おとぎ話のあとでおとぎ話のあとで
祖母は不思議な人だ。人気の童話作家でありながら、都会から少し離れたこんな海っぺりに居を構える。女手一つで父を育て上げた芯の強さと、不都合があっても結果的には自分に都合よく変えてしまうしたたかさが同居する人だ。
祖母は私に優しかった。私の髪を撫でながら、彼女はたくさんの不思議な話をしてくれる。火を吹く黒猫、赤色と青色を身にまとった友人たち、にぎやかな魔法仕掛けの学校、不思議な世界での出来事。
祖母の紡ぐお話は、やけに真に迫っていてまるで自分の目で見てきたかのようなものが多い。周りの大人は「それが彼女が童話作家たる所以だ」なんて言うけれど、私は祖母の話すおとぎ話が真実なのだと信じずにはいられなかった。だってそうじゃなきゃ、あんなにも愛しい目をしてお話なんて出来ない。
宝石を作り出す授業の話や、廃坑での冒険や、砂漠での大騒動など話の内容は多岐にわたっていたけれど、私が一番好きな話はいつだって決まっていた。優雅に海を泳ぐ、美しい人魚たちの話だ。
「おばあちゃん、人魚さんのお話してえ」
「あなたは本当にそのお話が好きだね、どこまで話したかな」
「タコの人魚さんが大暴れして、みんなでそれを止めた所だよ」
「そうだったね、それじゃあ皆で遠足に行ったお話をしようか」
単純に海が好きだったというのもある。陸の上で駆けっこするのも好きだけれど、光の差し込む水の中を泳ぎ続ける方が得意だった。父も泳ぐのが得意だったし、娘の私も生まれたときからそうだった。他の子よりもずっと長く水の中にいられることは、私の自慢でもあった。
それにもう一つ、人魚たちの話をするときに祖母の目はいつもより増して優しかった。正確に言えば、黄色の瞳をした双子の人魚の話をするとき。もっと言ってしまえば、兄弟より少しだけ背丈のある気まぐれな人魚の話をするときに。祖母はいつだって微笑んでいた。
ただ、本当にたった一度だけ、祖母を悲しませてしまったことがあった。
いつもどおりに話をせがんで、まどろんでいた日のことだ。陽気な陽射しに溶けるような幸せの空気が満ちていた。きっと祖母も気が緩んでいたのだ。
「そうしてフロイドは、扉をノックしました」
「……フロイド?それってもしかして、気まぐれな人魚さんのお名前?」
「あ、ええと」
「やっぱりそうなの、お名前がきちんとあったのね!フロイドさん!ねえおばあちゃん、どんな人だったの?もっと聞かせて……」
そこまで一息にまくしたてて、自分が決定的な間違いを起こしてしまった事を知った。目尻に涙をにじませて、言葉を言い淀む。祖母のそんな弱々しい姿をその時初めて見たのだ。
一気に血の気の引くのを感じた。ああ、大好きなおばあちゃんを傷つけてしまった。そんなつもりはなかったのに。きっとおばあちゃんは、人魚さんのお名前を誰にも言うつもりはなかったんだ。
「おばあちゃん、おばあちゃんごめんなさい」
「違うのよ、ああごめんね」
「二度と困らせないから、私が悪い子だったの!」
「あなたが悪い事なんて一つもないの、驚かせてごめんね」
慰めてくれる祖母の手は暖かくて優しくて、それが余計に己の不注意を責め立てるかのように突き刺さった。こんなに優しい人が胸にしまっておきたい事を、私が暴ける理由なんてどこにもない。
お話をせがむ事はそれからも何度もしたけれど。物語にあらわれる彼らのことを聞いたのは、そのたった一度きりだった。
世間的には多感な年頃に成長しても、私は祖母のことが大好きだった。あの日だって春から通う中学校の制服が届いたのが嬉しくて、いの一番に祖母に見せに行こうと家まで駆けていったのだ。
何だかやけに海が煌めいて見えて、道のりは光を反射した海面のせいで少し眩しかった。何か海の中ではめでたい事でもあったのだろうか。まるでお祝いの日のようだ。
逸る気持ちで家のドアをノックしても、返事は返らない。今日は家にいると言っていたのに、外出だろうか。考えながらひねったドアノブはあっけなく開いて、何だか心がザワザワした。
「おばあちゃん?玄関が開いたままだよ、どこに居るの?」
勝手に来客用のスリッパを履いて家中を探し回る。呼びかけながら歩く速度はどんどん早まって、最後には小走りで家の中を駆け抜けた。キッチン、バスルーム、書庫、寝室。そして最後に、海を見渡せる祖母の私室。
乱暴にドアを開けて、部屋に広がる風景に呆然とした。大きく開け放たれた窓の桟に、カーテンがバサバサと音を立てて翻る。駆け寄った窓枠には、未だ湿っている水の跡があった。ふと窓の外を見やると、見慣れぬ人影が海ぺりに立っているのが見える。あれは、長身のおそらく年若い男性だ。あんな人この辺りに住んでいただろうか。
青緑の髪を目にすると、不思議に心がざわめく。自分と同じ色だからだろうか。何故だか男性から目が離せない。胸がドクドクと脈打つのがわかる。あんな人は知らないはずなのに、頭をよぎるのは寂寥感だった。
目をこらすと、彼は何かを抱えているのが分かった。ふいに男性の後ろ姿から、しっかりと抱かれて揺れる手足が見えた。あの男の人は、誰かを抱えて歩いているのだ。見えた手足は老年の、それも女性のものだ。それを見た瞬間にサアと血の気が引くのを感じた。まさか、まさか!
可能性が頭をよぎり、愕然としている合間も男性は足を止めない。それどころか、どんどん海へと近づいていく。このままでは、彼らは行ってしまう。何故か分からないけれど確信があった。スリッパのまま窓枠を飛び越えて、走り出す。途中で脱げて靴下だけになってしまった足を懸命に動かした。
砂浜を飛び越えて走る私がバチャバチャと海面を揺らしても、彼は振り返らない。どんどんと二人は海の中へと入っていってしまう。思い切り息を吸い込んで、あらん限りの声で叫ぶ。待って、まだ行かないで。
「まって、ねえ、まって!おじいちゃん!」
その声を聞いた途端、青年がピタリと動きを止めた。永遠にも思えるような数秒の後、彼はゆっくりと振り返る。腕に抱かれているのは、すやすやと眠る祖母。そしてそれを抱いているのは、父にそっくりな顔をした男。
ああ、やっぱりあなたはそうだった。祖母譲りの黒髪をした父とは違う、青緑の髪。色合いをすこし違えた黄色の瞳。何度も話に聞いたとおりの姿で、いま目の前に立っているのは。初めて会う私の祖父その人だった。
彼は何かを考えるような素振りを見せて、片手でしっかりと祖母を抱え直す。そして、こちらへと緩やかに近づいてきた。腰まで海に浸かった私は、全力で走って息切れした呼吸を整えることに必死だ。言葉を形にしたくとも、ヒュウヒュウと呼気だけが喉から漏れ出ていく。
聞きたいことはいくらでもあった。貴方は私のおじいちゃんなんですか。どうしてそんなに若い姿をしているの。どうして今の今まで、おばあちゃんに会いに来てくれなかったの。それでも言葉には出来なかった。口にしてしまえば、何もかもが陳腐になる気がしたからだ。
何も言わずに口を開いては閉じる私を、目の前の彼は見下ろす。随分と背の高い人だから、私にかかる日差しは全て遮られている。じい、と穴が開くように見つめてきた彼は、器用にも私の頭を空いた片手で撫でた。
「……小エビちゃんにそっくりだねえ、でも瞳の色はオレそっくり」
「おばあちゃんは、海に浮かぶ月の色だって言ってた、贈り物だって」
「そうなんだあ」
へにゃりと目尻を緩ませて笑う彼の様子に、強ばっていた身体の力が抜けていく。やっぱりこの人は、私の祖父なんだ。身体を預けて眠る祖母を見たあとに、ニコニコと見つめてくる祖父の目を見つめ返した。
「おじいちゃんは、おばあちゃんを迎えに来たのね」
「うん」
「おばあちゃん、たくさんたくさん頑張ってたのよ」
「うん」
「だからね、ええとね、えっと、」
言うことがまとまらずに混乱する私を咎めるでもなく、祖父は黙って聞いていてくれた。言うべきことを必死に考えて、吸って吐いては息を整える。もごもごと口を動かそうとする私の耳を、祖父は優しく撫でた。
「きちんとこれからも幸せにするから、ダイジョーブ」
「本当の本当によ、おじいちゃん、本当によ」
「そんなに不安ならいつか会いにおいでよ、きっと来れるって、オレの孫なんだから」
「おばあちゃんの孫でもあるよ」
「じゃあ二倍大丈夫でしょ、それは餞別」
祖父の手が耳から離れると、チャリと何かがなる音がした。触ってみれば今までそこにはなかった耳飾りの感触がする。ニイと口を吊り上げて笑う祖父の耳元にも、青く光る海の色が下がっていた。
一歩下がって距離を取った祖父の身体を、瑞々しい鱗が覆っていく。瞬きの間には、青白く光る肌をした美しい人魚が目の前にいた。
「じゃあね」
微笑む祖父の後ろに大きな光る虚が出来る。祖父は改めて祖母を横向きに抱え直すと、後ろ向きにその虚へと飛び込んでいく。尾の先が呑み込まれると同時に、虚は音もなく閉じてしまった。
あとに残されたのは、狐につままれたような顔で海中に立ち尽くす少女だけだ。白昼夢を見ていたのだろうか。そう思って水面を見下ろせば、耳に海の色が光る。指先で触れてみても、幻覚などではなかった。
何かを振り切るように数回頭を振って、浜辺へと歩き出す。祖父は会いに来てみろと言った。彼だって出来たのだ、なら血の繋がる私が出来ないはずが無い。祖母の家になら、何かきっかけがある筈だ。こうしてはいられない。
走り出す身体はやけに軽かった。いつか二人に会いに行こう。きっと私は何だって出来るのだから。だって、おじいちゃんとおばあちゃんは異世界だって乗り越えた!
根拠のない透き通った自信と、流星のような活力とが体中に満ちていた。濡れた靴下のまま、砂浜を駆ける。
そうして、数年後に私の元に棺をのせた黒い馬車が訪ねることになるのは。約束を果たしに来たと、祖父母とその友人の前で私が仁王立ちすることになるのは。いつか何処かのおとぎ話だ。