【橙】ラーヒュンラー短編再録【ラーヒュンラー/ヒュンラーヒュン】<2020バレンタイン大作戦>
なんでこのオレが、よりによって……よりによってバレンタインなんぞ……。
ラーハルトはテーブルの上に突っ伏した。手には小綺麗にラッピングされた箱がある。そう、バレンタインのプレゼントだ。結局この時間まで渡せずじまいだ。
すると、もうオレは寝るぞ、とヒュンケルがひょっこりやってきた。
「なんだそれは」
「……バレンタインだ」
「そうか。誰に渡すんだ? 喜んでくれるといいな」
ヒュンケルはちょっぴりズレている。バレンタインはもう終わった。じゃあおやすみ、とヒュンケルが背中を向けたところで、ラーハルトはがばっと起き上がった。
「おまえだ! おまえに渡そうと思っていた!」
「……オレに」
ラーハルトはリボンをかけられた箱を差し出す。
「開けてもいいか?」
受け取ってそう訊ねたヒュンケルにこくりと頷いた。
ヒュンケルがラッピングを解くと中にはチョコチップ入りのカップケーキが入っていた。
「食べてもいいか?」
「いちいち聞くな。どうぞ」
ヒュンケルはカップケーキにかぶりつく。
「美味い」
それはそうだろう。ヒュンケルに隠れて試作を重ねたのだ。ぶっちゃけホットケーキミックスに市販のチョコを砕いて入れただけだが、その分味は保証する。
「手作りなんだな……オレのために。ありがとう」
「いや……口に合ったなら、良かった」
そうしてお互い赤面しながらひとつの寝室に消えたふたりは、その日はいつもの三倍激しかったという。
<2020ホワイトデー大作戦>
ヒュンケルは無言でラーハルトに小箱を差し出した。
「……?」
「……」
視線で問うと、視線で、受け取れ、と返された。
ラーハルトは素直に受け取り、開けてもいいか? とまた視線で問うた。ヒュンケルはこくりと頷いた。
箱の中身は、銀細工のブローチだった。昇る竜の形をしていて、目にグリーンの石がはめ込まれている。
「その、今日はバレンタインの返礼をする日だと聞いて。お前は甘い菓子よりもこういうものがいいかと思ってな……」
「つまり、俺のことを考えて用意してくれたわけだな?」
ズバリ、とラーハルトが切り込むと、ヒュンケルは色の白い耳の先を少しだけ赤くした。
「緑の石は自分では選んだことはないな。なんでこの色なんだ?」
「それはお前は肌が蒼くて髪が金色だから両方に似合うと……」
ハッとしてヒュンケルは口を噤んだ。ラーハルトはにやついている。
「いいから、早く着けてみろ」
頬を赤らめたヒュンケルに照れ隠しがてらに急かされ、ラーハルトはぷつりと服にブローチの針を刺した。
「どうだ? 似合うか?」
揶揄うようにそう尋ねるラーハルトにヒュンケルは応えた。
「俺が選んだんだ。似合うに決まっているだろう」
今度はラーハルトが頬を熱くする番だった。
<四月の君は馬鹿>
「実はさっきの食事には惚れ薬が入っていた」
ラーハルトの衝撃的な一言にヒュンケルは食後のお茶を喉に引っ掛けて盛大に咳き込んだ。
「惚れ薬……とは……?」
ようやく咳も落ち着き、おそるおそるヒュンケルが尋ねた。
「そのままの意味だが」
ラーハルトは素っ気なく答えると、ニヤリと口の端を上げた。
「そろそろ効いてきた頃合いだと思うが」
戸惑ったヒュンケルはラーハルトの顔を見返す。
幾つになっても線の細さが抜けない自分とは違った精悍な顔付き。
蒼い肌とその瞼を縁取る金の睫毛のコントラスト。
上質の琥珀のように透き通って粘り気のある黄金色の瞳。
猫のように虹彩の長いそれが、チラチラと楽しげにこちらを見返してくる。
それらを見つめているうちに、ヒュンケルは頬に血が昇るのを感じた。
「ラー……ハルト……」
ついにラーハルトの顔を直視していられなくなり、ヒュンケルは顔を背けると片手で熱くなった口元を抑えた。心臓の音がやけに大きく聞こえる。
「その……オレを好いてくれているのは嬉しいが、こういった薬に頼るのはどうかと……」
「え? お前、本気にしたのか?」
「なに?」
「嘘だ、嘘。今日は嘘をついてもいい日なのだと。いやまさか本気にするとは思わなかった。お前、意外とオレに惚れてるのか?」
笑い混じりのラーハルトの言葉に、徐々にヒュンケルの目は据わっていった。
ヒュンケルはいつもの鉄面皮に戻ると、嘘を真実にするべくラーハルトの首根っこを掴んで自分の寝室へと向かった。
翌朝、おぼつかない足取りで壁を伝って歩くラーハルトの姿が目撃されたという。
<アクシデントは突然に>
※[山の庵のヒュンとラー]の世界線ifです。
「薬湯の瓶を取ってくれ」
ラーハルトが立っているついでに頼んで当然、とばかりに、居間の食卓に座ったままのヒュンケルはそう言った。
ヒュンケルは日に三度、エイミが探し出してきた身体に良いという薬湯を飲んでいる。飲み忘れないよう小分けにして食卓の上に出しているのだが、大元は厨房でスパイス類と一緒に保管してある。
ヒュンケルの頼みは受けて当然、とばかりに、水差しに水を足しに立っただけのラーハルトは、スパイス棚の前に移動して手を伸ばした。
「これか?」
「いや、ふたつ上の段の、もっと右のやつだ」
「こっちか?」
「違う。乾燥した薄茶色の杉のような葉だ」
「ではこれか?」
「違う……それはローズマリーだ……」
ラーハルトは台所仕事が苦手というほどでもないが、進んでやろうというほど得意でもなかった。厨房に立つのはヒュンケルの方が多く、ラーハルトは未だにスパイスの並びもろくに覚えていないようだ。
焦れたヒュンケルは、これからはもっとラーハルトにも台所仕事をしてもらおうと思いつつ立ち上がると、スパイス棚の前に移動した。
無言でラーハルトの背後に立ち、目的のものに手を伸ばそうとした、その時。
「これか!?」
おもむろにラーハルトが振り返り、ふたりの顔と顔がぶつかった。
頬や額や歯のついでにぶつかったのは、やわらかい唇と唇。
「……」
「……」
ヒュンケルは手を伸ばしたまま、ラーハルトは瓶を片手に持ったまま、微妙な空気がふたりの間に満ち満ちた。
先に動いたのは、ラーハルトだった。
「……事故だ、事故」
「……そうだな」
「そもそもお互いこの程度のことは経験済みだろう」
「そうだな。これくらい気にする歳でもあるまい」
「それでこの瓶でいいのか?」
「それだ。ありがとう」
ヒュンケルは瓶を受け取るとそそくさと厨房から居間に戻って行った。
その日、ヒュンケルとラーハルトは共に眠れない夜を過ごした。
闘いに明け暮れたふたりにとって、あれはいわゆるファーストキス、というものだったのである。
<バレンタイン狂想曲>
早朝のこの時間ならまだ誰もいない。兵舎の調理場から、小ぶりの水樽にリンゴ酒とぶどう酒、ハムやパン、つまみのチーズやドライフルーツといった食糧と、それらに必要な細々とした道具を拝借して自室へと戻ると、ちょうど同じ姿をしたヒュンケルと鉢合わせになった。兵舎は広い。調理場も複数ある。どうやらお互い別の調理場に向かったらしい。
ラーハルトとヒュンケルは隣同士の部屋だ。ダイが見付かるまでの間、パプニカ城の兵舎に間借りしていた。発見されたダイがパプニカ王室の世話になることが決まると、なあなあでそのままになった。今ではふたりはパプニカの兵士に剣術と槍術の指導をするのが仕事になっている。ラーハルトはダイが外出する際の護衛も兼任していた。しかし、今日はしっかりと休暇届を出してある。バレンタイン、というやつだからだ。
「お前もか」
「ああ。毎年毎年やってられん」
バレンタインは想い人にプレゼントを渡す催しらしい。遥か昔、大陸が今の形になる前に、ある宗教に殉じた聖人に由来するものだそうだ。人間は短命だが、伝説や歴史を魔族の寿命よりも遥かに長く語り継ぐ。それは長所か短所か。
世事に疎いラーハルトとヒュンケルは、最初の頃は、意味は分からないがせっかくの贈り物だ、と女官や兵士たちから受け取っていた。しかし、その意味を知ってからはきっぱり断るようになった。その気もないのに受け取るのは不誠実だと思ったからだ。
だからといって女官たちも諦めるわけもなく、そのストイックで紳士的な姿を見てかえって年々渡しに来る者が増えてきた。
それに辟易したラーハルトとヒュンケルは、去年はバレンタインに休暇を取って見知らぬ町へと赴いた。ふたりを知る者がいなければ、プレゼントを渡してくる者もいない。そう考えたからだ。
ここまで歩き通しだったふたりは、見知らぬ町の公園のベンチに腰掛けて休憩を取った。向かいのベンチでは、十代後半だろうか、仲睦まじい男女がお互いにプレゼントを交換し合っていた。
「ああいうのはいいよな……微笑ましくて」
「ああ、本来ならあのようにあるべきだ」
膝の上に肘をつき、手の上に顎を乗せたラーハルトが遠い目をしてぼやくと、ヒュンケルは腕を組んでうんうんと深く頷いて返した。
と、ヒュンケルはその片割れの少女と目が合った。その瞬間、少女は先ほど青年に渡したプレゼントをひったくるように取り返すと、一直線にこちらへ走ってきた。
「あの、これ、あなたにお渡しします! 一目惚れです! 付き合ってください」
そう言いながら少女がプレゼントを差し出した先は、ヒュンケルだ。ぽかんと口を開けたヒュンケルの頭の中は疑問符が占め、どう返していいのか分からずそのまま固まった。
「お願いします、貰うだけでも貰ってください!」
貰うだけなら……と思考能力が低下した頭で、ヒュンケルがお得意の方向性のおかしな優しさを披露する前に、ラーハルトが口を挟んだ。
「待て。お前、隣に座ってた男が恋人だろう」
「恋人でした! でも別れます! この人と付き合います!」
「こいつはどこの馬の骨とも分からんのだぞ」
「それでもいいです! 付き合いたい!」
「……俺のどこがそんなにいいんだ……」
やっと理性を取り戻したヒュンケルがこめかみを押さえながらそう少女に問うと、明朗で快活な回答があった。
「顔です!!」
ヒュンケルは両手で顔を覆って背中を丸めた。ラーハルトもベンチに背を預けて力なく天を仰いでいる。
「ちょっと待てよ、それオレにくれたやつだろ!」
向かいのベンチで呆然としていた青年もやっと動けるようになったのか、こちらに来て口を挟んだ。
「あんたは黙っててよ! あたしあんたと別れてこの人と付き合うから!」
「なっ……どういうことだよ!? おい! ぽっと出てきて人の恋人取りやがって! なんだテメェ!?」
「……取ってない……」
青年の矛先がヒュンケルに向き、ヒュンケルは背中を丸めたまま弱々しく答えた。
「まぁまぁまぁ、あっちでゆっくり二人きりで話したらどうだ? な?」
若干の力を取り戻したラーハルトは、彼にしては柔らかな口調で、青年と少女を落ち着かせようとした。しかし、今度は少女の矛先はラーハルトに向いた。
「何よあんた! この人とあたしの仲を壊そうっての!?」
「馬鹿か貴様は!? ただ目が合っただけで仲もクソもあるか!!」
ラーハルトの体裁は一瞬で崩れ落ちた。
「お前さっきまでオレのこと愛してるって言ってただろ!?」
「さっきまではね!」
「貴様らは向こうでやれ!!」
怒号が飛び交う中、ヒュンケルはただただ丸くなっていた。どうしてこうなるんだ。俺はただ平穏なバレンタインを過ごしたいだけなのに。ミストバーンが呪いでも残して行ったのだろうか。
その後も少女たちの口論は続いた。原因のはずのヒュンケルはベンチの上で膝を抱えてカタツムリのように丸くなっていた。なんだなんだと集まってきた野次馬の中から、ちゃっかりラーハルトにプレゼントを渡そうとする男も現れたり、事態の収拾は困難を極めた。
結局、少女はヒュンケルのことは諦めたが、あの青年とはもう恋人の関係には戻れないだろう。
夕焼けの中を宿屋に向かう道すがら、申し訳ないことをした、と優しいヒュンケルはしょんぼりと肩を落として落ち込んでいた。お前は何一つ悪くない、とラーハルトはヒュンケルの肩を抱いて慰めた。
やっと宿屋に着いても「ああ〜、噂の兄さんらだね。こりゃ勘違いしちまうわぁ」と女将に言われる始末だ。なんで俺たちばっかりこんな目に、と二人部屋のベッドに向かい合わせに腰掛けて、お互い溜息をついて項垂れた。
なので今年は、一日中自室に籠城して無視を決め込むことにした。バレンタインのプレゼントはバレンタインの日に渡さなければ意味がない。
「お前も一緒に籠るか?」
「助かる。ひとりで籠るのも退屈だと思っていたところだ」
ラーハルトの誘いにヒュンケルは渡りに船とばかりに乗ってきた。ヒュンケルが荷物を少し預かると、ラーハルトは水樽を床に置いて部屋の扉を開けた。荷物を抱え直したラーハルトが部屋に入ると、それに続いたヒュンケルは、律儀に「お邪魔します」と一礼してから中に入った。
ふたり揃って部屋の床に荷物を置くと、部屋の机を見たヒュンケルが「あっ」と声を上げた。「ちょっと待っててくれ」と言い置いてヒュンケルは部屋を出て行き、すぐにコップを片手に戻ってきた。どうやらラーハルトのものを見て自分のコップを取ってきたようだ。
やってられないふたりはカーテンも開けずに朝っぱらからリンゴ酒の瓶を開けた。ヒュンケルはぶどう酒を樽ごとくすねてきたらしい。水樽に見えたのはぶどう酒で、ぶどう酒に見えた瓶はリンゴ酒だった。この男は繊細そうな見た目の割にふてぶてしいところがある。
狭い兵舎の部屋には書き物をするために小さな机と椅子があるが、がたついた丸椅子は長時間座るものではない。
ベッドに隣り合わせで腰掛けて、お互いのコップに注ぎ合ってリンゴ酒を煽る。乾杯はしない。そんな気分ではないからだ。
「本当に揃いも揃って俺たちのどこが良いんだ? どこが」
「お前は雄くさいフェロモンみたいなの撒き散らしてそうだよな。眉毛黒くて」
「ケンカを売ってるのか?」
「どこがと言うから感想を言ったんだ」
「お前は顔だけは良いよな。顔だけは。あとはなんか夕暮れに佇んでたりするとちょっと儚げに見えるよな。中身ゴリラなのにな」
「ゴリラパンチが必要か?」
「勘弁願おう」
昼過ぎまでぶつくさ文句を言いながら飲み交わして、その間ノックの音が何度もあったが、無視を決め込んだ。
リンゴ酒はもうとっくに無くなったので、もう今はヒュンケルがくすねてきたぶどう酒を飲んでいる。なかなか度数が高い代物のようだ。
「はぁ……しかし来年もわざわざこんなことをしなければならんのか」
朝から飲み続けてさすがに酔いも回りはじめてきた。ラーハルトは片足にもう片足を引っ掛けて、片方ずつ放り投げるように靴を脱ぎ捨てて裸足になると、ぽすん、とベッドに大の字になった。
「そうだな……一日潰すのも勿体ない……どうしたものか……」
溜息をついてヒュンケルが考え込んでも今以上に良い案が見つからない。
ヒュンケルもいささか酔いが回って、靴紐を解いて裸足になると、ぽすん、とラーハルトの腕を枕にベッドに横になった。
「近いぞ」
「近いな」
酔いも手伝いふたりはくつくつと喉の奥で笑い合う。ラーハルトは枕にされた方の手を上げて、ヒュンケルの髪に指を通した。ふわふわとした柔らかな髪の感触が心地良くて、何度も梳く。
「真面目な話、来年はどう回避する?」
ラーハルトの顔を見上げながらヒュンケルが問う。
「将校に頼んでバレンタイン禁止令でも出してもらうか?」
「それは俺たち以外が想い人の兵士がかわいそうだ」
「……そうだな。女官にも意味がないしな」
ベッドに横になりながら、来年以降の作戦を話し合っていると、ラーハルトの部屋の扉を、コンコン、とノックする者があった。
「失礼します! ラーハルト殿! 先日稽古をつけていただきました、第四槍兵隊第二小隊のタンです! お渡ししたいものがあって参りました!」
よく通る朗らかな青年の声が聞こえてきた。無視だ、無視。
更にノックの音がする。
「……あの、すみません! ラーハルト殿! 第四槍兵隊第二小隊のタンと申しますが!」
無視だ。
またもノックの音だ。しぶとい。
「ラーハルト殿、あの、気配がするんですが、いらっしゃいますよね?」
無視無視無視。
「では失礼します! 開けますね!」
……開けますね?
バァンと勢いよく開け放たれた扉の向こうには、いかにも好青年という風態の、まだ二十歳手前であろう黒髪の男がいた。
タンという青年は扉を開けたそのままのポーズで固まっていたが、しばらくするとみるみるうちに顔が真っ赤になっていった。
「もももも申し訳ありません!! そんなこととは露知らず……身の丈も弁えずにバレンタインなどと……」
何やらもごもごとタンは続けた。
「お邪魔にならないよう皆にもこのことを伝えておきますので……」
タンは「ご……ごゆっくり……」と囁きながらそっとドアを閉めていった。
「鍵をかけておくべきだったな。忘れていた」
「なんなんだ今の? お前のとこのだろう?」
「さあ? 正直顔も覚えちゃいない」
「冷たいことを言う」
そう言ってヒュンケルはラーハルトの長い耳をくすぐった。
それ以降、ラーハルトの部屋をノックする者はいなかった。
更に翌年からは、気味が悪いほどにぱったりとふたりに対するバレンタインの猛攻が消えた。
それもそうだ。あのときタン青年の目にはこう映った。すなわち、恋人たちのバレンタインに、カーテンも開けずに部屋に閉じこもり、ラーハルトがヒュンケルに腕枕をして、ふたり仲睦まじくベッドで愛を語り合っている、と。