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    温泉スカウトパロまとめよるのやまきつねび星墜つ夜燐火ふたつよそもの
    よるのやま
     お天道さまが眠ったあとは、山にはいってはいけないよ。
     そうでないと山から出られなくなってしまうからね。
     かみかくしにあうからね。いいかい。
     誑かされてしまうよ、誘い込まれてしまうよ。
     帰ってこられなくなってしまうよ。
     でもね、もしどうしてもそうなってしまった時は。
     社に入るんだ。山のあるじの天狗様が、もしかすると守ってくださるだろうから。
     そう何度も祖母に言われていた。物心ついて外で駆け回る頃からのことだ。祖母は昔、くだんの山奥にある社がまだ盛んだった時分にそこの巫女さんだったらしい。もちろん実際に天狗なんているわけもなく、きかん坊の子どもが夜の山で遭難しないようにと言い聞かせる謂わば善意の脅しである。きっとこの村で生まれ育った子どものほとんどが聞いたものだろう。

     いちど、言いつけを破ったことがある。
     破ろうとして破ったわけではない。ただ見たことのない虫――のようなものを見つけて、それを追いかけるうちに。

     かあ、かあと鴉が鳴いているのに我に返って、少年ははっと顔をあげた。すっかり日の落ちた空は夕日の名残を残して暗がりに染まりかけている。慌てて周囲を見渡せば鬱蒼とした木々が並ぶ山の中は同じ時刻の村よりずっと、暗かった。
     ここにきてようやく少年はあれほど言い聞かされていた祖母の言葉を思いだした。しかし帰られなくなるという恐怖よりも勝ったのは祖母や両親に怒られるという恐怖だった。それはもう大目玉を食らうに違いない。急いで元来た道を戻ろうと一歩踏み出す。ぱきり、と乾いた木の枝が折れる音がした。

     来た道を歩いている筈なのに、一向に元の道に辿り着かない。いつもならば子どもの足でも帰ってこられる程度の山である。しかし、いったいどれほど歩いても帰り道に辿り着かない。
     ここでもう一度、少年は祖母の言葉を思いだす。
     ――帰ってこられなくなってしまうよ。
     祖母のしわがれ声がありありと脳裏に浮かぶ。その途端、足ががくがくと震えじわりと視界が歪んだ。ぐすりと鼻を鳴らしてしゃがみ込む。そうしても山から出ることは出来ないのだが。

     しばらく泣きじゃくっていた少年の耳に、奇妙なことに人の声がした。探しに来た大人が自分を呼ぶ叫び声ではなく、くすくす、といった笑い声である。真っ赤に泣きはらした顔をあげれば、目の前であの追いかけていた虫がぽう、と淡く輝きながら羽ばたいている。ふわふわと揺蕩いながら飛ぶ先に、二つの人影が見えた。
    「おや、迷い子だ」
    「ええ、兄者、迷い子です」
     まるで村祭りに着せられるような和服を着た少年二人。自分よりも年上のようだ。一人は切りそろえた金色の髪で、その彼を兄者と呼ぶもう一人は牡丹色の長い髪を三つ編みに結わえている。目を細め、楽しそうにくすくす、くすくすと笑いながら彼らは少年を眺めて、その頭についた白い獣の耳を小さく動かしていた。
     見知らぬ二人に少年が驚いて目を白黒させていると、金髪の少年が一歩踏み出す。その歩みはふわふわとしていて現実味がない。動けない人の子の目の前に立って、ねえ、と声をかけた。
    「夜の山に来てはいけないと教わらなかった?」
     優しく柔らかな声で問いかけられる。その飴色の目はじっと人の子を見つめて視線を外さない。
    「兄者、人の子はすぐに言いつけを忘れちゃうんです。かわいそうです」
    「そうだね、弟。とても哀れだ」
     弟と呼ばれた少年も興味深そうに人の子を眺めながら兄と彼のまわりをくるくると歩き回る。兄の相づちに嬉しそうに笑い、そして人の子の隣にしゃがんだ。
    「本当にかわいそうです」
     つり目がちな琥珀色の双眸が細められる。真に哀れだとは露とも思っていないような、笑みだった。
    「もう山から出られません」
    「あははっ」
     弟の言葉に兄が嗤う。丁度いい玩具を見つけたと喜び、子どもを逃がすものかとその髪を撫で、手を握る。
    「ねえ人の子、オレ達の眷属におなりよ。お前は美しい毛並みをしているね」
    「大丈夫です、兄者は優しいんですよ。過ごす内に大好きになります。いいでしょう? もう帰れないんですから」
     両側から囁かれ、止まない笑い声が恐ろしくて少年は何も言えずガタガタと震えるばかりで答えられない。しかしその様子もこの狐たちには面白い余興らしかった。
    「勿論嫌だと言うならオレ達はどこぞなりとも行ってしまうよ。人の子の嫌がることはしたくないんだ」
    「でも、猪や熊に会えばおしまいです。さっき奥の沢に住む大蛇も見ました。彼らにお話が通じるでしょうか?」
     嬉しそうに二人が笑う。いよいよ恐ろしくなって、人の子が口を開いた。そして、はい、と頷こうと――。

     鴉の甲高い鳴き声が一帯に響いた。

     鋭い一声にばっと顔をあげる。兄が忌ま忌ましげに傍の大樹を睨みあげ、人の子を撫でていた手を離した。
    「弟」
    「はい、兄者」
     弟が眉根を寄せて頷き、二人は立ち上がる。兄は急なことで何も分からずぽかんとしている人の子をじっと見下ろし口を開いた。
    「運がいいね」
     そう一言だけ言い放ち、茂みに消える。がさがさと草葉が鳴る音は一瞬で消え、静寂だけが訪れた。
     わけもわからないまま捨て置かれ、ついに少年はふつりと意識を手放した。

     村の子だ。祭りの時に見たことがある。あの外から来たらしい狐共に誑かされたかと怪我のないことを確かめ、抱き上げる。とにかく眷属が知らせてくれてよかったと安堵の息を吐いた。ばさりと濡れ羽色の翼を羽ばたかせ、一歩、跳ぶ。風を纏い木々を縫い、瞬きほどの時で社に着いた。二人の狛犬が迎え入れてくる。抱いた少年を社の中に寝かせ、夜は誰も入らぬように狛犬に見張りを言いつけた。
     空を飛ぶ。村の麓では大人達が松明を片手に山へ入るのが見える。明け方頃、この社につくだろう。
    きつねび
     不吉な予感を抱かせるような、夕暮れの空だった。遙か向こうに連なる山々へと沈む太陽はどろりと溶けていくように見える。もうあと一刻もしないうちに夜の帷が天を覆うだろう。
     山に人の子がいないかを確かめる。ついこの間にあんなことがあったのだ、警戒するにこしたことはない。あの外から来た二匹の狐はあの日以来姿を見せていないが、気配だけは感じていた。
     ――くすくす、と笑う声が耳に届く。

     鴉天狗が振り向くと、そこにはあの狐が一匹笑っていた。牡丹色の髪を結った“弟”だ。つり目がちな琥珀色の双眸が愛らしく見つめてきている。口元も弧を描いて、微笑んでいた。
    「こんにちは、天狗さん」
    「やあ、野狐くん……弟くん、だったかな。今日は君が迷い子かい?」
     軽い皮肉を言ってやれば、弟狐はきょとんとした顔で瞬きをする。それからぱっと表情を明るくさせて首を振った。
    「そうじゃないんです、オレ、お話にきました」
    「お話?」
    「はい、ここの社を明け渡してほしいんです!」
     弟狐の言葉に一瞬理解が追いつかず、鴉天狗の表情が固まる。そしてぴくりと片眉を上げて、弟狐を睨んだ。
    「なんだって?」
    「兄者がここの山が欲しいと言っているんです。だからオレ、あなたにお願いするために来ました! あ、心配しなくても兄者がちゃあんとこの山を治めてくれます! きっと山も喜んでくれます、安心してください!」
     だから、と弟狐が目を輝かせて鴉天狗に一歩、近づく。菓子を強請る子どものような態度と、それとは裏腹な傲慢ともいえる要求がちぐはぐで、鴉天狗は深い息をついた。純粋に言っているぶん、たちが悪い。
    「そんなこと、するわけないだろう」
    「え……」
     鴉天狗の返した厳しい声に、弟狐の眉尻が下がる。どうしてですか? と悲しげな声と共に、白い耳と尻尾がしゅんと垂れ下がる。断られると本気で思っていなかったらしい。鴉天狗の金色の瞳が、す、と細められた。
    「この社は俺――鴉天狗を祀っている。だから俺にはこの山を守る義務があるんだ。請われたからといって簡単にここを明け渡すわけにはいかないよ。……それに、君たちは人を害するだろう? そんな野狐風情にこの山は渡せない。いいね、分かったらお兄さんに――」
     ぼう、と炎が揺れる。それは狐火、燐火と呼ばれるものだ。何もない虚空に火の玉が燃え上がり、ゆらゆらと弟狐の周りにひとつ、ふたつと浮かび上がっている。
    「それなら、仕方ありません」
     ぴたりと弟狐の笑顔が失せる。琥珀色の双眸がきろりと閃き、目の前の鴉天狗を見つめた。
    「分かってもらうまでお話しないと。どうすれば聞いてくれますか? その真っ黒な翼を燃やせばいいですか? それとも、腕か脚を食いちぎりましょうか? 遊びましょう、鴉さん。ちょっと遊んで、疲れたら……オレのお話、聞いてくれますか?」
     幼さを残す口元が、ニタリと笑みを形作る。しかし先程の無邪気な笑みをとは違う、妖狐の本性を曝け出した笑みだった。燐火が弟狐の周囲を舞い、今にも飛びかからんと燃えさかっている。
    「聞き分けのない野狐だな……いっそ毛皮にしてやれば黙るかい?」
     鴉天狗も目を細め、圧するように濡れ羽色の翼を広げる。その周囲を風が舞い、鋭く鳴った。

     はわわ、と小さな声を漏らす。目の前で今、小競り合いと言うには殺意が高すぎる戦いの火蓋が切って落とされようとしている。
     栗を拾いすぎたので少しお裾分けでも、と社に向かう途中でこれである。鴉天狗のほうは見知った顔ではあるが、あの狐は噂の“外から来た狐”の一人だ。ついこの前、山に迷い込んだ人の子を誑かそうとしてすんでの所で鴉天狗に阻止されたと聞いたが、あの幼い姿のわりに中々物騒である。
    (と、とにかく! 社の狛犬さん達に知らせるべきですね!)
     気づかれないうちに、と忍び足でその場を離れようとする。
    「やあ、美味しそうな栗だね」
     揶揄うような囁き声に化け狸は自分の心臓が一瞬止まった、ような気がした。
    星墜つ夜
     夜明け前、山の中腹に流れ星が落ちたらしい。しかし流れ星にしては異様に輝いていて、それが落ちた瞬間は山一帯が昼のように明るくなった。山の主である鴉天狗も、空が瞬く間に白み、そして徐々に元の夜闇に戻っていくのを社の狛犬達と見たのだった。
    「おう、流れ星にしては些か元気すぎるのう」
    「なんという輝きだったろう! 吽形よ、見に行かないか! きっとまだ落ちたところに燃えさかる星があるに違いない!」
     暢気な吽形とはしゃぐ阿形を宥め、鴉天狗は濡れ羽色の翼を羽ばたかせ飛び立つ。風を纏い木々を縫って、山の中腹に向かった。

     あの光に驚いたか、流れ星が落ちたと思わしき辺りは静まりかえっていた。途中で獣たちが慌てて逃げていく様子を見たので、誰も彼も逃れたのだろう。小さな沢を辿り登った先、山の水源のひとつにそれはいた。
    「……流れ星と思えば」
     どうりであんな輝きが起こったのか、と鴉天狗はそれを見た瞬間悟り、金色の目を細めた。若い不死鳥が一匹、倒れている。極楽浄土を思わせるようなその姿を見るのは、鴉天狗が当代の山の主になって以来、初めてであった。
     輝く後光を思わせる金の髪は汚れ、どこか異国の者じみた貌はぐったりとして目を開かない。不死であるとはいえ、このまま放っておけば山に潜む妖達の慰みものになるだろう。
     山の主である以上、そういった弱肉強食、強い者が弱い者を喰らい、玩ぶことを禁ずることは出来ない。主の役割とは山の理が歪むことがないように見張ることと、村の子ども達を手の届く範囲で守ってやるぐらいだ。もともと妖の類いが集まりやすい山だからこそ、主は全てにおいて公平でなければならない。
     ――のだが。
    「流石に……不死鳥はね」
     目の前に落ちているのは不死の力を持ち、永遠の生を与えることが出来ると言い伝えられている存在である。極楽浄土と地獄の狭間、三途の川を飛び、美しい声で歌うと言われるかの種がどうして、下界の山に落ちてきたのかは分からないがその力が山に及ぶと非常にまずい。守ってきた山の理が崩れてしまうのは明白だ。
    「君、起きて。それとも目が覚めないほど傷ついているのかな」
     傍に歩み寄り、そっと肩を揺らす。その拍子に耳飾りが揺れ、心地の良い音が鳴った。
    「ん……」
     呻き声と共に瞼が震える。ゆるゆると瞼か開かれれば、天を思わせるような青い目が、現れた。
    「おま、えは……」
    「この地の主さ。起き上がれるかい?」
     小石が擦れる音と共に不死鳥は身動きをするが、どこかを痛めているのか顔を顰めて呻くばかりだ。よくよく見れば綺麗だと思っていた身なりも、落ちたときに木の枝に引っかかれたか、地に落ちた時に強かに打ったかで無傷ではないようだった。不死鳥といえど、癒えるのには時間がかかるだろう。
     上半身を起こし、支えてやる。荒くした息を落ち着かせようと不死鳥が身を震わせ、痛みに耐えている様を見守っていれば、頭上で眷属の鴉が一声、甲高く鳴いた。
     それと同時に、周囲から殺気がわき起こる。すぐに飛びかかるというわけではなさそうだが、隙あらばとこちらをうかがっているようだった。一匹だけではない。この不死鳥が纏う極楽浄土の香りを嗅ぎ取った妖達が数匹。
    「――……何の用だ」
     低く問いかければ何匹かは怯んだようだったが、それでも一定の距離を保ったままこちらを見ている。不意にクスクスと聞き慣れた笑い声も聞こえてきて、大きくため息を吐く。
    「君たちもいるのか」
    「綺麗だね、その子」
    「兄者はあの鳥が欲しいんですね。とってきましょうか」
     ああでも邪魔者がいますよ、兄者。つまらなさそうな声に目を細める。
    「失せてくれないか。君たちと遊んでいる暇はない」
    「そう。それじゃあ、少し預かってもらうとしよう」
    「ちゃんとお世話するんですよ」
     笑い声と共に気配が消える。軽く舌打ちをして、不死鳥を見つめた。幾分か落ち着いたのか、息は安らいでいる。
    「……君。少し我慢して、社に行こう」
    「夜の羽根のひと……ありがとう……すまない」
     鴉天狗の呼びかけに、不明瞭な言葉が返ってくる。話は後でといやに軽い身体を抱き上げ、ひとつ、跳んだ。
    燐火ふたつ
     自分達が、いつ化けられるようになったのかもう覚えていない。自分達が面白ければいいのだ。
     ――しかし最近は、本当に面白くない。
    「兄者、兄者」
     懐っこい声で弟狐が兄狐に呼びかける。朽ちた祠で涼んでいた兄狐はゆるりと瞼を開けて声の方を見た。琥珀色の瞳がくりくりとして愛らしい。
    「どうしたんだい、弟」
     兄狐が唇を動かせば甘く艶やかな声が発せられる。それは弟狐にだけ向けられる優しさを孕んでいた。
    「見てください、野兎ですよ」
     弟狐が表情を明るくさせて、右手に掴んだ野兎を見せてきた。それは既に息絶えて、くったりと力なく、ぶら下がっている。それを見ておや、と嬉しそうに兄狐が笑った。
    「狩ってきたのかい」
    「はい。追いかけっこしたんです。追いついたら兄者に食べて貰おうって」
     にこにこと笑う弟狐はどこか誇らしげだ。十中八九、この哀れな野兎にとってはまったくもって承諾しかねる戯れだったろう。追いかけっこと称して限界まで追い回された挙げ句、命を奪われて喰らわれてしまうのだから。しかしそれを悪いと思わないのが化け狐の倫理観である。弱い者は強い者に嬲られて当然。
    「かわいい野兎です。きっと美味しいですよね」
    「ああ、きっとそうに違いないよ。……こっちにおいで、弟」
     兄狐に手招きされて、いそいそと弟狐が祠への段差をあがる。お座りよ、と命じられ野兎を抱いたままちょこん、とそこに座った。兄狐のすらりとした指が牡丹色の結った髪を撫で、髪飾りを解く。
    「兄者?」
    「きっと追いかけっこの時に乱れたのだろうね、結い直してあげるよ」
     兄狐の言葉に弟狐の白い耳がぴくりと動き、二対の尻尾も嬉しげに揺れる。慣れた手つきで髪を整え、三つ編みに結い直す兄狐の指が心地よいと弟狐は琥珀の目を細めるのだった。暫くお互いに無言になる。朽ちた祠のまわりは静かで、梢が揺れる気配以外なにもない。ここしばらくは、自分達と言葉を持たない獣以外、ここを訪れなくなっていた。少し前まではこの祠も、麓の村の者が手入れにやってきては今年の作物です、うかのみたまさま、その眷属さま、と供え物を持ってきたのだが今やもう、誰も訪れない。祠は朽ち、苔むして、麓からここまでの参道も岩がごろごろと転がって荒れ果てている。
     山を駆ける子どももすっかり、見なくなった。それと同時に自分達が何の役目でここにいたのかも朧気になっていき、弟狐もどこか、変わっていった。それがいつからなのかも覚えていない。なんにせよ兄狐にとっては大切な弟だ。こうして無邪気に遊んでいるのならばそれ以上に幸いなことはない。――ただ。
    「ねえ、弟」
    「はい」
     そっと呼びかける。大人しく、嬉しそうに野兎の耳をさわさわと触っていた弟狐の耳が兄の声を聞き逃すまいと動く。髪飾りを結びながら、兄狐が笑う。
    「この山で暮らすのに、飽きてはいないかい」
    「?」
     兄狐の問いかけの意図が掴めず、弟狐は思わず首を傾げる。こら、まだだよと窘められて慌てて姿勢をなおした。
    「人の子がここを訪れなくなって数百年。こうして野兎を追う毎日は退屈ではないかい。オレは、ここのところ少し思うんだ。この山を出ればもっと……もっと住み心地のよい山があるんじゃないかとね」
    「山、を……?」
     琥珀色の双眸を瞬かせて、弟狐は兄狐の言葉を理解しようと考える。この静かな山の他に、住む世界があるだなんて思いもしなかった。永遠に誰も訪れなくなった山で兄狐と二人で暮らしていくのだと思い込んでいた。
    「オレは」
     どうにか答えようと、喉を鳴らす。兄狐はじっと、弟狐の答えを待っているようだった。
    「オレは、兄者と一緒ならどこでもいいんです」
     ふわふわとした尻尾が揺れる。そう、と兄狐は嬉しそうに笑った。

     満月の夜、朽ちた祠の傍、麓を見下ろせる大樹の一番高い枝に二人。
     飴色の双眸と、琥珀色の双眸が村のあったであろう場所を見下ろす。そこは既になにもなく、ただ数百年前にはなかった湖が、静かに水面を光らせていた。
    よそもの 森のものではない、暴力的な音が耳に飛び込んできた時にはもう遅かった。鋭い痛みが脚に食らいつき、弟狐は短く悲鳴をあげて、その場にどう、と倒れた。
     脚に虎挟みの鋭い歯が食い込んで、そこから血が流れていくのを感じる。あまりの痛さに立ち上がることも出来ない。
    「あに、じゃ……」
     いつも笑顔を絶やさない弟狐も流石に顔を顰め、ぼろぼろと涙を流しながら運悪く共にいない兄狐の名前を呼ぶ。痛い、痛い、となんとか逃れようとすれど余計に歯は脚に食い込み、悲鳴とも呻きともつかない声が漏れた。

     痛みと屈辱に動けずにいると、がさがさと茂みが鳴った。獣か、それともこの罠を仕掛けた猟師か。いずれにしても罠にかかった哀れな野狐を放ってはおかないだろう。兄者、ごめんなさい、こんなつまらない罠にかかってしまって。後悔の念を抱きながら身を固くする。猟師に捕まれば毛皮をひん剥かれて、あとの肉はそこら辺に棄てられるのだろう。それを兄者が気づいてくれるだろうか?
     土の踏む音がして、それと同時に何かが息を飲む音が聞こえた。この気配は人間だと考えていると、聞いたことのない言葉が聞こえてきた。
    「Как ужасно!」
     少し怒ったような低い声色とさっぱり分からない言葉に弟狐が身を震わせる。現れた者が自分の傍にしゃがみ込む気配を感じながら、弟狐はそっと目を開けた。
    「かわいそうに、すぐとってあげるからね」
     次に聞こえてきた言葉は理解できたが、どこか訛りを感じる。ギィ、と鈍い音がして脚に食らいついていた歯から開放され、痛みが和らいだ気がした。ううん、どうしようかな、と少し困った声、そしてバキ、と何かが壊れる音と、鉄の破片が散らばる音を耳にしながら弟狐はついに意識を手放したのだった。

     脚に痛みが走る。たまらず声をあげて脚をばたつかせれば、ごめんよ! と焦った声が聞こえてきた。狐を苛めるだなんて、どうしてやりましょうとぼやける琥珀色の目で気配の方を見る。そこには男がいて、深く青い目でこちらをじっと見つめていた。その髪は長く、冷たい月のような銀色をしている。見知らぬ顔だ。村の人間ではないだろう。
    「ごめんね、痛くして。でも少しだけ我慢出来るかい? いま薬を塗るから」
     低く柔らかな声と共に頭を撫でられる。がっしりとした手の感覚は害意を感じない。どちらにせよ痛みが強い今は動けそうになかった。いったい、何をされるのかと耳を伏せながら鼻を鳴らす。すぐに何かを塗られ、全身の怪我ぶわりと逆立つが、もう少し我慢してねと何かを巻かれる。不思議と痛みが和らいでいくのを感じて尻尾を揺らせば。よし、と嬉しそうな声が聞こえる。
    「もういいよ」
     男の声にのろのろと起き上がる。気がついてみればここはあの鴉天狗の社らしい。本殿入り口の階段に寝かされていたようだった。――それはそれで、あの鴉に見つかれば厄介なのだが。

    「村に住むってテングサマ? にご挨拶に行きなさいって言われて来てみたら、君を見つけたんだ。ひどい怪我じゃなくてよかったよ」
     ふふ、と笑う男を弟狐がじっと見上げる。やはり異国の人間のようで、青い目を興味深そうに輝かせてこちらを観察している。そうだ、と何か思いついたように呟いて、首を傾げた。
    「キツネくんはテングサマを知ってるかい? 挨拶をしたいんだけど」
     あの鴉天狗が人間に姿を見せるものですか、とふす、と鼻を鳴らす。小馬鹿にしたような視線を感じ取ったのか、青い目を丸くさせ、それから男は肩を揺らした。
    「ごめんごめん、キツネくんは分からないよね。オレも……ここに来たばかりだからよくわからないけど。社をぐるっと回ってみて、いなかったら――」
     そう言葉を切って、男が視線をあげる。弟狐も親しい匂いにぴん、と耳が立った。兄狐だ。境内の灯籠の傍で、一匹の美しい獣が佇んでいる。兄者、と弟狐の尻尾が揺れた。
    「君の家族かな? ……それならさようならだ、もうあんな罠にかかるんじゃないぞ」
     男の声が終わるや否や、弟狐がのろのろと歩いて行く。兄狐はひどく神経質に尾を振って、弟狐が歩み寄るや否や、
    「ああ、弟! 心配したんだよ!」
     と弟狐を抱き寄せたのだった。ごめんなさい、と涙声で謝る手を引き、早く帰ろうと歩き出す。されるがままに手を引かれたが、弟狐はちらり、と本殿の方に視線をやった。そこには、嬉しそうに自分達を見ている男がいる。
    (変な人間)
     じ、と琥珀色の視線を向けたが、しかしすぐに、弟狐も茂みに飛び込んだ。

    「ニホンのキツネは、尻尾が二つあるんだなぁ」
     二匹の狐が去った後、そう暢気に呟き、さて、と暮れゆく空を見上げる。どうやらこの山は夜までに出なければいけないらしい。テングサマへの挨拶はまたにしようと決め、異国の青年は立ち上がった。


     天狗は実在の人物じゃないよ! とここに住む手配をしてくれた友人に盛大に笑われ、来たばかりの国の不可思議さになるほど、と頷く。ここに引っ越して数日が経つが、まだ村の住民は自分を警戒しているようだった。それでも、まだ慣れようとしてくれているのは友人のおかげであろう。
     古民家は庭もついて、ちょっとした畑も作れるようになっている。せっかくだし何か育ててみるか、と考えながら夜に涼んでいるとがさり、と茂みが揺れた。猪だろうか、と視線を向ける。
     もう一度茂みが揺れる。そこから現れたのは少年だった。ライラックの花の色に似た髪を結って、不思議な服を着ている。琥珀色の双眸がじっと、青年を見つめた。
    「こんな遅くに子どもが出歩くものじゃないよ」
     青年が眉を下げる。どこの子かな、と首を傾げれば、少年は足下にどさりと野兎の骸を落とした。それから川魚に桑の実も。
    「お礼ぐらいはしないと、目覚めが悪いったらありません」
    「――……え?」
     拗ねたような少年の声に困惑しながら、彼をじっと窺う。その足首には包帯が巻かれていて、それを見た青年はまさかと切れ長の青い目を丸くさせたのだった。
    くろてら Link Message Mute
    2022/08/06 7:28:36

    温泉スカウトパロまとめ

    ノリと勢いで書いた温泉スカウトの妖怪パロSSのまとめ。
    気が向いたらもっとなんか書くかもです。予定は未定。
    晃星、ラビ朝、ノアさんと朝陽君の百合成分があります。
    #二次創作

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