だってずっと君に思っていてほしいから『……綺麗だ』
あの日ふいにもたらされた響きが、未だに耳の奥でこだましている。
聞き間違いかと思って普通に聞き返してしまったし、視線を向けた先の当の本人は、夕食に出してあげたタコさんウインナーみたいに真っ赤になっていたから、ここぞとばかりにからかってやろうとも思ったのに。それなのに、言いようのない感情が胸の奥からせりあがってきてしまって、どうしようも無かったのだ。
「だってさ……」
ロナルド君が仕事に出かけた夜のはじめ頃、少し休憩と寝そべったソファの上、胸元で丸まる可愛い使い魔をのんびりなでながら独り言のように言葉を紡ぐ。
「可愛いはお父様にもお母様にもたくさん言われてきたけど。綺麗は、私に言ってくれたの、ロナルド君が初めてだったんだよね……」
「ヌヌヌイ?」
「うん?……うん、そうだね。嬉しかったのかもしれないね」
そう、きっと嬉しかったのだ。
生まれてこの方、私に対して『可愛い』と言ってくれる人はそれなりにいた。そりゃ、私は可愛いからそれは当たり前なのだけど。
でも、私に対して『綺麗』という言葉を送ってくれたのは、本当にロナルド君が初めてで。輝く銀糸や空に溶ける天色の瞳を持つ美しいものが、私に対して同じ印象を持ってくれていたことが、ましてやそれが、二百年以上生きてきて初めてできた恋人だったのだから、嬉しくないわけがなかった。
「……ねえジョン、せっかく若造が綺麗だと思ってくれているんだから、それを保ってこそのドラドラちゃんだと思わないかい?」
「ヌー!」
可愛い使い魔の同意を得て更に気分が良くなる。
「んふふ……。絶対、もっと綺麗だって言わせてやるからな、若造」
スマホに指をすべらせ、お目当てのものに辿り着く。
またあのロナルド君の顔が見れるかと思うとつい頬が緩んでしまう。そして、高揚した気分のまま、注文ボタンを押したのだった。
***
「ジョン……届いたよ……」
「ヌン!」
ダイニングテーブルに座る私とジョンの前には、ちょこんと置かれている小瓶がある。それは、先日ついウキウキと注文してしまった、ハイブランドの深紅のネイルだ。
いつもであれば、これを買うならドラッグストアでプチプラを購入し、その分の浮いたお金をクソゲーにつぎ込んでいるところなのだが。この私にこんなものまで買わせてしまうんだから自分の罪深さを自覚しろよ若造、などと考えていたところで、ちょうど事務所から続く生活エリアのドアが開いた。
「ジョンただいまー」
少しくたびれた顔で入ってきたロナルド君は、ダイニングテーブルの小瓶に目を止めた。
「あれ?いつものやつじゃないのな」
「え?ああ、うん。たまにはね」
……正直、ロナルド君がいつも使っているネイルを把握していたことに驚いた。
そうだよ、いつものやつじゃ無いんだよ。
「ふーん……?」
仏頂面で近寄って来たロナルド君は、置かれた小瓶を手に取ると、部屋の明かりに透かしながら見ている。
「どうしたの?」
「いや……。これ、結構高いブランドのやつだよな」
「うん、そうだけど……」
もしかして、無駄遣いしやがってなどと小言を言われるんだろうか。
さすがにそれは少し嫌だなと思って口を開きかけたが、聞こえてきたのは予想外の言葉だった。
「なあ、これ、塗って見せろよ」
「え……?」
「だから、これ、お前の爪に塗れって、今」
思わず聞き返した私に、少し仏頂面になったロナルド君がずい、とネイルの小瓶を差し出してくる。
「うん……?」
ひとまずそれを受け取る。何がなんやらわからないけれど、どのみちこれから試しに塗ってみるつもりだったのだしと、ロナルド君の要望を受け入れることにした。
***
「……よし、乾いたかな」
何度か重ね塗りをすることしばらく。ようやく完成した爪先は、いつもよりもツヤツヤと輝いていた。
「結構かかるんだな」
両の手十本分を塗り終えるまでの時間、何故か微動だにせず様子をまじまじと見ていたロナルド君がようやく口を開く。
「そりゃあね。一度塗りでもいいんだけど、やっぱり何回か重ねたほうが発色がいいからね」
「そういうもんか……」
口の中で呟くように言うロナルド君が、同時にネイルを終えた手に触れる。そのまま自分の目の前まで持ち上げてしばらく眺めたあと、その口元が緩むのに気づいた。
「うん。……綺麗だな、似合ってる」
その様子が、いつものロナルド君とは似ても似つかなくて、思わず可愛くないことを言ってしまう。
「……一体どうしたの?何か悪いものでも食べた?」
「食ってねーよ殺すわ」
さすがにこれはダメだったようで、言葉と同時に手刀が振り下ろされた。
「せっかく言われた通り塗ってみせたのにひどいなぁ」
塵から復活しつつ泣き真似をしてみると、恨みがましく返される。
「せっかく褒めたのにお前が茶化すからだろ……」
まったくその通りだったのでどうしたものかと考えていたら、ふいに顔を反らせたロナルド君がもごもごと言い訳のように話し始めた。
「お前が、お、俺が可愛いって言わないって怒るし、この前ちょっと褒めたら嬉しそうだったから……。だから、たまにはちゃんと言おうと、思って……その……」
言っている途中で自信を無くしてしまったのだろう。尻すぼみになる声をどうにか一字一句逃さず聞き取る。なるほど、若造なりに考えていてくれたとは!
「ねえ、このネイルをしている私は綺麗に見えるのかい?」
「ばっ……!……お前が!その、……綺麗だよ」
百点満点の回答に思わず口元が緩む。
そうだよ、そうしてずっと綺麗だと思っていてね。努力は、惜しまないつもりだから。