早朝を描く 枕元から伝わる揺れにゆっくりと瞼を開く。
それから、視線がかち合った。
「……」
「……そのまま」
短く制されて、まだぼんやりした気分で、黙々と手元を動かす相棒を見つめる。朝食は何を食べようかと頭が働き出したところで、手嶋は薄く唇を開けた。
「何してんの、青八木」
「純太を描いてる」
「だろうな」
欠伸をひとつ零す。まだか、と目で訴えるも上機嫌に手を動かしているものだから起き上がろうにも憚られる。
「人の寝顔描いて楽しい?」
「純太を描くのはとても楽しい」
当たり前だとでもいうような返答に思わず苦笑いを浮かべる。
きっとそのスケッチブックには自分の間抜けな寝顔が、今描かれている最中なのかと思うと、枕に顔を埋めたくなった。
手が止まる。
おはよう、と身を乗り出してきて、青八木の顔が近づく。そのまま優しく落ちてきた唇は、少しだけほろ苦い。
それはいつも見ているもの 埋め尽くされたスケッチブックをぱらぱらとめくる。ロードバイクやら、人やら、ボトルが無造作に描かれているのを一つ一つ眺めて、手嶋は思わず、へぇと声を上げた。
「上手いな」
「……」
素直な感想を投げつければ照れ隠しに俯く相棒の、結ばれていた唇が微かに上がる。
ふと目に留まったのは、ロードバイクのスケッチ。車体のロゴはキャノンデール、それは見慣れすぎたもの。バーテープの汚れさえ見慣れたものだった。
「……これ、好きだわ」
手嶋が愛おしげにそれをそっと指でなぞる。
オレもよく描けたと思ってる。
真新しいスケッチブックに誰かの輪郭を描きながら、青八木は短く返した。
陽気に誘われて策謀のはじまり ついこの間まで張り付いていた寒さを春の嵐が拭い去って、かわりに眠気を誘う暖かさが降り注ぐ。白状すれば、少しだけ暑いほどに。
小さな庭の向こう、隣の家に植えられた梅の木には白く小さな梅がぽつぽつ。
庭で愛車を弄る手嶋の姿を縁側で描く。自分の愛車はついさっきメンテナンスを終えて、持ち主の隣で立てかけられている。陽の光を受けて、白く輝いていた。
「レースにでないか」
月末のやつ。陽気に誘われたか否か、何となく走りたくなってそう零したのは青八木で、それじゃあ勝ちにいくかとさも当然のように手嶋は乗った。
丁寧に磨かれていく相棒のキャノンデール、自分の愛車とは正反対の黒いフレームは、穏やかな陽光を反射してぎらりときらめいた。
君を攫うな花筏と桜吹雪 ぴゅう、と風が吹いて鼻先に桜の花弁が飛んできたので、思わず開け放たれた縁側を見た。
穏やかな風が桜の花弁を部屋の中に運びながら、そこに座る同居人の金色の髪を揺らしている。黄色の小さな筆洗いの隣で、胡座をかいて、何か熱心に塗っているようだった。
いくつかの花弁がフローリングを遠慮がちにはりついては震えるのを見下ろして、椅子から腰を上げる。なるべく音を立てないように縁側へ歩き、筆洗いを挟んで隣に腰掛けた。
スケッチブックに、町を流れる川が描かれている。ついこの間、愛車で流した所で、川沿いには桜並木が続いている場所だ。
川の水面を薄いピンクに塗っている青八木を無言で眺めながら、手嶋は小さな欠伸を漏らす。またふわりと風が通り過ぎ、それに攫われた桜の欠片がひとつ、ふたつ、金色に縋り付く。
思わず手を伸ばしてそれをとってやれば、青八木はようやく手嶋に視線を向けて、柔らかく笑った。
若人二人、古い家にて 洗ったジャムの空瓶に、オレンジの花たちが活けられている。長い年月を経て、小さな古傷達が刻まれたそっけないテーブルが、心なしか華やかになった気がした。
「なにこれ」
「ヒナゲシ」
「へぇ」
「庭に咲いていた」
古い借家だが小さな庭がある。そこで愛車の整備をしたり、たまに寄ってくる猫の相手をする。夏は縁側で酒を呑んで子どもみたいに花火を楽しんだり、秋の頃には隣家のキンモクセイが香ってくる。
隅っこの方では、前の主人が植えていた名残の草花たちがよく咲いていた。目の前の花もきっと、隅でひっそりと佇んでいたのだろう。
「まだ残ってる」
来年もまた見たいから、と鼻を指先でつついては笑う青八木に、手嶋は紅茶を淹れたマグカップを差し出した。
猫も天気も なぁお、と妙な声が聞こえた。
「そうか、雨が降るのか」
庭に面したガラス戸を開け放ち、相棒が何かに話しかけている。自分に、対してではない、天気の話なんてしていないからだ。手嶋が後ろから覗き込んでみては、そこには毛むくじゃらの何かがいた。
「猫?」
思わず口に出せば、その塊はグリーンゼッケンもかくや、どこかへすっ飛んでいき姿を消した。
「お前猫と喋ってたの」
「何て言ってるのかは分からない」
青八木は手元のスケッチブックに視線を落とす。そこには猫、もしくは毛むくじゃらの何かが描かれていた。
晴れている空の端、黒く分厚い雲が垂れ込めてくるのを認めて、青八木はカラカラと音をたててガラス戸を閉める。
絵を描くあなたの身に触れたい サボテンと睨めっこ。小さな鉢に植えられた丸いとげとげの緑を見つめては、手元の画用紙に描く青八木を、少し離れたソファで眺めるティータイム。
胡座をかきながら真剣に、小さなそれをスケッチしているので会話は続かない。ただ手嶋は紅茶で喉を潤しながら眺めるだけである。
少し丸まった背中は、背丈の割にがっしりとしていて、項を隠す金色は時たまに揺れては肩を撫でている。いつもは顔半分を隠している髪を耳にかけているので、少しだけ横顔も見えた。絵になる光景とは、こういうことなのかもしれない、と思い浮かんで、手嶋は指にひっかけていたティーカップを置く。立ち上がりそっと、夢中になっている同居人の背後に近寄った。
「純太?」
青八木が気配に顔をあげる。手嶋の指が、その背中をつぅ、となぞっていく。
くすぐったい、純太。
もぞもぞと身体を揺らし、青八木は目を細めて笑みを浮かべた。
帰りそびれたひとたち 夜のうちに帰りそびれた人々を乗せた電車を降りて、これから町の外に向かう人々の合間を縫いながら改札を出る。
春になっても未だ冷えた空気に気怠さの残る身体をぶるりと震わせつつ、手嶋は大きく伸びをした。隣では相棒が疲れた顔でぼんやりと立っている。
「……歩ける?」
「…………」
じろ、と軽く睨みあげられるのに苦笑いしながらゆっくりと歩き出す。
駅を出たすぐの広場で数人が輪行袋から各々の愛車を取り出しているのを目にした。ここからどこか遠乗りにでも行くのだろう。あと数時間で暖かくなる。
「どっか行きたいよな」
「……昨日行った。今帰ってる」
「そうじゃなくてさ」
自転車で。
そう付け足せば足を止め、眠たげな目で空を見上げながら青八木が小さく首を傾げる。
それからややあって、再びのろのろと歩き出す。
「海」
「海な、わかった」
まだ足下の覚束ない青八木の手を掴む。
とりあえずは疲れ切ってしまった相棒と家に帰らなければいけないのだ。
浜辺散策 海開きには速すぎる。人気の少ない砂浜を二人でぶらぶらと歩いていた。
時折落ちている、陸へと取り残された海藻を手頃な流木でつついたり、足下で貝殻やら砂やら硝子が靴の下で擦れては砕ける感覚を楽しんでいる。
青八木は時折何かを拾ってはジュースを入れていたビニール袋にいそいそと入れていた。
「何拾ってんだ?」
聞けば、と透明な丸い石のようなものを見せられる。石ではない、波に洗われて角のとれた硝子のかけらだった。へぇ、と声をあげながら太陽の光でそれを透かし見る。閉じ込められた泡と、少しだけ水色がかった色。
「綺麗だな」
次はそれで青八木を透かしてみると、彼の輪郭が少しぼやけて見えた。
まるで。
「海の中、みたいな」
思わず呟けば、青八木が小さく首を傾げたようだった。
アンティーブを眺めに テーブルの上に、絵画が散らばっている。
有名な画家の有名な絵。無造作に散りばめられたそれには例えば、門外不出の名作だとか、印象派だとか、初来日作品だとかの煽り文句が添えられている。
つまりは、チラシである。
神妙な顔でそれらと睨めっこしている相棒は時折これとこれは同じ日に行ける、ここは遠いな、これは早めに行っておかないと混む、そういった事をぶつぶつと呟きながらマネジメントが苦手な頭で悩んでいた。
悩むのも楽しみのうち、それを眺めるのも、楽しみのうち。
「ああ、これ」
好きだわ。手嶋が一つの絵を見て拾い上げる。風景画というのだろう、爽やかなグラデーションの空の下、海に面した異国の街と山が白く輝いている。
「見に行かねえ?」
明日にでも。そうウィンクすれば青八木の瞳が瞬いた。
「ああ」
仲直りの仕方 たまに、喧嘩もする。小さな喧嘩だ。些細すぎる理由だし、お互いに分かっているから長引きはしないけれども。
……何ヶ月ぶりだろうかと手嶋は小さく溜息をついて、言い合いの末に黙りこくっては真っ白なスケッチブックを食い入るように見つめ始めた青八木の背中に視線を投げる。
「……もう寝る。おやすみ」
不機嫌な色が声に混じるのを自覚して、今日はもう触れないでおこうと就寝を告げる。
おやすみ、と間を置いて投げられた少し掠れ気味の低い声に、背中を押されながら、重い足取りで寝室に戻った。
「……何してんの」
「寝てる」
「……青八木の部屋は向かいだろ。戻れよー」
「知らない」
今日はここで、寝る。不機嫌そうな声で身体を寄せてくる同居人にさてどうしたものかと寝ぼけた頭で思案する。追い出す、抗議する、諦める。頭がうまく働かない。
いや、分かっているのだ。そろそろ謝るべきなのだと。
「さっきはごめん」
「へっ?」
「……おやすみ」
それきり再び黙ってしまった青八木の背中を、思わず抱き寄せる。びく、と身体が軽く震えて、それきりだった。
「ごめん、許して」
我ながら情けない声だと思う。
小さく頷かれた気がした。
泥のような幸福に沈んだ 天気が良いので布団を干すことにした。掛け布団をかかえこむ。ふわ、といい匂いが鼻先を過った気がして、そのまま顔を埋めてみる。
「……」
ふかふかの抱き心地とその匂いに、幸福感に苛まれて、もう少しだけとベッドに倒れ込んで布地に顔を擦りつける。正午を過ぎたばかりの暖かさとその匂いに身体が弛緩して微睡んでしまう。布団を干さなければならないのに、だ。
「青八木?」
不意に匂いが強まり、背中に熱と圧迫感が伝わる。布団と恋人に挟まれた格好になって、小田図に身じろぎをすれば頭の上で笑う吐息の気配がした。
「純太のにおいがする……」
「ええ、そんなに匂う?」
ちゃんと風呂には入ってるけど、冗談を零した手嶋が青八木の後頭部、その金色を鼻先でかき分けて埋めていく。
「あー」
眠いな。青八木の腹に腕を回して緩い力を込める。
布団を干さないといけないのに、ともう一度自分を叱咤してみたものの、まろやかな幸福感が自分を締め付けて離さないので、青八木はゆっくりと瞳を閉じた。
山笑う日 葉も新しい山々の道を走り抜ける。昨日の雨が運んできた涼やかな風が、耳元で鳴いた。
少しばかりきつめの購買を二人で登る。
「晴れて良かったよな」
微かにあがった息を吐き出しながら、前を引く手嶋が振り向く事無く後ろの青八木に声をかける。同じように荒い息を吐き出しながら青八木は頷く。その気配を感じた手嶋の肩が楽しそうに揺れた。
「もうちょいだから」
「……問題ない、そのまま踏め」
その言葉に応えるように、手嶋が更に踏み込んで僅かばかりスピードを上げる。それに同調するように青八木も踏み込んだ。
風の音が強くなる。
青八木がふと顔をあげる。道に影を落とす枝葉の間から透き通った光が瞬いて、思わず笑みが浮かんだ。
いい日だ、今日は。
「青八木?」
笑う吐息が聞こえる筈もないのに、手嶋は後ろを走る相棒の気配を察しているらしい。
「なんだ」
「いやぁ」
頂上に至る最後の勾配に差し掛かる。手嶋はハンドルを握る力を込めて、笑った。
いい日だなぁって思っただけだよ。その声に青八木は、頷く。
オレも元気だよ 微かに笑う気配がした。
そちらを見遣ると、いつもの無表情に近い青八木がスマホを見ている。
「笑った?」
「笑った」
何、なんか面白いこと。と顔を寄せる。手に持ったスマホには人なつっこそうな大型犬が写っていた。
「ああ」
合点がいく。青八木の実家の飼い犬の写真だ。昔家に遊びに行った時に、会ったことがある。鳴かない犬で、初対面の自分を伏したままじっと見てから尻尾をぱたりひとつ、鳴らしていた。
「元気そうだ」
安心した声色。もうおじいさんだからと付け加えて。
「やっぱ似てるよなあ」
青八木に、と笑えば目を瞬かせて小さく首を傾げる。あまりぱっとしないのだろう。
「静かなところとか、大人しいところとか」
「褒めているのか、それ」
「当たり前だろ」
手嶋の言葉に、ほんの少しはにかみながら再び画面の向こう側の、親愛なる隣人を見つめる。
散歩に行きたいな、とふと思い浮かんだ。
甘えるお前にも同じ匂いが混じっている 乾かしたての金髪からふわりといい匂いがした。
シャンプー、石けん、いつもの入浴剤。入浴剤は高校生だった頃から変わらずに、森の香りをイメージしたもので、一緒に住み始めた今もそれは、洗面所に常備されている。
隣に座ってゲームをしはじめた青八木から香るそれにつられて、手嶋が鼻先をその首筋あたりに近づけた。
くすぐったい、文句を零しても何もしない同居人に気をよくして、風呂上がりの火照った熱とともに彼自身の匂いと混じった空気を深く吸い込んだ。
「純太」
呼吸をするたびに匂いが鼻腔を、肺を満たす。たまらなくなって青八木のシャツを握りしめた。あくまでゲームをしているその手を邪魔しないような位置を。
「……どうした、純太」
「もうちょい」
手嶋のくぐもった声とともに、首のあたりに熱い息がかかる。静かにゲーム画面を閉じて、自分の体格にあわせて背中を丸めて甘える手嶋の背を、そっと撫でさする。
あの時のあなたを覚えている
すっきりとした横顔に柔らかな波を乗せる。自分とは正反対の黒く色気のある波は、頬に垂れてそこに影を落とした。そこに隠された視線は、雑誌に向けられている。
二人の間には、フェルトペンが画用紙を滑る音が流れるのみで。
「髪切ろうかな」
ぽつりと手嶋が漏らす。あったかくなるし、気分転換にばっさりとか。
「似合うと思う」
はじめて会った時の、くせっ毛を短くしていた姿を思い出して青八木が頷いた。
「オレも」
切るか迷ってる。青八木が続ければ伏せられた視線が声の方を向いた。ページをめくっていた手を伸ばして、ずっと伸ばしている金髪に触れる。
「どのぐらい?」
そうだな、はじめて会った時ぐらいの。
青八木がそう答えれば、いいんじゃないかと相棒は金の糸を指に絡めた。
日々を描くこと 白い廊下、どこまで続く。
青八木一は終わりの見えない白い廊下に立っていた。右側の壁には、絵が飾られている。
小さなはがき絵、パネル加工された絵、大きな額縁の絵。統一感のない飾り付けを施された絵を、歩み、眺めていく。
どこかでみた景色、どこかでみた色、いつも見ている自転車、いつだかに見た向こう側。
レース後に自分がよく眺めていた光景。
無題、ありきたりな題、インターハイの為の習作、オレンジビーナ、手嶋純太。
「いい絵ばかりだろ」
声をかけられそちらを見やる。相棒が白い壁、なにもかかっていなかった場所に絵をかけていた。鼻歌を歌い出しそうな調子で、そっと額縁の端を撫でた。
「……モデルがいいからだ」
「それもある」
夢の中でへらりと笑うその男に、本当にいい景色だったんだと、青八木一は語る。
五月闇 重たげに見下ろしてくる灰色を視界に入れて、今にも降り出しそうな雨へまだ降るなよと、祈る。しかしそれを嘲笑うかのように、遠雷が唸った。
「洗濯物出しっぱなしだわ」
「まずいな」
土砂降りにならないうちに帰ろう、愛車に跨がり青八木が踏み出す。続けてペダルを漕ぎ出せば湿った空気が抵抗した気がしたが、瞬く間に涼しげな風に変わった。
春、終わっちまうなあ。
数日前まで穏やかな天気が続いていたというのに名残惜しいとも思わないのか、それとも厚い雲に隠されたまま出てこられないのか、春は静かに滅んでいく。
今年の梅雨は長引くそうだ。夏が雲を追い払うのは、今年はいつになるだろうか。
「早く夏にならないかな」
「そうだな」
今にものしかかってきそうな雲の下、二つの風は家路を急ぐ。
描くのも待つのも飽きた頃 林檎、オレンジ、金色。
「おーい」
テーブルに顔を突っ伏している青八木の頭をつつく。
掠れた唸り声とともに、気怠げに開かれる瞼、現れた瞳と視線がかちあう。
「風邪ひく」
頬をテーブルにひっつけたまま、のろのろと視線を彷徨わせてからくしゃりと髪の毛をかきあげる。それから身を起こせば、頭の下に隠れていた画用紙と鉛筆が姿を現した。
そこには林檎、オレンジ。
「……おかえり」
そう言って青八木は手嶋の服を掴む。遅くなった帰りに対する少しばかりの抗議。
「ただいま」
服を掴むその手をとる。
待ちくたびれた同居人は、まだ少しぼんやりとした顔で手嶋を見つめていた。
コンフェイト 輪郭も浮かばないまま汚れているだけの画用紙の上に、小さな紫陽花が転がってきた。
よくよく見るとそれは本物でなく、色鮮やかな花の部分は小さな金平糖の集まりから出来ていた。青八木がそれを手にして、まじまじと眺める。
「……」
「なんかいいなぁって」
つい買っちまったと上機嫌に肩をすくめる手嶋につられて、青八木も笑みを浮かべる。
水色やピンクの、色とりどりの金平糖で出来た紫陽花は梅雨の鬱々とした空気を変えるようだった。セロファンの擦れる音と共に、手嶋の指がそれを広げていく。
紫陽花が崩れ小さな山と化したのを認めて、その小さな一粒を摘まんでは青八木の口元へ運ぶ。導かれるように青八木が唇を開けば舌の上に控えめな甘さが溶けていった。
手嶋の目が、すぅっと細まる。
青八木はその意図を掴めずに、未だに唇に触れるその指をちろりと、舐めた。
眠れない夜に 唯一無二の存在が隣にいたとしても、それが消え去ることはなかった。
自分の底で眠っているだけだ。思い出や幸せが積み重なった層を被せられて、寝息も立てずに微睡んでいる。時たまにそれは起き上がって、這い出してはうろうろと頭の中をうろついて囁いてくる。ひとりであったことを忘れてはいけない。
ひとりで走り、人々を羨ましげに眺めていたあの長い日々を忘れてはいけない、と。
「青八木?」
決まってそんな日は眠れない。冴えた目をいくら強く瞑っても、やけに大きな心臓の音が青八木の身体を震わせる。
反応の薄い青八木の身体を手嶋が抱き寄せる。布団の中で温められた体温のあたたかさに、自らの体温を添えた。有無を言わさず、唇に自分のそれを重ね合わせる。腕を弱々しく背中に回されるのも気にせずに、触れては離し、離しては触れて唇で熱を与える。
しん、と静まりかえった寝室に、二つの吐息と衣擦れの音が這う。
ただ、言葉もなく唇を与えることだけに執着する。
哀しげな声が、青八木から途切れ途切れに発せられていく。
将棋崩し ぱちん、と気持ちの良い音がした。
「……」
盤上で動かなくなった青八木の指を手嶋が見やる。その人差し指の下、歩と刻まれた駒が倒れている。それを押さえている本人は口をへの字に曲げてつまらなさそうにしていた。
「じゃあ次オレだな」
渋々駒から指を離す青八木へ、意地の悪い笑みを向けながら手嶋が伏せた駒に指を乗せる。すい、と音も無く自分の側へ引き寄せては盤上に出来た将棋駒の山、その麓を手嶋は注意深く見つめた。そしてひとつ、ふたつ、と起用に人差し指だけで駒を寄せていく。
見るも鮮やかな様を、胡座をかきながら眺めていた青八木が、そのへの字を緩めて笑みを浮かべた・
「ん?」
「……いや」
純太の指は綺麗だから飽きない。
そう青八木が小さく零せば、軽い音を立てながら脆くも山は崩れ去った。
充電 純太、と戸惑いがちな声に思わずくぐもった笑いが漏れた。
深く息を吸い込めば微かな汗と肌の臭いが肺を満たす。顔を埋めている鍛え上げられた腹筋がぴく、と震えた。
何を仕掛ける事もなく手嶋が青八木の腹に顔を埋めて数分が経過している。
「何してる」
「充電」
「充電……」
少し呆れ気味に青八木が言葉を繰り返して、諦めたようにふと息を吐いた。
そのまま動かないくせっ毛の頭に手を乗せて、ぐ、と押さえつける。ぎゃ、と短い声が上がったが気にとめずにぐりぐりと撫でた・
「腹だけでいいのか?」
「……それって」
どういう意味だよ、手嶋が頭を動かして視線を寄越す。
青八木はにやりと笑って、その頭を抱き寄せるように手に力を込めた。
はじめての日 あれは、いつの頃だったか。
少しだけ遠い話。
座ってくれ、と手短に促される。そこにはどこか寂しげに椅子がひとつ、佇んでいた。
手嶋が遠慮がちにそこに座れば、青八木はその真正面に同じような椅子を置いて座る。だいたい一メートルと少しの距離を置いて、二人は向かい合わせになる。
「楽にしてていい」
なるべく動かないでくれると助かるけど、独り言のような調子で青八木が告げ、手元のスケッチブックを開く。楽にしてていい、そう言われたものの初めておかれたこの状況に、柄にも無く緊張してしまい、手嶋は膝に手を置いて握りしめた。青八木は自分以外の誰もいないかのように、黙って手元を動かし始める。
(透明な壁でも出来たみたいだ)
膝に置いた手を握っては開く。
視線をあちらこちらに彷徨わせて、結局行き着く先は目の前の相棒の姿である。
ソーダ味の夜 涼しげな水色が口に運ばれて、しゃく、と小さな音をさせながら少し減った。下着一枚であついあついとぼやきながら、濡れたままの髪にタオルを被せて、青八木はアイスを食べている。
雑に拭かれた金色から滴り落ちる水滴が、柔らかくなった肌を伝った。
「ちゃんと拭けって」
「んん」
見かねた手嶋が、頭の上のタオルを引っ掴んでくしゃくしゃと髪を撫でる。頭をいいように揺さぶられながらも、青八木はアイスを食べるのをやめない。
ふと温められた石けんの匂いが手嶋の鼻先を掠めれば、その手が止まる。
「青八木」
「ん?」
「……悪い、たった」
「何が?」
「何って」
口の中で転がっている決定的な言葉を吐き出せずにいる手嶋を青八木がじっと見つめる。
青八木の腹の中へと溶け落ちていったアイスの名残、残された棒が所在なさげに咥えられている。こくりと喉を鳴らして、手嶋の指がそれを摘まんでそっと引き抜く。
そのまま唇を寄せて、青八木の唇と重ね合わせた。
ひやり、青八木の唇は冷たかった。熱を孕んでしまった舌で舐めると甘く涼しげな味がする。それもすぐに溶けてしまって、もっと、もっと、とほしがる子どものように、手嶋は青八木の唇を貪っていく。
んん、と鼻にかかった声を漏らして、青八木は冷たくなった舌をゆっくりと熱に絡めた。
夏の色
すぅ、と筆がなぞる青い軌道を目で追って、描き出される景色を想像する。
「空?」
「海かもしれない」
悪戯っぽく笑う青八木になんだよ、と笑いかえす。
「いいや、空だと思うわ」
「……どうしてだ?」
手を止めて青八木が視線を上げる。
小さく首を傾げれば肩にかかっていた金の房が流れた。
「空を描こうって顔してた」
「なんだそれ」
「あれ、違った?」
「そんなこと言われたら、海を描きたくなる」
「それでもいいけど」
じゃあ海をと空を描こうか、と傍らの古びたパレットに乗せられた青を筆にとりながら青八木は呟く。目を閉じて、空と海の微妙に違う青を思いながら手嶋は口元を綻ばせる。
「でかい雲があるんだ」
「ソフトクリームみたいなやつだな」
きっとその空を見て、海に行きたくなったりソフトクリームを食べたくなるのだと手嶋は機嫌を良くして、再び黙り込んだまま、青八木の手が描き出す世界を見つめていた。
トレースメロディ
曖昧な鼻歌を耳にして、音が震わせる熱を感じて手嶋は伏せていた顔を上げる。
いつのまにか、寝転がる手嶋に寄り添う形で青八木が胡座をかいていた。聞き覚えがある歌、というよりも歌い覚えがあると言った方が正しいのかもしれない。
サビの部分だけが繰り返されるそれにじっと耳をすます。時々覚え切れていないような調子になるのはきっと歌う本人も曖昧な記憶でいるからだろう。思わず笑みが浮かんで、手嶋がその調子に合わせるようにぽつぽつと歌詞を呟く。
はたと、鼻歌が止まった。
「続きは?」
「……ここしか知らない」
「もうちょっと聴きたい」
鼻歌に紛れていた鉛筆の音が自己主張を始める。青八木が今、何を描いているのか、こちらからは窺い知る事は出来ない。
遠慮がちな小さな歌が再び紡ぎ出される。低めの、ゆっくりとしたメロディが触れる肌を震わせる。心地よさに手嶋は再び微睡みながら、青八木の背に身体を預けた。
火花
暗がりの中で火花が瞬く。
ぷくりと膨らんだ熱の塊から踊るそれを微動だにせず見つめていた。
二人は無言で、それぞれ線香花火を手にしている。言葉を交わすこともないままで、火花が弾ける音に耳を澄ませていた。
たった数分しかもたない筈なのに、今はやけに長いことそうしているような気分に陥って、青八木はちらりと隣の相棒を見やる。火花に照らされた横顔その輪郭に、楽しげに笑む薄い唇から目を離すことが出来なくなってしまった。
視線が、かち合う。
「あ」
不意に視界が暗くなると同時に、柔らかな熱が唇に触れる。
僅かに明るかった視界の端がふつりと暗くなって、青八木は手にしていた線香花火の名残を手放すと、目を伏せ押しつけられた柔らかい唇に、強請るように舌を這わせた。
RPG
せかいのはんぶんを おまえに やろう!
「懐かしいのやってんじゃん」
手嶋が笑い混じりに投げかければ、青八木がこくりと頷く。
テレビ画面にはドットで彩られた世界がぴこぴこと鳴っている。昔は大きく感じたコントローラーは、今握りしめてみれば意外と小さかった。
「オレ、この選択肢はいつもいいえって答えてたんだけどさ」
はい、って言ったらどうなるんだろうな。青八木の隣に腰をおろしながら手嶋が首を傾げれば、青八木は目を瞬かせて言葉を探す。
「はいって言ったら、クリア出来ない」
「そりゃそうか」
「……最後にこいつから教えられる呪文で復活したらレベル1になるし」
「怖えー、努力が水の泡じゃん」
試してみるか、と問われて手嶋が首を振る。
青八木の努力を無駄にしたくないし、と笑えば青八木の肩が揺れた。
ゲームに向き直ろうと、青八木がコントローラーを持ち直す。しかし手嶋の手が青八木の手首を掴んで、ゲームの再開を阻止した。
「なぁ、青八木」
「……」
「世界の半分とか欲しくない?」
「口説き文句としてはかなりベタだ。純太」
「割と本気なんだけどさ」
喉を鳴らして悪戯っぽく笑う手嶋が、青八木の顔を覗き込む。無表情を崩さず、青みがかった目を細めて青八木が笑みを浮かべた。
「世界の半分より純太がいい」
「……っんな事言われたら惚れちまうんだけどさ」
「手遅れだろ」
「正解」
手嶋はそっと唇を、恋人の唇に寄せる。触れるだけの優しいキスを何度も交わす二人の隣、テレビ画面の向こうの魔王は勇者の返答をいつまでも待っていた。
運命よおめでとう
遺伝子ひとつ、かけちがうだけで目の前の相棒は存在しなかったのだと思うと、運命というものを信じたくなった。
「難しいこと考えてる」
「かもしれない」
ささやかな朝食を上機嫌につつきながら手嶋は笑う。どうにもならない運命と、どうにかしようとする努力が積み重なった結果が今だとすると、この日はやはり祝われるべきなのだ。そう逡巡してのち、青八木は小さく首を振る。そんな事抜きにしても祝いたいものは祝いたい。
「ともかく、おめでとう」
「今日の青八木は五分に一回おめでとうを言う日になりそうだな」
「そうする」
「一生分言うつもりかよ」
「足りない」
一年に一回は誕生日がやってくるのだから、足りない。平然と言い放つ青八木に苦笑いにも似た照れ笑いを零しながら、手嶋は麦茶を煽った。
灯る花 庭の隅に生えていた、ただの草だと思っていたものが、九月が運んできた涼しげな風と共にするすると茎を伸ばして、ある朝に赤い花を咲かせた。
「これ彼岸花だったのか」
秋頃に田園区間を走っているとよく見かけた、燃える炎のように群生するその花の名前を口にして手嶋が咲いた彼岸花をつつく。小さな庭の隅、ひっそりと咲くそれが揺れた。
「家に持ち帰っちゃ駄目だって言われたなあ」
「そうなのか」
「火事になるって」
迷信だとは思いつつも、確かにこの真っ赤な色、あぜ道が燃えているかと錯覚するような景色を見ればそうなのかもしれない。ただ、前の家主がここに植えて、今もなお主を変えてもこの古い住まいが健在なことを思えばやはり迷信だ。
そんな事を考えながら青八木が彼岸花と戯れる手嶋の横顔を眺める。癖の強い艶やかな黒髪と、彼岸花の赤が妙に胸を高鳴らせて、火がついたように熱くなった。
「なるほど」
「え?」
一人納得して頷く青八木の声に首を傾げて、振り向く。
「火事になるって意味だ」
「迷信だろ?」
「あながち間違いでもない」
「……抜く?」
「抜かなくていい」
縁側に座り愉快そうに笑いながら首を振る青八木に、納得のいかない顔で手嶋が彼岸花から離れる。そのまま隣に腰を下ろして、サンダルを足から落としゆらりと足を揺らした。
「たまにわかんねーよな、お前」
「そうでもないぞ」
単純だ。花をつつく相棒に胸を高鳴らせる人間なんだから。
心の内で返しながら、青八木は手嶋の髪に鼻を埋め、もたれかかる。
嗅ぎ慣れたその匂いに、安堵の息を漏らす。
金糸
艶やかなくせっ毛に、金色が一本。
ついてる。
青八木が傍らで眠りこける手嶋の横顔を眺めて、ぽつり呟く。
間違いなくそれは、自分の髪の毛だった。取ってやろうかと指を彷徨わせて、なんとなく勿体ない気がして止める。
黒々としたそこに、たった一本絡まるそれに何となく、愛着が湧いてしまったのだ。
気を緩ませた寝顔を見下ろして、輪郭を楽しむ。生え際、瞼、鼻筋、唇、顎。
無意識に指はなぞる。指の腹の感触が、手嶋の存在を探るように動く。
「それくすぐったい……」
「純太もよくしてるだろ」
「バレてたか」
「バレてないと思ってたのか」
「動かねーし、青八木」
「ここ、剃り残しあるぞ」
「んー」
ようやく開いた目と目がかち合う。
放り投げられていた手が、自らの顎を触れば顔をしかめた。
「そろそろ起きて欲しい」
「寂しい?」
「寂しい」
構って、純太。いつも無口な相棒が強請るならばと手嶋がゆっくり、その身を起こす。
くせっ毛が揺れる。金色は未だにしがみついて、きっとシャワーを浴びるまでそのままなのだ。
悪戯の算段
鬼か悪魔か、と首を傾げたが時期的に見て悪魔だろう。
柔らかなくせっ毛を持つ頭部から映えた赤いツノに触れる。
プラスチックで出来たそれは硬い。
「どうしたんだ、これ」
「押しつけられた」
似合う?と笑う相棒を見る。悪戯っぽさを含んだその表情は確かにその赤いツノと合っていた。青八木は頷いて、ツノから手を離す。
「トリックオアトリート」
「ん」
お決まりの文句を突きつけられて、テーブルにあった煎餅を差し出す。素直に受け取ってぱり、と囓り出す様子は少しだけ、可笑しかった。煎餅を囓る、悪魔。
「これで悪戯はナシだな」
「悪魔だから約束はしない」
「悪い奴だ」
ふふん、としたり顔で手嶋が口角を上げる。それを横目に青八木も煎餅に手を伸ばして、封をあけて齧り付いた。気持ちの良い音が鳴る。
「手加減してくれ」
「優しくはするぜ?」
それとも悪魔らしくしてみるか?と問われて、藪蛇だったなと青八木が眉を寄せた。
午後へ至る休日
早朝乗り込んだ電車は、行き先に近づくにつれて混んできた。今日が日曜日であるのも理由のひとつかもしれない。窓の向こう、秋の澄んだ朝空を眺めながら一定のリズムを刻む座席に、二人は揺らされていた。
徐々に賑やかな街の景色へと変わっていくのを見て、スマートフォンの画面に視線を落とす。午前九時半近く。もうすぐ目的地に着くはずだ。そう思い少しだけ身じろぎすれば、若い車掌の声が次に停まる駅の名前を繰り返し告げる。電車がゆっくりとスピードを落としていくのを感じて、青八木は純太、と隣に呼びかけた。
改札をでてすぐの横断歩道を渡り、大きな公園の入り口、そこに設置された看板を眺めて目的地を探す。ここから五分ほど歩いた所に、今日の目当てはあった。道は所々分かれていて、時々小さな標識が動物園や、博物館への行き先を示している。
広い道は往来が多く、動物園へ向かう家族やカップルを横目に、そちらへ向かうよりはまだ閑散とした道を歩いていく。所々テントが張られていて、ポストカードや絵、陶器が売られているのをちらちらと眺めながら青八木と手嶋は歩いて行く。
「数年ぶりにきたけど、こういうとこだったんだな」
「ああ」
「オレ動物園しか行ったことなかった」
パンダを見に一度だけ。ガキの頃にさ、と笑う手嶋にオレも、と頷き返す。
「パンダ見れた?」
「覚えてねえな。すげー人だかりだったのは確実」
あの時のパンダと今のパンダって違うんだよな?なんとなく浮かんだ疑問に青八木が多分、と頼りなげに返す。この前ニュースで見たのは、一年前に生まれたパンダの子どもがやっと一般公開されたことぐらいだ。やはり今も、人だかりが出来ているという。涼しげな風が吹いて落ち始めた葉をどこかへと運んでいく中、二人の目指していた建物が見えた。建物の前に銀色のオブジェが、転がっている。
「特別展、大人二枚で」
カウンターで青八木が二、と指し示す。財布からそれぞれ伝えられた金額を取り出して、絵が描かれたチケットを受け取る。特別展は地下一階です、と告げられて奥へと足を向けた。
「今日のって、何があるんだ?」
「海外の美術館に飾ってある絵とか、美術品を借りた企画展だ」
「へぇ、どこの?」
「ボストン」
ボストン、アメリカだ。
どこかで聞いたことがあるな、と手嶋が首を傾げる。
「ボストン茶会事件」
「あっ、ああー……」
青八木の一言に、世界史の教科書の一文に記されていた単語が記憶から引きずり出される。前後のあらましは分からないが妙に頭に残る歴史上の事件名。
「で、どんな絵が飾ってるんだ」
「……ゴッホとか」
地下へと降りるエスカレーターの前でスタッフが二人立っている。特別展をご覧になる方はチケットをこちらへお見せください。青八木が慣れた様子で二枚のチケットをスタッフに差し出す。もぎられたそれの一枚を手嶋に渡して、エスカレーターに乗る。手渡されたそれをまじまじと見る。三味線を弾く女の浮世絵が載せられたチケットだ。
誰も音一つたてずに静まりかえっているものだと思っていた展示室は、手嶋の予想とは少し違っていた。確かに静かではあるのだが、入場者が連れに抑えめの声で話しかけていたり、鉛筆でノートに何かをメモする音が微かに聞こえてきたりして、人が発する音が確かにそこにあってガラスケースや絵画の間を流れている。抑えめな照明に反してガラスケースの中は明るい。その中で繊細に形作られた壺や彫刻が細部まで晒されている。
「エジプトの彫刻とか中国の水墨画とか、浮世絵とか展示してるらしい」
「ふぅん」
ゆっくりと歩いて行く。ボトルぐらいの大きさの、エジプトの神様の像、三メートルぐらいの巻物に書かれた龍の水墨画、カラフルな曼荼羅を描いた掛け軸。チケットに載せられていた三味線を持つ女の絵。そのひとつひとつの側には小さなプレートで解説が書かれてある。時たまヘッドホンのマークと番号が書かれたプレートがあるのは、音声ガイドの案内だろう。
展示物を眺めたり、そのプレートを眺めながら進んでいく。どれにも全て、相応の逸話があって、こういったものを見るのに慣れていない手嶋にもわかりやすく解説されている。プレートの文面を読む手嶋の横で、青八木が目の前の曼荼羅をじっと眺めていた。
他の入場者よりもややゆっくりめに回っていく。アジア圏から集めた美術品を展示していた区画を抜ければ、次に目に飛び込んできたのは風景画だった。
港を緻密に描いた絵、黄色い黄昏の下の麦畑、荒い筆致で描かれた大聖堂。薄いピンクの蓮がいくつも浮かんでいる池。それぞれが違うタッチで描かれている。勿論描いた人間も違うのだろう。
手嶋にはそれがどこを描いた絵なのか、分からない。プレートを見ても地名が書いてあるものはあるのだが、ピンと来ない所ばかりだった。
青八木もそれは同じらしかったが特に気にならないらしい。絵画の前で一分ほどたちどまっては次の絵へ、そこでまた一分ほど眺めては次へ。そうしていくつかの風景を繰り返した後。
「……あ」
「これ……」
それは海に面した街を描いたものだった。エメラルドグリーン混じりの海から、白く輝く街と、白い雪に覆われた山々を臨んだ蒼い絵画。空も山も街も薄く輝いているように錯覚しそうになる。ここに行こうと決めた切っ掛けになった、チラシの隅に載せられていた絵だ。
穏やかな昼の陽光で輝く、海辺の街。
お互い暫く黙ったまま、それを眺める。室内の僅かなざわめきも遠くなる。ただじっと、海の音や、山から吹く風の音が聞こえてきそうなその絵を見つめて、青八木と手嶋は立ち尽くしていた。
きっとそうしていた時間は、五分にも満たないだろう。いい絵だな、と手嶋が呟いたのを合図に青八木が頷き、その絵からそっと離れる。
それから、郵便配達人の夫婦の絵や、バレリーナの絵、貴族の絵を眺めたりして、二人は奥へと進んでいく。モノクロームの写真、カラフルな現代美術、果物が腐りゆくさまを録画した映像作品を経て、出口に辿り着いた。
「面白かった」
「そうか、オレも」
青八木の口元に、満足そうな笑みが浮かんでいるあたり良かったのだろう。手嶋も全ての絵の良さを理解する程ではなかったが、普段触れないものへの新鮮さにどこか満たされた気分になっていた。
季節限定のメニュー、モンブラン風味の飲み物をストローで吸いながら指で摘まんだポストカードをひらひらと揺らす。物販コーナーで見つけた、あの絵のポストカードだ。
「台所のコルクボードにでもはっつけとくか」
「それがいい」
フォークで切り分けたキッシュを頬張りつつ青八木が頷く。手嶋が数回表と裏をひっくり返すのを眺めて、もう一口、黄色いそれを口に運ぶ。
「アンティーブ、午後の効果……クロード・モネ。モネ?」
「睡蓮だ」
あっただろ、睡蓮の咲く池の絵。青八木に指摘されて、ひとつの絵が浮かぶ。あのふわふわとした筆遣いの池の絵か。と思い至った。たしかに、それと似た雰囲気だ。
「来年」
「ん?」
「モネの展覧会がある。夏ぐらいに」
行きたい。と呟くように問いかけられて、手嶋はきょとんとしては刹那に、口元に笑みを浮かべる。今日は秋の終わり頃で、次にモネを見に行く日は夏の盛りだろう。
午後だというのに、今は少しばかり涼しくて、やはりホットコーヒーにしておけばよかったかと手嶋はふと思いつつ、キッシュを頬張る青八木に、夏の前に次は何をする?と持ちかける。
そうだな、と青八木が咀嚼したものを飲み込んで、小さく首を傾げた。
日が落ちるまでまだ少し時間はある。パンダを見に行ってもいいんじゃないか、と言ってみた。
忘れたくないもの くしゃみひとつの拍子にぽろり、相棒が羽織るカーディガンから何かがこぼれ落ちた。
「?」
こぼれ落ちたもの気がつかずに、青八木はスケッチブックに向かっている。手嶋がそれにそっと近寄れば、小さなのど飴が落ちていた。
そして、またひとつ、くしゃみ。
「風邪ひいてる?」
「!」
のど飴を摘まみ上げて後ろから声をかければ肩が揺れた。振り向いて手嶋の指に摘ままれたものを見て、あっと声をあげては気まずそうに目をそらす。
「ひいてない」
「ほんまかよ」
思わず一つ下の後輩だった男の訛りに似せて問いただせば青八木はもごもごと口の中で言葉を転がす。心なしか、顔は赤い。
「青八木?」
「ひいてない」
頑なに否定し俯く青八木の両頬を手でやんわりと挟む。柔らかなそこが、じんと熱を帯びていた。咎めるように視線を向ければ、焦点が定まらない目で見つめ返される。
「青八木」
「熱無いからセーフだ」
「馬鹿」
「馬鹿だから風邪じゃない」
「……」
実の無いやりとの後、熱の籠もる頬を指で摘まみ、ひっぱる。妙なところで強情な同居人と無言の攻防を繰り広げるのも、生活の内と慣れてしまったが、流石に熱があがりつつあるのは見過ごせなかった。
「じゅ、んた」
「夜遅くまで描いてるからだぞ」
「……うむ」
手嶋に低いトーンで囁かれ、負けを認めたように青八木が頷く。途端に身体が油断をしたのか、その力がくったりと抜けた。
「オーダーな、今日の絵はおしまい」
「……」
「返事」
求めた返事の代わりに小さなくしゃみが返ってくる。それが合図になったのか、手嶋が腕を引いて抱きしめれば全身から気怠い熱が伝わった。
「そんなに夢中で何描いて……」
床に落ちたスケッチブックに視線をうつす。
描きかけの、ゆるいくせっ毛の男がこちらへ微笑んでいた。
「妬くぞ」
「純太なのに」
「いつも描いてるのに、なんでだよ」
「……」
答えの代わりに頬を擦りつけられる。
しょうがねえなあ、と零しつつ、背中に這わせた手に力をこめた。
枯れ庭も庭
ひんやり冷え切ったガラス扉を、からりと開ける。澄んだ空気が入り込んでくるのは嬉しかったが、この時期はどうしても寒さが勝る。それでも朝の換気は欠かせない。
咲く花も少なくなってしまった庭を、しゃがんで見渡す。たき火のように色づいた草紅葉の小さな塊だけが、朝露を纏ってきらめいていた。
「一気に寒くなったな」
「ああ」
冷えた空気を深く吸い、隣に来た手嶋が伸びをする。
庭を見渡して、少しだけ寂しそうに笑った。
「花が無いのって少し寂しいかも」
「そうだな」
「イルミネーションでも飾ってみるか」
軽い調子で零せば、青八木が微かに首を傾げる。庭をじっと見て、何かを思案しているらしく、手嶋は静かに待っていた。
「……いや」
青八木が笑みを浮かべながらゆるりと首を振る。
「寂しい庭も好きだ」
「渋いな」
お前らしいよと手嶋が肩を揺らす。いつかテレビで流れていた寺の庭を食い入るように見つめていた相棒の姿を、何故か思い出した。
「でもそろそろ閉めねえと」
「ああ、純太が風邪をひく」
「お気遣いどうも」
からからと静かにガラス扉が閉まる。
結露した水滴が、透明な壁を伝って流れ落ちていく。
「純太」
「ん」
青八木が立っていた手嶋にゆっくりと手を伸ばす。
朝陽を受けた金色が、綺麗だと何となく、思えた。
「手、冷たくなった」
手嶋が苦笑いしながら青八木の手を握る。
僅かに冷えた相棒の掌が、まだそれよりも温かい自分のそれと重なって、溶けるような心地に手嶋は、目を細めた。
温かな朝
絵の具を買いに行くと言ってスニーカーを履いた午前九時。夜に降りしきった雨に冷やされた空気が、空いた扉の隙間から青八木へ手を伸ばす。無言で立ち尽くした青八木の格好は、長袖シャツの上に薄いジャケット、そしてジーンズと心許ない。
「青八木」
少し慌てた足音をさせて、手嶋が青八木に歩み寄る。
「さむい」
「今日冷えるって言ってたぜ」
「……」
ただ寒いだけなのに、天に見放されたとでも言いたげに青八木が眉を下げる。それでも絵の具を買いに行かなければ、続きは描けない。
「ほら」
手嶋が手にしていたものを、青八木の肩にかけて器用に首に巻く。ふわふわと柔らかな毛糸のマフラーの感触を感じながら、青八木はされるがままでいた。
「青八木、帰りにネギと鶏肉買ってきて」
「ねぎま?」
「鍋だよ、鍋」
今日寒いし、鍋食いたい。青八木の首元を弄りながら手嶋が笑う。少し冷たい指が、顎に当たるのを感じて目を細める。
「わかった」
「なんか足りなかったら電話するから。じゃ、気をつけて」
仕上げとばかりに、前髪を少し上げられればそのまま額に口づけを落とされた。薄い唇の感触に僅かに体温が上がる予兆を感じながら、扉を開けて外に出る。
足早に去った雨の名残と、朝の光が溶け合ってアスファルトを濡らしている。
首元に巻き付いたマフラーで、勝手に浮かぶ笑みを隠しながら、青八木は先程よりも幾分かは軽い足取りで歩き出した。
スケッチ
二つの椅子の間に、あるはずのない透明な壁が見えた。向こうの椅子には相棒が座っている。鉛筆とスケッチブックを持って、時折こちらと見比べては手を忙しなく動かしている。
月に一度、青八木は手嶋を椅子に座らせて彼を描く。ただ座らせただけの手嶋を会話も無く、ただ黙々とスケッチをするのだ。
最初は気恥ずかしいような、落ち着かない気分で視線を漂わせていた手嶋も今や慣れてしまって、膝の上で緩く手を握ったまま青八木をじっと見つめていた。
この時間だけ、催眠にかかったかのように思考と意思を全て放り投げて、青八木に、全てを任せる事が最早手嶋にとっては、心地が良かった。今だけ、自分は完全に青八木のモノで、そこに自分の意思が必要ないのがたまらなく安心出来るのだ。
ふと、青い目とかち合った気がした。それでも青八木は表情一つ変えずに、いつものように目で語りかけることもなくただじっと、花を観察でもするかのように自分を眺めている。それから手元に視線を落として、鉛筆を走らせる。
距離にして数歩、それでも触れないほど遠いような錯覚。
全てを閉めきった寝室で、時計の音だけが現実とこの空間を辛うじて繋ぎ止めている。
モノになってからどれだけ時間が経っただろうか、秒針は音を刻み過ぎてその意味をなさなくなった頃に。
「純太」
がたり、と椅子が鳴る。沈んでいた手嶋の意識が浮かび上がると、透明な壁をすり抜けてきた青八木が目の前に立って、柔らかく笑っていた。
未だに現実から戻りきらない手嶋の瞳が揺れる。
額に青八木の唇が触れて、そのままゆっくりと抱きしめられた。
「……終わった?」
「ああ」
手嶋は、月に一度描かれる自分の素描を見たことがない。
見ようとも、思わない。
フォールスノウ
ひりつくような寒さが、手の感覚を失わせていくようだった。ポケットに手を突っ込みたいが、道の上が僅かにきらめいているのを見て、諦めた。
昨晩降り積もった雪は、早々に道の端に追いやられている。冬特有の弱々しい朝日を反射させて、静かに輝いては少しずつ、溶けていく。
「さみぃ」
「ん」
今朝起きた誰もが思ったであろう感想を敢えて口にして、手嶋が遠慮無く青八木の手を掴む。冷えた手同士が触れあえば不思議なことに、そこからじわりと暖かくなっていく。ほっと息を吐けば、白い靄が流れた。
「……朝起きたら庭が白くてびっくりした」
「な、どうりでめちゃめちゃ寒いと思ったよ」
まぁ最近いつも寒いって言ってるけどさ、と苦笑いを零しながら吐く息もやはり白い。
互いにふわふわと白い靄を吐き出しながら冷たい道を歩いて行く。
歩いている途中で、電信柱の傍らに佇む雪だるまを、見つけた。
子犬の大きさにも満たない、少しでこぼこしたゆくだるま。きっと帰りにこの道を通る頃には居なくなってしまっているだろう。
「……」
ひらりと白い門が鼻先に落ちてくる。ひら、ひらと遠慮がちに降ってきたそれに、青八木と手嶋は顔を見合わせて、握る手の力を少しだけ強くした。
しあわせと言わないとでも?
幸せって言っていいか? と不意に問いかけられてその意図をはかりかねる。その問いを口にした彼を、スケッチブックに描いていた手も止まった。
「別に、幸せならいいんじゃないか」
テーブルに肘をついて、薄く微笑みを浮かべながらこちらを見つめる恋人に視線を合わせて答えれば、そっか、と頷かれた。
「幸せ」
「ん」
許可を得たとばかりに溢れた言葉を聞いて、それならいい、頷いては再び画用紙を見つめて手を動かし始める。さらさらと滑る鉛筆が、目の前で肘をついてこちらを見つめている彼の姿を形作る。ふしあわせよりも、しあわせのほうが、いいに違いない。
「青八木は?」
「……」
さり、と余韻を残して再び鉛筆が立ち止まる。なんとなく、視線をそちらへ向けてはいけない気がして、またぼんやりしている輪郭を眺めた。
「幸せ?」
「……幸せに決まっている」
ぼそぼそと小さな声で答える。彼は聞き取れただろうか、と少し心配になってちらと視線を上げれば、少しだけ安心したような表情が見えた。
それならよかったよ、と穏やかに返される。
梅歴 梅が咲いた、と青八木が零す。縁側で胡座をかいて、柔らかくなってきた陽光を浴びる金髪の隙間からのぞく視線の先は、ごつごつと節くれ立った木が植わっていた。
歪な枝の所々に丸く小さな花がぽつ、ぽつと色を添えている。
咲いた、と言ったきり黙りこくった青八木から視線を外して手元の雑誌に意識を向ける。
ゆっくりとした午後の時間。時計の針と紙をめくる音だけが時折、居間に浮かび上がっている。テーブルの上に置いていた冷めたコーヒーを飲み終えた後、ふと手嶋は静かなままの相棒を見やる。先程の姿勢と変わらずにいるようだったがしかし、よく見るとゆらゆらと不規則にゆれていた。
「……」
雑誌を閉じて立ち上がる。なるべく音を立てないように近寄って、船を漕ぐ恋人の隣に腰を下ろした。
庭を見る。
梅が、咲いている。
それから何冊重ねていっただろうか
古びたスケッチブックを捲ると、自分がいた。
今よりかは幾分か幼い顔立ちで、制服を着て卒業証書を持ちながら少し照れくさそうに笑顔を向けていた。
つまり、この絵を描いた青八木に笑っていたのだろう。
もう着ることはないだろうからとせがまれて誰も居ない部室で描いたそれは、いつのまにか絵の具で色づいていた。
最後に見たのは、まだ素描だったのだ。
「完成したら見せろよな」
「……悪かった」
思わず零せば卒業してからは暫く会わなかったから、見せそびれたんだと隣の青八木が決まり悪そうに言う。
「懐かしいな」
「ああ」
一つのページをめくる。
あの黄色いジャージを着た、自分が笑っている。
「……懐かしいな」
「……」
こくり、と青八木が頷く。
丁度、数年前の今ぐらいの自分達との再会だった。