【橙】幕間:郷愁【ラーヒュンラー/ヒュンラーヒュン】 ラーハルトが村に下りたのはひと月ぶりだった。
人との交流を好まないラーハルトに代わって、庭の菜園では採れない食物や日々消耗される日用品を手に入れるために村に下りるのはヒュンケルの役目だった。そのヒュンケルは一昨日から「身体中が痛む」と言って臥せっている。昨日からは微熱もあるようだ。普段は以前と変わり無いように見えるが、大魔王との激しい戦いの後遺症はこういった季節の変わり目に顔を出してくる。
雑貨類は足りている。今回の買い出しは食料が中心だ。ラーハルトは市場をまわり、いつものパンとチーズとミルク、それに少し奮発して卵と腸詰めと、砂糖の入った焼菓子も買った。ヒュンケルが体調を崩しても、ラーハルトはおろか、医者さえもなにもしてやれない。自然回復を待つだけだ。だから、せめてヒュンケルに滋養のあるものを食べさせてやりたかった。
村での買い出しの最後に、ヒュンケルに飲ませるための薬を求めて薬草屋へと赴いた。
「お、兄さん、久しぶりだな」
基本、ヒュンケルが倒れた時にしか薬草屋には行かないので、自然とラーハルトのほうが顔なじみになっていた。薬草屋は主人と女将が交代で店番に立っているようで、今回は主人の日だった。
「銀髪の兄さんはダウン中かい?」
「ああ。いつもの熱冷ましと痛み止め、頼めるか? ……そうだな……ついでに他の常備薬もひと通り」
「あいよっ」
そう軽快に返事をすると、少し太り気味の主人はこまこまと薬棚の前を移動して次々と薬草を袋に詰めていき、ときには秤を使って薬草を調合をしていた。ヒュンケルの症状に痛み止めはあまり効果は無いようだったが、それでも今回は効くのではなかろうかとつい頼んでしまう。そのほかに火傷や虫に食われたときの塗り薬、食べ物にあたったときの腹の薬、山で怪我をしたときの血止めの薬。そんなものがラーハルトの家の常備薬だった。
「ほい。これでいつものがひと通りだよ。お代もいつも通り」
会計を済ませて薬草の入った紙袋を受け取り、では、とラーハルトが踵を返そうとしたそのとき。
「そうだそうだ兄さん! これ渡したかったんだ!」
勢いよく主人に渡されたのは綿の手袋が一組と、なにかの軟膏の入った小瓶だった。
「兄さんの手、いつもあかぎれだらけなのが気になっててさ。寝る前にそれ塗ってその手袋つけて休むといい。それで一発全快ベホマ! ……ってなわけにはいかないが、二〜三日でだいぶ良くなるはずだ。ほんとはこまめに塗るといいんだけどな 」
ラーハルトは虚をつかれた気分だった。節くれだった手は武器を握っていた頃は生傷が絶えず、爪が剥がれ、肉刺が潰れ、数え切れないほど自身の血に塗れた。一線を退いてからは水仕事を頻繁にするようになり、店主の言う通りあかぎれだらけの手だ。しかしラーハルトにとってこの程度は傷と痛みの範疇には入らず、不便も感じないので自分の手など気にしたこともなかった。それを赤の他人が気にかけていたなど。しかも、魔族の血が流れる、蒼い手を。
「ま、試供品、試供品な。それで効いたら次からお買い上げよろしく!」
そう笑う主人になんと応えていいか分からず、ラーハルトは少し掠れた声で「ありがとう」とだけ言って店を出た。
そのとき生まれた感情は初めて手にするようでいて、遠い遠い昔、まだ母と村で暮らしていた頃に少しだけ覚えがあるような気もした。ラーハルトは今まで感じたこともない郷愁に胸の奥を掴まれるようだった。
自然とラーハルトの足が速くなる。早くヒュンケルに会いたい。会ってこのことをヒュンケルに話してやりたい。きっとあいつは「よかったな」と優しく笑ってくれるだろうから。