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    ラビ朝まとめ  (9/13更新)藤に少年どこへでも休符今宵必殺のカウンター・トリート深夜零時過去と未来の痕クレッシェンドの予兆十一月後半のこと朝に捕らえられているひと悩みはつきない流星とモラトリアム冬でいいわけ熱帯夜に歌わるいひとの真似をしてわけあうアジタートのちクイエート肉を焼く調律ハンドクリームあなたのおとステーションピアノおにさんこちら或いはハッピーエンドゆめみるリボンなるために自覚休日の予定通り雨猫とあなたおねだり図書館独占欲あまりにも透明な七夕風習本当にのりすごせたならば金木犀夜更かし季節の変わり目かりかられいくじなしのクリスマスつめたくてあたたかいひとこたつむり執心旧正月アトリエにてノラふち
    藤に少年
      早朝からの撮影も無事に終えて、移動までまだ時間があるので自由行動にしましょうとプロデューサーが言った瞬間に土産屋に走って行ったレオンと、悪態をつきながらも追いかけるリュカの背中を見送る。途中で見かけたらしい和菓子屋に行ってみるよとどこか上機嫌なリーダーの背中も見送った朝陽はどうしましょうか、とあたりを見渡した。もう一度、撮影場所を回ってみようか。ふと思い立った。
     今日の撮影場所は藤の名所。穏やかな春の陽気のなかで高くから枝垂れる藤の花が揺れる。迷路のような庭園を彷徨っては足を止めて、降り注がんばかりの花にきれいですと小さく息を吐く。しかしふと視界の端で影が動くのを認めて、なんだろうとそちらへ足を向ける。
    「ラビさん?」
    「ああ、朝陽?」
     鉢合わせた彼ももう一度見に来ていたらしい。自分よりもずっと大きな背丈のラビは、カーテンのような藤の花に覆われている。
    「ここはいいね、とっても綺麗だ」
    「そうですね」
     朝焼けを閉じ込めたようなシルバーアッシュの髪のそば、そこに触れるか触れないかの位置に薄紫の藤があって、朝陽はそれが髪飾りのようだと錯覚しそうになる。背の低い仲間に顔を向ければさらりと流れる長髪に、薄紫が寄り添っている。寄り添ってくるそれを穏やかな顔で眺めてから、ふとラビが朝陽を見下ろした。
    「そこにベンチがあるけど、座るかい? 今日は結構早くてハードだったから疲れたんじゃないか?」
    「……」
    「朝陽?」
    「あっ、いえ、大丈夫です……このままで」
    「そう?」
     朝陽の意図をはかりかねるように首をかしげるラビに、思わず俯いて三つ編みを弄ろうとする。そばにあった別の白い藤に気がつかず、房が指に触れた瞬間に慌てて手を引っ込めた。頬の赤みが引かないまま、ラビとも視線を合わせられない朝陽をまじまじと見つめて、それからラビは小さく呟く。
    「髪飾りみたいだ」
     朝陽の髪に白い藤はとても似合うね、とラビが微笑んでいつものようにくしゃりと頭を撫でてくる。ゆらゆらとからかうように藤が揺れる気配がした。
    「ラビさんも」
    「ん?」
    「……薄紫の藤が似合ってます」
    「……なんだか照れるよ」
    「先に言ったのはラビさん、です」
     いよいよ林檎と見間違うほどの赤い顔で朝陽が珍しく言い返してきたのに、それを聞いたラビはくすくすと笑い声を漏らした。
     集合時間まで、あと一〇分。
    どこへでも シェアハウスのガレージには送迎用のリムジンが停めてある。正確にはノアの車だ。更に正確に言えば彼の執事のセバスチャンが運転するので、ノアの私物だ。その傍らのスペースには、一台の大きなバイクが停められている。これは、故郷から連れてきたラビのバイクだった。
    「ラビさん」
     初夏の昼下がり、オフ日であるラビがガレージの前で愛車を洗っていれば少し遠慮がちに声をかけられた。 手を止めて振り向けばそこには予想通り、朝陽がいた。桃花色の三つ編みを揺らして、 じっとバイクを見つめている。
    「どうした?」
    「あ、あの、喉乾いてないてすか……?」
     今日は暑いてすし、ともごもごと口の中で言葉を転がしながら遠慮がちに差し出すペットボトルと朝陽を交互に見て、思わず笑みが零れる。確かに今日は今年一番の暑い日で、立ち上がった途端に額に流れる汗を自覚したラビはぐっと手の甲で拭った。
    「うん、そうだね……ちょっと休憩しようかな」
     幾らか涼しいガレージの中に入り、ラビが座る。おいで、と手招きすれば隣に座り込む朝陽の頭をつい癖で撫でようとしたが手に少しばかり油が付いていることを思い出して、止めた。そこらに置いてタオルで軽く手を拭いて、大きく息を吐く。暑いね、と。
    「どうぞ」
    「ありがとう」
     朝陽が差し出したペットボトルを受け取り蓋を捻る。朝陽も持っていた自分の飲み物を口に含みながら、興味深そうにバイクを眺めている。
    「……気になる?」
    「あ、はい···……すみません」
     別に謝る事では無いのに、謝罪の言葉が出てくるのは朝陽の困った癖で。いいんだよ、とラビが笑って首を傾げれば、朝陽はほっとしたように身体の力を抜いた。
    「……·ラビさんは」
    「ん?」
    「日本に来る前にもバイクに乗ってたんですよね」
    「……そうだね、うん。こいつとは結構長い付き合いになるな」
     どこまでが話すことが出来る境界線かを探りながらラビが頷く。いつから、どうやって、なんのために。後ろ暗い過去はこうやって今も自分の背中を小突いてくる。蓋を開けてみればきっとなんて事はない、ただそうしたかったからとしか言えないのだけれども、そう片付けてしまうのは、ラビにとっては憚られる事だ。
    「すごい、 です」
    「そうかなぁ」
     恐らく、というよりは確実に純粋な気持ちで言ったであろう朝陽をラビはちらりと見やる。ばちばちと瞬きをしては大きな車体を見つめているその様は、例えば小さな男の子が通りがかったパトカーやら消防車に憧れを抱きながら見ているようなものと同じだ。
    「だって……どこへでも行けます」
     どこへでも。自分もそうだと思っていたけれども、結局どこへも行くことが出来なかった日々を思い出す。
     その気になればどこへでも行ける筈だったのに、実際はあの古い家とバイカル湖を往復する為に乗っていたことが殆どで、たった一時間と少しの距離を何度も繰り返していた。しかしそうやって何度も繰り返すうちに、ラビの運命は知らず知らずのうちに加速していったのだろう。彼に出会う為に、繰り返していたと思いたい。
    「朝陽」
    「は、はい」
    「どこに行きたい?」
     もしコイツに乗れたら。ラビに視線と問いを投げかけられて、朝陽は僅かに戸惑いながら目を瞑る。
     暫く逡巡した後、目を開ければやはり大きな車体が視界に入った。持ち主に手入れされているそれは陽光を受けて、誇らしげに輝いている。
    「…海は、どうでしょうか」
    「海かあ」
     いいね、行こうか。後ろに乗せるからさ。のんびりとしたラビの声が朝陽の鼓膜を震わせる。
     思わぬ提案に朝陽がラビを見上げる。コバルトブルーの目を楽しそうに細めているのに、はっと息を飲んだ。
    「え……これって二人で乗れるんですか?」
    「うん」
     ヘルメットは被ってもらうけどね。そう付け足しながらラビがよいしょ、と立ち上がる。軽く埃を払い、そしてその大柄な体躯で伸びをすれば、朝焼けを閉じ込めたような銀の房が揺れている。
    「行きたい、です」
    「うん、 行こう」
    「……ラビさん」
     まだここで見ていてもいいですか。朝陽の小さく請う声にラビが顔を向ける。勿論、大丈夫だよと小さく肩を揺らして再び、ラビは愛車と向き合った。
    休符 揺らいでいたものが、徐々にピントがあっていく。いよいよという時期にラビはよくそんな感覚を覚えた。各々の練習から始まって、それから音を合わせていく。大体そこでレオンとリュカが言い合って、朝陽も控えめな様子で意見を伝えてくる。標識の無い枝分かれした道を進んでは戻る。そうしてやっと一筋が見えてくる。いつもそんな調子だった。
     全身でリズムを刻む。逸らずに乱れずに大胆に、心をのせて。目の前で音を奏でる四人を見つめながら。
    「っ……」
     目を伏せながら鍵盤を叩く朝陽が目に入る。全身でリズムをとりながら自らのパートを演奏する彼の表情は真剣そのものだった。唇が微かに動いているのは、歌っているからだろう。彼がつと顔を上げれば一筋の汗が流れるのを認めて、ラビはほんの一瞬、心が揺れた気がした。
     
     休憩しようか、とノアが告げれば張り詰めていた空気が柔らかくなる。リュカは相変わらずベースを離さずに楽譜と睨めっこしていて、レオンも覗き込んで何やら話している。暑いねと笑って窓を開けるノアの練習着は少し汗ばんでいる。ラビは足下に置いていたスポーツドリンクを掴んで口に含む。自分の背中にも汗が流れているのに気づいて、目でタオルを探した。
    「ラビさん」
     呼びかけられてそちらを向く。まだ少し肩を上下させながら、朝陽がタオルをこちらに差し出していた。
    「ああ、ありがとう。朝陽」
    「いえ……」
     新しいタオルを受け取り、首の汗を拭き取る。さっきまで熱気が籠もっていた部屋は、ノアが窓を開けた事で幾分か涼しくなっていた。
    「どう、でしようか……」
    「ん?」
     ショルキーを立てかけて汗を拭いた朝陽が不安げな声を漏らす。顔を流れていたそれもひいて、幼げな顔、その頬に熱を残すだけだ。その表情もどこか浮かれないのに、ラビは首を傾げた。
    「良かったよ」
    「……でも、まだまだです」
    「それはオレもだよ、朝陽」
     そんなことないです、ラビさんも皆も、と言いかけた朝陽が口を噤む。それから言葉を探すように視線を泳がせて、それから手にしていたタオルを握りしめた。
    「オレは他の皆よりは見える場所にいるから」
     ラビが静かに口火を切る。朝陽が小さく首を傾げて、ラビを見つめた。
    「朝陽、さっきは凄くいい顔をしてたよ。真剣じゃないと出来ない顔だったと思うな」
     なんだかドキドキしたよ。と笑うラビの言葉に朝陽の頬が赤らむ。
    「か、からかってる、ラビさん」
    「まさか」
     真剣な奴をからかうもんか。はっきりとそう告げて、それから過去を思い出す。何に対しても捻くれた目でしか見なかった自分が気恥ずかしさを伴いながら通り過ぎる。軽く俯いて、ラビはゆっくりと息を吐いた。
    「不安になったらオレを見てよ」
    「見る……」
    「あっ、オレじゃなくてもいいけど。レオンは絶対目を合わせてくれるし、リュカもノアもちゃんと朝陽を見てくれる。演奏してる時に怖くなったらオレ達を見て。そうしてくれたら、オレは応えたい」
     代わりにオレが朝陽を見たら、楽しいって、大丈夫だって、笑ってくれる?
     ラビの言葉に朝陽の瞳がぱちりと瞬く。それからゆっくりと頷くのを見て、ラビは安堵する。
     それじゃあ始めようかとノアの声が聞こえてきて、二人は我に返る。ペットボトルを置いてショルキーを持ち上げる朝陽の背中は、さっきよりもずっと柔らかな雰囲気を纏っていた。
     まさかあるとは思いもしなかった。
    「これって……」
     学園の図書室には様々な雑誌のアーカイブがざっと五年分保管されていた。今度自分が撮影を控えているenen 、ノアが載ったTEENも例に漏れず、ずらりとひしめき合っている。そんな中でピンポイントにその号を引き当ててしまったのは運命の悪戯で無いとするならばなんと言うべきだろうか。
     らび、さん。息を飲んで呟く。見開き二ページのちょっとしたスペースだ。それでもきっと当時は目をひいただろう。書かれている年齢にしては大柄で大人びた顔をした銀髪の少年が、軽く泥のついたモッズコートを羽織ってカメラに視線を向けている。殆ど睨み付けていると行って良いかもしれない。コバルトブルーの瞳は冷め切っていて、媚を売るつもりなどさらさら無いと言いたげな仏頂面、その頬には青黒い痣がくっきりと主張している。よくよく見れば左の目元には切り傷がある。今の今まで刃物も交えた喧嘩をしていましたよと、どう繕っても隠せない生々しい痕と圧が所謂読モページの爽やかさからはかけ離れた異様さを醸し出していた。
    「……」
     ぽかんと口を開けて今や過去のラビを見つめる。普段一つ屋根の下で過ごしている彼は基本的には穏やかで、確かに中々起きられない朝だとか時折飛び出してくる物騒な発言は確かにどきりとする事はある。ただ黎朝陽にとってのラビは優しく穏やかで、つい頼ってしまって、たまに寂しそうな目をしているのもいつかオレに話してくれるだろうかと思わざるを得ないほどで。そこからは全く想像出来ないほど、過去から自分を睨み付けている彼は、冷たく、荒っぽく、痛々しく、そしてどうしようもないほど寂しげだ。
     頭の中で様々な考えがよぎる。その中には憶測も含まれていて、だから考えてももう仕方の無いことなのかもしれないとも思えた。
    「……でも、かっこいい、です」
     指先で過去を撫でて思わず呟く。本人に言えばきっと困った顔で首を振るのだろうなと浮かんで、小さく息を吐いた。
     
    「……ちゃおやん?」
     数分前から受けていた視線にいよいよ耐えられずにラビが向かいのソファに座っていた朝陽に声をかける。
     どうしたの、何かあった? と探るように聞けばハッと我に返ったのか、ご、ごめんなさいとか細い声が返ってきた。それでもすぐに逸らされると思っていた視線は未だにじっとこちらを見つめている。困惑したラビがうーん、と小さく首を傾げれば、朝陽が身を乗り出して手を伸ばしてきた。指先の温かさが、頬に伝わってくる。
    「もう痛くないですか」
    「へっ?」
    「あっ」
     肩を跳ねさせてしまったといった顔で朝陽が手を引っ込める。なんでもないです、ごめんなさい、オレもう寝ますね! と早口に告げて勢いよく立ち上がり、ついでにローテーブルに足をぶつけて呻きながらリビングを出て行く朝陽にラビの声は届かない。
    「……なんだったんだ?」
     コバルトブルーの双眸がぱちりぱちりと瞬く。朝陽の指先の感覚をなぞるように自分の頬に触れる。
     もう、痛くないですか。
     ここ最近はこんな所に怪我なんてしていない筈だ。アイドルになった以上、顔に傷をつけるのは好ましくないというのは分かっている。もう昔の、傷ついても平気な頃の自分ではいられないから。身体に所々残っていた傷も随分薄れてきていた。
     思い当たる節が無い、朝陽の勘違いかもしれない。それでも何かを心配してくれていた事が素直に嬉しくなって、それと同時にさっき鈍い音がしたのを思い出す。痣になってなきゃいいけどと考えて、朝にでも聞いてみようとラビは、ゆっくりと席を立った。
    今宵必殺のカウンター・トリート
     ねえ朝陽。Сладость или гадость。
    「す、ら……?」
     満月照らす帰り道、母国語で言ってみたのはほんの悪戯心。困った顔で眉尻を下げてこちらを見つめる黎朝陽をまじまじと見つめて、それからラビは口角を上げた。
    「トリックオアトリートって意味だよ」
    「あぁ……なるほどです」
     ごそごそと鞄から取り出したのは南瓜色の銀紙で包んだチョコレートだ。きっとこの日の為に用意していたのだろうそれは、あといくつ残っているのだろうかと考える。ありがとうと受け取って、銀紙を剥がし口に放る。甘ったるい味が舌の上で溶けた。
    「……もっと欲しいな」
    「ラビさん?」
     珍しく強請るラビに驚いて、朝陽がきゅっと鞄の持ち手を握る。透き通るようなコバルトブルーの瞳がじっと自分を見つめてくるのに、少しばかり目眩がした。湖のような瞳だ。穏やかで、深くて、落ちていきそうな。
    「あと何個持ってる?」
     お菓子。あといくつ食べたら朝陽に悪戯出来るかな?
     楽しそうな声が落ちてくる。らしくない、子どもっぽい調子で甘えてくる恋人に、心の底がかき回される。
    「あ、あと……三つです」
     掌にカラフルな銀紙を三つ乗せて朝陽がおずおずと差し出す。三つかぁ、と満足そうに笑うラビに、これが全部食べられるとオレは悪戯されてしまうのでしょうかと鼓動を早めて、それからどうぞとか細く言ってみれば大きな手が一粒、それを摘まんだ。
    「朝陽」
     恋人の名前を呼んでみる。母国の発音ではないそれはラビにとってどこか心地良い発音だった。呼びながらチョコレートをその柔らかい唇に近づけてみれば、顔を赤くしてうろうろと視線を彷徨わせた後でぱくりとそれを食べる。甘い味に少しほっとした様子で、もぐもぐと頬を動かしていた。
    「あと二つだね」
    「……は、い」
     ラビの声にこくりと頷いて、夢見心地で掌のチョコを見つめる。先程よりも明らかに上がった体温でこれが溶けてしまわないだろうかと心配して、それからふと。
    「……ラビさん」
    「ん?」
    「不給糖就搗蛋」
    「……なんだって?」
    「トリックオアトリート、です……」
    「……」
     ラビがしまったという顔で鞄の中を漁る。勿論ある程度は朝に用意はしていたのだが、いまとなってはどうしたことかアメ玉一つすらない。
    「ラビさん」
    「えーと、朝に渡してなかったっけ」
    「ラビさんより早く起きて学校に行きました。今日は当番だったから」
    「そうだったね、うん」
     ラビさん、不給糖就搗蛋。先程までか弱げにチョコレートひとつで赤くなったり目を潤ませていたりした彼はどこかに去ったらしく。珍しく主導権を握れるのではと琥珀色の瞳をまっすぐにこちらに向けてきて、今度はラビが視線を泳がせる番だった。
    「ラビさん、ハロウィンにお菓子持ってないと……悪戯されます」
    「うん、そうだね……一応持ってたんだけど」
    「今オレ以外に言われたら悪戯される所でした、ラビさん」
    「わざわざオレに悪戯する奴っていないんじゃないかなぁ……」
    「ハロウィンだからする人はします」
     オレみたいに。どこか不穏にも聞こえる声に、え、とラビが首を傾げる。不意に頬に手を伸ばされて、そのままぐい、と引っ張られる。よろける身体でなんとか踏みとどまればその瞬間、柔らかいものが唇に触れた。
     甘い。ああ、キスだ、これ。
     ゆっくりとその感触が離れて、顔を真っ赤にした朝陽がじっと見つめてくる。
    「……オレだって、します。悪戯」
    深夜零時
     イヤフォンを耳にさして、再生ボタンを押す。どこかのライブハウスだろうか、少し埃っぽそうな場所が映っていた。カメラはドラムスローンに座っている男の背中とドラムセットを斜め後ろから見下ろしている。自分よりも大柄な背中に、朝焼けみたいな銀色のウルフヘアーが腰のあたりまで流れていて、跳ねた髪に覆われて僅かにしか見えない横顔は少し考えているような様子を見せていた。
     くるくるとドラムスティックを指で回しながら、そして何かを決めたように姿勢を正す。それから彼は持っていたものを握りなおして振り上げた。
    「……」
     それから五分間、黎朝陽は呆けた顔でスマホの画面を食い入るように眺めていた。
     がっしりとした身体を揺らしながらリズムを刻む彼を、心を掻き乱されながらじっと見続ける。長い髪が跳ねる。時折遊ぶようにスティックが宙を舞って、それでも止まることはない。一種の暴力じみた音がイヤフォンから伝わってくる。
     
     ――You were awake. Isn't it time for the date to change? 
     何回かその動画を再生して、やっと「いいよ」を押した数分後に来たメッセージに黎朝陽はどきりと心臓を跳ねさせた。
     彼も起きていたのだ。
     
     ――Yes. Just when the date changed.
     
     ――But if you stay up late, you'll oversleep tomorrow, right?
     ――I can't sleep much at night.
     ――Actually, I too.
     
     お互い辿々しい英語でやりとりをする。数日前に知った彼の本名をそっと口の中で呟いた。
     ラビ、ラビさん。北国の同い年の人。顔は分からない。小柄な自分よりも大きくて、シルバーアッシュの長い髪を持つ人。
     
     ――Rabi.
     ――?
     ――The video was very nice.
      ――射射
     
     送られてきた漢字にぱちりと瞬きをして、思わず笑みがこぼれる。言いたいことは分かる、ほんの少し惜しいだけで。
     
     ――謝謝
     ――sorry.
     
     今、あの動画に映っていた彼はどんな顔をしているのだろう。
    過去と未来の痕
     本を読んでいる、だいすきな恋人の右耳に小さな痕を見つけた。
    「……」
     思わず手を伸ばして、そこに触れる。耳朶の真ん中の小さな痕。流石に気づいたのかページをめくる指を止めて、恋人はこちらをじっと見てきた。柔らかなふちとは対象的に、その部分は少し硬く、閉ざされている。
    「ちゃおやん?」
    「……」
     ふにふにと柔らかなそこを指で摘まんでは揉んでみる。くすぐったいよと肩を揺らすラビとは正反対に、朝陽は真剣だ。真剣な目で、恋人の耳を触っている。
     それからややあって、静かに口を開いた。
    「ラビさん」
     これって。
     解答を言いかけた朝陽の唇に指を乗せる。もう片方の手は耳に触れたままの朝陽の手をするりと撫でて、そのままそっと手の甲に掌を重ねては軽く握った。
    「あっ……」
     我に返った朝陽の頬が一気に赤くなる。すみません、オレ、そんなつもりじゃともごもごと言い訳のような言葉を口の中で繰り返すのをじっと見て、ラビは笑みを浮かべた。
    「隠してるわけじゃないけどね。ピアスの痕」
     回答を口にしながらラビはそのまま自らの指で、すっかり塞いでしまった穴を懐かしむように触れる。そういえば最後にこの穴を塞いでいた銀色のピアスはどこにやっただろうか。故郷イルクーツクの古びた我が家、自室の机の中だったか。ここに来る直前に外してきたそれはきっと暗闇で鈍く光っているだろう。
    「かっこいいです、ラビさん」
    「うーん、どうだろうな。でも17歳の学生がピアスだなんてこっちじゃ感心されないだろ?」
    「……それは、はい……」
     でも、オレは見てみたいです。ピアスをつけたラビさん。もう一度手を伸ばして耳のラインをなぞる朝陽に、ぱちぱちと瞬きをする。それからラビはその手の温かさに目を細めるのだ。
    「じゃあ……大人になったら」
     大人になったら、また開けるよ。いや、そうだな、朝陽が開けてよ。この穴をもう一回。
     どこか楽しそうに囁くラビの顔をゆっくりと瞬きを繰り返して、朝陽が見つめる。
    「……いいんですか」
    「言いだしたのはそっちだろ?」
     小さく唾を飲んで、遠慮がちに返ってきた声に軽く拭きだしてラビは朝陽を抱きしめる。
    「楽しみだなぁ」
     らびさん、小さい抗議を含んだ声色にくすくすと笑いながら、桃花色の髪を撫でる。しっかりとした掌の感覚に朝陽の頬はまた熱を咲かせていた。
    クレッシェンドの予兆
     朝陽が黒いトムソン椅子に座り鍵盤と向き合っているいる姿を廊下から見かけて、ラビは足を止める。からりと軽い音を立てて窓を開けてみても、桃花色の髪を揺らすこともなくただじっと、真剣な顔で一点を見つめていた。
     そしてそっと白鍵に指を乗せたかと思えば朝陽とピアノの周りが一瞬、真空になった、気がした。
     鍵盤の上で指が踊りだす。白鍵と黒鍵を駆け上がり、音を重ねて、軽やかにまたは重々しく、囁くように、笑うように朝陽は音を奏でていく。足はラウドペダルを踏み、微動だにしなかった三つ編みは尻尾のように跳ねたり揺れたりしている。大人しく控えめな彼とはかけはなれた、アップテンポの曲だった。
    「……」
     楽譜も開かずにピアノを弾くその背中を眺めながら、ラビは音色に耳を傾け、目を伏せる。いつだかにリーダーが言っていた言葉を思い出す。
     ピアノが喜んでいるみたいだよね。主語抜きで何気なく呟かれたその言葉を、朝陽は知らない。言えば首を横に振って、頑なに否定するだろうということは、ノアも、ラビも分かっていた。レオンがノアの言葉を聞いていれば、彼はそのまま朝陽に伝えただろうか。
     一曲が終わる。一分ほど沈黙が続いて、小さな溜め息が聞こえた。そしてまた曲が始まる。穏やかでゆっくりとした曲だった。
     
    「えっ、あっ、ラビさん?」
     不意に音が鳴り止み代わりに上擦った声が耳に飛び込んでくる。椅子の脚が床を擦る音に視線を上げれば、慌てた様子の同級生が口をぱくぱくとさせてこちらを見つめていた。
     その様子に苦笑いにも似た微笑みを向けながら、ラビが手を振る。
    「やあ、良い曲だね」
    「あの、いつから……」
     俯いて気まずそうに聞いてくる朝陽の指は、膝の上で縮こまっていた。ついさっきまでのびのびと鍵盤上を踊っていたのに、行き場をなくしてもぞもぞと動く指をじっと観察する。朝陽が弾き始めたあたりからだよとラビが答えればそうですかと弱々しい声が返ってきた。
    「……」
    「え、と……すぐ片付けますから……」
    「ねえ朝陽」
    「は、はいっ!?」
     傍に置いていた鍵盤カバーを広げ被せようとする朝陽を制止して、それからラビはじっと、朝陽の目を見つめる。どこか怯えたように揺らいでいる琥珀色の瞳から目が離せない。
     そんなに怯えないでよと言いたかったが、それを言ったところで彼の怯え癖が一朝一夕で治ることもない。
     それならば。
    「もっと聴きたいよ、オレは」
     どうしてやめるの。そう言ってしまって、その言葉は今の彼には残酷なのだろうかそれとも、と考えを巡らせる。ぽかんとした顔の朝陽に軽く首を傾げて、ねえ部屋に入っていいかいと付け足せば我に返ってこくこくと頷く姿にラビはほっと息をついた。
     窓はそのままに、扉を開ける。
    十一月後半のこと シェアハウスのリビングで真剣に何かのカタログを眺める朝陽を見かけて、ラビはぱちりと瞬きをした。そっと隣に座ってみて様子を窺ってみても、朝陽は顔を上げることなく手元のそれ、おもちゃ専門店のカタログを食い入るように眺めている。
     パステルカラーとラメが目に眩しい。きっと心が見たらかわいいと声をあげるんだろうなというラビの心情をよそに、とうの朝陽は母国語でぽつりと何か呟いて、それからボールペンでその中のいくつかを丸で囲んだ。
    「……朝陽」
    「わあぁ!?」
     ひとつ息を吐いたのを見計らって声を掛けてみる。案の定肩を跳ねさせて、カタログとボールペンを取り落とした。ら、らびさん? と上擦った声をあげる朝陽に苦笑いしながら、落ちたそれを拾う。殆ど引ったくるようにそれを受け取って、朝陽はぱくぱくと口を動かした。
    「あ、あの違うんです、これはオレのじゃなくてプレゼントで……あっ、そうじゃなくて、そういう、ことじゃなくて……」
     クリスマスプレゼントなんです、妹と、弟の。気恥ずかしげに俯く朝陽にラビが首を傾げる。そんなに慌てる事なのだろうか。
    「……今年はちゃんとしたいんです。こうやって離れて暮らしているから……もう暫くは帰れないし、オレが手伝ってた分が抜けて大変だろうし……」
     語尾に力を無くしながらぽつぽつと言葉を零す朝陽に小さく頷く。今年のクリスマスは、と言いつつ毎月の給料日には必ずといっていいほど銀行に立ち寄りそれからほっとした顔でそこから出てくる朝陽を知っている身としては、充分なんじゃないかと言いたくなる。ただ言わないのは仲間としてそこは触れてはならない一線だと思っていたし、それでも少しずつこうして話してくれているので今は十分だからだ。
    「……ねえ、朝陽」
    「はい」
     今度空いている日いつかな。プレゼント見に行こうよ、オレもリリヤ……妹にって思っていたから。ラビの提案に朝陽が琥珀色の目を丸くさせる。本当ですか? 邪魔じゃないですか? と戸惑いを隠さない朝陽にまた一つ苦笑いを零す。オレ達、仲間で恋人なのに、と。
    「行きたくない?」
    「い、行きます!」
     ほんの僅かに頬を紅潮させて声を大きくした朝陽にそれじゃあ決まりだねと頷く。傍らに置いていたスマホを拾い上げて、次のオフ日を調べ始めた朝陽の頭をゆっくりと撫でながらついでにデートしようか。なんて言ってみる。桃花色の柔らかな髪から出ている耳が真っ赤に茹だってを見て、ほっと安堵の息を漏らした。
    朝に捕らえられているひと
     その銀髪が朝焼けに溶かされてしまいそうだと、今までに何度思っただろうか。
    「眠い……ですか」
    「……起きてる……」
     今日は少し遠方での現場だ。苦労して早く起きて乗り込んだバスの中、うつらうつらし始めたラビの膝を朝陽がつつく。遠慮がちに呼びかければ彼にしては頼りない声が返ってきた。移動中のメンバーは同じように仮眠をとったり、音楽を聴いたり、ゲームをして各々時間を過ごしている。時折後ろの方でリュカとレオンのやりとりが聞こえたが、ノアの一言ですぐに静かになった。
    「寝て大丈夫、です……」
    「……ん」
     そう囁けば小さく頷いて、暫くすればかくりと頭が傾ぐ。その拍子に肩から流れ落ちたシルバーアッシュの房が、隣の窓から注ぐ光に鈍く輝いた。所々跳ねた毛先も、色素が薄い故に光に当たるときらきらと反射している。
    「……」
     思わずその一房を指ですくい上げる。もぞりと身体が動いた気がしたが小さい寝息が聞こえてくる。寝た獣を起こさないよう、慎重に。そんな気持ちで房を指で撫でて、それからはっとしてカーテン閉めますねと告げて、音を立てないように布を引く。光が遮られて幾分か暗くなった座席ですっかり寝入ってしまったラビの手の甲を握り、肩に伝わる重みに僅かに口元を綻ばせながら朝陽はゆっくりと目を瞑った。
    悩みはつきない
    「さて……ここでリクエストから一曲」
    「えっと、ラジオネーム、餃子入りボルシチさん」
     ぱちりとラビが瞬きをする。餃子入りボルシチ。今度試してみようか、と考えながら手元の進行表を捲った。自分達の曲がが流れる中で、少し一息つく。向かいに座るラビをちらりと盗み見れば水を飲んでいる。ふと目が合って思わず俯いてしまった。進行表が目に飛び込んでくる。次のコーナーは悩み相談。
     I♥BがパーソナリティのWEBラジオはリスナー層が若い。同じ目線で真剣に悩んでくれるって評判だよ、とはプロデューサーの談だ。
     
     ――付き合っている人がいます。付き合っているのに、なかなか好きを伝えられません。どうすれば好きを伝えられますか。
     
     進行表と一緒に手渡された今回のお便りを指でなぞる。
     どうすれば好きを伝えられますか。
    (それは……オレが聞きたい)
     唇を舐めて、口をへの字に曲げる。そろそろ曲が終わりそうだ。小さく息を吸って、吐く。また少し緊張してきている。くるりと赤ペンを回して、気を紛らわせた。
     とんとん、と指が机を静かに叩く。ぴくりと肩を揺らして朝陽が視線を上げれば、ラビが微笑んでいた。
     だいじょうぶ? と殆ど声に出さずに口を動かす。心配させた、と朝陽が我に返って慌てて頷けば、ラビは微笑んだまま、その手で朝陽の手の甲に触れる。そしてすぐ離れていく。
    (ず、ずるいです……!)
    「お送りした曲はDear my precious friend……オレ達の曲は爽やかな曲が多いけどこれはちょっと……なんていうかな、センチメンタル? 餃子入りボルシチさんのように新しい土地に向かう人に響けばいいな」
     ラビが何事も無かったかのようにトークに入る。頬の熱が抜けきらないまま、朝陽も相づちを打つ。
     それじゃあ次はお便りコーナー。ラビの声を合図にジングルが鳴る。
    「今回のお便りはラジオネーム、ガラスハートのポニーさん」
    「ガラスハートのポニーさん、Большое Спасибо」
    「付き合っている人がいます。付き合っているのに、なかなか好きを伝えられません。どうすれば好きを伝えられますか」
    「なるほど……ポニーさんは照れ屋さんなのかな」
    「お、オレ……ポニーさんの気持ち分かるかも、です……あっ、でも違うかも……」
     語尾が少しずつ小さくなる朝陽に苦笑いしながら、ラビがどうして? と聞く。分かってはいるけど、と目を細めて、朝陽の言葉を待つ。朝陽も言いだしてしまった手前、最後まで言わなければならなくなり、ぱくぱくと酸素を求めてから。
    「……もし、伝わらなかったらって」
     そう答えた。ラビの口元が僅かに上がる。
    「確かにそう思うと不安だよね」
     そっか、伝わらなかったら、か。そう独り言のように零すラビが目を細めたまま、どこか遠くをみるように視線を外した。
    (ラビさんは、たまに遠くを見ます。オレにはどうしてかは分からない)
    「オレはそれでも伝えないとって思っちゃうから。結構オレ、言いたいこと言っちゃうんだけど」
     自嘲を含めながらラビが続ける。本当に? と朝陽が首を傾げるのは見えなかったらしい。
     伝わらないより伝えられないほうが、オレはやだな。
     ラビの声に寂しさが混じる。その声色を、朝陽はよく知っていた。
    「答えになってたかな、ガラスハートのポニーさんの背中を押せたらいいけど」
     寂しさなんて拭い去られたように明るい声がスタジオに響く。
    「あなたが好きを伝えられますように」
     願いの言葉を電波に乗せる。収録が終わるまであと数分のことだった。 

    ※2020年の公式絵師様によるクリスマス企画ネタ流星とモラトリアム
     古来、妖精なんてものはそういった所がある。世界中の子ども達から届けられる手紙が彼らの〝トラブル〟でごちゃまぜになってしまったと聞いた時、ノアは紅茶を飲みながら頷いた。
    「なるほどね」
     
     十二月一番の寒波に覆われたクリスマスの夜空は、既に雪がしんしんと降り注いでいる。それを仰ぎ見ながらラビは手にした箒に跨がる。きっと上空はここよりも冷えるんだろうなと考えていると、その隣で同じように箒に跨がったノアがふと視線を寄越して首を傾げる。
    「……青くないんだね」
    「ん?」
     それ、と指差されたのは赤いケープだ。どうして? と聞いてみればノアがだってラビのふるさとのサンタクロースは、青い外套を纏っているんだろうと首を傾げる。ああ、まあね、とラビが頷いて、視線を彷徨わせた。
    「青は好きだけど」
     皆と揃いがいいんだろ、こういうのはと肩を竦めるラビにノアがくすくすと笑う。そうしているうちに、朝陽とリュカが膨らんでぱんぱんになった袋を抱えてくる。
    「レオン」
     リュカがレオンに袋を押しつけて箒に跨がる。オレンジ色の髪についた雪を払って、レオンがリュカの跨がる箒の後ろに、背中合わせで跨がる。
    「なんでその座りかたなんだ」
    「だって後ろから鳥とかが来たら危ないだろ!」
    「オレは鳥とぶつかったりなんてしない」
    「言い争ったまま飛んで落ちても助けてやらないぞ、二人とも」
     すぐに言い合いをはじめそうになる二人にラビが溜め息を吐く。ノアの目もすっと細まったのを見て、二人が渋々と口を閉ざす。落ちるなよ、落とすなよ。そう一言言い合って、リュカが雪の覆う地面を蹴ったかと思えば、遙か上空へと飛び去っていった。
    「不安だなぁ」
    「大丈夫でしょうか……」
    「まあ仕事はするよ、見習いでもサンタだしね」
     ほら、二人も行かないとと促されて朝陽がラビの後ろに座る。足を揃えて横向きに落ち着いて、お願いしますとか細い声を上げた。
    「うん、しっかり掴まってて」
    「はい……」
     行ってくるよ、とラビが地面を蹴る。まるで彗星が地面から飛びだしたような勢いで、二人の姿が見えなくなった。
    「……」
     二組の見習いサンタを見届けて、ノアが袋を担ぎ直す。それから小さく息を吐いて、地面を軽く蹴る。五人がいた小高い丘が遙か下に見えた。
     
     雲を突き破れば、小さな灯りの群れが遙か彼方に見える。箒の下の雲から吹雪く雪が、街を覆って霞ませているのを青い目を細めて眺めていれば後ろで小さなくしゃみが聞こえた。
    「流石に上は冷えるなあ」
     赤いケープを靡かせながらラビが手元のランタンに触れる。その中の火が強くなると同時に、暖かい空気が周囲に満ちた。
    「あ、ありがとうございます……」
     朝陽の声に笑って、ラビが箒の柄を握りしめる。もっと飛ばすからね、とラビが一言告げた瞬間、ふわりと腹の中が浮いた感覚に襲われた。
     
    「メリークリスマス」
     祝福の言葉と共にプレゼントを手放す。リボンで飾られたそれはふわふわと浮いて、よい子の枕元に降りたっていった。
    「次は?」
    「ここから東、一キロ先です。あそこでおしまい、です」
     朝陽の言葉にわかったと頷いて、箒の進路を変える。滞りなくプレゼントを配り終えそうで、どこか余裕が出来ていた。先程よりは穏やかに降りしきる雪の中、箒は進んでいく。
    「思うんだけど、オレ達も酷いよね」
    「?」
     ラビが不意に零した言葉に、朝陽が首を傾げる。どういうことですか? と聞けば、ラビの肩が揺れた。
    「だって、朝起きてプレゼントがあればいい子ってことだろ。逆を言えばプレゼントがなかったら、悪い子」
    「……はい」
    「クリスマスの朝に起きてすぐにお前は悪い子だって言われるの、悲しいだろ?」
    「で、でも……それは悪い子だからです。悪いことをしたらプレゼントをもらえないけど、来年のクリスマスまでにいい子になれば、もらえます」
    「うん、でもさ」
     悪い子って悪い子になりたくてそうなったのかな、って。ラビの言葉に朝陽が眉を寄せる。どう答えていいのか、わからなかった。
    「はは、オレは悪い子だったからそう思っちゃうのかな」
     よくないなぁ、とラビが自嘲する。はっと朝陽が顔をあげて、ラビの靡く髪を見つめてケープを握りしめる。
    「ら、ラビさんはいい子です。昔は分からないけど、今は」
    「うん、そうであれたらいいな。あっ、ほら朝陽。ここだろ」
     小さな小屋の上空で箒が止まる。
    「……」
     白い袋の中、最後の一つを取り出す。小さな箱だ。小屋はお世辞にも新しいとは言えなくて、この中で眠るいい子はどんな気持ちでこのプレゼントを願ったのか。朝陽は目を伏せて思案する。
    「朝陽」
    「メリークリスマス」
     君が永久にいい子でいられますように。ぽつりと呟いて、小さなプレゼントをそっと手放した。
     
     後は温かな住み処に帰るだけだ。皆は無事に送り届けられただろうかと朝陽が夜空に浮かぶ月を見上げて思案する。
    「ねえ朝陽」
    「はい」
     街の上空でふわふわと浮いていたラビが朝陽に振り向く。
    「ちょっと飛ばしていい?」
     悪戯っ子のように青い目が細まる。ラビの言うちょっと、はとても速い。五人の中でラビが一番、速かった。風を切るのが気持ちいいんだと笑ってよく空を飛んでいるし、朝陽を後ろに乗せて空を駆けるともしょっちゅうだ。最初は少し怖かったが、段々慣れて楽しくなったのもまた事実。
    「……」
     朝陽がこくりと頷く。嬉しそうにラビが笑えば、シルバーアッシュの長髪がふわりと靡いた。
     その瞬間、強い力が身体を引っ張るのを感じて、朝陽は目を瞑る。ごうごうと耳元で風が炎のような音をあげている。そっと目を開ければ、夜空も、街の灯りも、地平線も混ざり合って輪郭をなくしている。
     流れ星になったみたいだと、ふとそんな考えが浮かんだ。

     先程まで石のように硬かったそれを温めればぷくぷくと膨らむのを、ラビは訝しげに見つめていた。丁度いい焦げ目がついた白い食べ物を朝陽が菜箸で摘まみあげ、皿に載せる。
    「オモチ?」
    「だ、そうです」
     巽さんに食べ方を聞いただけで、オレも詳しくないのですが……と頷く朝陽と皿に載ったそれを見比べる。ダイニングルームで留学生が二人、目の前に焼けた餅を前にして暫く黙っていた。
    「で、このオモチってやつは」
     どうやって食べるんだ? とラビが口を開く。お醤油でどうぞ、と朝陽が醤油の入った小皿をラビの手元に置く。この国にやってきてようやく慣れてきた箸で餅を掴む。少しだけ醤油につけて、口に運び一口囓る。ぱり、と表面が軽い音と共に割れて、それから噛み千切ろうとしても中々出来ない。
    「……」
     ラビが困惑した顔で朝陽に目配せする。朝陽も一口齧り付いていて、千切れずに伸びている餅に少し苦戦している。それでも器用に食べていて、オモチと呼ばれたそれを味わっている。ようやくラビの餅も千切れて、口の中でそれを咀嚼する。何もかもが初めての食べ物だ。
    「これ、食べるの難しいね、おいしいけど」
    「気をつけないと喉に詰まります……」
     そう言葉を交わしてから、暫く無言で餅に集中する。慣れてきた頃に、餅は姿を消して二人の腹の中に収まった。確かに、小腹が空いた時には丁度良いおやつかもしれない。
    「地域によって色んな食べ方があるみたいです」
    「へえ、例えば?」
    「砂糖と醤油を混ぜたものにつけたり、きなこにつけたり……」
     エビを混ぜたり、ヨモギを混ぜたりするらしいですよ。と朝陽がスマートフォンを片手に言うものの、ラビには殆ど未知の食材だ。ノアならばもう少し分かるのだろうか。
    「あっ、でもオレ……皆でやってみたいことがあって」
    「やってみたいこと?」
     少し上がり調子になった朝陽の声に首を傾げる。餅つき、してみたいです。と朝陽が目を輝かせている。
    「モチツキ?」
    「オンスタで十夜さんが上げていたんです」
     朝陽が見せてきた端末の画面に、十夜のアカウントが表示されている。そこには天上天下の四人が木で出来たすり鉢状の何かを囲んで、笑っていた。そこには自分達が食べていたものよりも大きなモチが収まっている。
    「皆で……モチツキをしました。残ったモチは皆さんにおすそ分けをしたいと思います……」
     ラビが写真に添えられた文を読み上げる。つまり、今食べたモチの出所は天上天下なのだろう。
    「モチゴメをこねて、叩けばモチになるそうです」
    「叩く?」
    「あっ、いや、素手じゃなくて……木で出来たハンマーで……」
     朝陽の辿々しい説明とオンスタに上げられた写真がラビの頭の中で結びつく。なんとなく、分かってきた。
    「なるほどね」
    「呼吸が大事だそうです」
     朝陽の言葉でまた少し分からなくなったものの、中々楽しそうかもしれないとラビが頷く。レオンあたりも喜びそうだし、何よりリュカが乗り気になるかもしれない。捏ねて叩いて千切って丸めるだけならば、驚くほどの失敗はしないだろう。多分。
    「ノアに相談してみようか。来年にでもって」
    「はいっ」
     少し冷めた緑茶を飲み干して、自分と朝陽の食器をシンクに持って行く。腕まくりをしてから蛇口を捻って、スポンジを水で濡らした。
    冬でいいわけ
     朝一番に入った音楽室は、ひんやりとした空気に包まれている。
     ぱちん、ぱちんという音と共に部屋が明るくなる。エアコンつくかな、と少し心配そうな声を聞きながらカーテンを開ける。外の冷えた空気が窓越しに伝わってきて、くしゃみが出た。
    「朝陽」
     ラビの声に呼ばれて、軽く鼻をすすりながら朝陽が振り向く。おいで、と手を広げる恋人はこんな寒い日なのに平気な顔をして微笑んでいる。今二人きりの部屋に誰か来ないだろうかと不安げに視線を彷徨わせてから、おずおずとラビに近寄るとぐっと抱き寄せられた。
    「わっ、あ……」
    「今日は寒いね、ちょっとこうさせてよ」
     楽しそうなラビの声を聞きながら、胸に押しつけられた顔をぷぁ、と離す。氷の中で淡く輝いているようなコバルトブルーの目が、自分をじっと見下ろしている。一気に頬が熱くなるのを感じて、思わずまた顔を押しつけてしまった。本当は寒くなんてないくせに、なんだかからかわれているような気分になる。
    「ラビさん、ずるいです」
     くぐもった声を聞き流しながら、ラビがくつくつと肩を揺らす。ゆっくりと頭から背中へ、ごつめの掌が撫でてくる感覚にほっと息を吐く。誰か来ないでしょうか、と小さく呟けば、来たらどうしようかとのんびりとした調子で返される。
    「うーん、寒かったからって言い訳しようかな」
    「流石に苦しいんじゃ……」
     教室の中はエアコンのおかげですっかり温まっている。それでもお互い離れがたくて、朝陽は遠慮がちに恋人の背中に腕を回した。
    熱帯夜に歌
    ※無印マーメイドガチャのネタ

     離れた所からスタッフが何事かを叫んでいる。夜だと言うのに強いライトが所々にあって、海辺を照らしていた。
    「もうそろそろかな」
     のんびりとした声に、視線を戻す。足先をつけている温水プールは、青いライトでぼんやりと光っている。水の跳ねる音と水の中を泳ぐ影を目で追う。こちらに向かっていた。
     水面を突き破り、ラビが現れた。がっしりとした身体も、腰まで伸びたシルバーアッシュの髪も濡れている。よいしょ、と軽い声をあげて、プールのへりに腰掛けている朝陽の隣にラビが身体をあげる。
    「これ動きにくい……」
    「でも泳げてます」
     朝陽の視線は、人魚の尾を模したフィンを取り付けたラビの足下に注がれている。朝陽自身も昼につけたが、扱いが難しい。一泳ぎするだけで結構な練習が必要だった。
    「人魚も大変だ」
     やれやれと笑いながら、水面を揺らす。屈折した光が揺らめいた。言葉とは裏腹に、頬に髪の毛を張り付かせた横顔は楽しげで、歌でも歌いそうだった。
    「……」
     座っていても分かる体格差を実感して、頬に熱が集まる。昼の名残、茹だるような暑さのせいかそれとも、自分の体温が上がっているせいなのか朝陽には分からない。分からないままどこに視線をやればいいのか迷って、足につけたフィンに目を向けた。それから小さく息を吐いて、肩をすぼめる。
    「朝陽?」
     それから意を決して、身体を傾ける。ラビの濡れた腕に頭を寄せて、少しだけと零す。数秒の沈黙の後でいいよ、とやはり楽しそうな声が降ってきた。それから何も言わずに身じろぎもせずにいると、柔らかな鼻歌が聞き慣れたメロディを紡いでいくのに、胸が高鳴る心地がした。
    ※無印BBBDのネタ。ラビさんの方。
    わるいひとの真似をして
    眉間に皺を寄せて、相手を睨めつける。廃工場の中では灯りは僅か、夕陽の射す窓は長身の体躯をシルエットとして浮かび上がらせている。逆光の中、コバルトブルーの双眸は冷たく光っていた。
    「こンな所に隠れてやがったのか」
     突然の乱入者に戸惑う男達を見てにやりと笑う。愛想を振りまくそれではなく、やっと獲物を見つけたと言わんばかりの獣のそれに近い。右手には鉄パイプを手にして、それを引きずりながら気怠げに歩み寄れば銀色の髪が揺れて、夕陽に輝いた。
    「オレのダチに手ェ出したってのがどういう意味か」
     男の一人が叫びながら殴りかかってくる。振りかぶった拳を左手でいなし、蹴り飛ばす。傍に丁度良く積み上がっていた段ボールまで男が吹っ飛ぶのにも目もくれずに、あと数人を目の前に立ち止まった。
    「分かってんだろうなァ!?」
     
    「ひっ」
     ガァン、と鉄パイプが鉄柱を叩きつける音はテレビからだ。朝陽が肩をすぼめる。その隣ですげー、と呆気にとられているのはレオンで、二人が座るソファから少し離れた所で微笑みながらその様子を眺めているのはノアだ。その向かいの席ではリュカが腕を組んで難しそうな顔をしている。
    「……大丈夫?」
     朝陽の様子にレオンが心配そうに視線を移す。目の前の画面では仲間の一人が数人相手に大立ち回りをしていた。勿論これはドラマで、演技である。今日はその初回放送で、何も言わずとも示し合わせたように四人はリビングに集まったのである。当の本人はWEBラジオの当番で、ここにはいないがもうすぐ帰ってくるだろう。
    「だ、大丈夫ですっ」
    「ワオ、凄いね! まるで本物みたいだ」
     軽く涙目になりながらも朝陽は画面から目を逸らさない。感心したようにノアが声を上げるのに頷いて、傍にあったクッションを抱きしめながら朝陽は食い入るように画面に見つめた。
    「ラビは本当に不良なのか」
    「いや例えだろ……」
     リュカの言葉にレオンがそう返して、それから口を閉ざす。多分、と自信なさそうに付け加えればそうか、とリュカが納得した。どうだろうな、とどこか靄のかかる思いを抱えながらレオンは画面に向き直る。すっかり男達は伸びていて、その真ん中には肩を上下させ、顔に傷を作りながらもどこか満足そうなラビがいた。
    「かっこいいです……」
     朝陽が小さく溜め息をついて零す。成る程、かっこいい。確かにかっこいい。授業でも言っていた、不良モノというジャンルは定期的に流行る。つまりお姉さんにちょっと悪いところを見せちゃえばモテるのか? とレオンは思案にふけり始める。画面の中はスタッフロールが流れて、ラビはあの不良達に奪われたらしき分厚い封筒を、友人に渡していた。遠くで扉の閉まる音が聞こえる。
    「ただいま」
     のんびりとした柔らかい声が後ろから聞こえる。やあ、おかえり。皆で見ていた所だよ。とノアが言って迎え入れる。
    「皆で? なんだか恥ずかしいな」
     苦笑い交じりに笑うラビの方に振り向く。朝陽は画面とラビを交互に見て、それからおかえりなさいと小さく声をあげた。微笑むコバルトブルーの目は穏やかで、氷のように冷たかった双眸とは演技とは言えかけ離れている。ファンに受け入れてくれたら良いけど。と呟くその声も、やはりドラマのそれとは違う。
    「喧嘩のシーン、本当に迫力があったよ。どうやって役作りしたの?」
    「えっ? ああ、えっと……同じようなドラマとかを見て、かな」
     ノアの問いかけに答えるラビの声に、レオンが眉を上げる。それから瞬きをして、ニュースを流し始めたテレビ画面を変えようとリモコンを持った。
    「あっ、レオン、そのままにして」
     ニュースを見たいから。そう止められて、リモコンを置く。それからゆっくりと立ち上がってから、面白かったあとレオンは伸びをする。それならよかったと返すラビの声は、どこか安心したような調子だった。

    わけあう
     白い息を吐きながら、指を擦り合わせる。信号機が赤に変わってから随分と長い、気がした。ちらちらと赤のままで突っ立っている信号と、通り過ぎる車を見比べる。それから横目で別の信号を見れば、やっと黄色になって、それから赤に変わった。
    「朝陽?」
    「っ」
     後ろから声を掛けられて、肩が跳ねる。聞き慣れた声の持ち主は振り返ってすぐ後ろにいて、コバルトブルーの瞳をこちらに向けていた。ラビさん、と言ったつもりなのに、唇から漏れるのは白い靄ばかりで。ラビが横に立った瞬間に目の前の信号機は青に変わった。
    「寒いね、夜になってから急に冷えた」
    「はい……」
     こくりと頷く。かじかんで上手く動かない指を握って、手を下ろす。寒いと言った同居人は自分よりも薄着だ。いつもの制服に薄手のコートだけを羽織っている。彼はここよりももっと寒い故郷から来たのだから、寒いとは言いつつもきっと自分を気遣って言っただけなのだ。彼は優しいから。
     家に向かって無言で歩いて行く。いつもよりほんの少し早足かも知れない。だって外はこんなにも寒いのだ。いくら着込んでも、温かいまでには至らない。
    「ねえ、朝陽」
    「?」
     寒いから、いいかな。ラビがそっと左手を差し出してきて、朝陽が首を傾げる。
    「朝陽の手はあったかそうだから」
     ゆるりと微笑みながら朝陽をじっと見つめるラビに、朝陽が首を振る。そんなことないです、今オレの手はとても冷たいから、がっかりさせてしまいます。眉を寄せて否定する朝陽にラビは軽く眉を下げる。その表情に申し訳がなさすぎて、朝陽は鼻を軽くすする。
    「本当?」
    「えっ、あっ……!?」
     確かめていいかい、とすくい上げられるように朝陽の手がラビの手に捕まる。ごつごつとした大きな手は、温かいとは言えないまでも、熱を持っている。そのまま有無を言わさずに指を絡められて、朝陽は自分の頬に熱が灯る心地がした。
    「やっぱりあったかいよ」
    「そ、んなこと……」
     朝陽が否定しかけて、ラビが軽く手に力を込める。離さないという意志を示して、ラビは軽く肩を揺らす。孤を描くその唇から僅かに白い靄が流れるのを見て、朝陽はどうすることも出来ずにいる。
    「ラビさんの方が」
     あたたかいんです。だからなんです。悪態にも似たニュアンスを心の内で呟いてから、朝陽は遠慮がちに指に力を込めた。
    アジタートのちクイエート
     激しい舞踏のような音だった。ともすれば、怒りに近いような音だ。
     長くすらりとした指が鍵盤を跳ねている。白鍵と黒鍵を駆け巡るその横顔は、あの臆病さの欠片も見当たらない。彼にしては本当に珍しく、琥珀色の目を細めては楽譜を殆ど睨み付けたまま、音を奏でていた。
     指の動きは正確無比で、一つでもなにか間違えればそこで途切れてしまうだろうその繊細な曲を、迷うことなく弾いている仲間を、ラビは少し離れた所で、眺めていた。
    「っ……」
     最後の音の重なりが部屋に響く。そして指をそこから離せば、余韻も遠くなって静寂が降りてきた。なんて凄いんだろうと溜め息をひとつばかり零したくても、零せないような静寂で、ただラビはゆっくりと瞬きをする事しか出来ていない。
    「ラビさん?」
     ぱちり、と琥珀色の瞳が瞬いている。どうかしましたか、と控えめな声を向けられて、次はラビが目を細める番だった。トムソン椅子に座る朝陽が桃花色の三つ編みを揺らしながら、落ち着きなくこちらを見ている。
    「……そうだな、なんて言ったらいいだろう」
     曲のあいだじゅう、指先すらもぴくりとも動かなかった身体を揺らして、ラビが言葉を探す。凄かった? 良かった? いい曲だね。どれも違う気がして、どうしようかと唇を舐める。
    「…………ドキドキした」
    「え」
     それは自然と出た言葉で、それほど適切な言葉ではないとは言った直後に悟ったがそれでも自分にとってはこれほどまでにしっくりくる言葉はなかった。心臓を揺さぶるような、激しい舞踏。何もかも、自己すらも脱ぎ去って、音と音の間を踊り狂っているのを見せられたような心地。
    「朝陽が弾く優しい曲も楽しい曲も好きだけど」
     この曲はなんだか、ドキドキするね。軽く眉を下げて、そう言いながら微笑むラビの顔を朝陽がじっと見つめる。それから頬に集まった熱を自覚して、朝陽は俯いた。
    「こういう曲も……好きなんです」
     似合いませんよね。恥ずかしそうに呟いて、行くあてのなくなった指を曲げたり伸ばしたりする。すっかり元の黎朝陽に戻ったのを眺めながら、ラビは穏やかなコバルトブルーの視線を恋人に向けた。
    「とっても似合うよ」
     低く、穏やかな声が二人を繋いだ。
    肉を焼く
     座った時は銀色だった網が、今や黒ずんでいる。
    「これなんでしたっけ」
    「ええっと……なんだったかな」
     目の前で焼かれている肉の部位が思い出せずに、ラビが苦笑いする。まあおいしいからいいよ、と付け足して、トングでそれをひっくり返した。まだ赤かったその裏側は、丁度良く焼けて脂を滴らせている。
     はいどうぞ、とラビがすっかり焼けた肉を朝陽の皿に置く。それもひとつというわけではなくて、二つ三つ、と続けて置いていくのだ。
     このままでは焼けた肉の山が出来てしまうと、朝陽が慌ててそれを箸で掴む。何度足されたか分からないタレに肉をつけて、それからひと思いに口にした。熱と共に甘辛さが舌に流れてきて、ゆっくりと噛みしめる。薄く切られた肉が噛む度に多幸感を滲ませてくる。食べてみれば何を焼いていたか分かるだろうかと思ってはいたが、結局口の中に放り込まれたものは焼いた肉で、つまり、なんだって美味しいのだ。
     皿に置かれた二枚目、三枚目もすぐに姿を消した。手にした茶碗には所謂大盛の白米が盛り付けられていたが、それも半分は胃の中にある。タレと油が少しついている白米を一口食べて、朝陽はきゅ、と目尻を下げた。心なしか口角も上がっている。
    「……」
     その様子を眺めながら、ラビが肉をひっくり返す。焼けた肉を朝陽の皿にいくつか置いて、それから自分の皿に一つ置く、を繰り返していた。朝陽が幸せそうにわかめスープを飲んでいる合間に積み上がった肉を頬張っていると、少しつり目がちな琥珀色の目が、見つめてきた。
    調律
     いつ来るのでしょうか、とそわそわ、朝から落ち着かない仲間を座らせて温かなカフェオレを差し出す。きゅっとマグカップを掴んで時計に目をやる朝陽に小さく息を吐いた。
     朝陽が不安や戸惑いからそわそわとするのは慣れているが、今日は事情が違う。寧ろ、子どもが望んでいたオモチャか何かが届くのを待ち望んでいる、といった調子の落ち着きのなさだった。
     今日中には来るよと言いかけたラビの声をかき消すように、玄関のチャイムがお待たせしましたとばかりに鳴り響く。がたん、と椅子が鳴った目の前を見れば、テーブルには半分ほど中身の残ったマグカップだけがやるせなさげに佇んでいた。
     
     ポーン、と揺れた音が廊下の奥から微かに届いてくる。確かめるようにひとつ、ひとつ。いつもの席に座り読書に耽るラビの耳へ。普段聞き慣れている筈なのに全く違う、どこか探るようなピアノの音だった。
     時計の針の音、問いかけるような単音。ページを捲った時の、紙が擦れる音。単音が重なり和音になった。
     キッチンの奥、食器が重なる音、蛇口からの水音、窓の外のエンジン音。駆け上がる、白鍵と黒鍵。
     日常に普段とは違う音が混じっていることに妙な気分になりながら、ラビは開いていた本を伏せる。すっかり冷めたコーヒーを飲み干してから、また届くであろう音を聞こうとしたが、何も届いてはこない。
     代わりにぱたぱたと廊下を小走りする音が聞こえてくる。ノアが聞けばなんと言うだろうか、いや、今日ばかりはきっと許すのだろうなと思い至って、ラビは苦笑いする。
    「終わった?」
     廊下からダイニングルームに入ってきた朝陽の表情は明るい。ラビの問いかけに頷く声も喜びを隠しきれないような、そんな調子だ。よかった、とラビが頷いて立ち上がる。
    「お茶を用意しないとだろ、手伝うよ」
     伏せていた本、開いたページに栞を挟む。それからテーブルの上に置いて、先にキッチンに入った朝陽の後ろをのんびりとついていった。
     
     正しく調律されたピアノの音は、真っ直ぐに響くらしい。
     春の子馬が草原を跳ね回るかのような、軽やかな曲が部屋に響く。実際鍵盤を跳ね回っているのはすらりとした朝陽の指で、その動きに合わせて鳴る音は確かに真っ直ぐで、心地が良かった。
     桃花色の三つ編みを揺らしながらピアノを奏でる朝陽の横顔を眺める。いつの間にか名も知らぬ曲から自分達の曲へと移り変わっていて、朝陽の柔らかそうな唇が微かに動いては歌を口ずさんでいる。
     この世界に、完全な音があるとするなら。
     多分、今目の前で奏でられている音がそれなんだろうな。そんな事を考えながら、ラビは目を瞑る。
     まだ暫く、彼の指は音を奏で続けるつもりのようである。
    ハンドクリーム
     なんとなくまだ帰りたくなくて。
     屋上のベンチで二人、座っていた。たわいの無い会話を飽きもしないで続けている。
    「この前、心に怒られたんだ。もうちょっと手のケア? 保湿? なんだっけ、そういうことをしろって。ハンドクリームも貰ったんだけど……」
     すん、と自分の手の甲を嗅いで、困ったように眉を下げる。たしかにすべすべにはなるがどうにも、自分には似合わないような甘ったるい花の匂いがした。
    「オレみたいな奴に似合わないと思うんだ」
    「……」
     ううん、と朝陽が唸りながらラビの手をとる。自分よりも一回りほど大きな、ごつめの手は心なしか滑らかで。難しい顔をさせた朝陽の指がその輪郭をなぞる。丁寧に、ゆっくりと。確かに甘い匂いが鼻腔に届いて、目眩がしそうだった。確かに、がっしりとした男らしい彼から香るにしては、甘い。でもそれがいいのよ、と彼女は言いそうではあるなとも思った。
    「……いい匂いだと思います」
    「うん、それは……そう。嫌いじゃないよ、でもたぶんこれはもっと……ああ、うん」
     ふと何かに気づいたのか、ラビが口を閉ざす。少し視線を彷徨わせてそれから、自由な方の手をポケットに突っ込んだ。絵の具のポリチューブを大きくしたようなピンク色の容器を取り出す。ハンドクリーム、チェリーブロッサム。桜味。いや、味では無いなと大きな手のひらに収まるそれを朝陽がじっと見つめる。
    「朝陽に似合うんじゃないかな」
    「お、オレなんかに似合うわけないじゃないですか」
     ラビの提案に朝陽が慌てた声を上げる。確かにラビより指には気を遣う必要があるし、ハンドクリームも持ってはいる。青い缶は部屋に置いてあるし同じもののチューブ型も持っている。それで十分だ。
    「駄目?」
    「う……」
     深いコバルトブルーがお伺いをたてるように見つめてくる。朝陽はこの色にめっぽう弱い。穏やかで深い湖のようなそれが、自分を熱っぽく見つめたり、嬉しそうに瞬いたりするのに、どうやっても無碍に出来ない。
    「た、試しに一回だけなら……」
    「ほんと?」
     ラビの声が弾む。手を出してと早速促されて袖を軽く引き、手の甲を差し出す。くるくると蓋を開けて、ラビがチューブを軽く押した。本人としては軽く、だがどうも力加減が強いめだったらしく、むにゅっと出てきた白いそれは一人分にしては多い。あっ、とラビが焦った声を出したのに、朝陽が思わず笑う。
    「ラビさん、手を出して」
     チューブをポケットに入れて、ラビが眉を下げながら手を差し出す。すん、と鼻を鳴らして目を細めるのにも気にせずに朝陽が白いそれを指で掬った。ラビの手のひらにそっと置いてから、慣れた手つきで自分の手に塗り込んでいく。ああ、オレがやりたかったのにと言いたげなラビに微笑んで、それから恋人の手を両手で包んだ。
     強すぎるぐらいの甘い香りが、柔らかな春の空気に溶け込んでいく。柔らかめのクリームを丁寧に塗りながら、朝陽は鼻歌でも歌い出しそうに上機嫌だった。ごつごつと男らしい指の感触が、それに触れることが許されていることが、嬉しい。
    「きっと」
    「ん?」
     すり、と朝陽の親指がラビの僅かに血管の浮き出た手の甲を撫でる。僅かな擽ったさに目を細めながら、ラビは朝陽の言葉を促す。琥珀色の目が、じっと見ている。いつも不安げに揺れがちなそれが、自分といる時にはすっかり喜びの色を孕んでいてそれがラビにとっては幸せだった。
     朝陽の柔らかい唇が、ゆっくりと弧を描く。
    「二人で使えばすぐに使い切りますよ」
    「……確かに」
     それに、そうすればおそろいです。と狡いことを言ってみれば、ラビの目元が僅かに赤くなった。
    あなたのおと
     黒いトムソン椅子は、彼の特等席。自分にとってのドラムスツールがそうであるように。
     そう思っていた。思っている。
    「……」
     ポーン、と真っ直ぐに音が一つ。椅子の隣に立って、ラビは白鍵を人差し指で押さえていた。
     さほど力を入れずに押し込めば響いてくる音に耳を傾ける。気まぐれに隣、隣の隣、その傍の黒鍵を軽く押していけば違った音色がやはり真っ直ぐに、無味乾燥とした音を響かせた。
     骨ばったごつめの、自分の手と指ではどうにもあの艶やかな音色を出せそうにないなと苦笑いをしながら、夕暮れのオレンジで染まるがらんどうのレッスンルーム、そこに置いてあるピアノと、ラビは戯れていた。
     壊れそうだなあ。
     力任せに鍵盤を叩けばヒビをいれてしまうのではないかと思ってしまうほど、白鍵も黒鍵も艶やかに輝いている。音を鳴らす為のハンマーや弦を納めた黒のボディは、自分の輪郭をうっすらとうつしていた。
     ひとつ、乾いた音が鳴る。そして、強めにまた一つ。知っているようで違う、乾いた音。
     やっぱり違うなぁと目を伏せる。聞きたい音はもっと、穏やかで艶やかで、語りかけてくるようなそんな音だった。
     ぴしゃりと遠くで扉の閉まる音がする。そろりと静かに歩み寄ってくる気配に、ラビは視線を寄越した。
     桃花色が揺れている。
    「……」
     ラビがついぞ座らなかった黒いトムソン椅子に座って、少年は息を吐いた。こちらを向かず、ただ目の前の鍵盤をじっと見つめている。
     ぽーん、と音を鳴らす。琥珀色がやっと見上げてきて、軽く細められた。
    「オレじゃ駄目らしくて」
     自嘲を含んだ笑みを浮かべて、ラビが口を開く。
    「……朝陽じゃないと、駄目だって」
    「……」
     オレでいいなら。か細い声に、ラビが頷いて白鍵から指を離す。鍵盤を押していた自分の手よりも一回りも小さく、しかし体格にしてはおおきな手が、すらりとした長い指が、鍵盤に置かれた。
    「音を聞いて……ラビさんが呼んでるなって」
    「どうして分かったんだ?」
     穏やかな始まりに合わせて、朝陽が笑う。
    「壊れないか心配そうな音でした」
    「……」
     あまりに綺麗だから、壊したくなくて。
    「壊れませんよ、大丈夫」
     朝陽の声に、ラビが眉を下げて、それもそうだねと頷く。目の前の恋人が弾くその音色は、数分前まで聴きたかった、穏やかで艶やかで、語りかけてくるような音だった。
    ステーションピアノ
     駅構内特有の喧騒にひとつ落ちるような、その音を聞いて黎朝陽は足を止めた。
     珍しく何も言わずに足を止めたものなので隣を歩いていたラビは数歩先を進んでのちに、おやと気づいたのか朝陽に歩み寄る。その時にはラビの耳にもその曲は届いていた。足早に歩いていく人々によく似合いの、狂詩曲。
    「……」
     琥珀色の視線は曲へと向けられている。そこには人だかりが出来ていて、きっとその中心にはピアノがあるのだろう。何も言わずに佇んでいる仲間の手をラビが掴む。ぶつかるよ、とそっと引っ張られて、近くの柱の側に連れられた。すみません、と謝る声もどこか虚ろでラビはそっと眉を寄せる。こうなると曲が終わるまで、ここを離れないだろう。朝陽の隣、柱に背を預けてラビも人だかりを眺める。曲が終わるまでだいたい十七分ぐらいだった、筈だ。
     人だかりと二人の間を忙しなく人々が行き交い続ける。ピアノの響きだけは雑踏にも構内アナウンスにも、電車の遠い警笛にも掻き消されない。

     曲が終わり、足を止めていた人々もまた散り散りに歩き出す。人の流れの間から見える、雑然とした駅の中にしては立派な黒いグランドピアノには誰も座っていなかった。ただ二人は、というよりも朝陽はそこから動かずにいる。何かを考えているような、憂いを帯びた横顔をラビはちらりと盗み見た。それから。
    「……弾いてみる?」
     答えは分かりつつも、聞いてみた。すぐに首を横に振る朝陽に、だよなぁと口を閉ざす。
    「オレなんかがこんな所で……」
     無理です。いやにはっきりと言われた。だよなぁ、と今度は口にしたが、その声は目の前を通ったサラリーマンが発した携帯電話の向こうへの叱咤にかき消された。
     この雑踏よりも注目を浴びるステージで演奏してるのにと思わず苦笑いをすれば眉を下げた琥珀色の目がじっと見上げてきた。
    「……ラビさん?」
    「なんでも。そろそろ行こうか」
    「はい……」
     大勢が行き交う駅中で朝陽が堂々とピアノを弾いたら、もしかすると大事になるかもなぁとも考える。プロデューサーにも怒られたりしてなんて杞憂を隅に追いやりながらラビは朝陽の手を握る。
    「帰ったらさ」
     ラビが口を開く。隣をゆっくり歩く朝陽がはい、と首を傾げた。
    「あの曲弾いてみてよ、弾けるだろ?」
     ラプソディ・イン・ブルーだっけ。ラビが朝陽を見つめる。甘えたような深いコバルトブルーに見つめられて、朝陽はこくり、頷いた。ほんの僅か、口元に笑みを浮かべて。
    「オレも弾きたいって思ってました」
     やった、とラビの手が朝陽の手をきゅ、と握りしめる。忙しなく行き交う雑踏の中、二人は歩いていく。
    おにさんこちら
    「っ、レオン、そっちにいるぞ」
    「えっウソ!? あーっ、やべえ、やられる!」
     仲間のはしゃぐ声がリビングに響き渡る。ローテーブルを挟んでラビとレオンがそれぞれスマホを覗き込んでゲームに興じていた。リュカは少し離れたテーブルで読書をしていて、ノアはその向かいで二人を眺めている。朝陽はラビの隣で不思議そうに二人を眺めていた。
    「あ、だめだ、やられた」
    「今シーズンの新キャラ強くない!? みーんなソイツ使ってんだけど!」
    「レオンはまず無意識に敵に突っ込んでいかないほうがいいんじゃない?」
     画面を親指でつつきまくりながらレオンが唸り、天井を見上げる。ラビもスマホを傍らに置いて、ぐっと伸びをした。
    「どういうゲームなんだい、それ」
     ノアが首を傾げて問いかける。鬼ごっこみたいなもんかなあ、とレオンが答えた。ふうん、面白そうだねとノアがスマホを取り出して、なんてゲームかなと零せば、レオンが立ち上がりノアに歩み寄った。
     ラビのスマホはゲーム画面のままだ。朝陽がしげしげとそれを眺めていると、ラビが声を掛けてきた。
    「朝陽も気になる?」
    「……ラビさんのを見るだけなら」
     追いかけられるのは嫌です、と自分が本当に追いかけられるわけではないのに俯く。ドキドキして上手く出来ないと思います。小さな溜め息をつく朝陽に、ラビが首を傾げる。
    「オニ側になってみるとか」
    「む、むりです……」
     ふるふると頭を振る朝陽に思わず笑ってしまう。
    「ラビはオニのほうが得意なんだろ?」
    「なんかそっちの方が燃えるんだよなぁ」
    「ふふ、わかるな、それ。ねえ、レオンこれ何?」
     本に視線を落としていたリュカも、ノアとレオンのやりとりをついに眺め始めている。
    「ノアが初めてだし、オレがオニになって練習してみる?」
     ソファの後ろの二人にラビが振り向いて声をかける。それいいな、とレオンが笑ってノアの隣に座った。
     おいで。
     小さな声で誘いながらラビが自分のすぐ傍をぽん、と叩く。朝陽の頬がぱっと赤らんで、それから後ろを盗み見る。それからラビの顔を見れば優しく微笑まれた。
     ごそりと動いて、ラビにぐっと身体を寄せる。ロビー作って、とラビが声を上げればレオンがオッケーと返してきた。スマホの画面に三人のキャラクターが表示される。
    「ラビさんは?」
    「これ」
     大きな狼男のキャラクターを指差す。かっこいいです、と呟けば、気に入ってる。とラビが笑った。
    或いはハッピーエンド
     少し付き合ってくれないか、と恋人に言われた場合。
     
    「中々イメージが湧かなくて」
    「嘘です、それ……」
     くすくすと笑いながらラビがそうかもねと肩を竦める。その手には次に出演する台本が開かれていた。
    「でもさ、人によって告白する時の気持ちって違うだろ」
    「……?」
    「凄く勇気がいることに変わりはないけども、好きって言う瞬間に怖いと思うひともいるし、早く伝えたいって思うひともいるんじゃないかなって」
    「たしかに……」
    「『あなたが好きです』って言うまで、彼はどんな気持ちでいたのか掴みたくてさ」
     朝陽の背中に軽く身体を預けながら、ラビは台本を捲る。どんな役なんですか、と朝陽が聞けばううん、と考え込んだ。
    「無口で、不器用かな。自分の考えをあんまり口にしない。主人公の女の子に頑張って告白するけど、とうの彼女は別の人が好きなんだってその時に自覚するんだ」
     この台本は最終回の一話前の回。そのあと主人公の女の子は、好きな人の元に好きだと伝えに走る。オレの出番はそこでおしまい。
     台本の文字列をラビの指がなぞる。朝陽はだまったまま、眉を下げていた。
    「ドラマの話だよ」
    「わ、わかってます……!」
     朝陽の心の内を読んだようなラビの声に、朝陽が慌てて声をあげる。それでもなんだか気分は晴れない。
    「お、オレは……臆病だから……」
     好きの二文字を伝えるだけでも勇気がいります。ぽつぽつと呟きながら朝陽が俯く。
     もしラビさんに好きと伝えたとして、拒まれたらきっと世界の終わりに思えるんだろうな、と考える。実際は勇気の出ない間に今自分を背中から抱きしめてる恋人が、顔を真っ赤にさせて好きだと伝えてきたのだけども。
    (ラビさんにとって、勇気がいることだったのは分かる)
     オレみたいにオーバーに、世界の終わりだなんて思うかどうかはともかくとして。
    (ラビさんの勇気に甘えてしまったのかも)
    「ねえ、朝陽」
     思考に耽り始めた朝陽を引っ張り上げるように、ラビが囁く。
    「……?」
    「この回の収録から帰ったら、朝陽の部屋にいっていい?」
     甘えるように桃花色の髪の毛に鼻先を埋める。シャワーを浴びたての、シャンプーのにおいにとろりと瞼を伏せた。
    「頑張ったオレに、たくさん好きって言って」
    「……はい」
     インクをなぞっていた指がそこを離れて、朝陽の手に重ねられる。朝陽はゆっくりと頷いて、ラビの手をきゅっと握りしめた。
    ゆめみるリボン
     長いシルバーアッシュの髪を纏めるそれを見て、朝陽はぱちりと瞬きをした。
    「ラビさん」
    「ん?」
     朝陽の指が遠慮がちに髪に触れる。レッスンルームの床に腰を下ろしながらスポーツドリンクを飲み、ラビが鏡越しに手を伸ばしてきた朝陽を見やる。
    「かわいい、です」
    「えっ、あ、これ?」
     朝陽の言葉に一瞬何のことか理解が及ばず、ラビが首を傾げる。しかしふと思い出したかのように髪を纏めるそれに触れて、気恥ずかしそうに笑った。いつもの水色のリボンではなく、白いフリルがついたピンク色のリボンだった。真ん中には宝石のような紫色のパーツがきらきらと光を反射している。
    「さっきリボンがきれちゃって……困ってたら心がくれたんだ」
     オレにはかわいすぎるよな。思い出せば落ち着けなくなったのか、ラビがそれを触る。白い指が柔らかな布地に触れて、真ん中のそれがまた光を蓄えて煌めいている。
    「でもレッスン中だけだから暫くこのまま使わせてもらおうかなって」
     自分が見るわけでもないからと笑うラビに、なるほどと朝陽が頷く。似合ってますよと言えばきっと複雑そうな顔をするのはなんとなく察したので、言葉を飲み込みながら朝陽は自分の三つ編みを触った。
     
    「ラビにあげたヘアゴムが欲しい?」
     彼にしては本当に珍しくプライベートなお願いをしてきたのに、華房心は驚きを隠さなかった。それから数日前にうっかりリボンを引き千切ってしまったラビに渡したものを思い出して、ああ、と声をあげた。
    「お、同じのじゃなくても、いいんです……どこで売っているのか教えてほしくて……」
     眉を下げ、今にも泣きそうな顔でぼそぼそと言う後輩を眺めながら、華房は思案する。目の前の後輩がこうしていじらしくお願いをしてきているのに、無碍に突っぱねる程自分の意地は悪くない。寧ろ彼の思惑を汲み取るならばそれを助けてあげたいと思うのもまた乙女心であるし、何より。
    「そうねえ、タダで教えるわけにはいかないわ」
    「……メロンパン買ってきます……」
    「それよりも」
     踵を返そうとする朝陽を引き留める。メロンパンよりも優先される交換条件があるのかと不安げな顔でこちらを見てくる年上に口元をにやりと上げて、華房がスマホの画面に視線を落とした。
    「丁度いいわね、あんた今日荷物持ちしなさい」
    「……荷物持ちですか?」
    「そ。放課後買い物に行くつもりだったから、あんたは荷物持ちとしてついてくるの。そしたら教えてあげる」
    「あ、あの……それだけでいいんですか?」
     都内の午前中に売り切れると有名なメロンパンではなくて? と言いたげに朝陽が華房に視線を寄越す。
    「それだけだなんて考えが甘いわよ。あんたがもう駄目ですって言っても心が満足するまで付き合って貰うんだから」
    「……」
     どれだけ連れ回されるのだろう、と喉を鳴らしながら朝陽が頷く。
    「それじゃあ放課後、ユニットルームに来ること!」
    「は、はいっ」
     ほら授業が始まるわよ、と心が手をひらひらとさせて、朝陽が一礼して立ち去る。その背中を見送った後、華房はピンクに彩られた爪に視線を落として、それから目を細めた。
     またとないチャンスね。そう独り言ちる華房の声は、悪戯っぽい楽しみを含んでいた。
    なるために
     鏡の前でネクタイをゆるめに結ぶ。それから襟元に張り付いた長髪を後ろにながした。それから鏡越しに、壁に掛かった時計を見る。あと二十分。ノアはモニターにうつるホールを眺めていて、リュカは壁際で目を瞑っていた。レオンは外の空気を吸いに行ったらしくこの場にはいない。
    「……」
     隣でぽつぽつと口ずさむ声が聞こえて、ラビは視線を動かす。リズムをとるように三つ編みが僅かに揺れて、か細く歌が聞こえてきた。指は膝の上で見えない鍵盤を辿っていたが、やがて動きを止めて、きゅ、と握られた。
    「……だいじょうぶ」
     自分に言い聞かせるような声がラビの耳をうつ。それきり黙って俯いてしまった仲間の横顔はどこか怯えが混じっていた。
    「朝陽」
     考えるよりも先に唇が動いていた。はっと顔を上げて、琥珀色の瞳が見上げてくる。数秒の沈黙ののち、ラビさん? と首を傾げられた。
    「お願いがあって」
     ぱち、と琥珀色が瞬いた。
     
     
     指先に銀色が絡む。さらりと流れるそれに櫛をいれて、ゆっくりと引いた。
    「助かるよ」
    「いえ……」
     どうも変な癖がついたみたいだ。そう言って笑うラビの長い髪を朝陽がゆっくりと梳いていく。がっしりとした背中を流れるシルバーアッシュは少しも絡まっていなかったし、いつも通りの指触りだった。
    (嘘が下手です……)
     心の中で苦笑いしながら、それでも尚その嘘に乗っかる自分に小さく息を吐く。優しい彼のことだ。きっと自分の悪癖に気づいて声を掛けてきたのだろう。そう思うと申し訳ない気分になる。
     髪に注いでいた視線をそっと上げる。鏡越しにラビの顔が見える。深いコバルトブルーの目を伏せて、機嫌が良さそうにしている。
    「……」
     意外と睫が長いんだな、だとか、頬が柔らかそうだな、だとか。本人がまだ気づかない事をいいことに、鏡の中のラビをじっと見つめる。襟元から見える首筋や喉仏に、うらやましさを覚えてみたりするうちに、朝陽の手はすっかり止まっていた。それに気づいたのか、あれ、とラビが視線を上げる。
    「?」
    「っ、な、なんでもない、です……」
     穏やかな青い目とかちあって、慌てて俯く。おぼつかない手つきで毛先を整えてから、出来ましたよと櫛をテーブルに置いた。がっしりとした指がたしかめるように銀色を触る。
    「……うん、ばっちりだ」
     ありがとう、朝陽はすごいな。嬉しそうに笑うラビを見た瞬間、朝陽の頬が熱を帯びた。櫛で髪を梳いただけなのに、本当に幸せそうに彼は笑うのだ。
    「オレは、なにも……」
     座っていた椅子にすとん、と腰を下ろす。優しくしてくれたから痛くなかったし、また頼もうかな。朝陽がよければだけど。お伺いをたてるかのような声に、朝陽が頷く。
    「オレなんかでいいのでしょうか」
    「朝陽じゃないと嫌だって言ったら?」
    「ううん……」
     朝陽の困惑した声に、ラビが目を細める。ラビさんがそう言うなら、と舌の上で言葉を転がせば優しく頭を撫でられて、自分の頬が熱で溶け落ちるのではないかと馬鹿なことを思った。
     そろそろ行こうか、とノアの声がして二人はそっと顔を見合わせる。がたり、と椅子が鳴った。
    自覚
     あれはまさしく、恋に落ちた瞬間だったと言い切れずにいる。
     
     レッスンが終わり各々が楽器をケースの中へしまい込むのを眺めながら、ラビは手にしたモップで床の埃を隅に追いやっていた。この後はどうしようかなあ、駅前でジムを見かけたから覗いてみようか、のんびりとした思案を巡らせながらふと四人を見やる。レオンとリュカはレッスンが終わっても何かを言い合っているし、その様子を面白半分、苛立ち半分といったていでノアが見守っている。朝陽は少し離れた所でキーボードの鍵盤を布で拭いていて、時折心配そうに三人をちらちらと見ては俯いていた。
     (小規模爆発した紫のカレーのおかげで一歩前進……とはいえ、まだまだってところだな)
     とある事件のおかげで、ぎこちなかった仲間の絆が一気に深まる、だなんてティーン向けのドラマみたいなことはハナから期待していない。まだ一緒に暮らし始めて間もないのだから、互いに探り合いながら居心地の良い距離をはかっていくのだろう。
    「あ、あの、ら……」
    「ん?」
     いつの間にかキーボードの片付けが終わったらしい朝陽が隣に立って、自分を見上げていた。どうしたの、と聞き返せばどこか引っ込み思案な仲間は何かを言いかけて、俯く。こういう時は焦らさない方がいい、と短い付き合いで分かっているので、何も言わずに言葉を待つ。
    「ラビ、さん……このあと……お暇でしょうか」
    「うん、予定はないよ。どうして?」
     柔らかく微笑んでラビが首を傾げる。すると、どこかに行きませんか、と消え入りそうな声で返された。
    (おお、一歩前進だな……)
     軽い感動を覚えながらいいよ、と頷く。返答にひどく安心したのか、ぱっと表情を明るくさせて朝陽がとろりと笑う。
     頬は少し赤らんでいて、濡れ気味な琥珀色がきゅ、と細くなった。
    「……」
    「…………ラビさん?」
     とん、と心臓を軽くノックされたような感覚に、言葉を失う。やっぱり駄目ですか? と朝陽が眉を下げて、首を傾げれば、はっと我に返ってそんなことないよと首を振りながらモップを持ち直した。
    「で、どこにいく?」
    「あっ、え、と……どうしましょう」
     ラビを誘うことに精一杯で何も考えていなかったらしい。慌てだした朝陽に苦笑いしながら、そうだなあとスマホを取り出す。そういえばコーヒー豆を切らしそうなんだ、買いに行くついでにぶらつこうよ。ラビが提案すれば朝陽はこくこくと頷いて、はいっ、と元気を取り戻したように返事をした。それならとっとと片付けてしまおう。ちりとりに埃を食べさせて、それからゴミ箱へ。
    (なんだろうな)
     さっきから妙に早くなった鼓動に奇妙だと考えながら、モップとちりとりを掃除箱へ戻す。朝陽もノアに二人で寄り道をすると告げて、ケースを背負った。あまり遅くならないようにねと釘を刺してくるノアに分かっているよと答えてレッスン室を出る。校門を過ぎてもそわそわとしている朝陽に今日のレッスンの話題をふりながら、歩いて行く。
    「……えへへ」
     思わず、というような唐突さで朝陽が笑う。何か可笑しいことを言ったかなとラビが瞬きをすれば我にかえったのか顔を真っ赤にさせた。
    「あ、いえ、違うんです……なんだか嬉しくて」
    「嬉しい?」
     こうしてお喋りしながらラビさんと帰れるのが、嬉しいんです。朝陽がぽつぽつと独り言のように答える。その言葉に今度こそぽかん、とラビが軽く口を開いて、朝陽を見つめる。
    「朝陽……口説いてる?」
    「ち、違います……!」
    「ははっ、ごめんごめん、冗談だよ」
     随分直球だなぁと思って。ラビが肩を揺らして、笑う。からかわないでくださいとしょぼくれる朝陽の桃花色の髪をぽんぽんと撫でてみる。
    「オレも嬉しいよ。もっと仲良くなったみたいだ」
    「……」
     顔を真っ赤にしたまま朝陽が頷いて、頭を撫でるラビの手にそっと触れる。お兄さんみたいです、と零す朝陽に同い年だよと軽い抗議をして、それからふと夕空を見上げた。
    (まいったなぁ)
     この気持ちはなんだと自問する。答えが見つからないまま、その問いを頭の隅に追いやってそれから、朝陽の話に耳を傾けた。
    休日の予定
     ぱり、と四月の日々が書かれた羅列を破る。
     新しく顔を出した五月の文字と、これから過ごしていく日々の羅列にほんの少し胸が高鳴った。世間はゴールデンウィークで講義も休みだ。火曜日にI❥Bとしてのイベントがある以外はオフである。その日付を囲んだ四角にはイベント! と赤文字で書いてあるのを見つけて、朝陽は思わず口元を緩ませた。きっとレオンが書いたのだろう。
     休みをどう過ごすかを思案しながらケトルに水を注ぎ火をかける。棚の戸を開けてコーヒー豆の入ったキャニスターを取り出し、コーヒーミルに中身を適量、入れた。ハンドルを持って回し始めれば、ごりごりと音が鳴り響く。そのままのんびりと豆を挽きながらふと窓の外を眺めれば意外と風が強いらしく、庭に植えた木の梢が揺れている。引き出しを開けて、出来上がっているか確かめた後、湯気をシュンシュンと噴きだしているケトルの火を消してマグカップにコーヒーフィルターをとりつけた。
     ゆっくりと階段を降りる音がする。やっと起きてきた、と最早慣れてしまったという視線を、そちらに向ける。
    「おはよ……」
    「おはようございます」
     掠れ気味の低い声で挨拶をしながら、のそりと現れた恋人に笑いかける。んん、と頷きながら瞬きを繰り返すラビに、まだ目を覚ましきっていないのだろうなあと考えながらお湯を注いで、トースターにクロワッサンを放り込んだ。
    「起きてください」
    「……おきてる」
     そう答えてしばらく黙り込んだ後、半分は、と付け足すラビに近寄り背伸びをして、その頬に口づける。シルバーアッシュの髪の、撥ねた部分を撫でつけてみるもののそれはぴょこん、と元に戻った。
    「みんなは?」
    「ノアさんは星夜さんとお出かけに、レオンはナンパ、リュカはいつものスタジオです」
    「……ナンパ……」
     唯一引っかかった言葉を繰り返してから、そう、と頷く。それから気がついたのか、朝陽は? と疑問を向けてきた。
    「オレはどうしようか考えているところです」
    「……もしかしてオレを待っていてくれた?」
     深いコバルトブルーに喜びがよぎる。ついさっきまでとろとろと虚ろだったその青は目を覚ましつつあるのか幾分かはっきりとした意思を持ち、朝陽を見つめている。
    「朝起きてひとりぼっちだと寂しい、です……」
     オレだけかもしないですが。音を鳴らしたトースターに歩み寄りながら、付け足す。少し焦げたそれを皿に置いて、それから淹れたコーヒーと一緒にテーブルに置いた。
    「いい天気ですけど、風が強くてどうしようか、と……」
    「ほんとだ、木が揺れてる」
     窓を横目にいただきます、と手を合わせてラビがコーヒーを口にする。柔らかな苦味にもう一段階、目が覚めるのを感じつつクロワッサンをかじった。ぱりっとした外皮の中身はふわふわと優しい。
    「ラビさんは?」
    「……起きた都合で考えようって思ってた」
    「ああ……」
     それもそうか、と朝陽が頷く。ラビがもう一度ゆっくりと朝食をかじって咀嚼しながら、一日の予定を考えてみたもののとりあえず朝陽がいるからとつい、そんな結論になってしまった。
    通り雨
     機嫌の良い猫が喉を鳴らす音に似ていたが、このシェアハウスの中に猫はいない筈である。それに音がやけにくぐもって、遠い。
     降るか? と頁に落としていた視線を窓にうつす。ひんやりとした風が吹き込んで、そして見計らったようなタイミングでガラスに大粒の水滴がぶつかった。それを合図に、ざあ、と外が煙る。
    「ああ、まずい」
     溜め息を吐きながら本を伏せる。開けていた方の窓に歩み寄ってゆっくりと閉めれば、慌てた様子で門扉をくぐる小さな人影が視界をよぎった。
    「朝陽?」
     パーカーのフードをかぶってはいるものの、ちょっと濡れたでは済まないだろう。遠くの方で玄関扉が開けられる音に慌てて自室を出る。洗面台に立ち寄ってバスタオルを引っ掴み、玄関へと向かった。
    「た、ただいま、です……!」
     ひゃー、と小さな声をあげながら困ったように、朝陽が立ち竦んでいる。案の定ずぶ濡れで、桃花色の毛先や指先からぽたぽた、雨の名残を滴らせていた。扉の向こうでは雨がざあざあとわめいている。
    「おかえり、災難だったな」
     タオルをひろげて頭からかけてやればくしゅん、と小さなくしゃみが聞こえてきた。あの短時間の激しい雨でぐっしょりと濡れた身体は、冷えてしまっただろう。
    「シャワーを浴びたほうがいいよ」
    「は、はい……」
     髪の毛を拭きながら朝陽が頷く。スニーカーを脱いで、しかし上がるのを躊躇う様子にその足下を見た。靴下が色を変えているのが見えて、ラビは朝陽を鞄ごと抱き上げた。
    「よっと」
    「ラビさん!?」
     いとも簡単に身体を持ち上げられて朝陽が驚いた声を発する。いきなり抱きかかえられたことへの驚きとすぐに襲ってきた恥ずかしさで顔を真っ赤にさせたが、なんでもない顔でラビが廊下を進んでいく。
    「おや、おかえり朝陽」
    「………………た、ただいま、です」
     ダイニングテーブルに座り紅茶を待っているらしいノアに声を掛けられ、顔を覆いながら朝陽が応える。ずぶ濡れだねと片眉を上げるノアの声色は普段と変わらない。ノアの向かいにはリュカが腰掛けていて、ちらりと二人に視線を寄越したあとでおかえり、とぼそりと呟いた。
    「お風呂って誰か使ってる?」
    「いいや、誰も。レオンはキッチンで紅茶を」
     そうか、ありがとう。ラビが頷いてそのまま浴室へと向かうのを見送り、ノアが立ち上がる。キッチンへと向かい、レオン? と声を掛けた。
    「なにー?」
     ケトルで湯を沸かしながらレオンが棚を漁っている。スコーンは右だよ、とノアが告げれば、おっ、と声の調子があがった。
    「朝陽が帰ってきたから、お茶を淹れてあげて」
    「オッケー。今?」
    「いいや、暫くは出てこないと思うよ」
    「そっか」
     じゃあ準備だけしておくなと手をひらりと振ってからコーヒー豆の入ったキャニスターも一緒に取り出すのに頷いて、ノアがリビングに戻る。視線を窓の外にやれば、相変わらず窓の外は雨で煙っていた。
    「ひどいな」
    「天気予報は晴れだと言っていたが」
    「そういう日もあるさ」
     くすくすとノアが笑った瞬間、空気を切り裂くような音と、どぉん、と大きな音が辺り一帯に響く。ちかちかと光る窓の外、そして一瞬だけ照明が消えて、ああでも本当に、ひどい天気だとノアが呟いた。
    猫とあなた
    困りました、と零す恋人の顔は幸せそうだ。
    「もうおやつないです……わっ、こら、くすぐったい、です……!」
     カーペットにへたり込む朝陽に猫が数匹群がっている。頭をぐりぐりと押しつけてくる猫や、無理やり背中に乗ろうとする猫、目の前でごろりと寝転がる猫ととにかく、スタッフに驚かれる程に懐かれている。そんな朝陽の様子を眺めながら、ラビは少し離れた壁際で座っていた。丁度テーブルとクッションがあって、猫と恋人を眺めながら寛ぐにはもってこいの場所だった。
     アイスコーヒーを一口飲みながら、猫と戯れる朝陽をスマホで撮ってみる。ぱしゃ、と音がしたが恐らく気がついていないだろう。後でI❥Bのグループトークに送ればノアが喜ぶだろうかと考えていると視界の端で何かが動いた。
    「ん……?」
     大きめの猫が、こちらを窺っている。背中を丸め、前脚を揃えて、尻尾をぱたんぱたんと振るその生き物は朝陽と戯れているそれよりも大きく、本当に同じ種で括ってしまってよいのだろうかと心配にすらなる。
    (ああでも、トラも猫か)
     スマホをテーブルに置いて、持っていたおやつの袋をかさかさと鳴らしてみる。
    「おいで、猫さん。おやつはどうかな?」
     音に反応したのか目を丸くさせて、耳を小さく動かすのが面白い。彼(彼女?)ならば少しぐらい触らせてくれるかもと僅かな期待が膨らんだ。袋の封を破って、手のひらに中身を載せる。そっとそれを見せるように差し出せば、猫は鼻をひくひくとさせてそろり、近寄ってきた。
    「ねえ撫でていい? 他の子は近寄ってきてすらくれないんだ」
     手のひらのおやつをカリカリと食べ始めたのを見計らって、ゆっくりと手を近づける。その指がふわふわとした毛並みに触れようとした瞬間。
    「シャーッ」
    「ああ、うん。ごめん」
     盛大に威嚇されて、思わず謝罪しながら手を引っ込める。のこりのおやつをがっついた後、尻尾を膨らませながら猫はどこかに走り去ってしまった。
    「……」
     おやつだけをとられた形になって、小さく溜め息を吐く。猫が逃げた方向から朝陽に視線を戻した。どうにも動物には好かれない。動物園や牧場のロケのたびに少々憂鬱になってしまうのも事実だ。サーカスで出会った白ウサギの相棒と仲良くなれたのは、奇跡に近い。
    「ら、ラビさぁん」
     助けを求める朝陽の声がする。ついに肩には猫が乗っていて、膝の上にもふわふわとした子猫が丸くなっている。動けなくなってしまって困ったといった目でこちらを見つめてくる恋人に苦笑いをして、立ち上がる。
    「ちょっと待ってて」
     近寄ればそれだけで膝の上の子猫や、寝転がっていた猫が慌てて逃げていく。
    「ごめんね、朝陽お兄さんはオレ専用なんだ」
     肩の上の猫をそっと抱き上げる。じたばたと暴れるいきものを床にゆっくりと降ろせば恨めしそうに鳴かれた。よいしょと朝陽の隣に胡座をかく。膝の上にいた子猫は諦めきれないらしく、ラビが座った反対側にまわって、朝陽の膝によじ登ろうとしていた。
    「朝陽は猫に懐かれる天才だなぁ」
    「そうでしょうか……」
    「オレなんてこれだよ、おやつも効果なしだ」
     隣を通ろうとする猫を見やれば、明らかにラビを警戒しているのが見て取れる。肩を竦めるラビの横でううん、と朝陽が唸って、首を傾げた。
    「どうしてでしょうか……」
    「さあ……そんなにオレって動物に怖がられるような雰囲気なのかなぁ」
    「……まさか」
     ラビさんは優しいです。くすくすと笑いながら、朝陽が膝にのぼろうと頑張っている子猫を抱き上げる。ね、猫さんと喉を撫でれば、ごろごろと気持ちよさそうに喉を鳴らし出した。
    「ラビさんは大きいから、少し驚かれるだけですよ」
    「そうかあ、じゃあ仕方ないな」
     とは言いつつ納得していないような声色でラビが頷く。ねえ、オレは怖くないよ。朝陽の抱く子猫を撫でようとすれば、かぷりと噛まれた。
    おねだり
     困った、と言いたげな顔でラビが朝陽を見おろしている。少し勝ち気さが垣間見える眉が今は軽く下がっているのを認めて、朝陽も眉を下げた。どうかしましたか、と目で訴えてみる。
    「キスしたい」
    「…………」
     唐突とも言える望みに朝陽がゆっくりと瞬きをする。深いコバルトブルーの瞳がきゅ、と細められてどうかな、と恋人の気持ちを確かめるように聞いてきた。自室で寛いでいる時の、よくあるやり取りではあるが、朝陽がううん、と考え込んでから、口を開く。
    「ほっぺ……ですか?」
    「そうだな、朝陽のほっぺは柔らかくて好きだよ」
     ラビが背中を丸めて朝陽の頬に軽く口づけを落とす。ちゅ、と頬に唇が触れて、瞬く間にそこへ熱が集まった。しかしとうの本人は、それで満足していないようである。
    「でもまだしたい」
    「……反対も?」
     そうだね、とラビが笑う。同じように反対の頬に、唇が触れた。同時にがっしりとしたラビの手が朝陽の手を握る。まだ満足はしていないらしい。ちゅ、ちゅ、と朝陽の顔の輪郭を確かめるように、何度も口づけが降ってくる。くすぐったさに笑いながら、ラビさん、と呼べばキスの雨はやんだ。再び向けられる双眸は、我が儘な色を孕んでいる。
     ラビさん、と呼んでみる。欲を隠そうとしない恋人は何も言わずにそれでも逃がさないと言いたげに、手を掴んだままだ。朝陽、と一度だけ小さく呼んで、口元を緩ませた。
     そんな態度に、ほんの少しだけむっとしたので。
     少し背伸びをした。恋人の唇に自分のそれを押しつけてみる。んっ、とラビが声を出してそれからきゅ、と指を絡めてきたのを悟り、朝陽はふふ、と笑った。
    図書館
     いったいどうして? と言いたげにラビは空を睨み付けていた。六月も初旬だというのに真夏のような空と太陽が、雪国生まれの若者を虐めてくる。暑さと眩しさに皺を寄せていた眉間もすぐにゆるみ、眉尻が下がる。への字に曲げていた口も、はあ、と大きな息を漏らした。
    「あついな……」
     そう呟いた言葉が合図であるかのようにこめかみから頬へ、汗がつうっと流れる。それを拭って、しかしたまらず制服の上着とベストを脱いだ。露わになった黒いシャツも袖を出したい気持ちに駆られたが、踏みとどまる。服の中で溜まっていた熱はある程度出ていったがそれでもこの暑さの中、歩いて帰るのは躊躇われる。涼しくなるまで図書館に避難しようと考え、くるりと踵を返した。
     
     図書館は好きだ。涼しいし、何より本が沢山ある。驚くべきはその規模で、仕事のための資料や教則本はもちろんのこと、国内外問わずのベストセラー小説や今やどこの本屋に行っても見つからないだろうマイナーなものまで、何でも揃うと行っても言いすぎではないのかと思える。あのふかふかとした身体をした校長の趣味も随分含まれているだろうが兎に角、自分がここで学んでいる間に読み切れる量ではない。
     新刊のコーナーに立ち寄ってみる。暑さでぼんやりした頭ではさほど吟味することも出来ず、目に付いた雑誌を一冊手に取る。そこから少し奥のソファが置いてあるエリアに行って、どかりと腰をおろした。合皮で出来たそれはひんやりとして気持ちが良く、暑さから逃げるにはちょうどいい。隣に鞄を置いて、雑誌を広げる。
     本当に適当にとったそれは料理雑誌だったらしい。表紙には暑い夏を乗り切るための一品特集、なんて書かれていて、図らずも今のラビ向けではあった。特集のあおり文が並ぶそこをまじまじと眺めて、それから一ページ、ぱらりとめくる。最初は素麺やら冷しゃぶやら、涼しげな料理がレシピと共に紹介されていた。素麺なんかはつゆのバリエーションが豊かすぎて、一週間素麺だけで過ごしてくださいと言われても大丈夫なんじゃないかと錯覚するほどだ。
     涼しげな誌面をぱらぱらと捲っていくと、突如として現れたのは真っ赤な麻婆豆腐だった。その絵面たるや、先程の涼しげな誌面とは正反対である。
    「うわぁ……」
     思わず声が漏れる。いや、悪くは無いのだ。辛いものを食べることで汗をかいて体温を下げるとかそういう、よく分からないがそういう事を言いたいのだろう。ただ自分は少し遠慮したい。先輩である一誠ならば喜んで食いつくかもしれないが。
     そこから数ページにわたって紹介されている真っ赤な料理を薄目に眺めつつ、先程よりも早いペースで読み進める。じっと眺めていたらまだ暑さがぶり返しそうだった。
    「ラビさん」
    「わっ」
     不意に降ってきた声に肩をぴくりと震わせる。慌てたようすですみませんと謝罪の言葉を口にした声の主は、一つ屋根の下で暮らしている仲間で、そしてラビの恋人だった。
    「朝陽? どうしたんだ」
     朝陽を見上げればどこか心配そうな表情をしていた。それが不思議でん? と首を傾げているとラビの隣に遠慮がちに座ってくる。行動の意図が読めずにラビが頭の上に疑問符を浮かべていると。
    「蛮さんが教えてくれて……図書館にフラフラしながら入ってくるラビさんを見たって……今日はとても暑いから、その、心配で……オレ……」
     消え入りそうな声で説明をする朝陽に、ああ、と声を漏らす。それからふっと笑って、朝陽の頬を撫でた。
    「暑くて逃げ込んじゃった」
    「……具合は大丈夫ですか?」
     少し潤みがちな目をさせて朝陽が問えばうん、とラビが頷き、背伸びをする。涼しい室内のおかげで随分楽になった気がする。
    「朝陽の顔を見たら、元気になったよ」
    「かっ、からかわないでください……!」
    「本当」
     でもまだ外は暑いだろうな、だからもう少しいようよ。甘えるようなラビの声に、顔を赤くしたままの朝陽が頷く。それから雑誌に視線を落として、何を読んでいたんですかと聞けば、料理雑誌だよと答えた。真っ赤で辛そうな料理が並ぶ誌面に、朝陽がうわぁと思わず、声を漏らした。
    独占欲
     初夏特有のぬるい空気を感じながら、帰路についている。この国の六月は故郷の六月よりも夜が早く、長い。ぽつぽつと道を照らす街灯を辿りながらとりとめの無いことを考える。例えば今夜の夕食はなんだろうなあだとか、先に帰ったであろうレオンとリュカが些細な事で喧嘩に発展してそれにノアが怒ったり、その光景を見た朝陽がノアの怯えたりしないだろうかだとか、ごくごくありふれた事だ。並び立つ家々からは柔らかな明かりが、子どものはしゃぎ声が、生活音が、幸せを作り出していた。
     家の門が見えてきて、自然と歩みが早くなる。鉄製の門扉から入って内側から錠をした。
    「あ、ラビさん」
     声をかけられて前庭の方を振り向けば朝陽がいた。おかえりなさい、と微笑まれてただいま、と返す。照明があるとはいえ暗くなった庭で何をしているのだろう歩み寄れば朝陽の傍らには鉢植えが置かれていた。大きな白ユリが花を咲かせている。
    「どうしたんだい?」
    「やっと咲いたので……嬉しくて眺めていました」
     桃助さんに球根を貰って育てていたんです。毎日朝に水をやって。答えながら花を見つめて、朝陽がはにかむ。傷ひとつない真っ白な肌を持つそれを、朝陽の形のいい指が慈しむようになぞる。壊れ物を扱うような触れかたにゆらゆら、じゃれるように揺れる。その拍子に甘い香りがラビの鼻を掠めた。この花特有の重たいような、蕩けるような独特の香りだ。
    「……へえ」
     自分が朝、布団の中で眠気と身体のだるさと戦っている頃にぱっちりと目を覚ました朝陽が、このユリの鉢植えを愛でていたのかと思うと、妙に寂しいような、むかむかしたような気持ちになる。きっと甲斐甲斐しく水をあげて、時折話しかけて綺麗な花が咲くといいです、と話しかける姿が容易に想像出来る。
    「ラビさん?」
     ラビの様子に何かを感じ取ったのか、朝陽がじっと見上げてきた。ああ、と我に返って苦笑いをひとつ零す。花に嫉妬だなんて、流石にどうかしている。なんでもないよ。綺麗な花だなって感心していたんだと取り繕って、柔らかな桃花色の髪をくしゃくしゃと撫でる。わあ、と軽く声をあげてくすぐったそうに朝陽が笑った。しかしまた花を見て、それから目を伏せる。
    「でも、夏は越せないんです」
     寂しいです。軽く眉尻を下げて、花の遠くない末路を悼む朝陽にそんな顔をしないでと言いかけしかし、それを飲み込んだ。オレはずっと傍にいてあげるから、そんな顔をしないで。喉から出かかった言葉をどうやって別のものに変えようか。
    「…………もうちょっと早く起きられるように、頑張ろうかなぁ」
     最早無意識から出た言葉がそれだった。ほとんど独り言のような言葉に、朝陽の首がゆるりと傾ぐ。
    「どうしてですか?」
    「ん、そうだな……羨ましいから、とか」
     もう少しマシな言い方があったろうと後悔を頭に乗せる。しかしそんな恋人の心をよそに、朝陽がぱっと表情を明るくさせて、嬉しそうにラビの手を掴んだ。
    「そ、それなら、起こしにいきます……!」
    「どうしてだい?」
    「えっ、ラビさんも花を育てたいんですよね?」
     ああ、そういう意味でとったかと理解して、曖昧に頷く。ただ起こしにいくという言葉に一抹の不安を覚えてラビの眉間に皺が寄った。それはそれで嬉しいのだが、やはり心配だ。
    「……オレは朝陽を怖がらせたくないよ」
    「う……でも、オレ……ラビさんとアサガオを育ててみたいです……」
     アサガオ? とラビが首を傾げる。知らない植物だ。
    「朝に咲く花で、青かったりピンクだったり……桃助さんいわくいろんな色があるらしい、です。日本の小学生はみんな育てたことがあるよって教えてくれました」
     朝陽の説明になるほどなぁと朧気ながら想像する。きっと目の前の白い花がしぼんでしまったら、次はそのアサガオを朝陽は育てるのだろう。甲斐甲斐しく水をあげて、時折話しかけててみて、綺麗な花が咲くといいです、だなんて。自分が起きられなくても、ひとり、そうするだろう。
    「……わかった、起こしにきて、朝陽」
     頼むよ。もう一度朝陽の頭をくしゃりと撫でて、そのまま柔らかな頬に指を滑らせる。この恋人が傍らの白い花にしたように。
     琥珀色をした猫のような瞳がゆっくりと細められて、ラビのささやかな独占欲が満たされる。二人の傍らで咲く花は、重たく蕩けるような甘い匂いをさせながら、寂しそうに揺れていた。
    あまりにも透明な
     あまりにもそれは透明だった。透明すぎて、最初は見間違えではと自分の目を疑ったほどに。
     閉じられた瞼の間からじわりと溢れたそれが重力に従って眠る彼の鼻筋を伝い、頬を撫でて、枕に落ちてじわり、広がった。
    「……ラビさん?」
     思わず声をかけてみたがその瞳が開くことはなく、薄く開いた唇からは小さな寝息しか溢れない。起きている時には大人びた穏やかな表情をさせていることが多い恋人が、眠りについている時はこんなにもあどけない顔をしているのだと知った時、そしてその幼い顔が朝にはあんなにひどいことになっているのだと理解した時、朝陽の胸にどうしようもない感情がこみ上げてきたのは事実である。しかし今はそれよりも、どうして彼が眠りながら泣いているのだろうか、ということである。息を飲み、そっと指で涙の軌跡をなぞろうとする。
    「んん」
     くすぐったそうに顔を顰めて、ラビが呻く。ごそりと身じろぎをして枕に顔を押しつけたので朝陽の指は行き場を無くしてしまった。起こしてしまったかと息を飲んだが、再び寝息が聞こえてきてほっと胸をなで下ろす。
     
     翌朝に朝陽が悪い夢でも見ましたかと聞いてみたが、ラビの未だぼんやりと醒めきっていない頭では仲間がかけてきた言葉の意を汲み取れなかったのか、熱いコーヒーを飲みゆっくりと瞬きをしていた。いいや、と首をゆるりと振って、ゆめ、と呟く。夢を見ていたのかどうかすら、あまり覚えていなさそうだった。
    「どうしてだい?」
     朝陽の問いがひっかかったのかラビが首を傾げる。少し魘されていたのでと答えればそうなんだ、と他人事のように頷いて、それからごめんね、と一言付け足してきた。
    「最近は夜も暑いからかな」
     少し寝苦しいのかも。ラビの青い目はまだ少し、ぼんやりとしている。確かに七月になってから暑いというか、凄まじい湿気で蒸していた。ノアが除湿機を各部屋に割り当ててはくれるものの、それでも日本の湿気は凄まじい。しかし泣くほどではないはずだ。いくら彼が雪国の生まれで、暑さに弱いとはいえ、寝苦しさで泣くだなんて考えられない。
    「……」
     朝陽がポタージュの入ったマグを、きゅ、と握る。
     目の前の恋人が意図せず流したあの透明な涙は、あまりに透き通りすぎていた。その綺麗な涙を目撃したのは自分だけなのだと気がついて、くらり、軽い目眩が襲ってきた。
     彼の涙の理由は、本当に誰にも分からないが。
    七夕
     アイキッズ達がレッスンルームでたなばたさまを歌うというので、ピアノで伴奏を弾いた。弾いていたら、ピアノの音を聞きつけたロシア人がいつのまにか紛れ込んでいるではないか。
    「キンギンスナゴってなんだい?」
     歌詞プリントを彼らと眺めながらラビが首を傾げるのに、アイキッズ達が口々に歌詞の意味を教える。つたない言葉でだったがラビは素直に感心していて、皆凄いなと楽しそうにしている。朝陽の伴奏で小さな仲間達と一緒に歌い、ついでにホールの笹に短冊をつけにいこうよと上機嫌で提案してくるものだから、朝陽もそれに乗った。
    「届くか?」
     ラビがアダムを肩車に乗せて、いっとう高い場所に届くようにしている。楽しそうな声をあげ、短冊をつける小さな子どもを眺めながらオレも背が高ければとほんの少し、羨ましい気分になった。よしじゃあ、次は志乃なとかりばんこに肩車に乗せていくので、もう一回だなんて子もいる。そんなしあわせな時間もチャイムと共に終わりを迎えて、アイキッズ達がまたね! とぱたぱた駆けていった。その姿に手を振ってから自分が書いた短冊をどうしようかと、眺めた。
    「朝陽」
     ラビの声が降ってくる。はい、と見上げれば穏やかな笑みでラビが首を傾げている。
    「肩車しようか?」
    「はい!?」
     突然の提案に思わず大声を出してしまって、慌てて口を塞ぐ。くすくすと悪戯っぽく笑うラビを、困惑をこめて睨み付ければだって羨ましそうな顔をしていたからと深いコバルトブルーの瞳を細めて、じっとこちらを見つめ返してくるではないか。
    「う、羨ましいだなんて……ラビさんの背が高いなって思っただけです!」
    「ほんとにそれだけ?」
    「ほんとに、それだけです……」
    「……」
     ラビが軽く眉を下げる。なんてずるい顔と朝陽も同じように眉を下げて、マフラーに顔を埋めようとした者の、それは既に自室のクローゼットの中で眠っている。
    「すこしだけ……いいな、って」
    「じゃあしていい?」
    「だっ、だめ、です……!」
     誰かに見られたら、と言い終わる前に身体が浮く感覚に襲われる。流石に肩車ではなく、持ち上げるだけだったがそれでも軽々と、という言葉が似合いだろう。
    「はい、どうぞ」
    「…………」
     顔が熱くて、ひりひりとする。それでもせっかくだからと半ば投げやりな気分で、目の前の笹に自分の短冊をつけた。その瞬間、おや、と我らがリーダーの嬉しそうな声がしてとうとう自分の顔が熱で茹で上がってしまったのだと、朝陽は悟った。
    風習
     焼き菓子の匂いが鼻腔を擽った瞬間、あれ、と不思議に思って朝陽はキッチンに向かった。セバスチャンがティータイムのお菓子でも焼いているのだろうか。そっとキッチンの入り口から、覗き込む。するとそこにいたのはセバスチャンでも、こっそり忍び込んだリュカでもなく、シルバーアッシュの髪を一つに結んだラビだった。カウンターにはボウルや抜き型が転がっている。
    「あれ?」
     朝陽の視線に気がついたのかラビが振り向く。わ、と顔を引っ込めたものの、どうして隠れようとしたのかと自分でも思いとどまって、もう一度ゆっくりと顔を出した。深いコバルトブルーの瞳とかちあって、思わずすみませんと謝ってしまった。
    「謝ることなんてないだろ? 飲み物でもとりにきた?」
     手にしたトレーをカウンターに置くラビにいい匂いがしたのでと素直に答えればああ、と笑いを零し、ラビがスツールを指さす。
    「ちょうどいいや、味見をしてよ」
    「味見……ですか?」
     促されるままスツールに座る。味見。棚からマグカップと皿を取り出しながら、ラビが頷く。
    「何がいい?」
    「え、えっと……ミルクで」
     朝陽の声に冷蔵庫からミルクを出して、マグに注ぐ。そしてトレーに並んだ焼きたてのクッキーをいくつか摘まんで、皿に載せた。
    「はい、どうぞ」
    「い、いただきます……です」
     手を合わせて、それからクッキーをまじまじと見つめる。ラビも朝陽の隣のスツールに座って、その様子を見てくるので少し緊張しながらそれを一口、囓った。さく、と軽い音と共に、ほどよい甘さが口に広がる。
    「……おいしいです」
    「そうか、よかった」
     皆に配る者だからねと笑うラビに首を傾げる。皆とは。
    「何かの記念日ですか?」
    「うーん、そうだな、風習っていうか」
     ラビが曖昧に頷くのにぱちりと瞬きをする。気恥ずかしいなと顔を赤らめているのが不思議だ。一体どんな風習なのだろうか。
    「ロシアではね、誕生日の人が皆にクッキーとか、ケーキを振る舞うんだ」
    「……あっ」
     なるほど、と合点がいった。もうすぐ七月の半ばに差し掛かろうとしている。つまりこの沢山のクッキーは七月十三日に振る舞われるものだ。勿論朝陽や他のメンバーもラビの誕生日は把握していて(去年なんかは寧ろ本人が忘れていた)セバスチャンの力を借りながら準備を進めているところである。
    「……久しぶり、ですか」
    「うん」
     皿のクッキーをつまんで、ラビが朝陽の唇にそれを持って行く。焼きたてのクッキーの甘い匂いにふわふわと幸せな気持ちがこみあげてくるのを感じながら、朝陽が視線を泳がせた。しかしおずおずと口を開けば、その隙間にそれを突っ込まれる。口の中でクッキーが砕けていく。ゆっくりと飲み込んで、ミルクを一口。
    「……誕生日、楽しみです」
    「朝陽が?」
     オレじゃなくて? とラビが肩を揺らす。こくんと大きく頷けば、そうか、嬉しいなあと頬を緩ませるラビがかわいらしいと思えてしまった。
    「そっか、楽しみかぁ」
    「……う、だって……ラビさんの誕生日だから……きっと楽しいです」
    「うん……そうしてくれるんだろ」
     くしゃくしゃと桃花色の髪を骨張った手が撫でる。柔らかな頬が赤らんで、小さく頷くのをたしかめたあと、さて、それならクッキー作り頑張ろうかなと、軽く伸びをした。
    「お手伝いしていいですか」
    「ほんとうに? 助かるよ」
     エプロン持ってきます。朝陽がぱたぱたと慌ただしくキッチンを出て行くのを見送って、ラビが笑う。
    本当にのりすごせたならば がたんごとん。
     同じ調子の音に揺られていた。ふかりとした座席に隣り合って二人は座っていて、その音を聞きながら窓の外を眺めていた。がたんごとん、がたんごとん。
     窓の外は目まぐるしく街中を駆け抜けていく。スーパーマーケットに入る人、けたたましい音をさせている締め切りの前で佇む人々と車。線路脇で低い木が揺れている。
     同じ調子の音に、微かな揺れ。目まぐるしく変わる風景。
    「……」
     ラビがぼんやりと窓の外を眺めていると隣に座っていた朝陽の頭がかくん、と傾いだ。あれ、とラビがそちらに支線をやればもぞもぞと居住まいを直して朝陽が目を擦っている。それでも琥珀色の瞳は少し虚ろで、瞬きをしても眠気は追い出せていない。
    「朝陽」
    「う……はい……」
     ラビの呼びかけにのろりと視線をあげる。なんですか、と眠そうな目で見上げられて思わず苦笑いを零した。
    「寝てもいいよ。今日の朝は早かったしな」
    「いやです……ラビさんだって」
     ラビさんだって、頑張って起きてたじゃないですか。そんなことを言いながら朝陽がどうにか目を覚まそうと手をぎゅ、と握りしめて力を入れる。おきてますよ、と言いながらもゆっくりと瞬きをしていて、夜更かしをしたい子どものようだった。
    「それならいいけど」
     ラビが頬を緩ませ、朝陽の握りしめられた手の甲に手のひらを重ねる。ピクリと朝陽の肌が震えて、んん、と声が漏れる。硬く縮こまっていた拳がラビの手の中、恥ずかしがり屋の花が開くように力が抜けていく。小柄な少年にしてはしっかりとした、ピアニストの手。鍵盤の上を踊り穏やかな音も激しい音も奏でる事が出来る、自分達の音楽には欠かすことの出来ない音の導き手が自分の骨張った手の中で安らいだのを感じて、ラビはどこか満たされた思いを抱いた。
    「……らびさん」
    「ん」
     夕方前の停滞した空気に融けるような声に応える。
    「のりすごしたら、どうしましょう」
     このまま二人、電車に乗り続けて。未だ故郷ではない国の、運賃表の端に書かれた見知らない土地まで行ってしまって。きっとスマホも電池がなくなっている頃あいなんです。終着ですよ、って車掌さんに困った顔で告げられて。
    「そうしたら、どうしましょう」
     寝言に近いような声色だった。ついに朝陽の頭は隣に座るラビの肩にもたれかかって、身体を眠りが包んでいるようだった。それでも朝陽はふふ、と微かに笑って嬉しそうにそう問いかけるのだ。
    「……そうだなぁ」
     朝陽の手をきゅ、と握りしめてラビが目を細める。目的の駅まであとどれくらいだろうかとふと思ったが、まだだいぶ先な事に安堵した。隣で幸せそうにうつらうつらしている恋人を起こしたくない。
    「元来た線路を戻ればいいよ。電車に乗ってさ」
    「…………」
     すう、と微かな寝息が聞こえる。ちらりとラビが朝陽に視線をやって、それからまた窓を眺めていた。
     がたんごとん、がたんごとん。電車は進んでいく。
     金木犀 夜に雨が降っていたのは知っていた。窓の外で水の音がしていたから。
     少しだけ寝返りをうって、枕に顔を押しつける。それから布団を引っ張って少し冷えてきた空気から逃げるようにぎゅっと目を瞑ってからは、朝陽はすぐ眠りに落ちた。

     夜の内に雨が降ってたなんて知らなかったよとラビが零す。昇りきった朝日が濡れた字面を照らして、少し眩しいのか深いコバルトブルーの瞳をしぱしぱと瞬かせている。眠りながら聞いた静かな音とは裏腹にそこそこ降りしきったらしく道のそこかしこには水たまりが浮かんでいた。
    「雨が降ると秋のはじまりなんだってね」
     テレビでお天気キャスターさんが言っていたよと言って、確かに涼しくなったなぁと嬉しそうにしているのでそうですねと朝陽が頷く。これからどんどん涼しくなって、またマフラーを巻く季節が来るのかと思うと少しだけ憂鬱だった。逆にラビはあの茹だるような暑い日々からようやく解放されるのが嬉しいらしい。それに関しては朝陽も胸を撫で下ろすところだった。
    「あれ」
     ふとラビが足を止める。つられて足を止めれば、ラビの視線は街路樹へと向けられていた。それから視線を彷徨わせて暫く黙った後。
    「ああ……雨で散っちゃったのか」
     少し残念そうに言うラビの視線の先には橙色の水たまりがあった。正確には水たまりの中に、橙色の小さな花達が浮かんでいる。金木犀と人々に呼ばれるそれは昨夜の雨で殆どが水たまりの中へと落下したらしい。
    「いい匂いは残ってるみたいだけど」
     ラビの声と共に朝陽の鼻先にふわりと甘い香りが届く。秋のたびに一度は香るそれは最後の名残とばかりに前日よりも強い芳香を漂わせていた。
    「今日の夜も雨だそうです」
    「そっか、じゃあ今年はこれでおわかれだ」
     もう一度、橙色に染まった水たまりを眺めてからそこを踏まないように避けて通る。これはこれできれいだねと笑って、朝陽の手を握る。手を引かれながらそこを見る。寄り添いながらぷかぷかと浮かぶ小さな花の末路を思って、小さく息を吐いた。
     夜更かし
     夜中に喉の渇きで目が覚めて、朝陽が廊下に出ると右向かいのドアの隙間から照明の光が漏れていた。その部屋は恋人の自室で、もう随分と遅い時間だというのにまだ起きているのだろうかと気がかりになりそっと、部屋に歩み寄る。
    (ラビさん?)
     こつこつ、と指でドアを軽く叩いてみるものの返答はない。少し迷ったあとで失礼します、ともう少しだけドアを開けてみて、そこから恐る恐る部屋をのぞいた。
     大柄な彼の背中がゆるく丸まって、そのラインにそってシルバーアッシュの長い髪が流れている。デスクに向かって何かに集中しているようでこちらには気づいていないらしい。声をかけるべきかどうか一瞬迷い、しかし諦めて朝陽は一歩、後ずさりした。同時に、冷え切った夜の空気が身を包んでいることを自覚して。
    「っちゅん……っ」
     小さなくしゃみでも静かすぎる廊下ではじゅうぶんだった。ぶるりと身体が震え、そして恥ずかしさで顔に熱が集まる。気づかれたかも、と足早に部屋に戻ろうとしたが、一足早くドアからの光が強くなった。
    「朝陽?」
    「ぁ……ら、ラビさん……」
     こんばんは、と的外れな挨拶をかければ、ラビが首を傾げる。どうしたの、こんなに遅い時間にと聞かれればそれはこっちの台詞だと軽くかぶりを振った。
    「水を飲みにいこうとしたらラビさんの部屋のあかりがついていたので……」
     朝陽の言葉に軽く目を見開いて、ああ、と決まりが悪そうにラビが口元に手をあてる。ドアがちょっと開いていたみたい、ごめんねと苦笑いをしながら朝陽の頭を撫でて、その桃花色の髪の毛をくしゃくしゃにした。
    「いえ、あの、ラビさんこそこんな遅くまで起きてたんですね……」
    「本を読むのに集中しちゃって……もうこんな時間なんだな」
    「本、ですか」
     彼が趣味のひとつに読書を公言していることは朝陽も知っていた。確かに待ち時間や休憩時間の時々で静かにページをめくる姿を見かけている。しかし朝陽や他の仲間が用事がある素振りを見せればすぐに紙面から顔を上げて、気分よく応えてくれるのであんなにも集中して読書をしている後ろ姿を見たのは初めてかもしれない。そう思い至ると同時に大事な時間を邪魔してしまったという申し訳なさがこみ上げてきた。
    「すみません……」
    「えっ、どうして」
     邪魔をしてしまいました、と気落ちした声で謝罪する朝陽を見下ろして、ラビがぱちりと瞬きをする。ややあってから口元に笑みをうかべ、もう一度くしゃり、と朝陽の頭を撫でた。
    「そんなことないさ」
    「うぅ……おやすみなさい……」
     しょげた声をさせながら部屋に戻ろうとする朝陽の手首をラビが掴む。へ、ともう一度ラビを見上げれば、深いコバルトブルーの瞳が薄闇の中できろり、と輝いていた。
    「でも、そうだな。申し訳なくなるなら、オレの部屋においで」
    「え、あ……あの、ラビさん……?」
    「まだ少し目がさえているからね。寝物語でもきかせてよ、朝陽」
     そのままゆっくりと引っ張られて抱き留められる。狼狽した声を漏らして、朝陽が小さく藻掻くがこの大きな恋人には力で勝てるはずもなく。
    「…………はぃ」
     小さく頷く。やった、夜更かししてみるものだねとラビが笑って、さあ入って、水ならあるからと朝陽の背中をそっと押すのだった。
     季節の変わり目
     過ごしやすくなってきた。あれだけ照りつけてきた陽の光も弱まって、窓を開ければ心地のよい外気が部屋に入り込む。今週はぐっと冷えるらしく、急激な気温の変化にシェアハウスの住民達はいつやろうかタイミングを計りかねていた衣替えを余儀なくされていた。
     ラビはというとこれぐらいの気温ならばまだ半袖でも問題なく過ごせるのだが他の四人が秋冬の装いをしている中で一人半袖でいるのもなぁということで、クローゼットから薄手の長袖を何枚か引っ張りだし、洗濯を終えたTシャツを仕舞ったのである。彼が本格的な冬の装いになるのはこの国では二ヶ月もないかもしれない。
     どちらかといえばついでにと始めた部屋の片付けのほうに手間取ったかもしれない。レッスンや仕事の忙しさにかまけて積み上げていた古い資料やとりあえず買ったはいいものの未だ手をつけていない本を棚に並べる。掃除機もかけて、ようやく一段落と換気の為に扉を開ければ、朝陽と出くわした。
    「あ、ラビさん」
     どうやら朝陽も衣替えついでに部屋の片付けをしていたらしく、手にしたゴミ袋を両手で持っていた。片付け? と聞けば、ぽっと頬を赤らめて頷く。最近忙しいからと言い訳して最低限しかしていなくてと気恥ずかしそうに答える恋人の姿は、すっかり冬の装いそのものに見える。たしかに寒がりな彼にとってはここ最近の急激な冷え込みはつらいだろう。声色も少し気落ちしているようだった。
    「捨てにいくのか? 持つよ」
    「あ、いえ、大丈夫、です」
     申し訳ないですからとぶんぶんと首を振る朝陽にそう、と手を引っ込める。廊下の壁に掛けられた時計をちらりと見上げれば午後三時すぎ、丁度お茶時の時間だ。
    「ねえ朝陽、一段落したらお茶しないか? 衣替えと掃除で疲れちゃって」
     ラビの誘いにぱちりと朝陽がまばたきをする。猫のそれのような琥珀色の瞳がじっと伺うようにラビを見上げて、そして小さく頷いた。朝陽の反応にラビがにっこりと笑い、部屋の扉を閉める。
    「それじゃあ行こうか、今日は寒いから暖かい飲み物がいいな。朝陽は何がいい?」
    「えっと……昨日お茶っ葉を買ってきました」
    「ああ、いいね。それにしよう」
     そういえば仕事先でもらったおまんじゅうが残っているんだった。ラビのうれしそうな声に朝陽がはにかんで、本当に冷えましたね、と先ほどよりかは機嫌のいい声で呟くのだった。
    かりかられ  
    ハロウィンのイベントに向けて、準備も大詰めの頃合いだった。アイチュウそれぞれに制作された衣装もあがってきて、皆空いた時間に試着をしてブラッシュアップを計っている。今しがた部屋を出て行った心を前にも見た気がしてラビは首をひねったが、背後に聞こえたカーテンの音に我に返り、振り向いた。
     故郷の民族衣装を身に纏った恋人をまじまじと見つめて、ラビは似合っているよと笑みを浮かべる。結った桃花色の髪の毛を揺らして、広い袖口でそっと口元を隠しながら、朝陽はもごもごと何かを言った。
    「ところでそれは何の仮装なんだ?」
    「えっと……キョンシーです」
     きょんし、と慣れない言葉を繰り返す。一体どんなモンスターなのだろうか。
    「えっと、吸血鬼みたいなもので……人の血を吸います」
    「意外と物騒だな?」
     朝陽に血を吸われちゃう。おどけたふうにラビが言う。
    「で、でも、ラビさんにきっと敵いません」
    「どうして?」
     だってラビさんは強いです。きっと負けてしまいます。目元を赤く染めて朝陽が言うのに、ラビが肩を揺らした。
    「……それじゃあ、キョンシーくんに自分から血を差し出すのはアリ?」
    「えっ、えぇっと……?」
     どうなんでしょう。困り顔で朝陽が首を傾げる。キョンシーもヴァンパイアみたいに、首から血を吸うの? とがっしりとした首筋を見せて、ラビが笑う。白い肌とは裏腹な、男らしいそこを見た朝陽の顔がぽん、と赤くなった。
    「あ、う、はい……です」
    「今ここで」
     ラビが小さく呟く。はひ、と朝陽が琥珀色の双眸をぐるぐるとさせてラビを見上げれば深いコバルトブルーがきろりと光った。
    いくじなしのクリスマス
     リビングに降りてみると、恋人が窓際で何やら手を伸ばしている。よくよく見てみると小さな白い実をつけた枝を束にして、赤いリボンで飾り付けていた。
     「ラビさん?」
     「ん?」
     朝陽の声に軽く振り向き、ちょっと待っててとリボンをきゅ、と結ぶ。窓の一番高いところに吊り下げられたそれを満足そうに見つめ、そして改めて朝陽に向き直った。
     「何ですか、それ」
     「ヤドリギのスワッグだよ」
     やどりぎ、と朝陽が繰り返すのにラビが頷く。クリスマスによく飾るんだ。幸運とか、魔除けとかそういうの。
     「ほら、日本だって二月にイワシの頭を飾るだろ」
     白い実をつけた幾何学的な枝に触れて位置を直すラビに頷く。
     「雪みたいな実ですね」
     「うん、赤とか黄色もあるんだけど……今年は白だな」
     確かに雪の粒みたいだと言うラビと共に、暫く二人でそれを眺める。窓硝子の向こうは穏やかだったがやはり寒いらしく、僅かに冷気が伝わってきた。
     「ああ、そう。レオンから聞いたんだけどさ」
     ふと思い出したようにラビが瞬きをする。この場にいない仲間の名前と、彼から聞いたこととは何だろうかという疑問に朝陽が視線を上げた。深いコバルトブルーの瞳が、こちらを見ている。
     「はい……?」
     「ヤドリギの下でキスをせがまれたら拒んじゃ駄目なんだって」
     少し笑いを含んだラビの声に今度は朝陽がぱちりと瞬きをする番だった。
     「キス、ですか……」
     「うん。どうかな、してもいいかい?」
     目を細めてラビが微笑み、目の前の恋人に問いかける。拒んではいけないと言ったくせに、伺いをたてるかのような物言いをするのだから始末が悪い。
     「……」
     頬を赤らめた朝陽がラビを軽く睨み付ける。彼にしては珍しい抗議の視線に頬を緩ませながら、ラビは静かに背中を丸める。シルバーアッシュの長い房が肩から流れて、朝陽の視界に影を作るのに、琥珀色の双眸はゆっくりと細められた。直後、ラビの唇に柔らかなものが触れる。僅かに音を立ててキスを施し、朝陽がラビの髪をくしゃりと撫でた。
     「ラビさんのいくじなし」
     「……」
     ヤドリギの下じゃなくても拒むわけないじゃないですか、と蚊の鳴くような声を出す朝陽をきょとん、と見つめる。それからややあって、ごめん、と囁き、今度はラビから、口づけた。
    つめたくてあたたかいひと
     布団の重さに目を開ける。縮こまった身体を伸ばせば、つま先が外気に触れた。
    「うぅ……」
     夜の内に冷え切った空気が肌を刺す感覚に思わず足を引き寄せる。身体を包む寝具の温かさに大げさな幸せを感じて力が抜けた。いつまでもこうしているのがこの時期の正しい過ごし方なのではと思える。
     自分のからだの温度と、布団の柔らかい温かさが溶け合う心地。ふわふわとした曖昧な思考。ここから抜け出すだなんて、とんでもない。ふたたび瞼が重たくなって、うつらうつらとしはじめる。あともうちょっとぐらい、そう、お日様で外の空気がもう少し暖められるぐらいまでは――。
     とんとんとん、と硬い音が耳に入り意識が揺り戻される。それでも聞こえません、と言いたくて、代わりに寝返りを打った。
    「朝陽」
     扉の向こうから聞こえてくる不明瞭な声の主が誰なのかは理解している。彼が早起きだなんて珍しいと暢気なことを考えて、彼ならもう少し先延ばしにしてくれるのではと淡い期待が浮かんだ。
     答えない部屋の主に一言断りを入れる声と共に静かに扉が開く音が続いた。同じぐらいの静かさで再び扉は閉められて、軽く床が軋む音と共に誰かの気配が近づいてくる。思わず息を潜めて、かろうじて起きていることに気づかれないように祈る。
    「おはよう」
     低く、柔らかい声が降ってきた。数秒黙りこくった後、朝陽がのそりと布団から顔を出す。窓からの日差しで充分部屋は明るくて、眩しさで目を細める。ぼやけた視界の中でも二つの青はいやにはっきりと把握できた。一度ぎゅ、と目を瞑りもう一度瞼を上げる。それでようやく輪郭がはっきりとした恋人を朝陽はじっと見つめた。
    「は、ようございます……」
     掠れた声で返してきた朝陽に、ラビが嬉しそうに微笑む。うん、と頷きながら朝陽のリラ色の髪を指で撫でればそのくすぐったさに身じろぎをして、それからゆっくりと身体を起こした。布団はめくれて、身体を包んでいた温かさも剥がれ落ちる。刺すような冷たさが襲ってきたのにぶるりと身震いをして、思わず布団を掴んだ。
    「寒いよな、暖房つけるぞ」
     ラビが苦笑いしてサイドテーブルに置いていたリモコンを手に取る。電子音とともに壁にとりつけられていたエアコンが唸りだした。
    「今……何時ですか……」
    「十時過ぎだよ」
    「……」
     少なくともおはようございますの時間ではないことを理解して朝陽が瞬きをする。年が明けて短い冬休みの中日であることが幸いだった。ラビがくすくすと笑い、ベッドに腰掛ける。まだうまく頭が働いていないらしい朝陽のぼんやりした顔、その頬をむに、と優しくつまめば朝陽はうう、とまた唸った。いつもだいたいは自分が最後に起きるけれど、冬に関しては話が別で。寒さに弱い恋人が休みの日にはこうしてのろのろと起きられずにいるのを眺めるのがラビは好きだった。極寒の国生まれでよかったとこればかりは思ってしまう。
    「朝陽」
     もう一度恋人の名前を呼ぶ。意思の曖昧な琥珀色が自分を見つめてくる。そっと身を乗り出して、彼の唇に唇を重ねた。少し乾いた、小さな唇に音を立てる。
    こたつむり
     この時期、シェアハウスのリビングにはこたつという家具が居座っている。ローテーブルと布団を組み合わせたもので、天板にはミカンやせんべいが入った籠が常備されていた。特に寒い日にはそこは人気で、レオンはそこでしょっちゅう眠りこけてノアに叱られている。ただ惜しむべきは四人が定員だというところだろうか、これでも大型のものを買ったのだが男五人が落ち着くには流石に無茶だった。

    ごそ、と微かな衣擦れの音にあれ、とあたりを見渡す。ラビの視界には人影は見当たらない。時計の針は夜更けを刺していて、いつもならば殆どが自室に戻っている筈だった。しかしリビングには明かりが付いていて、それなのに誰もいないように見える。誰か明かりを消し忘れたかと首を傾げながらラビがキッチンに向かおうとすれば。
    「ん……」
    くぐもった声が聞こえてきた。
    「朝陽?」
    どこか不明瞭だが聞き慣れた声に呼びかける。どこにいるのか、ソファでくつろいでいるのだろうかと探せばふとこたつの布団が膨らんでいるのを見つけた。そこから、小柄な肩とライラック色の頭が飛び出している。規則正しい動きと小さな寝息。すっかり寝入っているようだった。
    「ああ、朝陽。駄目だよ」
    苦笑いを零しながらラビが歩み寄り、しゃがんでその肩をそっと揺らす。顔を覗き込めば頬は少し赤らんで、唇は薄く開いていた。まだ起きないようで、すうすうと寝息を零している。
    「風邪をひいちゃうから、起きて」
    温かな頬に触れる。するとようやく、肌が震えた。のろのろと瞼が開いて琥珀色が覗く。一度、二度、と瞬きをしてもまだぼんやりと、それは虚ろだった。
    「おはよう」
    「……」
    「おーい?」
    ごそごそと身じろぎをして布団に引っ込もうとする朝陽の手を握る。むずがる子どものような声を返してきた。
    「さむい」
    「そう? でもここで寝たら風邪をひいてしまうよ」
    「うう……嫌です……」
    それはどっちの嫌なんだ? と首を傾げながらラビが朝陽の両脇に手を突っ込む。ず、と引きずり出せばうわぁと情けない声がした。
    「ほら、部屋に戻ろう」
    こたつの電源を切り、恋人を宥めながら頭をくしゃりと撫でる。既に解いて梳いた後のライラックの髪を指で整えれば少し拗ねたような顔をしていた朝陽が小さく頷いた。
    「連れて行ってください……」
    「はいはい」
    珍しく我が儘を言うな、と口元に笑みを浮かべる。勿論、連れて行くよと頬に口づけてそっと手を引く。こたつとうたたねで熱を持った手をきゅ、と握りしめればゆるく握り返された。リビングの電気を消して、階段を上がる。くしゅん、と小さなくしゃみの音が後ろから聞こえてきた。
    執心
     春、寒さが少し戻ってくる頃合いに咲く紫色の花を思わせる髪がきっちりと編まれて結ばれている。それが持ち主の背中の上でゆらゆらと揺れて、どこか猫の尻尾を思わせた。
    「出来るでしょうか……」
     二人きりのレッスンルーム、手元の楽譜に視線を落としながらぽそりと呟いた恋人に視線をもどしながら五線譜を覗き込む。ついさっきの授業で与えられた課題をチェックしているらしいのだが、その声色はどこか不安げだった。
    「心配?」
    「う……はい、です……」
     ラビが問いかければ躊躇いがちに頷く。軽く俯きながら音符を睨む朝陽の横顔は険しい。暫くその横顔を眺めていたラビが軽く首を傾げて口を開いた。
    「どうして?」
     理由を問いかけてきた仲間の声にえ、と目を見開きそちらを見やる。どうして、という問いに答えようと言葉を探すが、自分が抱く焦燥や不安をどうすれば伝えられるのか分からずに目をそらした。その様子に深いコバルトブルーの瞳がきゅ、と細まる。
    「間違えたら、とか……怒られたらって……それに不合格になったら皆の足をひっぱってしまいます……そうなったらまた……」
     ようやく絞り出した声も徐々に小さくなって、しまいには涙混じりの声に変わっていく。丸まって小さくなった背中が震えているのにラビがハッと我にかえり、ああ、と戸惑った声が漏れた。
     大丈夫、と言おうとした。しかしその言葉も今の彼にとっては空々しいものになるのではないかと、それこそ恐れたからだ。
    「……朝陽」
     そっと彼の背に手を置く。びくりと肩が跳ねて、朝陽がそろりと顔を上げた。ごめんなさい、弱音なんて、と鼻を鳴らしてぎこちなくはにかむ仲間をじっと見る。
    「オレは」
     オレはさ、朝陽。低く穏やかな声がラビの唇から零れる。
    「……ラビさん?」
    「朝陽の歌が好きだから……歌うのをやめないで」
     ラビの乞い願う言葉に朝陽が小さく首を傾げ、そしてにわかに目元がかっと赤くなる。
    「ら、びさん?」
    「朝陽のことは全部好きなんだよな、オレ。キーボードを弾く朝陽も歌う朝陽も、踊る朝陽も、あと頑張って番組で喋ろうとしてる朝陽も。それと寝てるオレを怖がってるけど頑張って起こそうってしてくれる朝陽も好き」
     心なしか早口でそう語るラビに瞬きをする。少し唐突な好意を受け止めきれずに頬を赤く染めながら、朝陽が口をぱくぱくさせている様にまた青い目は嬉しそうに細くなるのだ。
    「か、からかわないでください」
     いきなりそんなこと言われても困ります、と狼狽した朝陽がやっとのことでそう返す。それでもこのどこかおっとりした少年は、ゆるりと首を振る。だって朝陽、聞いてくれよ。背中を撫でていた手を仲間の手に重ね、そう返した。
    「本当のことだから」
     はっきりとそう告げて、彼はまた乞い願うのだ。歌うのをやめないで、その指を止めないで。オレ達と歩いて行くのを止めないで。柔らかく落ちてくる言葉が自分の中で染みて、じわじわと広がっていくのを感じながら朝陽はツンとしだした鼻をまた鳴らす。熱くなる眼窩の底に気づかないふりをして、朝陽は自分の手を逃がさないあのがっしりとした手にもう片方の手を重ねた。
    「はい」
     掠れた声でもきっと聞こえている。
    旧正月
     僅かに開いた扉から仲間の楽しそうな声が聞こえてきて、ラビはふとその部屋の前で立ち止まった。そっとのぞき見てみれば、机に向かっている部屋の主がパソコンに向かって喋っている。それは日本語でもなく、英語でもない、彼の故郷の言葉だった。パソコンからの声はこちらからは聞こえないが、あのライラック色の三つ編みが、その持ち主が頷く度に幸せそうに揺れている。
    「我很欣慰、大家都很好。对不起、我今年没能再次回家」
     喜びを孕んだ、しかしどこか申し訳なさそうな声色で語りかけている様子にああ、と合点がいって音を立てないようにその場を離れる。そういえばもう二月に入っていて、つまり彼の国では旧正月という行事が盛大に行われているのだ。本来ならば帰省して一家団欒を過ごすところなのだろうし、ノアをはじめ自分たちも提案してみたのだが、朝陽はゆるゆると首を振った。オレの家はまだ近い方だし、また今度にします、と。恐らく本音ではあるのだろう。本音と、ほんの少しの遠慮。
     リビングに降りればノアがソファに座りながら、まんまるとした赤いものを持っていた。持っている本人もそれを興味深そうに見つめている。よくよく見るとそれは提灯と呼ばれるランタンで赤い胴の部分に金色で漢字が書かれている。ラビもノアもそれは見たことのある文字だったが、見た瞬間に抱いた違和感の正体に気付くまで数秒かかった。
    「それ何だい?」
    「旧正月さ。朝陽が買ってきてくれてね」
    「ああ、中国の行事だろ? ……漢字が逆だけど」
     そう、逆なんだ、とノアが頷く。テラコッタの瞳を細めつつ注意深くそれを眺めている様はどこか手がかりを注意深く検分する探偵のように見えた。ややあって興味深いね、と頷きながら立ち上がり、シェルフの傍に壁に飾る。一ヶ月前にはそこは小さな鏡餅が置いてあったし、二ヶ月前にはスノードームが窓からの陽光を受けてきらきらと輝いていた。
    「朝陽は?」
    「家族と話してるみたいだ。お祝い事だからね」
    「そう」
     ラビの返答に満足げに頷き、それから壁にかかった時計を見やる。それじゃあ行ってくるよ、と手ぶらで告げるノアに、ラビが首を傾げた。
    「レオンとリュカに餃子や春巻きの材料を買ってくるように言ったんだけど中々帰ってこなくてね。どうしてやろうかと思っていたらリュカからLIMEが来たよ」
    「迎えにいくのか? 荷物が多いならオレが行くけど」
     買い出しに出た二人の間に何が起こったのか、何となく察したラビが片眉を上げてノアに聞く。荷物が多いならばノアよりも自分が適任だろうし、彼らが道ばたで喧嘩して中々おさまらないならば、やはりノアよりも自分が穏便に済ませられるだろう。ノアもそれを理解している筈であるが、彼はいいや、と首を振った。
    「大丈夫さ、荷物は二人に持って貰うし、それに」
    「それに?」
     少しばかり嫌な予感をさせながら、ラビが促す。ノアのテラコッタの瞳が細められ、くすくすと肩を揺らした。
    「ラビが来ると思ってる二人がオレを見れば、驚くだろうね」
    「……いい性格してるよ」
    「褒め言葉かな」
    「はは」
     誤魔化すように渇いた笑いを零し、両手をあげる。あんまり苛めてやるなよ、と付け足せば苛めるだなんて、とノアがとぼけた返答をした。行ってきます、と玄関へ向かうノアの背中を見送った後、壁にかかった赤いランタンに視線を戻した。今夜は餃子かぁと考えていると階段を下りてくる音がして、ゆっくりと振り向いた。
    「あれ? もう電話は良いのか?」
    「え、あ、はい……あっ、すみません、気を遣わせてしまって……」
     ラビの質問に頷いた後、朝陽が申し訳なさそうに眉を下げる。違うよ、たまたま扉が開いていたから聞こえただけで、とラビが否定すれば頬を赤らめて少年は恥じ入った。
    「久しぶりに家族と話せたんだろ、遠慮なんてしちゃだめだよ」
     くしゃりとライラック色の髪を撫でる。大きい手のひらに宥められる感覚に眼を細めながら朝陽は小さく頷く。
    「ノアさんたちは?」
    「餃子の材料の買い出し……に行ったレオンとリュカを迎えにいったよ。ついさっき出て行った」
     ラビの言葉に餃子、と呟く。ぱちりと瞬きをすれば琥珀色の瞳に喜びがよぎった。皆で作ろうな、と言ってやれば朝陽の口元に笑みを浮かべた。
    「さっきまでノアとランタンについて話していたんだ。ノアはランタンの字が逆さなのが気になったみたいで……」
     ちらりと壁の赤いランタンに視線を移せば、ああ、と朝陽が頷く。
    「〝逆さまの福〟と〝福が来る〟の発音が同じなんですよ」
    「なるほど」
     言葉遊びか、とラビが納得してランタンを眺める。赤い紙に金色で描かれたそれが急にありがたいものに見えてきたのだから不思議だ。
    「ノアに教えてやってよ、どうしてだろうってずっと考えてたから」
    「目に浮かびます」
     ノアさんらしいですね、と笑う朝陽に頷く。さて、オレたちも支度しようかと促す。肯定した朝陽のライラック色の髪がやはり嬉しそうに揺れるのを見ながら、ラビは小さなその背中に手を軽く置いた。
    アトリエにて 使い込まれながらも手入れの行き届いた彫刻刀の刃がつるりとした氷の肌を削る度に、そこから光の粒が煌めきながら落ちていく。
     いつもは賑やかな好青年が気配を張り詰めさせながら金色の眼差しを氷塊に向け、繊細な彫刻をそれに施していれば珍しいことにアトリエの扉が叩かれる音がした。更に珍しいことに、叩かれたきり扉の外の人物は許しがないことには入ろうとしないらしく、一瞬妙な沈黙が降りる。
    「誰かは知らんが、遠慮せずとも入ればいいじゃろうに……入ってもよいぞ」
     隣のスペースで昼寝をしていたらしい幼馴染みが呆れがちに声をあげる。するとようやく、遠慮がちに扉は開いた。この時点でArsのメンバーではないこと、声をかけなければ入ってこないということはプロデューサーではないことは確かで、では一体と折原がつと顔を上げて扉を見やればそこにはかの異国から来た少年二人が入ってきた。
    「あ、あの、お邪魔します……」
    「黎朝陽! 遠慮なんてしなくてもいいのだよ!」
    「あっ、は、はい……すみません……!」
     リラ色の髪を結った中国人の少年が申し訳なさげに挨拶をしてくるのに折原がいつも通り元気よく返せば驚いたように肩を跳ねさせる。その姿におや、と驚いたのは若王子で、ごそりと身体を起こし二人――朝陽とラビを迎え入れた。
    「これは珍しい……のう、輝」
    「どうかしたのか、楽」
     彫刻を施していた手を止めて道具を傍らの台に置く。珍しい、とはどういうことだろうか。朝陽がラビと一緒にいるのはいつも通りだろうに。
    「いやいや、これは珍しいぞ。朝陽がラビを支えておる。いつもとは逆じゃ、輝」
    「なんと、本当じゃないか! どうしたんだい、ラビ」
    「…………」
    「あ、あのっ、輝さん!」
     ぐったりとしてうなだれたまま答えないラビの代わりに朝陽が焦った声をあげる。彼も相当の体格差のある仲間を支えているからか少し足下が覚束ない。それを見かねた若王子がしょうがないのう、と反対側からラビの身体を支えた。
    「少し場所をお借りしてもいいでしょうか……!」

     折原のアトリエの隅でラビが座り込んでいる。先程まで熱で真っ赤だったその顔はひんやりとした空気に覚まされた幾分か白さを取り戻していた。
    「ごめんね、作業の邪魔をしてしまって」
    「謝らずともいい! 仲間を助けることは美しい行為なのだからね! さあ、存分に私の美しい氷彫刻を眺めながら涼んでいってくれたまえ!!」
    「あ、ああ……ありがとう」
     申し訳なさげにラビが折原に礼を言えばアトリエに響く大声量に軽く面食らいながらラビが頷く。それを眺めていた若王子はにやにやと意地の悪い笑みを浮かべながら折原とラビを眺めていた。
    「まあ、確かに北国生まれには酷な……というよりも俺らでさえ耐えられんような暑さじゃ、無理もあるまい」
    「はい……オレも今日は暑くてマフラーを外してきました」
     若王子の言葉に隣でラビの様子を心配げに見ていた朝陽が頷く。それはそれでどうかと思うぞと言いたいのをぐっと堪えて、若王子はふむ、と顎に手を置いた。
    「しかしいい物を見た」
    「いいもの、ですか?」
    「ここ暫くはこの話であやつをからかってやれるじゃろ?」
     くつくつと笑い、折原の止まらない話にうん、うんと素直に聞いているラビを顎でさす。よ、よくないです、と小さく窘める朝陽に冗談じゃと曖昧に返しながらふと片眉をあげた。
    「しかしよくここが思いついたのう」
    「……前にラビさんと一緒にここにお邪魔したとき、すごく嬉しそうだったので」
    「ほう」
     若王子が笑みを深める。中々に愛されている、という言葉は冷たい茶と共に飲み込んだ。
    ノラ
     猫は野良だった。名前はまだ、ということもなく寝床近くの餌場にカリカリとした食べ物を持ってくるシワシワな人間は猫のことを“さくらちゃん”と呼ぶし、夕方頃に見かける雌の人間は“みたらし”と呼ぶ。小さな人間は“ネコ”だの“ニャンニャン”だのといまいち不明瞭だ。
     さて、今目の前には雄の人間がいる。最初見た時は雌かもしれないと考えたが、多分雄だ。寒い日々が終わった頃に大きな木が咲かす花のような毛並みを尻尾のように垂らした雄の人間。最近よくここに来る。見た目は普通の人間だが、猫の鋭い嗅覚は彼からやんごとないような、人間でいう神だとか、そういったものの匂いが微かにするのを嗅ぎ取っていた。ただ猫は猫の神といったものにあまり馴染みがなかったので、やはり彼はただの人間に過ぎない。
    「こんにちは」
     人間にしては猫に礼儀正しい。座ってもいいですか? と寝ていた長いベッドと自分を交互に見て、問いかけてくるのでしょうがないなとひとつ欠伸をして猫一匹分、移動してやった。すると、ありがとうございます、と礼を言ってその人間はそこに座る。それからごそごそと袋から何かの紙を取り出して、それをじっと見つめだしたのだ。カリカリとした食べ物でもなく、ニュルニュルとしたおやつでもない。ひらひらで真っ白のそれが猫は気になって、座してしまい込んでいた手足をぐっ、と伸ばした後、人間に近寄った。
    「わ、どうしたんですか?」
     人間は少し驚いた声を出して、猫を見た。
     猫は別に人間に興味があるわけではない、人間が持つひらひらで真っ白なものに興味があった。鼻先を近づけ、匂いを嗅ぐものの、飯の匂いではなかった。真っ白かと思われたそれには、線が何本も横たわっていて、そこに丸い、そう、近くの水場で泳いでいる黒い丸に似た何かがいた。人間達が楽譜と呼ぶものであるが、猫は猫なので楽譜を知らない。とりあえず味がするだろうかと噛みついてみると、人間はあわてて楽譜を引っ込めた。
    「駄目です、ご飯じゃありませんから」
     困ったような声で人間が言い聞かせてくる。人間のくせに生意気である、とふんす、と鼻息を荒くしてやれば申し訳なさそうな顔でこちらを見つめてきた。
    「お腹が減っているんですか?」
     人間が聞いてくるから仕方なしに返事をしてやる。そうするとこの生き物のだいたいは、喜んでカリカリだとか、ニュルニュルとしたおやつを出してきたし、すっかり下僕になった者なんかは丸い皿に入ったご馳走を差し出してくる。例に漏れずこの人間も何かあったかな、とごそごそと袋を漁りだした。
    「朝陽」
     別の声に人間の手が止まる。ふと顔をあげたのでつられて猫も顔を上げれば、そこには人間、と思わしき生き物がいた。隣の人間よりも大きくて、猫なんぞ簡単に踏んづけられるだろうこの人間の毛並みは、とても寒い日の空に浮かぶふわふわ、もしくはそこから降ってくるヒンヤリ、に近い色だった。
     そのくせ目の色はよく晴れた日の空みたいに青いのだが、猫の類い希なる第六感はその人間から何か恐ろしい、住み処あたりで睨みをきかせるはぐれ猫に近い雰囲気を感じ取った。
     もう帰るんですか? と人間が聞く。うん、とやってきた人間が頷き、それからはたと猫を見た。じっと青い目が見つめてきたので、猫はついに毛並みを逆立てて。
    「シャーッ」
     そのまま、ダッと走り去ってしまった。
     茂みの奥へ消えゆく猫を見つめて、ラビが申し訳なさそうに朝陽に向き直る。
    「ごめん」
    「いえ、大丈夫ですよ。……猫さんはちょっと驚いたんだと思います」
     なんとかフォローしようとする朝陽にあはは、とラビが苦笑いする。いつものことだとは思っていても、猫と戯れていた仲間の邪魔をしてしまい申し訳なくなる。
    「また今度会ったら一緒におやつあげませんか」
    「会ってくれるかなぁ、ずっと威嚇されそう」
    「うーん、どうしてでしょうか……」
     ラビさんは怖くないのに、眉を下げて首を捻る朝陽を見て、なんとなく心当たりがあるのを胸に仕舞う。日も落ちて暗くなってきたのに気づき、手を差し出した。
    「とりあえず、帰ろうか」
     穏やかに促され、がっしりとした手を琥珀色の目でじっと見つめる。はい、と笑ってその手を握り、楽譜を傍に一歩、歩み寄った。
    ふち「ら、ラビさん?」
     緩慢に指や手を撫でてくる恋人に朝陽が僅かに戸惑った声で呼びかければ、んん、と生返事だけが返ってくる。後ろから抱き寄せられ、股座に座らされている格好のまま見上げればがっしりとした首筋と、顔の輪郭、それから淡い色の、シルバーアッシュの一房が視界に入った。
     同じ男なのにどうしてこんなにも体格差があるのだろうかと人体の不思議と不公平さに内心嘆きながら、ラビの体躯に身を預ける。こうなったラビは満足するまで朝陽を離さない。普段は大人びた態度で振る舞う彼が自分だけに見せる姿だった。
    「朝陽の手、好きだよ」
    「……」
     嬉しそうに囁かれ、朝陽の頬がぽ、と熱を帯びる。がっしりとした手が自分の手を包み込むように握ってくるのを眺めながら、朝陽は小さく声を漏らした。彼はよく、この小柄な仲間の手が好きだと言っていた。どうして、と聞けば。
    「きれいだから、意外としっかりしてるよね」
    「やわらかい」
    「ひとを幸せにしてきた手だから」
    「朝陽の手だから」
     なんて言葉をつらつらと吐いてくる。そのひとつひとつが朝陽の肌に、人の肌に触れた淡雪のようにじわりと溶けて沈んでいくのだ。そんなことないと反論しても俺はそう思っているよ、と柔らかく笑んで離してくれない。
     彼にはそういった狡さがあった。
     そしてその狡さがくすぐったくもあり、心地よくもある自分がいた。
    「オレも、好きなのに」
     ラビさんの手。子どもっぽい言い返し方にラビがきょとりと目を見開く。手に触れるひんやりとした感覚、骨張った輪郭、ドラムスティックで固くなった皮膚、ほとんど目立たなくなった、過去の瘡蓋。
     そこに触れることを許された人間にしか知り得ないこと。
    「オレのは別に綺麗でもなんでもないよ。触り心地も」
    「ラビさんの手ですから」
    「――一本取られたかな」
     ラビが苦笑いして、朝陽の手を握る力をそっと込める。その言葉にようやく朝陽は笑みを浮かべ、目を瞑った。
     手と、背中で恋人を感じている。
     規則的な呼吸の揺らぎ、彼が着ている衣服の柔らかさ、零距離の、心の摩擦熱。
    「溶けてしまいますね」
    「朝陽?」
    「このままだとオレ、溶けるんです。きっと」
     掠れた声で朝陽が呟く。その様子は微睡みにも似て、どこかふわふわとしていた。深く青い目でその姿を眺め、ラビが口を開く。
    「溶けちゃ駄目だよ」
    「……どうしましょう」
    「だって」
     きゅ、と手をもう一度握りしめる。先程よりも熱を帯びた朝陽の手は、体温の低いラビにとってはひどく熱かった。
    「もうすぐ皆帰ってくるだろ」
    「………………そうでした」
     のろりと目を開き、頷く。曖昧になりかけていた輪郭が、じりじりと戻ってくる感覚に、朝陽はごそりと身を捩った。
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    2022/06/23 9:40:39

    ラビ朝まとめ  (9/13更新)

    TwitterにあげていたSSまとめ。随時更新中。
    最終更新:9/13
    外国語に関しては翻訳サイトを使っています。二重にチェックはしていますが間違っていたらすみません、ご容赦ください。
    #アイチュウBL #二次創作 #SSまとめ #ラビ朝

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