【橙】Ginger & Honey【ラーヒュンラー/ヒュンラーヒュン】 ラーハルトは寒さが苦手なようだった。
いや、正確に言うならば、体温調節が下手なのだろうか。暑い時にはとことん薄着をするし、寒いときには上着やマントをたっぷりと着込む。魔族の中でも命亡き者にばかり囲まれていたヒュンケルには、それが魔族の特徴なのか、単なるラーハルトの個性なのかはよく分からなかった。
その冬、ヒュンケルとラーハルトが住みはじめてから初めて山に雪が降った。朝起きると、見慣れたはずの景色が見渡す限り白く粉砂糖をかけられたように変わっていた。玄関の外に広がる一面の銀世界に、ヒュンケルもラーハルトも声を無くした。後日ヒュンケルが麓の村でパン屋の女将に聞いたところ、雪が降ったのは十年ぶりくらいだそうだ。大陸の中央よりやや南に位置するこの村は比較的温暖なほうで、雪が降ることは滅多にないと言っていた。
雪が降ったのはその一日だけだったが、雪はしばらく融け残った。それだけ今年の寒さは例年に比べて厳しかった。
たまったものではなかったのは、寒さが苦手なラーハルトだ。
ラーハルトの肌は触れるといつも少しひんやりしていて、ヒュンケルより体温が低いようだった。
筋肉のつき方も体温に関係あるのかもしれない。ヒュンケルは親友から槍を託される以前は、鎧を全身に纏い、力で断ち切ることを得意としていた。そのためか細身ではあるが、今もがっしりとした体つきをしている。対するラーハルトは、必要最小限の軽い鎧で素早さを生かした戦法をしていた。そのためか猫科の動物のようにしなやかな体つきをしている。
ふたりの住まいで薪ストーブがあるのは居間だけだ。あとは火の気があるのは厨房くらいで、夜になると寝室は底冷えした。
ヒュンケルは寝具の間にしのばせた行火でなんとかしのげていたが、ラーハルトはそれでは足りないようだった。夜は寒さで眠れないようで、朝になるといつも目の下に濃い隈をこしらえて起きてきては、すぐに居間で火を起こしてその前を陣取る。隈の色も日々濃くなり、おまけに足元のふらつきもつくようになってきた。
寝室に暖房器具や、せめて毛布を買い足してやりたいところだったが、今年は冷夏のせいで菜園の実りが悪かった。そのせいでなにかと出費が嵩んでおり、懐の余裕がない。ラーハルトにはなんとかこの冬を耐えてもらうしかない。
ふたりで夕食の支度をしていたときだ。厨房でヒュンケルは獲れたばかりの兎の下拵えをしていた。ラーハルトは家の中だというのに何枚も重ね着をした上に、さらに大判のストールに包まれて、居間の薪ストーブの前を陣取って芋を剥いていた。最初は軽快だったその手さばきが、徐々に緩慢なものに変わり、遂に右手に持ったナイフの刃が宙を滑った。気がつけばラーハルトは芋を剥きながら船を漕いでいた。
「ラーハルト!」
思わずヒュンケルが厨房から声をかけると、ラーハルトははっと目を開けて、眠気を振り払うように頭を振った。
これでは危ない。
なんとかしてやれないものかと思うが、その知恵がない。ヒュンケルは何日も頭を悩ませたが、その間もラーハルトの隈は日に日に濃くなっていく一方だった。話しかけてもうわの空で、日中に暖かい居間のテーブルに寄りかかってうたた寝をしていることも増えた。
もはや四の五の言っている場合ではない。なんでも自分ひとりで抱え込むのはヒュンケルの悪い癖だ。己に知恵がないのならば、借りればいい。
その日、ヒュンケルはラーハルトと共に日課の洗濯と薪割りを手早く終えると、「用を思い出した」とだけ言い置いて、厚手のマントを羽織って麓の村へと向かった。
その夜、寝間着姿のヒュンケルは腰につけたランプで足元を照らしながら、自分の寝具とカップをひとつ抱えて、ラーハルトの寝室の扉を叩いた。
「なんだ?」
中からラーハルトが応えた。
「扉を開けてくれないか? 両手がふさがっているんだ」
扉が開くと、寝間着の上に分厚いガウン、さらにその肩にストールも引っ掛けて、着膨れたラーハルトが出迎えてくれた。ラーハルトは寝具とカップを抱えたヒュンケルの姿に切れ長の目を丸くした。
「なんだそれは」
「まあ待て」
きょとんとしたラーハルトをよそに、ヒュンケルはまずベッド脇の棚にカップを置いた。その隣に自分の寝具も乗せる。
「まずはこれを飲め」
ヒュンケルはラーハルトにカップを差し出した。
ラーハルトは訝しげにカップを受け取った。カップは暖かく、中からは蜂蜜の甘い匂いと、香辛料の刺激ある香りがした。
「なんだこれは」
「生姜の蜂蜜漬けを湯で割ったものだ。下の村で分けてもらった。体が温まるらしい」
「オレは甘いものはあまり……」
「つべこべ言っている場合か。黙って飲め」
そうぴしゃりと言い放つと、ラーハルトは渋々といった体でカップに口を付けた。それを見届けたヒュンケルはラーハルトのベッドを整え始める。まずヒュンケルの毛布を一枚下に敷く。足下にヒュンケルとラーハルトの分の二つの行火を置き直し、その上にラーハルトの毛布を一枚かける。さらにその上にヒュンケルとラーハルトの布団を二枚かけて完成だ。
「なにをしている?」
ラーハルトの問いには答えずに、彼の持ったカップを取り上げる。
「よし、全部飲んだな」
「子ども扱いするなよ。それで、オレの寝床になにをしたんだ?」
「いいから。入ってみろ」
ヒュンケルに上着とストールを引っぺがされて追い立てられ、寝間着だけになったラーハルトは不審な顔をした。しかし寒さには耐えられなかったのか、毛布と毛布の間に潜り込んだ。肩まで入ってしばらくもぞもぞと動いていたが、考えこむようにぴたりと止まってからラーハルトは言った。
「……いつもより暖かい気がする」
「そうか。それはよかった」
ヒュンケルは顔を明るくした。
「お前があまりにも毎日寒そうだったから、大工の爺さんに色々と教えてもらったんだ。年の功とはよく言ったものだな」
ヒュンケルがまず顔なじみの大工の爺さんの元を訪れると、「この寒さにゃあ俺もこたえるが、魔族のあんちゃんも一緒かい」と、いつものように軽快に笑いながら、あれやこれやと知恵を授けてくれた。「この通り暑苦しい人でしょう? だからこの人も寒いのが苦手なのよ」と、にこにこしながら2人の話を聞いて、生姜の蜂蜜漬けを分けてくれたのは爺さんの連れ合いだ。
「しかし、暖かいのは歓迎だが、これでお前はどこで寝るんだ?」
一応、客間にもう一枚薄手の布団があるにはあるが、ろくに客が来ないため干してもおらず湿気っている。
「ここで一緒に」
「なんだと?」
素っ頓狂な声を上げるラーハルトをよそに、ヒュンケルは寝具の端をめくるとベッドに入り込む。何か言いたげなラーハルトが眉をひそめて再び口を開けたが、言葉を発したのはヒュンケルの方が早かった。
「知っているか? 昔聞いたんだが、遊牧民は天幕の中では裸でくっついて寝るそうだ。その方が暖かいのだと」
そう言ってラーハルトの方にぐっと身を寄せる。
「裸でというわけにはいかないが……一人で寝るよりは、まあ、暖かいだろう」
ヒュンケルは寝具の中でラーハルトの背に手を回すと、子どもをあやすように規則正しく、とん、とん、と叩いてやる。
「子ども扱いするなと言っている……」
眉間に皺を刻み、苦々しげにそう零すラーハルトをよそに、遠い昔に父がよく歌ってくれた魔界の子守唄もつけてやる。
子守唄に眉間の皺を更に深くしてこちらを睨みつけていたラーハルトだったが、いくらもしないうちに瞼を重たげにして、気がついたときにはすうすうと気持ち良さそうな寝息を立てはじめた。
子守唄をやめると、背中を叩いていた手でラーハルトのさらさらとした髪を梳きながら、ヒュンケルも眠りに落ちていった。
その晩、ヒュンケルは久しぶりに父の夢を見た。
ラーハルトが目覚めたときに目の前にあったのは、男の白い喉元だった。
驚いて身を引くと、上から声が降ってきた。
「目が覚めたか?」
聞き慣れたヒュンケルの声だ。
「動けなくてな。困ってたんだ」
言われて気付く。ラーハルトはヒュンケルにがっしりと抱きついていた。
「人間行火はよほど暖かかったようだ」
滅多に感情を表に出さないヒュンケルが、くつくつと喉の奥で笑いを噛み殺しながらそう言った。
屈辱と羞恥で顔を熱くしながら、ラーハルトはヒュンケルにしがみついていた腕を解き、距離を取った。あくまでもベッドの中で、ではあるので、わずかな距離ではあったが。
「……盛大に寝坊したな」
布団に包まれたまま、ラーハルトは窓の向こうの空を見やる。太陽はもう中天に近い。
「たまにはこんな日も良いだろう。お前も随分と寝不足だったようだしな」
片肘を立てた上に頭を載せながら、ベッドの上でヒュンケルは楽しそうに目を細めてそう言った。それを皮肉ととらえて、ラーハルトはばつが悪そうに口を真一文字に引き締めた。
ヒュンケルが問う。
「で、今夜はどうする? 人間行火は必要か?」
「……………………頼む」
気恥ずかしさにヒュンケルから目を逸らしながら、まさに苦渋の決断、といった風体でラーハルトはそう答えた。
「ただし、子守唄はなしだ」
ラーハルトのその言葉に、ヒュンケルは今度こそ声を上げて笑い出すと、体勢を崩してベッドの上から転げ落ちた。