見せる秩序の神を前にして眉間に皺を寄せた。
「何を企んでいる?」
羅針盤
「『何を企んでいる』、か。確かにそう取られても仕方ないことを君や君の同胞たちにしてきた。」
憂いを帯びた緑と薄茶のオッドアイが、砂を踏む音と共に邪神の視界をゆっくりと遠ざかった。その直後、立てるか、という問いかけと共に差し出された手を赤と青のオッドアイで睨み付けつつ、邪神は上体を起こして片膝を立てあぐらをかいた。こうして気遣いを無下にされるのも想定の範囲内であったらしく、青き聖地の神は眉ひとつ動かさず静かに手を引っ込めて話を続けた。
「何も今更君を罰しようとか、洗脳しようとか考えているわけではない。ただ、君には私の補佐をしてほしくてな。」
自らの不手際で我が子を怒らせてしまった親がその場を取り繕うのと同じ調子で言葉を並べ立てるエリファスに、ドン・サウザンドは半開きの
双眸から冷めた視線を送って吐き捨てる。
「補佐だと? 何故我がキサマの配下になど成り下がらねばならぬ。」
沖の方で、紅い稲光が紺碧の空を引き裂いた。
ドン・サウザンドの問いかけにエリファスは一瞬怯んだ――自身が彼にしてきた仕打ちを思えば至極当然な反応であるにもかかわらず。民衆の願いを叶えたいばかりに暴走していた遠い昔のこととはいえ権力を振りかざして故郷から追放した挙句同胞たちと総出で敵視し続けることでドン・サウザンドを本物の悪人に仕立てあげてしまった張本人である以上そう簡単に頼みを聞いてもらえるわけがないと知りながらも、エリファスには大人しく引き下がれない理由があった。威圧され真一文字に結ばれていた口を躊躇いがちに開いてエリファスは答える。
「あれからアストラル世界はカオスを受け入れ、バリアン世界と統合された。とはいっても、元々私が追放した相手なのもあって、バリアン世界の住人だった者たちとの関係の再構築は難航している。ゆえにかつてバリアン世界を治めていた君の力を借りたいんだ。」
釈明するエリファスを蔑むように見つめつつ、ドン・サウザンドは呟く。
「奴らの
首領たる我を懐柔したと奴らの面前で知らしめ、その上で我を中継すれば奴らは対話を拒まぬだろうとの算段か。」
「……それもあるが、一番は〈私に対して気兼ねなく意見できる人物〉が必要だからだ。」
エリファスの意外な返答に、ドン・サウザンドは目を丸くした。エリファスは紺碧の空を見上げて続ける。
「私は今なおこの世界の頂点で民衆を導くことを求められている。だが、頂点に立つ者の言動に疑問を持ったとして、それをはっきりと突きつけるのは〈支配されている側〉の者たちには相当難しいはずだ。だからといって私が過ちを犯した時に皆が遠慮して言い出せなければ我々はあの頃の二の舞を演じることになる。それを防ぐためにも、かつて一つの世界を統治していた、そして私へ堂々と物申すことができる君が必要なんだ。」
波が穏やかに寄せては返し、砂浜の白い砂を
浚って行く。
ドン・サウザンドの方へと視線を戻すと、エリファスは穏やかながらもどこか影のある表情で告げた。
「私のことは許さなくてもいい――むしろ、許さないでいてもらった方がいいのかもしれないな。……身勝手な願いであるのは理解している。ただ、もう一度同じ未来を歩ませてほしい。たとえ過去への償いにはならずとも。」
エリファスの言い分を一通り聞いて、ドン・サウザンドは大きくため息を吐いた。そして気怠げにエリファスを諭す。
「何やら勘違いしているようだな。ただキサマに文句を垂れるだけならばキサマを憎み続けた方がやりやすいのであろう。しかし、キサマの望むように、我がキサマの進む道を正すのであれば憎しみなどかえって足枷となる。憎しみほど個人の視界を狭めるものはないのだぞ。」
不思議そうな顔で見つめてくるエリファスを真っ直ぐに見据えて、ドン・サウザンドは続ける。
「キサマが過去のことで我に負い目があるのも、民のため自らの過ちを正そうとしているのもよくわかった。なればこそ最初から素直に許しを乞えばよかろうに、難しく考えすぎなのだキサマは。」
ドン・サウザンドの言葉に、目から鱗が落ちたといった様子でエリファスは目を見開いた。その後暫し
逡巡したのちに再度口を開いた。
「君の言う通りだな。本当に、すまなかった。」
そう言ってエリファスが頭を下げると、白い砂の上をまばらに覆う蔓に点在する蕾が開き、二人の足元で薄紅色の花が潮風に揺れた。
「よいよい、面を上げよ。ではキサマの望み通り我がキサマの羅針盤となろう。今度こそはしくじるなよ?」
麗しき
禍津神は顔を綻ばせ、清浄なる神の手を取り握手した。
終わり