三池書店③ 前編審神者
妖怪好きな貧乏学生。
普段はホワホワした雰囲気だが、意外と激しい音楽が好き。
推しは、メタルバンド「重金属凶奏隊 鋼音−HAGANE−」のベーシストHIKARIさん。
ある日見つけた、品揃えと店主がめちゃくちゃ好みの本格派古書店「三池書店」でボランティアを始めた。
今まで言われてきた酷い言葉のせいで容姿にコンプレックスがあり、身近な男性を好きになるのを恐れている。
三池光世(大典太光世)
表向きは本格派古書店「三池書店」の店主。審神者からは「店長」と呼ばれている。
裏の顔はメタルバンド「重金属凶奏隊 鋼音−HAGANE−」のベーシストHIKARI。
店番をしている時は、基本的に身バレ防止のため和装。
学生時代、民俗学ゼミで妖怪の研究をしていた。
友達が少なく、まして妖怪の話となると語れる相手がいない中、話が通じる貴重な相手である審神者にクソデカ好意(本人曰くLoveではなくてLikeの方)を抱いている。
左門江雪(江雪左文字)
表向きは名刹「沙門寺」の住職。
裏の顔はメタルバンド「重金属凶奏隊 鋼音−HAGANE−」のギタリストLICKA。
お見合い結婚した妻と3歳になる男の子がいる。妻は第二子を妊娠中。
シンプルなロゴの入った白いTシャツと黒のスキニー、カラフルなハイカットスニーカーにいつもの白いリュックを背負って、審神者は三池書店の最寄駅に降り立った。
時刻は午前6時45分。何もない日なら、まだベッドの中でぐっすりスヤスヤしている時間帯である。
眠い目を擦りながら、ラジオ体操帰りの小学生集団に逆行して三池書店へ向かう。
早朝ということもあり、まだ気温はそんなに高くない。
セミもまだ眠っているのか、遠くの木で一、二匹、本調子に遠く及ばない、か細い声を時たま上げる個体がいるくらいだ。
真昼でも早朝でも、そう変わり映えしないシャッター街の景色をしばらく歩けば、三池書店が見えてくる。この通りには珍しく、昼間は客を拒まない店舗も、今は入り口部分を残し鉄のカーテンに閉ざされていた。
そこで、審神者はピタリと足を止める。
えっ?誰?
丁度三池書店の前あたり。長身でガタイのいい男性が、腕を組み佇んでいる。
こんな時間に何?まさか、うちの店の前じゃないよね…?
もう少し近寄ってみれば、男性の細かい風態が見えてきた。白いVネックのTシャツに、紺色のだぼっとしたカーゴパンツ。足元はサンダル履きで、肩くらいまである長髪を無造作にターバンでまとめている。
怖い人だったらどうしよう…。
そんな不安が頭をよぎるも、時計を見ればあと1分で約束の時間だ。
意を決して、審神者は足を進めた。
何かあったら店長を呼べば何とかしてくれる…と思う。多分。
店長が、喧嘩とか強いかどうかは知らないけど、それでも最悪通報くらいなら…。
そう信じて、できるだけ店の前にいる男性と目を合わせないよう、入り口部分だけ開いたシャッターから店内に入ろうとした時。
「おい、あんた。挨拶くらいしたらどうだ。」
頭上から低い声が降ってきて、一気に眠気が吹っ飛んだ。
「ひゃっ、ひゃい?!す、すびばせ…」
震えながら顔を上げると、口をへの字に曲げた治安の悪い男が、不機嫌そうにこちらを見下ろしている。
「こんな時間に呼び出したのは悪かったが、無視はないだろう。」
「あっ、あの、すみません、諸々の事は店長を通してお話を………って、店長?!」
仰いだその顔をよくよく見れば、ここのところほぼ隔日で顔を合わせている、馴染み深い凶相ではないか。
「どうしたんですか、その服!」
「俺が洋服を着てちゃ悪いか。」
店長は、ムッとしたように口を尖らせる。
悪くはないが、今まで和装しか見たことがないのでびっくりした。
「普段の格好で、肉体労働は出来んからな。」
店長は、ターバンで隠れた薄い眉を持ち上げながら言う。
「大体、祭りでもないのに和服なんて目立ってかなわんだろう。」
言われてみれば確かに。
「もしかして、店長って外に出る時は普通に洋服着てるんですか?」
「それはそうだ。」
さも当然と言った様子で店長は答える。
「じゃあ、何でお店では和装を…?」
「……雰囲気づくりだ。」
今まで特に違和感なく受け入れて来た店長の服装だったが、まさかそんな理由があったとは…。
カラスのアイコン然り、店長はこう見えて意外と可愛い所がある。
審神者がクスクス笑っていると、
「…変か?」
不機嫌に眉根を寄せる店長。
「いえ、可愛いなと思って…」
「可愛…い…?」
言われ慣れないであろう言葉に、困惑の色が顕になる。
「お店の雰囲気づくりのためにわざわざ和装してるって、可愛くないですか?」
「それは、可愛いのか?」
「可愛いですよぉ」
店長は、釈然としない様相で首を傾げ、店に入っていった。審神者もその後に続く。
今日は1日、店を留守にする。
希少で高価な書籍は基本的に鍵付きの金庫に入れてあるものの、万が一それごと盗まれたら大惨事だ。
大典太は、戸締りの再確認のため、二階に上がった。一階は審神者に頼んである。
自分の部屋と、廊下にある小窓の類をチェックして、元両親の寝室と、元兄弟の部屋も念のため鍵が開いていないか一つ一つ確認していく。
しかし、可愛い…か。
和装の理由を尋ねられ、まさか「身バレ防止」と本当のことを伝える訳にもいかず、咄嗟に口をついた出まかせだったが、そんな形容をされるとは…。
せいぜい小学校低学年を最後に言われなくなった言葉を、どう受け取ってよいのか分からない。
「可愛い…なぁ…。」
階段を降りながら、大典太は再び首を傾げた。
階段を中ほどまで降りると、台所から風呂や洗濯機置き場に繋がるドアの前で、審神者がオロオロと右往左往しているのが見えた。
「あっ、店長…!」
階段が軋んだタイミングでパッとこちらを振り返った審神者は、困ったように眉を寄せる。
「この向こうも、見ていいんですか?」
別に見られて不都合なものはない。だからこそ頼んだのだ。
変な確認をするものだと内心首を捻りつつ、構わないと告げると
「あっ、あのっ……ぱっ、パンツとかっ!落ちてますけど、本当にいいんですね?!」
若干狼狽しながら、眉にグッと力を込め、強い口調で再度確認してくる審神者。
………一人暮らしが長いもので失念していた。
自分はパンツぐらい見られても別に構わないが、三十路の男の、それも汗の染み込んだ洗濯前の汚いパンツなど、女子大学生に見せていい訳がない。
「…それは…」
慌てて階段を降り、審神者を止めようとしたが、時既に遅し。
審神者は洗濯籠の前まで行くと、覚悟を決めるよう頷いて、床に落ちていたパンツを三本指で摘み上げ、洗濯カゴの中に放り込んだ。
振り返り、そのまま溶鉱炉に沈んでいきそうな表情で、サムズアップしてくる審神者。
何だかとても申し訳ないことをしたような気持ちになる。
いいのか?それは、合わせの練習の時に穿いてた、特に汗だくのやつだぞ…?
という事を伝える訳にもいかず、手を洗えと促すのも逆に不快にさせそうな気がして、何事もなかったかのように二人手分けして戸締りをした。
最後に入り口部分だけ開けていたシャッターも下ろし、後は店を出るだけの段階だ。
その前に、審神者にタオルは持って来たか訊ねる。
「もちろんです!」
審神者が、リュックからシロクマの刺繍の入った水色のハンドタオルを取り出したのを見て、大典太は額に手を当てた。
「買い付けは存外重労働だから、帰りに温泉でも寄ろうと思っていたんだがな…。」
伝え方が悪かったらしい。
審神者は残念そうな大典太の口ぶりを受け、しゅんとする。
「もし、あんたさえ構わないなら、うちのを貸すこともできるが…」
自分が普段頭や身体を拭いている物を使わせるのは申し訳ないと思いつつ、意気消沈した審神者が居た堪れなくて念のため訊ねると、
「えっ、いいんですか?!」
審神者の顔にひまわりのような笑顔が咲いた。
もう少し抵抗感を持たれるかと思っていたが、先ほどのパンツ然り、割とそういうものは気にしないタイプなのかもしれない。
とは言え、使い古したボロボロのタオルを渡す訳にはいかないので、風呂場からできるだけ綺麗なタオルを選び、手渡す。
「温泉、楽しみです!」
実は、今日寄ろうとしているのは温泉だけではないのだが、それは所謂「サプライズ」というやつだ。
とりあえず、今やるべきは買付作業を出来る限り早く終わらせること。
座卓の上に置かれたリストを掴み、審神者を伴って裏庭に出た。
真っ白な入道雲の浮かぶ海沿いのバイパスを、車は進む。
カーステレオから流れるノイズ混じりのラジオでは、軽妙な語り口の男性DJが「夏の思い出」というテーマに沿った投稿を紹介している。
助手席側の景色はどこまでも続く海岸線と、その向こうに広がる大海原。大半が遊泳禁止区域のため、海水浴客はおらず、時折どうやって入ったのか分からない釣り人やサーファーが、ポツリポツリといるだけだ。
水平線の近くには、ヨットや船の白い影が朝日を浴びて輝いている。
そんな絵に描いたような爽やかな夏の朝。
車こそまさに「業務用」そのものといったワンボックスの軽だが、一旦乗ってしまえばそんなもの関係ない。
店長の、ハンドルを握る無骨な手と、半袖のTシャツから覗く筋肉質な長い腕、運転に集中する真剣な横顔。
最初に洋装を見た時は治安の悪い人にも見えたが、中身がいつもの店長と分かれば、むしろかっこいいとすら思えてくる。
何だかドライブみたいだな。
ふとそんな言葉が浮かんだ。
いやいや、あくまでこれはお仕事。それは分かってる。
依頼人の自宅に着く最短経路がこれだから、この道を走っているだけだ。
余計な事を考えないよう、手元の資料に目を落とす。
事前に依頼人から受領した、今回買い取る本の一覧に、その買取相場を付け足したリストだ。
状態が悪い場合の減額値と、状態が良かったり初版本だったりした場合の増額値、状態の良し悪しの判断基準などが同じ行にまとめられている。
これを元に、最終的な買取価格を産出し、その場で依頼人に手渡すらしい。
既に何往復もした「状態の判断基準」の項に再び目を滑らせていると、隣から
「車で文章を読むと酔うぞ」
と声がかかった。
分かってはいるが、家族以外の男性と二人で車に乗ることが人生初なのだ。
正直、とても緊張している。普段なら何気なく出てくる言葉も、喉につかえて全然出てこない。
このリストさえ読んでいれば「ドライブ」に浮かれてる感もなくなるし、喋らなくても不自然ではない。
我ながら名案だと思っていたのだが、確かに店長の言う通り、若干気持ち悪くなって来た。
誤解なきよう言うと、店長の運転はとても丁寧だ。
急加速・急ハンドル・急ブレーキはどれもしないし、まして煽り運転なども絶対にしない。かと言って、ノロノロ運転やフラフラ運転の車に唯々諾々と着いて行くこともせず、そういった車を見かけたら、至極平和的かつ鮮やかに追い越していく。自分の父親より、遥かに乗っていて安心できる運転だ。
よろしくないのは、車そのものである。揺れるし、うるさいし、シートは硬い。
運転している店長自身、アクセルとブレーキの踏み替え時に何度もハンドルに膝をぶつけたり、ハンドルを切り返す際窓に肘をぶつけたりしている。運転席が店長の体格に合っていないのだ。
「運転、大丈夫ですか?」
自分の車は持っていないものの、一応去年の夏に免許は取った。もし大変なら代わることもできる…と思う。店長ほどうまく運転できる気はしないけど。
だが、店長はそれを別の意味で受け取ったのか
「…俺の運転が、怖いか?」
眉根を寄せ、不安げに聞いてきた。
「いえ!うちのお父さんより全然うまいし、安心感あります!でも、運転席、絶対狭いですよね…」
「買付に行くなら、このタイプの車を借りるしかないからな…。」
苦笑する店長。
借りる…?
「これって、店長の車じゃないんですか?」
「ん?ナンバーは見てないのか?」
店長が言うには、買付はそう頻繁にあるものではないから、都度レンタカーを借りて向かうらしい。
レンタカーなので、毎回当たり、ハズレがあるが、今回の車は大ハズレの部類に入るとのことだった。
「酔ったり、疲れたりしてないか?」
ハズレを引いたと困り顔で告げた後、心配そうに訊ねる店長。
「いえ、それも大丈夫です!」
手元の資料から顔を上げ、遠くの景色を眺めていたら酔いはすぐに治まった。ほんの少しだけトイレに行きたい気はするが、それを告げるのは少し恥ずかしい。我慢できない程ではないので黙っていると、店長は少しだけ考える素振りを見せ、
「とりあえず、休憩するか。」
タイミングよく見えて来た道の駅の看板で、左にウィンカーを出した。
一目散にトイレへと駆けてゆく審神者の背を目で追いながら、大典太は運転席の横に降り、両手を上げて思いっきり伸びをする。パキパキと小気味良い音と共に、解れてゆく首、肩、背骨。
審神者にも指摘されてしまったが、狭い運転席と非力なエンジンで長距離を運転するのは、中々骨が折れるものだ。
車の鍵を閉め、自身も建物の並びに歩いていくと、妙な既視感を覚えた。
朝とは言え照り返しのキツい真夏の駐車場で、背筋にぞわり、冷たいものが伝う。
「あの女」を連れて来たのも、ここではなかったか。
10年以上前、まだ自分が免許取り立ての学生だった頃の話だ。ロクな記憶ではないので、今まで事実ごと忘れていた。
トイレの入り口に掲げられた、色違いのカモメのステンドグラスと、それぞれの入り口の前に設置された木のベンチ。それを見た瞬間
–待ち伏せみたいでキモいんだけどw–
人を小馬鹿にしたような、耳障りな笑い声が脳裏に響いた。
–私がお手洗い行ってる間すら待っててくれないとか、信じらんない!–
蘇るヒステリックな金切り声に、全身の力が抜け、平衡感覚がおかしくなる。厭な動悸がして、手が震える。
–どうすればいいかなんて、自分で考えて。子供じゃないんだからw–
自身も小用を足そうかと思っていたが、やめた。
一刻も早くここから離れたい。
ポケットから煙草とライターを取り出し、ふらふらと喫煙所に向かう。
動悸が早い。
ジリジリと腕を焼く浜辺の紫外線の痛みでかろうじて心を保ちながら、喫煙所に辿り着くなり忙しない動作で煙草に火を付けた。
スーっとほろ苦く重たい煙で肺を満たし、フーっと吐き出す。吐き出した煙は、入道雲と重なり、消えてゆく。
ジリジリとけたたましく鳴き出したセミの声の中、海風に煽られ、灰がポトリと落ちた。
じっと無心で足元を眺めていると、動悸と眩暈は次第に治まってくる。
もう一度、煙草に口を付け、深呼吸とも、ため息ともつかない呼気と共に紫煙を吐き出す。
今の自分は、どんな顔色をしているのだろう。
誰に見せるでもなく、強がるように口の端を歪ませる。
–そうだなー、やらせてあげるまで、あと3万円ぐらいかなー–
酷い、女だった。
あれに限らず、どいつもこいつも、酷い女しかいなかった。
–愛してるなら、私以外の連絡先、全部消して–
–彼女のために徹夜とか、普通じゃない?–
–あのね、私、他に好きな人ができちゃったの–
–女の子の浮気は、綺麗な浮気なんだよ…?–
–男が女性に口ごたえするのはDVだから–
–光世のお母さんがやってるピアノ教室、見つけちゃった♪–
晴れ渡った夏の青空が、真っ黒な思い出にグシャグシャと塗り潰されていく。
再び込み上げてきた震えを握り潰すよう、煙草を持っていない方の手にグッと力を込めた時、視界の端、トイレから出てくる審神者が映った。
辺りをキョロキョロと見回して、こちらに気付くなり大きく手を振って駆け出す審神者。
表情は全く見えない距離なのに、動きだけで笑顔なのが分かってしまう。
「店長、お待たせしました!寄ってくれてありがとうございます。」
想像していた通りの笑顔で喫煙所の近くまで駆け寄ってきた審神者は、切らした息を整える間も惜しむように、ペコリと頭を下げる。
心臓が、一つ優しく跳ね、それを境に暴れるのをやめた。
半分程度に減った煙草を灰皿に押し付けながら、審神者に歩み寄る。視界を塗り潰していたドス黒いモヤは澄み、眩暈も震えもピタリと止んでいる。
「そういえば、朝飯は食ってきたのか?」
「実は、何も食べてないです…。起きるのに必死で…」
バツが悪そうにペロッと舌を出した審神者に、俺もだ、と小さく微笑んで
「丁度いいからここで食ってくか。」
提案すれば
「そうしましょうか。」
屈託のない丸い目が、こちらを見上げてきた。
今回寄った道の駅には、美味い海鮮丼が食えるレストランがある。それをアテにしていたが、生憎看板には「準備中」の文字。
仕方がないのでコンビニで良いか聞けば、二つ返事で審神者はOKした。
金額にしてたかだか400円ちょっと。たまごサンドとハニーラテを奢ってやっただけなのに、審神者は心の底から幸せそうに平らげる。
–貧乏くさい人嫌いなんだよねー–
半分以上残った海鮮丼を悪びれもせずゴミ箱に投げ捨てた昔の女の暗い影が、審神者の笑顔に照らされ、消えていった。
朝食も食べ、気持ちがほぐれたのか、審神者は「あっ、カモメが飛んでますよー」だとか「砂浜にチョコチョコ歩いてる鳥がいます!あれって何なんでしょうねぇ」とか、目についた些末な事を逐一楽しそうに報告してくるようになった。
やれ、前の車を煽り倒せだの、もっとスピードは出ないのかだのの苛々とした不平不満は一言も漏れてこない。
そんなこんなで、始終穏やかな気持ちのまま、目的地である一軒の古民家に着いた。
海の見える平屋建ての日本家屋だ。
呼び鈴を鳴らすと、今回の依頼人、60代前半くらいの婦人が出てきた。
「朝早くからご苦労様です。遠かったでしょう。」
目尻の笑い皺を深くした依頼人に案内されたのは、奥の座敷。畳の上、2畳分ほどのスペースに、哲学書や文学全集が膝くらいの高さまで積まれている。
それらの書名や状態を、事前に準備していた一覧と照らし合わせ、手分けしてチェックしていく。
作業にかかった時間は1時間ほど。
チェックが終わった本は順次段ボールに入れ、箱がいっぱいになった段階で大典太が運び出す。
最後の一箱を運び終えた店長が座敷に戻ったタイミングで、依頼人がいそいそとお盆を持ってきた。
「今日は遠いところ、わざわざありがとうございました。」
よく冷えたほうじ茶とお茶菓子を座卓の上に並べると、依頼人は三つ指をついて頭を下げる。
「いえ、こちらこそ、貴重な書籍をお譲りいただき、ありがとうございます。」
店長も珍しく正座して、綺麗な所作で頭を下げ、買取代金の入った分厚い封筒を依頼人に差し出して再度頭を下げた。
本を買いに来た客に対する時と比べ、随分と丁寧な物腰だ。
「私らが読んでも分からない物ですからね。分かる方の手に渡るなら、亡くなった父も草葉の陰で喜ぶと思います。」
おほほと笑い、領収書に達筆な字でサインする依頼人。
今日、買い取った本は、元々哲学の研究者だったこの家のおじいさんの蔵書らしい。
本の由来や、生前のおじいさんの話を伺いながら、お茶とお菓子を頂く。
「ところで、お二人は新婚さんですか?」
話の切れ目にそんな事を聞かれ、審神者は危うくお茶を咽せそうになった。
「いえっ、あの、新婚とかではなくって…」
「お若く見えるけど、奥様意外と年齢いってらっしゃるの?」
そもそも夫婦はおろか、恋人ですらない。
「私は、ただのボランティアの学生です…」
「あら、そうなんですか!嫌だわ、仲良さそうにされていたし、息もぴったりだから、てっきりご夫婦とばかり…」
そんな誤解に、気恥ずかしさから審神者はお茶をズズッと啜った。
さて、礼を言って民家を後にし、大典太と審神者は車に乗り込む。この時点で時刻はまだ午前10時前。
「行きたい所はあるか?」
エンジンをかける前に、大典太は審神者に問いかけた。
「えっ?行きたい所、ですか?温泉行くんじゃないんですか?」
キョトンとした顔で小首を傾げる審神者。
「あんたのお陰で、作業が早く終わったからな。折角遠出したんだ。温泉の前にどこかに寄っても損はないだろう。」
審神者はしばらくうーんと考え込み、一瞬電球が灯ったように眉を上げたが、またすぐ考え込む顔に戻った。
行きたい場所はあるのだろうが、言わないならば仕方ない。
「この近くに、評判のいい水族館があるらしい。行ってみるか?」
水族館と聞いた審神者の、鳩が豆鉄砲を食ったような顔は、きっと生涯忘れることはないだろう。
「まさか店長…他人の心読めたりとか、しないですよね?!」
若干怯えを滲ませながら、あり得ない事を聞いてくる。
「そういうの、店長は興味ないかなって思ってました。それに、入場料も結構お高いですし…。」
「4千円程度、大した額じゃない。」
エンジンをかけながら、事もなげに二人分の入場料を告げる。
「えっ?一人分は2千円くらいですよ?」
「だったら二人で4千円だろう。」
サイドブレーキを下ろしてハンドルを切る大典太の横で、審神者は元々丸い目を更に見開いて、素っ頓狂な声を上げた。
大典太はその反応に満足げに頬を緩め、アクセルを踏んだ。
山あいの道を1時間ほど走って抜けると、眼前には青い海が広がった。道は、海の上にかかる真っ白な橋へと続いている。
晴れ渡る空に、海の上を走る車。まるで映画の中みたいだと、助手席の審神者は歓声を上げた。
光景自体は10年前と何も変わらない筈なのに、隣にいる奴が違うだけでこうも輝いて見えるのか。
全く新しい場所へ足を踏み入れるような、そんな高揚感を感じながら橋を渡りきり、15分ほど走ると水族館に着いた。
平日だからだろうか、夏休み期間ではあるものの、人出は意外と少ない。チケットの一枚を審神者に渡し、数組の親子連れに続いてエントランスへ向かう。
ドアが開いた瞬間押し寄せる、濃厚な海の香り。深い青に染まる館内で、弧を描いて降りていくスロープは、円柱型の水槽を取り囲むように巡らされている。
水槽を眺めながらスロープを下る途中、ゆったり、のんびりと回遊する優しい瞳と目が合った。ジンベイザメだ。
「わぁ〜!かわいい!」
のほほんと微笑むような穏やかな顔で傍を通り過ぎる大きな魚影と、それにそっくりな顔で歓声を上げる審神者。
「ちょっとあんたに似てるな。」
ふと思った事を告げれば、
「私こんなに可愛くないですよぉ」
困ったような笑顔で即座に否定されてしまった。
水槽の中では、ジンベイザメ以外にもシュモクザメや小型のサメ、エイなどが、思うがままに優雅な円を描いている。
スロープを下り切った時に広がった、アクリルで切り取られた雄大な海を前に、審神者は圧倒され立ちすくむ。
大典太もその隣に立って、しばらく時の流れを感じさせない青に見入っていた。
もう「アレ」を思い出すのはやめよう。
一点の曇りも、悪意もない、純真な審神者の横顔が視界に入った瞬間、自ずとそんな考えが浮かぶ。
今、現在進行形で紡がれていくこの幸せで美しい記憶の中に、あんな汚らわしい夾雑物は要らない。
竜宮城のような青の世界を、二人で巡る。
赤、黄、銀色、ネオンブルー、色とりどりの魚たちを追いかけるように館内を進めば、また別の深い青に迎えられ、夢のような、それはもう、夢のような時間を過ごした。
水族館に興味がなさそう、と言っていた審神者の読み。あれは正解だ。いや、少なくとも、あの時点までは正解だった。
兄弟からのアドバイスに水族館という案があり、評判もかなり良い場所だったから、それを拝借したまでだ。
実は、ここには一回来たことがある。その時は、モラハラ女に気を遣うので精一杯で、魚もロクに見れなかったし、ピリピリとした自分の気配を感じ取ったのか、動物には怖れられ、逃げられた。
ここがこんなにも美しく、癒される場所だったなんて。たかが魚で、こんなにも心が震えるなんて。前回来た時は気付きもしなかったことだ。
ピアノに合わせ、華麗に舞い踊る鯛の群れは、まるで意志を持った桜吹雪と見紛うばかりで、一切期待せず観たイワシの給餌ショーも、凡庸な言葉ながら「圧巻」としか言いようのないものだった。ギラギラと銀鱗を輝かせ、一糸乱れぬ動きで餌に群がるイワシの群れは、轟々と渦を巻き猛り狂う龍である。鯛と違ってBGMこそなかったが、力強く凶暴で、なのにどこか繊細な旋律が、確かに聴こえた気がした。
審神者も同じ気持ちだったようで、館内で出会う全ての事に万感の賛辞を送り、その瞳を星空の如く輝かせている。
子供の頃にタイムスリップしたような、昭和の香り漂うレストランすら審神者にとっては感動の対象だったらしく、入り口のガラスケースに並んだ出来の悪い食品サンプルをエモい、エモいと写真に収める姿が微笑ましい。
ここら辺に来て、ようやく審神者は奢られることにも慣れてきたのか、昼食のナポリタンを遠慮せず美味しい美味しいと頬張っている。
その姿を見れば、美味くも不味くもない、強いて言えば若干レトロな味付けのカツカレーも、至上の美味に思えてくるから不思議だ。
ここはもう、トラウマの眠るあの水族館ではない。
全く同じ場所にあり、展示もあの時とほぼ同じだが、ここはもう、あの薄暗くて磯臭い水族館ではないのだ。
パスタを平らげ、頬にオレンジの染みを付けながら微笑む審神者の満足気な顔に、自分もつられて頬が緩む。
それは、全くの無意識だった。
「おい、付いてるぞ」
スッ、と腕を伸ばし、親指でその染みを拭い取る。
拭いとった甘酸っぱいソースをペロリと舐め上げ、ハッと我に帰った。
「て、て、店長?!」
目を白黒させる審神者に、大典太も目を白黒させる。
「あ、い、いや、済まん。ついボーッとしていた。」
心臓が、バクバク鳴っている。
自分でも、何でそんな事をしたのか分からない。
ただ、初めて触れた審神者の頬は、思っていたより滑らかで、柔らかかった。
その感触を消し去るように、紙ナプキンを一枚取って親指を拭く。
何を考えているんだ俺は…。
「あっ、あのっ、そろそろ、ペンギンさんのおさんぽタイムですよ!移動、しましょっか!」
努めて何もなかったかのように振る舞う審神者に罪悪感を抱きつつ、席を立った。
ついうっかり、審神者の頬に触れて以来、何かがおかしい。
歯車がおかしな場所に噛み合ってしまったような、心の奥底にある"何か"を堰き止めていたダムが決壊したかのような、そんな感覚だ。
「おさんぽ」するペンギンを追いかけながら、そのぼんじりを嬉々として写真に収める審神者は、全く平常心を取り戻したように見える。だが、自分はそうじゃない。
審神者の一挙手一投足に目が持っていかれるし、こちらを見て微笑む度、再びその頬に、そして、出来るならその手に、髪に、触れてみたいと思ってしまう。
性的な欲求とはまた違う、強いて言うなら好奇心に近い感情。
「噛み付く恐れがあるので手を伸ばさないでください!」
ペンギンに向かって乱暴に手を伸ばし、飼育員に止められる子供を横目に見つつ、自分の先程の行いを省みる。
噛み付く恐れがない女だから、手を伸ばしてしまったのだ。
審神者には、警戒心というものがまるでない。触れようと思えば、先程のようにいとも容易く触れられる。
ペンギンと同じようなものだ。
飼育員の言う「噛み付く恐れ」なんてものは、どうせ方便に決まっている。
少し考えれば悪いことだと分かるのに、それでも触れようとする不届き者。その深層には、相手を見縊る心理がある。
こんな奴は怖くない。こんな奴は噛み付かないと、確信を持って触れるのだ。
「自身の身に生じる危険」という縄がなければ、不届き者は縛れない。
だとしたら、危険の危の字もないこいつを前に、この身を何で縛れば良いのだろう。
こんな場面でも、気を抜けば暗い方向へ、暗い方へと流れていく思考に口元を引き結び、眉をしかめていると、ズボンの脛の辺りをクイクイと引っ張られた。
審神者…の位置から引っ張れる場所ではない。
目線を落とせば、ペンギンが1匹、好奇心に溢れる無邪気な顔で、大典太のズボンを啄んでいた。
慌てて飼育員がペンギンの胸元を押さえて後ろに下がらせる。
謝罪する飼育員へ大丈夫だと告げる大典太に
「ペンギンちゃん、来てくれましたね!」
ホッコリと審神者が笑った。
以前話した、鳥には特に怖がられるという話を覚えていてくれたのかもしれない。
「これで鳥さんともお友達ですよ。」
明るく言われ、ああ、と微笑み返す。
こいつは、気を抜けば闇の中に落ちていく自分を、その都度底なしの明るさで引っ張り上げてくれる。
だからこそ、こんなにも好ましいと感じるのかもしれない。
この笑顔が消えること、それが俺の「縄」なのだろう。
「彼は…うまくやっているでしょうか…」
作務衣姿でキッチリと正座して、三味線でも構えるようにギターを構えフレーズ練習をしていた江雪は、はたと手を止め、隣で花を生ける妻に問いかけた。
「そうですねぇ…。お相手が 真っ当な お嬢さんでしたら、うまくやれているんじゃないでしょうか。」
パチン、と片手に持った剪定バサミで木立瑠璃草の茎を切りながら、妻は「真っ当な」の部分を強調する。
妻の後ろでは息子の閤太が、何度も読み返して表紙やページの角が擦り切れた「こども図鑑 さる」を熱心に眺めている。
「簡素な服、ボロボロの車、コンビニの食事…そのようなお出かけで……若い娘さんが喜ぶものでしょうか…?」
「あら、私は、江雪さんとでしたら、そのようなお出かけでも嬉しいのですけど…。」
花盆に乗った笹団扇を取り、微笑む妻。
「けれど、江雪さん以外の殿方からそのような扱いをされたら、途中で悲しくなって帰ってしまうかもしれませんねぇ…」
剣山の中央に据えられた大輪のグズマニアの角度を微調整しながら、妻は悲しげに形の良い眉を寄せ、意味深に口元だけで笑った。
「それよりあなた、ギターを弾く手がお留守ですよ。コンサートが近いのでしょう?」
やんわりと人当たりのいい笑みで促されれば、それ以上の深入りは許されない。
相談する相手が本当にこの妻で良かったのかと一瞬懸念が湧き上がったが、友人の女性遍歴を鑑みれば、案外ふるいにかけるくらいで丁度良いのかもしれない。
(三池くん…許してください……。)
江雪のギターが悲しげに咽び泣いた。
暗闇の中、七色の光に照らされたクラゲたちが、柔らかく光を反射し、ふわふわと揺蕩っている。この水族館の中でも特に女性人気の高い、いわゆる「映え」スポットだ。
エリアに入るなり、審神者もすぐさま写真を撮り始めた。
あちらこちらとチョコマカ動いてはシャッターを切る審神者を後ろから見守り、自身も数枚写真を撮った辺りで、小さな違和感に気付く。
何かが足りない。
審神者のスマホに写し出された、どこか間延びして退屈な構図の数々を見て思う。
昼食のパスタだとか、ペンギンのぼんじりだとか、そういったものを何枚か見せてもらったが、いずれの写真も中々どうして、見事に撮れていた。
「これでも高校は美術部だったんで、構図には割とこだわりがあるんですよ〜」と自慢げに語った本人の弁は伊達じゃない。
だが、今撮っている写真はどれも、ノベルゲームやオンライン会議の背景みたいで、主役がいない。
そこでピンと来た。
人物だ。人物が入れば、ぐっと構図も引き締まる。しかし審神者はどういう訳か、角度や距離を微調整しては首を傾げる、ということを繰り返している。それでは徒にメモリを浪費するだけと気付かないのだろうか。
「そこは自撮りスポットなんじゃないか?」
ちょっとしたアドバイス。そんなつもりでかけた言葉だった。
まさか、その何気ない声かけで、審神者の闇を垣間見ることになるなど、誰が予想しただろう。
みるみる内に表情を凍りつかせた審神者は、今まで一度たりとも目にしたことのない、機械のような無表情でこちらを見つめる。
この水族館からは消えたと思っていた「アレ」の亡霊が、復活してこちらを睨み付けているような、そんな悪寒が背筋を駆け抜けた。
「…綺麗な思い出を、汚したくないんです…。」
無表情のまま、どこか無機質な早口で審神者は言う。
「人物がいた方が構図が締まる事ぐらい、分かってますよ?でも、私も何とか工夫してやっているんです。」
こちらを見つめる瞳は、今までの輝きが嘘のように、ドブ川の如く濁っていた。
相変わらず、口調は抑揚のない早口だ。
「…もしかしたら、私のようなブサイクが撮影するのは、許されないエリアなのかもしれないですね。」
自嘲気味に口許を歪ませる審神者。
やめろ。あんたのそんな顔は見たくない。
大典太は奥歯を食いしばり眉間に深いクレバスを刻んだ。
「もし私が綺麗なら、自撮りしてますよ。当然じゃないですか。」
「…黙れ。」
苦々しげに舌打ちする大典太を見て、審神者は諦めたように
「私みたいなブサイクと二人で水族館なんて、やっぱり嫌でしたよね…。すみませんでした。」
不貞腐れた表情を更に醜く歪め、きわめて儀礼的に頭を下げた。
確かに単純な容姿だけを比較すれば、審神者はあのモラハラ女の足元にも及ばない。それは自分も認めよう。
だが、そんなものはどうだっていい。
あんたの笑顔が、明るい態度が、何にも変えがたい救いなんだと。
あんたのお陰で思い出の残穢が浄化されつつあるこの場所を、よりにもよってあんた自身の手で再び地獄に戻すなんて、そんな馬鹿な真似はしないでくれと。
そう、伝えたい。
とは言え、こいつは単なる従業員。自分は単なる店長だ。
この場で、単純に「あんたは可愛い」などと言ってしまえば取って付けたようで薄っぺらいし、セクハラ扱いされかねない。
何か、別の伝え方がないものかと頭の中を全力で引っ掻き回した挙句
「俺はあんたの写真が欲しい」
言っている自分もよく分からない、セーフかどうかも分からない言い回しが飛び出した。
「私の…写真…?何でわざわざ……ネットにでも晒すおつもりですか?」
「そんな訳ないだろう。」
更に警戒心を強める審神者に、呆れてため息をつく。
「ただの記念写真だ。晒されるのが嫌なら俺も写るが?」
「店長みたいなかっこいい人は、ネットに写真が上がっても、ノーダメじゃないんですか?」
「悪意を持って晒すような画像に好き好んで写り込む奴がいるか。」
大典太は再びため息をついた。
「大体俺だって、中学時代の連中にこんな所にいる写真を見られたら…」
–三池ってさ、うすらデカいし白くてガリガリだし、キモいよねー–
–知ってる?あいつ幼稚園で人殺して隔離病棟に強制入院させられてたらしいよ–
–こないだあいつの実家見たんだけどさ、ボロッボロの薄汚い本屋でお化け屋敷みたいだった!–
–フランケンシュタインじゃんwww–
–うわっフランケンだ!逃げろ!腐乱菌が感染るぞーw–
–ねぇねぇ、ゴミ沼さん、フランケンがゴミ沼さんの事好きだって–
–あーっ!フランケンが女子泣かせたー!–
–ゴミ沼さんも流石にフランケンは嫌だよなぁw–
「…長?店長?」
目の前でもみじのような小さい手をヒラヒラと動かされて、ハッと現実に引き戻される。
「あの、私、折角こんな素敵な水族館に連れて来てもらったのに、店長を嫌な気持ちにさせちゃいましたね…。すみません…。」
見上げてくる審神者の瞳に映った悲しみに、こいつも自分と同じなのかもしれない、と思った。
ただ、明るいだけの、ずっと光の中を歩んで来たような人間とも接したことはあるが、こいつには、連中にはない、闇に寄り添う優しさがある。
だとすれば、だからこそ…
「こんな時ぐらい、パリピ連中の真似事をしてもバチは当たらないんじゃないか?」
少しだけ表情を和らげ、問いかけてみる。
問いかけを受けた審神者は視線を落とし、しばらく逡巡するようじっと足元の一点を見つめていたが、最終的には俯いたまま小さくコクンと頷いた。
顔の高さが合うよう審神者の横にしゃがんで、スマホのインカメラを起動する。
腕を伸ばして水槽と自分の顔が写るよう角度を調整すれば、審神者の姿は見切れてしまって肩と髪の毛しか写らない。審神者の顔が写るように角度を変えると、今度は自分が見切れてしまう。
「もう少し寄れるか?」
申し訳ない気持ちで頼んだら、審神者も申し訳なさそうに、一歩、二歩、距離を詰めてきて、画角の中、見切れず二人が収まった。
自分から寄れと言っておいてなんだが、距離が近い。
僅かに触れる肩が柔らかい。
全身から立ち上る、甘く華やかだが優しい香りと、髪から漂うシャンプーのフローラルな香りで頭がクラクラする。
高鳴りそうになる鼓動を必死に諫めながらピースを作ると、審神者も同じようにおずおずとピースを作った。
二人の間に、ひときわ大きく優雅なクラゲが漂ってきたタイミングでシャッターを切る。
写真を確認すれば、完璧な形のクラゲをバックに、些か不機嫌にも見える表情でピースする自分と、シャッターのタイミングで目を瞑ってしまった審神者が写っていた。
「…撮り直しだ。」
苦笑して撮り直した写真は、クラゲこそ何やらボワボワとした白い塊にしか写っていなかったが、自分達は二人とも悪くない表情で写っている。「パリピの真似事」にしては上出来だ。
「何か加工アプリとか使いました?!私こんなに可愛くないですよ?でも、店長は本物の方がかっこいいですね。どういうことでしょう…?」
不思議そうに写真とこちらを見比べる瞳に先ほどの淀みはもうない。
この思い出は、嬉しいかな、綺麗なままで終われそうだ。
「俺から見れば、あんたも実物の方がよっぽど可愛いがな…」
安堵感からため息と共に漏れ出た安い言葉を、ツチノコでも見るような目で見上げられ、ハッとした。
俺は何を言っているんだ。
やはり、今日の自分は何かがおかしい。
ハズレの車で長距離を運転し、荷運びをして疲れている。その上でこんな非日常を浴びせられ、頭がバカになっているのだろう。
心の中で小さく舌打ちして、大典太は歩を速めた。
その後も、大典太は非日常にかまけて時折顔を出す「バカな自分」に辟易していた。
ドクターフィッシュ体験で、嬌声にほど近い笑い声を上げる審神者と、その声を聞いてあらぬ妄想をしかける自分。イルカショーで感極まり、目に涙を溜め見上げてきた審神者と、年甲斐もなくその肩を抱き寄せたいと願ってしまう自分。
その都度、一体何を考えているのかと自分を叱り飛ばしてはいるものの、今のこの状況に限っては、何も考えるなと言う方が無理だった。
……自分は今、審神者と手を繋ぎ、炎天下の屋外通路を歩いている。
イルカショー帰りの人波に飲まれそうになった審神者の手を咄嗟に掴んだはいいが、そのまま離すタイミングを逃した結果だ。
自分の方から手を離すのは、審神者を拒絶しているようで心苦しい。自撮り云々で、あんなコンプレックスをぶちまけられた後とあっては尚のこと。だからこそ、審神者の方から手を離すのを待っているが、どういうつもりか向こうも一向に離す気配がない。
自分の手にすっぽりと包み込まれてしまうほど、小さい手。その滑らかで柔らかい感触に、心臓は先程からずっと浮わついた踊りを踊っている。
そろそろ手汗が滲んできた。審神者は気持ち悪くないのだろうかとチラリと隣を見下ろすが、若干俯いたその顔は髪に隠れて、今一つ表情が読み取れない。
自分は別に構わないが、審神者はきっと嫌だろう。自分がもし女子大生で、30過ぎのオッサンの手汗でべとつくタバコ臭い手を握れなんて言われたら、全力で拒絶する。
嫌だからこそ、気を遣って手を離せないでいるのかもしれない。
だとしたら、ここは自分が「どうしても手を離さざるを得ない状況」を作るのが最善というもの。
「便所に行ってくる。」
手を離す口実としてこれ以上ないものを見つけ、はやる鼓動に急かされるよう、どこかフワフワとした足取りで、大典太は青い看板に向かった。
トイレに消えた店長の背中を見ながら、審神者はハーっと大きく息を吐いた。
さっきまで繋いでいた右手。じっとその掌を見つめる。
頬だけでなく、耳や首までが火を吹きそうに熱い。
店長が戻ってくる前に、まずこの真っ赤な顔をどうにかしなきゃ。
必死に両手で仰いでみても、南中した真夏の日差しも相まって、全くと言っていいほど効果はない。
これならいっそ、暑いから、って事にした方が自然かな?
そんな事を思いながら、トイレ前のベンチに腰掛け、再び大きく深呼吸する。
心臓がまだ、バクバク言っている。
繋いでいた手が、頬と同じくらいジンジンと熱い。
はぐれそうになった時、差し出された店長の手に咄嗟に掴まったはいいものの、そのまま離すタイミングを逃し、人波が消えても繋ぎっぱなしになってしまった。
自分の方から手を離すのは、店長を拒絶しているようで心苦しかったし、何より店長の無骨で大きい、優しい手に包み込まれる心地よい感触を手放したくないと思っていた。
緊張で、手汗とか出まくってたけど、気持ち悪いって思われてないよね…?
そんな不安に襲われる。
もし自分が、店長みたいなかっこいいオトナの男性で、自分みたいな女の豚骨スープが取れそうな手を握れなんて言われたら、全力で拒絶すると思う。
あんなネガティブを見せたせいで、本当は嫌なのに手を離せなかったのかな…。
だとしたら、ものすご〜く申し訳ない。
それにしても、何だか今日の店長は「彼氏」みたいだ。…彼氏いたことないけど。
こんな事、本当は考えちゃいけないし、気のせいだとは分かっているけど、自分を見つめる目や声が、時々すごく優しくて、なのにどこか色っぽい。そんな気がする。
気のせいなのは分かっている。分かっているのだ。
–あんたも実物の方がよっぽど可愛いがな…–
よりにもよってこんなタイミングで、一番色気を感じた声と言葉がリフレインする。
ち、違う違う。あれはネガティブな私が鬱陶しかったから、話を早く終わらせたくて言っただけ!
そうに決まってる。
折角鎮まったと思っていた火照りがまた上がってきた頃、店長が出てきた。
こちらを見るなり店長が
「暑い所で待たせて済まなかったな。ソフトクリームでも食うか?」
と左手を差し出してきて、顔が赤いのは暑さのせいと思われていることにホッとする。
店長の、ゴツゴツと骨張った手を取って立ち上がり、歩き出す審神者。
しばらくそのまま歩いた時点で、ふ、と体が固まった。
「あっ、あのっ、すっ、すみません、手…!!!」
「ん?………あっ!いや、これは…!」
どちらかと言えばボソボソと、抑揚なく喋ることの多い店長が、お腹の底から出す声というのは初めて聴いたかもしれない。
どちらからともなくパッと手を離し、お互いに視線を逸らす。
店長さえ良ければ、黙っていた方が良かったかな、と少しだけ後悔したのは内緒だ。
例の如く、店長が買ってくれたソフトクリームは、とても甘い味がした。
金色になりかける西日の中、のほほんとアルカイックスマイルを浮かべたジンベイザメの大きなぬいぐるみを抱えて、審神者は銀色のワンボックスの助手席に乗り込んだ。
水族館での、夢のような非日常を終えて尚、まだ心はフワフワと浮き足立っている。
水槽の底で昼寝する、大きなウミガメを眺めたり、モチモチのアザラシと触れ合ったりして一通り水族館を満喫し、最後に寄った売店で、この子と出会った。
ぎゅむっと抱きしめがいのありそうなサイズに強く心を惹かれたが、値札を見れば4千円強。不本意ながら、一つ小ぶりなサイズに手を伸ばすと、店長が無言で一番大きいサイズの、それも自分が一番可愛いと思っていた個体をレジへ持って行き、買ったばかりのそれを手渡してくれた。
その時だ。もしかしたら、これは長い長い夢の中なのかもしれないと思い始めたのは。
店長が、もし自分の彼氏だったら…。そんなあり得ない世界線の夢。
今朝は随分早起きだった。目が覚めたらまだ買付けに行く車の中、なんてことも有り得る。というか、そうでなければおかしいぐらい、今日という一日は楽しくて、幸せで、ときめきに満ちていた。
西日を浴びて、きらきらと煌めく海を眺めながら、審神者は満ち足りて溢れ出す甘い気持ちをため息に変える。
目が覚めた時、夢の中と同じ距離感で店長と接してしまったらどうしよう、なんてことを考え始めた頃、車のエンジンがかかった。
夢みたいな一日も、この後温泉に行ったらお仕舞いか。
名残惜しい気持ちでナビを見れば、車は温泉街の真逆へと舵を取っているように見える。
「店長、道、これで合ってます?」
不安になって指摘すると
「この先に、夕日の綺麗な美術館があるらしい。」
前を見ながら店長は告げた。
「閉館時間とか、大丈夫なんですか?」
「庭園と駐車場は閉館後も立ち入り自由だとホームページに書いてあった。」
キラキラと輝く海を左手に見ながら、岬の方へ進む。
夕日の綺麗な美術館……。デートの後、男女が二人で見る夕日……。告白…。
連想ゲームのようにそんな言葉が浮かんできて、審神者は生唾を飲み込んだ。
いやいや、まさかそんな事ある訳ない。
仮にこれが夢の中だったとして、それはあまりに自分にとって都合がよすぎる展開だ。
そんな取ってつけたようなご都合主義展開が訪れたら、この夢のシナリオライターを職務怠慢だと引っ叩いてやる。
大体これはデートじゃない。
でも、手…。
優しく、包み込まれるように握られた手の感触を思い出して、ドキリとする。
そもそも、これがデートじゃないのは分かるけど、そうじゃなければ、一体何なんだろう?
そんな疑問がよぎった頃、想像以上にアッサリと、車は目的地へ到着した。
海を見渡せる岬の丘に、その美術館はあった。
美術館の敷地の庭園には、美しくも、どこか切なさを感じさせるガラスのオブジェが立ち並んでいる。
夕暮れの、涼しくなった海風が、丘の上を吹き抜け、足元の芝生と審神者の癖っ毛を揺らした。
綺麗………。
誰もいない、黄金色に染まった世界に、審神者は小さく息を吐く。
吐息すら黄金に染め上げる昼でも夜でもない時間。夕暮れの魔法で金色の絨毯になった柔らかい芝を踏みしめ、審神者は何かに誘われるよう、ゆらゆらと蜃気楼のように景色を揺らすガラスのオブジェの間を抜けて、岬の先端まで歩いた。
低い柵に囲われたそこで、両手を広げ、海風を一身に受ける。
昔見た映画で聞いた「I'm the king of the world!」というセリフ。まさしく、そんな心地がした。
こんなに綺麗な景色の一部になれたなら、こんなに醜い自分も、綺麗になれる気がして、両手をもっと大きく広げる。
その瞬間、凪いだ海から突然ゴッ!と強い風が吹き上げた。
はためくTシャツの裾と、巻き上がる髪。
後ろから、私を抱き止めるジャック・ドーソンは居ないけど、こんな世界を独り占めできるなら、それも悪くないなんて、風圧に反射で閉じた目をゆっくりとこじ開けながら考える。
それと同時に、後ろから聞こえるシャッター音。
…シャッター音???
振り返ると、スマホを構えた店長が、惚けたような面持ちでこちらを見ていた。
「へ?!ちょ、今、写しました?!」
感傷的な自己陶酔も置き去りに、慌てて店長の元駆け寄ると、店長は叱られた子供のようにターバンで隠れた眉尻を下げ
「あんまりにも綺麗だったもんで、つい、な…」
と画面を見せてくる。
そこに映し出されていたのは、宗教画と言われたら信じてしまいそうな、神々しい画像。
自分で言うのもなんだけど、逆光に照らされた背中は、これから羽ばたこうとする天使か、女神のようにも見える。
「えっ、すご…!私じゃないみたい!」
写っているのが自分だなんてことも忘れ、ただただ写真の美しさに見入ってしまった。
「…そうか?」
だが、店長は意外にも否定的な反応を示す。
「こんなの、いつものあんただろう。」
それは、店長に審美眼がないのか、それとも店長の目には常に自分がこんな風に映っているのか、どっちだ?
仮に後者なら、もしかして、なんて淡い期待が勝手に膨らんでいく。
真意を探ろうと店長の顔を見たが、まさかの平然とした無表情である。店長の表情ソムリエ2級ぐらいは取れそうな自分が言うんだから間違いない。
「店長、写真の才能あるんじゃないですか?」
「別に、そんな大層なもんじゃない。」
店長は、照れるように顔を背けてしまった。
「綺麗だと思ったから撮った。それだけだ。」
顔は背けつつも、平然と答えるその言葉に、また胸の鼓動が早くなる。
待って、一旦落ち着こう。
あくまでこれは、景色が綺麗なだけ。
綺麗な景色の、丁度いい部分に、被写体としての「人間」がいた。それだけ。
「…あんたが嫌なら消す。」
「…ッ消しちゃダメです!」
悲しそうに、写真の消去ボタンを押しかけた店長の腕を慌てて押さえた。
それがあくまで「画面を埋める」だけの役割であっても、こんなに綺麗に写った自分の姿が消えててしまうのは勿体無い。
「…盗撮だぞ?」
「盗撮でも、です。」
なんなら、この写真を見て「店長の目に映った自分」をもっと見たいと、今まで抱いたこともないような新しい欲を抱いている自分がいる。
「あの、もしも……あくまで、もしも、の話ですよ…?今後も、私が写り込む景色で、綺麗だと思うものがあったら、その時は、許可とかせず、バンバン撮ってくれて大丈夫なんで!」
遠目に見れば、それこそ「告白」にも見えかねない勢いで声を振り絞って頭を下げる審神者に、店長は意外そうに、けれど、どこか嬉しそうに目を細め
「分かった。」
と短く告げた。
濃紺から紫、ローズピンクへとグラデーションを描く空の下、海の上の橋を渡り温泉街へと向かう。
刻一刻と夜の色に染まりゆく景色の中、海に反射しきらきらと輝きだした温泉街の灯りは、まるで宝石箱のようだった。
温泉街の、日帰り入浴ができる施設に着く。いわゆるスーパー銭湯と言われるタイプの施設だが、使っている湯は足し湯なしのレッキとした温泉らしい。
審神者を女湯に見送って、自身も男湯の暖簾をくぐった。1時間後、休憩所で落ち合う約束だ。
とりあえず、汗を流そうと身体を洗っていると、隣に座った老人がしげしげとこちらを見つめてくる。
自分は身体が大きいため、こういうことは珍しくない。…ただ、ここまでガッツリ見られるとなれば話は別だが…。
一つ咳払いをして椅子を少しずらし、再び身体を洗っていると
「はあぁ、立派だなぁ…」
感心したように、隣の老人が声を漏らした。
無視して身体を洗い続けるが
「兄ちゃん、立派だなぁ。」
今度は明らかに、自分に向かって話しているのだと分かるように声をかけてきた。
こうなっては、流石に完全無視を決め込む訳にもいかず、曖昧な顔で会釈する。
とりあえず、これ以上妙な絡み方をされても困るので、できるだけ隙を見せないよう、手早く髪と顔とを洗い終え、浴槽に浸かった。
熱くもなく、ぬるくもない、快適な温度の湯に手足を伸ばせば、今日一日の疲れがじんわりと溶け出していく。
大きく息を吐き出して、今日という、目まぐるしくも幸せな一日に思いを巡らせていると、ざぷん、と湯船の湯が揺れた。
他の客が入って来たか。まあいい。そんなに混雑はしていないから、自分が手足を伸ばしていても、さほど迷惑にはならんだろう。
特に気にせず目を瞑り、サッパリとした泉質に身を委ねていたところ
「兄ちゃん、どっから来たんだ。」
ついさっき、聞いた気がする声がした。
嫌な予感に眉根を寄せつつ隣を見ると、白髪頭を七三に切り揃えた、日焼けした肌の老人とバッチリ目が合う。
………。
「…K市です。」
観念して端的に答えた。K市も広い。これぐらいなら答えても構わんだろう。
「はぁ〜、そんな遠いところからわざわざ。」
最初こそ、あんな品のない絡み方をして来たが、その口ぶりから悪意はないのが窺える。
「観光か。」
「まぁ、そんなようなものです。」
詳しく説明する理由もないのでそういうことにしておいた。事実、観光していた時間の方が長い。
「一人でか。」
「いえ、連れと。」
ここで曖昧に流して一人だと思われれば、延々と絡まれ続ける事になるのは明白だ。正直に答え釘を刺す。
「へぇ〜、どこに?」
キョロキョロと浴場を見回す爺さんに、女湯の方を指差すと
「コレか!」
小指を立て、ニンマリと悪い笑みを浮かべた。
再度「そんなようなもの」で切り抜けることもできたが、それでは爺さんの発言を肯定するも同然だ。自分は別に構わないが、審神者に対して申し訳ない。
「いえ、別に、そういう関係では…」
「おっ、なんだ。まだそういうんじゃねぇのか。」
「…ええ。」
まだ、という部分に引っ掛かりを覚えつつも、一応肯定する。
未来永劫そういう関係にならなかったとしても「まだ」は「まだ」だ。「未だ然らざる状態」が「まだ」なのだから間違ってはいない。
「そうかそうか。だったら早い所モノにしとかねぇとなぁ。」
感慨深そうに爺さんはウンウンと一人頷いているが、自分にそういうつもりは毛頭ない。
これで話は終わりか。案外短く済んで良かった。
内心ホッとしつつ、否定も肯定もしないでいると、爺さんは一人、勝手に語り始めた。
「俺…の知り合いの、庭師の話なんだがなぁ…」
ハァーっと大きなため息で幕を開けたのは、とある庭師と、深窓の令嬢の物語である。
薔薇の生垣が植えられた、大きなお屋敷。夫婦と六人の子息、令嬢、二匹の犬が暮らすそこには、一人の腕利きの庭師が出入りしていた。
庭師は息子を弟子代わりに連れて行き、たったの二人で広大な庭を整える。
幼い頃から父の後をついて回り、見様見真似で作業を覚えた息子。
–ここなら奥様旦那様の目には付かん。やってみろ。–
初めて一人任されたのは、庭園の片隅に咲く薔薇の生垣の世話だった。
最初こそ、中々うまいようにはいかなかったが、それでも毎日世話していれば花木の言葉が分かるようになる。そうして、その付近の薔薇は庭園でもひときわ見事に咲くようになった。
だが、どんなに腕が上がろうと、そのご時世身分の壁というのは大層高く、家人による扱いは、野良犬以下のぞんざいなものだったという。
唯一違ったのは、末っ子にあたる四女。
おひい様と呼ばれた、身体の弱いその少女は、学校に通うこともできず、ずっと部屋から庭を眺めるばかりの暮らしをしていた。
その部屋から見えたのが、丁度庭師の息子が整えていた一角だ。
友達もおらず退屈だろうと、庭師の息子はせっせと薔薇の世話をして、その気持ちに応えるように、薔薇は一層見事に咲き誇った。
時折薔薇を眺めるために窓から覗く微笑みは、一輪の月下美人のようだった。
言葉を交わすこともなかったが、にっこりと微笑まれれば微笑み返す。そんな日々を送っていた。
とある昼下がり、体調が一等良かったおひい様が、珍しく庭に降りてきた事がある。
一歩一歩、確かめるような足取りながら、真っ直ぐに歩んできたおひい様は、庭師の息子に問いかけた。
–もし?あなたはどうやってこんなに綺麗な薔薇を咲かせるのかしら?–
–俺っちはただ、場をあつらえてやってるだけだ。咲くのはこいつらの力でさぁ。–
照れ隠しで言った言葉に、おひい様はいたく感じ入ったという。
家の仕事の手伝いで学校に行かせてもらえない庭師の息子と、身体のことで学校に行けないおひい様。
歳を経るごとに、おひい様は具合の良い日が増えていき、よく庭に降りるようになった。とは言え、学校に行けるほどではない。中々接することのない同世代ということもあって、二人は親交を深めていった。
–おひい様、こりゃぁ一体…–
–シベリヤというお菓子です。ああ、うちの両親や、兄様、姉様たちには内緒よ。私が叱られてしまうわ。–
そうやって、おひい様は時折、一介の庭師の息子では到底手に入らないような高価なものを下賜したという。
庭師の息子は、身分違いと知りつつも、次第におひい様に惹かれていった。おひい様は、その気持ちを知ってか知らずか、庭師の息子に随分と親切だった。
だが、庭師の息子が正式な庭師としてお屋敷に出入りするようになったある日。
–お嫁に行くことが決まったの。–
女優か何かと見紛うほど綺麗になったおひい様に、そう告げられた。
–そりゃまた…………おめでとうございます。–
心に大切に仕舞ってあった宝箱が、パリンと音を立てて割れたような心地がしたが、たかが庭師の分際では、そうとしか言いようがない。
嫁入り先は、辺りじゃ知らぬ者のない名家も名家。誰から見ても「めでたい」「幸せな」結婚だ。
表情を悟られぬようシャッポのつばを下げ、祝福を述べれば、おひい様は悲しげに目を見開いて
–…さようなら!–
踵を返し、走り去ったという。
庭を煌々と照らす満月の下、桜がはらはらと、涙のように散っていた。
おひい様の嫁入り後、ほどなくして屋敷は売りに出され、一家はどこか別の場所に移り住んでいった。風の噂では県外の閑静な別荘地とも、大きな都会とも聞いたが、正確な行き先は知らない。
それに伴いお役御免となった庭師は、数々の庭を回って日銭を稼ぐこととなった。折に触れ、薔薇が咲き乱れるあの庭で、おひい様と笑い合った日々を懐かしく思い出しながら。
きっと今頃、おひい様はあのお屋敷と同じか、それ以上にご立派なお屋敷で、何不自由ない幸せな暮らしを……それこそ自分みたいな貧乏な庭師では、到底叶えてやれないほどの幸せな暮らしを送っているに違いない。
そんな、盲信にも似た思い込みが崩れ去ったのはある朝のこと。
庭師が、残った味噌汁と冷飯で作ったねこまんまを掻き込みながら新聞を広げると、一面にでかでかと、とある会社の国をも巻き込んだ不祥事の事件が載っていた。
渦中の会社は忘れもしない、おひい様の嫁いだ相手が社長を務める会社ではないか。
連日連夜、ニュースでも新聞でもその事件は取り上げられ、不祥事の首謀とされた社長の不可解な死をもって、とうとう事件は幕引きとなった。
おひい様は大丈夫だろうか。
これほどの大事件に巻き込まれ、おひい様だけが安穏と平和な日々を送れているとは思えない。
いてもたってもいられず、自然と脚はあのお屋敷へと向かっていた。
そこがもう、おひい様の実家でないことは分かっている。
分かってはいたが、唯一残ったおひい様と自分を繋ぐ点がそこだった。
渦を巻いて心を苛む不安に急かされるよう戻ってみれば、機能性一点張りで情緒のカケラもない真新しいビルヂングと、だたっ広い駐車場があるばかりで、明治の初期に建てられたという洋館はおろか、自分が大切に世話をしていた薔薇の生垣も、おひい様に別れを告げられた桜の大樹も、全て綺麗さっぱり、跡形もなくなっていた。
あの日々が、幼い自分の見た夢だったような気すらしてくる。
肩を落とし、その場を立ち去ろうとした時に、虚ろな目でビルヂングを見上げ佇む一人の婦人と出会った。
まだ幼い乳飲み子を背と胸に抱えた婦人は、随分とやつれた顔をしている。
その頬や腕、脚には、痛々しいアザがそこかしこに出来ていた。
–おひい様…?–
どっと老け込んではいるものの、その造作に見覚えがあり、恐る恐る問いかける。
それを聞いた途端、婦人の瞳に光が灯った。あの頃を彷彿とさせる表情で庭師の方を振り返り、その名を呼ぶ。
–八玄さん!–
ああ、おひい様だ。これは間違いなくおひい様なんだ。
再会の喜びと、変わり果てたその姿への絶望と、二つの気持ちがないまぜになった感情で、訳が分からなくなる。
–どうしましょう、何もかも失ってしまったわ。帰る場所がないの。–
おひい様は、涙すら枯れ果てた乾いた声で、そう告げた。
息子をたぶらかした毒婦。
それが、嫁ぎ先で彼女が得た名前だ。
夫や舅、姑から、一切関わっていない不正の濡れ衣を着せられそうになり、それを拒否して社長が不可解な死を遂げれば、人殺しと罵られた。
実家を頼り、逃げ出しても「出戻り娘を置く訳にはいかない」と拒絶され、子供を連れて三人、あてもなく彷徨っていたという。
せめて最期にあの薔薇を見て、それから故郷の海に身を投げようと、そう決意してここを訪れたのだと、すっかりぼろ雑巾のように成り果てたおひい様は語った。
–残念ながら、ここにもう薔薇はねえみてぇだな。–
庭師が肩を竦めて見せれば、おひい様はハラハラと泣き出すので
–うちの庭には、あれよりもっと見事なのが咲いてるぜ。–
そう言って微笑んだ。おひい様ははた、とこちらを見上げ
–エスコートして下さる?–
やつれた頬に、品のいい笑みを浮かべて庭師の三歩後ろをしずしずと歩き始めた。
おひい様は、そうして庭師の妻となった。
「そりゃもう、うなされてたね。最初の頃は、特に。」
–旦那様!お許しください!お許しください!子供は!子供だけは!–
真夜中の2時、3時に、ガタガタと震え、泣きながら目を覚ます。
カッと瞳孔の開いた目で一点を見つめ、ヒュウヒュウと苦しげに細い息を吐く妻の背を、落ち着くまでずっと撫で摩った。
そんな風に夜中目を覚ましても、昼間になればケロっとして
–ねえあなた。このポシェット、ちょっと素敵じゃないかしら?–
–あら嫌だ!あ〜な〜た〜?また靴下を散らかして!–
–今日のご飯はスパゲッテーというの。イタリヤの料理なんですって。子供達には評判だったけれど、お口に合うかしら?–
それが尚更、痛々しかった。
庭師との間に子供が生まれて以降、絶叫と共に目覚める頻度は次第に減ったが、それはただ減っただけ。一番下の子が成人し、勤め人になっても、孫が生まれても、時折物凄い叫び声を上げ、震えながら飛び起きる。
どんなに後悔しても、恐ろしい目に遭う前のおひい様は、もう戻ってこない。
「あの時、もうちっとばかし、俺に覚悟があったらなぁ。」
「知り合い」という設定も忘れ、老人は深い皺の刻まれた目をショボショボと伏せた。
「元から身体が弱いもんで、還暦過ぎに肺炎してから、めっきり弱っちまってなぁ…。」
眉をしかめ、遠い目で宙を仰ぎながら、深いため息をつく。
「だから兄ちゃん、欲しい姉ちゃんが居るなら、モノにできる内にしておけよ。後悔したって、過去は変わってくんねぇぞ。」
ザパッと湯から上がりながら、老人は老いて尚しっかりした腕で、大典太の背をバシっと叩いた。
「大丈夫、兄ちゃんぐらい立派なら、相手がどんな姉ちゃんでもヒィヒィよ。イッヒッヒ。」
…ちょっと待て。結局そこに帰着するのか。シリアスな話に一瞬でも聴き入った俺が馬鹿だった。おいこら、ちょっと待て。
だが、気付いた時には既に老人はいない。
湯船に浸かりながら長話を聞いたせいか、若干のぼせている。
あれは、妖怪や怪異の類だったのだ。そういうことにしておこう。
湯船の真向かいにある時計を見れば、待ち合わせの時間まであと少し。
大典太は湯船を上がり、ふらつく足取りで脱衣所へと向かった。
「あれっ、店長、意外と遅かったですねぇ」
服を着て、待ち合わせ場所の休憩所に行けば、風呂上りで頬を艶々と上気させた審神者が冷たいお茶を飲み待っていた。
「変な爺さんに捕まってな…。」
変…と言ったら幾分申し訳ないような気もしたが、最初と最後の絡み方が絡み方だっただけに、そう形容するより他はない。
「飯でも食って帰るか。」
時間も遅いため、道中開いている飲食店を見つけることは難しい。そう思って、テーブルの端に置いてあるメニューを掴んだ時
「おっ、兄ちゃん!」
非常に聞き覚えのある声が、背後から聞こえた。
「ははぁ〜、これが例の姉ちゃんか。」
おいやめろ、誤解を招くような言い方をするんじゃない。
あんたはあんたで、こんな妙な爺さんに何の警戒もせず頭を下げるな。
「いやぁ、兄ちゃん、いい姉ちゃんだなぁ。」
「は、はぁ。まぁ…。」
「姉ちゃん、どうだ。兄ちゃん優しいか。一緒にいて幸せか。」
「あっ、はい!すっごく優しいし、楽しいです。」
その答えに、爺さんは満足げに目を細める。
「いいか、姉ちゃん、人生は…」
爺さんが、何かを言いかけた時、
「あなたっ!まぁた若いアベック捕まえて…!」
休憩所の入り口から、甲高い老婆の悲鳴が聞こえた。
「ほら、行きますよ!」
品のいい紫のワンピースを翻し、ツカツカと歩いてきた老婦人は、その長い指でテーブルの傍に座り込んだ爺さんの耳を思い切り引っ張る。
「あでででで、ま、待て待て!俺はただ若者が後悔しないように…」
「また話したんですか!」
信じられないと言いたげな顔で老眼鏡の奥の目を丸くする老婦人。
「おやめなさいと何度言ったら分かるんです!」
ちょっと待て、誰だこれは。
「ごめんなさいねぇ、うちの主人が…。至る所で吹いて回ってるんですのよ。湯あたりしてらっしゃらない?」
主人……?ということは、この人が「おひい様」か…?しかし、おひい様は還暦過ぎに肺炎で亡くなった筈では…。
「えぇ、確かに肺炎はしましたけどねぇ、お陰様で、今ではピンシャンしてますよ?」
「お前、肺炎して以来長風呂できないって…」
「んまぁ、呆れた!そうでも言わなきゃあなた、何時間でも取っ替え引っ替え若い人捕まえて話し続けるじゃありませんの!」
ここで、爺さんが風呂から上がった時のことを思い出す。妻が肺炎でめっきり弱ったと語った時、その目線の先にあったのは…………時計だ。
今思えば、あれは湯気で霞んで見えづらい時計に目を凝らしている顔だったのか…。
何故かは分からないが、とても損した気持ちになり、げんなりしながらお茶を一口啜る。
「あ〜っ!じいじ、ばあばにまた怒られてる〜」
その時、小学生ぐらいの女の子が二人、クスクスと笑いながら駆け寄ってきた。二人とも、老婦人とはよく似ているものの、爺さんと似ている部分が少しもない。
孫にアイスをせがまれて、爺さんは皺だらけの顔をクシャリと破顔させ立ち上がる。振り返り様に老婦人が一つ、優雅な動作でお辞儀をし、孫を連れた老夫婦の姿は見えなくなった。
近海で採れた魚をふんだんに使った海鮮丼を食べ、温泉を後にした。
車通りも少ない夜のバイパス。助手席の審神者はジンベイザメを抱き、スヤスヤと気持ちよさそうに寝息を立てている。今日一日、あれだけハイテンションではしゃぎ回っていたのだから無理もない。
その眠りを邪魔しないよう、そっとラジオのスイッチをOFFに回せば、ロードノイズと潮騒の静寂だけが車内を包む。
観光地から一歩離れれば、途端に街明かりもなくなり、フロントガラスの上半分を覆う満点の星空。
宇宙が降ってきたような夜の合間を縫うように、車は走った。
小一時間ほど走っただろうか、ナビは店まであと半分程度の地点を示している。
軽い休憩を取るため、道の駅へとハンドルを切った。行きとは違う道の駅だ。
ソフトクリームや軽食を販売する屋台と、コンビニというよりかは売店と呼んだ方がしっくりくる店舗は真っ暗で、ポツポツ立ち並ぶ街灯と、品揃えの少ない自販機だけが頼りなく辺りを照らす。
あどけなく目を瞑る審神者を車内に残し、できるだけ静かにドアを閉めた。
日差しはないが、それでも尚蒸す熱帯夜。湿気と潮気の混じった粘度の高い空気が肌に纏わりつく。
スマホで軽くニュースなどをチェックしながら一服し、ジャリジャリと砂でざらつく歩道を歩けば、浜辺へと降りる階段を発見した。
鬱蒼と茂った夏草に覆い隠された入り口を分け入り、所々欠けたコンクリートの段差を降りてみると、眼前に広がったのは、誰もいない、漁火すらない夜の海。
月もなく、ただ、満天の星空だけが輝いている。
大典太は、間違って眠りこけてしまわぬよう、スマホのタイマーを15分にセットして、大の字で砂浜に横たわった。
視界の端から端までを埋め尽くす、雲一つない星空と、この惑星の鼓動のように、寄せては返す波の音。
二十億光年の孤独……か。
遠い過去、心惹かれた詩を写しとったような世界に心身を沈める。
ともすれば、上も下も分からなくなってくるような遠い星空。
何十年、何百年、下手をすれば何億年も昔に放たれた光が、チラチラと煌めいて地上に届く。
きっとこの人生は、長いようで短い。
ついこの前のように感じる学生時代も、気付けば10年も昔の話になっていた。
温泉で出会ったヘンテコな爺さんの話はやけに臨場感があったが、きっとそれは「ついこの前」の話だからだ。
この日々だって、気付いたら、10年、20年と時が経ち、遠い過去の一部へと姿を変えてしまうのかもしれない。
そんな可能性に思い至り、愕然とする。だだっ広い宇宙のど真ん中に、たった一人放り出されたようなおぼつかない心地。
あいつも今は学生だが、あっという間に卒業して、社会人になるのだろう。そうなったら、今のような日々は望めない。
それどころか、就職で遠くの街に行ってしまう可能性すらあるのだ。
二度と、会えなくなる可能性すら。
–欲しい姉ちゃんが居るなら、モノにできる内にしておけよ。–
爺さんに言われた言葉が、杭のように突き刺さっている。
–後悔したって、過去は変わってくんねぇぞ。–
新しい街に出て、そこで知り合った男と結婚し、子供が生まれ、俺のことも…この日々のことも忘れて、平凡だが穏やかな生活を………
そんな想像をするだけで、ざわつく胸を思いっきり掻きむしりたい衝動に襲われる。
まして、あの婆さんが過去に受けたという仕打ちの、その10分の1でも、あいつが受けたとしたら………
……俺は、相手の男を、殺してしまうかもしれない。
輝く星が、滲んで歪んだ。
目尻から、暖かいものが伝い、耳の方へと流れ落ちる。
できることなら、ずっとこんな日々を送っていたい。それは、間違いなく自分の願いだ。
一方で、自分なんかのエゴのため、審神者の幸せを犠牲にしてはいけないことも分かっている。
あいつの人生は、あいつが決めるものだから。
目の前で、大きな火球が長い尾を引き海へと沈んだ。
あれだけ大きな流れ星だ。「時よ止まれ」と願えば、叶うだろうか。
またしても馬鹿な事を考え始める自分を嘲笑うように、口元を歪めたその時
「店長〜?て〜ん〜ちょ〜!」
審神者の声が響いた。
慌てて上体を起こし、砂を払い落とした手の甲で目尻に流れたものを拭う。
「あっ!こんな所にいた!」
浜に降りる通路を発見した審神者は、ポンポンと弾むように段差の大きい石段を降りてきた。
「もう、酷いですよぉ〜!私を置いて帰っちゃったかと思いました!」
こんな僻地で、車を残して帰るなんてできっこないが、ぷぅっと頬を膨らませる審神者に、少しだけ、何も知らせず来てしまったことへの申し訳なさを感じる。
「星、凄いですね」
審神者は空を眺めながらこちらに歩み寄り、1mくらいの距離を置いて座った。
しばらくそのまま二人夜空を眺めていると、小さいのから大きいのまで、流れ星がいくつか流れる。
そういえば今日は流星群だったか。
ニュースサイトの片隅に、そんな記事が見え隠れしていたような気もする。
また一つ、見えるか見えないか、子猫の引っ掻き傷のような星が流れた。
隣は意外にも静かである。普段のこいつなら、もっと大はしゃぎしていてもおかしくないところだが…。
「こんな所ではしゃいだら、雰囲気壊れちゃいません?」
真剣な表情を作る審神者に、小さく吹き出して再び砂浜に寝転んだ。
俺たち二人しかいないのに、雰囲気もクソもあるか。
遮るものの何もない空が広い。
少しして、審神者も同じように寝転がった気配がする。
「はぁ〜、こうして見ると益々綺麗ですねぇ〜」
気の抜けたような、ため息混じりの声に心がふわりと軽くなった。
「こうして見ると儚げですけど、あれって全部太陽なんですよね。」
太陽といえば語弊があるが、同じ恒星であるのは違いない。
「きっと近付いたら熱いんでしょうねぇ。」
星に近付くなんて発想は自分にはなかったが、それは熱いに決まっている。それこそ、人間なんて一瞬で消し飛んでしまう温度だ。
「宇宙人がいないのって、水があって、太陽と丁度いい距離を保ってる惑星がないから、でしたっけ。」
宇宙については詳しくないが、こいつがそう言うならそうなのだろう。
「太陽が適度な距離で良かったですね。今ですら暑いのに、これより夏が暑かったら、私液状化して地面に染み込んじゃいますよ。」
「そうだな。」
黙っていられなくなったのか、普段通り話し始めた審神者。
その様子が可笑しくて、小さく笑って隣を見れば、同じタイミングで審神者もこちらを見ていた。
触れられそうで触れられない、ギリギリの距離を隔てて目と目が合う。
目をうっとりと細めた審神者の頬に、星灯りが降り注いでいる。
目が離せなかった。
自分さえ身じろぎすれば、手の届く距離。
鼓動が早い。
–欲しい姉ちゃんが居るなら、モノにできる内にしておけよ。–
すっかり頭に住み着いた、あの爺さんがそそのかしてくる。
違う、これはそういう類の感情じゃない。
今日、何度も何度も呪文のように自分に言い聞かせてきた言葉。そこに初めて、一抹の疑問が混ざった。
本当に、これがそういう類の感情じゃないと言えるのだろうか。
全力疾走後の如く上がる心拍数。抗うように唇を噛む。
こいつは、冷え切った心を暖め、闇に沈めばその明るさで照らしてくれる。
そう、俺にとっての太陽だ。
だからこそ、これ以上近付くことは許されない。
これ以上近付いて、こいつに恐れられたら、
俺の行いが、こいつの心に癒えることのない傷を残してしまたっとしたら、
それは、俺にとって死ぬより辛い仕打ちとなるだろう。
太陽に近付き過ぎれば、人間なんて一瞬で消しとんでしまうのだ。
だから仮に……仮に、これがそういう類の感情だったとしても………
そこで、15分にセットしていたタイマーが鳴った。