月嵐童物語 巻之四白銀の髪と蒼い眼を持つその少年は上機嫌であった。
名高い戦士の一族に産まれたこの少年は、ここしばらくの間、とある武器の扱いに手こずり、苦悩していた。だが彼は連日連夜修行を続け、ついにその武器を手足のように使いこなす術を身につけたのだ。
少年は一族始まって以来の神童と呼ばれており、その呼び名に違わぬ武術の才を持っていた。しかし、彼が手に持つこの武器は実に厄介な代物であり、扱いに手こずり、教えを受ける武術の師から叱責を受けた回数は両手では数え切れぬ。
だが、彼は決して諦めはしなかった。雨の日も風の日も、手のひらにできた豆が潰れ、両の手が血まみれになるまで修行を続けた。そしてついに今日この日、少年は、師より認められる程の演舞を行うことができたのだ。
湧き上がる達成感に彼の心は弾み、両手の血豆の痛みなど最早気にもならぬ。ここしばらく味わったことのないその喜びと誇らしい報告を、何はともあれ先ずは我が父母に知らせよう。彼は喜び勇んで鍛錬場を飛び出し、両親が待つ館へと一目散に駆けていった。
いつも厳しい父は自分を褒めてくれるだろうか。頭を撫で、良くやったと声をかけてくれるだろうか。いつも優しい母は、複雑な武具を華麗に使いこなす自分を見て驚くだろうか。暖かく微笑みながら柔らかい胸に抱きしめてくれるだろうか。
……そして、弟は……。
…………。
喜びに胸を膨らませたままに両親が待つ館へ辿り着き、息を弾ませ二人の姿を探す。踊る心をどうにか抑えて耳を澄まし、何処かより聞こえてくる両親の楽しげな笑い声を聞く。その声に導かれ、少年は、黄金色の陽の光射す庭園に駆け込んだ。
未の刻の暖かな日差しの中、父親と母親が心から嬉しそうな笑い声をあげている。二人の姿を見つけて輝いた少年の蒼い眼は、だが、彼らの前に立つ燃えるような赤髪に気づき、そのまま凍りついた。
黄金色の日差しの中で父母は笑い、手を叩き、称賛の声をあげている。しかし、その笑顔も称賛の言葉も彼に向けられたのものではなかった。陽の光に満ちた庭園で彼が見たものは、自分があれほど扱いに苦労したあの武器をいとも容易げに、自分より更に華麗に使いこなす、彼の弟の姿だった。
父と母は、燃えるような赤い髪を持つ弟の演舞に感嘆の声を上げ、楽しげに笑い、惜しみのない称賛を送っている。
発せられる寸前であった彼の声は凍り、口元に浮かんでいた笑顔は跡形もなく消え失せた。
確かに彼の弟もまた一族の戦士であり、同じ師の元で武術の道を歩む者だ。だが、あの武器を、彼が死ぬ程の労苦を重ねてようやく皆伝を得たあの武術の修行を弟が始めたのは、ほんの、ほんの数日前のはずだ……。
複雑な武具をいとも容易く、華麗に操る弟の姿に驚き、心の底から嬉しそうな父母の姿。そして父の称賛と母の抱擁を受け、幸せそうに笑う赤髪の弟の姿。
それらの姿を遠くに見つめながら、少年は血が滲むほどに固く拳を握りしめ、無言のまま三人に背を向ける。
訪れた時とは打って変わった絶望に心を支配されたまま、少年は独り館を去った。四肢が引き裂かれてしまいそうな心の痛みを抑え込み、震えが止まらぬ拳を固く握りしめた。
何故だろう、耐えられぬほどに目頭が熱くなり、視界が滲む。ふざけるな、一族長子が泣いてなるものか。音が鳴るほどに奥歯を食いしばり、涙など一滴もこぼすものかと蒼い眼を見開いた。
どうやって戻ってきたのであろう。彼は再び、誰もいない鍛錬場に立ち尽くしていた。きつく歯を食いしばったまま、蒼い眼に溜まった涙がこぼれ落ちぬようにぐいと顔を上げ、天井を見上げる。……すると。
彼の蒼い目に映ったのは、窓から差し込む陽の光に照らされた一振りの太刀であった。一族の鍛錬のために刀身ごと壁の刀掛けに飾られた大太刀は、まだ少年である彼には持つことすら一苦労な大得物だ。だが、師の元で扱いの教示を受けた時、まだまだ未熟ながらその刀筋は悪くないと褒められた事を思い出す。
ああ、そうだ。そしてこの太刀は、どのような……どのような扱いが難しい武器であろうと容易く使いこなしてしまう赤髪の弟が、珍しく手こずっていた武器でもあった……。
瞬間、少年の心に天啓が降りる。彼は即座に決意した。この大太刀を私の得物としよう。私の、私だけの武器としよう。そうだ、これだけは弟に譲るものか。これだけは負けてなるものか。この得物だけは、弟に奪われてなるものか。
彼はそう強く心に誓うと、刀掛けにある大太刀に手を伸ばし、その柄を強く握る。長大な太刀の柄は、まだ少年である彼の手には大きすぎた。だが彼はその瞬間、まるで生涯の友を得たような心地となる。
強張っていたままの少年の口元にようやく僅かな微笑みが浮かんだ。……だが、その刹那。彼の蒼い眼から二筋だけ透明なしずくが流れ、顎をつたって零れ落ちる。
負けるものか。
決して、負けるものか。
誰もいない鍛錬場でそう小さく呟いた少年の声を聞いていたのは、陽の光に輝く大太刀だけ……。
fin.