三池書店③ 前編 Epilogue審神者
妖怪好きな貧乏学生。
普段はホワホワした雰囲気だが、意外と激しい音楽が好き。
推しは、メタルバンド「重金属凶奏隊 鋼音−HAGANE−」のベーシストHIKARIさん。
ある日見つけた、品揃えと店主がめちゃくちゃ好みの本格派古書店「三池書店」でボランティアを始めた。
今まで言われてきた酷い言葉のせいで容姿にコンプレックスがあり、身近な男性を好きになるのを恐れている。
三池光世(大典太光世)
表向きは本格派古書店「三池書店」の店主。審神者からは「店長」と呼ばれている。
裏の顔はメタルバンド「重金属凶奏隊 鋼音−HAGANE−」のベーシストHIKARI。
店番をしている時は、基本的に身バレ防止のため和装。
友達が少なく、まして話が通じる相手となると審神者ぐらいしかいないので、クソデカ好意(本人はLoveではなくてLikeの方だと信じたい)を抱いている。
過去の交際相手から受けて来た酷い仕打ちのせいで、女性と一歩進んだ関係になるのを恐れている。
三池ソハヤ(ソハヤノツルキ)
表向きはパーソナルトレーナー。
裏の顔はメタルバンド「重金属凶奏隊 鋼音−HAGANE−」のドラマーSONIC。
今回のデートの立役者その1。兄弟に若い女の子が喜びそうなデートスポットを色々教えた。
初デートは海だったが、彼女のミサさん(警官)が密漁者を発見したためその場で解散となった。
左門江雪(江雪左文字)
表向きは名刹「沙門寺」の住職。
裏の顔はメタルバンド「重金属凶奏隊 鋼音−HAGANE−」のギタリストLICKA。
今回のデートの立役者その2。いつも酷い地雷女に引っかかる友人のため、地雷女が自然と去っていく方法を教えた。
初デートは一泊二日で紫陽花が有名なお寺へ。初デートなのに宿で煩悩に勝てなかった自分を悔やみ、出家しようかとも思ったが、よく考えたらもう出家してた。
肥前忠広(肥前忠広)
表も裏もメタルバンド「重金属凶奏隊 鋼音−HAGANE−」のボーカルHIRO。
他にもいくつかバンドを掛け持ちしていたり、毒舌食レポY○uTubeチャンネル「カレー味のFxckin’ Shit」をやってたりする。
肥前自身割とよく地雷女に引っかかって酷い目を見ているので、今回のデートに関する相談はされていない。幸せになってくれ。
今はフリーだが、過去クリスマスデートで相手をサイゼに連れて行き、振られたことがある。
さやかちゃん
審神者と同じ学部で同じアパートに住んでいるギャル。
モータースポーツ部のマネージャーで、1個上のエース、工学部の豊前先輩と付き合ってる。
初デートはサーキットかと思いきや、意外にもテーマパークだった。元々好きだったけどもっと惚れた。
パチリ。
目を覚ませば、K市街だった。
どこまでが夢で、どこまでが本当だったのだろう。寝起きのせいか、境目が曖昧だ。
腕の中には、フワフワと柔らかい感触。目線を落とせば、ジンベイザメが柔和な微笑みを湛えこちらを見上げている。
手の甲は、温泉のお陰かスベスベだし、靴の中でジャリジャリ言っているのは星空を眺めた海辺で紛れ込んだ砂だと思う。
全部、本当だったんだ……。
湧き上がってくる感慨で、手がわなわなと震え出す。
時計を確認すれば、夜の10時を回った所。こんな時間なのに、街明かりは煌々と辺りを照らしている。あの海岸と同じように晴れ渡った空なのに、星は見えない。
ああ、帰って来ちゃったんだなぁ。
夢の終わりは、いつだってあっけない。
こんな時間なのに、車やバスでぎゅうぎゅう詰めの道路。信号待ちと路駐の車の間をすり抜けていく自転車。アーケードの中大声で喚ぐ酔っぱらい。
ああ、本当に帰って来ちゃったんだ。
しょんもりと眉尻を下げ、窓の外を眺めたその時
「起きたか。」
「あっ、ハイ!」
運転席からかかった声に、審神者は慌てて向き直り返事をする。
早起きして遊び回り、お腹もいっぱいだったので眠ってしまったが、それは店長だって同じこと。加えて、窮屈な車で長い距離を往復し、荷運びまで全部一人でやっているのだ。自分なんかとは比べ物にならないほど疲れていることだろう。
「寝ちゃってすみません……」
「予告もせずこんなに遅くまで連れ回してしまって、謝らなきゃいかんのは俺の方だ。」
精一杯の申し訳なさを込めて謝ったら、逆に謝られてしまった。
「いえ、そんな、とんでもない!」
楽しかったから時間なんて全く気にしてない。どのみち明日は休みだし、帰省の前にこんな素敵な思い出を作ることができて感謝してもし足りないほどだ。
「どうする?あんたさえ良ければ家まで送るぞ?」
「いいんですか?!」
その上家まで送ってもらえるとは至れり尽くせりである。
だが、疲労困憊な筈の店長に、そこまでさせていいんだろうか。家まで送り届けてもらえたら正直ものすご〜くありがたいのは事実だが、申し訳なさから素直に頷けない。
「家を知られるのが嫌なら店に下ろすが…」
「それは全然大丈夫です!」
店長に家を知られて困る事など何もない。自分が築ウン十年のボロアパートに住んでいるぐらいで、見る目を変えるような人でないことは知っている。
その旨を告げると店長は「そういうことじゃないんだが…まぁいい。」と苦笑した。
そういうことじゃないならどういうことなのだろう?よく分からないので黙って流した。
「だったら、案内頼めるか?」
「えっとですね…」
問いかけを受け辺りを見回してみるが、普段なら電車で来る街である。この辺りから車で家に帰る道順となると、よく分からない。
「最寄駅は?」
答えると、店長は少し驚いたように薄い眉を上げ、交差点で左にハンドルを切った。
車は、知らない道を進んでいく。
「随分遠い所に住んでるんだな。てっきり学生街かと思っていたが……。」
「家賃の関係でどうしても…」
審神者の大学はちょっとした山の上にあって、その麓に学生向けのアパートやスーパー、飲食店の立ち並ぶ学生街がある。
実際、友達はそのエリアに住んでいる子が圧倒的多数だが、残念ながらその周辺は家賃だけで月々の仕送りが全部吹き飛んでしまうのだ。
そんなわけで審神者は、交通費+家賃の総額が最も安くなる、少し遠目のエリアに住んでいた。
「だからこそ、店長のお店を見つけられたんですけどね。」
三池書店は、学生街と自宅の間、やや学生街寄りの場所に位置している。
無駄に長い通学時間にやるせなさを感じ「定期で降りれる駅全部降りるチャレンジ」をしていた時に見つけたのがあの店だ。
ちなみに、チャレンジは途中で面倒くさくなってやめた。というか、三池書店に興味が移ったと言う方が正しいかもしれない。
もし学生街に住んでいたら、三池書店を見つけることもできなかっただろうし、見つけても通う気にはなれなかったと思う。
最初は、通学も不便で、友達と街で遊んでも自分だけ早く帰らなきゃいけなくて、どうして自分だけ、と思っていたが、あのアパートだったから親友のさやかちゃんとも出会えたし、三池書店も見付けられたのだ。だから、今はむしろ、あの場所で良かったと思っている。
気付くと、車は最寄の駅前通りまで来ていた。
電車なら、駅への移動や待ち時間、乗り継ぎなどで何だかんだ30分ほどかかる距離も、車なら一瞬だ。
「ここをしばらく進むとボーリング場があって、その隣にコンビニがあるんですけど、その手前の角を……」
審神者は、できるだけ車で通りやすい広い道を選んで、家への道順を伝えた。
「デートぢゃん。」
事の顛末を聞き終えた親友が、開口一番発した言葉である。
夢の続きのような気持ちのまま、紐の切れた風船のようにフワフワと自分の部屋に辿り着き、真っ先にしたことが友人への連絡だった。
〈ねえちょっとやばい。〉
〈やばかった。〉
〈語りたい。〉
語彙力ゼロを通り越してマイナスな状態で連投したメッセージは、既読がついても数分の間返事はなく、若干冷静になった頭で変な事送っちゃったかな?時間も時間だし迷惑だったかな?もう寝てたかな?などと考え始めた頃、数本の缶酎ハイと裂きイカを持った友人が呼び鈴を鳴らした。
「アンタそれ、確実におじさまに狙われてるって。」
ニヤニヤとからかうような笑みを浮かべながら、さやかちゃんは片膝を立ててグレープ味の酎ハイを啜る。
「デートとかじゃないよ!余った時間で連れてってくれただけだから!」
慌てる審神者の膝の上、のんびりと寛いでいるのは買ってもらったばかりのジンベイザメ。
「だってさ、集合時間おかしくね?7時前っしょ?」
「それは、涼しい内に作業終わらせたかったとか、そーゆーことじゃない?」
「だったら夕方で良くね?」
それもそうだ。
「大体さ、スケジュールがぴったり過ぎんだよね。」
振り返ってみると確かに。ショーも展示も余すところなく水族館を満喫し、出て来たのは夕日が一番綺麗な時間帯。
そのまま店長は、迷うそぶりもなくあの庭園にハンドルを切った訳だが、その時ホームページを見た、みたいな事を言っていた気がする。
ということは、わざわざそこまで調べて、あの時間帯を選んで連れて行ってくれた…ということになるんだろうか。
温泉も、丁度涼しくなり始める時間帯に到着したし、お風呂から上がった時間は丁度ご飯時だった。
そこから、休憩を挟みつつK市まで2時間弱。
家に着いたのが10時半過ぎで、1日満喫した感はあるけど遅すぎない時間帯。
全て計算ずく、と言われれば、そうとしか思えない日程感だ。とは言え
「最初は水族館行くとか、何も言われてなかったよ?」
「サプライズっしょ。」
サプライズ……なのかな?だとしても…
「何でわざわざ?」
「アンタの喜ぶ顔が見たかったんだろうねぇ。」
酎ハイの缶を煽って、カーッ!とおっさんくさい声を上げる友人はとても楽しそうだ。
「でも、別に告白とか、そーゆー事は何もされてないし……」
「ホテルは?」
審神者の言葉が途切れた一瞬の隙を突いて、これまたどえらい単刀直入な質問が飛んできた。
「いっ、行くワケないでしょ!?まだ付き合ってすらいないんだよ?」
首から顔へ、一気に熱が昇ってくるのを感じつつ、叫ぶように審神者は否定する。
「なんだ、てっきり温泉の後お持ち帰りされちゃったのかと……」
「お持ち帰りするにしてももっとマシな子選ぶって!」
さやかちゃんは、事あるごとに「店長私を狙ってる説」を提唱してくる。確かにさやかちゃんの言う通りだったらものすごく嬉しいけれど、それらは全て綺麗な顔と体型で20年間生きて来た人間の発想だ。
だったら何も言わなければいいだけの話かもしれないが、嬉しかった記憶、幸せだった記憶は喜んでくれる誰かと共有したい。あくまで「叶わぬ恋」という大前提のもとで。
自分はただ、店長との思い出を共有して、良かったね、と言って貰いたいだけなのに。
店長の写った写真。あれを見せればさやかちゃんだって、絶対に叶わぬ恋と納得してくれる筈。筈……なのだが、自分から、あんな仲良さげなツーショットを見せるのも自慢するようで気が引ける。少々姑息な手ではあるが、撒き餌を撒いてみることにした。
「見た事ないから分かんないかもだけど、店長めちゃくちゃかっこいいんだからね!?」
「写メないの?」
よっしゃ来た!
食い付きは秒だった。
待ってましたと言わんばかりの勢いで写真フォルダを開いた審神者は
「ほら見て?!めちゃくちゃかっこよくない???」
キレ気味に、クラゲの前で撮影したツーショットを印籠の如く見せつける。
自分は伝家の宝刀を出したつもりだったが、あろうことか友人は微妙な顔で唇を尖らせ
「ただの陰キャなオッサンじゃね?」
身も蓋もない私見を述べた。
「違うの!写真はこの程度……っていうか、この程度って言っても全然かっこいいんだけど、とにかく実物は背も高いし、声も色っぽいし、何もかもかっこいいの!ほんとに!」
「え〜?」
早口でムキになって否定する審神者に、絶妙に腹の立つ表情で眉を吊り上げた友人は
「それ絶対片想いフィルターかかってるって。」
小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「だったらそっちの豊前先輩はどうなの?写真でも実物通り映るの?」
その態度にイラッと来た審神者は、鼻息も荒く詰問するような鋭い口調で問う。
友人は、無言で自身の彼氏、豊前先輩とのツーショットを見せて来た。
……好みのタイプじゃないものの、かっこいいかどうかで言ったら実物そのままのかっこよさだ。
「ま、どっちにしろ、あーしはあんまり好きなタイプじゃないかなぁ……。」
先程の強い言葉を反省してか、友人の言葉尻が少しだけソフトなものに変わる。
「好みの分かれる顔ってゆーか?」
その表現なら、確かに納得だ。店長の容貌は、一般受けするような、キラキラしたアイドル系のそれとは程遠い。
頬のこけた、血色の悪い面長の顔。怒っていない時でも、一見すると怒っているように見える鋭い眼光。眉毛は目頭の方に少しだけ生えているものを残してほぼないし、眉間には大体常に難しげな皺が寄っている。彫りの深い顔の中央に鎮座するワシ鼻と、若干しゃくれた長い顎、固く引き結ばれた口角の下がった唇。
一言で表現するなら、人の形を取った闇。
けど、それが最高にかっこいい。
何より、普段がそんな恐ろしげな容貌であるからこそ、眼光がふと優しく緩んだ瞬間や、眉間の皺が消えた瞬間、口角が持ち上がった瞬間がひときわ輝くのだ。
店長の顔を思い浮かべるだけで、ふへへ、と幸せな笑みが込み上げてくる。友人に店長の見た目をdisられた苛立ちも帳消しだ。
「店長のこと、私だけがかっこいいって思ってるなら最高だなぁ…」
「割とそれに近いと思うし、客観的に見ればアンタがそのオッサンに狙われてるようにしか見えないんだって。」
友人は呆れるように言った。
「そんなこと言われたら期待しちゃうじゃん。」
叶わぬ恋であることを納得させるため見せた写真で、むしろ逆の印象を持たせてしまった事に気付き、審神者は恨めしげな声を出す。
「期待も何も、事実っしょ。」
「でもね、色んな所に連れてってくれて、色々親切にして貰ったけど、さっきも言った通り告白もされてなきゃホテルも行ってないし、本当に恋人的なことは何一つ……」
いや、されている。よく考えたら色々されている。
頬に付いたミートソースを指で直接拭われて、拭ったそれをペロリと舐められたり、手を繋いで歩いたり。さっきのツーショットだって、撮った後「実物の方が可愛い」って言われたし、ガラスの庭園や温泉では沢山写真を撮られた。それに、星空を眺めてて、目と目が合った時、何と言うか、紅みがかった瞳の奥に「男のヒト」を感じた……気がする。
何より、今回のお出かけで自分が使ったお金は、店長がいない時に自販機で買ったお茶の160円だけ。それ以外は全部店長の奢りだ。
デートっぽい。確かに、ものすごくデートっぽい。仮に女性の側が自分じゃなければ、そして相手が店長みたいなかっこいい男性でなければ、最初から最後まで、あからさまに男性の側が女性に好意を寄せているようにしか見えない行動だ。
黙りこくった自分に、目の前の友人が「オラ、心当たりあんならさっさと吐けやゴラ」などとガラの悪い圧をかけてくるので、観念して洗いざらい、ただしできるだけ客観的な事実だけを話した。
「逆に何で付き合ってないの?」
聴き終えた瞬間、信じられないものを見たように眉を寄せる友人。
それは、相手が店長で、自分が自分だからだ。
容姿からしてこんなに格差があるのに、恋愛関係に発展する可能性なんて1ミリもない。
「あーしが思ってたより何倍も脈アリ…っつーか、脈しかないつーか…。ねぇ、マジで何でアンタら付き合ってないワケ?」
「た、多分だけど、店長の方は付き合うとかそういう感じじゃなくて、私のこと子供扱いしてるんじゃないかな?」
だとしたら合点がいく。
例えば、頬のミートソースの一件だって、幼い子供相手なら恋愛感情がなくても同じ事をするだろうし、色々買ってくれたり、奢ってくれたりしたのだって、親戚の子供にするのと同じこと。写真だって、自分がペンギンやアザラシを大量に撮影したのと同じ理由からだと思う。「可愛い」と言われたのは酷いネガティブ発言をして空気を台無しにした後だったし、星空で自分を見る目が熱っぽいと感じたのも都合のいい勘違いだろう。あの時店長は長距離の運転で疲れていた筈で、若干トロンとした顔をしているように見えたのも、疲れのせいと捉える方が自然である。
幽霊の正体見たり枯れ尾花、なんて言葉もあるように、自分が見たのも「好意」ではなく「子供や動物扱い」に過ぎなかった。そういうことだ。
「うーん、アンタがそう信じたいなら、信じてればいいと思うよ。」
友人はチラリとスマホの時計を見て
「日付も変わったし帰るわ。」
どことなく、やるせなさそうな声を上げ、帰っていった。
荷台から、段ボールの最後の一箱を運び出し、倉庫に鍵をかけて車に乗り込む。
レンタカー屋に預けた自分の車を受け取り、帰ってくれば、長かった今日も終わりを告げる。
身体を動かす度、全身のそこかしこの関節からバキバキと悲鳴が聞こえるが、ここ十年来最も充実した時間を過ごした後とあって、不思議と悪い気はしない。
昨日までの自分は、女と行く遊びなど、何が楽しいのか分からなかった。
だから当初は、この小旅行も、あくまであいつを楽しませるため。ただそれだけのつもりだったのだ。それなのに、蓋を開けてみれば一番楽しんでいたのは自分ではないか。
本当にこれで良かったのかと内心首を傾げつつ、審神者も楽しそうだったので良しとする。
軽のワゴンをを返却し、ガソリン代を精算して自分の車に乗り込んだ。
乗り慣れた黒い革張りのシートと、自分の体格に合った運転席。エンジンをかければ、ブオン、と重い唸りが上がる。
あんな車でドライブはもうしばらく…というか、一生御免願いたい。
踏めば従順に反応するアクセルと、滑らかで絹のような乗り心地。
あいつが車云々で態度を変える奴でないことは十二分に分かった。次はこの車でどこかに連れて行ってやれたらいいのだが…。
夜の闇を流線型に固めたような漆黒の車体は、そんな思惑を抱く主人を乗せてテールランプの赤い軌跡を描く。
今にも獲物に飛びかからんとする銀の獣のエンブレムが、街灯の灯りにキラリと光った。
「あーもー、アイツのあーゆー所ほんっとムリ!」
「まぁ、落ち着けちゃ。」
部屋に帰ってくるなり、ベッドの上にあった紫の豹柄のクッションに全てのストレスをぶつけた彼女に、豊前は座るよう促しながら水を差し出す。
「だってさ?こんな時間に呼び出されて、ノロケ話聞かされて、そんだけなら全然いいけどアイツ突然ネガり出すんだよ?意味分かんない。」
大人しく差し出された水を飲みながら、酒のせいとも怒りのせいともつかぬ赤みを頬に浮かべたさやかは、フンっと鼻を鳴らす。
「何言っても『でも〜』『けど〜』『だって〜』ってさ!じゃあどーして欲しいんだっつーの!」
放り投げてしまって手の届く範囲にないクッションの代わりに、思いっきり自分の膝に拳を突き立て、酔っぱらいのギャルは痛みに顔をしかめた。
「相手のオトコは、そんなに速えぇ奴なのか?」
大真面目な顔で聞いてくる彼氏に、ものすごくイラついていた筈なのに少しだけ笑ってしまう。
ウチのダーリンは速さ以外に本っ当興味がない。
「速いかどうかは知らないけどさ、まぁ、ふつーに陰キャのオッサンって感じ?なんか、ビジュアル系とかにいそうなタイプ。」
豊前はふぅんと考え込むように顎に手を置いた。
「でも、お前がこんなにキレるって、よっぽどの事っちゃろ。そんな性悪、どんなにイイ女でも願い下げちゃ。」
眉をしかめる豊前。
「そんなロクでもねぇ奴と無理して友達続けなくたって…」
「ち、違う違う!突然ネガり出す以外は普通にいい子だかんね?」
心底心配そうに見つめて来た彼氏に、慌てて訂正を入れる。
審神者は、いい奴だ。
入学したての頃、見た目や育ちのせいで、あーしにヒソヒソとうるせぇコト言って来た連中を黙らせてくれた。
最初は、審神者自身あーしのコトを怖がってたみたいで、全然それを隠せてなかったけど、それでもあの腑抜けた感じで「育ちの事なんて、どうにもならないのに、ヒドすぎますよね。同じ学部の、お友達なのに…」とか何とか、生温い事抜かしてくるもんだから、秒でコイツは信頼できる奴だなって思った。
最初グダグダ言ってた連中だって、最近はアイツの毒気に当てられたのか、カフェだのカラオケだの誘ってくれるし、何でか分かんないけど、恋愛相談とか持ちかけて来るようになった。ゆーてあーしも豊前先輩が初カレなんだけど。
ネガティブな所さえなければ、あんないい奴いないと思う。多少デブなのも気にならないぐらい、ガチでいい子。
ネガってる時はクソブスだけど、そうじゃない時の笑顔はフツーに可愛いし、同じ学部にも一人、アイツに気のありそうなオトコが居たのを知ってる。ソイツは、アイツの優しさに付け込んでストーカーみてぇな真似し始めたから裏でボコボコにしてやったけど。他の学部にもアイツのコト好きな素振り見せてるオトコは居たし、本人が思ってるほどオンナとしての魅力がないワケじゃない。
なのに、あんな風に勝手にウジウジとネガり出すからムカつく。
ただ、アイツに幸せになって欲しいだけなのに。
アイツのお陰で豊前先輩と付き合えたんだから、今度はあーしが恩返ししたい。それだけなのに。
なのに何であんなに頑なにこっちの善意を拒否ってくんの?
悔しい。マジで悔しい。
「あーしマジだせぇ」
何も言わず抱きしめてくれる彼氏の胸に縋れば、苛立ち、悔しさ、やるせなさの入り混じった感情が、アルコールで緩んだ涙腺からポロポロとこぼれ落ちては先輩のシャツに吸い込まれていく。
「あんまり一人で背負い込むなよ。」
頭を撫でながらかけられる優しい言葉に、更に涙が溢れた。
「さやかは優しすぎんだ。そいつとは、しばらく距離取った方がいい。」
「…どっちみち、アイツこれから一週間連絡つかないから。」
夏休み、帰省の間は審神者との連絡がつかない。というか、去年は送っても未読無視されて、こっちに戻って来た途端何事もなかったかのように返信が来た。
事情を聞くのも悪い気がして何も聞かなかったが、何だか心がザワザワする。
「向こうも久々に会える家族や地元の友達と遊べば冷静になると思うぜ。」
「…そだね。」
本当に、そうなのかな。
自分は、地元や実家がサイコーだから帰省すればバイブスブチアガるけど、去年の帰省明け、最初に会った時の審神者は何だかやつれてた。
ムカつく所はあっても友達だ。
心の底に、うっすらと積もる不安の澱の正体が何なのか分からないまま、さやかは彼氏の肌から香るシトラスの香りを大きく吸い込んだ。
電気を消して布団の中、今日撮った写真を見返す。
明後日から、あいつは地元に帰省してしまう。
一週間以上会えないのはテスト期間以来だ。ボランティアと店長という関係になってからでは初でなかろうか。
少し寂しくはあるが、向こうで過ごす家族との貴重な時間を奪う権利など自分にはない。何より、こちらもこちらで、あいつがいない間にやるべき事がある。
そのためにまずは睡眠だ。
スマホの画面を消灯し、目を瞑る。
……………。
…………………………。
………………………………………………。
眠れない。
身体はこれでもかと言うほど疲れている筈なのに、どういう訳か頭が冴えて全く眠れる気がしない。
少しでも身体の休まる姿勢を探るよう何度か寝返りを繰り返す内に、まだ兄弟と江雪に礼の一つも言っていないことを思い出した。
今日の最大の功労者は、自分なんかではなく色々とアドバイスをくれたあいつらだ。
枕元に置いたスマホのロックを再び解除し、まずは兄弟へ。
〈お陰で楽しめた〉
審神者が特にいい笑顔で写った写真を何枚かピックアップして送る。
次に江雪。
〈心配かけた。今回の相手は大丈夫そうだ〉
こちらには、菩薩のように柔和な笑みを浮かべた審神者の写真を。
抱き枕のように、掛け布団を両手、両足で抱えた状態で落ち着いて、また写真を見返しているとスマホが震えた。
相手は兄弟。送られて来たのは大袈裟に目を飛び出させた少年マンガのキャラのスタンプと
〈おっぱいでけぇ!!〉
の一言。
……もう少し何かあるだろう。そんなんだからいつもミサさんに怒られるのだ。
普通なら、気に入ってくれたみたいだなとか、楽しめたようで良かったとか、容姿に言及するにせよ、明るそうだとか、優しそうだとか、出てくるべきはそういう当たり障りのない言葉じゃないのか。
心の中で悪態をつきながら、送った画像をもう一度見返す。
…………確かに、おっぱいはデカい。
審神者の豊満な肉体の、柔らかなカーブを描く曲線をなぞるように眺め、生唾を飲み込む。
今まで審神者をそんな目で見たためしは一度たりともなかったのに、兄弟の余計な一言のせいでどうしても胸元に視線が吸い込まれてしまう。何という事をしてくれたんだ。
苛立ちを感じながらも、心拍数は上がっていく。ときめきとか、そんな聞こえのいい言葉では表せない、浅ましい感情。
このままではマズい。
直感の命ずる声に従って、スマホの画面を閉じた。
目を瞑って布団に顔を埋め、水族館で泳いでいた魚の涼しげな姿を思い出し、呼吸を整える。
ブリ、マダイ、カンパチ、ヒラマサ、イシガキダイ……
心が、深い海の底の如く凪いでいく。
アカエイ、オニオコゼ、ドクターフィッシュ………
…ドクターフィッシュ……
–ひゃっ?!やっ、くすぐったい!…んっ…ぁはっ!–
その名を思い出した瞬間、水槽に手を突っ込んだ審神者の嬌声にほど近い笑い声と悩ましげな表情がまざまざと脳裏に蘇ってきた。
待て、いけない。ドクターフィッシュ、あいつはダメだ。
瞑っていた目を見開いて、脳裏に浮かんだ邪な考えを振り払うよう首を横に振って仕切り直す。
メジナ、メバル、ホウボウ、ウマヅラハギ、チョウチョウオ……
巻き上がった汚泥のような感情が鎮まり、心が透き通っていく。
ボラ、クエ、ロウニンアジ、ウニ、ヒトデ、…ナマコ………
–えっ、すご〜い!おっき〜い!–
浅瀬を模した水槽から太くて黒いナマコを掴み上げる審神者。
–あっ、意外と硬いんですね!–
掴み上げたナマコの感触を楽しむようにグニグニと弄ぶ審神者。
–あれ?もっと硬くなってきたような………ひゃっ!何か出…–
ナマコが噴き出した海水をモロに浴び、白いTシャツが透け若干肌と下着が…
…ダメだ、もっとダメだ。
余計にバクバク言い始めた心臓を片手で押さえながら、再び目を開け深呼吸する。
一旦思考回路がそっちに行ってしまえば、もう何が何でもそっちに引きずられてしまう。
その時、再びスマホが震えた。
江雪からだろうか?あいつなら、恐らくもう少しマシな返信をするに違いない。
最低な場所で渦を巻く思考の流れを変えてもらえる何かを期待してロックを解除すると
〈何カップ?〉
兄弟だ…。
〈Eよりはデカい〉
少なくとも今まで付き合ってきたどの女よりも…って一体俺は何を送ってるんだふざけるな。
反射的に送信してしまったメッセージを慌てて削除するが
〈すげー!!!〉
ああクソ!
即座に返ってきた返信に舌打ちして乱暴に髪を掻き毟る。
疲れているからだ。そうに違いない。
生物の雄は押し並べて、疲れがピークに達すると「死ぬ前に子孫を残そう」というスイッチが入ると聞く。
今の自分も、まさにその状態だ。
そんな状態で、数少ない「好意的に見ている女」の事を考えたら、こうなるのはある意味当たり前とも言える。
ただ、当たり前だからと言って、あいつにその感情をぶつけて良いということにはならない。たとえ一回でもそんな事をしたら、あいつを今まで通りの純粋な目で見れなくなるのは必至だ。
審神者のことを考えた直後にそんな行為をするのは気が引けたが、恥を忍んで18歳未満閲覧禁止の動画サイトを開く。
あくまでこれは、溜まった欲求を解放するため。便所に行くのと同じこと。あいつとは全く無関係だ。
苦しい言い訳を並べ立てながら、嬌態を見せ付ける女達のあられも無いサムネをスクロールする。
それらは全て、男の欲情を掻き立てるためだけに存在する動画…の筈なのだが、何故かそれらを眺める内に昂りは燃料切れを起こしたストーブの如く徐々に収まり、次第に心は冷静さを取り戻していく。
これなら何もせず眠れるかもしれない。安堵感を抱きつつ、惰性で画面をスクロールしていると一本の動画が目に留まった。
[【Iカップ】爆乳ぽっちゃりJDイチャラブS○X!]
今までは気にも留めていなかった趣向の動画に、消えたと思っていた欲望の火が再びチリチリと燻り始めるのを感じる。
違う、あくまでこれは、たまたま今の気分に合致していたからであって、女優が若干審神者に似ているだとか、まして審神者相手にそういう事をしたいだとか、そういった理由から選んだ訳では決してない。
観てしまったら、もう戻れない、そんな予感に慌てて言い訳を被せる。
大体、多少似た雰囲気でも、あいつとこの女とは全くの別人だ。あいつはこんなにキツい吊り目ではないし、こんなにケバくもない。もっと肌も綺麗で、賢くて、性格も良くて…とにかく、別人だ。
だから、問題ない。それより、無駄に興奮して寝付けなかったり、まかり間違ってあいつをそういう妄想のダシに使ってしまう方がよっぽど問題だ。
一呼吸置いて、猛烈にのし掛かってくる罪悪感を跳ね除け、動画を開いた。
最後に残った理性の「戻れなくなっても知らんぞ」という囁きは、もう聞こえない。
完璧に平常心を取り戻し、心地よい眠気に包まれ始めた頃、再びスマホが震えた。
ぼんやりする意識の中、もし兄弟があれ以上何か言ってきたら流石にキレるぞと思いながらスマホを開く。
相手は、江雪だった。
〈三池くんが素敵なご縁を授かったようで、私も嬉しいです。どうか、末長くお幸せに。〉
微笑むお地蔵さんのスタンプ。
いや、ちょっと待て、別にあいつとそういう関係では…
そう思いながら自身の送ったメッセージを見返す。
〈今回の相手は大丈夫そうだ〉
………今回の相手…か。
とっくのとうに、もう戻れない段階に来てしまっていたのかもしれない。
自重気味に唇の端を歪めながらも、それ以上考える余裕は残っておらず、大典太は深い眠りの中に落ちていった。
ついに帰省が明日に迫ってしまった。
その事実から目を背けるように、ぼーっと見る気もないテレビを垂れ流していたら時間は既に深夜である。
深く、重いため息をつき、手付かずだった帰省の準備に取り掛かる。
クローゼットから引っ張り出してきたトランクに、できるだけ、地味で色気のない服と、ボロボロで穴が空いたり毛玉が出来たりした下着を選び、詰めていく。これだったら、彼氏がいないことは一発で分かる筈。
化粧道具は詰めない。化粧水や、乳液、愛用の洗眼すら。
明日から、長い長い懲役一週間が始まる。
あらかじめ買っておいた鈍行の長距離切符を眺めながら、再び重いため息をつく。
大丈夫、たったの一週間。一週間耐え抜けば、また自由で楽しくて温かい、この場所に戻って来れる。
鼓舞するように自分に言い聞かせて、トランクを閉じた。
パソコンや、本の類は持って行かない。持って行ったところで、触る時間はないから。
絶対に耐え抜く。耐え抜いてまたここに戻ってくる。
そのご褒美も、ちゃんと用意してある。
帰って来た自分の目に真っ先に入るように、審神者は財布から一枚のチケットを取り出して、何もない座卓のど真ん中に置いた。
眠れる気はしないが、明日も早いから寝なければならない。
義務感でベッドに潜り込み、電気を消したはいいものの、案の定、目が冴えて眠れない。
スマホで最推しバンド「重金属凶奏隊 鋼音−HAGANE−」の公式SNSをチェックしたり、鋼音の同担界隈を中心にまとめたリストを遡ったりしながら、徒に時間だけが過ぎていった。
このままだと、睡眠時間が5時間を割ると気付いた頃、もう一度電気を点けてベッドから起き上がる。
仕方ないから、やり残した家事がないか、もう一度チェックしておこう。
部屋の片付け、掃除は終わっているし、窓も全て鍵が閉まっている。充電類も、スマホ用以外は全てトランクに入れた。
冷蔵庫の中も、帰省開けに賞味期限切れを迎える物は何も入っていないし、排水溝のネットもまっさらな新品だ。ガスの元栓も閉めた。生ゴミも、最後のゴミの日に全部出したし、どうしても出てしまったゴミは二重にした袋の口をしっかり縛って捨ててある。
廊下も大丈夫。トイレの換気扇は切ってあるし、サニタリーボックスの中も空っぽ。脱いだままの形で散らばっていたスリッパを入り口の前に揃えて扉を閉める。
お風呂場の確認をするため、入り口に干しっぱなしになっていたバスタオルの下をくぐる。それはあの日、店長から借りたもの。温泉で体を拭いて湿気っていたので、洗濯籠に入れ放置すると雑巾臭くなると思い、乾くのを待っていたのだ。
ふわっと、墨と膠と白檀と、それからムスクの混じったような香りが漂ってきて、ドキリと心臓が跳ねた。
平静を装って、蛇口が水漏れしていないこと、給湯器がちゃんと止まっていることを確認し浴室を出ると、再び鼻腔をくすぐるあの香り。
店長の香りだ…。
ドキドキしながらも、不思議と心が安堵感で満たされ、軽くなっていくのを感じる。
自分しかいない部屋の中、キョロキョロと周囲を確認し、タオルに顔を埋めてスーッと大きく息を吸い込んだ。
ううう、癒される…。
店長に抱きついたらこんな香りがするんだろうか…。
そんな展開になる訳ないのは百も承知だが、深夜のテンションも相まって、つい考えてはいけない事を考えてしまう。
上がった心拍を感じながらしばらくその香りに包まれていると、帰省に向けた重い感情は随分と軽くなってきた。同時に、張り詰めた精神が緩んだのか、待ち望んでいた眠気も襲ってくる。
この香りに包まれれば寝れるかな…?
悪いことだとは分かっている。でも、どっちみちお風呂屋さんではこれで全身拭いてるし、最終的に洗って返すし…。
そんな言い訳で自分を納得させながら、既にパリパリに乾いていたそれを突っ張り棒からシュルリと外し、ベッドの中に持ち込んだ。
こんな事して私、変態みたいだけど…。
丸めたタオルに顔を埋め、大きく息を吸い込んで、店長に優しく抱きしめられている場面を妄想する。
これから頑張って帰省するんだから、これぐらいは許してくれますよね…?
頭の中の店長が「構わん」と言ってくれた気がして、審神者は店長に見立てた掛け布団にぎゅっと抱きついた。
…何だこれ?
重厚でありながら疾走感のある、荒々しくも美しい旋律が鳴り響く音楽スタジオ。
肥前は、次のライブで初披露となる新曲を歌い上げながら、チラリと後ろで四弦を掻き鳴らすベーシストを伺った。
普段もドッシリと腰の据わったいい音を出す大典太が、今日は一段とハリのあるいい音を出している。
表情も、いつものどこか陰りのある卑屈なそれではなく、自身の奏でる音に絶対的な自信を持っているような、まぁ端的に言えば「ドヤ顔」だ。まるで、何か大きな悩みから開放されたかのような…。
曲の中盤に差し掛かり、ベースがメインとなるジェントが始まった瞬間、また肥前は衝撃を受けた。
このパート、こんなド迫力だったか?
ギターの江雪と、ドラムのソハヤも大典太の演奏の変化には気付いているようだが、特段訝しがる様子はなく、時折にこやかな称賛の目で大典太を見るに止まっている。
楽器をやってる連中には分かるものがあるのかもしれないが、ボーカルの自分には分からない。
よほど、人生を変えるような何かがあったのか?
留年して学年が同じなせいで普段は意識しちゃいないが、他のメンバーと違って、自分は一応コイツの先輩に当たる人間だ。
だから、話は聞かないでおいてやる。
一週間後のライブが、面白れぇ事になればそれでいい。
小さくそんな事を考えながら、肥前は鬨の声にも似た一際荒々しいシャウトを叫んだ。