イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

  • 1 / 1
    しおり
    1 / 1
    しおり
    剥製剥製むかしばなしねむれないよるに疵のあとわがまま初夏の或る日夏めくひと




     冬の空を閉じ込めたような
     或いは凍った湖から作り出されたような深いコバルトブルーの瞳が
     それらをじっと、見つめていた
     照明の絞られた空間、ガラスの檻の中で死してなおも生の姿を晒すように
     運命づけられた獣たちの群れをどこか寂しげに
     それいて興味深そうな様子で眺めているラビを見つけたのはいいが
     黎朝陽は暫く立ち尽くしたまま、声をかけることが出来なかった




    剥製
     都内の科学博物館に、ロケに来ていた。
     ラビの出演した映画と、某博物館で開催されたスチームパンク展のコラボレーション企画から派生したもので、内覧会に招待された科学博物館の広報がエルドールに話を持ち込んできたのだ。
     若い層にもっと博物館の魅力を知ってもらいたい、という博物館側の要望にプロデューサーが出した提案は公式サイトで配信する常設展の紹介動画にI❥Bを起用する事だった。
     地球の成り立ちや世界各国から集められた貴重な資料を展示しているという点で、それぞれ生まれ育った国籍が違う五人は、適任だった。
     閉館後の館内にI❥Bが訪れ、常設展の見所を紹介してもらうという内容だ。地下二階から地上三階にわたって宇宙や生物、鉱石果ては物理までをも扱う棟を五人と広報で巡っていく。
     全てを見てまわるのは流石に尺が足りないということで、地球の成り立ちや生き物の成り立ちを解説した一階ホール、古代生物、主に恐竜の化石たちが展示されている地下一階をメインに収録する形になった。
     目まぐるしく変化していく細胞を紐解くプロジェクションマッピングや生物の系譜を知る事が出来る体感型のブースをまわって、それから地下一階、恐竜の化石がある展示室へ。大きく口を開いているティラノサウルスや天井に届かんばかりのアパトサウルスを見て特に興奮していたのは、レオンと朝陽だった。目をきらきらと輝かせて骨格標本を見上げ、説明に聞き入る。
    「さて、ここで問題です」
     ちょっとしたクイズコーナーの時間が設けられて、広報が出す問題にいの一番に答えて正解したのは、意外なことにレオンだった。
     オレの家の図鑑、ボロボロになっていたからきっと沢山読んだんだと思う。レオンはそう、笑った。
     最後に博物館へのアクセス方法や来月から開催される特別展の告知を撮って、収録は終わった。
     もしよろしければこの後も自由に見て頂いて構いませんよと広報に言われて、それじゃあお言葉に甘えようかとノアが頷く。プロデューサーが来るのもまだ暫く時間がかかりそうだった。
     めいめい気になった展示室やまわらなかった所を見に行くと動き出した四人の背中を見送って、ラビはさてどうしようかと案内板を眺めた。
     上の階からまわってみようかと思い立って、昇りエスカレーターに乗る。吹き抜けの窓から見える外はすっかり暗くなっていて、ぽつりぽつりと灯りが遠くに浮かんでいる。
     三階にたどり着いて、奥へと進む。いわゆるキッズスペースだろうアスレチック付きのカラフルな広場には、所々に生き物の等身大模型が飾ってあった。天井を見上げてみれば大きな鯨が泳いでいたし、アスレチックからはシマウマがひょっこりと顔を出していて、不思議と愛嬌があった。
     十歳までのお子様とその保護者が入れます。予約制。
     そんな看板を見て、アイキッズ達がここに来たらそれはもうはしゃぎまくるのだろうなと思わず微笑む。もしかするとレオンや虎彦あたりも入ってみたいだなんて、言うかもしれない。柵の外から広場を眺める。
     開館しているあいだはここで子ども達が、鯨やシマウマたちに見守られながら遊んだり、図鑑や絵本を読んで自分の好きなものを見つけるのだ。
    (いいなぁ……)
     こういうとこ、ガキの頃に行ってみたかったな。そう思い浮かんで、それから苦笑いする。広場から視線を外してふと横を見れば、奥にも部屋が続いていた。キッズスペースの明るさとは対象的に、中は薄暗い。なにがあるのだろうかと、足を向ける。
     その空間に入った瞬間、ラビは息を飲んだ。ああ、と声が漏れてそれから、立ち尽くした。
     予想以上に広い部屋で、中央はガラスで隔てられている。中ではぐるりと動物たちが円を描くように並び立って、沈黙を守っていた。部屋の隅ではビデオが流れていて、そこからぶつぶつと聞こえる音声以外はまったく、静かだった。それが隣にあるキッズスペースの、賑やかな明るさとは正反対だ。
     壮観ではあったが、ある種の不気味な静謐さを感じてラビはそっと、目を細める。それからふらふらと誘われるように、ガラスの中の動物たちへと歩み寄った。設置されたパネルを眺める。難しい漢字が書いてあって、諦めてその下の英文を読んだ。
      The specimens
    「образец……」
     思わず母国語で呟いて、英文を追っていく。死んだ動物の皮を、なるべく傷つけないように剥いで生前と同じような姿にとどめる。狩猟を趣味とする人間が一種のトロフィーとして始めたものだったが、それが後に学術的な意味合いで重宝されてきている。貴重な標本として後世に残す為に博物館で集めている。
     そう書かれていた。
     パネルから視線を上げて、目の前のそれを見る。部屋をぐるりと回ろうとゆっくりと歩き出す。
     ガラスの檻の中で、生きていた日々のままの姿で、佇んでいる。大きな鹿と熊が平穏に隣り合っていて、その足下では小さなウサギがこちらを見上げている。ライオンもガラスの向こうで、静かに視線を投げかけているがきらきらとした瞳にはきっと何も写っていないのだろう。ガラスの檻の横には同じようにガラスで出来た棚があって、そこには色鮮やかな鳥たちが行儀良く羽根を休めていた。
     全身真っ赤な羽根の鳥なんて、冬の故郷にいたならば目立ってしょうがないなぁ、なんて思いながらひとつひとつ眺めていく。今にもさえずるのじゃないかとさえ、思えた。また中央のガラスの輪郭をなぞるように標本を見てまわる。世界にはこんな動物もいるのか、ああこれは朝陽が好きな動物だ。そんなことを考えながら見ていって、それから。
     ふと、オオカミの剥製と目が合った。自分の腰ぐらいの体高の、茶色い背の獣だ。金色の瞳は他と違わずきらきらとしていたがそれが逆に偽物だと証明していた。
    「……」
     適切な処理を施されて、腐り落ちなくなった毛並みは滑らかだ。こちらをじっと見上げて、首を傾げているがその歯牙が獲物に向かって剥かれることは二度とないのだろう。
     何故か胸を鷲づかみにされたような気分になって、ラビはそれから目が離せなくなった。
     元々オオカミという生き物には愛着がある。子どもの時に聞いたのだ。オオカミは文化的には嫌われているが、本当は家族思いの生き物なのだと。つがいを喪ってしまうと、後を追うように逝ってしまうほど、共に生きる仲間を大切にしているのだ、と。
     荒れていた頃にいつから呼ばれた渾名は、その性質とは全く反対の意味をもったであるのは自覚しているけれど、それでも……当時、少年の心を持った自分にとっては気分の悪いものではなかった。だからこそ、この獣が天寿を全う出来ずに皮を剥がれ、臓物と骨の代わりに作り物を突っ込まれてこうして晒されているのが、どうしようもなく切なく思えた。しかし不思議なのはそんな感情を抱くと同時に、ラビにとって目の前の剥製が好ましく感じてもいることだった。お気に入りの模型を眺めてうっとりとしてしまうような、奇妙な心地に。
     可哀想という気持ちを抱くのも傲慢だ。
     きれいだ、と楽しがるのも、残酷だ。
     複雑な気持ちに苛まれながら、無意識に動いた指がガラスに触れる。冷たい感触にラビの肩が跳ねる。びくりと指を引っ込めて、決まり悪そうにポケットに手を突っ込んだ。
     ふと、視線を感じてはっと顔を上げる。自分がここへと入ってきた入り口に、小さな影が佇んでいる。見慣れた影だ。あの明るい部屋からの光で逆光になっているが、ラビにはそれが誰かすぐに分かった。小柄で、いつも自信なさげに自分の隣にいがちな仲間でもあり、恋人でもあるその影。
     琥珀色の瞳がじっとこちらを見つめている。
    「朝陽?」
     そっと呼びかけてみる。
     大きく肩が震えて、柔らかな桃花色の三つ編みが、揺れた。
     
     自分の気配に気がついたラビの、あのコバルトブルーの瞳がこちらを見ている。さっきまでの横顔とはうって変わって、いつもの穏やかな雰囲気を宿した表情で微笑むラビに、朝陽は近寄った。
     暗い部屋だ。中央にはずらりと動物が並んでいて、部屋の端からはぼそぼそと音声が聞こえている。
     ラビの隣に立って、目の前のオオカミの剥製とラビを交互に見た。何事もなかったかのように、ラビが首を傾げた。ここ、すごいよね、と。
    「ほら、こんなにたくさん……入った時びっくりしたよ」
    「はい……」
     言葉を探している朝陽に、ラビが向こうをそっと指差した。パンダもいたよ、見てみる?そう首を傾げる恋人に頷けば、数歩先にあったパンダの剥製の前まで連れられた。軽い説明が記されていて、どうやら生前、元々動物園で飼育されていたものらしい。
    「……すごい」
     素直に抱いた感想を呟いて、朝陽がそれをしげしげと眺める。このパンダは死んでもなお愛嬌を振りまいているようで、ぺたんと座り込んでいた。それから朝陽が視線を上げる。パンダの後ろには朝陽よりも、ともすればラビよりも大きな体躯の獣がこちらを静かに見下ろしている。ガラスで出来た瞳は、無感動にこちらを見据えていて、それが少し、怖い。
    「朝陽?」
     思わずラビの制服の裾を掴んでいた。そのまま引き戻すような仕草でラビの後ろに隠れる朝陽を目で追う。どうしたの、とごくごく自然に手を取られて、そっと握りしめられた。応えるように握り返せば、ラビがふふっと笑うのに、気まずくなって眉を下げる。再びガラスの向こうへと視線をやったが、すぐに俯いた。
    「……なんだか怖い、です……すみません……」
    「……そうだね」
     ラビの手のひらが朝陽の頭を撫でる。いつもの感触に安堵した恋人が目を瞑るのに、ラビはほっと息をつく。それからまた目の前のそれをちらりと見やって、目を伏せる。そろそろ出ようか、他もまだ見ていないんだ。握った手をひいて、促した。ごめんなさい、邪魔をして。朝陽が小さく謝るのにラビが苦笑いをこぼす。邪魔なんてしていないよ、オレももう他の所に行こうかなって思っていたとこだったし。いつもの朗らかな声色でそう返された。
    (でも、あんなに夢中で)
     あそこに踏み入れた瞬間に目に入ったラビの姿を思い出す。魅入られたように、と言うのがぴったりかもしれない。コバルトブルーの双眸をうっとりとさせながらガラスの向こうにいる獣たちに向ける彼の様子は、いつもの彼とは違っていた。
     ラビは、あの獣に魅入っていた。
     なんだかそんな気がするのだ。そう、まるで。
    (恋をしたみたい、だった)
     どこか場違いな言葉が浮かんで、朝陽の胸につきりと針が刺さるような痛みが走る。
     キッズスペースの横を抜けて、元来た道を歩く。下りエスカレーターに乗りながらラビはどうしようかな、と首を傾げた。
    「そういえば朝陽はどこを見ていたんだい?」
    「え、あの……オレは地下のフロアです」
     鉱石が展示してあって、それを見ていましたと答えればそっか、とラビが頷く。
     二階について、展示室に足を踏み入れる。ここも、薄暗かった。
    「行ってみようか」
     ラビの手は朝陽の手を握ったままだ。はい、と頷いて奥へと進む。ガラス棚には掌大の石がいくつか飾られていた。石の下に書かれたプレートには、地名と日付が記されている。
    「隕石だって」
     棚の横の解説を読んで、ラビがこぼす。目の前にある石は宇宙からやって来たもの、らしい。
    「……普通の石と変わらないですね」
    「はは、確かに」
     どうやって見分けたのでしょう。朝陽がまじまじとそれを見つめて、思ったことを口にする。どうだろうね、見つけた時は燃えていたとか、光っていたとかかもと冗談交じりにラビが答えればなるほど、と素直に頷いた。つまりこのフロアは、宇宙関係の展示室だった。薄暗い部屋に隕石や太陽系の模型が展示されている。太陽系は巡って、星の内側は燃えている。壁に掲げられたパネルには、夜空を見上げた時に見える僅かな星明かりは何万年も前のものだということが書かれていた。
     更に奥へと進めば機械の模型が飾られていた。スペースシャトルの部品の模型らしい。壁には宇宙に挑む人類の歴史が年表と写真で解説されていた。自分達にとっては生まれてもいない頃の話で、遠い過去に思えるがおそらく人の歴史からすれば、最近の話なのだろう。
     モノクロ写真の数々が、徐々に鮮明になり、色がついていく。
    「宇宙に行った犬さんもいるんですね」
    「ああ」
     Кудрявка。ラビが呟いた言葉に、朝陽がその犬の写真から目を離す。紛うことなく彼の母国の言葉だった。軽く口を開いて、聞こえた言葉を発音してみる。
    「くどりゃふか」
    「そう、ライカ犬だよ」
     たどたどしく名前を口にする朝陽に薄く笑って、ラビが返す。たしか女の子だったかな、と付け足してラビは犬の写真を見る。朝陽にはライカ犬というものがどういった種類なのか、皆目見当がつかなかった。写真に写っているのは耳が少し折れた小さな犬だ。きっと自分が宇宙に飛び立つとは分かっていないのだろう。
    「人工衛星に乗せられて、宇宙に行ったんだ」
     帰る方法のない、片道切符の宇宙旅行だったみたいだけれど、という言葉を飲み込む。切手とかグッズとか、よく見かけたなあ。ぬいぐるみもあったかもとのんびりと言いながら、ラビがちらりと時計を見た。
     もう、時間だ。
    「それならクドリャフカさんは、宇宙から地球を眺めたんでしょうか」
    「かもね」
     ラビの短い答えに、宇宙かぁと朝陽が呟く。そろそろ行こうかとラビに促されて、歩き出す。面白かったね、とラビに言われて、はい、と頷いた。それから背の高い彼を見上げて、朝陽が首を傾げる。
    「まだ見ていない所、結構ありますね」
    「はは、広いし、短い時間じゃ足りないよね」
     別の建物もあるって言っていたし、とラビの言葉に同意する。また行きたいです、と言おうとしてふと、あの剥製の部屋で見たラビの顔がよぎった。
    「どうした?」
     静かになった朝陽を不思議がったのか、ラビが呼ぶ。はっと我に返って、なんでもありませんと首を振れば疲れちゃった? と心配された。ラビの手が朝陽の手を離して、その桃花色の髪の毛を撫でる。最早癖のようなものだ。朝陽を労る時に、ラビは彼の頭を撫でる。
    「大丈夫です、ラビさんこそ最近仕事続きだったのに……付き合わせてしまって」
    「オレは平気だよ。それに、朝陽と一緒に回れてよかった」
     ちょっとしたデートみたいで、と柔らかく笑う恋人を見て、朝陽の顔に熱が集まる。
    「で、デートですか」
    「うん、最近は中々予定が合わなかったから……結構寂しかったんだ」
     少しばかり意地の悪い声色でラビが囁く。確かに二人きりで過ごしたり出掛けたりしたのは数週間前が最後だ。シェアハウスで共に暮らすとはいえ、最近のラビは映画関係の仕事につきっきりだった。朝陽にもちょっとした仕事がやってきて、それが間の悪くラビの数少ないオフの日だったりで、丸一日二人きりで過ごす、ということがめっきりご無沙汰になっている。朝陽もそれは分かっていて、苦手な朝を早めに起きて低い声でいってきますと言って出ていくラビの背中を眺める度に寂しい思いをしていたのも事実。だからラビの声が少しだけ意地悪く、寂しさを含んだものになるのは、分かってしまう。
    「あ、あの、次……のオフの日、なんですけど」
    「ん」
     オレ、ラビさんと二人で過ごしたいです。朝陽が琥珀色の双眸でラビを見上げる。駄目でしょうか、と言いたげなその視線にラビの口元が緩む。どうやって過ごそうか。ラビの言葉に朝陽がそっと目を瞑り、考え込む。
    「ゆっくり起きて、お昼ご飯を食べて……それから出掛けましょう」
    「いいね、買い物にでも行こうか」
     ラビが嬉しそうに笑う。はい、と頷いて朝陽も肩を揺らした。展示室を出て、エスカレーターで降りていく。すると地下から戻ってきたらしいリュカと鉢合わせになった。
     
    「あれ、リュカ」
    「……そろそろ時間だからな」
     ラビの指が朝陽の手から離れる。あ、と小さく声をあげてから、口を閉ざす。
     入り口近くでプロデューサーが待っているのを、見つけた。
     
    「すごかったね、オレは宇宙についてのフロアを見てから他を回っていたんだけど、皆はどこに?」
    「オレはもう一回恐竜の化石を見てた! ああいうのいいよな、太古のロマンってやつ?」
    「オレは一階を見ていた。シアターで流れている音楽が良かった」
     各々興味の湧いた展示物のフロアを見てまわっていたらしい。その割には朝陽以外はち合わなかったあたり、皆急ぎ足で回っていたのだろう。博物館の入り口に集合してそれぞれに感想を言い合っている。ふと顔を上げて、ノアがラビと朝陽を見てきた。
    「ラビと朝陽は?」
    「オレ? なんとなく三階に行ったら剥製の飾ってある部屋に辿り着いて、そこで一休みしていたんだ」
    「ラビは最近仕事続きだったからね、お疲れさま」
    「ははっ、ありがとう。朝陽が迎えに来てくれて、それから二階を見ていたよ」
     ここ、広くて一日じゃ回れないよね。またゆっくり来ようとお互い満足そうに建物を後にする。すっかり夜の深まった外は、外灯もぽつぽつとついていて、街は静かに眠りに就こうとしている。
     打ち合わせがあるので残るらしいプロデューサーが、気をつけて帰ってね。セバスチャンさんが迎えに来ていたよと見送ってくれた。博物館の駐車スペースで待機していたセバスチャンに促されて、五人がリムジンに乗り込む。走り出した車の中で、レオンが大きなティラノサウルスの化石について喋っているのをどこか上の空で聞きながら、朝陽はあの剥製の部屋で見たラビについて考えていた。とうのラビは隣でにこにこと微笑んでレオンとノアと、リュカが話しているのを見守っている。つまり、いつものラビだ。
    「……」
     思考を一巡させた後、オレの思い過ごしなのかもしれないと目を伏せる。快適な室温と軽く揺れるシートが朝陽の意識を鈍らせていく。ぐ、と目を強く瞑ってから開くものの、焼け石に水のようだった。
    「朝陽」
     柔らかで穏やかな、低い声が降ってくる。ぴくりと肩が震えて、ぱちぱちと瞬きをした。いけない、ラビさんが呼んでいる。それなのに、瞼が重たい。
    「……はい……」
     反応の薄い朝陽の声に、ノアがくすくすと笑う。レオンも察したのか、静かになった。四人がこちらを見ているのに少しだけ気恥ずかしくて、ゆるゆると首を振っては、おきてます、と返した。
    「朝陽、疲れちゃったみたいだ」
    「彼も最近忙しかったからね、ソロの出演だったから、練習も多かったみたいだし」
     寝ていいんだよ、とラビが頭を撫でてくる。男らしいがっしりとした手なのに、自分を撫でる時いつも優しいのが、ずるい。不明瞭になっていく意識の中ででも、と言いかけた言葉を四人は聞き取れなかっただろう。無意識に、母国語で呟いた気がする。自分ですら、分からなかった。
     足掻くように指でラビの服を掴む。しかしそれも引力に負けて、ぱたりとシーツに落ちた。
     
    「ラビ、いけるかい?」
    「あっ、ラビ、荷物持っとくからな!」
    「朝陽のキーボードと荷物は、オレが持っていく」
    「悪いね、ありがとう」
     よいしょ、とラビが朝陽を背負う。すうすうと寝息を立てる仲間を見て、ノアが微笑ましげに頷く。セバスチャンに促されるままに家へと五人が入っていく。朝陽の部屋の前についた所で、それじゃあとノアがラビと、その背中の上の朝陽に向き直り、口を開いた。
    「今日はお疲れ様、ゆっくり休んで」
     そう言い残して立ち去るノアの背中に、おやすみと返す。朝陽の部屋のドアは僅かに開けられていた。どうやら荷物を運び入れた際に開けておいてくれたらしい。耳元で朝陽のくぐもった声が聞こえる。もそもそと軽く身じろぎをさせるのを背中で感じながら、ラビは部屋に入りベッドに歩み寄った。
    「朝陽」
     部屋についたよ、と呼びかけてみる。眠りに溶かされたような声を聴きながら、ベッドの上に朝陽を降ろした。 さっきの声で起きたのか、ゆっくりと瞬きを繰り返して朝陽が身を起こす。ぺたん、とベッドで座り込み、眠そうな顔をさせて、ラビを見上げている。
    「らび、さん……すみませ、ん……」
    「いいよ、気にしないで」
     疲れと眠気で中々身体が動かないのか、のろのろと制服を脱ぎだしている朝陽からジャケットを預かってはハンガーにかける。
    「置いておいてください……」
    「皺にでもしたらノアが怒るだろ」
     うう……とぐずるような声に苦笑いを浮かべながら、自分もジャケットを脱ぐ。
     ようやく覚醒しかけた朝陽を見て、もう大丈夫かなと頷いた。
    「お疲れ様、今日はゆっくり休めよ」
    「……」
     頷くこともなく、朝陽がラビを見上げる。まだぼんやりとした琥珀色の瞳が何かを訴えているようで、思わず首を傾げる。
    「ん?」
    「あの……」
     朝陽の指がラビのシャツを掴む。もう少しだけ、いいですかと遠慮がちに問いかけながら、その指はしっかりと力が籠もっていた。
     
     朝陽は言った。もう少しだけ、と。
     インナーと下着だけの姿でシーツに横たわる朝陽に、風邪をひいてしまうよとラビが寝間着を寄越す。むずがって中々着ない恋人にやれやれと溜め息をつきながら、ベッドのふちに腰掛けた。ようやく素直にそれに着替えた朝陽に、布団を捲って入るように促した。子ども扱いされていると眠気に包まれた意識の中でも感じたのか、少し口を尖らせたが、朝陽とラビが柔らかく呼べばもそもそと入り込んだ。枕に頭を預けて、眠そうな目で見上げてくる朝陽に思わず笑って、まだいるからと言ってやればほうっと息を吐く。
    「今日は……楽しかったなぁ」
     五人揃ってロケだなんて、久しぶりだったから。今日のことを思い出しながら語りかけるラビにぱちりと瞬きをする。温まりきらない布団の中で僅かに目を覚まして、朝陽はそっと視線を上げた。
    「この前プロデューサーと行ったスチームパンク展も面白かったけど、今日のはちょっと違っていたから新鮮だったな。静かで落ち着いていたし、また行きたいかも」
     独り言のような調子で、ラビが続ける。反応が返ってこずに寝たのかなと視線を落とせば、少しつり目がちの、大きな琥珀色の瞳がじっと、物言いたげにラビを見上げていた。
    「……朝陽?」
    「は、はい」
     どうしたの、とラビが見返してくる。いえ、なんでも……と言葉を濁しかけて、それでもやはりと朝陽が口を開いて、言葉を探して、それから。
    「あ、あの、ラビさん」
    「うん」
    「ずっとあそこにいたんですか」
     あそこ、という言葉にラビが瞬きをする。三階の、と朝陽が付け足せばああ、と声が上がった。
    「一番上って何があるのかなぁって思ったから」
     行ってみたらキッズスペースがあって、その奥にあの部屋があったんだ。座ったままのラビの方へと向こうと、朝陽がもそもそと身体を動かす。
    「入った時は驚いたけど、静かで落ち着いていたから一休みしようって」
    「……」
    「家路につく道でノアに喋っていたのと同じ理由を聞かされる。きっと本当なのだろう。だが朝陽があそこで見たラビは、部屋の壁際にあったベンチに背を向けて、ただガラス越しにあのオオカミの剥製をうっとりと見つめていた。一休みというよりも、熱っぽく、朝陽が見たことがないような目をさせて。
     どうして? とラビが朝陽に問いかける。なんと答えればいいのか一瞬迷って、朝陽は布団を鼻先まで引き上げてからもごもごと口ごもった。
    「ラビさん、オオカミさんの剥製を熱心に見ていたので……」
     そう遠回しに言ってみると、そんなに? と意外そうな声で返された。無自覚だったのだろうか、それとも、自分の思い込みか。言葉を探す。ようやく布団が温まってきて、再び眠気が忍び寄ってきた。それでもなんとか話を続けたくて、瞬きを繰り返す。
    「気に入った、とかですか?」
    「うーん」
     どうだろうな、とラビが頬をかく。少し考えるように視線を彷徨わせて、それから目を瞑る。
    「なんていうか、気になっちゃって」
     言葉を探しているように、コバルトブルーの瞳がうろうろと空虚を見ている。
    「だって捕まえた動物の皮を剥いでずっと見られるようにって作ったのが、アレだろ。なんだかそれって酷い話だなって思って……でも、さ」
     いいなって。
     ラビが柔らかな声でそうこぼす。かなり言葉を選んでいる、どこか直感めいたものを感じながら、朝陽はラビの横顔を眺めた。軽く伏せられた瞳、髪と同じシルバーアッシュの睫があの深い青の瞳を覆って、感情はうかがい知る事が、出来ない。
    「死んでもどんな姿だったか、忘れないようにしたかったんだろうなって……」
     ラビの唇が柔らかく笑みを浮かべる。その気持ちは、分かるよ。そうも聞こえた気がしたが、どこか遠い。布団のおかげで身体も温かくなって、それでもまだ起きていたいと朝陽は唸った。
    「眠い?」
     朝陽の様子を察したラビの声は優しい。まだ聞きたいことがあるんです。どうしてあんな、うっとりとした目をしていたんですか、あの時本当は何を考えていたんですか。重たくなっていく意識で藻掻く。それでも眠気というものは厄介で、泥のような場所へと朝陽を引きずり込んでいく。力を振り絞って手を伸ばす。
    「らびさ、ん……」
     自分の声すら遠い。少し冷たい手に、やんわりと握りしめられる。寝床でうとうとと微睡みながら朝陽が聞いてきた問いに、ラビははっきりとした答えを出すことが出来なかった。自分でもどうしてあの剥製に惹かれたのか、分からなかったからだ。すっかり眠りに落ちた朝陽の、安らかな顔をじっと見下ろして、暫くしてそっと立ち上がる。横に置いていたジャケットを取り上げて、音を立てないように扉へ向かった。
     後ろ髪を引かれる思いに、布団の方へと振り向く。なだらかな山を作っているそこが、その中で眠りにはいった部屋の主の呼吸に合わせて、小さく上下していた。それにほっと息をついて、目を細める。
    「おやすみ」
     柔らかな声が、暗い部屋に一日の終わりを告げた。
    むかしばなし
    「ラビさん」
    「……」
     布団の盛り上がった部分に触れる。枕と布団の隙間から、シルバーアッシュの長い髪が見えているが、動く素振りを見せない。そこから伸びた腕のそばには、ヒビの入った目覚まし時計が転がっている。
     ごくり。
     朝陽が大きく喉を鳴らして、もう一度布団を揺らす。
    「あの」
    「…………何」
    「ひっ」
     地獄の底から響いてくるような声とはこういったものなのだろうか。ワンテンポ遅れて返された低く、くぐもった声はあからさまに不機嫌だ。しかし朝陽があげた軽い悲鳴に、布団の山はぴくりと震えてそれから、もそもそと動いた。眉間に皺、そして開ききっていないコバルトブルーの双眸。
    「ちゃおやん……?」
    「おっ、おはよう、ございます……!」
     のそりと布団から頭を出したラビに頭を下げる。ぼやぼやとした表情のラビの目元は、いつもの涼しげな印象とはかけ離れていて、まさしく人を殺めそうな目、だった。
    「う……」
     思わず目を逸らす。きゅ、と肩を窄めてどうしようと焦っていれば、布団からラビの手が生えてきた。
    「ちゃおやん」
     低い声で呼びながらちょいちょい、と手招きされる。声と仕草のギャップが凄まじい。恐る恐る一歩踏み出せば、腕を掴まれてそのまま引っ張られた。
    「えっ、うわっ!?」
     バランスを崩した途端、身体を抱き留められる。視界が薄暗くなり、ごそごそと耳元で衣擦れの音が聞こえる。頭の上で恋人の低い声がして、耳を澄ましてみたが母国語なのか意味を聞き取る事が出来ない。
    「ら、ラビさぁん……」
     抗議の色を含めた声で、朝陽が藻掻く。それでもラビはものともせずに、がっしりとした腕の中の朝陽を抱き寄せて、その髪に鼻先を擦りつけた。
    「なに……」
    「なに、じゃないです……」
     拗ねたような朝陽の声にラビがくつくつと笑う。まだ意識はぼんやりとしているようで、朝陽の後頭部を撫でる指の動きは、ゆるやかだった。
    「起きないんですか……?」
    「んー」
     軽く唸って、ごつごつとした手で華奢な背中をなぞる。肩甲骨から尾てい骨へ、ゆっくりと愛でるように。どこか別の意図を乗せたその動きに、朝陽の頬に熱が集まった。
    「なあ……キスして」
     低い声でラビが強請る。へ、と顔を上げれば僅かに穏やかさを取り戻したコバルトブルーの双眸と目が合った。眠たそうなそれが、じっとこちらをうかがっている。口元は薄く笑みを浮かべていて。
    「朝陽」
     おはようのキスがほしいな。甘えるような掠れ声に誘われるように、ラビの頬に触れる。もう、と身体を動かそうとすれば、ゆっくりと引き上げられた。近くなった距離に鼓動が早くなる。そのまま身を起こして、そっと唇を近づける。少しかさついたそこに、触れるだけの口づけを施そうと軽く音を立てれば、後頭部を撫でていたラビの手に、力が籠もった。
    「んっ、んん……」
     頭を押さえられて動けない朝陽の唇を、ラビの舌が舐める。そのままほんの少し強引にそれをねじ込んで、歯列をなぞった。朝陽がおずおずとそれを受け入れる。角度を変えて、深く。
    「ふ、ん……」
    「っ、……」
     耳元に自分の小さな声と、ラビの少し荒い息づかい、それから互いの唾液が混じる音が聞こえてくる。数秒毎に奪われていく酸素に頭がぼんやりとしてくれば、時折僅かな隙間で息継ぎをさせてくる。舌を絡め、濡れた唇を重ね合う。声にならない好き、を吐息に混ぜて渡し合った。口元を唾液で濡らしながら、どれほど長くキスを交わし合っていたのだろう。
     ようやく満足したらしいラビが、自分の唇を舐めながら離れて、桃花色の髪をくしゃくしゃと撫でた。暫く胸を上下させて、ぼんやりとしていた朝陽が、ややあって口をへの字に曲げる。それを見たラビがそっと、おはようと囁いてきた。すっかり目の覚めた青い瞳は、嬉しそうに細められている。
    「いい朝だね」
    「ず、ずるい……です……」
     朝陽の拗ねた声にそうかな、とラビがくつくつと肩を揺らす。ぴったりと身体を抱き寄せられながら、朝陽はこくこくと頷いて、ラビの肩に額を押しつける。
    「だって朝陽が頑張って起こしにきてくれたから、つい」
     ふふ、と笑ってラビが身体を起こす。朝ご飯食べた? と朝陽に問いかければ、まだです、と首を振ったので、じゃあ作るよと掛け布団を剥がす。のそのそと起きた朝陽が、あ、と声を上げた。
     その視線の先には辛うじて今の時間を指し示す目覚まし時計が転がっていた。ラビが重たい溜め息をついて、これ以上刺激しないように持ち上げる。慎重に定位置に戻してみたが、きっとあの可哀想な目覚まし時計は一週間も持たないだろう。そんな事を考えながら、朝陽は乱れた着衣を治した。
     
     ぱふ、とフライパンに着地したホットケーキからいい匂いがする。既に白い皿の上には、ほどよく焼き色のついたそれがいくつか積まれていて、湯気をたてていた。
    「ラビさんは何で食べますか?」
    「バターと蜂蜜かなぁ。あ、ジャムも出してくれる?」
    「はい」
     手際よくホットケーキを焼いていくラビの後ろで、朝陽がそれぞれ入った瓶を出していく。
    「ちょっと焼きすぎたかもなぁ」
    「分けておいたらレオン達が食べるでしょうか……」
     のんきにぼやくラビにそう返すと、確かにと頷いて皿をもう一枚取り出す。二枚ほどそちらに乗せて、ラップを被せる。よかったら食べて、とメモを残して、カウンターに置いた。
    「何飲む?」
    「えっと、紅茶で……」
    「Да……ジャムは?」
    「少しだけ」
     ラビが紅茶を淹れる際、必ずと言っていいほどジャムの有無を聞かれる。初めて問われた時にジャム? と首を傾げると、ロシアでは紅茶と一緒に蜂蜜かジャムを舐めるんだよ。こっちではお茶の中に入れるって伝わっているみたいだけど、とラビが教えてくれた。それなら試してみたいですと、ラビに用意してもらった紅茶は濃いめに淹れられていて、その濃さが苺ジャムに合って、確かにおいしかった。焼きたてのホットケーキが載せられた皿と、フルーツが少しだけ盛られた皿、それからバターとジャム、蜂蜜がテーブルに並べられる。ラビはいつも通りコーヒーで、それと一緒に朝陽の紅茶も運ばれてきた。
     いただきます、と手を合わせる。
     ふかふかとしたきつね色のそれに、バターをひとかけら置いて、蜂蜜をかける。黄金色の液体がとろりと垂れて、バターを溶かしていく。二人きりの食事は、静かだ。ナイフとフォークで切り分けて、一口に頬張る。小柄で華奢な割に、朝陽はそこそこ食べる方だった。
     一口食べては幸せそうに目を細める恋人を眺めながら、ラビも少しずつ食べていく。
    「足りる?」
    「はいっ」
     ラビに聞かれれば朝陽が笑顔で頷く。普段は遠慮しがちな彼が自分の前では甘えてくるのが、嬉しい。弟みたいだなぁと言えば同い年です……! と本人は不満そうだが、わしわしと頭を撫でれば気持ちよさそうに琥珀色の目を細めるのが、可愛らしいのだ。
    「朝陽」
     ラビが腕を伸ばして、その指で朝陽の口元をつつく。夢中で頬張っていた朝陽が、ぱちりと瞬きをさせた。
    「……」
    「!」
     ラビが笑って、口元の食べかすをとる。朝陽が顔を真っ赤にして眉を寄せた。言ってくれればいいのに、と。
     ラビさん、とホットケーキを飲み込んで見上げてくる。何? と首を傾げれば食べないんですか、と聞かれて慌てて自分のそれに視線をやる。
    「一枚いる?」
    「ラビさんも食べないと」
    「うーん、確かにね」
     朝陽の言葉に、器のオレンジをひとかけら摘まむ。口の中に放り込んで噛みつぶせば薄皮が弾けて、果汁が広がった。おいしいね、と呟く。心なしか視線を泳がせていた朝陽が、こくりと頷いた。暫く他愛のない話をして、すっかり皿を空にする。蜂蜜とバターで僅かに濡れた朝陽の唇をちらりと見ながら、ラビはコーヒーを一口飲んだ。起こされた時にあの小さな唇と深い口づけを交わしたのだと思い出して、自然と頬に熱が集まる。
    「少しゆっくりしたら、出ようか」
    「はい……」
     今日は二人ともオフで、出かけようと約束をしていた。そうは言っても電車に少しばかり乗って、降りた駅からすぐのショッピングモールを目的なくふらつく、その程度だ。皿を重ねてシンクに運ぶ。冷ましていたフライパンと浸けていた包丁とまな板を一緒に、朝陽が洗う。洗い立ての皿を受け取って、ラビが布巾で拭いていく。そういえば、と朝陽が口を開いた。
    「ラビさんは」
    「うん」
     何か買いたいものってありますか。そう言われて、つやりと綺麗になった皿を置いてラビが視線を上げる。そうだな、と一言こぼしてそれから、ああ、と声をあげた。
    「本屋に行きたいな。今読んでるものがそろそろ終わるから」
    「何読んでたんですか?」
    「ジュール・ヴェルヌの海底二万哩」
     映画の勉強の為に少しずつ読んでいたんだ。恋愛ものも良いけど、こういうのも面白いよなぁって。棚に皿を戻しながらそう言うラビに、どんな話なのだろうかと考える。朝陽から見たラビはかなりの読書家で、リビングではよく寛ぎながら本を読んでいたり、鞄には必ずと言っていいほど、それを忍ばせている事も知っていた。好きなジャンルはなんですかと聞けば何でも読むけど、恋愛小説かなぁと返ってきて、ほんの少し可愛らしいなと思ったことがある。
    「海の底を冒険する話だよ」
     朝陽の表情が分かりやすかったのか、ラビが答える。手を洗ってタオルで拭けば、さて、と伸びをした。準備が出来たら行こうか、と階段に向かっていくラビに朝陽が返事をして、ついていく。
     
     平日のショッピングモールは丁度いい具合に空いている。この時期特有の気候の良さで一層過ごしやすい。上の階にある本屋を目指しながら、店を見てまわる。すると通りがかったCDショップの前で立ち止まってから、少し寄っていっていいですかと申し訳なさそうに聞いてきた。朝陽の手を掴んで、ラビがいいよと店に入る。そのまま指を絡められて、あ、と小さな声を、朝陽が漏らした。そしらぬ顔で、ラビが朝陽に視線をやる。
    「何か欲しいものがあるとか?」
    「は、はい……ラジオで流れていた曲が良くて……」
     ピアノロックバンドなんですけど、女性ボーカルさんの透き通る声とピアノの音色がとてもあっていて。どこか嬉しそうに語る朝陽に小さく頷く。
    「でも音楽サイトで配信していなくて、CDを、と……」
    「なるほど」
     どこにあるだろうか、とラビが棚を見渡す。多分こっちです、新譜だったからと朝陽がそっと手を引いたので、任せることにした。そうだ、コーヒーを買わなきゃ。輸入食品店に通りがかったところで、ラビが思い出したように足を止める。それから朝陽と自分が持っている荷物を見比べて、少し眉を下げた。買いに行きたいが、荷物が些か多い。
    「あ、あの……オレ、ここで見ておくので」
    「……大丈夫?」
    「オレだって見張りぐらいできます……」
     心配そうなラビに、朝陽が頬を膨らませる。やはりこの恋人は自分を年下に見がちなのではないかと抗議の目で見返せば、苦笑いをしながらラビが頷いた。すぐ戻ってくるよとすまなそうに荷物を渡してくるラビに、いいんですと朝陽が受け取る。店に入っていくラビの背中を見送って、荷物を持ち直した。CDと、本と、服が何着か。そろそろ夏も近付いてきているから、今日はシャツを買った。お揃いにしてみる? だなんて悪戯っぽく提案してきたラビに頷いてみるのは少し勇気がいったが、楽しみなのは否めない。
    「ねえ、君」
    「……?」
     聞き覚えのない声に振り向く。見知らぬ男がそこにいて、ぎくりと肩が跳ねた。背丈がラビぐらいに高い。耳にはピアスがぞろりと並んでいて、唇にも銀色のそれがホクロのようについている。
     怖い人だ、と直感めいた物が走ったが、どうすればいいか分からないし、身体が動かない。
    「かわいいね、女の子?」
    「えっ、あっ、あのっ」
    「あっ、喉仏があるね、男の子かぁ。丁度いいや、今ひま?」
     笑顔で話しかけられても、怖いものは怖い。ぶんぶんと首を振って、否定する。
    「ひま違います……っ」
    「あれ、もしかして外国人? 留学生さんとか」
    「あ、あの、お、オレ……」
     アイドルの途中なんで事務所を通してください、と言えば済む話なのに、恐怖が勝って俯いてしまう。
    「顔上げてくれるかな」
    「は、はひっ」
     ほとんど命令に近いような錯覚に陥って、ばっと顔を上げる。
     うんうん、と男はこちらをじろじろと眺めてくる。怖くて、怖くて、涙が浮かんできた。
    (ら、らびさん、たすけて)
    「あの」
     聞き覚えのある低い声が、耳に飛び込んでくる。
    「オレの連れに、何か?」
     めちゃくちゃに怒っている。そう確信した。まずいです、とこれから起こる悶着を想像して、それからラビさんは目当てのコーヒー豆を買えたのだろうかと思考を明後日の方向へ働かせてみる。そっと押しのけられて、目の前にいつもの背中が見えた。ああ、今日もラビさんの髪は綺麗だなあ、だなんてそんな考えが浮かんだりして、いや、惚気に浸っている場合ではない。
    「あれ?」
     ラビが何かを言おうとした瞬間。男から素っ頓狂な声があがる。思わずラビの背中から顔を出した。
    「君、ロシア人?」
    「あ?」
    「ああ、そうそう、思い出した……ラビくん?」
     男の言葉に、え、とラビの肩が動く。何がどうなっているのだろうとラビと男の顔を見比べた。そもそも、あの怒っているラビに何の恐れも抱かないこの男は、一体なんなのだろうか。
    「……どうしてオレの名前を?」
     露わにしていた怒りをほんの少し引っ込めて、ラビが探りを入れる。ファンであるならば大事だと頭が冷えたらしい。しかし未だにナンパという疑念も、捨てきられていない声色だった。
    「あは、随分と前だから覚えていないかな。ほら、ロシアで読者モデルをしたでしょ、君」
    「……」
    「そうなんですか?」
    「……うん」
     頷くラビに、ぱちりと瞬きをする。予想外の話の流れに、彼自身も戸惑っているようだった。男がああ、やっぱり、人違いじゃなくてよかった! と大笑いしている。
    「あの時、君に声をかけた人だよ。僕」
    「は? え、ええ……!?」
     今度はラビが素っ頓狂な声を上げる番だった。
     
     おいしい? と聞かれて素直においしいですと答えて、この人に自分は何歳として見られているのだろうと考える。今話題の限定フラペチーノは、春の味がした。
     お茶どきが過ぎたカフェのテラス席は穏やかだ。目の前には同じ飲み物とチーズケーキを前ににこにこと笑顔を絶やさない男と、そわそわと落ち着かないラビが目の前のコーヒーと彼を交互に見ていた。
    「いやあ、こんな所でばったりだなんて、わからないものだね」
    「は、はい……」
    「あの……」
     お二人はどういった関係なんですか? とラビ以上に事態を飲み込めていない朝陽が口を挟む。
     フラペチーノを一口飲んで、男は口を開いた。
    「TEENって雑誌、知ってる?」
    「あ、はい」
     ノアさんが載った雑誌だ、と朝陽が頷く。すると男は満足げに、身を乗り出した。
    「二、三年前かな。その雑誌の編集者として、海外を回ってたんだよ。所謂読モを探しにね。で、綺麗な銀髪の男の子を見つけて声をかけた。それが彼ってわけ。いやあ、ラビくんは本当に忘れられなかったから、すぐ思い出しちゃった」
    「はは……」
     男の言葉にラビが苦笑いを浮かべる。撮影の時、とんでもない子だなあって思ったもんだよと懐かしそうに小さなフォークを揺らすのを、朝陽が眺めて、それからラビの方を向いた。
    「とんでもない?」
    「ああ、まあ、若気の至りかな」
     朝陽の問いにラビが誤魔化す。あの話はノアには軽くしたことがあるが、朝陽にはない。きっと聞けば顔色を変えてしまうだろう。若気って、オレと同い年です。と静かに指摘する朝陽とラビのやりとりを見ていた男が、そういえばと口を開く。
    「なんで日本に?」
     彼もロシア人? と聞かれて朝陽が首を振る。中国人です、と答えればへえ、日本語上手だねえと感心された。ラビが自分達が日本にいる理由を言えば、僅かに驚いたように男は目を見開く。
    「エルドールの?」
    「はい」
     流石にあのクマ校長傘下のアイドル養成学園を知っているらしい。ふうん、そうか、エルドールのね、と頷いて、男は腕を組んでなにやら考え込んでいる。
    「……今も、TEENで?」
    「ううん、辞めた。なんていうかさ、最後まで肌に合わなくて」
     僕にはいい子ちゃん過ぎたんだよ、あそこ。男がにやりと笑う。君のあの写真だって載せるのに一苦労だったんだからと言われて、ラビの目元がきゅ、と細くなった。
    「だから今日はとってもラッキーなんだ、僕。こんなにかわいい子も見つけられて、君にも再会出来た」
     そう男が差し出してきたのは、名刺だった。受け取って見てみれば、聞いたことのない出版社のロゴと、名前が書かれている。彼の名前の横には、社長兼編集長と肩書きがふってあった。
    「社長、僕。編集長、僕。カメラマン、僕……と見習いアルバイトくん」
     小さな会社だよ。雑誌もやっと売れ出したばかり。TEEN時代のコネやら経験やらを活かして、良さそうな子に声をかけてはモデルをお願いしたりとかね。と楽しげに男は語る。成る程、合点がいった。
    「つまり、朝陽に声をかけていたのって」
    「ナンパ」
    「えっ!?」
    「あはは、冗談。お小遣い稼ぎしない? ってスカウトしたかっただけ」
     それはそれで誤解を生みかねない言葉にラビが眉を寄せる。そうだったんですね、と朝陽は納得したようで、それから困ったようにでも、と男を見た。そう、この誘いは簡単に乗れないのだ。
    「……勝手に仕事を受けるわけには」
    「まあ、そうだよねえ。いくらアイチュウと言えども勝手に安売りなんてしちゃ怒られるでしょ」
     困ったなぁとへらへらしながら男が笑う。つまり、許可を得ないとね。と手元のスマホをいじりだした。クマさんの番号、まだ繋がればいいけどとぼやく男を、二人は奇妙な物を見るかのような目で見つめていた。
     
     数日後、ラビにモデル撮影の仕事が入った。
     ピンポイントでの名指し指定で、プロデューサーも訝しんだがなにぶんクマ校長から降りてきた仕事である。受けるか否かの判断をする以前の話で、受けるしかない。
     プロデューサーから話を聞いたのはユニットルームで五人が寛いでいた時で、オレその雑誌最近読み出した! スゲーじゃん! と興奮するレオンと、校長からの断れない仕事だと聞いた途端に不機嫌そうに眉を寄せるリュカ、妙な話だねと訝しがるノアをかたわらに、とうのラビは朝陽と顔を見合わせていた。
    「その雑誌、TEENの元編集者が独立して創刊したもので……レオンくんの言うとおり最近すごく勢いがあるの。こちらとしても願ってもない話だし、校長のツテだから驚くほど危険、というわけではないはずだけど」
     その人、少し変わっているって有名で。困惑の色を隠せないプロデューサーの言葉に、二人が頷く。
     居合わせた剛は彼を知っているらしく、大丈夫だと思うわ、と答えた。剛が言うならとノアも僅かながらに、軟化したようだった。
    「うん、大丈夫」
     穏やかに笑いながら、ラビが答える。
     勿論受けるよ、と承諾するラビを朝陽は横目で見て、それから小さく息を吐いた。
     
     知らないことが、多い。
     放課後、朝陽は図書室にいた。ヘアピンをひとつ落とそうものならばその音が聞こえてきそうなほどの静けさの中、ずらりと棚が並んでいる。そこには小説、資料、戯曲本、楽譜、雑誌……芸能活動の為におおよそ必要な本が収まっていて、手にとられるのを待っていた。
    「雑誌、の棚は……」
     自分よりも背の高い、棚と棚の間を彷徨う。
     側面に取り付けられたパネルを確認しながら、目当てのものを探していく。
     数日前のことを思い出す。ラビと自分の前に現れた男。彼が語る過去のラビ。それを曖昧な笑みで返す、ラビの態度。それを見てから朝陽は、ずっと胸に引っかかるような思いを抱いていた。
     ラビのことを、あまりに知らない。特に、昔のことを。過去を詮索するのは正直嫌だ。自分だって、されたくない。だから朝陽も、I❥Bのメンバーも、他人の過去を殊更に聞き出そうとはしない。
     それでも共に暮らす日々ごとに、言葉を交わすごとに、唇を重ねるごとに、思いが募るごとに。
    (ラビさんを、知りたい)
     そんな小さな欲が積もってしまう。きっかけは些細な過去との再会と、僅かな手がかり。
     知りたい、触れたい。ラビという男の存在に、少しばかりでも。
     棚のパネルにはここ五年ほどの年代が書かれている。この棚のどこかに、彼がいる。そう悟って、鼓動が早くなった。そして、やはり、朝陽はためらった。
    (我が儘なのは、分かっているんです)
     棚の前に立って、TEENの文字をなぞっていく。季刊誌で一年の内に必ず四回の発行、それに加えてムックが一冊ほど発行されているらしい。つまり、探すのはそう大変なことではない。二、三年前のあたりを探ればいい。急かされるように、発行年を追う。後ろめたさに頭の奥がざわざわとして、焦ってしまう。それでも指は、それを見た瞬間に、止まった。
     冬号、ロシア・北欧特集。
    「これ、だ……」
     背表紙に書かれた文字をなぞる。一瞬止まって、それから静かに引き出した。意外にもすんなりとそれは引きずり出されて、朝陽の手元に収まる。
    「……」
     よろ、と足下が揺れる。背中に硬いものが当たって、そこに軽く体重をかけてしまった。すうっと息を吸ってから、その本がまるで重大な秘密が書かれたものであるかのように、ゆっくりと慎重に開いていく。少年、或いは青年達がカメラに向けて笑顔を振りまいたり、凜々しい表情で見据えたりと己を見せつけていた。殆どがあの編集が足を使って探し出したのであろう青年達で、だいたいが十五からそこらの年齢だろう。顔つきの特徴、身につけている衣服も違っていたがどこか皆、育ちがよさそうな雰囲気ではあった。おそらく、俳優かモデルを目指しているような、そんな雰囲気だ。
     見開きの中でひしめきあっている彼らのひとりひとりを確かめていく。彼らのポートレートの他には国の名所が小さなコラムとして掲載されていた。
    「あ」
     彼がいた。
     こんなにも自分は目敏かったかと呆れがやってくるほどに、すぐ分かった。
     らび、さん。息を飲んで、呟く。
     容姿は今と殆ど変わっていないのではないか。今より少し幼い、と言われればそうも思えたが。
     とんでもない子。数日前に男が言った言葉を思い出し、理解する。きっと当時も話題にあがったのだろう。そして、賛否も両方、あったのだろうと容易に想像出来た。
     書かれている年齢にしては大柄で、大人びた顔の少年が軽く泥のついたモッズコートを羽織って、カメラに視線を向けている。殆ど睨み付けていると言っても良いのかもしれない。コバルトブルーの瞳は冷め切っていて、いつも自分に向けてくる穏やかで温かなそれとはかけ離れていた。
     媚を売るつもりなどさらさら無いと言いたげな仏頂面、その頬には青黒い痣がくっきりと主張していた。よくよく見れば左の目元には一筋、切り傷がある。今の今まで、刃物を交えた喧嘩をしていましたよと、どう繕っても隠せない生々しい痕と圧が、ページ全体の爽やかさとは違う、ある種の異様さを、醸し出していた。
    「……」
     ぽかん、と口を開けて今や過去のラビを凝視する。普段ひとつ屋根の下でともに暮らす彼は本当に穏やかで。確かに中々起きられない朝だとか、時折飛び出してくる物騒な言葉は時に朝陽の肩を跳ねさせるが。ただ、朝陽にとってのラビは優しく、つい頼ってしまいがちな存在だ。たまにどこか寂しそうな目をしているのには何かきっと理由があって、いつかオレに話してくれるだろうかと思いながら特別な気持ちを、彼に抱いている。唇を重ね、身体を重ねるほどには。
     過去から自分を睨み付けてくる彼は、思っている以上に冷たく、荒っぽく、痛々しかった。
     そしてどうしようもなく、寂しげだ。
     身体の力が抜けて、ずりずりと崩れ落ちる。ぺたん、と床に座り込む格好になって、朝陽は目の前の棚をぼんやりと見上げた。いやに早い鼓動が、耳に障る。
    「かっこいい、です……」
     指先で過去を撫でて、思わず呟く。きっと本人に言ってしまえば困った顔で首を横に振るのだろう。
     もう一度紙面を見やって、小さく息を吐く。どれだけ見ていても、飽きない。
     この傷はどうしてしまったのだろうだとか、どうして彼はこんなにも刺々しいのだろうだとか、ひとつふたつの写真だけで、ずっと物思いに耽ることが出来た。
     
     スマホがブンブンと震えているのに気づいて、慌てて取り出す。図書室に入ってから一時間は過ぎていた。
    「はい……」
     ――朝陽? どこにいるんだ?
     ラビの心配そうな声が鼓膜を震わせる。今日遅くなるって言っていなかったから、と声色に不安を滲ませる恋人の声に、ゆっくりと目を瞑った。なるべく小さな声で、答える。
    「図書室です……すこし……調べ物があって」
     ――そうなのか? まだかかるのかな……一人で帰れるか?
    「また弟扱いしてる……」
     苦笑交じりに答える朝陽の声に、だって、と何かを言いかけて、ごめんとラビが謝る。
     謝ることではないのにと朝陽はぼやいて、ゆっくりと立ち上がった。
    「でも、迎えに来てください」
     ぱたりと雑誌を閉じる。一センチぶん空いている隙間に雑誌を差し込んだ。
     わかった、待っていてとラビの声が僅かに明るくなるのに、笑みを浮かべて、鞄を持ち上げる。
     通話を切った後で急ぎ足で別の棚へ。
     それから目に留まった適当な本を引っ張り出して、貸し出しカウンターに向かった。
    ねむれないよるに
     うまく眠れない夜がある。
     レッスンが思うようにいかなかった日、ほんの少し嫌なものを見てしまった日、頭に浮かんだ疑問や考えが、こびりついて離れない日、理由はないけれども目がさえてしまった日。
     布団に潜って目を瞑って、明日の為にと身体を丸めてみても、心の底がざわついて、どうにも眠れない。
     うまく眠れない。眠れない。眠れない。
     
    「あれ、朝陽?」
     重たいだけのベッドから抜け出して、キッチンに助けを求めようと部屋を出た朝陽が出くわしたのは、ラビだった。自室の扉の前にいた彼は、いつもの灰色のスウェット姿ではなく、シャツにシングルライダースを羽織って、外にでも出て行くかのような格好だ。
    「ラビさん?」
    「こんな時間にどうしたんだ?」
     眠れない? とラビが心配そうに眉を寄せて、歩み寄ってきた朝陽の頭を撫でる。言い当てられて肩をびくりと震わせながら頷いて、それから視線を上げた。
    「ラビさんこそ」
     息を潜めながら返す。答えづらそうに視線を逸らして、目がさえちゃってと囁かれた。
    「……ねえ」
     耳元でラビの唇が動く。着替えてきて、少し厚着で。玄関で待っているからとラビがねだる。ぱちりと瞬きをしてから朝陽が頷いて、踵を返す。なるべく音を立てないように着替えて、再び部屋から出て階下へと降りていく。ぼんやりと灯りの点いた廊下を歩いて、それからスイッチを消した。
     暗い廊下の壁にはラビがもたれ掛かっている。暗がりの中で、コバルトブルーがじっと見つめてきた。ちゃり、と金属の擦れる音をさせながら、ゆっくりと玄関扉を開く。
     
     春冷えが厳しい夜だ。頬に触れる冷たい空気に、朝陽が目を細める。玄関の門の前で澄み切った夜空を見上げて、家の方に顔を向けた。部屋はどこも灯りを消して、きっとそれぞれの住人達も眠りに就いている。本来ならば自分もそうしている筈なのにと思うと、少し後ろめたい。
     ラビがガレージからバイクを押してきた。はい、とヘルメットと小さなインカムを渡されて、受け取る。
     朝陽がラビのバイクの後ろに乗るのは初めてではない。急いで学校に向かわなければならない日や、ちょっとした遠出をする時なんかによく乗せて貰ったし、ラビも喜んで乗せていた。
    「聞こえる?」
    「はい」
     耳元でノイズ混じりのラビの声がする。もう少しいいやつが欲しいなあとこぼしながら、ラビがアクセルを捻れば、車体が唸りだす。ラビの背中に触れれば、ゆっくりと動き出した。
     
     都内と言えども街は眠りに就いている。時折、対向車線の車とすれ違うが、朝や夕方よりもずっと少ない。二十四時間営業のコンビニやファストフード店は明るいだけで、その中にいるのは自分達と同じように眠ることが出来なくて寝床を抜け出してきた憂鬱な人々が殆どだ。
     インカムはつけていたが、基本的にラビも朝陽も無言だった。たまに信号に引っかかって、ああ、と声を漏らすラビの声が耳を擽るだけで、流れていく街並みを朝陽は黙ったまま眺めていた。
     眠れない人々を責め立てるような街並みを抜けて、道路を駆けていく。
     三十分ほど走れば、海が見えてきた。
    「寒くないか」
     ラビの声が聞こえる。大丈夫です、と答えればよかったと笑われた。もう少しだけ流していいかな、と殆ど独り言のような問いかけに、いいですよと返した。黒々とした海面を眺めてみる。海を挟んだ向こう側はこちら側よりもまだ明るくて、それから地平線の方角では船灯りがぽつぽつと浮かんでいる。それをぼんやりと数えているうちに、バイクが停止した。
     ヘルメットを脱いで、ラビが伸びをする。朝陽もヘルメットを外せば海からの風が三つ編みを揺らした。被っていたものをラビが受け取って、バイクの上に置く。自分の物も、ハンドルに吊った。
     目の前には砂浜と、海が見える。風が気持ちいいなあと笑いながら、砂浜に足を踏み入れた。朝陽も少しためらって、歩き出す。柔らかいような硬いような感触が足に伝わる。転けないようにねと手を取って、波打ち際まで。殆ど灯りのない浜辺を、波が打ち寄せる音が浸していて、街の中では金星や一等星ぐらいしか見えない夜空には、溢れるぐらいの星空が散りばめられていた。
    「あんなに星が……すごいです……!」
    「……」
     朝陽が感嘆の声をあげる。どれとどれを結べば星座になるのだろうと、指でなぞる。何の手がかりもないので、それっぽい星たちを適当に。しかしラビがだんまりを決め込んでいるのに気がついて、顔をあげた。
    「ラビさん?」
    「……ん、どうした?」
     柔らかく微笑まれて、朝陽の頬に熱が集まる。それが冷たい風と触れあって、妙に気持ちがいい。
    「ラビさんこそ黙っているから……」
    「ああ、いや、大丈夫」
     星空なんてじっくり見るのは、久しぶりだから。苦笑いをして言うラビに、朝陽は顔を覗き込む。
     本当だ、綺麗だね。ラビの声にはあまり抑揚がない。それが寂しくて、手を握った。
    「眠れなかったんですか?」
    「……うん、うまく眠れなくて」
     どうしてだろうな、なんてことのない日だったのに。ラビが肩を揺らす。
    「たまに眠れなくなって、こうやって抜け出すんだ。ガレージの鍵は持っているから、ちょっとそこまで」
     本当はよくないことなんだろうけどね。そう言い切ってから、ラビはああ、と溜め息を吐いた。
     朝陽を巻き込んでしまった。
     つい出来心だ。あのままおやすみ、と言っておけばよかったのかもしれない。
     自分を信頼してガレージのスペアキーを預けてくれた家主に無断で、こんな真夜中に未成年の学生二人が出歩くのはどうしたって非行少年の行いだ。それに、たとえ一人であれこういった事をしてしまうのは、あの頃から変わっていない。
     そうだったんだ、と朝陽が呟く。いつかの眠れない夜に、外から聞こえてきたエンジン音の出所が分かった気がする。大仰に吹かすわけでもなく、逃げるように遠ざかっていくその音、それが意味するものを。
    「ずるいです」
    「どうして」
    「誘ってくれても、いいじゃないですか」
    「だって夜中だよ」
     未成年は真夜中に出歩いちゃ、駄目だよ。ラビの笑う声に、ラビさんだって学生ですと頬を膨らませる。普段は何につけても引っ込み思案なくせに、ラビの前では時折、図太いことを朝陽は言ってのけた。
    「でももう、共犯だからいいんです。オレがラビさんを見つけてよかった」
     ふふ、と嬉しそうに朝陽がラビから手を離す。ねえラビさん、あそこにベンチがありますよ、と指差して笑う。ああ、だからよくなかったんだと再び思い知って、ラビが軽く唸る。少し休みませんか、柔らかな唇が誘う。時折、自分のせいで朝陽が変わってしまうのではないかだなんて、自惚れに似た危惧をラビは抱いていた。
     ベンチに座って、波の音に耳を傾ける朝陽は、ラビの肩に頭を預けている。ゆっくりと呼吸をする朝陽の僅かな重みに僅かな戸惑いと罪悪感、それから安堵がない交ぜになってくる。
    「眠たい?」
     ラビが聞けば朝陽がゆるりと首を横に振る。まだ眠くないです。ときっぱり言い切る声は確かに、起きている。膝の上で手持ち無沙汰なラビの手に、自分の手を重ねる。ごつごつと骨張った大きな手が好きで、嬉しくなって笑ってしまう朝陽に、ラビは気恥ずかしさがこみ上げて。
     朝陽の手はあたたかい。自分の手は冷たくて、初めて朝陽がこの手に触れた時、驚いていた。少し低血圧でと誤魔化すように言えば、ゆっくりと両手で包まれたのも覚えている。
    「ねえ、朝陽」
    「はい……」
     暫くしてラビが口を開く。朝陽も返事をしたが、自分から声をかけたというのにラビは軽く黙って、それから小さく息を吐いた。
    「寝付けなくても一人で出歩いちゃ駄目だよ」
    「……」
     危ないからね、約束してくれ。ラビの声は真剣だ。どこか、痛々しくもある。
    「ラビさんはいいんですか」
    「オレは……いいんだ、慣れてるし、どうとでもなるから」
    「ラビさんはたまにばか、です……」
     どうとでもなるだなんて、と朝陽が拗ねた声を出す。うん、ごめんねとラビが困ったように笑って、柔らかな桃花色の髪に額を、押しつけた。
    「でも一人でどこかに行かれちゃうと……怖くなるから。ね、お願い」
     そのまま甘えた声で乞われて、朝陽が琥珀色の双眸をすっと細める。すり、と軽く鼻先をうずめて、約束してくれる? と繰り返すラビの表情はうかがいしれない。逃げないようにしているのか、重ねた手を握られて、きゅっと力を込められた。傷つけてしまったのかもしれない。ふとそんな考えが朝陽によぎった。自分の言葉や態度でそうさせたのではないと分かっているものの、彼のやわい部分をつついてしまったのだろう。
    「一人でどこにも行きませんから……オレが臆病だって、ラビさん、知っているでしょう」
    「……」
     ラビが小さく首を振る。視界の端で、シルバーアッシュの房が揺れた。
    「指切りしましょうか」
     自分の小指と、ラビの小指を絡ませて、朝陽が顔を上げる。こちらを見つめる青い目は不安そうに揺れていて、やっぱり傷つけてしまったなぁと胸が痛んだ。
    「オレは夜中に一人で抜け出したりしません。眠れなくて外の空気を吸いたくなったら、ラビさんの部屋に行きますから。起きていたら開けてください……約束です」
     ゆーびきりげんまん、と囁いて指を揺らす。ぱちりとラビが瞬きをして、絡み合う小指同士を眺める。うそついたらはりせんぼんのーます、仰々しい日本のまじないを歌う朝陽と小指を見比べて、それから。
    「ゆびきった」
     小指が離れる。あ、と小さくラビの声が震えた。
    「いいの」
    「いいんです」
     朝陽が嬉しそうに言って、それからラビにキスをする。音を立てて、軽く触れるだけのキスを。柔らかい唇の感触にふふ、と笑うラビに、ほっと胸をなで下ろした。
     海の向こうが白んできている。帰りたくないのに、朝はやってくる。
     
     ラビがブレーキを掛けて、朝陽を降ろす。明日がオフであることだけが幸いだ。昼過ぎまで眠っていても首を傾げられるだけで、まあ休みだからと許してくれる、筈だ。
     ピンクっぽい空を見上げて、ちょっと待っていてと急いでガレージに愛車を停めに行くラビの後ろ姿を横目で見送ってから、朝陽は小さく欠伸をした。
     流石に、眠たい。
    「……たのしかったなぁ」
     ぽそりと呟く。ラビの言うとおり、今晩の行為は悪いことなのかもしれない。それでも彼のバイクに乗せて貰って、辿り着いた海で星空を眺めて言葉を交わして、唇を重ねたことは、眠れないまま布団の中で呻いているよりも、朝陽にとってはずっと幸せな夜の出来事だった。
     ちちち、と小鳥が頭上でさえずっている。遠くの方で、新聞配達のバイクのエンジン音がしているのに、耳を澄ます。暫くしてラビが足早に戻ってきた。行こう、と手を掴まれて門をくぐる。そっと玄関扉を開けて、靴を脱ぐ。後ろ手に鍵を閉めて、一歩踏み出した。そのまま静かに階段をのぼる。
     二階の様子をうかがって、ラビが朝陽の手を引いた。
     廊下の窓から僅かに朝の光が漏れて、調度品に輪郭を与えている。朝陽の部屋の扉をゆっくりと開けて、ラビが朝陽を見る。少し眠たそうなコバルトブルーの目が、申し訳なさそうに軽く、細められた。
    「付き合わせてごめんね」
    「なんで謝るんですか……」
    「……うーん、だって」
    「オレは楽しかった」
     ゆっくり眠れそうです。朝陽が微笑んで、それからまたひとつ欠伸をする。ラビが何かを言いかけて小さく息を吐く。それなら、と。
    「また連れていってください」
    「お昼にならね」
     僅かなりの抵抗のようにラビが返す。そんな彼の腕を少し引いて、朝陽が背伸びをする。夜風にあたって冷たくなったラビの頬に、朝陽の唇が触れた。
    「おやすみなさい」
     明日の朝、二人でノアさんに小言を言われましょう。起きるのが遅いよ、って。
     そう囁く朝陽に、眉を下げる。午前中に起きることが出来ればいいんだけどと呟いて、朝陽の頬に触れるだけの口づけを落とした。
    「おやすみ」
     ゆっくり休むんだよと静かに扉を閉められる。小さな足音が、遠ざかっていく。扉から離れて、息を吐く。羽織っていたウィンドブレーカーを、ハンガーにかける。それからシャツとジーンズを脱いで、床に放った。ベッドの上で抜け殻になっていた寝間着を着て、布団に潜り込む。
     幾分か冷たくなった身体をふかふかのそれが包んでくる。赤ん坊のように、きゅっと身体を縮こまらせて、目を瞑る。眠りに就こうとしていた数時間前、身体の奥底に巣くっていたざわめきはどこかにいって、代わりに抗いがたい眠気が襲ってきた。カーテンは朝日を遮って、夜を部屋の中に閉じ込めている。ゆっくりと深呼吸をして、身体の力を抜く。
     すとん、と眠りに落ちた。
     
    「Good Afternoon」
     ノアの呆れた声に頭をかく。おはよう、と言ってはみたものの、時計の針は既に正午を回っている。
     キッチンに朝ご飯があるよ、と指し示して、ノアが手元の本に視線を戻す。のそのそとキッチンに向かってカウンターに置いてあるそれを確かめる。二人分のサラダと、手を付けられなかったパンが積まれていた。あれ、とラビが声を上げる。それから再びリビングに戻って、口を開く。
    「オレが最後じゃない?」
    「朝陽さ」
     二階へ続く階段を見上げながら、ノアが答える。え、とラビが目を丸くすれば、やれやれと本を閉じる。
    「珍しいよね」
     五人の中で朝陽は早起きな方だ。そんな彼が正午を過ぎても起きてこないのは、ノアにとってはかなり珍しいことなのだろう。体調を崩していなければいいけれど、と声は心配の色を滲ませている。
    「うーん」
    「ラビは何か知ってる?」
    「何も」
     軽い嘘を吐きながら、コーヒーを淹れる。朝陽が起きるまで朝食は待つつもりだった。
    「……オレは起きてこなくても心配してくれないのかい?」
    「だっていつものことだろ」
     話題を逸らすつもりで投げた言葉に、ノアがくすくすと笑う。勿論その日がライブならば叩き起こすけれどもねと宣言されて、眉を寄せた。リュカとレオンは朝早くからどこかに出かけたらしい。暫くノアと話して、コーヒーを飲む。とんとん、と階段から音が聞こえてきた。
    「……おはようございます」
    「おはよう、もう午後だけどね」
    「う……すみません」
     にっこりと笑うノアを見て視線を泳がせれば、ラビと目が合う。おはよう、と優しく微笑まれて思わずぺこりと頭を下げた。座りなよ、とノアが隣を促す。逆らえずにいつもの席に座れば、ラビが立ち上がってキッチンに入った。ああ、一人にしないでください……と言いたがったが、なんとか飲み込む。まさか自分が一番遅く起きるとは思いもしなかった。
    「どうしたの、体調でも悪い?」
    「いっ、いえ、大丈夫です!」
     少し夜更かしをしてしまったというか、寝付けなくて、と朝陽が応えればテラコッタの瞳が楽しそうに細まる。
    「そう」
    「……」
     ノアがちらりとキッチンの方に視線を投げる。それから口元に笑みを浮かべて。
    「夜更かしはほどほどにね? 癖になるのはよくないから」
    「……は、はいぃ……」
     涙目で返事をすることしか出来ない朝陽に、ノアが満足そうに頷く。もしかしてバレているのではないだろうか、とびくびくしながら俯いていると、ラビが皿を持って戻ってきた。
    「朝陽、飲み物は何にする?」
    「……牛乳でお願いします」
     目の前に置かれた更には、スクランブルエッグとウインナー、サラダが盛り付けられている。それから傍らにはクロワッサンとバターロールが載った皿が添えられた。いそいそとラビがキッチンとテーブルを行ったり来たりしている。バター、ドレッシング、それとミルク。ラビの席にも同じメニューが並んだ。
    「じゃあオレは準備をしてくるよ」
    「どこかに行くのか?」
    「映画を観にいくんだ」
    「あ、そうなんですね……いってらっしゃい、です」
     支度をする為に部屋に戻っていくノアの背中を見送る。それから顔を見合わせて、照れくさそうにいただきますと手を合わせた。フォークを手に、スクランブルエッグを掬う。
    「よく眠れた?」
     ラビがバターロールを千切りながら問いかけてくる。はい、と頷いて、きいろい卵料理を口にした。ふわふわ、とろとろのそれが空腹を満たす。
    「そう、よかった」
     満足そうにラビが笑う。小さなそれを、一口食べる。何かを言いたげに視線を彷徨わせて、口を開いた。
    「夜のことは」
     とんとん、とノアが階段を下りる音が聞こえてくる。ラビと朝陽がはっ、と目を見開く。
     それからラビが、そっと人差し指を、唇に当てた。
    疵のあと
     少しずつ、傷つけてしまっている。そう思った。
     黎朝陽を悩ましているその思いの根拠は、博物館の出来事と日常で感じていたほんの僅かな違和感だ。
     ラビさんは強い人だ。臆病な自分よりもずっと。がっしりとした逞しい身体も、この内に宿す心も。そう思っていた。思っている。きっと自分だけではなくて、他の仲間も少なからず思っている、と思う。
     あの日、自分を助けてくれた時もそうだ。自分では足が竦んで動けなかっただろうし、そもそも普通の人間であるならば、車に轢かれそうになっている人間が友人であっても、それこそ恋人であっても咄嗟には動けない。自分の命に危険が及ぶことは本能が忌避して、一瞬でもためらうのが生き物としては正しいはたらきなのだ。
     それでも、ラビはそうした。朝陽が車に轢かれる寸前に飛び出して、彼を救った。そのおかげで朝陽はまだ生きているし、ラビ自身は制服が犠牲になって、肘に軽傷を負っただけで済んだ。
     それはきっと、奇跡と言うべきで。
     
     そんなに痛くなくてよかった。もうすぐライブなのに、ドラムが叩けなくなると困るしね。
     
     自分を怒鳴りつけて叱った剣幕をすっかりどこかにやって、ラビはにこにこと笑っていた。病院で治療を受けた肘には包帯が巻かれていて、ただごめんなさいと謝り続けるしかなかったのも、自分が情けなくなる。未だに思い出すだけでオレの馬鹿野郎と頭を抱えたくもなるし、泣いてしまう。
     そんなに痛くなくてよかった、なんて嘘だ。本当は痛くてしょうがなかった筈だ。本人が自覚しているかどうかはともかく、あんな怪我をして、ちゃんと痛いって言えばいいのに。それに、それ以上に。あの時に聞こえたラビの言葉がずっと引っかかっていた。
     大切な人、彼が喪ってしまった、誰か。
     きっと彼も無意識に口にしたのだろう。結局それが誰かを知る機会は、今の所、ない。
     
     ほの暗い部屋の真ん中に、オオカミが佇んでいる。
     灰色の毛並みのそれに、心臓が跳ねた心地がしたがよくよく見るとそれは生きていなかった。見覚えのある、剥製だった。それ以外、ここにはなにもなかった。作り物の金色の瞳は何もうつさない。
     ただ虚空を見つめてそこにあるだけのものに、朝陽は対峙していた。一度丁寧に皮を剥ぎ取られ、適切な処理を施されて再び形を与えられたそれの傍らにしゃがむ。温度のない皮膚と、乾いた毛並みに思わず触れて、その無機質さに目を細めた。
     ぱき、ぱきん。
     不意に何かがひび割れる音に、朝陽が目を見開く。
     指先のところから大きな亀裂が入って、それから裂けていく。驚いて手を引っ込めたがどんどんとそれは広がって、朝陽はひゅ、と息を飲んだ。
     壊れてしまう。そう頭によぎって、背筋が凍った。
    「だ、だめです……」
     どうすればいいのか分からずに、手でそこを塞いでみる。それでもいよいよ裂け目は大きくなって、ついに。
    「っ」
     裂ける音と共に、そこからこぼれ落ちてきたのは氷塊だった。大小様々な、青く輝く氷塊。涼やかな音をさせながら、オオカミの腹からこぼれては溢れ、朝陽の足下に流れ落ちていく。
    「あ、だめ、です……だめ……」
     思考がすっかり止まってしまって、氷塊を両手で掬っては剥製の疵に押しつけ、戻そうとする。
     これが夢であるということはとっくに分かっていた。
     それでも夢の中の自分は、目の前の剥製を元に戻す事しか考えられない。冷たい氷塊を両手で掬っては、裂け目に押しつける。無駄だと分かっていても、そうするべきだと身体が動いていた。
     焦る朝陽とは裏腹に、綺麗な音をさせてあふれる氷塊は止まらない。既に剥製の中身よりも遙かに多い量のそれが流れ出していて、朝陽の腰あたりまでうずたかくなっている。
     氷塊と氷塊がぶつかり合う音に溺れながら、すっかり冷たくなった両手で、ついに濡れた顔を覆った。
    「ごめんなさい……」
     誰に見られたというわけではない。それでもそこに在ったものを壊したという罪悪感で、頭がいっぱいになる。この綺麗な氷塊たちは、美しいオオカミの中で眠っていなければならないものだという確信があった。だからこそ戻らなくなってしまった裂け目と氷塊を前に、朝陽はぼろぼろと涙を流した。指と指の隙間からこぼれ落ちる涙が、青く光る氷塊にぱたりと落ちて、混じっていく。
    「ら、びさん……」
     自然と口にした恋人の名が氷塊に吸い込まれていく。
     思い出した。
     この目の前にある剥製は、ラビがうっとりと眺めていたものだ。そう悟った途端に、胸の苦しさが増した。あの人が恋をしているように眺めていた、美しい剥製を壊してしまった。
     ――死んでもどんな姿だったか、忘れないようにしたかったんだろうなって。
     寝床で聞いたラビの言葉を思い出して、朝陽はああ、と呻いた。
     愛おしげに剥製を見つめるラビが、この物言わぬいのちの抜け殻に何を見ていたのか、気づいてしまった。
     ――その気持ちは、分かるよ。
     ごめんなさい、ごめんなさいと譫言を続け、泣きじゃくる朝陽を生き埋めにせんばかりに氷塊は溢れ続ける。このまま埋もれてしまおう。そんな考えがよぎって、朝陽は目を瞑る。ぼろりと大粒の涙が落ちた。押し寄せる氷塊達が、朝陽の肩に降りかかる。
     朝陽。
     低く、穏やかな声が聞こえた。らびさん、とその声に応えれば、最早感覚を無くしてしまった指先に、あたたかなものが触れた。
     
     あの白く、柔らかな皮膚の中には何が詰まっているのだろう。
     血肉、内臓、骨、心、過去、現在、未来。
     きっとそういったものが、詰まっている。
     朝陽では計り知ることの出来ないそれらで、ラビと言う人間は形作られている。
     
     少しでも触れたいと思うようになったのは、いつからだろう。
     SNSで出会ってから?日本に渡ると決めてから?アイチュウとして活動を初めてから?
     車から自分を庇ったラビが泣きそうな顔で、もう喪いたくないと言うのを聞いたときから?
     少しずつ、少しでも触れたいと思うようになっていた。
     思うのは簡単で、厄介なのはそれは積もり積もるのだ。少しずつが積もればそれは抱えきれないほどに朝陽の中で渦巻いている。でもでもだってを繰り返しても、彼の声と目と唇と、輪郭、熱、質量、諸々全てがそうさせてくるだなんて。責任転嫁もいいところだ。
    (オレはきっと、嫉妬しているんです)
     ラビさんの過去にいる誰かに。
     彼の存在に、すっかり疵をつけてしまった、誰かに。
     自分ではその人に叶わないのだ。
     まったく、誰も叶わないのだ。
     
    「朝陽!」
    「っ……」
     新鮮な空気が喉になだれ込んできて、けほ、と咳き込んだ。強ばった身体を身じろぎさせて、朝陽は顔を上げる。ぼろ、と涙が溢れてぼやけていた視界が明瞭になる。目の間には本棚がずらりと並んでいる。自分が顔を伏せていたテーブルにはあの雑誌と、それを見つけた日に借りた本が置かれていた。それは結局、数ページも読んでいない。
     手に触れるものに気がついて、視線をあげる。そこには眉を下げて心配そうに自分の顔を覗き込んでいる恋人がいた。すっかり冷え切った指先を、ラビのひんやりとした手のひらが掴んでいる。
    「らび、さ……」
     小さく開かれた唇から出てきた声に、ラビがほっとした顔で隣に座る。空いた手の甲でぐし、と目元を擦る朝陽に大丈夫? とミネラルウォーターを差し出した。すみません、とは言ったものの上手く発音が出来なくて、朝陽が眉を寄せる。それの蓋を捻り、一口飲んでようやく喉が潤ったのを感じ、息を吐き出した。いつの間に寝ていたのか、と瞬きをする。
    「ひどく魘されていたよ」
    「……夢を見ちゃって」
     朝陽の言葉に、夢? とラビが首を傾げる。どんな、と聞けば朝陽は視線を彷徨わせて、俯いた。
    「なんでしたっけ……あんまり覚えていないけど」
     怖かったです。怖くて、寂しくて、悲しかった。ペットボトルを掴む指に力が入る。たぷん、と水が揺れた。
    「そう」
     ラビが低い声で頷く。それからこんなところで寝ていたら、風邪をひいてしまうよと指先で目元を撫でられる。ああ、またオレばかり心配をかけていると朝陽が唇を噛む。
    「手、つめたい」
     でもオレの手じゃ、あたためられないなぁ。そうもどかしそうに笑って、ラビはぎゅっと手を包んでくる。相変わらずラビの手は少し冷たかった。ごめんね、と寂しそうにこの恋人は言う。
    「どうして謝るんですか……」
    「……」
    「オレがこんなところで、勝手に居眠りしちゃって変な夢を見ただけなのに……」
     軽い八つ当たりのような声色だと自覚して、はっと朝陽が目を見開く。ごめんなさい、と謝ればラビは困った顔をして、それから微笑んだ。
    「だって朝陽……オレを呼んでいたから」
    「う……でも、謝ることなんてないんです……」
     そうしないといけないのは、自分の方だ。いつも頼ってばかりで、心配させて、なだめてもらって。何につけても臆病なくせに、それなりに自分は欲張りで。この優しい人は傷ついてばかりなんじゃないか。
    「オレ、だめなんです……いろんなものを、傷つけるしか出来ないんです……」
     そうやってしか、生きていけないんです。きっと。
    「朝陽」
    「今だってラビさんはオレのこと、心配してくれたのに……」
     朝陽がぐすりと鼻を鳴らす。どうすればいいのか、もう分からない。どうすれば、この優しい人と何の憂いもいらずに、甘やかに過ごす事が出来るのだろう。
    「そんなオレが、いやです」
     その言葉の後は、静寂だった。自分の息と、鼻を鳴らす音だけが、耳障りだ。
     ラビは相変わらず朝陽の両手を包んでいて、きっとこちらを見つめているのだろうけれど、顔をあげて目を合わす気には、なれなかった。ラビがひとつ、息を吐く。
    「……オレはそんな朝陽が好きだよ」
     オレにそういう気持ちをぶつけてくれる朝陽が好き。ラビの声は朝陽が思っていたものではなく、喜びを滲ませたような柔らかな音だった。
    「なんで優しいことを言うんですか……」
    「優しいかな、どうだろう」
     ラビが首を傾げて、朝陽の手からペットボトルを受け取る。それから手を引っ張って、おいで、と誘う。のろのろと朝陽がラビの手を握りしめれば身体を引き寄せられて、そのまま肩に顔を埋める格好になった。
    「ラビさん……」
     こんなところで、と言いかける。しかしもう遅い、と悟って小さく息を吐いた。暫く何も言えずに黙っていると、ラビがああ、と声をあげた。
    「よく見つけたね」
    「あっ」
    「あ、いや、怒ってないよ」
     どうせあると思っていたし、とラビが笑う。酷い格好だろと呆れたように溜め息を吐くラビに、朝陽が大きく首を振る。
    「かっこいいです……見つけてからずっと、目が離せなくて」
    「……今のオレより?」
     寂しげな声とともに、ラビの手が朝陽の背中を撫でる。ちがいます、そうじゃなくて、とまた首を振った。
    「目の前のラビさんが一番に決まってます。でも、昔のラビさんもラビさんだから……かっこいい、です」
    「うーん」
     複雑な心境なのか、ラビの反応は鈍い。ああ、また傷つけてしまったかもしれないとはっとして、それからラビの服を掴んだ。涙で濡れた目元が重たい。それでも瞬きをさせて、気を取り直す。
    「どんなラビさんも、好きです」
     少し身を乗り出し、ラビの耳に唇を寄せて囁く。ぴくりと肩が跳ねて、それから背中の手に力が籠もった。あはは、とラビが笑う。なんで笑うんですか、真剣に言った筈なのに笑われて、朝陽が拗ねた声をあげた。
     ねえ、キスしていい? こんなところだけど。
     ラビにねだられて、涙でくしゃくしゃになった顔をそっと上げる。それからゆっくり、目を瞑った。
     
     彼の故郷にある湖は、あまりに深く、あまりに透明で。
     厳しい冬で凍り付いたとしても、まるでガラスのようだという。そして春の近い頃にはそれが音を立ててせり上がり、なにかの彫刻のように、青く光るのだと聞いた。春の気配を注いでくる太陽の下では、氷の中で青が乱反射して、とても綺麗だという。
     ラビさんの色だ。
     写真を見たとき、そう思った。あの穏やかなコバルトブルーがきらきらと輝く時に、似ている。足下は氷塊で埋め尽くされている。彼の故郷ではこんな景色が見られるのだろうかと、考える。朝陽はまた夢を見ていて、それは図書館で魘された続きだった。自分をすっかり生き埋めにしたはずの氷塊達を見下ろして、それから一歩踏み出してみる。足の裏で砕ける音がして、なんだ、とどこか安心したまま歩き出す。氷塊の青が乱反射して、がらんどうの部屋を照らしている。
     氷を踏み砕き歩き続け、ついに朝陽はあの腹が破けたオオカミの剥製と、対峙する。
     それは相変わらず時を止めていた。氷塊の上で、佇んでいた。
    「ラビさん」
     無意識に出たのは恋人の名前だった。それの傍らにしゃがみこんで破れた腹のふちを、撫でてみた。
     
     あの白く、柔らかな皮膚の中には何が詰まっているのだろう。
     血肉、内臓、骨、心、過去、現在、未来。
     きっとそういったものが、詰まっている。
     朝陽では計り知ることの出来ないそれらで、ラビと言う人間は形作られている。
     朝陽も、同じだった。
     
    「もっと触れたいんです。あなたのこと」
     だから傷つけてしまうんです。知らないうちに、あなたのやわい所に触ってしまうんです。朝陽の言葉に応えるように、ぽろり、と一粒の氷塊が腹の中からこぼれ落ちた。
    「え……」
     乾いた音とともにドラムスティックが、落ちてきた。見覚えがある、彼のものだ。拾い上げてみる。それから喉をごくりと鳴らして、目の前の剥製を見据える。おずおずと左手を伸ばし、そしてついに、その破れた皮膚からのぞく暗がりに、手を突っ込んだ。
     自分の夢だ。自分が知り得る事しか出てこないし、それが本当で在るのかは分からない。憶測もきっと含まれている。それでも、このオオカミの腹の中をまさぐれば、何かが出てくる気がした。
     ヘッドホン。ひびの入った目覚まし時計。愛用しているデオドラント。
     いつだかに困ったような、嬉しいような顔で持って帰ってきたピンクのオオカミ。
     パレードで使った、雪の結晶をかたどったタンバリン。
     お気に入りの帽子、バイクの鍵。
    「……煙草?」
     見慣れない紙の箱が出てきた。それを取り上げてまじまじと見つめれば、独特の匂いがする。
     吸っているところも、それらしい痕跡も見たことがないのに。
    「あ」
     いや、ある。ドラマで不良の役を演じていた時だ。やけにさまになっていて、印象的だった。多分、そこからだろう。本当に吸っていたとしたら大事だ。……もしかすると昔、吸っていたのかもしれないけれど。落ちてきたものを右腕に抱えながら、奥を探る。ふわふわとした何かが、手に当たった。
    「うわっ」
     いきなりそれが動き出して、飛び出してきた。白いウサギ。見たことがある。耳をひょこひょこと動かして、それからどこかへ駆けてしまった。流石に追いかけることも出来ずに、また剥製に向き直る。
     いつの間にか、目の前に花束が置いてあった。派手なものではない。ささやかな花束だ。よくよく見ると、氷の粒がついている。
    「……」
     その花束も拾い上げた。胸に抱き寄せれば、ひんやりと冷たい。見たことのない花束は、どこから来たのか。朝陽には思い当たらない。軽く途方にくれる。そろそろ出てきたもので、腕がいっぱいになりそうだったが、まだ何かあるような気がした。
     かつん。
     指先に、硬いプラスチックのようななにかが当たる。
     薄くて、いくつか重なっているようだった。中々落ちてこずに、引っかかっているようだった。それ以外は空洞で、指先は虚無をかくばかりだ。
    「っ……」
     意を決して、それを掴む。ぐ、と力を込めて引っ張ればずるりとそれが抜けた。
     それは、CDだった。空を駆ける飛行機雲、夕陽を眺める五人、どれも見覚えがある。
     覚えがないはずが、ない。
     彼の、自分達のCDなのだから。
    「ラビ、さん……」
     それを見た瞬間、胸が締め付けられた。身体の底から熱がじんわりと沸き上がる。それからやはり、朝陽は泣いた。
    「ふ、うえっ……」
     ぽろぽろと涙が溢れてくる。それなのに、嬉しくて。嬉しいのに、涙が止まらない。
    「えへへ、ラビさ、ん……っ……」
     泣きながら笑うだなんて、自分でも奇妙だと思う。それでもこれは夢だからいいんだと、開き直る。
     がらんどうになったオオカミの剥製の前で、笑いながら泣く。腕の中、凍った花束が落ちていく涙に溶かされて、色を取り戻していく。
     
     泣いた夢だというのに、目覚めはよかった。
     真っ白な天井を見上げて、ぱちりと濡れた目を瞬かせる。
     ぐし、と手の甲で拭ってそれから、身体を起こした。
     カーテンからこぼれる朝の光が朝陽の頬をあたためていく。
    わがまま
     仕事終わりの気怠さが身体にずしりとのし掛かってきて、ふらふらとベッドに歩み寄って、身を投げた。大柄の青年を受け止めたベッドがぎしりと鳴く。シャワーを浴びた手の身体はじんわりと熱っぽく、時間を確かめようとちらりと壁を見るが、見当たらない。何故だろうと疑問に思いながらラビは、とろとろと目を瞑った。
    「うー……」
     布団に潜り、ひとつ呻く。枕に顔をうずめれば、また違和感を抱いたが強い眠気が思考をぼやけさせる。
    (疲れてんなぁ……)
     だからいつもと感じ方が違うのかも。そう思うことにして、目を瞑る。部屋に戻る途中ですれ違った朝陽の顔がふとよぎった。大丈夫ですか、と心配そうな顔をされた。少し疲れているだけだよと取り繕ったものの、機微に聡い恋人だ。きっと余計に心配してしまうのでは。
    (明日ありがとうって言わなきゃ……)
     そう結論づけて、枕に鼻先を擦りつける。柔軟剤変えたのかな、とどうでもいいことが浮かんで、それから意識を引きずり下ろされて、あっけなく眠りに就いた。
     
     これは夢だ。それも、とびきりに悲しい夢。
     
     故郷の家、自室のベッドの中で手にはスマホを持っていた。既視感にああ、と呻く。画面に映っているのは、現実でも夢でも、嫌になるほど確かめたバッドニュースだ。あの優しいひとがいなくなって、一週間後。ロシア中を駆け巡った訃報。人気メタルバンドのドラマーが病の為に死去。
     埋葬式は身内のみで済ませていると書かれていた。添えられた写真はまごうことなく、彼の顔だった。おそらく元気だった頃のライブ写真だろう。顔色もよく、色気と、荒っぽさを振りまいていた。
     埋葬式には参列しなかった。モスクワは遠すぎる。
     父親もまだ病院から帰ってきていない。家族は行ってもいいと言ってきたし、彼を探しに来たメンバーの男もあなたならばと言ったが、ラビは首を横に振った。彼の家族や、彼と長くすごしたメンバーは看取ることすら出来なかったのだ。
     彼のわがままのせいで。
     ニュースの下にぶらさがったフォーラムの欄には、Покойся с миромが列を成している。彼のプレイは最高だったのにね、だとか。いつから病気だったんだろう、だとか。
     皆好き勝手にコメントをつけていた。憶測、ゴシップ、賞賛、中傷、ジョーク、思い出話。
     どれもこれも過去のことで、彼と自分がすごした数ヶ月間なんて、今キーボードに向かっている人間は、誰も知らないのだ。別にそれで、いいのだけれども。
     この頃の自分がどういう状態だったか、ラビはあまり覚えていない。あの吹雪の中で看取った彼はすぐにモスクワに帰っていった。彼を探しに来た男に家に置き去りにされた私物を託して、糸の切れた凧のような心地で三日間を過ごした。連絡先を教えていた男から今し方埋葬式が終わったと告げられても、まったく実感が湧かなかった。
     四日目からはどうだったか。ただベッドですっかりまいってしまって、浅い眠りを繰り返していた。
     目を瞑る。
     目を開く。
     ライブハウスにいた。
     ネットニュースを見た次の日にようやく外に出て、向かったのはライブハウスだ。
     実はこのニュース、ロシア中を巻き込んだあいつの冗談で、オレはそれに巻き込まれた無辜の子ども。あそこで待っていればひょっこりと顔を出して、やあ少年、だなんて笑いながらふらふらと入ってくるんじゃないだろうかと、冷え冷えとした室内で一日中待っていた。顔を出した瞬間にあの整った面に拳を叩き込んでやろう。そんなことを考えながら、静かに佇むドラムを前に虚ろな目で煙草を吸っていた。換気の良くない部屋に紫煙が煙り、その死骸達が灰皿からこぼれ落ちそうになった頃にようやく、ラビは低く呻き、両手で顔を覆った。涙は、まだ涸れていなかった。
     十五歳の子どもにあれはジョークだよと言ってくれる大人はもういなかったし、ジョークなんでしょと駄々をこねる十五歳の子どもも、既にいなかったのだ。
     その日を境に、ラビは酒と煙草をやめた。更生と言えば聞こえはいい。事実、彼に出会ってからは積極的な暴力沙汰を起こさなくなった。酒と煙草を悪びれもなく〝嗜む〟ラビを、寂しそうな顔で小言を言ったものの、彼にも思うところがあったのだろうか強くは言ってこなかった。
     そればかりか、ラビの手の中にあるそれをせびってくることも随分あった。
     いつか居候分の家賃も含めて返せよと悪態をつきながら一本、差し出した事もある。
    (懐かしいなあ……なんて。言うほどあいつといなかったのに、どうしたんだか)
     思わず自嘲して目を伏せる。
     それから視線を動かすといつの間にか、男が隣に座っていた。
     これも、覚えている。
     
     少年は優しいなあ。
     アンニュイな顔をへらりと緩ませて煙草を咥える彼に、はぁ? と眉を寄せる。とん、と指で自分の頭をつつく仕草でおかしいんじゃねえのと言ってやれば、豪快に笑われた。その身に病を宿しているなんて、思えなかった。
     何度でも言うぞ、少年は優しい。見ず知らずの野郎に宿を貸しちまうぐらいなんだから。そうのたまう男に、あんたが詐欺まがいな事をしたから、その少年が不幸になってんだよと呆れながら返す。するとふと真顔になって、かもなぁと、へらへら笑い直した。その時は流石に蹴り倒して、今度こそ冬の街中に叩きだしてやろうかと思ったがとにかく、男は紫煙をくゆらせながら何度も何度も、お前は優しいよと言って聞かせた。
    (オレ、あんたが言ってたみたいに、優しくなれてるかなぁ)
     締まりのない顔を向け続ける男を、ラビは見つめる。
    (たまに不安になるんだ。朝なんて未だに弱くて、皆を怖がらせるし。ちょっとした言い合いでもすぐカッとなって強く言っちまうし)
     さっきも朝陽を怖がらせたかもしれない。ふと杞憂じみた思いがわき上がる。
     紫煙の向こうで笑う男は、何も言わない。
    「これでも随分板についてきたんだ。あんたみたいにいつもにこにこ笑って、怒らずにいて、そこにあんたが持ち合わせていなかった誠実さをぶち込んでよく混ぜて、更生した元不良の自分が。……でも、さ」
     不安なんだ。そう言ってラビが唇を噛む。
     目の前の男は、微笑んでいる。手元の煙草には火がついてはいるが、短くなることはない。
    「なんか言ってくれよ」
     何も答えないまぼろしに小さく溜め息を吐いて、ラビが視線を逸らす。視線の先、ステージの奥にはあのドラムセットが佇んでいた。
    「なんでこんなに不安なのか分かってる。嫌われたくないし、幻滅されたくない。元不良だって白状したけど、皆知ってたよって言うんだ……皆、あんたやオレと違って、誠実で優しいから」
     一息に言い切って、ラビが目と唇を閉ざす。そしてゆっくりと目を開いて、隣を見る。そこにいた男は消えていた。影も形も、気配すらない。
     元からいなかったかのように。
    (モスクワで大人しく寝てりゃいいのに、顔だけ見せに来やがって)
     本当に誠実さの欠片もないな、と笑う。そろそろこの夢が覚めればと願った。それからそう思ってしまった自分に、ああ、と呻いた。
     きっと彼は今もモスクワで自分が最後に見た死に顔のまま、安らかに眠っているのだろう。
     忘れないようにと言わんばかりに、何度も見ていたあの頃の夢。昔よりは少なくなったが、時折こうして彼は顔を見せにやってくる。何も言わないくせに、触れてこないくせに、目の前にやってきて微笑んでくる。そんな夢を見た後の朝はいつにも増して起きられなかった。重たい瞼と身体が、朝を拒否するように。
    (なあ、クレメンティ)
     ゆっくりと彼の存在が、様々なものに埋没していつか見えなくなってしまうのではと思う時がある。
     夏祭りの後、自分の気持ちが一段落ついてしまったのも否定出来ない。忘れることは一生ないだろう。きっとまた、夏に氷を鳴らすのだ。彼を呼ぶように、ここに来てくれと、日本のむせ返るような暑さで、氷を鳴らす。
     ただ、この数年引きずっていたもののうちの一つが、自分の中で溶けて、混ざってしまったのだと思う。それでも勝手気ままな彼があの夜みたいに姿を現してくれるなんて、もうないかもと思えたし、こうやって自分の記憶の中で彼に話しかけても、いつかそれすらも出来なくなってしまう気がする。
     どこか、諦めにも似た確信があった。
     気がつかないうちに、人は手放していく。
     あっけないぐらいに。
     もう引きずらなくていいんじゃないか、少年。なんて、言い聞かせるように。
    (やだな、そういうの)
     いつかの日に見たあの剥製のように、ずっと彼の姿をとどめておきたい。夢の中だけでもいい。ずっと思い出を引きずって、前に進んでいきたい。あの日から今までの全てを、手放したくない。
     いつかは皆と別れる日が来るかもしれないと思っているだなんて自分で言いながら、それを何よりも恐れているのは自分だ。でも、このままを望んでしまえば前に進めなくなってしまうとラビは確信していた。分かっていたからこそ言い聞かせて、毎日を過ごしている。
     別れが訪れない関係性なんて、ない。
    (女々しすぎる……)
     自己嫌悪がつのる。自分以外、誰もいないライブハウスの中で、頭を抱える。疲れてるんだ、だから余計な事を考えてしまうんだと言い聞かせて、目を瞑る。じわりと目の奥が暑くなって、背中を丸めた。
    「ラビさん」
     そっと肩に温かいなにかが触れる。遠慮がちに揺さぶられて、囁かれて、ラビはゆっくりと目を開いた。
     
     シャワーから上がったばかりのラビは、映画イベントの仕事で疲れているからかどうにも眠そうだった。キッチンで水を飲もうとしてすれ違った朝陽が見かねて大丈夫ですかと声をかけても、反応が鈍かったのだ。少し気がかりになりながらもきっとあのまま寝てしまうだろうし、明日また調子を聞いてみよう、そう結論づけてキッチンに向かえば、そこにはノアがいた。
     ああ朝陽、よかったらホットミルクでもどうかな。笑顔を向けられて、その言葉に甘えることにした。
    「ラビの様子が気になってるんだけど」
     温かな飲み物を口に話し込んでいると、ふとノアが切り出した。最近仕事が忙しそうだから、疲れているのだろうねと声を落とすノアに朝陽が頷く。さっき出会った時も疲れていたみたいでと答えれば、I❥Bのリーダーは眉を寄せた。彼はオレよりも秘密主義者だからね。あまりそういった所を見せたがらないから、心配だよ。ミルクを一口飲みながらノアがやれやれと肩を竦める。
    「そうですか……?」
    「オレはそう思うよ。……というよりも、自覚がないんじゃないかな、ラビの場合は」
     ノアの言葉にううん、と朝陽が首を傾げる。なんとなく分かるような、分からないような心地だ。
     考え込む朝陽を横目に、ノアも言葉を探す。しかし、小さく首を振った。
    「……一人で抱え込むことは、美徳でもなんでもないからね」
     彼がまいってしまう前に、なんとかしないとね、とミルクを飲み干してノアが席に立つ。朝陽のマグも空であるのを認めて、一緒に片付けるよと受け取った。軽く俯いて何やら考え込んでいた朝陽がぱっと顔を上げて洗い物をするノアを見やる。
    「お、オレ……ラビさんを甘やかします……!」
     決意に満ちた声に、きょとんとノアが瞬きをする。笑いを含んだ声で甘やかす? と目の前の少年の言葉を繰り返した。三つ編みを揺らしてこくりと頷けば、あははっとノアが今度こそ声を上げて笑った。ああまずい、夜だと我に返ったのか手で口を覆って、それから肩を揺らす。
    「ねえ、どうするつもり?」
    「え、えっと、どうしましょう……!」
     ノアの問いかけに、次は朝陽がはっと我に返る。疲れているならばいつものお兄さん的な立ち位置は休んで貰って、めいいっぱい甘やかしてみるとか。だって自分はラビに甘やかされて、どうしたの? なんて聞かれてしまえばついつい悩みを言ってしまう。しかし、具体的にどうやってと聞かれればさて、どうすればいいのか分からない。
     ラビのようにしても、自分はラビではないから上手くいきそうにない。
    「……朝陽って思い切りがいいよね」
    「あ、う、だ、だって……オレ、ラビさんに甘えてばかりで……力に、なりたくて……でもオレなんかじゃ無理かも……です。ラビさんやノアさんみたいに頼りがいがあるわけじゃないし」
     途方に暮れてしまっていつもの弱気が顔を出してしょぼくれる朝陽に、ノアが小さく溜め息を吐く。
     その思い切りのままでいけばきっと自信もそれなりにつくだろうにと考えたが、こういった所が彼の欠点であり、愛すべきところでもある。
    「オレは思うんだけど……ラビは朝陽にじゅうぶん甘えているよ」
    「そ、そんなこと……!」
     そうかな、とノアが首を傾げる。脳裏によぎるのは朝陽の横をキープしがちなラビの姿だ。過保護とも言えるその姿勢は言い換えてしまえば、朝陽に依存気味、ではないか。
    「でもまあ、やってみるといいよ。朝陽ならばラビも甘えやすいだろうしね」
    「そうでしょうか……ノアさんの方が頼りになるし、いい方法だって見つかるかも……」
    「うん、それはそうだけど、まあ……頼りになる人間と甘えたい人間って必ずしもイコールじゃないよ、朝陽」
     ノアの言葉に朝陽がおずおずと頷く。ちらりと壁にかかった時計を見て、もう遅いからと促せば朝陽は立ち上がる。歯を磨いてから寝るんだよ、ノアが小さく欠伸をこぼしながら手を振る。
     ありがとうございます、おやすみなさい。ぺこりと頭を下げてからキッチンを後にする朝陽の背中を見送って、さて、とノアは洗ったマグカップを布巾で拭いていった。
     
     朝陽が自室に戻ると、ベッドの上でラビが寝ていた。
     ぎょっとしながら歩み寄ってみれば枕に顔をうずめて、眠っている。小さく声を掛けてみたもののぐっすりで、ちょっとやそっとでは起きそうにない。
    「ら、ラビさん……あの、起きて、ください……」
     枕と布団の隙間から長い銀髪が見えている。そっと掛け布団を捲ってみたが、微動だにしない。キッチンでノアと会話した直後のこの状況に困惑しながら、朝陽はベッドのふちに膝を乗せてラビの肩を揺すった。
     低く呻きながらラビが寝返りをうつ。眉を寄せながら眠るその顔を見て、魘されていると直感した。熱でもあるのではと額に手を当てる。少し熱っぽい、気がした。どうしようかと考えながら、様子をうかがう。
    「……ぃ……」
    「?」
     ラビの唇が小さく動き、音を漏らす。微かな声を聞き取ろうとすれば、閉じられた瞼からじわりと涙が溢れて、朝陽がびくりと肩を跳ねさせる。突然のことに咄嗟に反応出来なかった。その間にもラビの瞼のふちから溢れる涙で、その頬が濡れる。
    「あっ、あ、ラビさん、泣かないで……」
     きっと悪い夢を見ているのだと朝陽がもう一度身体を揺さぶる。。ラビさん、起きてください。眠るラビを自分にしては強めの勢いで、揺すぶった。
    「ん……」
     声がして、そっと瞼が開く。髪と同じ色の睫と、そこからのぞくコバルトブルーの瞳は、濡れている。
    「起こしてごめんなさい……」
     一言謝ってラビの手を掴む朝陽には未だ気づいていないのか、ラビがぼんやりとした顔で虚空を見上げている。それからゆるゆると視線を動かしてやっと、朝陽の方を向いた。
    「……ちゃおやん?」
    「お、おはようございまっ……」
     いや待て、おはようなのか? と朝陽が的外れな疑問を浮かべた所で視界が暗くなる。わあ、と声をあげれば、ずび、と鼻を鳴らす音が聞こえた。
     ラビに抱きしめられていると分かったのは、背中にまわされた手が強い力を込めてきたのを感じたからだ。
    「……」
     フーッとラビの荒い息が聞こえる。強く抱きしめられて身動きがとれない。どうしよう、どうしようとかけるべき言葉を探していれば、ラビが掠れた声で朝陽、と呼んだ。
    「……あ、あの」
     ラビの身体は震えていた。彼がこんなにも怯えたような様子を見せるだなんて、どれだけ恐ろしい夢を見たのだろうかと不安になる。それでも恋人の名前を呼び続ければ、もぞりと身じろぎをした。
    「Не бросай меня」
     ラビが囁く。
     震える指で朝陽の背中を掻き抱いて、離れないように力を込めてくる。自分をまるで壊れ物かのように扱いがちなラビが、その力加減を忘れてしまったようだ。僅かな痛みを感じながら、朝陽は眉を寄せる。
    「Не бросай меня、 будь всегда со мной」
    「ラビさん」
     朝陽の手がラビの長い髪に触れる。指に絡んだそれの感触に目を細めて、小さく息を吐いた。
     
     オレはあなたの国の生まれではないから
     あなたが今、あなたの国の言葉で
     オレに何を伝えているのか分からないけれど

    「ラビさん」
     浅い呼吸を繰り返して、ラビが子どものように朝陽の肩に額を押しつける。いつもは自分を隠す、その広い背中を撫でて、オレはここにいますよ、と囁いた。こくり、と小さく頷かれる。
    「ゆめ、をみて」
    「はい」
     ラビがようやく口を開く。肩に感じる重みに甘い優越感を抱いたが、それをひた隠しにして朝陽が促す。
    「昔のことなんだけど……きっと一生引きずっていく……忘れたくないから……」
    「……」
    「でもそれって良いことなのかなって、ちゃんと自分の中でけじめをつけたはずなのに、ちょっとしたことで忘れたくないな、って思うんだけど……ずっときれいなままで、昔も、今も、あればいいのに」
     そう思ってしまって、前に進まなきゃなのに。
     ラビがぽつぽつとこぼしていく言葉は、殆ど要領を得ない。ただ彼が何のことを言っていて、何に悩んでいるのかは朧気に感じ取れた。
    「そんな自分が嫌……」
     最後の声に自嘲めいたものが混じるのを、朝陽ははっきりと聞いた。部屋は静かになって、ラビの浅い呼吸の音だけが聞こえる。
     
     暫く、そうしていた。悪い夢を見てぐずる弟をあやすように、ラビの背中をとんとん、と撫でていた。浅かった呼吸もゆっくりと落ち着いてきて、力加減を忘れていた腕も、緩まっていた。
    「ごめんね……取り乱した」
     掠れた声で謝られる。それがなんだか嬉しくて、朝陽がくすくすと笑った。不審に思ったのかラビが顔を上げて、朝陽の顔をじっと見つめる。その鼻先は少し赤くて、不安げな青い目は、濡れている。
    「オレ、嬉しい」
    「……どうして?」
     眉を下げるラビの頬に触って、そこに張り付いた銀の髪をそっと剥がす。ひんやりとした頬も、ほのかに赤く染まっていた。
    「だってラビさんが目の前で泣いても大丈夫だって思えるような人間だって、自惚れてもいい気がして」
    「……」
    「ちゃんとラビさんがつらいって言えるような存在になりたいんです、オレ」
     痛いのも苦しいのも、全部ひっくるめて、あなたに触れたい。
     少なくとも今の彼には、そう在りたい。
    (きっと、勝てない。あなたの過去にいる人には、誰にも勝てない)
    「ラビさんがオレにしてくれるみたいに、オレもラビさんに……そうしたい」
    (でも、負けるつもりなんてない)
     過去は過去のまま、彼が剥製としてずっと大事に持っていればいい。それが自分には一生触ることの出来ないブラックボックスなら、それでもいい。
    「オレの大切な人だから」
    (これはエゴです。もしかしたら醜いものなのかも)
    「……だから、いいんです」
    (大切な人に大きな疵を抱えさせて、そこから生まれる苦しさにかまけて抱きしめるのに幸せを感じてしまうと、言っていることと同じなのかもしれない)
     それならば、それで、自分のエゴには責任を持つべきなのでは。
    「……本当?」
     嬉しい、とラビがようやく笑う。とろりと安心したような表情にほっとしながら、朝陽がはい、と答える。するともごもごと何かを呟いて、ラビが朝陽の身体を抱き寄せる。うわぁと声を上げれば腕の力を少し込められて、それから布団が被さってきた。
    「ら、ラビさん」
    「Не бросай меня、 будь всегда со мной」
     優しくて強い、オレの愛おしい人。甘えるようにキスの雨が降ってきて、朝陽が藻掻く。
     やっと、さっきノアが言っていた言葉の意味が理解出来た。確かにこの甘えられ方はノアには出来ない。というよりも、自分以外にしてほしくない。
    (ああ、どんどん欲深くなっていきます……)
     自分の欲をまたひとつ、自覚する。ラビさん、こっち、と顔を上げれば唇に柔らかな感触が触れた。がつがつと遠慮の無い貪り方はいつものキスとは違っていて、それが少し苦しくて、気持ちよかった。
     
    「……ねえ、どうしてオレの部屋に?」
     気持ちが落ち着いたラビがふと朝陽の顔を覗き込んで、問いかける。ぱちりと瞬きをして、朝陽が言いにくそうに俯いた。その様子にラビが不安そうに眉を寄せる。
    「ここ……オレの部屋です」
    「っ!?」
     勢いよく身体を起こして、部屋を見渡す。眠りに就く前に確かめた時計が壁にかかっていなかった訳を悟って、顔を真っ赤にして頭を抱えた。部屋を間違えた挙げ句にべそをかきながら泣きついて、甘やかされたのは流石に恥ずかしすぎる。朝陽の部屋でよかった。これがノアの部屋だったならと思うと、ゾッとした。
    「ご、ごめん……本当にごめん……」
    (疲れていたんですね、ラビさん……)
     別の意味で再び泣きそうになりながら、枕を抱きかかえて顔を隠すラビの髪を、朝陽がそっと撫でる。大丈夫ですよ、と声をかければ、小さくこくりと頷いて。枕はあまりの力に真ん中だけ細くなっていて、慌てた朝陽が枕を受け取った・
    「……今日は一緒に寝ましょう」
     なかなか元の形に戻らない枕を置いて、ぽんぽんと叩く。いいのかい、と申し訳なさそうに聞いてくるラビに、オレがそうしたいんですと朝陽が笑う。
     ね、いいでしょう。ラビの手を掴んで、軽く引っ張る。つられて、ラビがシーツに沈んだ。
    「明日は特に寝起きが悪いかも……」
    「オレが起こして、何分でも待ちます」
    「朝陽の目覚まし時計、壊しちゃうかもしれないし」
    「……」
     朝陽が、枕元のパンダ型目覚まし時計を持ち上げて、ベッドの下に隠す。これでいいですよ、と涼しげな顔でラビを見つめた。
    「もう遅いですから、ね」
    「……わかった」
     部屋の灯りを消して、朝陽が布団を被りなおす。ごそごそとラビが身じろぎをして、朝陽はその身体にそっと寄り添った。がっしりとしたラビの身体が、せめて邪魔にならないようにと端の方へ寄ろうとするのを、抱きついて阻止する。困ったように朝陽、と呼ばれて、くすくすと笑った。
    「おやすみなさい」
    「……おやすみ」
     小さく言い合う。ゆっくりと目を瞑って、いつもよりあたたかい感覚に、笑みを浮かべた。
    初夏の或る日
     シェアハウスに備え付けられたスタジオの扉を開ければ、先に入っていた朝陽がいそいそと準備をしていた。
    「お待たせ」
    「はっ、はい」
     声をかければ朝陽が弾かれたように振り向いてくる。今日はオフだったが、朝陽とセッションの約束をしていた。他の三人はそれぞれ仕事や予定があるらしく、既に出て行っている。
     ドラムスツールに腰掛ける。愛用のスティックを手に取ってからゆっくりと息を吸う。それからよし、と頷いてキーボードの前に座る朝陽を見た。
    「それじゃ、やろうか」
     
     鍵盤の上で指が踊り、ドラムスティックは跳ね回る。互いが生み出す旋律と律動を感じながら、心のままに、音を重ね合わせていく。繊細に大胆に、時には穏やかに。肌が震えるほどの激しさと、微睡むような穏やかさ、はっとするような鋭さを織り交ぜて。
     スタッカートで音を跳ねさせながら、朝陽はラビをちらりと見やる。一時間ほど前の、冬の冬眠から起こされた獣のような不穏さをすっかりどこかにやって、シルバーアッシュの長い髪を揺らしながらドラムを叩くラビの姿に、息を飲んだ。ハイハットを鳴らし、スネアドラムを打つ姿は、その音の力強さに反して、どこか穏やかさえである。
    (……好きだな)
     そう感じた瞬間に、指に力が籠もる。僅かに変わった音の調子にラビがぱちりと瞬きをするのを認めて、慌てて鍵盤に向き直った。そうしてそのまま、キーボードとドラムがつくる音色に、意識を任せていく。
     
     ぴん、と張り詰めていた糸が緩むような心地で、鍵盤から指を離す。震えていた空気はすっかりと静まりかえって、二人の間に落ち着いていた。目の前のラビも肩を軽く上下させて、目を瞑っていた。輪郭をなぞるように汗が流れている。深い息を吐いて、ゆっくりと目を開く。どこか満足げなコバルトブルーが現れた。
    「……二人でって、久しぶりだなぁ」
    「はい……」
     勿論五人全員で演奏することが二人にとっても一番の幸福であり、日本に住む最たる理由ではあるのだが、キーボードとドラムだけで互いが向き合って音を重ね合わせるのもまた違った楽しさがあった。だからこそ、こうして月に一度か二度ほど、オフの日にたった二人でスタジオに籠もるのだ。
     ようやくいろいろな用事が落ち着いて、久しぶりにこうしている。
    「お、オレも……嬉しい、です」
     はにかみながらそう口にする朝陽の顔をまじまじと見つめる。先程までは鍵盤の上で跳ねては踊るように旋律を奏でていた指は、軽く縮こまっている。演奏している時と、していない時の朝陽の佇まいは正反対だ。ラビにとっては、どれだけセッションを重ねたとしても不思議なもののひとつだった。
     
     神の手。
     黎朝陽の手を指して、初めてそう言った人間は彼の演奏を聴いて、虜になってしまったに違いない。
     実際ラビもそうだった。朝陽を教えていたという男もきっと、最初はそうだったのだろう。
     黎朝陽の指にたぐいまれなものを感じて、そうして入れ込んでいったのかもしれない。
     ラビの想像に過ぎず、覆水は盆に返らないが、兎に角大人達は、彼の手を神の手と呼んだ。
     
     日本に行くと皆で決めた数日後、お話しをしたいと珍しく朝陽から切り出してきた。五人揃っての通話の中、震える声で朝陽が話し始めたのは、自分の身の上の話だった。中国でピアノコンクールに出ていた話。精神的な理由で指が動かなくなったこと。それが原因で、大きな大会に出られなくなったこと。当時、そのことで身辺が騒がしかったこと。
     当時を知る人間が、日本にいるかもしれないこと。
     そのせいで迷惑がかかるかもしれない。
     朝陽が泣きそうな声で語る過去に、モニターの前でラビは言葉を探し、それから口を閉ざした。スピーカーからは誰も声を発さず、朝陽の怯えたような息づかいだけが、ヘッドセットから微かに聞こえた。
    「知っていたよ」
     穏やかな声で沈黙を破ったのは、ノアだった。ノアが何故朝陽の過去を知っていたのか、彼はそこでは語らなかった。ただあの抜け目ないノアの事だ。ある程度はメンバーの事情を把握しておきたかったのだろう。メディアに自分達の存在を露出すると分かっている以上、想定外は少ないに越したことはない。もしくは、どこかでピアノを弾いていた彼を見たことがあったのか、どうか。
    「でもやりたいんだよね、バンド」
     オレ達と。ノアがもう一度、朝陽に問いかければ、数秒ほど沈黙が流れた。いつもは賑やかなレオンもこの時ばかりは一言も喋らなかった。言葉が見つからなかったのかもしれない。リュカも、ラビも、ヘッドセットの向こうにいる二人の会話、その静かな圧に呑まれて、沈黙を守るしかない。
    「……オレは、皆さんと行きたい」
     絞り出すような声だった。たった一言、それだけを答えて、朝陽は再び黙ってしまった。
     深い息を吐き出したのは、リュカだろうか。
    「それなら話は簡単だよ」
     何も難しいことはない。ノアの笑いを含めた声が聞こえた瞬間、張り詰めていた空気が緩んだ気がした。
     自分の過去を、日本で落ち合う前のノアが知っていたのかという問いにノアはNOと答えるだろう。朝陽はともかく、自分はロシアの一都市、イルクーツク出身の一般市民だ。きっとレオンもそうだろう。リュカは隠すつもりだっただろうし、ノアも彼に関して何も言わなかった。もしかすると二人の間で、何かやりとりはあったのかもしれない。
     あまり詮索すべきことではない、とは分かりつつも、あの時の朝陽の話がどうしても気がかりで、つい出来心で彼の名前を検索欄に打ち込んだのは、数時間後だった。
     
    「りー、ちゃおやん」
     すぐにそれは見つかった。XX年、ジュニアコンクール、黎朝陽。
     キャプションには十年以上前の日付が書かれていて、動画の画質も今よりずっと荒い。桃花色の髪の毛を三つ編みに結った小さな子どもが、ぺこりとお辞儀をしてから中央のピアノに向かう。黒いトムソン椅子にちょこんと座って、それからじっと鍵盤を眺めて。
     本当に、楽しそうにピアノを弾くのだ。くりっとした琥珀色の瞳をきらきらと輝かせて、自分よりも大きなグランドピアノに物怖じなんてせずに。観客席では大勢の大人達が子どもの演奏を品定めしようと冷たく、注意深げに彼を見つめているのだろう。しかし少年はそんなことなんてお構いなしに、課題曲を演奏している。
     ただピアノを弾くという行為が楽しくてしょうがない。そんな表情で、鍵盤の上で指を踊らせて。
     動画から目を離せない。演奏が終わると同時に差し込まれた広告動画が再生されて、ようやくラビは我に返る。何か遠い世界のものを、覗き見た気がした。SNSで肉包子としてアップしていた動画とは全く別のものだ。どちらが優れ、劣っているといった単純な話ではない。
     自分でも上手く消化が出来ずに、もどかしい思いを抱きながらラビはブラウザバックする。
     検索結果を列挙したページには、今のような動画がいくつか、その下には彼が大会を棄権したというタイトルの記事とそれに関しての様々なゴシップ記事が連なっていた。あの動画を見た後で、どれもクリックする気にはなれなかった。見ても気持ちのいいものではないと分かっていたし、そんなものにわざわざアクセスするほど、物好きになれない。
    (……やっぱりオレはろうぱおず、の方が好きだなぁ)
     いつものSNSにログインして、肉包子のページに飛んでみる。最終ログインは数時間前、通話が終わった頃の時間帯だ。メッセ欄を確認してみたが時差がかなり大きい三人も、ログインはしていないようだった。
     アップロードされた動画の一覧を眺める。電子ピアノと手元だけがサムネイルされて、並んでいる。タイトルには曲名が綴られていて、練習曲の他には日本のアニメの曲なんてものもあって、それだけやけに再生数が多かった。
     適当に動画の一つをタップする。練習曲、ブルグミュラーの「別れ」を弾いてみました。そんな説明文が添えられた動画から、もの悲しげな音色が聞こえてきたのを、覚えている。
     幼い黎朝陽の生み出す音色に魅了された人間は大勢いるのだろう。
     そしてその音色に、人々はいろいろな価値を見いだした。
     音色を純粋に賞賛した人間が殆どだろうが、あの幼さで、だとか彼の家庭事情だとか、そういったものを継ぎ足した物語を消費した人間もいるはずだ。それこそ彼が心を病んで、指が動かなくなるまで。それどころか、その後もきっと、骨の髄までの如く。彼はすっかり、食い尽くされたのだろう。
     それなのに彼は怒らなかった。自分と違って。何も奪われていないのに、子どものような駄々をこねていた自分と違って。朝陽はラビに大人ですと、羨ましそうに言う。果たして、本当にそうなのか。
     ラビは今でも考える時がある。
    「ラビさん?」
     朝陽の声にはっと我に返る。琥珀色の双眸を丸くして、朝陽は首を傾げていた。
    「ん、ごめんね、考え事してた」
    「何を考えてたんですか……?」
    「朝陽のこと。今日もかっこいいなぁって」
     微笑んでそう言い放つラビに、朝陽が顔を真っ赤にさせる。か、からかっちゃ駄目です……! と声を上げれば、鍵盤に乗せていた指に力が入ったのか音が鳴った。軽い不協和音に慌てて指を離す。
     むう、と唇を尖らせてむすくれる朝陽に笑いながら、ドラムスティックを回した。
    「だって本当だよ」
    「……」
     ラビが立ち上がり、ドラムスツールを持ち上げる。キーボードの傍までそれを持って行って、どかりと腰掛けた。立ち竦んでいる朝陽の顔を見上げて、目を細める。
    「ねえ、ここで見てもいい?」
    「え、あ。あの……」
     穏やかなコバルトブルーがすっと細くなる。お願い、とねだるラビにくらりと軽く目眩がした。
    「恥ずかしいです……」
     そう言いつつも、何を弾こうかと指は鍵盤を押さえて、音を鳴らしている。それから、あ、と声をあげてラビを見つめる。
    「オレ、ラビさんの歌が聴きたいです」
    「ん?」
    「一度お願いしたくて」
     先程の恥じらいはどこへやら、朝陽がいいことを思いついたとばかりに首を傾げる。
    「ベリーベリー愛しい人、歌ってくれませんか?」
    「……あー、うん……どうしようかな」
     星夜さんとプロデューサーさんにだけなんて、ずるいです。微笑みながらキーボードをいじる朝陽に、だってあれは喧嘩しない為にプロデューサーが提案したことだよと言い訳する。
     すると眉を下げてこう言うのだ。
    「オレに歌うのいやですか……?」
    「……朝陽」
     そうやったら断れないのを分かって聞いているだろ、という言葉を飲み込む。
     わかったよ、と目を瞑り、すっと息を吐く。くすくすと笑い越えがして、イントロが奏でられる。
     
     二人きりのときにこれを歌うのは、予想以上に恥ずかしいものだと思い知る。
     終わった途端に顔に熱が集まって、ああ、と声を漏らしながら頬に触れた。この時ばかりは自分のひんやりとした指先が心地よい。曲を聴き終えた朝陽の顔を、見る事が出来ない。
    「……」
     弾き終わったきり、恋人は黙ったままだ。
    「……何か言って、朝陽」
     沈黙に耐えきれなくなったラビが促す。ちらりと視線を動かせば、キーボードの前で顔を真っ赤にさせて俯いている朝陽が、唇を震わせていた。
    「……す、すてきです」
     ようやくそれだけを口にして、あー、とか、これは、よくないです……とかをもごもご呟きながら、指を閉じたり開いたり、落ち着きがない。しばらくして、琥珀色の目がラビをとらえた。
    「ら、ラビさん」
    「なに?」
    「も、もういっかい、いいですか……」
    「っだめ、はずかしい」
     それなら朝陽も歌ってよ、とラビが口を尖らせる。無理です! と間髪入れずに帰ってくれば、ずるいとラビが抗議した。
    「ラビさんはいいんです」
    「なんで」
    「オレの恋人ですから」
    「それなら朝陽もだろ」
    「そうですけど、オレにはハードルが高すぎます……!」
     ぶんぶんと首を振り、断固拒否の構えを見せる朝陽にラビが小さく溜め息を吐く。
    「じゃあ歌えるのは? 恋の歌で」
    「…………」
     朝陽の目がすっと天井を見据える。それから目を瞑ってううん、と唸っているのに、ラビはじっと待っていた。
    「オレンジピール……」
    「え、マジかよ、聞きたい」
     思わず食い気味になってしまって、朝陽がびくりと肩を揺らす。オレは歌ったよ? と言いたげなラビの顔と鍵盤を見比べて、うう、と唸った。それから、弾き始める。
     アップテンポの曲調と、素朴さにアンニュイを混ぜたような声が妙にマッチしていた。
     朝陽にしては積極的な歌詞も本家とは違ったニュアンスを持っているのは気のせいだろうか。
     どうでしたか、と不安げに首を傾げてくる朝陽に、Хорошо、と拍手を送る。
     母国語で言ってしまうほどに嬉しかったのかとほっとして、それから口元に指を置いた。
    「なんだか他のユニットさんの曲を歌うのって、新鮮です……」
     そうして、それじゃあ、あの曲とか、こういうのを歌ってみたいだとかを出し合った。
     ドラムでリズムを刻みながら、ラビは悪くないぜEasy daysを歌ったり、朝陽は咲いては散る花のようにを歌ってみたり、興味の向くままに音を鳴らし、口ずさむ。あらかた楽しんだ後で、ラビがふと顔をあげる。ライブがしたいなぁ、とこぼした。
    「そうですね……」
    「次は夏かな。夏フェス。今年はどうするんだろう」
     参加するならそろそろプロデューサーから話がありそうだな。くるりと手元のドラムスティックを回す。今年はもう少し涼しくならないかなぁとぼやく彼は夏生まれだが、すこぶる暑さに弱い。
    「あの時みたいな暑さでも、オレが一緒にいますから」
    「……頼りにしていい?」
    「はいっ」
     今年はあれ、買いましょうね。と朝陽が言う。コバルトブルーの瞳を少し見開いて、それからラビがそうだね、あれがあるときっと大丈夫。そう答えながら立ち上がる。ん、と軽く伸びをして、力を抜いた。
    「そろそろ切り上げる?」
    「そうですね」
     朝陽がキーボードのスイッチを切る。壁にかかった時計を見れば、昼飯時を過ぎていた。不意に腹がくぅ、と鳴いて朝陽が俯く。それが聞こえたのか、ラビがははっと笑った。
    「せっかくだし、食べに行こうか」
     ドラムスティックを仕舞って、片付けを始めながらラビが聞いてくる。どこがいいでしょうと聞き返せば、いつもの店はどうかな、と言われてまた腹が哀れに鳴いた。
     
     カウンター席に通される。隣り合って、メニューを手に取る。端がよれているラミネートの、色褪せたそれを眺めていく。どうしよう、と朝陽が呟いて、それでもすぐに今日はこれで、と指を指した。
    「ご飯は?」
    「え、えっと……大きいの、がいいです……」
    「了解」
     カウンターの向こう、仏頂面で中華鍋をふるっている店主にラビが注文を伝える。プラスチックのグラスに氷水を注ぎながら、朝陽は壁に備え付けられたテレビを見上げていた。壁に油が染みついて、年季の入った店内には朝陽とラビ以外に二組ほど客がいる。店の奥ではランチタイムのピークを終えたおかみさんがレジのお金を数えて、帳簿を付けていた。厨房で油がけたたましく跳ねる音がし始めている。
    「沖縄、梅雨入りだそうですね……」
    「え、そうなんだ。早いね」
     こっちはいつだろうとラビがテレビ画面を見上げる。水を一口飲んで、気象予報士の解説に聞き入る。朝陽はいそいそと小皿に辣油を垂らしていた。暫くしておまちどおさん、と目の前に注文したものが置かれた。パリパリとした焼き目をつけながらいい匂いをさせている餃子と、揚げたてのごろごろとした唐揚げがそれぞれの皿に盛り付けられていて、その横ではつややかな白米が茶碗になだらかな山を作っている。
    「いただきます」
    「いただき、ます……です」
     割り箸を持って、手を合わせる。すっかり身に馴染んでしまった日本の習慣を済ませて、割り箸を割った。朝陽は連なっている餃子を一つ取って、辣油につける。
     それからふうふうと冷まして、一口齧り付いた。
     ぱり、と焼き目が砕けて、丁度いい柔らかさの皮が破れる。熱された汁がとろりと、舌に流れ込んできた。案の定熱くて、はふはふと熱っぽい息を吐きながら、咀嚼する。そのたびに汁と、肉と野菜で出来た餡がほろほろと崩れていく。そして白米を一口食べれば、もうそれだけで満足してしまいそうになる。
     ラビはラビで長い銀髪が垂れないように耳にかけて、後ろに流している。あのごろりとした唐揚げを箸で摘まんで、一口食べた。少し硬めに揚がった衣がざくっと砕けて、熱々の鶏肉が顔を出す。
     黙々と味わい、そのまま白米の山を崩していく。
    「ラビさん、餃子も……」
    「ん、唐揚げ食べていいよ」
     暫く無言で、餃子と唐揚げと白米をやっつける。時折唐揚げの皿に載ったキャベツの千切りを箸休めに頬張る。メニューの写真よりも心持ち多めに感じた昼食はすっかり胃袋の中に収まった。
    「……」
    「……」
     朝陽が二杯目の水を飲む。
     目の前の皿と茶碗は、気持ちいいぐらいに、白い。言葉は交わさないまま、朝陽はじっと皿を見て水を飲んでいる。ようやくラビが、暑い……と小さく呟く。からりと、グラスと氷が響き合う音がした。
    「…………ラビさん」
    「どうした?」
     許されるでしょうか。
     真剣な声で朝陽はラビを見上げてくる。許される? 何を? と言いたげにラビが片眉を上げた。妙に不安げな色を含んだ琥珀色の瞳を見つめ返す。桃花色で縁取られた額は、じわりと汗ばんでいた。
    「杏仁豆腐」
    「……すみません、杏仁豆腐二つください」
     
     ごちそうさまでした。と手を合わせて、皿をカウンターの上に上げる。
     ひんやりとした透明の器が、手のひらに心地よい。
     この店、実際に出される量の割には安い。見つけたのは朝陽で、のれんが掛かったすりガラスの扉の向こう側から香ってくるごま油やら、豆板醤の匂いに懐かしさを感じたものの、どうにも二の足を踏んでいた。後日、なんかがっつりとしたものが食べたいなぁとぼやいていたラビにそれなら行きたい所があって、と誘ってみれば予想以上に二人の舌と胃袋が満足したので、それから月に何度か立ち寄るようになっている。味付けは日本に合わせていたが、辛いのが苦手な朝陽にとってはそれがまた、ありがたかった。
     いつもありがとうねえ、と会計を終えたおかみさんが女の子が描かれたロリポップを二つ、渡してくる。はい、とひとつ朝陽に渡せば嬉しそうにはにかんだ。
     店を出て、空を見上げる。流石に満腹より少し上の感覚が襲ってきていた。まあたまには、と隣で満足そうにしている朝陽を見やって、歩き出す。
    「おいしかったです……」
    「満足した?」
    「えへへ……」
     照れくさそうに朝陽が笑う。それにつられてラビもふふ、と微笑んでそれから、朝陽の手をそっと掴んだ。
     あ、と声があがって、そのまま指を握り返してきた。ゆらゆらと二人の間で繋いだ手を遊ばせながら、道を歩いて行く。
    「ねえ、ラビさん」
    「ん?」
     お腹がいっぱいなので、少し遠回りしませんか。朝陽が軽く背伸びをしてそっと呟く。ちらりと自分より背の低い彼を見やって、ラビがいいよ、と頷いた。横断歩道の前で立ち止まる。シェアハウスへと向かう方面の信号は青だが、渡らない。
    「じゃあ、公園まで行ってみようか」
    「はい」
     ぽつぽつと青が点滅して、急かしている。それから渋々と赤になって、一台の車が横切ったと同時に、もう一方の信号が青に変わった。
    「このままでいい?」
    「え」
    「手を繋いだままで」
     ラビがそう言って、指に軽く力を込める。さっきまでは家までそのつもりだったのだ。はたと気がついて、朝陽があ、と声をあげた。
    「……」
    「ねえ、どうかな」
    「……このまま、で」
     顔を赤らめ、消え入りそうな声で朝陽が頷く。
     あはは、よかった。ラビが嬉しそうに笑って、横断歩道を渡り始める。
     初夏、新緑のみずみずしさを乗せた風が、二人の髪を揺らした。

                                    
    夏めくひと
     黒いシャツの襟元はほんの少しの大胆さをひけらかしていた。
    「……」
     どっ、ど、と鼓動が耳の中で反響している。膝の上にひろげた雑誌、その頁には仲間であり恋人のラビが載っていた。黒いシャツを着ていて、寄せられたレンズに視線を投げかけていた。冬を閉じ込めたような青い目が、彩度の低い紙面で艶やかに輝いている。
    「すげー、大人っぽい」
     通りがかったレオンが朝陽の後ろからそれを覗き見たのか、声を上げる。びくりと肩を震わせて勢いよく振り向いた朝陽にレオンはぱちりと瞬きをした。
    「あ、あの、はい……」
    「それボスが持ってきた仕事のやつでしょ」
     ベイビーブルーの瞳を嬉しそうに細めてレオンが首を傾げる。こくりと頷くのを見て、ちょっと見せてくれよとレオンが言えば朝陽はおずおずと雑誌を差し出した。ぱらぱらと頁を捲る。ふんふん、と頷くレオンを余所に朝陽は物憂げに窓を眺めていた。梅雨もすっかり明けて、太陽は夏の気配を庭へと注いでいる。それが、なんだか自分が置いていかれているような気分にさせていた。
    「えー、オレもこういうの着たらモテるかなあ」
     むむ、と唸りながらレオンがラビの写っていない残りの頁を一気に捲って、雑誌を閉じる。何も答えない朝陽にそっと視線を寄越すと、浮かれない横顔が窓に向けられていた。
    「ちゃーおやん」
     声を掛けられ、我に返った朝陽がばっと顔を上げる。僅かに笑みを浮かべたレオンと視線がかち合って、眉を下げた。
    「また心配事してる?」
    「う……」
     案外と言えば本人に失礼だろうが、レオンは勘がいい。朝陽が座っている隣に腰掛けて、はい、と雑誌を持ち主に返した。おずおずと受け取って、思わずぎゅっと抱きしめる。
    「レオンの言うとおり、ラビさん……とっても大人っぽくて」
    「うんうん」
     どの頁が一番好き? とレオンが首を傾げれば、さっきまで見ていた頁を開く。
    「全部です」
    「あははっ」
     本人に言ったら絶対喜ぶって。とレオンが笑い声を上げる。いつも控えめな言動なのに、この時ばかりはきっぱりと言い切る朝陽が面白かった。しかしまた朝陽の表情が曇るのを見て、レオンが口を閉ざす。
    「……置いていかれたくない、です」
    「どうして置いてかれるって思うワケ?」
    「ううん」
     レオンの問いかけに上手く言葉が出ない。目の前の親愛なる英国紳士は、急かすわけでもなく待っている。不意に、がちゃりと玄関が開く音がした。ただいまぁ、とどこか元気の無い声にえ、と朝陽が目を見開く。二人が声の方をじっと見ていると、予想していた通りの男がふらふらと入ってきた。右手でぱたぱたと煽いでいるが、顔も首元も汗だくだった。
    「Слишком жарко……」
    「お、おかえりなさい……」
    「大丈夫? すげえ汗じゃん」
     そういえば今日って今年一番の暑さだったっけ。そう思い出しながら帰ってきた雪国生まれを眺める。日本の夏に慣れたとはいえ、この時期になると一度は遭遇する光景だった。
     はふ、とラビが熱い息を吐く。とりあえず水を飲ませて、汗を拭かせたほうがいいだろうとレオンがキッチンに引っ込む。同じ事を考えたのか朝陽も洗面台に向かおうとした。しかしラビがその腕を掴んで、朝陽を離さない。
    「ラビさん?」
    「……」
     戸惑いながら朝陽がラビを見上げる。暑さで火照った頬と、少し虚ろになったコバルトブルーの目がじっと朝陽を見つめていた。
    「……行っちゃだめ、朝陽」
    「で、でも汗を拭かないと風邪になっちゃいます」
     朝陽の真っ当な返答にラビが眉を下げる。まだ夏が始まったばかりだというのに、夏が盛りになれば彼は駄目になってしまうんじゃないだろうかと心配になりつつ、朝陽がね、いい子ですからと弟に言い聞かせるように、顔を覗き込んだ。
    「あー、はい、水。タオルも取ってくるから朝陽は様子見てやってよ」
     レオンの気まずそうな声に二人の肩が跳ねる。は、とやっと我に返ったラビがぱちりと瞬きをして、上擦った声でありがとうと言った。
    (ラビが置いていくわけないし、とられるわけないんだよなぁ……)
     洗面台に向かいながら、レオンは独り言ちる。だってあんなにご執心なんだぜと苦笑いをして、洗面台の扉を静かに開けた。
                                    
                                     了
    くろてら Link Message Mute
    2022/09/13 0:22:59

    剥製

    2021.4.11に発行したラビ朝本+BoostのおまけSSの再録です。
    当時手に取ってくださった方、ありがとうございました!
    #二次創作 #アイチュウBL #ラビ朝

    more...
    Love ステキと思ったらハートを送ろう!ログイン不要です。ログインするとハートをカスタマイズできます。
    200 reply
    転載
    NG
    クレジット非表示
    NG
    商用利用
    NG
    改変
    NG
    ライセンス改変
    NG
    保存閲覧
    NG
    URLの共有
    OK
    模写・トレース
    NG
  • CONNECT この作品とコネクトしている作品