月嵐童物語 外伝今は昔か遥かな未来か、或る辺境の地に館を構える戦士の一族に兄弟がいた。二人とも未だ元服しておらぬ幼い身であったが、白銀の髪を持つ兄はまだ幼いながら既に文武両道共に秀でた才を現しており、長じては一族最強になるのではないかと周囲の者たちに期待されていた。また、燃えるような赤髪を持つ弟は、その稀なる髪色から伝説に詠われる一族初代の再来ではないかと噂されており、彼ら一族の次期当主はこの兄弟のどちらかが担う事になるであろうと言われていた。
だが、周りの大人たちの勝手な推測をよそに、対の髪色を持つ兄弟の仲はとても睦まじかった。どこに行くのも何をするのもいつも二人一緒でなければならぬ程に。
……この物語はそんな兄弟の、とある夏の日の出来事だ。
☆
うだるような暑さが続く夏の最中。白銀の髪の少年は弟と共に愛馬に乗り、伴も連れずにただ一騎、館近くにある領内の森を訪れていた。白銀の髪を持つ少年の馬術の鍛錬のためでもあり、生気を持て余して毎日館の中で暴れまわる、やんちゃな赤髪の弟の遊び場を求めてのためでもある。
彼ら兄弟は一族の中でも尊い身分であり、また、二人共にまだ年端も行かぬ子供である。そんな彼らが従者も伴わず、たった二人だけで館を出れたのには二つの理由があった。彼らが向かう森は館のごく近くにあり、子供の足でも一刻足らずで周りきれる程の小さく安全な場所であると言うこと。また、その周囲は常に警備の兵が目を光らせ巡回していること。……以上の事から、此度は特別に兄弟二人で外出することが許されたのだ。
それでも彼らの母や館の女衆は、幼い子供二人で伴も連れずに出かけることを心配していた。だが、白銀の髪の少年は形の良い眉をきりりと上げ、凛と背筋を伸ばしてこう言ったのだ。……母上どうぞご心配無く。大切な弟の身命は、長子であるこの私が必ず守りまする……と。
その凛々しい宣言に心を打たれた父母や家臣たちに見送られ、兄弟は馬上の人となる。護身用の愛刀を脇に差した少年と、少年に抱きかかえられ馬の首にすがりつく赤髪の弟は、目的地までの僅かな時を和やかに過ごした。兄弟二人にとっても、いつも挙動に目を光らせ口うるさく注意をしてくる煩わしい大人たち抜きの時間は貴重であったのだ。
流れる雲を眺め、鳥のさえずりに耳を傾ける。領内の美しい景色を兄弟で楽しみながら馬に揺られていれば、瞬く間に目的地の森にたどり着いた。知らせを聞いて待ち構えていた警備の兵に馬を託すと、二人は喜び勇んで蝉の鳴き声が溢れる森の中へと駆け出してゆく。目指すは森の中程にある、清水を称える小さな泉だ。
森に入って小半時も経たずに目的の泉に辿り着くと、兄弟は衣服を脱ぎ捨て、歓声を上げながら清涼なる水の中に飛び込んだ。
小さな森に似つかわしい、小さな泉だ。水中や周囲に危険な生き物は生息しておらず、水の深さは一番深い場所であっても立った少年の腰までしか無い。水面は穏やかであり、まだ幼い弟でも余程の事がない限りは溺れはしないだろう。対の髪色を持つ兄弟は、館での厳しい鍛錬や躾けられた礼儀作法を忘れ、清水に浸りながら互いに水をかけあい、笑い合うのだった。
☆
……あれだけ暑さに火照っていた身体がぶるりと震え、兄弟は揃って小さなくしゃみをした。ふと気がつくと、眩しく差し込んでいた木漏れ日も無くなり、周囲は薄暗くなり始めている。
それを見た白銀の髪の少年は心底慌てて弟の手を引き、泉から上がった。父母には日が落ちる前に館に戻ると約束をしたのだ。ここで約束を違えては責任ある一族長子が廃るだけではない、父親からは特大の雷が落ちることになるだろうし、母親は心配のあまりはらはらと落涙するかもしれぬ。そして長子の資格無しとの烙印を押され、もう二度と館の外に出してもらえぬかもしれない……
まだ遊び足りぬとむずがる弟をどうにかなだめて衣服を着せ、自分も急ぎ身支度を整える。そして愛用の刀を脇に差したところでふと気がついた。……はて、このように周囲が暗くなるまで、近くで待機しているはずの兵たちが我らを呼びに来ないのは何故であろう。それに、あれほど喧しく鳴いていた蝉の声も聞こず、よくよく考えてみれば日が落ちるのもいささか早すぎるのではないか。
……まさか、物の怪の仕業か。
少年の背筋を冷たいものが滑り落ちた。咄嗟に脇に差した刀に手をかけ、弟の名を呼ぶ。……しかし、返事がない。息を呑んで周囲を見回すと、先程まですぐ傍にいたはずの弟が、ふらふらとした足取りで茂みの奥に消えていくのが見えた。
少年の心臓に氷片が突き刺さったかのような衝撃が走る。顔中の血の気が引き、身体が震えだす。大声で弟の名を呼び、凍りついてしまったかのように固まった身体を必死に動かし、弟を追いかけ自らも茂みの中へ飛び込んだ。顔をあげると、森の奥へと消えていく弟の燃えるような赤髪が見える。見失っては堪らぬと少年は全速力で駆け始めたが、全くと言っていいほどに追いつけない。おかしい、何故だ、まだ幼い弟がこれほどまでに早く歩けるはずはないのに……。
一瞬でも気を抜くと見失ってしまいそうな弟の背を必死に追いかけていると、少年の耳に不思議な唄が聞こえてきた。咄嗟に唄が聞こえてきた側に顔を向けると、まるで少年を見下ろすかのように、頭上に一羽の鳥が飛んでいた。地味な羽毛を持つ、一見なんの変哲もない野鳥のようだったが、妖しげな唄はその嘴の奥から聞こえてくる。
こっちにおいで
こっちにおいで
さあさあぼうや こっちにおいで
こっちのぬぅまは あぁまいぞ
こっちのぬぅまは ここちよい
いちどはいれば でれはせぬ
妖鳥は、少年の周囲を飛び回りながら優しげな声音でそう歌い続けていた。おのれ物の怪め、怪しげな言葉で我らをたぶらかすつもりだな、その手にはのるものか。……少年は歯を食いしばると、身体にまとわりつくような妖しい歌声を振り払い、前だけを見やって走り続ける。
茂みに見え隠れする弟の赤髪を追って走り続けること小半時。流石に胸が苦しくなってきた少年は、はあはあと吐く己の息が白くなっていることに気がついた。袖をたくしあげてむき出しの腕がぶるりと震え、鳥肌が立つ。走りながら周囲を見回してみれば、木の葉にはうっすらと霜が下り、さながら真冬の景色のようだ。
異常事態に息を呑む少年の頭上で飛び回る妖鳥は、あいも変わらず訳のわからない歌をついばみ続けている。
こっちにおいで ちんちろりん
こっちにおいで ちんちろりん
まふゆのぬまは たのしへまい
まなつのいりえは ここちよい
みなひとやさしく ござります
みなひとかんげい ござります
妖鳥の鳴き声は少年の脳裏で反響し、彼の心を千々に乱した。身心にまとわりつくように流れる妖歌を振り払おうと激しく頭を振り、歯を食いしばりながら駆け続けていると、ふいに、視界が開ける。
勢いよく茂みを突き抜けた先は、泥が詰まっているかのような沼地であった。走り続けていた勢いがついているせいで立ち止まる事もできない。叫び声をあげる間もなく泥沼に落ち、胸元まで汚泥に浸かってしまう。
鼻をつく腐臭に顔をしかめながら泥水を掻き分け、懸命に周りを見回す。すると、少し離れた場所に仰向けに浮かぶ弟の姿が見えた。気絶しているのだろうか、弟はぴくりとも動かず、そのままゆっくりと沼に沈んでいく……。
少年は矢も盾もたまらず泥を掻き分け、必死にその小さな身体を捕まえた。弟はぐったりとしていたが、幸いどこにも怪我はしていないようだ。弟の身体を抱え、必死にもがき、どうにか沼の淵まで辿り着いた少年は、沼から這い出た瞬間に思わずその場に座り込んでしまった。
……だが、禍々しきこの場所に留まり続ける訳にはいかない。大きく息をつき、全身汚泥まみれになりながら再び立ち上がろうとした少年を見下ろしながら、またもや妖鳥は意味不明の歌を歌うのだ。
こっちにおいで らくばはなぁ
こっちにおいで らくばはなぁ
こっちのぬぅまは くされぬま
こっちのぬぅまは どろのぬま
からまるくされは とれはせぬ
くされしずんで なゆたまで
われらのかてと なりゃしゃんせ
われらのかてと なりゃしゃんせ
訳のわからぬ歌を歌い続けながら、妖鳥は再び少年の周りを飛び回り始めた。
絶えること無く囀られる妖しげな歌と肌を刺す真冬のような寒さのせいだろうか、ここまで全力で駆け続けてきた疲労のせいだろうか。白銀の髪を持つ少年の頭は酷く痛み、激しい目眩に襲われていた。ふと気を抜くと怪しげな歌に絡み取られ、再び腐臭漂う沼に引きずり込まれそうになる。
……なんの、負けてなるものか。
心耳心眼。
白銀の髪の少年の脳裏に、武道の師でもある父親の言葉が思い浮かぶ。
眼に見える幻に惑わされるな。心の眼、心の耳で、物の怪の正体を見極めるのだ……。
少年は眼を閉じて呼吸を整え、脳裏に漂う妖しげな靄を振り払った。抱えていた弟の身体を静かに地に寝かせると、腰に差していた刀をすらりと抜き放つ。
精神統一。
少年の閉じた瞼の裏に、何やら妖しく蠢く黒い影が見えた。……そこか!
−我が名は月嵐童。誇り高き一族の長子。
少年はかっと眼を開き、高らかに宣言する。
−貴様らなどに決して負けはせぬ。腐れ沼に潜む化け物どもめ、覚悟しろ!
気合い一閃!
全身全霊を込めて刀を薙ぎ払うと、刹那、耳をつんざく叫び声が辺りに響き渡った。
叫び声は十重二十重に響き渡り木の葉をざわめかせると、次の瞬間、周囲一体に恐ろしい程の猛吹雪が巻き起こる。少年は慌てて弟に覆いかぶさり、怪異が収まるのをひたすらに祈った。
……父上、母上、伝説の初代様。私はどうなろうと構いません、どうか、どうか、弟だけでもお助けください。
赤髪の弟を抱きしめながら固く目を閉じ祈り続けるうち、白銀の髪の少年の意識はふつりと途切れた……。
☆
闇の向こうから、自分を呼ぶ声がする。
薄靄の向こうに見え隠れしているのは真紅の炎。魂まで凍りつくような吹雪でも、永久に続くかと思えるような暗闇も力強く跳ね返す、美しく燃える紅き炎だ。
……いや、違う。あれは炎ではない。暗闇の中で赤く強く燃えあがり浮かび上がるその紅は、何よりも大切な私の弟の、燃えるような赤髪だ……
−兄上!
耳元で強く呼ばれ、白銀の髪の少年はぱちりと目を開けた。途端に瞳に差し込んでくる強い光に思わずうめき声をあげると、次の瞬間、彼の胸元に暖かく柔らかいものが飛びついてくる。まだ頭から完全には抜けきれぬ霞を懸命に振り払いながら少年が身体を起こすと、青ざめた顔で心配そうに自分を覗き込んでいる警備兵たちの姿が見えた。そして視線を落とせば、泥だらけの姿の赤髪の弟が、彼の胸元にすがりつき泣きじゃくっている。
弟の姿を見て瞬時に意識を覚醒させた少年は、泣き止まぬ弟に怪我はないかと問いただした。だが赤髪の童子は兄の身体にすがりつき大声で泣くばかりで埒があかぬ。困惑する少年に、彼が目覚めたのを見て多少は安堵したらしい警備兵の一人が事情を話しだした。
日が暮れかけたと言うのに戻らぬ兄弟を心配した兵達が森の奥へと進んでいくと、茂み向こうから子供の泣く声が聞こえてくる。まさか兄弟の身に危機が迫ったのかと血相を変えた兵達が駆けつけると、身体中泥だらけで泣きじゃくる赤髪の弟と、弟と同じように泥だらけの姿で地面に大の字に倒れている白銀の髪の兄を見つけたのだと言う。
−若様方に万が一でもありましたら、我らはお手打ちを受けるところでございました。本当にお怪我も無く、ご無事で何より……
兄弟の身を案じて感極まって泣き崩れた兵達と、未だに兄の胸元にすがりついて泣きじゃくる弟の涙の合唱をぼんやりと聞きながら、少年は、つい先程我が身に起きたことを思い返していた。……はて、あれは白昼の夢幻であったのだろうか、あるいは真に、我らはこの森に潜むあやかしにたぶらかされかけたのであろうか。
しばらくして、ようやく落ち着きを取り戻した兵に改めて問い質す。彼らが話すところによれば、この小さな森に腐臭を放つ泥沼など存在せず、もちろんこの真夏日に吹雪など起きることなど無かったと言う。
まだ夢を見ているような心地のままに胸元の赤い髪を撫でていると、やがて、大きく鼻をすする音と共に涙まじりの声が聞こえた。
−……兄上。
そう呼ばれ胸元に視線を向けると、涙を浮かべた琥珀色の大きな瞳がまっすぐに自分を見やっている。
燃えるような赤髪を持つ幼い弟は、その泥だらけの頬を涙の線で濡らしに濡らし、唇を震わせながらも兄の目をまっすぐに見つめてこう言った。
−兄上の勇姿、とても、とてもご立派にございました。ありがとうございました、兄上……
その幼い声を聞いた瞬間、未だ少年の頭にかかり続けていた靄は嘘のように晴れていった。大切な弟を守りきることができた喜びと誇りが少年の心を浸し、満たしていく。目元が自然と熱くなり、胸の奥からこみ上げてくる嗚咽を必死に飲み込んだ。
……ああ、伝説の初代様。ご覧になって下さいましたか。貴方様の志を受け継ぐ一族長子として、ふさわしい行いができていましたか……。
喜びのあまり溢れそうになる涙を懸命に堪え、未だ泣き止まぬ弟の頭を優しく撫でると、少年は静かに微笑んだ。
……全く、一族の男として生まれたにも関わらず、随分と泣き虫な弟だ。そんなことでは伝説の一族初代様に笑われてしまうぞ。
彼は苦笑しながら、弟の頬にこぼれる涙を拭ってやる。
……何も恐れることはない、何が起きても私が其方を守ってやろう。其方は私の大切な弟なのだから……。
彼は赤髪の弟を安心させるようにそう呟くと、その震える小さな身体を優しく抱きしめるのだった。
今は昔か遥かな未来か。
この物語は、後に一族で最も優れた力を持つと呼ばれることになる兄弟の、とある夏の日の出来事だ。
fin.